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検索対象: 文學界 2016年10月号
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1. 文學界 2016年10月号

た後、「三田文学ーに場所を変えて、六九年に初めて津島佑 子のペンネ 1 ムで「レクイエムー大と大人のために」を書く 中上健次は同年、「一番はじめの出来事」という、文壇デビ ュー作を「文藝」に発表しています。 津島さんがなぜ三回もペンネ 1 ムを変え、本名で書かなか ったかは、先の柄谷さんの追庫文でも触れられていますが、 それは彼女のお母さんが津島さんが文学になるべく近づかな ( ようにしていたからで、津島さんは小説を書いていること を母親に隠していた。 「文藝首都」が自宅に郵送されるのも 断って、自分で取りに行っていたそうですね。 少し時間を飛ばして一九八〇年になると、雑誌「国文学 解釈と鑑賞」 ( 六月号 ) で、「飛翔する同世代ー中上健次・津 島佑子」という特集が組まれている。中上さんは『枯木灘』 ( 七七 ) を書いた後。そして津島さんは『寵児』 ( 七八 ) を書 いた後という時期です。 その後、柄谷さんが津島さんと行動をともにするのは一九 九一年、湾岸戦争に反対する文学者の集会と署名活動の時で すね。当時の背景と経緯をうかがえますか 柄谷九一年に湾岸戦争が起こったのは、根本的にはソ連 が崩壊したからです。それまではソ連があるから、国連によ る武力行使ということはありえなかった。しかも、国連平和 維持活動の名において、日本も自衛隊を海外に派遣すること になった。集会は、それに反対する日本の文学者たちの運動 でした。今につながる形での憲法九条の問題も、じつはその 時から始まっている自衛隊の海外派遣が初めてなされた。 九条の問題が問われるようになったのは、本当はそれからで す。日本に限らず、さまざまな意味で、湾岸戦争はソ連がな くなった一九九〇年代以降の新しい世界の最初の兆候だった んです。 湾岸戦争に反対する集会をやろうと言ったのは中上健次で す。彼は最初、むちゃくちゃなことを言ってきた。「ニュー ヨーク・タイムズに、俺とあんたと安部公房の三人で意見広 告を出そう」と。僕は嫌だと言った。アメリカで名前も知ら れていない者がそんなことをしても意味がないし、そもそも 日本で何もやっていないじゃないかと。そうしたら中上は 「わかった」と言って、では集会をやろう、ということにな った。湾岸戦争に反対する文学者の集会です。津島佑子、高 橋源一郎、田中康夫といった人たちが加わった。 その時点で、明らかに何かが変わったんです。それまでは、 文学者が政治的に活動することに批判的な風潮があった。今 でもその風潮はあるでしようが、当時はその理由が違う。米 ソ冷戦構造の下にあったから、文学者の政治的行為はその中 に組み込まれてしまう。ゆえに、それを批判するという考え があった。当時それを代表していたのは吉本隆明です。僕も それまでは同感でしたが、湾岸戦争の時点で、違うと思った。 なぜなら、湾岸戦争は、米ソ冷戦構造が崩壊した結果生じた ものだから。したがって、それまでとは違った考えが、態度 の変更が必要だったのです。それは容易ではなかった。たと えば、そのあと、湾岸戦争に反対する文学者の集会を批判す る本を書いた批評家らがいたほどです。

2. 文學界 2016年10月号

李相日 り・さんいる・一九七四年生まれ。 新潟県出身。大学卒業後、日本映画学校にて映画を学ぶ。 二〇〇六年「フラガール」で日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞。 「許されざる者」など。 主な作品に「 原作・吉田修一 x 監督・李相日のタッグで日本中をわかせ、 映画賞を総なめにした『悪人』から 6 年 『怒り』で再びタッグを組んだ一一人が、 小説と映画の方法論の違いや、 本作に集った豪華俳優陣の魅力について語り合う。 構成・月永理絵 撮影・杉山秀樹

3. 文學界 2016年10月号

ックの中・高・大学に通いましたが、実際に信仰をもつよう になったのは、息子さんを亡くした頃からではないでしよう かしかし、カトリックについてはほとんど書いてこなかっ た。それが『ジャッカ・ドフニ』にはあらわに出てきます。 十六世紀末から十七世紀の、徳川に入ったぐらいの時期、キ リシタンに対する弾圧が始まった頃のことが出てくる。主な 登場人物もみなその頃のキリシタンです。 小説の舞台の一つである長崎に、僕はこの前たまたま行っ たんですけど、長崎はやつばり特別な空間だなと感じた。徳 日時代にも外国とつながっていたこと、また、キリシタンか ずっと隠れていたということです。日本の隠れキリシタンの ことは、カトリックの世界史において希有な出来事なんです よ。僕が長崎のキリシタンに注目したのは、一つには坂口安 吾がそのことを詳しく書いているからです ( 「長崎チャンポン 安吾の新日本地理・九州の巻ーー」 ) 。安吾は日本史を十六 世紀から考えようとして、フロイスらイエズス会宣教師が残 した資料を徹底的に読んだ。安吾は若いとき仏教僧侶を目指 した人なのですが、むしろ宣教師らに関心をもち、また好意 的でした。そして、彼は転向した人物には関心がなかった。 転向を否定的に見ていたわけではないのですが きんつば 安吾が特に興味をもって調べたのは、金鍔次兵衛という日 本人の神父です。彼は忍者のように神出鬼没で全国的に地下 活動をした。津島佑子はたぶん安吾の本を読んでそれを知っ ていたはずです。『ジャッカ・ドフニ』には、チカが慕う 「兄」のジュリアンという人物が出てきます。チカがインド ネシアに残ったのに対して、ジュリアンは、マカオから宣教 のために日本に潜入したことになっている。たぶん、この人 物は金鍔次兵衛をモデルにしたものだと思います。その意味 でも、津島佑子は安吾派であって、転向者の立場からイエス を見るような太宰派でない。浅田彰さんが先ほど ( 本対談に 先立って行われた鼎談で ) 、自分の弱さをさらけだして共感を 得るのが日本で一般的なやり方だとい ( 、ましたが、太宰派は そういうものですね。「沈黙』で神父の転向を肯定しようと した遠藤周作もそこに入ります。 ところで、『黄金の夢の歌』と同じように、この小説にも ずっと音が鳴り響いています。 高澤チカップが幼いころ死別した母親の歌が、彼女の中 で断片的に復元されるんですね。 柄谷「ノックルンカ、ノックルンカ」とか「アフ 1 、ア シ 1 」。アイヌの言葉らしいんですけどね。関西在住のアイ ヌの人に聞いたら、「何言っとるんじゃ、何言っとるんじゃ」 「アホー、ポケー」といった意味らしい 高澤本当ですか ! 柄谷むろん嘘ですよ ( 笑 ) 。そのような音が作中ずっと 鳴り響いている。『黄金の夢の歌』の音が遊牧民の記憶だと すれば、『ジャッカ・ドフニ』の音は、狩猟民の記憶といえ ますね。 その一方で、僕はこう思った。『ジャッカ・ドフニ』では、 主人公らが小さな舟で長崎・平戸からマカオ、さらにバタビ ア ( インドネシア ) に渡るわけですが、それはたんに昔の話

4. 文學界 2016年10月号

ギーにみちた漢字とカナ交り文を書きつづ けおそらくそのためであろう、作品「歎異抄」解決がつく問題なのかどうか。その北に文 た人間である。その疲れをしらぬ勢いのある においては「書の人」石川九楊と「文の人」字世界と文明世界の秘蜜が隠されているので 書体は、脳裡に焼きついてはなれない。もち石川九楊がせめぎ合って挌闘し、その「筆蝕」はないか。インドで七世紀に 0 が発見される ろん『歎異抄』は弟子が編集したもので、しが分裂の危機をあらわにしているようにみえ以前、もしかすると漢宀支化圏における「一」 たのである かも後世の写本しかのこされていない。だか は「無」や「空」の観念と深い関連を有して いたのかもしれない。そんな妄想まで湧いて らそこから親鸞の「書」自体を見ることはで本書には「「「の字の深み」という興味 ′、る きないが、石川九楊氏はそのことよりも「歎深いエッセイが載せられている。この単純な 以前、このような問題をめぐって、本書で 異抄』の思想を書の形に具現化しようとした文字に内包されている「起筆・送筆・終筆」、 のだろう。さすがの着眼というべきだが、そっまり「トン・スー・トン」の構造が多面的もしばしば引用されている白川静さんの「字 れが何とも不可思議で奇怪なかたちに化けてに論じられているのだが、私は以前からこの統』「字「字辿などに当ってみたことが いたのである。 「一」という文字の発生に引きつけられ、今あるが、手がかりになるような解には出会わ なかった。文字の変遷と国家の興亡の関連を はじめ頭を横切ったのは、書とは「筆蝕」日まで未解決の疑問のようなものを抱いてき の力業なり、という氏の持咽たった。中国のた。それはこういうことである 探り、社会・文化の変動と書の進化や袞退を 書の本流は金属や岩石に刻みつける、たいし漢字の一という数字は、みられる通りョコ結びつけて老をすすめてきた石川氏ならど て日本の書は仮名文字の発明によって新規の一本で意味をなしている。だがそれは、ひとのような見解を披瀝されるか、ぜひともきい 「筆蝕」の世界をあみだした。氏の大著「中たびタテ一本のーに書き直すとき、たちまちてみたいところである。 もっとも本書は宕川九楊著作集」の第一 国書史』と「日本書史』はそのことを実証す漢字文脈における意味を失なう。一の意味を るための仕事であったともいえるが、氏の作喪失する。ところがこれとは逆に、ローマ数巻であり、内容もエッセイや小文を中心に編 品「歎異抄は、まさにその一点一画を鋭利字のやアラビア数字の 1 は、タテ一本の線集されていて、本格的な議論や体系化を意図 な彫刻刀をふるって金石に刻みつける勢いで型において立派な意味を形成している。けれした大作はこのあと順次型行されることにな つくられていた。なるほど、石川九楊の中国どもこのタテの一本は、ひとたびョコ一本のっている。その全貌を把握することは私など室 にはとてもできない相談であるが、しかし本図 コンプレックスがこういう形であらわれたの線型に置きかえるとき、たちまち数字として 書に盛られているエッセイや小文は、どれを學 かと思ったが、しかしやかてそこには異端のの意味を喪失してしまう。 噴ハか立ちのばっていることに気がついた この一と—をめぐる逆対応の関係は、いつみてもそれぞれ独自の主題を鮮明にしていて、 「歎異抄」という作品に盛られている異端のたい何をあらわしているのか、という素朴な氏の仕事の全体を展望する上で絶妙なインデ 思想が、その噴気を招き寄せていたのである。疑間だった。それは数字のレベルの話だけでツクスの役割をはたしている。

5. 文學界 2016年10月号

ンチに座ろうとすると、銃の柄で床に突き飛ばされた。僕た ちは床で、べンチは警官が座るところらしい そのトラックにはどのくらい乗っていたのだろう。僕は完 全に恐怖で時間の感覚がなくなっていた。警官たちはずっと 銃口をこちらに向けて監視していた。誰も口を開くものはい なかった。 トラックから降ろされてたどり着いたのは、、、 ( 力にも田舎 の警察署といった古ばけた建物だった。僕たちはそれぞれ留 置場の違う房に入れられた。ロ裏を合わせられないようにだ ろ , フ。僕の入ったところにはこそ泥かホ 1 ムレスのよ - フなョ レョレの服を着たメキシコ人の男が一人うずくまっていた 僕が入っていっても顔を膝に埋めたまま動かない。部屋の奥 の壁は水が少し流れていて、下は排水溝につながっているよ うだった。そこで用を足せということだろう。部屋は糞尿の 匂いが充満していて気持ち悪かった。 これからどうなるんだろう。言葉の通じないメキシコの片 田舎のプタ箱に入れられて。心を恐怖が埋め尽くしていった。 そもそもなぜ逮捕されたのかすらわかっていないのだ。警官 達が怒鳴っていた言葉は何一つ理解できなかったし、トラッ クの中ではとても質問なんか出来るような空気じゃなかった。 留置場に着いたら問答無用で檻の中に入れられて放っておか れているのだ。 一番考えられるのはマリファナだ。採血されて検査されれ ば有罪は確定だろう。大麻の現行犯はメキシコではどれぐら いの罪になるのだろう。日本では恐らく執行猶予が付くが、 アジアの厳しい国では薬物は無期懲役になることもあると聞 いたことがある。メキシコの法律なんて全くわからないし、 弁護士を雇うことになったら相当な金額が必要だろう。貧乏 旅行をしている僕には到底そんな金が用意できるとは思えな 激しい後悔の気持ちが胸を締め付けた。そして家族に申し = 一ない気持ちでいつま、こよっこ。 ( ( ( オナこのことか日本に知れナ ら親戚一同に大変な迷惑をかけることになるに違いない一 門から犯罪者を出したということでうちの家は世間から白い 目で見られるだろうし、父や祖父は責任を取って謹慎処分に なるかもしれない。 もちろん僕は釈放された後、舞台に戻る ことはできないだろう。いや、そもそも日本に帰ることが出 来るのだろうか ぐるぐると恐布と後悔が頭を回って真っ直ぐに考えられな エミリはどうしているだろう。宿の人から僕達が連れて 行かれたことは聞いているたろう。助けに来てくれるだろう か、い配してくれているたろうかエミリに ムム . いた、力 そのまま眠ることもできず時間が過ぎていった。途中で牢 屋の鉄格子が開き、同じ部屋の男が保釈された。男は顔を俯 けたまま弱々しい足取りで警官に連れられていった。きっと上 僕もここを出る時は同じように俯いてふらふらと出て行くこ とになるのだろうと田 5 った。次第に部屋が白み始めた。部屋 に ( 時言なんて無いので時間はわからなかったが夜が明けだ 、 0

6. 文學界 2016年10月号

許さない し J 」い - っ . 至左別 先日、相模原で大量殺人事件があったでしよう ( 七月一一 十六日、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で元職員が入所者 十九人を刺殺した事件 ) 。犯人は、障害者を「安楽死」させ ることが日本のため、また障害者のためにもなると考えて 高澤「不適格者ー「安楽死」「慈悲死」。これらが『狩りの 時代』の重要なキ 1 ワ 1 ドですね。 柄谷「狩る」とは、「不適格者」を「狩る」という意味で す。津島さんは、この遺作に手を入れている最中に癌で亡く なったので、この事件を知るわけがないけれども、僕は、た またまあの事件が起こった日にこの小説を読んでいたものだ から、事件がすでに予告されていたような気がしました。そ して、今はまさに「狩りの時代」なのだと思った。 ・作家の出自と運命 ・ユ 1 ゲント 柄谷この作品では、一九三八年のヒトラー ( ナチス党内の青少年団体 ) の来日が物語の背景にあります。 相模原の事件の犯人もまた、ヒトラーの思想に感化されたと 言っている。ついこの前読んだばかりだろうけれども。とに カ′、ヒト一フーのよ , フに、 「不適格者」を抹殺することは民族 にとって、国家にとって良いことだ、と言っているしかも、 ネットでは彼の行動や考えを歓迎する声も多いと聞いていま す。 高澤ナチス・ドイツがそれにもとづき、「不適格」とさ れた精神病者や身体障害者に対し強制的断種や安楽死を行っ 、「優生学」思想ですね。 「狩りの時代』には、絵美子のおじゃおばが、来日したヒト ・ユ 1 ゲントを甲府駅に見に行く場面が一つの山場とし て描かれている。山梨県甲府は津島さんの小説の舞台でよく 使われますが、それは母方のル 1 ツが甲府だからですね。津 島さんの評伝を書こうとする方は、ぜひ母方の系譜を調べる それで、お母さんの弟で、敗戦直後だと思いますが、 日本を捨ててアメリカに渡り帰ってこなかった学者がいるの です。津島佑子は一九七〇年代の後半に母親と一緒にアメリ 力へ行き、その叔父さんの家族と会っている。叔父さんの娘、 つまり津島さんの従妹は、アメリカ生まれなので日本語がで きない。 津島さんにはそういう従妹がいて、確かフランスで も交流しているはずです。とにかく、 作品中に甲府が出てき たら、要注意です。「富士には、月見草がよく似合う」 ( 「富 嶽百景」 ) どころではなくなりますから。 柄谷この小説中で、アメリカに渡った伯父さんは核物理 学者なんですね。いわば、日本に原発を作ったような人物な のです。 高澤『火の山山猿記』 ( 九八 ) の時点では地質学者でし 戦時期の言葉の記憶をたどり直す『狩りの時代』の中に ヘイトスビーチは先取りされているんですね。それが「『不 適格者』には『慈悲死』、あるいは『安楽死』を」というメ

7. 文學界 2016年10月号

関して答えに窮するということがない。気迫に満ち、該博な 知識の宝庫のように見えるが、距離をとってその人物を観察 すると、学者というよりも威勢と迫力で相手を呑む壮士でし かないように田 5 えてきた。水府の学が、なにもかも一緒く に煮た闇鍋ではないかと疑いを持ってしまって、聴講をやめ さ土玉ざ土もな 人民が求めているものは主従の確立ではない。 ききんえきれい 飢饉疫癘からどうやって我が身を守るか。どうやって幸福を 築くか。それに尽きるはずだ。この国の権力の正統な証しに ついての歴史などどうでもいいのた この国のありとあらゆる分野における学問の成り立ちの歴 史を精査するためには、現存する文献をしらみつぶしに探さ なくてはならない。その役を仰せつけられた多くの藩士は全 国を旅して調べることになる。「大日本史ーの完成にはあと 十年はかかるとい , フ この費用がいかに膨大なものであるかは、少し想像してみ ればわかる。これが途中五十年くらいの中断を挟んでつづけ られてきたのだ。 それはなぜか。水戸徳川家はみずからの系譜のなかに朝廷 との深いつながりをみつけたからだという人がある。新田氏 し J . い一フ につながる系譜だというか真偽のほどはわからない。 にし、しん ことは、徳川将軍家の御三家であることよりも天皇の直臣の 血筋としての水戸家に重きを置いたのだ。徳川御三家のひと っとしての恩恵を受けながら、朝廷が主、幕府が従の立場に 立ったことになる。尊王論に正統性を持たせる以外にあるま 水戸藩に自己矛盾が始まったことになるが、同時に京都 の公家たちとのつながりを深めていった。 たが、まかいものかも知れない系譜図を頭から信じるほど 歴代の藩主も馬鹿ではなかろう。そこで、「大日本史」はそ の系譜の正統性を証明して、水戸徳川家こそが血統において 天皇の直臣なのだから、全国三百藩の筆頭に輝くものである と知らしめるという方向へとねじ曲がっていった。 そうなると、この国の正統な権力は天皇にあり、幕府は政 事をお預かりしてそれを遂行する行政者であることを明らか にしなければならなくなった。南朝支持もそのためだ。 さすがに幕府は見過ごしていられなくなり、藩主交代を命 なりあき じて水戸の徳川斉昭を隠居蟄居させた。しかし、同年弘化元 年の内に蟄居は解かれた。そのあたりの事情は俺にはわから 尊王という思想が水戸の学問の基本とならざるを得なかっ たのは、ひとえに「大日本史」編纂の過程での不測の事態だ ったといっても、 しいかもしれないし、初めからそのために編 纂が企図されたのだといっても過言ではないかもしれない。 たちはらすいけん 近年、水戸藩には立原翠軒が出て、我が国における権力の 正統をただしたが、その弟子の藤田幽谷はさらに過激な尊王 主義と異国排斥を理論として水府の学に組み入れた。幽谷の あいざわせいしさい 弟子会沢正志斎の、尊王攘夷を理論体系として著わした「新 論」はとりわけ西国の若い武士たちに熱烈に読まれている とたほうけんとよだてんこう 他にも、水戸には戸田蓬軒、豊田天功がいる。 幽谷の子息の東湖は、古事記や日本書紀などの神話を依拠 2 ) 2

8. 文學界 2016年10月号

は天皇への尊崇と直結する。国学の徒が尊王を大義とするの は必然だ さて、ここで水戸の「水府の学」について触れておかねば ならない 当今、学問に熱心な若い武士たちは、まるで競い合うよう に水府の学を学んでいる。 みつくに これは水戸の一一代藩主徳川光圀公が興した「大日本史」編 纂の過程で生まれざるを得なかった学問だ。 諸説あるが、光圀公は司馬遷の「史記」を超える史書を著 わそうとして「大日本史ーの編纂という大事業を開始した。 光圀公死後もつづけられて、いまもつづいている。まだ完成 していない。 これに費やされた費用で水戸藩の財政は困窮したというが、 俺は水戸藩校の弘道館に行ったとき、この国にはなにか誤魔 化しがあると感じた。水戸藩は徳川の御三家のひとつだが、 かっては紀州徳川家、尾州徳川家と比べるとはるかに家格は 低く一一十五万石だった。俺が江戸の昌平黌で知り合った水戸 藩士たちの多くは自藩の恥を語りたがらないが、藩の実力と 表向きの石高に大きな乖離があることは知っているようだ。 水戸藩に詳しい商人たち、主に江戸の米問屋たちに言わせ ると、かって検地に巧妙な虚偽が行なわれたという。光圀公 の時代だという人もいるし、それよりも後代の藩主のときだ と一一一口 , フ頃もいる いずれにしても、検地による田地の面積が実際とは大きく 異なっているのは間違いがない。田地を実際よりも大きく届 け出て、三十五万石を許されたが、じつは二十数万石の実力 しかないのだという。凶作で十万石にも満たない年もあるは ずだ なぜそんなことをしたのか。要するに検地をやり直させた 藩主の見栄と自尊心なのだ。紀州家や尾州家よりも家格が低 いことに我ならなかったのた 大名は石高によって守るべき格式が異なるので、なにもか もが三十五万石に見合ったものでなければならない。江戸屋 敷の広さや建物の造り、行列の人数、藩用の贈答品、殿様や 正室や側室や若様や姫君の着る物、持ち物 : : : 。それらは三 十五万石にふさわしくなければならない。 御三家のなかでは水戸藩主だけが参勤交代をせずに江戸定 府だ。将軍の目付役という役を賜っているからだ。藩主が国 許ではなく江戸で生活をつづけるほうが金がかかる。これだ けでも実力一一十五万石では賄い切れない。 そのうえ、藩是としての「大日本史」の編纂がある。これ は神武天皇の世から南北朝の世までの歴史を明らかにして、 この国の真の主を示すというものだ。水戸は南朝こそが正 統であるとする楠木正成、正行を称える。 全国から優れた学者たちを水戸に招聘する費用は莫大だ 史学、算術学、歴学、兵学、神学、朱子学、陽明学、国学、 天文学、測量学、文学 : ・ 俺も御多分に漏れず、水府の学に惹かれて、藤田東湖の江 戸の塾で聴講した。だが、そのうち藤田東湖そのものにいん ちき臭さを感じるようになった。打てば響く舌鋒で、質問に 2 潮音

9. 文學界 2016年10月号

それを今やっても、僕にも腕がない。 ろもあるし。小屋に何がはまるかとい の生演奏が入りましたね。 うのはあるんです。 では、古典に至る状況を今作りつ 勘十郎あれもいろいろ試したんで 今後、日本舞踊家としての活動 すよ。初演からどんな音かいいかと考 勘十郎この間、僕が明治座とかで えて。新橋演舞場で初演して、名古屋 勘十郎日本舞踊は私は面白いと思新作をやってる時に見たお客さまが、 でやって、博多でやって、大阪でやっ 祖父の踊りを見たり、僕の大好き大阪まで見に来て下さった。そのとき て、満を持して歌舞伎座に持ってきた の曲というのが、父親の梅若玄祥と舞 な井上愛子 ( 四世井上八千代 ) 先生を んですけど、まあ歌舞伎座にはまらな った『時雨西行』というめちやめちゃ かったんです。 見たりして「ああ、すごいな」と思っ た。でも、どうも今の日本舞踊は、習難しい曲で、手も足も出なかった。た それは面白いですね。つまり、歌 だ、そのお客さまが一一一一口 , フには、それか い事の延長線上で留まっている部分が 舞伎座という小屋と合わない 今までで一番良かったと ( 笑 ) 。「こう ある。僕もよく弟子には言うのですけ 勘十郎合わない。 と言われた い - フものをもっと見たい れども、人様にものを見せるというこ 演舞場でも名古屋でも大丈夫なの し」カい」 , フ . - い , っ↓」し」 + ばの一、刀し」、い - フ、」し」を」 んですよ。その方が僕を見るきっかけ 、歌舞伎座は雰囲気がちがうんです 海は、正直言うと ( 袴歌舞伎として新演 ね。 もう一回見直さなければいけよい。 出した ) 『四谷怪談』や『乳房榎』な 勘十郎全然違う。これは歌舞伎座老蔵さんにしても ( 市川 ) 猿之助さん んで亠 9 よ。そ - フい - フことが ~ のるか、ら、 にしても、僕と大して年も変わらない で演出をさせていただく時の一番の難 方たちが、やつばりすごいパワ 1 を放僕は新作と古典を両輪でやり続けよう 点なんですよ と思うんですよね。そしていずれは 出する。お客さんもそれをバ 1 ンと受 観客としても小屋ごとの「場の 力」の違いは感じます。歌舞伎座は磁 けて、オオッと思う。その光景を一番「古典」となる「新作、を作るのが目 縮 後ろで僕は見ているので、やつばり日標です。 場が強い。そのぶん反発もありそう。 圧 っ ( 八月九日収録 ) 本舞踊家もこういう舞台をやらなけれ 勘十郎どうやって歌舞伎座の中に の ばならないということをずっと田 5 って 収めて、きちっと成立させるようなも 踊 ニ世藤間勘祖一一十七回忌追善宗家藤間 いるんです。それは最終的には「古 のを作るかっていうのって、結構これ 流「藤間会」が、九月ニ十六日・ニ十七 はね。劇場というのは神が居ますから典」だと思っています。『道成寺』な 日に歌舞伎座にて開催されます。 『鏡獅子』なり『鷺娘』なり。ただ、 ね。劇場の神かどう見るかというとこ

10. 文學界 2016年10月号

第十九章信じることと知ること 生活』 ( 三 ) 単著として『ドストエフスキイの生活』が刊行されたころ のことだった。偶然に小林は、哲学者の吉満義彦 ( 一九〇四 5 一九四五 ) と同じバスに乗り合わせる。年齢は小林が上だ が二人は、東大で同級だった。今日ではもう、吉満義彦の名 前を知る人も少ないかもしれない。彼自身は哲学者、それも 近代日本を代表するキリスト教思想家のひとりである。 吉満の血脈を継ぐ人物は、同じカトリックであり、トマ ス・アクイナス研究で知られる稲垣良典や政治哲学者の半澤 孝麿を別にすれば、現代日本の思想界にほとんどいない。彼 の思想に今日性がなかったのではない。吉満が、今日のよう 美しい花小林秀雄 『ドストエフスキイの 連載第ニ十回 な専門化された狭義の哲学に意味を認めていなかったからで ある 現代の哲学者は、世界を哲学的に見ようとしているよりも、 哲学という学説のなかに収まるものを「世界」として論じよ うとしているようにさえ映る。吉満は真逆の道を進んだ。 その遺産を継承したのは文学者たちだった。自身も吉満か ら影響を受けた加藤周一が吉満を「詩人哲学者ーと呼んだが 的を射ている。加藤と同世代の中村真一郎も吉満とのキリス ト教哲学をめぐる浅からぬ交流を語る言葉を残している。遠 藤周作が、終生変わることなく師と呼んだのは吉満である。 一九二八年、吉満は、二四歳になる年にフランスへ留学し、 当時、フランス思想界に大きな影響力をもったジャック・マ リタンのもとで学んでいる。彼はマリタンの住まいの隣で暮 らしマリタンの周辺にいた時代をけん引した哲学者、文学者、 若松英輔 262