何度 - みる会図書館


検索対象: 文藝 2015年 spring
551件見つかりました。

1. 文藝 2015年 spring

まさしをミヤコ商店街で、三上が見つけた。商店街はクリスマ 「うん」 スの飾り付けがはじまっていた。まさしは病院へ向かう途中で一 まさしがいった。まさしはこの日何も食べていない。 だった。三上は後ろから近づいて、腰を蹴った。びつくりして まさしが振り向いたとき、三上の後ろ姿だけが見えた。 その日の空は月がなかった。ばくは左目にある隙間からそれを 「誰やろ」 見ていたどんな順番で、月が満月になったり、三日月になった 竹内がいった。 りするのかばくは知らない。ばくは月を見るときいちいち探す。 一一人は竹内の家に ( オ 月をだ。それは月の出てくる位置がいつもわからないからだ。月 「篠田かな」 し」 - フして は大きく見えるから探すのに苦労したりはしないけど、。 「あのダボ」 ( つも場所か違うのかとは田 5 う。だからといってばくは調べたり 「とおる君は」 誰かにその話をしたりもしない。そんなことがばくには 「生きてる」 たくさんある。ばくはどうしても父と母の誕生日がおばえられな まさしはくわえたばこの煙が目にしみて涙が出た。大人がする 妹の誕生日はおばえている。神永のもおばえている。三上と ようになかなかうまくくわえたばこかまさしはできない。ばくも長田のはわからない。 何度教えられても自分が生まれた時間をお できない長田がうまい。得意げにばくらの前でやる ばえられないそんなもん俺も知らん、と長田はいっていたけど、 「出入りでやられたん ? 」 ばくは何度も母に教えられたのだ母がなぜばくにそれを何度も 「知らん」 いうのかはわからないなのにばくはおばえられない。確か、朝 「組でやられたん ? の、八時か九時か十時の一一十何分か、三十何分だ。四十何分だっ たかもしれない。 「何で組でやられんねん」 まさしは竹内をにらんだ。 「兄貴チンビラちゃうど」 ばくは家の屋上で、寝巻きの上に防寒着を着て、植木の前に座 「わかってるよ」 っていた。植木のところには青いプラスチックの箱があった。昔、 しかしまさしの兄貴はチンピラだ。まさしだって知っている ばくが飼っていた茶色い大きなうさぎだ 一フちの母は小さなちくわをチンピラというどこでもそういうのつこ。 かはよ′、知、ら宀ない 夏はいつもばくはここで寝る。夏どころか、春の終わりから、 「パン食う ? 」 ほとんど秋までここで寝る。雨が降ったり、他に住む人が洗濯を 竹内がいった。 干しに来たりするけど家の中よりずっと良い

2. 文藝 2015年 spring

はお腹もすいていた冷蔵庫をあけてみたけど何もない。そのと 「あの金いんねや " きば′、は何かがお力しいこし J に凩がついたここはば′、の ( 豕じゃ お父さんがいった。神永は何もいわない。 な ( た ( たいにおいか違う。ばくはまわりを見た。部屋が二つ 「どこやリ」 また蹴った。それは最初に蹴られてよろけたときにふすまにぶあるのが暗い中で見えた。ばくはここを知っている。ここは神永 電気をつけてみ 神永はいよい。 つかる前にひざで引っかけたテープルの上にのっていたコップやの家だ。ばくは神永の家にしカ 電気をつけてもここは神永の家だ。 何かを拾おうとしてかがんでいた神永の顔に当たった。神永がした 神永はいつもここに一人でいたここでほとんど一人でテレビ りもちをついた。神永は鼻血を出していた。ばくはそれを見てい を見たり、何度も読んだ漫画を読んだりしていたお父さんがこ こへ戻って来ることはほとんどなかった。ばくはそれを知ってい ばくたちは神永の家の近くを流れる小さな川の、それはドブと こ、こ。ばくたちる。三上も長田も知っている。神永はしかしそのことをさみしい いってもいい、石が敷き詰められたせまい河原 ( しナ とは思わなかった。そういう風に神永は田 5 わない退屈だとは思 の前を一瞬も止まらずに水が流れていた。水は山から来ていた。 うことはあった。そういうときは外へ出た外へ出ても何もなか 山の方へ顔を向ければ山が見えた。ここには魚はいない。山へは 、。ばくは神永を見ていた神永はったけど、家にいるよりはましなような気がした。バットがあっ どこから水が来るのか知らなし 神永は何度かこれを使って人を殴った。しかしそれは年上か、 鼻血を拭きもせずじっと流れる水を見ていた。神永は今は泣いてた 向こうの人数が多いときにだけ使った。そうでないときはいつも も良いところだ。 神永は素手だ 「くさ」 神永がいった。 父は神永に 「え」 つ、、 0 「相手が刃物出したら逃げろよ」 . し」、つ , 」 0 くさ」 「この川 「絶対に、刺してみい、とかいうなよ」 確かにここの川の水はくさい し」、つ , 、 0 ばくが目をさました。 「相手もプロちゃうねん。抜いてみて困っとんねん。そんなこと いわれたら刺さなしゃ 1 ないやろ」 神永は のどがかわいていたから、流しへ行き、水を飲んだ。真っ暗に 「ふうん」 なっていた。それでもばくは何かにぶつかったりはしない。ま 鳥の会議

3. 文藝 2015年 spring

之さんはもう一度悦子さんの頬を強く 「殴って悪かった。でもなんでそれを今言う ? 「だって、チロルは大だから。言葉が通じないんだから、身体で 覚えさせないとわかんないことだってあるよ。普通の大なんだか ら」 井坂信子は高校の頃まではこれといって特徴のない人生を送っ 「じゃあ、何故俺を責めた ? 今までずっと、俺はきみに、ずっていた 。サラリーマンの父親と専業主婦の母親を持っ信子は、母 と責められてきた。子供が出来ないことも、チロルが死んだこと親が通った中高大一貫の女子校に通い、大学を出たら父親のよう も」 なサラリーマンと結婚をするつもりでいた。 「責めてたのはそっちでしよう ? 謝り続けながら、あなたは私とはいえ、彼女は真面目一辺倒というわけでもなかった。 を、黙ってる私を、頑固で不寛容な女に仕立てようとしたじゃな 彼女の通った学校は規律が厳しく、教師の監視も徹底している そのことに腹が立ったの」 という評判の進学校であった。と同時にその校風とも呼べる良妻 「じゃあ、許せよ」 賢母の思想を受け継ぐ卒業生と現役の生徒たちの会員制ネットワ 「許すとか許さないとか私が決めることじゃないって何度も言っ 1 クによる相互扶助が盛んであった。 てるじゃない ! 」 そのネットワークを使えば、合コンの仕切りをお願いしたり、 泰之さんがさらに叩く構えに入ると、悦子さんは両手で顔を覆恋人を紹介してもらったり、男女が出入りできるフリール 1 ムを つ、、 0 使用することができた。インターネット上にこの女子校の会員制 泰之さんはこの先、自分が悦子さんを何度も叩くかもしれない掲示板があり、そこに書き込むと誰かが答えるのである と思った。もはや言葉では足りなかった。自分の中で正当化され例えば、恋人を紹介してもらうなら、学校名や好みのタイプな た悲しみを痛みで覚えさせ、屈服させたかった。そうすることか ども特定できたし、初体験をお願いする相手も特定できた。そし 生まれてこなかった子供やチロルの代弁をしていることになるとて、このネットワークの存在は保護者 ( 主に母親。生徒の大半の 信じて疑わなかった。 母親はここの卒業生である ) の暗黙の了解を得ていたインター 「これは何 ? 今あなたがしてるのは何 ? 私に対するしつネットが流行する前は、生徒会室の前にポストが置いてあり、そ 手のひらで覆われてくぐもった声で、何度も鼻をすすりな こにリクエストを投函すれば、下駄箱に窓口となる人の電話番号 がら悦子さんは言った。 が書かれたメモが入っているというシステムであったらしい歴 「ねえ ! 誰かに話そう。私たち、もうふたりだけじやダメだと史のあるネットワ 1 クであり、実はこのネットワークがあるおか 田 5 , フ」 げで子供に「間違い」を起こさせないで済むと考えられていた よく見ると鼻血がボタボタと垂れていた。 4 106

4. 文藝 2015年 spring

を感じることが私の救いになっているから。 わせています。逃げ切れるとは思っていませんが、この生活が少 いつものように枕を背中に当てて足を投げ出し、藤堂さんの くしでも長く続くことを私はただ祈るばかりです。 れたプリントをもう一度じっくり読もうと開く。ふと、背中に違清水さんにはほんとうにすまないことをしたと思っています。 和感を感じた。枕をつかんでひざの上に裏返して置き、カバーの私が弱すぎたのです。 いくら謝っても許されないことかもしれま 表面をなでると何か四角いものが布の下にある。指ではさんで引せん。ただ、萌のことは悪く思わないでください。あの子は私を っ張りだすと、白い封筒だった。表に「清水クルミ様」と大人っ夫から守るために口を閉ざしたのです。どうか責めないでやって ′、たさい ばい縦書きの文字があった。裏返す。差出人の名前がない。あわ てて中の手紙を開く。 ほんとうに申し訳ありませんでした。あわせる顏がなく、お手 紙にしたこと、お許しください 「いきなり手紙を出すご無礼をお許しください。 私は花田萌の母です」 花田サチ」 最初の一一行を三度読んでしまう。激しい動悸と耳鳴りが襲って何度も読んだのだろう。手紙の折り目にあたる部分が毛羽立っ くる。息を吸い込みゆっくりと吐き出す。震える手に力をこめ、て、文字が薄れ始めている。、つこ、 ( ナしこれは何なのだ。あまりに しつかりと手紙を握り直し続きを読み始める。 も身勝手なその文面に、遠近感が失われ突然そこが見知らぬ場所 「昨年の九月、娘が自殺未遂したのは、清水さんのせいではあり に思えてくる。遠くで景色が激しく揺れ、嵐のような怒りがやっ ませんでした。たしかに清水さんの悪口は何度か日記に出てきまてきた。 したが、清水さんのせいにしろと言い出したのはあの子の父親、クルミが帰ってくるまで待っている間も、怒りは薄れるどころ 私の夫でした。夫は二年前にリストラにあい、それから私に暴力かますます激しくなっていく。頭に血が上ったまま夕飯の支度を をふるうようになって、萌はそれが嫌でたまらなかったのです。終え、ひとりリビングのソフアに座ってドアが開くのを待つ。 それで萌は睡眠薬を大量に飲んで : 「これは何 ? 」 幸い発見が早く、命を取りとめましたが、家での暴力が知られ帰宅したクルミの目の前に、花田萌の母親からの手紙を突き出 るのを避けたかった夫は先手を打って学校側に抗議し、清水さんした。クルミはちらっとそれを見たが何も言わない。 の名前を出したのです。私は夫がこわくて、それは違うと言い出「これ、いっ知ったの ? この手紙、いっ誰に渡されたの ? せませんでした。ほんとうに申し訳ありません。 私が次の質問を投げかけても、クルミはじっと黙っている。 大学入学に合わせて、私と萌は家を出ました。夫から逃げて新「あんたこんなこと言われて黙ってられるの。ママは許さない。 しい生活をスタ 1 トさせ、やっと穏やかな生活を取り戻しました。 なんで黙ってたのよ」 萌も元気に大学に通っています。夫には違う大学に入学したと思 たんだん声が大きく高くなって、 しく。そうだ。私は絶対に許さ 21 2

5. 文藝 2015年 spring

なんで動かないんだよ。さっさと行けばいいのに。 しばらくその場にじっとしていると、だんだん目が慣れてきた。 プシュ。空気の漏れるような音を立ててバスが揺れた。僅かに後真っ暗だと思っていた窓の外から、ばんやりと白い光が差し込んで ろへ下がって一度止まったあと、溜めていた力を放すように急に前いる。誰かが外を走っていく気配がした。 へ進み始める。泳ぐのに似ているんだな。サオはそう思った。 突然、消えていた電気がついた。眩しい。サオは目を細めた。 「じゃあまた明日」もう一度大きく手を振った。女の子がサオを見「ああ、びつくりした」母が長い息を吐いた て口を動かしたが、何と言ったのかはわからなかった。 「焦ったよ」そう言いながら父が居間に入ってくる。風呂から上が ったばかりで、まだ髪が濡れていた。 夏とはいえ、八時近くにもなれば辺りはずいぶんと暗くなる。ハ 電話が鳴った。そのまま父が近づいて受話器を取る。 スが排気口から黒い塊を吐き出しながらゆっくり視界から消えると、「本当ですか」父が声を上げた。「こっちは全然何も」 サオは祖母の家まで走って帰った。 「なんで電気が消えたの ? 」サオは聞いた。 「ただいま。お腹すいた」サオは居間を抜けて台所へ入ると、流し「停電。昔はよくあったのよ」 台に近づいて蛇口をひねった。出始めの水は生温いので、しばらく 「おい、テレビ」父が受話器を持ったまま、テレビを指差しながら 待ってからコップに溜め、一息に飲む。遠くのほうからプンという 大きな声を出す。 低い音が聞こえていた。 サオはリモコンのボタンを押した。すぐにテレビはついたが、真 「なんの音だろう」船の汽笛とは違う。 っ暗な画面はテロップだらけで、ところどころに赤い光が揺れてい サオはコップを流し台に置き、居間に戻った。低い音は次第に大るだけだった。アナウンサーが早ロで同じことを何度も繰り返して きくなっている。車のエンジンがかかっている時のような振動がサ オの体へ伝わって来た 「えらいことになった」父は電話のボタンを押し続けていた 「何これ」 「カイメッって何 ? 」サオは聞いたが、祖母は画面に向かって両手 「何が ? , 母が首を傾ける。 を合わせたまま、じっと正座をしている。何かとんでもなく恐ろし 居間の壁にかかっている古い時計の針はちょうど八時を指すとこ いことが起きたらしい。それだけはサオにもわかった。 ろだった。長針がカチリという音を立てて真上を指すと、急に振動「ダメだ」電話を置いた。「つながらない」 か消えた。 父はリモコンを手に取って、食卓の椅子を電話の近くへ引き寄せ 「わ」窓の外で何かが光ったような気がした。 ながらテレビの音量を上げた。 「どうしたの ? 」サオが母に答えようとした瞬間、いきなり電気が 「みんなこっちにいて良かった」母が声を震わせた。「もし家にい たら . そう言って床に座り込んだ 消えた。窓の外も真っ暗になる 「停電か , 父の声が響いた。「危ないから動くな」 466

6. 文藝 2015年 spring

げんじようこうあん こで作った言葉なんじゃないのか ? 「何ぞ必ずしも : ・ : ならん」 の第一「現成公案」にこういうことが書いてある。 しょ - フきゅう ーんじよう みつう 「証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあの語法をここに当てはめると、「密有は何ぞ必ずしも見成ならん」 かひっ らず、見成これ何必なり あるいは「見成は何ぞ必ずしも起こらん」あるいは「見成はどうし 石井恭一一による現代語訳 ( 河出文庫 ) はこうだ。 て必ずあると言えよう」、仏法が普遍の究極に存在しているという 「究極の覚りは必ず現われるのではあるが、仏法が普遍の究極に存真実は、どうして必ず目に見えようか、か ? あるいは、密有が見 在しているという真実はかならずしも顕在化しないし、見てとれる成する ( 目に見える ) とは必ずそうなると言えるようなことではな ように現実化することはかならずしもないのである 「密有、は岩波文庫の注釈によると「知覚の対象とならない真実。」、私は自分の語学の適性のなさをつくづく感じる、そしてそのうち 「何必」は「「何ぞ必ずしも : ・ : ならん」という、説明不可能な事実。」 「何必」というここではじめて出会った、ここ以前には人生で一 石井訳だけ読んでいる方が原文と合わせて読むよりわかった気持度も出会ったことがない「何必 . という語が、ここのままでいいじ ちになれる、しかし原文を合わせて読んでわかった気にじゅうぶんやないかと感じられてくる、「何必」というのはそれが誰にでもわ にならない現代語訳というのはいいのか ? というのは、私はいい かるようにつねに一定して起こる現象と別の現象のことだ、山を見 のか ? 現代語訳は現代文として文法的にあるいは文の作りとしてて山がただ盛り上がっているだけでなく自分自身のカで大地からカ 違和感がないからするっと入る、それで何かわかった気になってるをこめて立ち上がっていると感じた瞬間、マチスのひと筆描きのよ だけなんじゃないカ うなミルクピッチャーにリンゴが三つピッチャ 1 のロに置いてある 石井訳と照らせば、知覚の対象とならない真実という「密有」は、 絵になんともいえない丸みを感じそのうちにミルクピッチャーの質 仏法が普遍の究極に存在しているという真実 ということだ、「現成 , 感やリンゴの実在感を感じ出した瞬間、それが「何必」だ。・ウ は顕在化することだ。「すみやか , を石井訳は必ずと訳しているが ルフの『灯台へ』は何度読んでもどういうわけか冒頭から頭に入ら 手元の古語辞典に「すみやか」に「必ず」の意味はない、 もっともず三十ペ 1 ジくらいで挫折した、それがあるときするすると頭に入 私の手元の古語辞典は小さい、それに古文は書き手ごとに語の意味り像が結ばれた、これもきっと「何必」だ、『灯台へ』は私のまわ の幅が広い、しかしここでの意味は「証究」究極の覚りが起こる りで何人も「少しも頭に入らない」 と言うのを私は聞いた。 速さを言っているのではないか、速く、瞬時にして悟りは起こる、 こうして、いろいろ迂回し、あっちこっちから攻めているとその 悟りは瞬時にして起こり瞬時にして去る、速い遅いという時間の感 うちに原文の、 覚はそこにない、それはいい、 「見成これ何必なりーがしつくりこ「証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあら ず、見成これ何必なり。」 ごいいちなせ「見成にはルビがないのか、道元が書きながらこ にだいぶ近づく、しかし私はまだ原文に重なったわけではない、 げんじよう 遠い触覚 489

7. 文藝 2015年 spring

ナ無意味に年とともにやわらかくな 丸みを増した下腹や腰は、こご 「おとなになった言葉たちがひっそりと寄り添えば ったのではない。肌ではじき返すのではなく、その弾力を失った やがて声になりそして詩になる」 からだで浩介とクルミの深くなる苦しみを受け止めてくるみ込む 何度読んでもこの二行から目が離せなかった。やがて声になり、 ことかできるよ - フに亦夂化してゆ ~ 、のた というところを何度もなぞってしまう。声。クルミの声。聞きた 私はあいだにいる。家族のあいだからだと気持ちのあいだ いのはあんな芝居のセリフみたいな声じゃない。私が聞きたいの は、クルミの心が感じ、全身を使って吐き出す声だ。それがクル昨日と今日の、今日と明日のあいだ、あらゆるあいだに私はいる 目を閉じると、女であり母であり人である私が、クルミの苦悩と ミの声なのだ。 虚勢のあいたにいることを感じる。感じながらあの言葉を心の中 ゴムの靴底のようなアメリカ産の分厚いステ 1 キ肉を三センチでつぶやくと、得体の知れない熱さが腹の底に湧き出してくる。 角に切り分け、小麦粉をまぶしてバタ 1 で炒める。そこにワイン藤堂さん、これが言葉と意味が一つになったしるしなんですか ? を入れアルコールを飛ばし、セロリ、たまねぎ、ニンジン、ロー 私は何度もあの言葉をつぶやく。熱が冷めないように、弱火で 丿工、水とトマトビューレ、それにプイヨンを加えて沸騰させたコトコト煮込むように、私は大事に言葉を温める。 後、弱火にして台所を出た。これから二時間コトコト煮込む。 リビングのソフアに座ってテレビのスイッチを入れた。夕方の帰宅したクルミが部屋に入ったきりいくら待っても出てこない ニュース番組が始まっている。音を消し、いつものようにきちんので、心配になってドアをノックした。返事がないそっとドア と背筋を伸ばし、私は心の中であの言葉を呪文のように繰り返す。を開けると、電気もつけずにクルミがべッドに腰かけているのが からつばの私がからつばでなくなるためにも、その言葉と意味を目に入った。 「どうしたの、何かあったの ? 一つに仕上げ、ロにした途端力がほとばしり出るように鍛えなく ては。 私は近づいて声をかける。クルミか小さくなってしまったよう 日が暮れてはやばやと夜の闇が窓や戸の隙間から押し寄せて、に感じて、私はゆっくりとべッドの端に腰かけた。腕を伸ばして 私のやわらかい部分をおかしていく。母とは、はち切れるような抱きしめたい衝動にかられるけれど、感情でごまかしてはいけな 自分で埋まった存在ではいられないのだと思う。家族の喜びや苦いのだと思いとどまる。 「どうしたの、大丈夫 ? しみや悲しみが外へあふれ出したとき、それをスポンジのように 吸い込む隙間を用意していなければならないからだ。闇におかさ「『我が家を牢獄にしたのは誰 ? 』ー クルミの声は低く響いた。それ、私の書いた詩の一行だ れていくやわらかい部分は、私のためでなく家族のためにあるの だと感じる。ゆるんだあごとたるんだ二の腕と垂れかけた乳房と「なんで知ってるの ? 四月は少しつめたくて 223

8. 文藝 2015年 spring

かった。だって清水さんって、ちょっとぐらいいじめられたってこない。 全然平気ってタイプじゃない。 強い人だもん」 あんなにクルミがしゃべるのを聞いたのは、ほんとうに久しぶ 「それを言うためにわざわざ呼んだの」 りだったと私は振り返る。けれど、それはまるでクルミがしゃべ クルミの声の調子は変わらない。 っているようには聞こえなかった。何かかとりついているかのよ 「ちがう。あやまりたかったんだ」 うな平板な声。そしてびくりとも動かなかった表情。花田萌を罵 花田萌の声から強がりが消えた。ずいぶんべッドに近づいた私倒するかと思ったのに、ひたすら冷静で謝罪も受けつけなかった。 には、その表情が読める。 たしかに藤堂さんの詩にあるように謝罪は権力を生むし、許しは 「あやまってほしくなんかない。 きみの好きな藤堂孝雄が言って忘却を生む。あれがあの子のせいいつばいの抵抗だったのだろう る。『謝罪は権力を生むだからあやまってほしくないんだ』って。かだとしても、クルミはもっと怒ってもよかったのだ。許す気 意味わかるよね」 などないとはっきり言ってやればよかったのだ。あんなことで終 それ、「朝の祈り」の中の二行だ。クルミの思いがけない言葉わらせてしまっていいのか。終わらせてしまった ? たしかに、 に私は驚いたが、花田萌はすぐにうなずいた。そして「きっとそこの件には一応ケリかついたように見える。だけどクルミはその う言うって思ってた」と言った。い まにも泣き出しそうな顔だ。 小さな胸にまだまだいつばい何かをため込んでいるにちがいない。 「やつばり清水さんって強いよ。私、ほんとはうらやましくてあ私はクルミの勉強机に向かって座った。主のいない部屋は冷たく、 こがれてたんだ。清水さんみたいな強さが自分にあったら、私だ縮かんだ空気が私の憂鬱をはね返してくる。 ってこんなことにはならなかったんだと思う」 あの日以来、クルミは目に見えて元気がなくなってきている。 「もう終わったことだから」とクルミが言うと、花田萌はクルミ 張りつめていた糸が切れてしまったのかもしれない。励ましたい。 の顔をじっと見て「わかった」と答えた。クルミが持っていた詩負けないでほし、。 ( なんとかがんばってほしい。元の元気なクル 集を差し出すと、花田萌は包帯を巻いていない右手でそれを受け ミに一民ってほしい。 そう言いたかったけれど、その言葉はクルミ 取った。唇をかみしめ、涙をこらえている。 の表面をすべり落ちていくだけだと思われた クルミは振り向くと、私の横を通り過ぎ病室から出ていった。 きれいに片づけられた机の上に突っ伏して私は考える。あの子 私はあわてて後を追った。 のために意味を持った言葉を見つけたい。でもそれはどこにある のだろう。 夜になるとフリースのプランケットが恋しいくらい寒くなった 私は立ち上がり、寝室のバッグの中からあの詩を取り出した。 ので、クルミの部屋にヒ 1 タ 1 を運ぶ。ェアコンの暖房だけではそしてリビングのソフアに座って藤堂さんが私のために選んでく 足りないから。すっかり日は暮れているが、クルミはまだ帰ってれた「霧が晴れたら」を何度も何度も読んだ 2 2 2

9. 文藝 2015年 spring

「机の上に置いてあったから読んだ」 いう幽霊なのだとわかる。そしていま、私は幽霊じゃなくなった 全身鳥肌が立ち、恥ずかしさで震える。 のだと気づく。私は何度も何度も練習してきた言葉を口にしよう と思う。勇気を出して。 「「私という幽霊が我が家という牢獄に住んでいる』ー まるで私の声を代弁しているようだ。なぜそんなことを言い出「大きな声で、もう一度」 すの ? クルミの低い声に私は激しくとまどう 意味よ戻れ。ただそう祈る。 クルミが顏を上げた。涙に濡れた頬が月の光の中でかすかに光 「『我が家を牢獄にしたのは誰 ? 』って、それ、私だよね」とク ルミが言ったので、「ちがうわ。花田萌じゃない」と即座に言い 返す。 「大きな声で、もう一度」と私はゆっくり繰り返した。 「私、花田萌が嫌いだったんだ。みんなの顔色うかがって、いっ クルミはじっと私の目を見ていたが、小さな声で「つらかった」 も薄っぺらな笑顔で、それが意味もなく腹立たしくて、それなのと言った。 に、自分はほかの人とはちがうんだって顔をして、こっそり詩集「大きな声で、もう一度ーと私は繰り返す。こわがらないで、ク なんか渡しに来て。だから無意識のうちにムシしてたんだと思う 花田萌の言ってること、まったくのウソじゃないんだって、いま「つらかった」とクルミが言う。 はう。でもどうしても許せない」 「大きな声で、もう一度」と私はもう一度繰り返す。 クルミがやっとの思いでそう告げてくるのがわかって、私は緊「つらかった。つらかったよお」 張する。いま話さなければ、いまわかり合えなければ、もう一一度クルミは大声でそう言うと声を上げて泣き始めた。たるんだ二 とチャンスかないとさえ田 5 った。 の腕に抱かれた頭を私のやわらかい腹に押し当て、厚みを増した 「弱音を吐いたっていいのよ。だってここはあんたの家なんだか腰に細い腕を回し、泣き続けるクルミの全身が発する苦しみと悲 しみの力を私は受け止める。私の苦悩がそのカで流されてい ら」 クルミはじっと自分の手を見つめたまま顔を上げない。その言クルミの声を聞けた喜びが私の中にあふれ出す。クルミがはじめ 葉の意味が、どうかそのまま伝わるようにと願う。しばらくするて言葉をしゃべったときの、あの喜びと同じ喜びだ。だから、き と細い肩が小刻みに震え出した。私はそっと近寄るとそばに立ちっと、きっとこのまま待っていれば大丈夫なのだと感じる クルミの頭を抱いた私のお腹におでこを押しつけたまま、クル ミはくぐもった声で「つらかった」とつぶやいた。私は真っ黒な 髪をなで続ける。その一言が言えなくてこの子は苦しんでいたの だ。クルミは静かに泣き続ける。我が家を牢獄にしたのは、私と藤堂さんから七か月ぶりにラインにメッセージが入ったとき、 、 0 レ、、、 る 224

10. 文藝 2015年 spring

「へえ」 「いや、ちょっとぐらい話できたのになあ」 「良かったらそれ」 「あんな早い思わんかったから、連絡して、来てくれはる、 「ええの ? 」 た次の日に死ぬて思わへんからね」 「わたしが持っててもしゃーないし」 「まあそうやな」 「ほなもろとくわ」 「ほんまに死んで直後に来はったから」 「ほんま」 「さむい」 「一分ぐらい」 おばあちゃんがいった。 「そんなことないやろ」 「これ着とき」 男の人は笑った。 「俺行ったとき、もうきれいにしてもーてたやん。病院の人にし男の人が上着をぬいでおばあちゃんにかけた。 「さむないの ? 」 てもろたんやろ ? 」 「さむい」 「はい」 おばあちゃんが笑った。 「一分であないきれいにならへんやろ」 「そうか」 マリは夭った。 「これ着とけや」 きよしかいった。 「あ、そうや」 とマリが引き出しから一枚の写真を出してきた。男の人が見る「わたしいらん。あんた着とき。風邪ひくから」 「俺暑い」 とそこに四人の男の子たちが写っていた 上着を投げた。おばあちゃんはそれを受け取 「あ 1 、これおばえてるわ」 って、肩にかけた裁判所の帰りだった。家庭裁判所だ。もう何 男の人が右から二番目をさして 度もおばあちゃんはきよしを連れてここへ来た 「これ、な」 一一人は無言で歩いていた。おばあちゃんはもうどうして良いか 「はい」 わからなくなっていたこうしているときはとてもきよしは優し 「ほんでこれ、俺ー いのに、何かの拍子に暴れて人を傷つける。今回もそうだ。よそ とその右隣の男の子をさした。 の学校の生徒を切り出しナイフで切ったのだ。切り出しナイフは 「何か知らんうちに、あそこへ入ってて」 おばあちゃんが買い与えた。鉛筆削り用に。それできよしは人間 とマリは引き出しに顔を向けた。