そっと、わたしはナプキンを頬にあてた。 「きみは少し疲れてるから、一週間ほどョセミテ国立公園に でも籠もれ。マジェスティック・ホテルも予約したから、つ て。事前になんの相談もなく」 現にきみは疲れているよ、とはいわれなかった。 「突然だね」 「あと、レイはずっと休みもとってないから、ほかのスタッ フも休みづらいって。そう告げられて、なんの反論もできな かったのが悔しい。それに、お母さんが否定するライアンや ダグと頑張って、やっと結果もついてきたのに : 「休みはいっから ? 「今月末。十一月の頭にかけて」 「いい機会だよ」 やっと、ジョンが意見を口にした。 「旅をすれば自分を見直せる。ギンズバーグだってそうして きた」 これは彼の好きなビ 1 ト詩人の名だ。「このへん で、カプールの園を出てみるのもいいんじゃないか」 カプ 1 ルの園というのは、わたしが受けている治療の こし J 、た。 ジョンはそれを治療とは呼ばず、若干の嫌悪感とともにカ プールの園と呼びならわす。カプールはアフガニスタンの首 都イスラム教徒は豚を食べないので、そこの動物園には豚 かいるのだとか元はバックパッカーだったというジョンの 豆知識だ。彼はわたしの昔の仇名も知っている。だから、カ プールの園。 き」み・は」 ナチュラリストのジョンは仮想現実を好まない みのままでいい誰がどう呼ばうとかまわないともいうた た、わたしはこうもう。ジョンは、心理療法士ではなく自 分の手でわたしを癒したいのではないかと。機械文明に毒さ れているわたしの側の豆知識。昨日、で流れてきた情 報によると、カウンセラーであろうとする男はだいたいハズ レであるとの由。 ( ところだよ」 「ヨセミテはい、 、わたし 冷めつつあるカレ 1 をジョンはスプーンですくい のロへ運んだ そ , フ、た。 ( いし、星空の下で眠るのもい ( 「釣りをするのも、 時間があれば、マンザナーにだって立ち寄ってみればいい マンザナ 1 日系人収容所のことだ。 大戦中には、わたしの祖母が収容されていたという。とき おり、ジョンはこの地名を口にする。そういう場所があった ことは、知識としては知っている。でも、収容所であるため、 地の利の悪い荒野に位置している。だから、実際に足を運ん 、ごことはなかった。 「きみたちの家のルーツだろう。一度、自分の目で見てみる のも悪くない」 「アーティストはすぐルーツだなんだとうるさい」 やっとジョンが笑った。 、とロのなかでつぶやいて、冷めた二人ぶんの皿 違いない を温め直すため台所へ立ち去った。その背を見ながら思った。 わたしがカプールの園に囲われているなら、遅れてきたビ 1 カプールの園
のようだが、起業したての会社などこんなものだ。 わたし自身の技術は、手が速いというだけで、中の上くら いのもの。もう一人、同じくらい手が速いプログラマがいれ 、はと田 5- フか、さ亠 9 カ 、に、彼らはシリコンバレ 1 へ流れてしま 一気に書いた三万行をまとめてビルドし、機械的に出てき たエラ 1 を直し、すぐさま自動テストに通す。ソフトの書き かたは人それぞれだが、わたしの場合、これが一番ミスが少 ない。それから目視でも動作を確認し、退勤のタイムカ 1 ド を押そうとしたところだった。外回りから帰ってきていたラ ィアンが、ちょっと、とわたしに耳打ちして上の社長室を指 した。 職場からオ】クランドへ戻るリッチモンドーミルプレ 1 線 は、海をくぐったところで地上に顔を出す。そこは延々とコ ンテナが立ち並ぶ港で、朝は殺伐として見えるが、帰宅のこ の時間は遠くの海が西日を浴びて輝く。それを横目に、スマ 1 トフォンを確認した。ジョンからメ 1 ルが入っていた。完 全菜食主義のカレーを作るから、早めに帰ってこいとのこと ジョンは会社近くのカフェで出会った絵本作家志望の白人だ。 年齢はわたしよりも三つ下。気がつけば家に居つき、ゲ 1 ム 、ートタイムでヴィ ばかりやるよ , フになってしまった。則にノ 1 ガン向けの惣菜を作っていた経験があるらしく、食事は低 カロリ 1 で味も、 ( ( たた、絵を描いているところをこのご ししところといえば、酒を飲まないこと。それか ろ見な ( ( ( 面を探している時点で、 ら、けっして暴力に訴えなし ためかもしれないような気はする。 「おう」 鍵を開けると、グ 1 グルのロゴの入ったエプロンを着て台 所に立っジョンに出迎えられた。水回りを見る。豆乳を乳酸 発酵させたヨ 1 グルトやトマトペースト、湯に浸したカシュ ーナツツ、それから布巾ごしに網に載せられた白いスライム 状の物体があった。 「カッテ 1 ジチーズだ」 わたしの視線に気づいたジョンが、やや自慢気に披露する。 「豆乳にレモンを入れて濾すだけ。これでチーズのかわりに なる」 軽く頷いて、広げつばなしのソファベッドに靴を履いたま ま寝転んだ。部屋は必ずしも広くない。玄関の正面にキッチ ンかあり、あとは、寝室兼リビングかあるだけだ。ジョンが 画材やらよくわからないプリキの玩具やらを持ちこんだせい で、いっそう手狭になってしまった。 ミキサーの音がする 慣れた手つきで、ジョンがヨ 1 グルトとトマト、そしてナ ツツのペ 1 ストを作っていた。まもなくカルダモンやシナモ ンを炒める香りが漂ってきた。いつまで、彼とこの部屋にし プ カ るかはわからない。そのうち、父と同じように姿を消すのか もしれない。わたしもそれに備え、過度な期待をしない。ダ グなどは、幸せになる勇気を持てだなどと説教をする。でも、
その勇気がもたらしたのが、一人きりの母と、この病んだ娘 ではなかったか。子供はほしくないとわたしがいうとき、ジ ョンは少しだけ寂しげな顔を作る。 スマートフォンが震えた。 母からだ。 目をつむり、手のなかの電子機器が動きを止めるのを待っ たいつまで経っても鳴りやまない。二十回ほど数えたとこ ろで、やっとやんだ右手がゴムのようにだるくなった。リ ンドン先生にいわれた通りに、一、二と深呼吸をする。覚悟 をきめて、コールバックした。 用件はいつも通りのものだ。 サンフランシスコへ移ってから、レイはすっかり変わって しまった。特に、ライアンやダグとつるむようになってから 」」にカ′、ロ は、なおのこと。もう、昔の優しい子じゃない。 スに帰ってきなさい。彼氏とも別れること。そう一方的 ( ( われてしまうと、こちらも喧嘩腰になって通話をきってしま 。いまさら自分が何をいわれようと堪えないが、友人やパ ートナーに話が及ぶと、コントロールがきかなくなる。ロス からサンフランシスコまで来て、やっと築いた仲間たちなの に。ジョンか母に気に入られなさそうな言動をとったとき、 あたってしまうこともある。母と話すたび、周囲との関係に 毒が回っていく。人と、一対一の関係を築けない。そうなる のは、結局は自分がないからだ。母に愛されたいと考えてし まうからだ。わかってはいる。わかっていれば、やめられる というものでもない。 通話に応じなければ応じないで、母の不満はエスカレ 1 ト する。この部屋にまで押しかけられたこともある。人間関係 に回った毒か解けるまでによ、ご、こ、 ナしナし一か月くらいを要す る。そして見計らったように、 いや実際に見計らっているの だろうか、きっちり、一か月おきに連絡が入る こんな捉えかたをする、自分の薄情も嫌だ わたしを手元に置いているうちは、母は落ち着き、優しさ を見せる。でも、それでは解決にならない。目頭を押さえて いるうちに、気持ちが折れ、少しだけ眠ってしまった。 カレーが運ばれる食器の音で目が覚めた 「お母さんは寂しいんだよ」 穏やかなジョンの態度は、いつもわたしを救ってくれる。 でも同時に、やはり彼にはわからないのだとも思う。出口の 見えない、 母と子の依存関係についてまでは。応えるかわり に、スプ 1 ンでカレ 1 を一口すくってみた。チキンのように 見えるのは、湯葉を結着酵素で固めあわせたものだ。歯応え があり、本物と比べても遜色ない。 米はオーガニックのプラ ウン・ライス 「おいしい」 そのまま少し食べたところで、不意に涙がこばれ、止まら なくなった。ジョンは何もいわず、テ 1 プル越しに手を伸ば してわたしの目尻を拭った。わたしの情緒不安定に、ジョン はもう慣れている。黙したまま、わたしが話しはじめるのを 待った。 「休暇を命じられた」
はじめた。ゆっくりと回る風車の群れはまるで群体の生物に も見える。まもなく一直線の道路に入った。東からの太陽が 眩しく、フロントガラスのシェードを下げた。サイドプレー キ横の端子に挿したスマ 1 トフォンは、自動的に北欧のメタ ル・ミュ 1 ジックを鳴らしている。前に、この車で通勤して いたとき、このアルバムで朝のキックを入れていた名残りだ。 もっとも市内の駐車事情が悪く、もつばら買い物専用の車に なってしまった。休みが終わったら、いっそ売りにでも出し てしまうか。縦乗りの音楽を聴くうちに、昔、小学校のクラ スで演じたオリジナルのミュ 1 ジカルが思い出された。黒人 の同級生が歌うジャズを客席で聴いていた母は、やつばり黒 人はスウイングできるのね、と感銘を受けていた。わたしは 黙って頷きだけを返した。その発言はアフリカ系にも東洋系 にも失礼だなどと指摘すれば、きっと、こんな答えが返る あんた、何いってるの。あの子への好意から、ああいうふう にいっただけじゃないの 雑念にとらわれたまま、九十マイルも出してしまっていた 危ない 0 黄金色の草に覆われた丘が、地平までつづく道の左右で明 るく輝いていた。ワイナリーや、閉鎖された農場の看板がち そ らついた。あのミュ 1 ジカルの名は、なんだったか : うだ。ナイト・オン・ザ・タウンだ。これではエッジがない とクラスで異議を唱え、そして却下されたのだった。曲が次 第にうるさく感じられてきて、音量を絞った。音楽はリンキ ークに変わっていた。ジョンの勧めで入れたアルバム だ。また、先日の母との通話が思い出される。あのジョンと 力いうろくでなしとは早々に別れなさいあいつはきっと、 あんたが四十を過ぎたころ逃げるにきまってるんだから。お え、わたしにはわかるの。こうい 父さんと同じタイプ。、、 う直感にかけては、ちょっとだけ自信があるんだから。 進路がそれた。タイヤが路肩のランプルストリップスに乗 り上げ、ごりつと嫌な音を立てた。旅によって自分を見直す。 わたしには到底、そんな芸当はできそうにないあるいは、 ジョンの好きな六十年代であれば、それもありえたのだろう かいや。半世紀前に生まれたら生まれたで、やつばり同じ ように自分自身にとらわれていた気もする 半世紀前。そうだ、母の少女時代だ。その時間を、母はど う過ごしたのだろう なるべく話したくなくて、かかわりたくなくて、交わす言 葉も極力減らしていた。母がふりまく毒を忘れることに、人 生を捧げてきた気さえする。それがこの齢になって、逆に思 リンドン先生は笑いなが い出そうとしても、思い出せない らいう。怒りのマネジメントは問題ありませんよ。もう十年 もすれば、自然と収まってきますから。というのも、怒ると いう集中力そのものが、ばやけてくるものなのですよ : いま、わたしの頭のなかには数十万行のコンビュータのプ ログラムが収まっている。ミーティングでの会話も、副詞一 園 の つに至るまで憶えている。それはいわば機械のネットワーク だ。そのネットワ 1 クのどこかに、予期せぬ暴風をひき起こプ カ す何者かがいる。でも、やがてネットを構成するノードの一 つひとつが解かれ、輪郭がばやけ、乱視で見る夜の信号機の ように滲むのだろうか現に、取引先から取引先へ忙しく飛
「素晴らしいことです。とりわけ、差別に関するくだりが あなたは、それを受け入れることができましたか 、え、まだ」 「それが普通ですので、気にすることはありません。どうで しよう。これで、治療の精度を上げることができます。 あなたの、人種に関することに焦点をあてて : ・ : ・」 一分ごけください、とわたしは目頭を押さえた。 結局、治療そのものをとりやめることにした。ジョン にいわれたからではない。わたしの問題は、治療過程を経て、 断ったときにはまだ自覚がな 次の段階に入ったのだ。ただ、 かった。やめます、と端的に述べナ わたしの前意識を貫いて。こうして、わたしはリメンプラン ス・アンド・アクセプタンス・セラピ 1 をあとにした。 それから地下鉄に乗ってジョンの待っ家へ帰ることにした。 途中、メッセ 1 ジを一通送ると、デトックス・ディナーを用 意しておくとのことだった。どうせレイのことだから、ここ ぞと肉ばかり食べてきたんだろう。 お見通しだ。 それなら、グラハム生地の有機野菜のキッシュが食べたし そう返信をしたところで、列車のプレーキの鋭い金属音がし た。向かいの席では、朝から乗っていたと思われる白人のホ ームレスの女性が小さく寝息を立てていた。わたしもスマー トフォンをしまい、二駅だけうたた寝をした。オークランド は間 - 近、たっこ。 嘘か本当か、いやきっと本当なのだろう、ネバダ州のほう ではこんな話があるという。ネイティヴ・アメリカンに向け て、踊りを見せろと白人がクオーター硬貨を投げつける。そ の対価として、ネイティヴ・アメリカンは白人の前で五分間 だけ踊ってみせる。誇りや文化や伝統を、クオータ 1 に換え てしまっていいのか外部から、とやかくいうことは簡単だ でも、一つ確実にいえることがある。マイノリテイかどう生 きるかは、当の本人がきめるということだ。 「ーようやく、この日がやってきました」 充分な間を取ってから、わたしは聴衆の前で見得をきった。 「新たな世代のリミックス」と題された、ショーの 午前の一コマだ。集まりは、、 ( まのところ悪くない。 「音楽のリミックスの起源は、タブ・ミュ 1 ジックにあると いわれます。その後は、たちが発展に寄与してきた。た とえば、皆が踊りたいと思う箇所を、何度もくりかえすとい ったよ , フに。でも、 いまのミキシング環境は必ずしも快適な ものではありません」 「そうかい ? 」わざとらしく、隣に立っダグが訊ねた。「ば くは満足しているけどね」 いきなり混ぜっ返さないでよ。枠を三十分しか 「ちょっと、 もらえなかったんだから」 肩をすくめると、少しだけ笑いが起きた。 この三文芝居のために、わたしたちはすでに百時間を費や している。幾度となく話しあい、情報を削り、台本を叩いて
同じ台詞を返した。よかった、元気そう。母が笑った。リン ドン先生の言葉が思い出された。もう十年もすれば、自然と 収まってきますから。怒るという集中力そのものが、ばやけ てくるものなのですよ : 古い大きな建物の一階部分が口を開け、昼からシャンパン 母が自宅ではなくこの場所を指定してきたのは意外だった。 ーの客たちで賑わってい と牡蠣のセットを頼むオイスタ 1 聞けば、おいしい本場風のタコスを出す店があるのだという。 グランド・セントラル・マーケットの北側だ。日差しの ところが、あいにく店が閉まっていた。母は目に見えてしょ もと、わたしは植えこみの端に腰かけながら母を待っていた。 休日ということもあり、ロスのこの観光名所は混雑し、人種げてしまった。彼女は、このロスの観光名所を娘に自慢した かったのだ。記憶は、時間をかけて海へと変わる。あるいは、 を問わず客たちであふれ返っていた。足下に一本の線がひい わたし自身がロスの育ちであることも、頭から抜け落ちてい てあった。これより外で酒を飲むなかれ、と書かれていた るのかもしれなかった。どうしようかねえ、と母が人混みの 待ちあわせには早いので、少しだけマ 1 ケットを覗くこと なかでカートを押しながらつぶやいたその佇まいは小さく、 すでにもう、わたしが知る母とは異なっていた。 1 の奥には味噌ラーメンを供する店があり、 オイスタ 1 バ 「わかったよ」 、こ。昆雑の上で、昔のアメリ やはり客でいつばいになってしナ、冫 少し考えてから、わたしは手を叩いた 力を思わせるネオンサインがいくつも輝いている。スパイス 「作ってあげる。本場のメキシコ料理。このあいだ、ジョン の香りに誘われ、食料品店を覗いた。つやつやした赤や黄の から教わったんだ」 パプリカが目立つ。チレ・ムラートやチレ・アンチョといっ 「でも : たメキシコ産の唐辛子が多く売られている。燻製がなされた わたしに悪いというのが半分。残りの半分も、わかってし チボートレは、ジョンのお気に入りの食材だ。 いまの孤独な暮らしを、娘に見せたくないのたい 母は五分ほど遅れてやってきた。花柄のシルバーカートを 押しながら、わたしの顔を見て、よかった、元気そう、と表まさらながらに感じた。わたしたち母子は、あまりにも表裏 一体すぎる。 小さいころは、虐められた帰りに同じ台詞を 情を綻ばせる。 母の背に触れ、強引に食料品店までつれていった。オニオ まもいまで、治療 いわれることに耐えられなかった。い ンやガ 1 リック、赤身肉、冷凍のスープストック、それから を受けているところだ。でも、噛みあわないはずの母のその 」さくなった母を 数種類のチレをバスケットに放りこむ。わたしの強引な態度 一言は、不思議とすっと胸に入ってきた。ハ に母はしばらく呆気にとられていたか、やがて気力が湧いて 見下ろす。少なくとも元気には見えない。けれど、わたしも
いるなら二人ぶんの部屋をとるとライアンはいったが、ジョ ンはそれを拒んだ。そういう旅行は、自分一人で行くものだ と。心配でないのかと訊ねると、特には、との返答だった。 そのうちカトマンズあたりで会おうぜ、とも。何しろ俺はジ ャニスの最後の恋人になりたいんだ。 この彼の発言には背景がある。 ジャニス・ジョブリンは薬と男に溺れ、最後にはヘロイン のオー ードーズで自死するように死んだ。訳知り顔の男た ちは彼女と一夜限りの関係を重ねた。そんな彼女が、あると きプラジルでデヴィッドという旅人と出会いを果たした。デ ヴィッドは彼女にヘロインをやめさせると、カトマンズで会 おうといってアフリカへ旅立った。そしてまた、ジャニスは 孤独から酒やヘロイン、そして一夜限りの関係に戻っていく。 デヴィッドが彼女の訃報を知ったのは、まさにそのカトマン ズでだった。その後、彼はジャニスのレコードを買い求め、 彼女の曲、クライ・べイビーを耳にする。この曲はカバーた か歌詞が異なる。あなたは世界を歩き、旅路の終わりを見た いといった。その道の終わりはデトロイトかもしれないし、 案外、カトマンズにまでつづいているのかもしれない。後年、 ジャニスの昔の男たちが集められたテレビ番組で、男たちは 総じて冷淡だった。彼女はあばずれで、人生において何が大 切かを理解していなかったと。ただ一人、デヴィッドだけは 譲らなかった。俺は、最後まで彼女を信じていた。 ジョンは、そういう男になりたいということた。 冗談じゃない、わたしは薬にも男にも溺れていないそう 反駁したくもなるが、憎たらしいアーティストの直感は、あ ながち外れてもいない。わたしの中高時代がそれに近かった 4 からだ。おそらくは虐められた反動だろう。わたしは自傷す るように薬と一夜限りの関係に溺れた。でも、それは必要な プロセスであったと考えている。他者につけられた傷は、せ めて自らがつけた傷に置き換えたい。少なくともジョンは本 いまこの瞬間 気なのだと思う。母の直感とやらに従うなら、 にも、アパートに女をつれこんでいるかもしれないが。 また母だ こちらの速度を知らせる 7 セグメントの電光掲示が、 六十マイル弱を指していた。制限速度は三十。我に返って、 軽くプレーキを入れる。衝撃で、助手席のハンドバッグが落 ちた。渓流の水音が大きくなってきた。セコイヤの森が、左 右で風に揺れていた 分岐に来た ルート一二〇をそのまま進むか、南下してョセミテ・ヴィ レッジに入るか。ホテルがあるのは南だが、まだチェックイ ノには早い。。 カススタンドの男の言葉も思い出された。逡巡 したのち、北側の道を選んだ。標高が高い。肌寒くなってき たので、カーディガンを羽織った。遠く、眼下にセコイヤの 大森林が広がっていた 車が数台停まっているビュ 1 ・ポイントがあった。雪山を 背景に、小さな湖と芝生とがある 、ハークレーでよくやって いたように、仰向けに芝生に寝転んでみた。水辺を栗鼠が走 っていくのが見えた。やっと静まってきた。日頃の疲れのせ りす
いったんアパ 1 トを出て、駐車場に停めてある青いフォー ドのエンジンを入れた。車についてきた安いカ 1 ナビゲ 1 シ ョンに、ライアンがとったという宿の名前を入れてみる。ル トの彼もまた、カリフォルニアという幻想体にとらわれてい る。その彼に薦められた詩の冒頭はこう。 僕は見た。狂気によって打ち壊されたこの世代の最良の精 神を。 昔の詩人は並べ立てる。貧困のなか、虚ろな目をした湯も 出ない都会のアパ 1 トの住人を。髭を生やし、大麻煙草に ( かれてニュ 1 ョ 1 クで逮捕された誰かを。けっして嫌いな詩 ではない。むしろ、憧憬さえする。けれど二十一世紀のいま、 もはやその者たちに最良の精神は宿らないと感じもしてしま う。インフラが発達し、有象無象の神秘が解かれ、言葉ばか りが溢れかえった、いまはもう。オークランドの宿なしは、 澱んだ目でクオーター硬貨を求めて卑屈に近づいてくる。昔 を懐かしんで大麻煙草をふかすお爺さんたちは、ただ過去し ライアンもダグも頑張っているけれど、目先 か見ていない。 の仕事に追われ、内省している暇はない。弱者のあふれたこ の街で、しかしもうプルースは聞こえてこない。 わたしたちの世代の最良の精神は、いったい、いかなる生 にこそ宿るのたろ、フ ? The Majestic Yosemite HOte1 1 ト五八〇からルート一二〇経由で、約三時間半。このナビ は融通がきかず、渋滞などを考慮せず、制限速度で走った前 提で計算する。飛ばせは、三時間くらいで現地に着きそうだ。 エンジンを切り、 ーキングの闇のなかでハンドルに額を あてた。昼の陽光の温もりがまだ残っていた。ニッサンでな くフォードを選んだのは、なんとなくそのほうかい ( とっ たから。言葉にするなら、つまりは有色人種であるからだろ うか、買ったときには無自覚だった。こうしたなんとなくの 積み重ねに、少しずつ蝕まれていると感じながら。 わたしが諦念につぶされそうになるたび、子供のころの在 りし日を思い出せとジョンはいう。心のままに生きた、安、い していられた空間を思い出せと。でも、そんな時間や空間が かってあったろうか。物心ついたころから、母の顔色ばかり を窺っていた。 やがて、理由のない苛立ちが湧き起こってきた。わたしは わたしのなかに、自分ではどうにもできない間歇泉をはらん でいる。リンドン先生による、怒りのマネジメントの秘訣。 苛立ちに点数をつけ、客観化してみること。自分の行動や、 それがもたらした結果を書き出してみること。そして人生を 楽しむこと。 ジョンのいいところ、その三。わたしのことを重たいとロ にしたことか、一度もない っ 0 ルート一一一〇に入ったあたりで、風力発電の風車が目立ち
のコンプレックスからそう田 5 うだけだろうか 「ヨセミテかい」 レジを打ちながら、店主が東を指した。 「ぎりぎり観光シ 1 ズンだな。遅い夏休みかい ? 」 「ええ」 どうしたわけか、笑顔がひきつった。必要以上に警戒し、 情報を相手に与えまいとするのは、わたしの悪い癖の一つだ かまわずに、店主は壁の地図を指した。 タイオガ・ロ 「お嬢さん、運がいいぞ。公園を抜けるルート一二〇は明後 日には閉鎖される。これから積雪シーズンだからな。あんた、 釣りはするのかい ? 」 「さあ、急にとれた休みなもので : ・ : ・」 ゲ 1 タレ 1 ドのポトルを持った男がうしろに並んだ。慌て て、挙動不審ぎみにカウンターをあとにしてしまった。じゃ あな ! と店主の明るい声か追いかけてきた。 あなたは優しい子だから。 逆らえないだけだ。流されてしまうだ 優しいのではない。 力いまもこうして、いわれるがままに休暇をとっている 車を走らせてしばらくすると、道はいっそうくねりはじめた。 左側を、渓流が寄り添って流れている。季節外れのラフティ ングの一団が、川を下っていくのが見えた。コーヒ 1 に口を つけ、ナビの時計に目をやった。まだ午前だ 母は消防士をあきらめた。 カくいう自分はどうだろう。母は祖母から逃げ、わたしも 母から逃れた。母からも、わたしを虐めた連中からも遠いど こかに、人間扱いされる場所があると信じた。選んだのは、 カリフォルニア大バークレ 1 校だ。ライアンとダグは一年先 輩だった。緑の芝生に覆われたあのキャンパスの自然科学の 校舎で、わたしはやっと産声をあげた。新しい仲間ができた。 もちろん苦い記憶もある。在学中に三人で作ったディープ・ リ 1 ディングというソフトウェアだ。高機能の光学文字認識 ソフトだったが、わずかな差で、同じ街のべンチャーに特許 をとられてしまい、実運用にも至らなかった。 技術は身についた。望む望まないにかかわらず、会社の顔 にまでなった。でも、ど , フたろ - フ。わたしは誰に人間扱いさ れたかったのだろう ? 目の笑っていない投資家、新しもの 好きの自分が好きなア 1 リ 1 アダブター、メ 1 カーの紐つき の電子ガジェット評論家。わたしが人として扱ってもらいた かったのは、彼ら相手だったのだろうか バークレーでのつかのまの自由を経て、もうわたしの心は 雲に覆われている。では、言葉の海に溺れない安定し たパ 1 ソナリティを演じながら。わたしはわたしの世代の最 ライフハック、怒りのマネジメント、 良の精神を手にしたい。 : ジョンにいわれるまでもなく、わたし マインドフルネス : の本能は、そんなものはお為ごかしだといっている。そして 園 わたしはリンドン先生にいわれるままに、一、二と深呼吸を くど、フでし一 する。手に力を入れて抜く。足に力を入れて抜 カ よう、意識できましたか。自分で、自分の身体を自覚してい くのです。 1 トナーか ジョンはオークランドの部屋に残してきた。パ
著者の名は野本一平。浄土真宗の開教使で、北米毎日新聞 社にも勤めていたようだ。 ここまで訳し終えたところで、三日間の洗濯物がたまって いることを思い出した。備えつけの電話を手にとるが、フロ ントの番号が書かれていない。勘でゼロを押したところ、つ ながった。地下のランドリーでのセルフサービスたというこ とだ。安心して先をつづけた。 : ・言語におけるその最たる使命は「伝達」であ ろう。ことばが、横の伝達作用に大きな役割を果た すのは勿論だが、時間的な縱の伝達作用において、 すなわち「伝承」を考える時、重要な意味を持つの である 外川明氏、詩人。自著を我が子に読ん その意味で、外川氏 ( でもらえないことを寂しいと書き残した の感想は、眞摯な言語生活者の誠意のある答えとい わねばならぬ。特にアメリカという異國において、 母國の言語による表現に、愛情を注いできたものの、 当然感ずる「寂しさ」であり、言葉を替えていえば、 日系文芸人が当然受けねばならぬ桎梏ともいえる。 親の文字が、そのまま子の文字にならないという寂 寥感は、自らの國土において、母國語の表現に生き るものには感じられない事実であって、異國におけ 肩が痛くなってきた。 首を回して窓の外に目をやると、もう日が暮れていた。フ ロントに訊ねると、一プロック先に二十四時間営業のカフェ レストランがあるというので、作業を中断して足を運んだ 家族づれで賑わっていた。キャッシャーは昔ながらの、強盗 防止の鉄柵に囲われたものだ。壁のメニュ 1 の下には、創業 一九二七年とある。第二次大戦はおろか、大恐慌よりも前 ジョンといると自然とベジタリアンメニューが増えるので、 ここぞとニューヨーク・スタイル・ステーキを頼んだ。まも なくして大量のハッシュポテトや揚げたトーストパン、コー ン、そして巨大な肉が食卓をいつばいにした。店員は最後に 熊を象ったお馴染みの容器の蜂蜜を置くと、コンニチハ、と 明るく挨拶をした。これはわたしにもわかる。なんとなく、 コンニチハ、と居心地の悪い返事をした。蜂蜜は揚げトース トにかけるらしい。全部あわせると、二千キロカロリ 1 は越 えそうだ。わたしはパンを一枚だけ手にとって、申し訳程度 に蜜をかけて一口囓った。じわりと油がロのなかに広がっ る日本文芸活動は、「伝承のない文芸」といえるの である。