ある完璧な一日 世界 3 0 カ国以上で翻訳されたベストセラー マノレタン・′、一シュ 河村真紀子訳 旧 B N 9 7 8 ー 4 ー 7 7 3 3 - 800 9 - 5 『僕はどうやってバカになったか』の著者による初期の小説作品。 一日中自殺することに時間を費やす、 T E L 0 3 ー 3 9 4 2 ー 0 8 6 9 F A X 0 3 ー 3 9 4 3 - 1 2 3 2 〒 1 1 2-0015 東京都文京区目白台 2 ー 1 3 ー 2 世間と距離を置いた人間の酷くて滑稽な日常。 \ 1 , 700 + 税 www.kindaibungeisha.com 近代文藝社 四六判・上製本・ 1 28 頁
文藝舂秋の新刊 ・表示した価格は本体価格です。 これに所定の税がかかります。 ・マークの本は、電子書籍もあリます 英国の LLD 離説を予言した歴史家が、エマニュエル・トッド 自らの分析手法を明らかにしつつ、 卩混迷をきわめる一一十一世紀世界の未来を語った ! 新英国ではない、 幻世紀の新・国家論 オハマへの手紙ヒロシマ訪間秘録 ? 〔歴史的瞬間の裏には何があったのか ? 裏方として尽力した = 一山秀昭 現地メディア社長による、秘話満載のルポルタージュ ! 一カの私 0 を 0 児産相談所が子供を設す 1 済 、耳をはなれない子供たちのみ悲鳴 山脇由貴子 し児童相談所の真実を、元職員が覚悟の告発ー 隊ヒヒ大→ め部用 朝子供の貧困が日本をなす・た知 社会的損失兆円の衝撃 日本財団 自思 子どもの貧困 生活保護などの増大と税収の減少で 対策チーム町 毎年兆円の社会的損失が生れるという衝撃の推計 ! 日本オリジナル版 防けないのは なせか ・ 830 円 eBook ・ 780 円 ( 広島テレビ放送社長 ) ・・ - 右の知人 現代向 待望の最新作茂 ( 歴史家 )
戦争と小林秀雄の関係を考えるとき、第一一次世界大戦の前 後の言動のみに目を凝らしていてはならないのだろう。そう した、のちに誰かからあてがわれた視座は、局所的かっ消極 的な意味における時勢的な見解に私たちを導き、そこから出 られなくすることがある。後世の人間が、歴史上の出来事な どによってその人の人生をも区切るのも必ずしも的を射てい るとは限らない。「戦中」という射程もそのひとつだろう。 ことに、前章で見たように小林は、「戦争という大事件は、 言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少し も動かさなかった様に思う」 ( 『感想』 ) と、終戦から十三年 が経過しようという年に作品の冒頭で語り始めるのだった。 美しい花小林秀雄 第ニ十章戦争と歴史 連載第ニ十一回 一九〇一一 ( 明治三十五 ) 年に小林は生まれている。日本は すでに日清戦争に勝利し、一一年後には日露戦争が起こる。第 一次世界大戦は一九一四年に勃発、一八年にはシベリア出兵 があった。三一年に満州事変、三七年には日中戦争、三九年 にはノモンハン事件が起こっている。四一年に第一一次世界大 戦への参戦に至る。こうして近代日本の戦史を暼見するだけ でも、小林の前半生が戦時と共にあったことは療然とする。 第二次世界大戦は彼にとって、最初のではなく、最後の戦争 だったことも記憶しておいてよい これまで幾度かふれた河上徹太郎との対談「歴史につい て」でも小林は、ヴァレリーの名前を出しながら、自らにと っての戦争をめぐって発言を残している。河上は、吉田健一 に薦められて読んだエドモンド・テイラ 1 の The こ一。コ he Dynasties ( 『王朝の崩壊』 ) の戦争観を語り、第一次世界大戦 若松英輔 0
し文章のようにも感じられるが、ここで小 小ノし分かり・に′、、 林が「思い出す」と述べているものをプラトンが語った想い 出すこと、「想起」と置き換えてみるとよいのかもしれない 『メノン』をはじめとした著作でプラトンは、知ることはす べて「想い出す」ことである、とソクラテスに語らせている 別な言い方では、人間が暮らす現象界にありながら、プラト ンが考えた実在である「イデア」の世界、イデア界とつなが ることだった。 歴史的経験とはイデア界をかいま見ることである、という こともできる。小林がプラトンを愛読するのはもう少し後年 のことだが、小林が強く影響を受けたベルクソンにおけるプ もち一 ロティノスを経由したプラトンの影響は計り知れない。 ろんそれは、学生時代からすでにそして、豊かに小林に流れ 込んでいる。小林におけるイデア界の経験はなまなましい それは一九四三年に書かれた「実朝」になるとより洗練され、 詩情を帯びて語られるようになる 「実朝といふ人は三十にも足らで、いざ是からといふ処にて あへなき最期を遂げられ誠に残念致候。あの人をして今十年 だけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不 申候」という正岡子規の「歌よみに与ふる書」にある、先人 から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思 の若死を詠嘆する言葉を引きながら、小林は自らの胸にも宿 い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一 った同質の哀惜にも似た思いを語り始めた。 種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、 心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまい カ 恐らくそうだったろう。子規の思いは、誰の胸中にも湧 くのである。恐らく歴史は、僕等のそういう想いの中に しか生きてはいまい。歴史を愛する者にしか、歴史は美 しくはあるまいから。ただ、この種の僕等の嘆息が、歴 史の必然というものに対する僕等の驚嘆の念に発してい る事を忘れまい。実朝の横死は、歴史という巨人の見事 な創作になったどうにもならぬ悲劇である。そうでなけ れば、どうして「若しも実朝が」という様な嘆きが僕等 の胸にあり得よう。ここで、僕等は、因果の世界から意 味の世界に飛び移る。詩人が生きていたのも、今も尚生 きているのも、そういう世界の中である。 ( 「実朝」 ) ここにあるのは喩え話ではない。小林の偽らざる実感であ る。実朝は消えたのではない。肉眼に映らなくなっただけで秀 林 ある。「詩人が生きていた」とは、詩人の魂は、この世にあ るときからすでにイデア界との交わりがあったことを指すの花 だろう。しかし、魂そのものとなった実朝は、その世界でい 「今も尚生きている」、それが小林の打ち消しがたい実感だっ たのである。 〈以下次号〉
は、第二次世界大戦とは別種の、ある意味では、さらに悲惨 な出来事を伴った戦争だったという。死亡者数は当然ながら 第二次世界大戦の方が格段に多い。しかし、第一次世界大戦 は、のちには見られない近代的な残虐なる人間の業だという のである。第二次世界大戦のときは兵器がどれほど危険であ るかを人間は知りつつ、それを用いた、たが、第一次世界大 戦のときは実際に「使ってみないと分らない凶器だった」と 河上は言う。こうしたときの人間の精神を巣食う陰惨な何か を二人は見過ごさない。 活字になった対談では、こうした河上の話を受けた小林の 応答は、「うん。しかし、どうも君は話をむつかしくしたが この対談 る : : : 」となっているが、実際の対談で小林は は録音記録が公表されているー活字になったものよりもい し力に っそうはっきりと河上の着想に賛意を表している。、、 惨であるかを、あるいは、、 ) し力に人間の生命が虐げられなく てはならなかったかを死亡者数という量で計ることに河上も 小林も違和感を隠さない。だが、それは戦後になって彼らが 一九三七年、日中戦争が勃発した 感じたことではなかった。 際に書かれた「戦争について」と題する一文で小林は、戦争 とは、人間のいのちを個人から奪うものであると述べている 戦争が始っている現在、自分の掛替えのない命が既に自 分のものではなくなっている事に気が附く筈だ。日本の 国に生を享けている限り、戦争が始った以上、自分で自 分の生死を自由に取扱う事は出来ない、たとえ人類の名 わざ に於いても。 戦争は、個であることを著しく妨げる。ほとんど不可能に する、といってもよいほどだ、戦争に対する意見はどうあれ、 このことは避けがたい現実ではないのか、と小林はいうので ある。ここで述べられているのは戦争を煽動する言葉ではけ っしてない。目の前で起こっている事実を端的に語っている たけたここには小林の意見というようなものはない。の 意見は別所にある。人のいのちは「掛替えのない」ものであ る、という認識から小林は離れることはない。だからこそ、 戦争に関する意見を表明する前に自分たちは静謐のうちに、 奪われていく命の実感をもっと噛みしめなくてはならないの ではないかというのである。同じ一文で小林はこう述べてい る 観念的な頭が、戦争という烈しい事実に衝突して感じ る徒らな混乱を、戦争の批判と間違えないかいい。気を 取り直す方法は一つしかない。日頃何かと言えば人類の 運命を予言したがる悪い癖を止めて、現在の自分一人の 林 生命に関して反省してみる事だ。 花 この言葉は、時事的でもあったが、じつに予見的である。 美 戦中に著しく戦争を賛美した人たちのなかには戦後にほとん ど転向に等しいような変化をして「人類の運命を語り始め た人が少なからずいた。また、近似したことは現代を含めた
ヘイドン・ホワイトは、年表の例としてアルマン史録』 に含まれた八世紀から一〇世紀にかけてのゴール地方の諸事 イを記した「サン・ガル年表』を挙げている。その一部を引 用する 七二五サラセン人が初めて現われた 七二六 七二七 七二八 七二九 七三〇 七三一尊者べーダ長老が死んだ。 七一一三シャルルが土曜日、ボワティエでサラセン人と戦っ この年表について、ホワイトは、七二五年のサラセン人の 侵入について記している点でこの年表制作者は、一見サラセ ン人のヨ 1 ロッパの地への出現に関心を抱いているように見 えるとする。しかし、その七年後のシャルルとサラセン人と の戦闘であるボワティエの戦いについて言及しているものの、 その結末について記していない点で、本当にサラセン人の侵 入に関心があるのか疑問を感じさせると指摘する。もし、サ ラセン人の出現がヨ 1 ロッパの地への侵略として意識されて いるなら、最初の出現の一帰結としての戦闘の結果について 記すはずだというのだ。しかし、その記述がない点で出現と 戦闘との間にこの年表作者は、因果関係を設定しているか不 明になる また、このボワティエの戦いの起きた年は、現代の西洋史 の視点から言うとより重要なトウールの戦いについての記述 かないと現代の歴史家から指摘されているとする。さらに七 三二年のボワティエの戦いについて日時でなく「土曜日」と のみ記されているのも読む者を当惑させるという。 現代のわれわれから見れば不備や欠損の多い、こうした年 表が出来るのは、その年表が作者の固有の視点により記録さ れているからだ。この年表はそれが記された時代から一三〇業 〇年近く後の時代を ( さらにヨーロッパでない日本で ) 生きるの われわれからすると、不可解なものであるが、その理解し難 タ さが、逆にその時代を生きた者のみの持ちうる固有性、換言 カ すれば当事者性を伝えるものだとも言える。 コ 固有性当事者性を持っ年表には、理解し難い点があると ン 述べた。それはまた、事件の現場にいた者の言葉には、どこ か欠落があるということである。直接的に事件を体験した者一 の言葉には、通常われわれが感じる「臨場感」とは異なるも っ のがあるということだ。たとえば、二〇〇一年に発生した 合 9 ・Ⅱ同時多発テロの際、テレビ画面に映し出された世界貿 向 易センタービルに突っ込むジェット機の映像についてまるで ハリウッド映画を見るようだと述べている者が多くいた。し かし、多少とも映画を見たことがある者なら、こんな言葉を災 、リウッドの映画監督なら、単にロン 表明するはずがないノ 人 グショットでジェット機が貿易センタービルに激突するだけ の場面を撮るはずがない。ジェット機がビルに衝突するロン グショットのシ 1 ンと映画の登場人物の視点、大抵の場合、
最近ク食べられる大人のおもちゃのレシピ本を、大手出 大人のおもちやクといういかがわしい商品名のせいで、その 版社がこぞって出版して、どれもみなベストセラーの上位を 「多様性ーが判りにくくなってはいる。勿論、食べようと思 数ヶ月に渡って独占した。マリネにしたり、パスタとあえた えば、どんなものよりも美味しく食べられるし、すべてのセ り、ちらし寿司に混ぜたり・ : ・ : ジュ 1 サーミキサーで液状に クシャリティに最大限の快楽を提供しつつ、それに留まらな して毎日の健康のために飲んだり。どんな調理法でも、誰で いのが、この商品の最大の魅力なのだ。 も美味しく食べられるので、多国籍の人々が集うパ わたしはク食べられる大人のおもちゃに非常に興味を持 は持ってこいのオールマイティな食材なのではないか。 っていたし、実のところ佐枝子も大いに関心を抱いていたの しかし、この商品のもっとも優れた点は、大人のおもちゃ で、意見は一致した。だが、二人ともいまだに実物を手に取 として十分に機能を発揮しながらも、実物はそれだけに収ま ったこともなければ、残念ながらパッケージですら目にした こともなかった。 らない究極の「多様性」にあるという。「みんなちがって、 みんないい と、かって詩人の金子みすゞが表現したように、 以前には「コストコーなどの量販店で取り扱っているもの 様々な既発商品がそれぞれ持っている個性が流通されること だと思い込んでいたか、アダルト商品として端を発している によって、いままでの経済は成り立っていたのだが、この衝 以上、どうもそういうわけには行かないらし、 したから風俗 撃的な発明品ク食べられる大人のおもちゃの登場によって、街にあるその手の専門店に行けば、入手困難と思われていた これからはすべてがこれ一つで O になった ! イノベ 1 シ それが平然と棚に並べて売っているに違いない。 ョンはニッチなところから、また、既存のものにほんの少し 「どんなものでも、その用途を根気強く探求すれば、きっと の新しい何か、異質な何かと出会った際に生まれる。これぞ、 何かの役に立つ」というのが、い ままでのわたしの座右の銘 であった。 ヨーゼフ・シュンペ 1 ターが『経済発展の理論』の中で言う ところの「新結合」の賜物である。 だが、恐らくこのク食べられる大人のおもちやがあれば、状 言 「多様性」はクールなものであると捉えられ、学校教育では、 きっと余計な何ものをも必要としなくて済む社会が実現する遺 ひたすら「多様性」の大切さを学ばせられた。それがみ食べ に違いない。世界のすべての老若男女がク食べられる大人のみ 悲 られる大人のおもちやクの登場によって、「多様性」も究極 おもちやクを平等に手にして、笑みの永遠に絶えない世界が を達成した。多機能ナイフ以上の発明として、全世界で賞賛実現。災害がまたどこかであれば、救援物資としての需要も の嵐と共に受け入れられたのは記憶に新しい。み食べられる ある : : : あらゆる物の代用品としての活躍が期待できる。子
子を授かり、東京のはずれですが小さな家も手に入れて、最 後には事務方の係長までさせてもらえましたので、振り返れ ば、まずまずの仕事人生だったのではないかと思っておりま す。 いまはこの古家に妻と暮らしています。わたくしは昨年に 定年を迎えるまで仕事一筋でしたので、趣味もなく、 瑕をもて余しています。しかしながら、これまで夫らしいこ との一切を怠けてきましたので、まずは妻をねぎらってやれ たらと思っております。 親族・関係者について 妻がおります。節子ともうします。 娘がおります。美花ともうします。 夫婦ともに両親はすでに他界し、兄弟もありません。血縁 関係はまことにさつばりしたものです。 介護・治療について これといった持病はありません。酒たばこはやりません 三食きちんと妻が世話してくれるので、いますぐにどうこう ということはないでしよう。不慮の事故や老衰ゆえの介護と なると、その時は、世間さまのお荷物にはならないようにし たいものです。余命や延命などということに煩わされずに ある日、ばっくり逝ってしまえたらいいのでしように。 資産・相続について わたくしに資産といえるほどのものはありません。しかし ながら、この家の借金も片付いており、世間なみの退職手当 と、世間なみの貯金、それから、世間なみの生命保険と、世 間なみの年金もあります。決してぜいたくはさせてやれませ んが、妻と娘には、ごく世間なみの暮らしはのこしてやれる のではないかと思っております。 葬式・墓について 葬式は金がかかっていけません。かようなわたくしが、つ まり親族・関係者の欄がものの数行でことたりてしまうよう なわたくしが葬式をいとなむなど、はなはだ不経済でしよう。 それに葬式とはただただみじめでさみしいものでしよう。わ しのです。 たくしなどさっさと焼いて墓にいれてしまえばい、 残された人々へのメッセ 1 ジ 節子へありがとう。そして、苦労をかけてすまん。言葉 にし尽くせぬ謝意をここに表す。 弔 美花へいつまでも、末長く、幸せでいてほしい。母さん をたのみます。
美花へいつまでも、末長く、幸せでいてほしい。母さん をたのみます。 追伸百日紅先生のおかげで、ひさかたぶりに妻との遠い昔 の思い出にひたることかできました。感謝もうしあげます。 それにしても、自分のなかにある記憶やらなにやらを棚卸し するには、このエンディングノ 1 トというものはうってつけ ですね。先生の、エンディングノ 1 トは庭木を世話するよう なもの、と仰ったところの意味合いか少しわかってきたよう な気がします。猛暑の折、どうぞご自愛ください 八月十五日 陽の高い内に書き始めた三朗だったが、白い帳面が埋まる 頃、辺りは真っ暗だった。 その晩、三朗は久しぶりに風呂を沸かし、湯船に浸かった。 熱い湯の中で手足を伸ばしながら、三朗は、帳面を書き上げ た時に体を満たしていた、あのなんとも言われぬ昂奮を思い 返した。三朗にとって、やはり妻はいまもまだ生きているの 両手に掬った湯を顔にあてると、仄かにひりひりと痛む。 目を瞑ると、瞼の裏には太陽の余韻がまだ強く残っている。 そのままじっとしている内に、三朗の体は太陽が血脈を巡る ように、じわじわと熱くなっていった。 、いまは目の前 先のことは判らない。三朗は思う。しかし にあるもの、手に触れられるものに専念しよう。三朗は指先 に残る土の感触を確かめようとするように、湯の中で左右の 指を密に組み合わせた。それにしても、明日一日であのしつ っこい雑草をむしりきるには一体どうしたものだろうかそ うして自ずと頭を抱え始める三朗の心は、裸を包む湯の穏や かな面のようにいっしか凪いでいる ところで、もし、妻がエンディングノートを書いていたら、 そこにはどんなことが書かれてあるのだろう。不意に浮かん だ問いに、それを知りたいような、しかしこわいような気も して、三朗は湯面を破るように勢いよく湯船から立ち上がっ そうして風呂上がりの三朗は、吹き出る汗も乾かぬ内に床 に寝転がった。すると、何とも形容しがたい疲労と充足とが 一気に押し寄せて、三朗は忽ちに眠りの底に落ちていった。 近くに迫りすぎて上の見切れた東京タワーがゆっくりと横 に流れてい 遠くには、空の高いところに細かな雲片がきれいな模様を なし、この季節の空の青さを際立たせている うろこぐも 「鱗雲」 、いで呟いたつもりか、近くの目かちょうどこちらに向いて、 三朗は思わず唾を呑み下す。 はやいものだ。地平の辺りにまで落ちた太陽が地上の世界 をいまにも橙色に染め上げようとしている窓外の景色に目を ー 1 ー弔い
ことだった。だが、ここでの「反省」は、意見を変えること に過ぎない。自己の生命への省察を離れて生命とは何かを考 えてもそこに生まれるのは空論でしかないそれでも人はロ にすることを変えることはできるのである 一九三九年に小林は、前年の秋に満州を訪れたときのこと を「満洲の印象」と題する一文に書いている。そこで小林は 「日本人が支那人というものを新しく理解しなければならぬ 大きな必要に迫られている」と述べながら、当時の中国には 自国の「民族性を新しい表現に盛った近代文学」がない。魯 迅という例外はあるが、文学は民衆の精神生活と密接な関係 を結ぶには至っていない、そう述べたあとに次のように語っ 「中支の戦の跡で、幾千幾万の難民の群れを眺め、あの人達 が自分に解るだろうかと自問したが、その時、例えば学生時 代に教わった「詩経』の桑柔編の様な表現しか思い浮ばない のが訝かしかったのである」。小林は中国の時代状況が遅れ ている、と考えているのではない。 この国は日本のように急 速な西洋化を経験しないまま、戦争によってその波に飲み込 まれたというのである。また、小林にとって文学は、単に鑑 賞するものではなく、直接的に異文化と交わろうとするとき の生ける通路とでも呼ぶべきものだったこともこの一節はは つきりと物語っている。 隣国の民衆のいのちに宿っている「小なるもの」に真に偉 大な何かを見出そうとする小林の姿を見ていると、ひと世代 前に書かれたのだが、岡倉天心の「茶の本』にある次の一節 か思いたされる おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのでき ない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしが ちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、 稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思 そで って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が 平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていた さつり , 、 ものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない 始めてから文明国と呼んでいる。 ( 村岡博訳 ) この時期に小林は天、いにまだ深く親しむようにはなってい ない。それは後年、ことに晩年である。先にふれた河上との 対談「歴史について」でも『茶の本』は名著である、と熱情 のこもった発言を残している。 日本が第一一次世界大戦への参戦を決めた頃から小林は「当 麻」「無常という事」「徒然草」「平家物語」「西行」「実朝ー といった古典論を書き始める。これを小林の日本回帰のよう に語る風潮もあったが、すでに見てきたように近代作家でも もっとも好む作家が泉鏡花であることが端的に示すように、 ト林にとって自国の文化を生きることが宿命的であることは 早くから自覚されていた たしかに小林は、宿命という言葉をフランス象徴派の詩人 たちから学んだ。しかし、そのあとに彼が進んだのは宿命と は何かを近代フランス文学風に語ることではなく、自らの宿