信玄 - みる会図書館


検索対象: 小説推理 2016年12月号
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1. 小説推理 2016年12月号

して当主の座につくや、信州計略を開始。苦「信州之諸士ーを救ったのだ。謙信が「義の 労しながらも、各地を武田の版図に組みいれ武将」であるといわれる所以である。 定価 てゆく。 しかし、美談がそのまままかり通るほど、 本体 620 円 + 税双 最後に残ったのが北信濃であった。当地を戦国という時代は甘くない。先に述べた釜晃 むらかみよしきょ かつらお 代表する勢力の村上義清は居城の葛尾城寺をめぐる第一一次合戦の和睦が、北信濃の国いる。謙信は市川城主を上杉方へ寝返らせよ さかき ( 坂城町 ) を信玄に奪われ、謙信のいる越後衆の領土保全を条件としていたにもかかわらうとしていた。それに対して信玄は、「山本 なかの たかなしまさより へ逃げこんだ。また、中野城の高梨政頼ら北ず、信玄は川中島の一部を奪い取り、その後菅助」という使者を市川城へ遣わし、援軍を すそばな 信濃の国人衆も同様に助けを求めた。 も侵攻を続けた。それまで裾花川が上杉と武送ったという連絡や、謙信の調略に応じなか ここからは上杉側の視点でみていこう。天田の勢力の境目となっていたが、その休戦ラったことへの感謝の意を述べさせている。こ 分っらやま 文一一一一年 ( 一五五三 ) 、謙信は彼らの求めにインを越えて信玄は、謙信が築いた葛山城こでは「勘」の字が「菅ーに変わっている 応じて信濃へ出陣した。八月から九月にかけ ( 長野市 ) を攻略 ( 地図 2 参照 ) 。「信州之諸が、非常に重要な役目を務めている。山本勘 しまづただなお ながぬま て布施 ( 長野市 ) ・八幡 ( 千曲市 ) で武田勢士」の一人である島津忠直も居城の長沼城助 ( 菅助 ) という人物が、実際に信玄の参謀 と戦ったのが、第一次合戦である。このの ( 長野市 ) を追われ、高梨政頼も中野城からを務めていた可能性は高い。 いいやま ち、謙信は各地の神社や寺院に勝利を祈願す北の飯山城へ逃れた。 謙信は八月になって武田軍と上野原 ( 長野 る願文を捧げているが、それらの願文では、 高梨政頼の求めに応じて謙信は弘治三年市 ) で衝突したが、そのあと越後へ退いてい 村上・高梨ら「信州之諸士」の名を挙げ、 ( 一五五七 ) 四月、信州へ出陣する。これがる。戦略的には北信濃へ勢力を伸展させた信 「かの面々」を救うことこそが「本意一義」第三次合戦である。善光寺を経て再築した旭玄の勝ちといえよう。 であるなどと綴っている。 山城に入った謙信は、ここを陣所に、武田方この第一一一次合戦を境に、謙信に意識の変化 いちかわ のざわ 第一次合戦の結果、謙信は彼らの期待に応となっていた市川城を攻めるため野沢温泉付がみられるようになる。これまで謙信は北信 え、信玄の北進を食い止めた。しかもその近まで兵を進めるが、成功しなかった ( 地図濃の国衆を被官化せず、領土拡大欲を示して 「信州之諸士」を上杉家の家臣団に加えるこ 1 参照 ) 。 こなかった。だが、信玄に居城を奪われた国 となく、本領を維持させている。つまり ) 謙ちなみに、このとき信玄の軍師といわれる衆たちは、謙信に従属するしか生きる術がな やまもとかんすけ 信は見返りを求めず、武田に苦しめられた山本勘助が、一級史料である手紙に登場してくなっていた。こうして謙信は彼らを家臣団 がんもん ジャンル別作品集 松本清張

2. 小説推理 2016年12月号

ながおかげとら ( 当時は長尾景虎Ⅱ以下・謙信で統一 ) が反弓八百張、鉄砲一一一百挺を送り、謙信を牽制し和睦後、謙信は善光寺の宝印や仏舎利塔、 発して起こった。謙信は同年四月、本拠地のた。やがて、犀川をはさんで睨み合う形とな荘厳具などを越後に持ち帰った。信玄が信州 えちご 越後から北信濃へ出陣した。堂主の栗田寛安った両軍の対陣は一一百日に及んだ。ただ、七において「寺社・寺領」を横領しているとし あさひやま やひこ あくぎよう は、現在の長野県庁の西側にそびえる旭山月一九日に一度戦い、その際は武田側が優勢て、越後の弥彦神社に「武田晴信之悪行 よこやま 城に籠り、謙信は善光寺に隣接する横山城にだったと伝わる。長い膠着状態に将兵の士気の数々を並び立てた謙信としては、善光寺が するがいまがわよしもと 入った ( 地図 1 参照 ) 。一方の信玄は犀川のも緩み、やがて駿河の今川義元が仲裁に入信玄の手に帰したのではないと誇示したかっ 南に陣を構え、旭山城の栗田寛安に兵一一一千、り、両軍は和睦した。 たのだろう。その後も、川中島で合戦を行 , っ 際に、謙信はまず善光寺に着陣している。 一方の信玄も、謙信がいない隙に善光寺の こうふ 本尊を甲府へ持ち帰っている。後に本尊は信 州の善光寺に返されたが、現在でも甲府には 甲斐善光寺がある。 両雄の対決には、善光寺の争奪戦という面 があったのだ。 「義の武将」のたくらみ 城 の 川中島でたびたび合戦が起きた原因はむろ 方 史 ん、それだけではない。 杉 国 城上城 の→の武田側からみると、まず信玄の領土拡大欲の ず 方方方 道 と 田田杉があった。本国甲斐の周囲には、東に伊豆・ 城武武城上さがみほうじよう の→→の→ 相模の北条、南に駿河の今川という大国が武 方方方方方 ( 信濃 ) 杉杉杉田田あり、他国へ進出するには中小勢力がひしめ 1 上上上武武 〇△ロ・△きあう信州しかない。信玄は父・信虎を追放 〇春日山 後 越 市川 〇飯山 ロ 野尻 葛山△ △長沼 旭山△卍〇横山 善光寺 ・海津 州 上 ( 上野 ) △ 信州 尾 地図 1

3. 小説推理 2016年12月号

衣との かいたけだしんげんえちご うえすぎけんしん 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信。誰もが善光寺の奪い合い 両軍が川中島で五度も戦ったのはいくつか 知る戦国の両雄が五度にわたって、現在の長はじめに「川中島ーがどこかを押さえてお理由が考えられる。 かわなかじま ぜんこうじだいら 野県北部にあたる川中島 ( 長野市 ) で覇を競こう。一般的には「善光寺平の中央部。 まずは宗教的権威である善光寺の奪い合い えいろく ちくま い合った。なかでも永禄四年 ( 一五六一 ) の千曲川と犀川によってつくられた中洲一帯 , という側面だ。『善光寺縁起』によると、本 いっこうさんぞんあみたによらい きんめい 第四次合戦は、両軍あわせて三万一一一千がぶつのことをさす。善光寺平とは長野盆地のこと尊の一光三尊阿弥陀如来は、欽明天皇一三年 くだら かり合い、六六一一一三人が討ち死にした。そのであり、山国の信州としては稀少な平坦地が ( 五五一 D 、仏教伝来の折に百済より日本へ伝 戦死率は一一割におよび、戦国時代において最広がっている。 えられた日本最古の仏像とされる。今日に至 大の激戦といわれている。 ただ、五度にわたる合戦の場所は、中洲付るまで、いわゆる " 善光寺詣で ~ が盛んであ なぜ両雄は、川中島を舞台に繰り返し戦っ近のみならず、善光寺平の周辺部にまで広がるのはご存じのとおりである。 しなの てんふん たのか。ここにもやはり「道」が関係してい っている。川中島とは、北信濃全域を称する天文一一四年 ( 一五五五 ) の第一一次合戦は、 はるのぶ る。また、信義に篤い「義の武将」といわれという説もある。いずれにせよ、善光寺平お信玄、 ( 当時は晴信Ⅱ以下・信玄で統一 ) が北 る謙信の意外な姿も浮かび上がってくるのでよび周辺における武田・上杉両軍の軍事衝突信濃の国衆で善光寺の堂主 ( 別当 ) でもある くりたかんあん ある。 を「川中島の合戦」と呼んでいるのだ。 栗田寛安を陣営に引き入れたことに、謙信 【最終回】川中島のロ戦編、 ! 跡部蛮 290 歴史研究家

4. 小説推理 2016年12月号

とりうち まっしろ まつもと 前述した飯山は、信州から千曲川 ( 信濃松本市へ移転したと考えられる ) を経て越後南岸を松代 ( 同 ) へ向かい、松代から鳥打峠 かわた ふくしま とおかまちおぢ、や ( 同 ) を越えて川田 ( 同 ) へ、さらに福島 川 ) 沿いに新潟県の十日町・小千谷を経て広の国府へ向かっていた。 ふの かまくら かみつみち すざか 大な越後平野へ至る出口にあたり、戦略上重中世には、この支道が鎌倉街道の上道の ( 須坂市 ) をすぎたあたりで千曲川の布野の 一部となって鎌倉から善光寺へ、あるいは逆渡し ( 長野市 ) を渡る。そこから長沼城 ( 前 要な拠点だ。 また、飯山から謙信の本拠である春日山城に京都方面からは北陸道を使い、越後の国府出 ) のあたりを通り、矢代でわかれた北国街 むれ いづな までは、直線距離で一一十キロほどである。飯を経て北回りで善光寺へ至る道として賑わ , っ道 ( 本街道 ) と牟礼 ( 飯綱町 ) で合流する。 このルートを北国街道松代道という。ちなみ 山を奪われると、謙信は絶えず、武田勢の脅ようになる。 この道筋が近世の北国街道へ発展するわけに福島では、千曲川南岸に沿って中野、飯山 威にさらされねばならない。なお、川中島か おいわけ ほっこく ら春日山城までも、北国街道で八十キロほどだが、そのルートは東からいくと、追分 ( 長へ通じる谷街道と繋がっている。 かるいざわ なかせん こうみると、矢代から千曲川南岸を通る戦 しかなく、川中島は越後の防波堤の役割を担野県軽井沢町 ) で中山道と分岐し、千曲川に こもろ / 諸、上田、善光寺を通り、信国時代の北国街道 ( 松代道 ) は、後述する第 っていたのである。 沿って北上。 「道」の歴史を振り返りながら、そのことを越国境を越えて越後に入り、春日山城のある四次合戦と関連する古戦場跡を横断し、その まま越後へ通じていることがわかる。謙信に 府中へ至っていた。 確認していこう。 戦国時代に謙信らが信越国境までの街道をとって、北国街道が通る川中島を信玄に取ら 領国経営の一環で整備したが、当時は近世以れたら、首根っこを押さえられるようなも 北信濃の「道」 ふちゅう 春日山城下は府中と呼ばれ、越後の守護降の道筋とは一部区間で異なっていた。近世の。実際に、第三次合戦の半年前に、謙信は やしろ 所が置かれており、古代には近辺に「国府」の北国街道 ( 本街道 ) は矢代の渡し ( 千曲家臣に宛てて「信州の味方中滅亡の上は、当 たん 市・長野市 ) で千曲川を越え、犀川を渡る丹国 ( 越後 ) の備え安からず候。と述べてい があったとされる。 ばじま とうさん 古代の東山道は、東北から関東、信州を経波島の渡し ( 長野市 ) を経て善光寺へ進むる。北信濃の国衆が信玄に滅ぼされたら、本 みの 由し、美濃へ通じていた。その東山道からわ ( 地図 2 参照 ) 。戦国時代にもその道筋は使わ国越後の防衛が危うくなると警鐘を鳴らして うえだ いたのである。 かれた支道が、信州の国府 ( 上田市Ⅱのちれていたが、主たる道筋は、矢代から千曲川 どうか、旦那様のお船にーー浮穴みみ「函館札」 1 月号読切登場、お楽しみに ! たに 294

5. 小説推理 2016年12月号

に組み入れていくことになる。 た。また、謙信も飯山城を重要な拠点と考え一時、信越国境の野尻城 ( 信濃町 ) を武田方 その象徴的な例が高梨政頼だろう。彼は信るようになる。 に奪われている。 えいろく かすがやま 玄に中野城を追われ、謙信が築いた飯山城へ第四次合戦については後述するが、永禄七その巻き返しのために春日山城 ( 新潟県 逃れて以降、上杉家の城代として城を預かっ年 ( 一五六四 ) の第五次合戦の前に、謙信は上越市 ) を発った謙信は七月一一九日に善光 寺に着き、八月に入ると川中島へ陣取って、 しおざき 塩崎 ( 長野市 ) で信玄の軍勢と対峙したが、 野 このときも対陣は六十日に及び、武田勢への 中し 備えとして飯山城を修築して越後へ帰ってい 渡坂 る。 野須道遡 代 布 のちの話になるが、史料に「飯山領」の記 載があり、謙信が「城」を単なる軍事拠点で はなく、付随する土地を含めて「領彗と捉 えていたことがわかる。領土拡大欲を持って いないはずの謙信が、北信濃に領地を確保し ていたのである。 以上のことから、「義の武将」である謙信 の本音が垣間見える。 武田方が北信濃を支配するため、しきりに 川中島方面へ兵を動かすことは理解できる。 一方、善光寺の争奪という側面はさておき、 謙信が五度にわたって川中島で信玄と戦った 理由が、例の「信州之諸士」を助けるためだ 2 悊けでなかったのは明らかだ。 山 飯 ↑越後へ 黒姫山 牟礼 飯縄山北国街道ー ( 本街道 ) : 葛山城 沼 長 善光寺 卍 旭山城 島 福 丹波島の渡し / 加中島川田 鳥打峠 松代 ( 海津 ) 矢代の渡し 代 矢 ↓上田・小諸へ じようえっ のじり 293 武将と道の戦国史

6. 小説推理 2016年12月号

で「跡先より押しはさみ , ( 挟み撃ち ) にす つけられたのも同然であった。 きつつき そこで謙信は永禄四年 ( 一五六一 ) 八月、るという戦術た。啄木鳥が木を叩き ( 武田方 古地図で謎解き 一万八千の大軍を率いて越後を発ち、いつも遊軍の妻女山攻撃をさす ) 、餌 ( 上杉軍 ) が 江戸東京 どおり善光寺に着陣した。謙信は五千の軍勢その音に釣られて出てくるのを待っところか を善光寺に残し、一五日、犀川を小市の渡しら、「啄木鳥の戦と呼ばれる。 まの歴史 あめのみや 税 で、千曲川を雨宮の渡しで越えて、信玄のしかし、妻女山の謙信は、海津城から慌た ATOBE Ban 円 跡部蛮 さいじよざん 4 海津城を見下ろす地点にある妻女山に布陣しだしくたち上る炊飯の煙をみて、勘助の作戦 新宿都庁の裏に滝があり、 を見破ったといわれる。上杉軍は信玄に先ん た ( 地図 3 参照 ) 。 上野不忍池を競走馬が駆けていた 一方の信玄も、海津城を救援すべく一一万のじて、九月九日の午後九時ごろ、物音一つた まの秘密を知れば越 社 大軍で甲斐を発ち、一一四日にはいったん西のてず、のちに江戸時代の歴史家で詩人の 東京歩きが べんせいしゆくしゆく ちゃうすやま 茶臼山に入って、一一九日に海津城への入城を頼山陽が書いたとおり、「鞭声粛々」と霧慚 もっと木しくなる , ・双 の中、千曲川を雨宮の渡しで越えた。 果たした。 『甲陽軍鑑』によると、このとき信玄は前出一方、謙信の行動を知るよしもない信玄は一一千があわてて戦場へ合流し、上杉軍は退却 の山本勘助を海津城に呼んで意見を求めたと少し遅れて翌一〇日の明け方、八千の本軍ををはじめることになる。 ひろせ いう。すると勘助はまず、「 ( 一一万の軍勢のう率いて、千曲川を広瀬の渡しで越えた ( 地図その間の激戦の模様は、謙信と親交のあっ このえさきひさ た関白近衛前久が合戦後、「自身太刀討に及 ち ) 一万一一〇〇〇、謙信の陣どる西条山 ( 妻 3 参昭 0 。 女山 ) へ仕懸」けるように進一 = ロする。この遊その日の早朝、川中島は濃い霧におおわればるる段、比類なき次第、天下の名誉」と、 軍が明朝午前五時を期して妻女山を奇襲すれていた。午前七時ごろ、急に霧が流れ、視界謙信へ称賛の手紙を書き送っていることでも はちまんばら ば、上杉勢は「負け候ても勝ち候ても、 ( 千が開けた瞬間、八幡原で向かい合った両軍のわかる。つまり謙信自身が太刀を取って敵と 曲 ) 川を越し、退きべく候」と勘助は考え距離はわずか八百メートルであった。いわ戦ったのだ。一方の信玄も、上杉勢の猛攻 た。その後、上杉勢が本国越後へ帰ろうとすば、出あいがしらのような状態から激戦に突に、床几に腰かけてはいられなかった。『上 いっとき るところを狙い、ひそかに川を渡っていた信入したと考えられる。一時 ( 二時間 ) 後、妻杉家御年によると、信玄は、本陣を崩さ 玄率いる八千の本軍と妻女山を攻撃した遊軍女山がもぬけの殻だと知った武田方遊軍一万れて千曲川にそそぐ御幣川のあたりへ逃げの らいさんよう おんべい 296

7. 小説推理 2016年12月号

↑善光寺へ ー丹波島の渡し 小市の渡し / 北国街道 ( 本街道 ) 川中島 八幡原 御幣川 ノ〃 広瀬の渡し 北国街道 ( 松代道 ) △茶臼山 ( 本軍 ) 矢代の渡し′ 海津城 △妻女山 ′雨宮の渡し ( 遊軍 ) →武田軍の動き →上杉軍の動き 代 矢 地図 3 自らの本拠に至る「道」を守るために、謙 信は信玄の川中島進出を阻止しようとした。 その最大の軍事行動が第四次合戦である。 謙信の意外な顔 それまで本格的な衝突をさけてきた武田・ 上杉両軍だったが、第四次合戦に限ってなぜ 多数の戦死者をだす激戦となったのだろう この時点までに信玄が信濃守護職を手に入 うえすぎのりまさ れ、謙信も庇護していた上杉憲政から関東管 領の職を譲り受け、両者ともそれぞれの公的 地位を背景に、一歩も譲れない状況になった ことがあげられる。 そして最大の理由は、信玄が川中島に海津 城 ( のちの松代城 ) を築城したことであっ た。海津城は北国街道菘代道 ) を扼す要衝 に位置する。この築城は、謙信が上洛して天国 戦 皇や将軍に拝謁し、さらには関東出兵の際に の つるがおか 鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀式をど 執り行うなど、越後を留守にしている隙にお武 こなわれた可能性がある。いずれにせよ、海 津城の構築は、謙信にとって喉元に刃をつき

8. 小説推理 2016年12月号

びたという。 る。 まっている。その年の川中島の刈入れ時期が 『甲陽軍鑑』にあるように、啄木鳥の戦法を『川中島の戦いと北信濃』 ( 長野市民新聞この前後だったのだろう。 信玄に進一言したのが本当に山本勘助であるか刊 ) は、五度にわたる合戦の時期をこう記し 一方の武田方も、そろそろ上杉勢が苅田狼 どうかは不明であるものの、武田方が軍を一一ている。 藉にでることを予想していたはずだ。 手にわけ、遊軍を妻女山攻撃に向けたこと▽第一回日八月ー一〇月 『甲陽軍鑑』によると、信玄は「明日の合戦 は、上杉方の史料にもあるから史実と考える▽第一一回Ⅱ四月ー閏一〇月 の備えを定めよ」と、一〇日に上杉軍がうご べきだ。しかし、そのあと謙信がその作戦を▽第三回Ⅱ三月ー八月 くことを前提に、作戦を立てていたことがう 見破るくだりよ、、、 。し力にも作り話めいてい▽第四回Ⅱ八月ー九月 かがえる。武田軍は、上杉軍の移動前に妻女 る。 ▽第五回ⅱ七月ー九月 山を攻撃しようとしたが、上杉軍に先を越さ では、謙信はなぜ武田方遊軍の攻撃を予期すべて収穫を迎える季節に合戦がおこなわれ、結果、上杉軍をはさみ討ちにすることが していたかのように妻女山をおりたのか。謙れている。このころ甲斐や越後では、毎年のできなかった。 信とて、超能力者ではない。筆者は、謙信のように干ばつや大風、疫病流行の記事がみら 以上が、五度にわたって川中島で両軍が戦 行動はあらかじめ予定されていたものではなれるという。当時、両国ともかなり疲弊してい、 第四次合戦が激戦となった真相といえま いかと考えている。 いたようだ。事情は信玄も同じだが、深い雪いか。そして忘れてならないのは、春日山城 かりたろうぜき その狙いは、いわゆる「苅田狼藉 , であにおおわれる越後の冬はながく、食糧はさらと川中島を繋ぐ北国街道こそが、両雄激突の る。当初、海津城を攻め落とすつもりだったに不足しがちである。謙信は幾度も関東へ出重要なファクターとなったことであろう。 謙信は、武田の大軍出現によってその目的を兵しているが、越冬はほとんどその地で済ま【参考文献】小和田哲男監修『地図で読み解 果たせなくなった。ただ軍勢を退いたのでせている。一一期作ができない越後の兵たちく戦国合戦の真実』 ( 小学館 ) / 笹本正治国 は、川中島に影響力を残せない。そこでちょは、関東で越冬し、敵方が蓄えていた食糧を監修『川中島合戦再考』 ( 新人物往来社 ) / の うど刈入れの季節を迎えた川中島で、稲穂を奪い、越後へ持ち帰っていたと考えられる。池享・矢田俊文編『定本上杉謙信』 ( 高志書と 刈ること、つまりコメの " 強奪 ~ を企てたの決戦の日に当たる旧暦の九月一〇日といえ院 ) / 古川貞雄・花ケ前盛明著『北国街道』鵡 ではないだろうか。同時に、川中島が上杉のば、いまの一〇月中旬。稲には " 刈入れ ( 吉川弘文館 ) ※本文で紹介した文献は略し 縄張りであることを世間に公表する意味もあ時期 ~ があり、地方によって刈入れる日が決た。 2

9. 小説推理 2016年12月号

な杭をどこからか持ち出し、頭上高く持ち上いとだめなの : : : さがさせて」 強い風にたなびく薄の穂。正気を失ったよ げるとカ任せに新たな場所へ打ち込んだのでまるで巨大な墓標のような杭を背にし、雲うな桔梗の顔。それを運んでいく荷車。無数 ある。杭を引き抜いた三つの孔、それに新し雀は視界の定かでない段蔵の心象の奥へと進の赤蜻蛉。 そして、再び朧月夜。凶相の段蔵が両手に い杭の根一兀からは止めどなく鮮血が噴き出む。 し、 鎌を握り、桔梗を手籠めにした者たちの喉を / 川のように雲雀の足許を濡らしてい すると、突然、景色が変わる。 こ 0 朧月夜だった。風に流される朧雲のせい次々と切り裂いていく。夥しい骸。血の海の 「くいが : : : あたらしい、大きなくいを、おで、地上は月明かりと闇が交互に綾を織りな中、ただ一人、逃げ去る服部保俊。 しいえ、しゅしている。 巨大な陥穴と怯えた保俊。いつのまにか変 じさんが自分でさした e: らのおじさんと同じかおをしているけど、べその下で、雲雀は信じ難い光景を目の当たわり果てた姿となった土髑髏。 またしても、場面は変わり、凶相の段蔵が : いったい、どうりにした。 つの人のようにも見える : いうこと : : : でも、この新しいくいが痛みと十数名の黒い影が蠢いている。その中央で片目片腕となった甲山白雲斎と対峙してい くるしみの原因にまちがいはない : : : あれ ? 蒼い燐光を放っ桔梗が泣き叫んでいた。その ききようさん : : : どこへいったの ? 」 上に覆い被さっていたのは、若い頃の土髑 雲雀は蒼い燐光を見失ったようで、激しく髏、千賀地服部保俊だった。 動揺する。 なんと、桔梗が伊賀で千賀地服部の者たち その言葉を聞きながら、邪見羅にも雲雀がに手籠めにされた夜の光景を、雲雀が目撃し 見ている景色が見えてきた。同調が始まっててしまったのである。容赦のない乱妨だっ 「雲雀、あまり無理をするんじゃねえぞ。こその悲惨な光景に、見開いた雲雀の両眼か れ以上続けられなさそうだったら、兄ちゃんら大粒の泪が滴り落ちる。 「 : : : なんということを : : : 」 に合図を出せ。すぐに目隠しをしてやる 「・ : ・ : わかった : : : でも、ききようさんがい そこからは、眼前の光景が次々と変わり、 なくなっては、だめ : : : おじさんの心にいな断片しか見えなくなった。 一」 0 段 日 diablo 伝 海 道 ■定価 : 上・ [ 本体 15 + 税 下・一 + 税 惡再び ! ! 川中島合戦ー。信玄 VS 謙信の陰で、忍者ちの 熱い闘いがあった。正史には残らない、血湧き肉躍 疾風怒濤の戦国裏戦記 ! ! 双葉社 287 魔縁

10. 小説推理 2016年12月号

「息子さんのこと、心よりお悔やみ申し上げ「見ました」 遺体を見たら、目許や唇付近が腫れて、体の あちこちにも青痣が出来ていました。明らか 真木は厳しい顔で、 ますー 「翌日の新聞に、男性が前を行く自転車にぶに、暴行の痕跡がありました」 「ごていねいに」 つかって逃げたから警察官が追いかけ、男性「そうでしよう。警察官は殴っていたんです 宏は頭を下げてから、 「さっそくですが、九月一一日のことですが」が暴れたために警察官が取り押さえたと書いから」 てありました。でも、前に自転車なんて走っ真木は憤って、 と、宏は切り出した。 ていなかったんです。それで、私は県警に電「私が入院などしなければ、ほんとうのこと 「ええ。あれが息子さんだったんですね」 話をしたんです」 を訴えることが出来たのに残念です」 真木はしんみり言ってから、 「真木さん。おそらく、今後、裁判で争 , っこ 「あの日、私は配達先に向かうところで、国「えつ、県警に ? 」 道を東に向かって上松一一丁目の交差点を右折「そ , つです。男性が前を行く自転車にぶつかとになると思います。今のことを証言してい するために信号待ちしていたんです。するって逃げたというのはおかしいと。それかただけますかー 「もちろんですー と、パトカーのマイクの声が聞こえてきましら、警察官が殴っていたのを見たと」 「ありがとうございますー た。信号が変わり、交差点の真ん中まで出て「警察は何と ? ー 停止していると、対向車線有間方のガードレ「ご協力を感謝しますと親切に対応してくれ宏は立ち上がって何度も頭を下げた。 礼を言い、外に出てから、宏は八田の携帯 ールのそばに自転車が倒れ、パトカーから警ました。また、何かあったらお話をお伺いし 察官がふたり下りて、ガードレールを乗り越に行くかもしれないと言いました。でも、あに電話をした。しかし、呼んでいるが八田は えて先に歩道に出た若い男を追いかけたのがのあと、私は足を骨折して一カ月近く入院し出なかった。 きのう、真木に会うことになったと知らせ 見えました。対向車線の車がなくなってからていたんです。ですから、警察とはその後は 交差点を出て、その際にちらっと歩道のほう話をしていません。報道を見る限り、私が見ようとして電話をしたが、出なかった。以前 に目をやると、警察官が男に馬乗りになってたのとは別のようになっていったようですなら、折り返し電話があるのだが、今日にな っても電話はなかった。 殴っていました」 ねー 「警察官が殴っているところを見たんです「そうなんです。息子が暴れたため保護しょ今もって電話がつながらないことに、微か うとしただけだというのです。でも、息子のな不安を持った。 ね