被災者 - みる会図書館


検索対象: 文學界 2016年11月号
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1. 文學界 2016年11月号

5 話しと放し 話すことは、「放す」ことつまり自己の固有の経験を言語 という共有物にして自己の外部へと放出するということなの 話すことが放すことすなわち放出することに通じるという ことに、少女の作文の持っ迫真性の源泉がある。そしてまた、 少女の作文が断片的で脈絡を欠いたものであることの意味も そこから見通すことが可能となる。 話すことは自己の経験を外部へと言語化し放出することで あるとするならば、自由性をその特質としたハナシにも、形 式性の萌芽が含まれているとも言える 少女の作文が断片的なのは、自身の固有な経験を充分に形 式化出来なかったからだが、それはまたその固有の経験が形 式化されることを拒んでいたからだとも言える 涙を流すことができる。反対に少女の作文には「形式性ーが 欠落しているが故に少女の衝撃の大きさを類推することは出 来るが、追体験は困難なのだ。 ハナシの自由性、即興性とカタリの形式性の差異は、震災 発生後最も早い時期に震災を扱った作品として注目を集めた 一連の小説について考察する上で重要な論点となる。しかし この問題を論じる前に、先に確認せねばならないことがある それは、ハナシの原義が、「放し」にあるということであ る ならば、なぜ経験を言葉にして話すことを拒むのか それは、話すことが放すこと、離すことにつながるからだ。 話すことは、自身の経験を言葉にして、自分の身から引き離 し、他者と共有可能なものにすることである。この他有化を 経験は拒むのだ。なぜなら、それは経験の忘却の始まりにな るからだ。 ラカンの最初期のセミネ 1 ルである『フロイトの技法論』 にこんな逸話が記されている。マーガレット・リトウルの精 神分析を受けている患者が、自分の母親が死んだ後ラジオで 講演することになったという。この患者の心の病において母 親は極めて重要な意味を持っており、患者はその死を大層悲 しんだが、ラジオの講演は見事に果たした。しかし、次のリ トウルとのセッションに者は錯乱に近い混迷状態で現れた その患者に向かい、 リトウルは、その混迷は、彼が持っリト ウルへの嫉妬心が原因だと指摘したという。 ラカンは、この患者に対するリトウルの対処を問題視して いるが、ここで注目したいのは、母の死の後で立派にラジオ での講演を行ったにもかかわらず、患者がその後錯乱に近い 状態になったということである。なぜ、患者はそうなってし まったのかそれは、阪神淡路大震災の際に有名になったビ ヴァリー・ラファエルが『災害の襲うときーカタストロフィ の精神医学』で指摘したサバイバーズ・ギルト ( 生存者の抱 える罪責意識 ) に由来するだろう。 その患者にとって母親は精神失調の原因になるほど大きな 意味を持っ存在であった。だからその死は途方もないほど大

2. 文學界 2016年11月号

表的な観光地として既に有名だが、それ以外にも数え切れな えない大きさで飛散し、肺に吸入されても石綿繊維が分解さ いほど美しい景色がある。夏は大自然の中でキャンプを楽し れないという特性があるため、工場での労働やビルの解体工 み、冬は広大なスキー場で、スキ 1 やスノ 1 ポ 1 ドを楽しん事など、ある特定の条件下で長期間アスベストを吸入した場 合、人にじん肺や悪性中皮腫などの健康被害を生じさせると だりすることができた。わたしはどんなときでも先住民やヨ 言われている。だが発病するのは高濃度のアスベストを十年 ソバからの入植者たちが好んで履いていたモカシンを、 以上吸入した場合がほとんど。長期間での高濃度吸入で健康 片時も脱ぐことができないでいた。素朴かっ実用的。肌寒い ) くいところが、なんと 被害のリスクが高まるのは当然だが、どれだけの量を吸った 季節になると恋しくなる。足が疲れに ら発症するかという点については不明。心配な場合は呼吸器 も得した気分に。柔らかく、履き心地がとても良い。単に履 科を標榜している医療機関に相談されることがお勧めであり、 くだけで、何だかおしゃれな気分になれる。履き始めでも、 革が柔らかく、足に馴染むモカシ 決して靴擦れにならない。 今後の研究にも期待が高まる。 ンをスニ 1 カ 1 感覚で履きまくる毎日。 険しい山中を歩くようなタフな状況にいるのを想像しなが 定点観測用に天井から設営されたカメラが撮影した写真を 数点、個人的に参考資料として警備会社から入手して見せて ら、馬とインディアンの絵柄が足首までを覆うビ 1 ズで飾ら もらった。小林や佐枝子の姿など、店内の客の姿を映したも れた袋状の靴のつま先をじっと見つめたあと、わたしは背後 のが多数を占めたが、最後の一枚に店内の空間を自由自在に の喫茶店に戻った。 まだ店に小林と佐枝子はいたが、菅原洋一の曲はもう流れ 動き回る判別不可能な「光体」の残像のようなものが映って 結果的には、カメラの故障が原因であるという報告で ていなかった。最初から音楽が当たり前のように流れている 決着がついた 空間が無音になると、すぐさまに別の未知の場所に来たよう 状 な錯宀見に陥っこ。 言 確かに再び店に入って元の席に座る前に、その急激に慌た遺 壁の漆喰が解体業者によって、わたしがいない間にすべて み だしい雰囲気に飲み込まれた。それは光体の激しい移動とい 剥がされてしまったあとのように感じた。無論、そんな感じ 悲 うよりも、ミラ 1 ポ 1 ル的な照明演出、派手な衣装をつけた がしただけで、実際には何も変わっていなかったのだろう 者たちの闇の中での蠢き。ズームイン、ズームアウトを反復 だが、再び入店した瞬間、大量のアスベストを吸い込んだよ する視線の派手な動き うな錯覚に捉われたのも事実である。アスベストは、目に見

3. 文學界 2016年11月号

立學界 表紙画 柳智之「荒木一郎」 表紙・本文デザイン日関口聖司 、′目次レイアウト日井手口智人 月号 目欠 新連載 立ロ不重 O 「 ga(ni)sm 『シンセミア』『ピストルズ』に続く、 " 神町トリロジー。完結篇、ついに始動ー 中原昌也悲しみの遺一言状 り一學界新賞受賞第 砂Ⅱ文次熊狩 杉本裕孝弔い 渡谷邦籠崎さんの庭で一年半期。雑誌優秀 評論千葉一幹 人よ震災こ、 に向き合ったか メランコリー・カタリ・喪の作木 作 ④の 埠 4 リ 4

4. 文學界 2016年11月号

が、必死にリハビリに臨んだ。その傍ら全国の偉人の墓を訪 ね、その足で地元の子孫の話を直接聞いたりして、改めて自 分で調べると意外に地道な彼らの苦労のエビソ 1 ドを知るこ とかできた。 その体験が自分を見つめ直す切っ掛けになったようだ。病 気を通して、「人を簡単に救うことは出来ないけれど、過去 の偉人から学んだことで、人をこれでもかと励ますくらいは 出来るんじゃないか ? 」と。 「ようし、オレはこれからの人生、徹底的に人を励ますぞ」 が口癖だったと、酒の席でよく当時を振り返る。また、「自 分が体を悪くし、弱い立場になって初めて分かることがある」 と、社会福祉団体に、ネットで全国から買い集めた中古の車 椅子を二千台寄贈した。震災の際には、「偉人達の遺志を受 け継いだオレの力は人の心に無力ではないはず。とにかく人 を励ましたい」と、各地でチャリティーを開催し、ボランテ ィア団体の活動資金に親からの遺産である大金を寄付した。 いまではかっての車椅子生活がウソのように、立ち上がっ て歩いてどこへでも赴き、さらに最近では学生時代からの野 球を再開し、地元の仲間で結成したチ 1 ムで二番バッタ 1 と して活躍中である。実際の試合を観たことはないが、猛烈打 者としての評判は高い。 小林がまだ車椅子に乗って闘病中であった頃に、彼の主催 していたイベントで知り合ったのだ。開始時間も終了予定時 間も書いていないイベント予告のビラを偶然手に取り、会場 に行ってみれば、すでに始まっており、始めも終わりもなく 延々と偉人の苦労話に熱弁を振るっている小林がそこにいこ。 彼によれば偉大な人物は、どれも例外なく生まれて死ぬまで 苦労というか苦難に満ちており、それには始まりも終わりも ないのだと説く。特定の偉人の名前は終始挙げられることは なく、その話がいっ始まって、いっ終ったのかもよくわから なかったし、そもそも彼にとっての偉人とは苦労が絶えず、 つねに苦悩の中にいるべきで、苦難が去って栄光を手にして しまったり死んでしまえばただの人。その渦中に現在も身を 置いていなければ偉人でもなんでもないというわけだ。実際、 彼が熱く語る偉人たちの話は、寄せ集められた偉人の話のエ ッセンスの継ぎ接ぎに過ぎず、それでは確かに名前もないわ けだ。ウソでもよいから実在の一人に絞って、名前くらい与 えてやればいいのに。あまりに取り留めもなさ過ぎるので、 聴いていた観客達は大変困惑するしかなかったし、その話を 最初から最後までちゃんと聴いていた者など一人もいなかっ た。ビール片手に「どこの何を成し遂げた、どなたについて 語っているのですか ? ーとたまに訊ねる者もいたが、往々に して「その人物については冒頭で説明したので割愛ーと言う状 言 ばかりで、まるで相手にしなかった。一応、舞台にはテーマ遺 となっているそれらしき人物の、不明瞭な写真パネルは掲げみ られていたのだが そういった小林の過去について丁寧に、呑気な子供に説明 してやろう、と一瞬考えたのだが、恐らく何一つ話を理解で

5. 文學界 2016年11月号

いうくだりだったのだ。 佐久間宣行 ~ 僕からすると、その前後の週のほうがドキ「どのくらい。」 ドキする内容だった。これはついに CQA*O に 「いやほんのちょっと : : : 一一本くらいです」 呼び出されるのではないだろうか、そんな気話した方も話された方もいたたまれない 持ちだった。 ちょっと頬が赤らんでいる。これを各所でや ポテト : し」田 5- っ . でも大変面白いシーンだったので、悩んでるのだ。その度なんでこれなのか : 放送することを決めた。「いやこれは最後に俺はもっと格好良く戦いたかった。しかし、 カタルシスをえるためにはどうしても必要なその瞬間に田 5 い出した言葉があった。 表現たったんです」と、戦うつもりでさえい 最近制作した番組「ご本、出しときます ね ? ドの最終回、ゲストの西加奈子さんが語 だから怒られるならその週が良かった。そ った人生のルーレ。 のほうかいいからだ。 『誰かは傷つけていると思いながら書く』 「ゴッドタン」というお笑い番組を結構長く なんで、芸人がお尻の穴に入れた指でポテ災害があったから被害の規慎が大きいから とんな表現も やっている。水曜深夜で始まり色々あって土 トフライを食べたくだりで怒られなきゃいけ 表現に気をつけるのではない。、、 曜のさらに深夜に移動して、今年で十年目。 ないんだいやそんな大事ではないんだが、誰かは傷つける可能性があるという覚悟をも 番組内容的に揉めたことや怒られたことは苦情のメ 1 ルが複数来た場合は上司に報告すって書くというのだ。この言葉が発されたス タジオで僕は思わず下を向いた涙が出たか ないのか ? とよく聞かれるが、実は一度もる責任がある。そしてその際にはどんなシー 、ーっヾ ' 、 0 ない。なので取材などでは「視聴者と共犯関ンか説明しなければいけない。 係を結ぶことが必要です」などとしたり顔で「ええとですね : : : わだかまりのある芸人同 そうだ、格好いい悪いではない。とにかく ったものだ。 士が仲直りする企画で : : : お尻の穴の匂いを傷ついた方がいたのだ。笑わせられなかった しかし、先日十年目にして初めて怒られた。 ドッキリでがせるというノリが前の週から時点でこっちの負けではないか。そんな覚悟市 怒られるのはまあいい。問題はその内容だ 盛り上がりまして : : : まあちょっとエスカレならバカな笑いに 挑戦するのはやめればいい。 そのシーンとは、ある芸人がお尻の穴に指 1 トして : : : それで最後にその指で目の前に そう思い僕は報告を続ける。 を入れたその勢いでポテトフライを食べるとあるポテトフライをいきなり食べたんです「食べなきやでした ? 」 Author's Eyes Television

6. 文學界 2016年11月号

気配を感じた。 コ 1 ヒ 1 を飲み終わると、途端に退屈でたまらなくなった ので、本来ならば窓があるべきところを見つめて、そこに窓 があるのを想像した。 ナカいくら窓があるべきところを凝視しても、予想に反 して大した退屈しのぎにはならなかったのは残念だった。人 通りが少なかったせいか、突然酷く見窄らしい六十過ぎの女 が壁面の前に現れて、わたしを驚かせたが、深く興味を引く までには至らなかった。退屈どころか、視界に入れるのも嫌 で堪らなかったのが偽らざるところ。グロテスクなまでに不 釣り合いな、見事に揃った歯を、ゼンマイ仕掛けのチンパン ジーのように剥き出した。女性に暴力を振るうのは決して趣 味ではないが、もし空手の道場に通っていたら間違いなく即 座に叩きのめしていたであろう。もし免許を持っていれば猟 、、、皮女の歩いている先にある、 銃で標的にして射撃を楽しんた。彳 茂みのそばの浅い窪地に束ねられて置かれた週刊誌などの資 源ゴミが回収されずにいる。そこが墓場に相応しい。 布切れ、 紙くず、空き瓶。止まずにいつまでも降り続ける雨と、猛暑 による腐敗した匂い警察の現場捜査員が六人ほど来て、六 十過ぎの女の見窄らしい死体と一緒にあった古い雑誌と布切 れ、紙くず、空き瓶が事件と関係あるのかないのか判断に苦 しみ、首をひねる。判断不可能であれば、すべて採取して署 に持って帰らねばならない決まりがあるからだ。回収された ゴミは、大概被害者や犯人のものと関係がなく、結局は何の 殳にも立たないただのゴミでしかない。 『おれは女を殴る』という読みかけの犯罪もののベストセラ ー小説の影響なのか、そんな暴力的な空想をしていると、意 外に時間が過ぎていった。 よく見てみれば、その六十過ぎの見窄らしい女は、さっき 路地で見かけた険しい顔つきの老婆と同一人物だったのかも しれない。以前よりは若干若返ったかのように感じたが、気 のせいか険しい表情がそのまま醜い顔になってしまったよう で、腰を下ろしていた段ボール箱がより薄汚いものになり下 がったように感じた。深い皺に表情が埋没している。仕方な く微笑みを向けても、変わらない。 何か特別に難しいことを 考えている最中だったのかもしれない。本来ならば柔和な性 格で、声をかければ丁重に接してくれるはずの老婆が、数時 間前よりも増して、さらに恐ろしい呪いの目つきの表情。そ れは以前、バンクーバ ーの空港に行ったときに見た先住民の 彫刻である巨大なト 1 テムボールに、非常に酷似していた。 ガラス張りの回廊から見えた現物は鳥や人の顔が積み重ねら れたユニ 1 クさが際立っており、恐ろしさよりも「カナダ先 住民と西欧文明の現代カナダとの融合」が勝っていた。世界 で面積が一一番目に広いカナダ。私たちがカナダの山岳地帯に 魅力を感じるのは、そこに何も開発されていない純粋な自然 があるためだ。原生自然は、既に多くの国々では失われてし まったが、カナダにはまだまだ色濃く残り、本来の姿で保護 されている。ロッキ 1 山脈やナイアガラの滝は、カナダの代

7. 文學界 2016年11月号

た袋に入ったものだった。コンビニの万引き犯が、店員に追 われながら落として行ったものなのだろうかいずれにせよ、 賞味期限が切れていなければ袋から出して食えるはずのもの ミ、つ、、 0 振り返ると老婆がビルとビルの間の路地に、ひとりで段ボ ト 1 テムボ 1 ルみた 1 ル箱の上に腰を下ろしていた。 いな彫像かと見間違えた。深い皺か刻まれた顔で、とても険 しい顔つきをしていた。それはわたしが微笑みを向けても、 変わらなかった。何か難しいことを考えている最中だったの かもしれない。 本来ならば柔和な性格で、声をかければ丁重 に接してくれるはずの老婆の、殺気ばしった恐ろしいまでの 陰気な目つき。 二階の喫茶店の席に座った。ちょうど真向かいの壁一面の ガラスからの光景の細部を目で追っていくと、片腕がないと 錯覚した女と遭遇した場所を眺めることができた。 そこでわたしは、小林を待っていたのだった。丸顔に似合 わないサングラスの、やはり丸々とした体型の太った男。 店内にはやたらと馬に関する絵や写真パネル、木彫りの像 が置いてあって目立った。だからといって、乗馬好きや競馬 ファンが集まる店という感じは、微塵もしなかった。しかし、 近年珍しくどこかクラシカルで、ヨーロッパ的な大人の雰囲 気を提供してくれる店だ。 上品な態度のウェイターにコーヒ 1 を注文すると、他に何 もすることがなく、外をひたすら眺めた。 通りを行き交う人々がそれぞれ何者で、いったいどこへ向 、こ・こ黙っ かおうとしているかなど、まるで考えることなくナナ て見つめて過ごすのは、大変に精神が安らぐ。やたら人は行 き来しているのに、やけに静かだ。道を行く様々な人物たち か、いわくありげにわたしの意識に立ち現れ、好きだの嫌 ( だのという感情が起こることなどなく、結局彼らはわたしに 対して何の用事もないので、瞬時に次々と消えていく。ぜん ぜん観る気の起きないテレビのチャンネルを、ただ無目的に 回して過ごすかのように次から次へと。 数分もしない後に、待ち合わせに知人と一緒にやってきた 人物が、片腕がない錯覚をさせられた女であったのは驚いた。 「先ほどはどうも」 わたしが常に新しい女性との出会いを渇望しているのは本 当だ 小林が以前から紹介したいと言い、「会うだけだ。会って みればいい」と。その半年後、わたしが「会ってみてもい と勿体ぶった態度で許諾して、やっと会えた女だった。 さらに傍らには五歳くらいの小さい男の子がいた眉を寄状 言 せ、ロをあけたまま、何も考えていないようだった。カッラ遺 み を被っているように見えてしまう不自然なヘアスタイルが、 悲しい雰囲気を醸し出している。定年間際の中年が、そのま悲 ま幼児に無理矢理退行したような感じがした。 「この子は ?

8. 文學界 2016年11月号

孤島にいるようにして性交を続ける一一人。そ型の一つのように見える。また、聖マリナの叡智が示す理念に身を任せて、主の山、神の れはまるで「恋愛の原始的な姿」に戻ったよ伝説は、タマとオリガの関係性のモデルでも家へと向かう霊的階梯を昇っている。 竜退治をしたことで知られる聖ゲォルギイ うだ。しかし、この愛し方はたやすく周囲のある。 人には受け入れられない の名を授かった優利は、ひと夜きり再演され 聖マリナの伝説は次のようなものだ。 たタマのショーを見て、思わず十字をかく。 少年としてゲイバーで働くタマは、ホステ男の子として修道院に預けられたマリナは、 スとして働くオリガとルームシェアをしてい マリノスと名乗り、修道士として生活してい幕が閉じてから、優利は、タマをめぐるライ た。ある日、マリノスは、本当は別の男性の バルである武史と対話を試み、彼が同じ階梯 る。原発事故が起こった年、チェルノブイリ から一〇〇キロ圏内にあるホイニキに住んで子どもを妊娠した女から、この子の父親であを昇っていることに気がつく。タマへの恋慕 いたオリガは自らも被曝を経験している。甲るという無実の罪を負わされる。マリノスはや武史との葛藤を越えて、優利は自分の人生 その罪を認めるが、そのために修道院を追いを歩きはじめる。そのとき、泡のようにして 状腺ガンで子どもを亡くし、夫とも離婚した オリガは日本に出稼ぎにきた。あるとき、オ出され、皆からは軽蔑の目で見られるように 優利の物語に現れたのが語り手の「僕」・、 リガは、恋人のマサルからオリガが妊娠した なる。しかし、忍耐強く生きるマリノスは、 「男は女を知った」という言葉は、「男はその のはタマのせいなのではないかと責められる。 その謙虚さや熱心さゆえに周囲から一目置か人を知った」と変わり、一一人の物語がはじま 男性ではないタマは無実なのだが、なぜか、 れる。時がきて、マリノスが死したとき、周る。 タマはその責めを甘んじて受ける。 囲の人々ははじめて、マリノスが女性であっ 「どんな人の人生だって、ちつばけではない ということなんだ。その人にとっては、とて 鹿島田は、芥川賞を受賞した直後に行っ たと知り、驚く女性であると明かすことも 、笙野頼子との対談の中で、「聖メリーゴ選びえたにもかかわらず、マリノスは、男性も壮大なんだよ。旧約聖書の物語は、神様と ーラウンド」 ( 『一人の哀しみは世界の終わり という性を選び、責めを負う。タマがオリガ対話できる選はれた英雄の話のようにみえる けれど、これは、みんな、一人一人の物語な に匹敵する』河出書房新社、一一〇〇三、所を前にして選んだのも、「少年聖女 , になる 室 んだ」 ( 『少女のための秘密の聖書」新潮社、 収 ) に登場する、少年のような少女アンドレという「聖なる愚行」だったのではないか。 のモデルは、「聖女マリナ」であると明かし しかし、一見すると愚かに見える行為の中に 二〇一四 ) 。「パン」という、スパークリング図 ている。アンドレは、女子校に通っているが こそ叡智は溢れているのかもしれない。本書ワインの破裂音ではじまった本書は、語り手學 の「僕」の新たな物語を生み出す。そこにこ 細身で背が高く、「単純な少年像というよりで繰り返される叡智という一一一口葉は、恐らく、 むしろ、受難の聖女をしていた」と語り 目には見えない超越的な賢さ ( 神の叡智 ) をそ、自らの体験の中から「聖書」をつかみと 手によって評されており、「少年聖女」の原指すのだろう。本書の登場人物たちは、そのろうとする鹿島田文学の真骨頂がある。

9. 文學界 2016年11月号

ールを飲みながら買ってきた惣菜を食べた。それから青いソフアに すくす笑って取り合わなかった。 腰を下ろし部屋の電気を消すと隣の庭を覗いた月明かりにばうつ 「開いてるわ」 と照らされた庭を妻の黒い影がときおりふらりとよぎった。彼はそ 妻は一番端のフランス窓を開けた。 の庭に妻がいることで安心した。そのままソフアで眠ってしまうこ 「ほら、警報もならない」 ともあった。朝目が覚めるとまず庭を覗いた。麦わら帽子を被った妻 妻は裸足になりもう室内に入りこんでいた見るだけだ、と自分 は籠崎さんが着ていたようなワンピースを着てもう庭の手入れを始 に言い聞かせて、彼はおそるおそるリビングに入った。妻は彼の手 て、た。彼は妻に手を振り朝食をとると自転車で会社に向かった。 を引き家を案内した。コックが使っていた業務用のステンレス厨房 製品を並べた本格的な台所もあった。台所の隅でなにかが落下する 一か月が過ぎたが籠崎さん夫婦はまだ帰って来なかった。時おり 立日がした。 妻のが生い茂った樹木の間に見え隠れした。庭は下草が繁茂しア 「もういいよ。もう帰ろう」と彼は言った。 ンティークの枕木を隠し鋳鉄製のべンチも緑の沼に浮いているよう もう少ししたら帰るから」と 「臆病ね。先に帰っててちょうだい。 庭は見捨てられジャング に見えた。妻は庭仕事を放棄したらしい。 妻は言った。 ルのようになっていた 今では妻は薄汚い幽霊のようだった。さっきはあんなに美しいと 、ご。。、ツクの惣菜ばかり食べ 彼は仕事に行き帰りにプールで泳しナノ コム草履 思ったのに。彼は高揚した気分が急速に萎むのを感じた。、、 るのもどうかと田 5 って、自分で料理をすることにした。週に一回 をつつかけ、庭を突っ切った。今や不気味としか思えなくなった庭 、皮よ腕を上げた。今では昼食 「男の料理教室に通うことにした。彳 ( の植物の塊を振り払って彼は家に帰った。 の弁当まで自分で作る。彼は妻のために作り置きの惣菜を何種類も 次の朝彼が目覚めたとき妻は帰っていなかった。庭を覗くと妻は 冷蔵庫にストックしておいた。惣菜は気のせいか少しばかり減って ゅうべの恰好のままホースで盛大に水をかけていた。彼は仕事に出 いたから妻は昼間帰ってきているのかもしれなかった。 かけた。帰ると庭を覗いた。妻はいたりいなかったりした。家で妻 ある晩外を見ると、隣の家の敷地は背の高い板塀で囲われて、ち と顔を合わせることはなくなった。妻は彼がいないときに帰ってシ ようどアパートから見える位置に「売地」の看板が掲げられていた。 で ャワーを浴びたり、洗濯をしたりしているようだった。 庭 もう家屋の一一階の一部と丈の高い樹木の先しか見ることはできなか の 彼の方はあいかわらず規則正しく暮らしていた。仕事帰りにプー ん った。その晩彼は籠崎さんの庭で妻を探す夢を見て夜中に目を覚ま ルで泳いだ。プールではクロールできっかり四十分泳ぎ、そのあと 崎 した。彼はべッドを抜け出しアパートの玄関の戸を静かに開けた。 十分間泡の湧き出るマッサ 1 ジプールに浸かった。それから自転車 懐中電灯を持って裏階段を下り路地の角を回って水色の扉を探した。 1 まで行き、惣菜のパックを買った。翌 をこいで家の近くのスーパ 皮よ扉をそっと開け、 - フっそ - フ 朝の牛乳やヨ 1 グルトや菓子バンも買った。ときどき帰って来る妻幸い扉に鍵はかかっていなかった。彳ー と茂る木々の間に滑りこんだ のために冷凍食品も買いこんだ。家に帰ると手早く掃除機をかけ、ビ

10. 文學界 2016年11月号

さまざまなときに繰り返している。世の中がどんなに混乱を きたしても個のいのちの尊厳は変わらない。しかし、それを 個が守れなくなる、というのが戦争なのである。戦時に文学 者は現実とどう対峙するべきなのか。戦時における文学者の 覚悟をめぐって小林は、同じ文章で次のように記している。 あるとき小林は、ある雑誌から「戦争に対する文学者として の覚悟」を問われる。 僕には戦争に対する文学者の覚悟という様な特別な覚悟 を考える事が出来ない。銃をとらねばならぬ時が来たら、 喜んで国の為に死ぬであろう。僕にはこれ以上の覚悟が 考えられないし、又必要だとも思わない一体文学者と して銃をとるなどという事がそもそも意味をなさない。 誰だって戦う時は兵の身分で戦うのである。 文学は平和の為にあるのであって戦争の為にあるので 十 / 」し 文学者は平和に対してはどんな複雑な態度でも とる事が出来るが、戦争の渦中にあっては、たった一つ の態度しかとる事は出来ない。戦いは勝たねばならぬ。 そして戦いは勝たねばならぬという様な理論が、文学理 論の何処を捜しても見附からぬ事に気が附いたら、さっ さと文学なぞ止めて了えばよいのである。 そもそも文学者の戦争に対する覚悟という問いそのものを 小林は認めない。それが小林秀雄の文学者としての態度であ り、批評家小林秀雄の戦争観でもあるだろう。文学は、徹頭 徹尾平和のためにある。ここでの「平和」が、人間個人と社 し 会のそれという両義的な意味であるのはいうまでもない。 たがって文学者として戦争に与することは不可能である、と いうことになる。 - 戦うとき人は、あらゆる社会的立場を捨て、 一個の人間になる。 さらにここでは個の問題も同時に問われているのだろう。 なぜなら、文学とは個でなくては、けっして実行し得ない営 みだからである。人は、書くときも読むときも一人でなくて はならない。むしろ、人は一人にならなくては書くことはで きない。読むとき人は、集まって一冊の本を同時に読むこと はできる。しかし、個々の精神に映る風景はまったく別物な のである。文学とは、どこまでも個に徹しようとする道であ るといえるかもしれない。 今日の読者には、「戦いは勝たねばなら」ない、 との一節 にある抵抗を感じるかもしれない。戦争を賛美している、と 感じる人もいるだろう。戦いは勝たねばならないと心を決め、 戦場に立ったとき、反戦を説き、平和を祈る文学者ではいら れない。 しかし、戦争が突きつけてくる現実は非情である。 人がいかに強く反戦を口にしても、その一個のいのちを守る ために、ほかの誰かがいのちを賭すことを強いられるのであ る また、小林は、平和のための戦争という、当時の日本が連 呼していた見た目のよい論理にすり替えようとする態度にも 著しい抵抗を感じている。それは偽りであるだけでなく、 のちを賭して戦う者への侮辱になる、とも述べている。そし