十キロの馬はその太ぶととした腹で人間にのしかかったのだ。 グジュッと掌が肌の奥へ沈む。慌てて手を引っ込め、眼鏡 「アア、ア、アア を外すとマウの鹿毛をした胴体に深く窪んだ傷があった。触 った手にはまだ温かい血潮が。素人目にも傷は深く、致命傷 「グフウ、フフフ、フーツ フードが脱げ、二センチ大の半球状に陥没した前頭部へ髪 になりかわない。先ほどの瓦礫の嵐のせいだろう、馬を抉っ をめり込ませた透は両手を掲げて馬の腹から胸だけ出した格 た痕は、分厚い脂肪、筋肉を抜け臓器に達していたのだ 好、いわば布団を脱ぎ出た子供のようだ。その上半身を挟む 「おい、早う降ろう」 馬の前後脚が人間の頭を蹴るようにばたついている。頭を左 透はマウの鼻面へ向かい言った。痛みが伝わっていないの か馬は苦しむというでなく歯を剥き出しにした。怒っている 右に揺らして蹄を避けた彼は左手に握りしめた刃物を持ち直 し、ロを引き締め、両手で祈る形で握る。雨粒がボタボタ音 のか、笑っているのか。彼は鼻梁を撫で「帰ろうで」と頼ん だ。その時、マウは首を持ち上げ、顎で彼の脳天を打ち据え を連打させて馬の腹を鳴らす。 透はどす黒く渦巻く雲を見据える。水源池方向へ上空の雨 黄色い雨具を付けた透は苦もなく頭から地面へ倒れ、水飛 粒は飛び、風の抵抗を受けない大型の雨は彼の歪みきった顔 へ目がけて集団で落下してくる 沫が飛ぶ。その後、鹿毛の馬の足元に伸びた人間は、坂を流 「頼むけん、どいてくれんや」 カ馬が頭を下げ、 れる水に背中を蹂躙されるがままだった。、、、、 迷いの震えもなく、濡れた短い刃は、馬の起伏を繰り返す 倒れた動物の臭いでも嗅ごうと素振りを見せるや、人間は身 テラテラした腹しか行き場がないように見えた。しばらく眼 体を起こし、もう一度鼻梁を両手で撫で「坂を降らねばさ」 を閉じた彼は「あー」と叫び、頭を振って持ったナイフを放 と懇願した。馬は頭を仰け反らせ、前足で人間を潰そうと構 、んる り出した。馬が両脚を同時に痙攣的に浮かせ、鋭く啼く。深 傷が今になって達してきているのだろうかそれよりも重み 「バカタレ、そん胴の傷は俺のせいじゃなかぞ ! 」 マウは前の両蹄を石畳に沈める。が、激流に変わっている だ。彼の腹部は内臓はおろか腰骨まで押し潰されそうだ。 をするたびに馬体重によって、肉体が平たくなっていく。そ 側溝の縁へ彼は転げ避け、左手に持ち出したナイフを馬の踝、 れに傷口から流れる馬の温かい血液が彼の全身を濡らし続け 腱へ向ける。 な ! 傷つけとうなかか、お ている。水源池から流れる水と混ざった血は粘っき、彼の顔 「仲間やぞ、落ち着かんかー を覆う。眼をまともに開けられない。切れ切れに呼吸する彼 前が俺を」 の鼻腔へ鉄臭さが充満した。力を失いつつあるのか、馬が体 馬は短くいなないて、透の脇へ一一歩進んだ後、どうと倒れ 重をかけてきた。透は顎が外れるほど口を開け、頭を振り乱 る。彼は坂を叩きつける雨に負けない悲鳴をあげた。六百五 坂に馬
「早う、馬ば退かしてくれえ、頼むけえん」 びゅうびゅう鳴く風、降りしきる雨音、地鳴りや足下を転 圭介はマウの胴体から赤黒い血液が透の上半身を通して流 がっていく岩音で彼の嗄れ声はかき消されてしまう。踝をす れ出ているのを発見し、商売の相方の死を受け入れる。まる くおうとする流れに逆らいながら、じりじりマウへ近づいた で透がマウの腹を射貫いたかのような格好で血を流す馬を一 眉から滴る雨を右肘で拭い、顔を横へ突き出し馬の様子を オしカ呼歩、身を引いて眺めると、彼は金槌の柄をぐいっと握りしめ 窺った。半身で横たわるマウには目立った傷はよ、。、、。、 る。瀕死の馬と人間を比べれば助けるべきは一つだと理解し 吸は浅く、字宙の底があるとすれば、それだと圭介が指すで ている。こんな天気で助けを呼びに行く薄ら馬鹿だが、俺や あろう瞳の深い輝きは失せ、赤い毛細血管が白目に亀裂を映 馬を助けようとしたのだ。迷いはよい。 じさせていた。そしてマウの腹に敷かれた透の上半身が見え ( そうやった思い出したぞ : : : あの集中豪雨の金曜日、馬は ポロポロの黄色い雨合羽。そして傍目にも目立っ頭の陥 土石流で流されて ) 没。激しい雨水の流れで彼の身体が左へくの字に折れそうだ。 無感覚の深手を負った脚を踏み出すと、マウは急に前脚と 「あんた ! 」 後脚を駆けるように動かした。頭をすくめる透の真上で蹄と 顎を突き出して圭介は下敷きになった透へ呼びかける。死 蹄が打ち鳴らし合う。 んでいるのか、気を失っているのか。圭介は少年時代の記憶 ( 翌朝、ねっとりした泥と石の間からうちの馬ーあの小柄 を探った。なんと小学生ん時、呼んでおったか。水害で難を な、流星が白くて可愛げがあった対州馬ーが頭を出しとっ 逃れた透の一家を鳴滝集落の皆は遠ざけた。ああ、こいつに 泣くような顔もせず、ただばうっとして周りに集まった ゃなんの愛称もなかったな。 町内の連中を眺めとったとやった ) 「坂崎 ! 」 「あああ、殺さるう、あああー 三度目の呼びかけに透は眼を瞬かせ、頭だけを浮かせて声 圭介は表情のない馬の眼を見た。 の主を探そうと緩慢に揺らしている。 ( この眼たい石塊のごたる何の感情もなか黒黒したもんさ。 「坂崎 ! 逃げんば鉄砲水ん来る ! 」 親父は土砂に埋もれて頭だけ出した馬ば見るに見かねて足元 透は圭介を認め、ロの端の力を失した笑顔を見せる。眼に にあったデカいプロックで叩き殺した ) は多幸症じみた喜悦が宿り、両腕を頭上に振り回し、馬をど いかん、こん馬、人間ば道連れに殺してしまうつもりやろ。 けろと身振りで示していた 下敷きにした人間も、助けに手間取る俺も、あの世に連れて 「何ばしに来た」透が掠れ声で訊く 行くとやろ。何を恨んでおったのか。昔の馬同士、種族同士 「お前んごと馬鹿なことたい」 102
す。 間断なく降り注ぐ水滴に眼を眇める馬は、太首をあげて傷 つけられた胴体を見る。胴に挟まったまま、身を乗り出した 透を黒い瞳に捉える。血で顔を汚した彼は苦しげに両の腕を ハタバタさせている 無駄に動けばカ尽きてしまうだけたい。彼は両腕を馬と己 の身体の間に差し入れてみる。 両手をマウの傷口近くに沈めて持ち上げてみる。だが手首 が折れそうに重い。不意に手前のぬるぬるした物体を擱んだ グリースを塗ったゴムホ 1 スかと疑った。違う、こいは内臓 やろう。馬の肉体から流れ出た脂が腕にぬらぬらとまとわり つく。これでは隙間を作れるほど持ち上げるのは無理だ。彼 は上身を起こし馬の腹へ密着させる。馬に取り付いて、胴を 登るようにすれば脱出できるのではないか。必死に左の胴体 に取り付く人間を不央に思った馬は胴体を上下させて人間の 動きを止めようと試みる 「バカ、殺す気か。やめんか」 何度も身体を圧迫される透は歯をくいしばる。右手は拍動 する胴体を掻き毟る。腹へ顎を乗せた彼は抵抗する馬の動き に対して何も出来ず、片眼を瞑り、食いしばった歯の隙間か らを吐くた ( ナ 「俺は何もせんから」 彼が足掻くのをやめると馬も圧迫を終わりにした。マウは 右側頭部を冷たい石畳に浸す。深傷から溢れ出る血液が水流 に混ざって馬の顔を洗う。尻からは糞と尿が漏れ、内臓の臭 いと混じる。透は悪臭に顔をしかめた つむ 俺は何ばしとるとやろう ? 透は両腕でもう一度、伸し掛る馬を押し返そうとするが諦亜 める。耐え難いほど重い。下敷きにされた鳩尾から下にかか る重量が増していた。マウの顔を見るため身を流れに浸し、 出来る限り半身を捩る。馬は眼をカッと開け、ロを開いて 弱々しく喘いでいた。涙が出る。返り血なのか、自分のもの か鉄臭いそれが混じり眼が痛む。急に笑いがこみ上げる。 面白い。昨夜は追いかけてきた便利な女を妻には決してや らない手荒な行為で抱いたのだった。女の名前・ : ・ : 誰だろう、 東京から転籍してきた手近な助手がいて : : : 思い出せない ? 試みに馬の名前を口にしてみるか。笑いと涙が同時に押し寄 せる勢いは水源池からの奔流に負けない。 「ううーまあ 1 」 そうやったたい、 大丈夫だ。彼は前頭前皮質、側頭葉前部 の収東域、つまり感覚知覚の信号を発するタ 1 ミナルが壊れ ていないと安心した。こげな分析が出来るだけ頭は万全さ 両肘がネジ巻き人形のように動き、眼は激しく瞬く。腹部か ら下が押し潰されているはずなのに、だんだんと圧迫感が消 えて楽になってきた。 雨は坂の上に斃れた人馬を打ち続ける。 豪雨により側溝は氾濫し、坂そのものが一本のウォ 1 ター スライターになろうとしていた 圭介の前で色の白い女は喋った。だらだらと澱みない言葉
は時間も繋がっとるわけじゃなかろうな。自分も自然に還る となら人間もってことかそれはそうかも知れんが俺は人間 様たい。無理に連れて行かれとうはなかぞ 圭介は金槌を腰にしまうと、透の側へ転ぶように回りこむ。 飛沫が顔を洗い、胸を打つ。肩から荒縄を取る。馬は横倒し のまま駆け足を続ける。もう一度、金槌を手にした圭介は全 体重をかけ、後脚の左膝、足根骨へめがけ振り下ろす。ゴッ ッと鈍い音と共に馬がいなないた。人間の悲鳴に近かった。 続いて右足根骨を砕く。硬い手応えが肘に伝わる 「なななな、なんばしよるとや」 透は背を向けて馬の膝を砕く圭介に叫ぶ。圭介は答えず、 彼を蹴り払おうとする前脚へ金槌で応酬し、顔まで振り上げ られた左前脚の中手骨を横ざまに折る。次に鎌首を引く格好 になった右前脚の蹄の上、第一指骨を叩 ガクッと脚が下 がったのを見計らい、手根骨へ一発見舞う。脚が流れにバシ ャッと落ちるとダメ押しに手際よく前と後ろの脚の手根骨を 徹底的に潰した。泣き喚く馬の声に表情一つ変えない圭介は 頭から落ちる雨露をぶるぶる震える左手で拭うだけだ。 「いたそうやっか、やめてやれさあ」 いつの間にか身体を伸ばした透の腕が中腰で作業をする圭 介の脚に取り付いている。 「馬鹿たれ、お前は人間やろ、馬は馬やろが ! 」 「おまえたち、ふうふのごと、なかようしとったやっか」 間延びした透の声が圭介の癇を刺激し、こめかみが拍動す る。すがる腕へ彼は金槌を振るった。透はただ「ああいたか あ」と泣いて腕をほどいた。確実に上腕骨が折れていた。ち らっと馬の歯型が残っているのを見、圭介はマウが嵐で自失 したのだと考える。 「坂崎 ! 馬を始末せんと共倒れたい。助けてやるけん、堪 えろ」 助かるかどうかは自身考えてはいない。確実に鉄砲水は来 る。彼は荒縄で前脚左右の第一指骨を結わえ、身を翻して後 脚左右の足根骨を括りつける。残った縄で前後の脚を輪にす べく巻きつけた。 「しんだね ? しんだとね ? そいやったらどかしてくいろ、 あはは、たまらんとさ」 「黙らんか。お前の女もやがロ数の多かぞ」 透は飛び出しかけた眼をごろごろと動かした。 「黙っとれ。よかか ! 」 火照った身体から雨より粘っく汗が流れ、ロが乾いた。も う暴れられん。馬を殺らんばいかん。彼は金槌を頭上に差し 上げ、足を引きずり馬の頭部へ近づいていった。 椎ノ木坂水源池の八つの貯水槽は水位を保っため、危険域 である縁から五十センチのところまで増水した場合、三つの サイロ型調整用タンクに吸い上げられる仕組みになっていた 雨の量が急激に増えたため、破壊的になってはいないものの 貯水槽から漏れ出る水は防げなかった。だが、毎分十トンが 湧き出る地下水と貯水、降水が重なり、高さ十五メートルの サイロ・タンクの橋脚部が重さに耐え切れず倒壊した。次に 103 坂に馬
の表皮から血が湧いていた。助けようとした馬に噛まれるこ とが意外で、人間相手ならば許せないほどに理解しがたい。 いくらパニックに陥ったとはいえ、マウは自分を噛み殺す勢 いだった。その馬はなんとか立ち上がろうと腰を捻り、後脚 をハの字に構え、膝を立てるべく臀部の筋肉を怒張させてい る。左の前脚を馬頭からのぞかせている。蹄に飛沫が当たる あと少しで立ち上がれる。透もカんだ。カんだついでに立ち 上がり、噛まれた右腕を左手でかばい歩み寄った。水源池か らの水流にスニーカーを埋めながら、股を左右に揺すり、聞 きなれないベルシュロンとの雑種と圭介に聞かされた馬のハ ート形をした尻を目指す。 「グフウ」 マウは左脚を支えにして頭を持ち上げた。黒眼に透の上半 身が映っている。彼は手を貸そうと自由の利く左腕を伸ばし かけたが、相手は巨体であり、自分が馬の顎の下に垂れた手 綱を引いてやったからといって助けになるかというと無理な のではないかと躊躇してまごっくたけたた 「頑張れ、おい ! 」 仕方がないのでツンと立った左耳へ声をかけた。もう一度、 「こら立てるってばさーと大声を張り上げてみた。ハの字の 後脚は筋を傷めているのか、震えていてやっと立てるという 体勢だ。彼は馬の顔を真正面に見据える位置へ移る。マウの 鬣は平たい頭から垂れ下がり、両眼のぎりぎりのところで揃 って終わっている。おかつば頭の子供のようだ。秀でた前頭 骨は雨だれにひっきりなしに洗われ、黒い瞳を覆う睫毛をし よばっかせていた。そこから悠々と伸びた鼻の下が寒さか、 立とうとする努力のせいか震えていた。左右へ気遣うために 離れた眼、頭からロまで続く鼻梁。意志的ではあるが馬の顔 というのはさほど魚と変わらないと思う。その時、すうっと マウが立ち上がった。腰が見えないカで吸い上げられたよう 急に自分の眼の高さまで顔を寄せたマウが笑ったように見 えた。自力で立てたのが、たまらなく嬉しいと言う風に映っ た。透は馬の胴体に掛けられた帯を確かめるため、左へ回り、 膝をついて腹帯をまず見た 自分は圭介のような馬子ではない。金具で留められた継ぎ 目が緩んでいるのか、これでいいのか判断がっかないことに 気がつく。 「ああもうな、俺にやわからんたい。お前が魚ならな」 馬は風雨を眺めている。 透は左腕を尻ポケットへ引っ込め、すぐさまナイフを取り 出し、馬の腹へ突き立てたい欲望に駆られた。なぜそう思う のかはわからない寂しくなったのだろうか。刃は何重にも ある肉を貫くだろう。その鈍い手応えはかってなく心を波立 たせるはずだ。激しい雨のせいで眼鏡のレンズが曇り、暗い 欲望も終わりを告げた。坂を降らねばならない。後左脚がカ ツッと音を立てると、慌てて透が身を引く。立ち上がり弧を 描いて振られる尾を横目に収め、右へ回る。雨粒の分厚い幕 が次々と落ちてきた。濡れた肉体が凍える。視界がさらに不 鮮明になり透は心のどこかが断ち切られた気がした。彼はマ ウの右胴へ右手を伸ばす。
地下水道の岩盤が崩落し、地下水は貯水槽を突き上げ、槽を された巨人の手が彼らを捕まえる。 覆うコンクリートの壁を破った。 圭介とマウは押し寄せた流れの上に浮き上がった。透の姿 丘を駆け下る水は放射状に麓へ向かい広がってゆく。 か見えなかった。木っ端のように渦に引き寄せられながら、 圭介は灰色の世界が激しく回転するのを眼を見開いて眺めた。 圧搾空気で押し出されるポルトは直径五センチあり、鋼鉄 渦巻く爛れた膿色の雲と流れに突き出しては消える墓石、卒 製で馬の頭蓋骨へ軽く穴をうがち、脳死に至らしめる。圭介塔婆、折れた樹木。そして至近距離で浮かぶ馬体。 はその避けられない家畜に対する殺害を夢見続けていた。忌 「マウ ! 」 まわしい避けられない不自然な死として。出来れば我が手で 自分の牝馬の腹からロープが見えている。彼は一緒に流れ 殺めるべきだと思っていたが、振り上げた金槌は雨に濡れる ようと両腕を伸ばしてロープを握りしめた。生温かくぬるぬ ばかりで、一向にマウの側頭部へ打ち下ろされることはなか るしたロ 1 プはズルズルと馬の腹から繰り出てくる。手繰り つ、、 0 よせようとするがきりがない。やがてロープは彼の身体に巻 地鳴りとは違う、樹木を裂く音と空震が圭介と透、マウを きっき、動きの自由を奪ってしまった。彼の眼前を透の身体 突き抜けていった。 が瓦礫と共に矢のように過ぎ去った。 「はよう。ころしてさ ! 」透の叫びだった。 瞬間、馬の頭が坂の麓近くに屹立する椎の巨樹に激突した。 も - フ遅か 顔を上げた圭介は青々と葉を茂らせる神木の樹皮についた汚 圭介は右手に金槌を握りしめ、左膝と手で馬の横顔を押し れのようなモノを認めた。嵐の前後に現れる蠅やろうか ながら悟っていた。生き残ったとして代えの馬を大金で購い それは透だった。 義弟と妹に気を遣い、別れて会うことも禁止された妻子に金 木に大の字になって取り付いた透の呆けた両眼が砕けたマ だけを送る生活に戻るのは耐え難かった。 ウの馬頭と溺れゆく圭介を見送る。 「すまんかったな、もう手遅ればい」 水没する馬と共に圭介は遠のく意識の中、絡まったロープ 肩越しに振り返り、頭の一部が窪んだ魚類学者に言う。勝手 が馬の傷口から出た空腸であることにやっと気がついた に旧友だと思い込んでいる男は弛緩しきった笑顔を浮かべる。 水源池からの巨大な奔流は、川を暗渠化した国道を元の流 「あんたの女もたぶん駄目やろう。まあ、俺には良かったか れに戻していた。降りしきる雨と濁流は、海霧により乳白色 も知れん」 に染められた世界を割り拡げながら、海へ海へと急いでいた。 稲妻が走った。圭介は他に言うことがなかった。水で組成 〈了〉
丘の頂上へ向いた左から右から叩いてくる雨を受け、こだ 魚類学者である彼は数度の河川標本の旅で小川であっても奔 でさえ悪い視界はしぶく水滴でほば塞がれていたが、彼も確 流に変わった場合の凶暴な推力を知っていた。 あぶみ かに地の底が喉を鳴らす音を聞いた。振り返って我が家を見 透は左へ回り、鐙代わりになる荷橇に繋いでいた下腹にあ 遣ったが、 道沿いに生えた柳やサイカチは風で幹の上部を曲 る縄を確かめた。そこへ左足をかけ、耳の後ろからロ金に通 げられているため、普通ならば真新しく茸かれた赤い屋根が してある細い縄を右手で擱み、空いた手を、雨を弾いていた 見渡せる場所でも視認する試みを諦めざるをえない。 樹木が 脂っ気も流され、じゅっくりと濡れた滑らか過ぎる鬣に置く もう葉っぱも飛ばされて、まるで骨のごたる。彼は肉を剥ぎ 次いで右のつま先で蹴り、上体を馬の背に乗せると、腹縄に 取った標本魚、海をゆく細長い矢であるサヨリのしなった骨右足をかける前にドンと強く胴を蹴った。 を思い出した。 「行けっ ! 」 側道の出口はほば九十度のカープを描き、頂上からの雨水 マウも迷いはしない。 軽く前のめりになると頭を下げたま は腰の高さほどの滝に変わっている。落水を前に人馬は立ち ま滝を突っ切る。息を止めたまましがみついた透は、盾とな 尽くす。までの流れだったから、これまではまだしも進め った馬の胴越しに鉄砲のような推力が内臓を貫き、逞しい筋 ていけた。自分の腰まである流れを突っ切るのは難しい。馬 肉と厚い脂肪をたわませるのを感じた。数秒間、馬は左へ全 が横からの水圧に負ければ、中腹まで滑走してそれまでの話身を傾斜させたものの、無事に側道の角を出た。すぐ彼は鬣 である。側道を轟々と間断なく打ち据える水流は激しい。風 を引き、「どうどう」と叫んでマウを停める。馬頭の前に拓 雨に身を揺さぶられている中、足元までが震動している。馬 けた三間坂を見ると自然に安堵の息を吐く も足踏みし、躊躇しているようだ。透が呼吸するたびに空間 急勾配の割に、というよりだからであるのか三間坂の段と を舞う大小様々の水が侵入した。馬を牽くのに力を使い、不段の間隔は広かった。小柄な人間で三歩の距離をとって、約 安が促す過呼吸で、深く息を吸えば必ず咳き込んだ。これは 十二センチの高さの段差に行き着く。これが等間隔で坂の下 マウも同じで蹄を無為に踏み鳴らしながらシュワッ、グフウ にある国道まで続いている。父の急逝を受けて故郷に帰って と雨を吐き出している。 からの行き帰り、透はここを極めて人工的な道だと考えてい 「どげんもこげんも ! 」 彼は手綱を引いて馬を後退させ、十分に助走距離をとる。 ここだけじゃなか、長崎の街は山でん平地でん、切り出し まず馬の左側から取り付くか、右側からかで一瞬の間、身の た石ば敷き詰めて、城か要塞のごとしとるったい。けれど、 安全の思案をした。左ならば水圧で倒れた馬の下敷きになり と彼は馬の身体で鞭打っ風雨を避けながら思う。颱風に呑み はらわた かねない。右であれば奔流に身体をさらし、さらに危険だ。 込まれて、街ごと雨の腸ん中におるごたる、と。
落とし頭を下げて横風に身を持って行かれるのを堪えながら、 突き出しては消える。太い前脚と後脚を交互に躍らせぬかる んだ泥を跳ね上げているが、身は自由にならない。 激しく蹴り上げている後脚に注意して荷橇へ走った。そして 透は懐中電灯を合羽のポケットへ入れ、四肢を地面に這わ橇と馬をつなぐロープを切るやナイフをしまい、裸馬に乗る 勢いで腹帯を両手で抑える。それが御するに当たって正解か せて、暴れる牝馬へ「マウ、マウ、落ち着かんか」と呼びか どうかはどうでもよかった。自由を得て奔馬となり、眼下の けながら近づいていく彼の耳には自分の声は聞こえるが、 斜面へ飛び出すのを止めなくてはと思ったまでだ。 ほとんど小石が地面を浚う音や雨、風、建物の軋みに掻き消 「マウ、こらえろ、こらえろってばさ」 され、馬の耳へ人間の声が届いているかは疑わしかった。濡 幸いマウはショック状態から解放されてか、ぐるぐるとそ れてぬらぬら光る馬体の美しさは暴風雨の中でも視認出来、 の場を回転するだけだ。脂で水を弾く背中を透が撫で続けて 思い切って外へ出てよかったと彼は頭のどこかで悦んでいる。 いるとプウブウ鼻を鳴らし、四つの脚の上げ下げを緩慢にさ 透は地面へ膝をつき、そのまま鞭打っ水滴と砂礫をついて せる 馬の傍へいざり寄った。冷たい雨水がチノバンに染み渡り、 マウが落ち着いたところで、馬を敷地に入れるのは危なか 生暖かい空気の中でも怯懦を交えた寒気が走る。前後の身動 透は腹帯を我が胸に引きつけながら、暴風に圧せられ きを妨げられ、丸太のような胴体を遮二無一一動かし、左右の て直ちに倒壊せんとする家を見ながら思う。だとしたら、ど 引き締まった膝から下を捩じらせるマウを見上げる。馬は足 げんすればいし 下の人間どころではない。 食いしばった大きな歯の間から透 馬が正面を向いた。そこには飛沫を上げて丘の中腹 き通った涎と荒い息を吐く 家々の瓦が黒々とした波形に見えるまでの斜面ーーから背の 透はナイフを右手で掴むと、身を乗り出して倒れた門柱へ 高い雑草であるセイタカアワダチソウやシロザ、エノコログ 取り付く。濡れた杉、それも表皮を削った丸太の表面は滑り サが群生する石垣へ落ちる流れが出来ていた。細かくひび割 やすい。左手で巻きついた手綱の端を押さえようとしたが、 れているはずの石畳の側道が浅い奔流に変化している。そこ ずるりと抜け落ちて茶色く淀んだ瓢簟型の水溜りに落ちる へ激しい風が駆け抜け、彼の家の瓦を遠く吹き飛ばす。不規 咄嗟に右肘を突き出し、柱へ上半身を乗せ、顎をぬるぬるし 則に回転する瓦は斜面へ落ち、甲高い破砕音だけを残して姿 た表面につけて刃で綱を切った。頭を思いきり上げた馬に引 を消した。マウを生かすには降るしかなか。自分でもそれが っ張られた綱の一部がシュッと彼の左頬を掠める。ひりひり 最善かどうか判断はつかなかったが、透は中途で切れた手綱 する痛みによって、縄が傷つけたことを知る。同時に眼前へ を取った。握った瞬間、素手であることを後悔した。切り捨 落ちてきた前脚の蹄が泥を跳ね上げ、彼の視界をふさぐ。 ててしまったせいで、なめし革の把手はない。歪な棘が一面 口に砂利を含んだまま、透は馬の足元をくぐり抜け、腰を
女がまたやってきた。うんざりしながら、布団も敷かれて よいべッドに今度は圭介が腰かける。 「東京者ね ? 」 「そうよ」 「颱風はここらの土地じゃ居座ることも戻ってくることもあ る。東京の人間は知らんやろうが」 「そうなんだ。ゲリラ豪雨ってすつごい雨降るんだよ、東京 は。大工さん知ってる ? 」 「大工じゃなか。俺はここに建材ば運ぶ馬、あれを飼っと る」 「あの人も方言の時は早ロだけど、大工さんも早ロで半分く らいっきやわかんないな 1 」 戸口の両側へ手を触れ、立ったまま女はカ 1 テンの向こう に見えるだろう豪雨を探ろうとしている。 「聞いとるとか ? 」 「早ロの他に、九州の人って、と、とか、ばってん、とか言 うよね。ウケる」 女は一人勝手に九州出身のタレントがバラエティ番組で話 す内容をひとしきり語ると頭を下げてクスクス笑う。細っこ い肩が微妙に揺れていた。 「颱風が居座るんだったらさ、そろそろ助けを呼ばないと」 顔を上げた女は真顔で言う。 「電話も電気も通じんとやけん、坂崎さんの帰りを待っしか なかよ」 「大工さんのお馬さんは ? 凄く血が出てるよ」 こちらが何か答えたそばから別の話をする。その癖、自分 が見るに堪えないのか怪我を心配する言葉を口にする。押し 奮 ( カましい標準語で、ご。 「馬 ? ああ坂崎さんが連れて行ったとやろう。マウの音が 何もせんから」 女は細い眼を見開いて「マウ ? ーと訊き返す。これは質問 じゃなかやろう、また面白がっての独り言たい。 「お馬さんの名前 ? まさかウマの逆をそのまんまにしたん じゃないよね ? 」 「何が悪かとか ? 「かわいそう。いちおう、仕事とはいえ飼ってるんでしょ ? 彼は膝と腿を掌で触りながら答えた。人間と馬は違う。馬 は使役されるために自分のところへ来て、名前なんか関係が よい。可愛いとかなんとかいう感情で付き合っていたら、重 い荷物を任せていられない。脚を折ればすぐに処分するし、 下手な名前などっけたら、食べられないだろうと。 「食べるって ? 食べるって言ったの ? 」 女が驚く顔が下らなく面白かった。 「処分したら食肉に回す場合がある。いかつい荷を引く駄馬 は不味いんで燃やしてしまうとやが、親父も俺も殺したら食 「何のためよ ? 身を乗り出しての、この質問は面白味もなく下らないだけ 「成仏するやろう」 「ウッソ、イヤー ! 」
彼が有明海で捕獲し飼育していた貝は蠅の食餌にならず無 事だった。唸る蠅どもはべージュ色の肉が発する匂いに惹か れてきたのだろう。網戸を叩くとプワンと窓を埋め尽くした 蠅たちが飛び立った。砂に身を隠し、巣穴へ塩をかけるとび ゆっと出水管を出すあげまきは絶滅危惧種である。七日前、 水族館の職員とサンプル捕獲した際の一個体を自宅で飼育し ていたのだが、今朝早く死んでいたのだった。円柱状の貝殻 からグデンと伸びに伸びた本体はくたびれ果てたペニスを思 わせた。何をどうしようというわけでなく、透は常にポケッ トに忍ばせているナイフで肉をさばき、殻内部を抉ってみた のた 「仕事で貝ばさばいとったら」 資材を垣根の外に下ろしている圭介へ透は声をかける。圭 介の視線は透の頭上を過ぎ、枠組みだけの建増し部と竹の養 生を張り巡らしている母屋へ向かっていた 「棟梁の養生も足場も危なかかも知れんですよ。すぐ、降り ますけん。三回往復すれば今日の分は運べます」 「あげまき、食ったことあるやろ。あれをさばいとったと きよとんとした顔を圭介はむけると「バター焼きでなら」 と答えた。 「最近のは韓国産で有明やら諫早のはのうなったっさ。それ を今朝、解剖しとった」 「朝から食うためですか」 「やー、ただホラ、俺の仕事やけんで」 仕事だからあげまきを解体するというのでは、自分の行動 を説明できないとわかっているが、毛ほども関心を示さない 相手には丁度いい説明ではないかと透はい、チノバンのポ ケットにあるナイフの柄を弄った。その時、ゴウと丘に連な る唐八景の頂上から風の唸りが聞こえた。椿の固い葉を鼻先 で擦っていたマウが呼応していななく。 二人の男、踊り飛ぶ蠅、青々繁る垣根、鹿毛の馬、ここか ら一段高く見える唐八景の峰と淀んだ渦を巻く雲へ突き出た 赤と白に塗られた電波塔。この一幅へザザアと驟雨、正確に は天からではなく足元から天へ帰る格好の夥しい雨粒が吹き かかった。それは一瞬であり、男たちが濡れた顔を拭うと同 時に陽光が全身を照らし、彼らが立っ玉砂利に濃い影を作っ 「驚いたなあ ! 」 透は手をかざして空を見た。一方の圭介は「蠅が雨に撃た れ死んどる」と言い、砂利の隙間に墜落した虫の死骸を見下 ろしている 「マウは賢かな。ちっとも驚かん」 「馬やけんで、天然自然の現象は当たり前と思うとやろ」 圭介のぶつきらばうな答えに透は軽く驚く。思い返せば、 働き者だとか素直だとか美人だとか自分がマウを褒めるたび 馬 ) 「馬は馬やけんで」と圭介は気怠く言葉を挟んでいた。牝 坂 馬の名前も即物的だ。圭介へ名前の由来を訊ねるとこう答え たのた 「この牝馬はうちの馬の四代目でね、ずっと同じ名前で。ョ