は書けないことを書けるなりの高んて縦にならないと書けないもん。と書けないですか。 ハソコンを使っていたので手が慣 まりがあるんです。 磯﨑そうですね ( 笑 ) 。今、東宝保坂書けないね。喫茶店はもうれているのもあります。でも、最 横尾それは流行作家じゃない証スタジオでも描かれているんですか。だめ。ワー。フロもほとんど使わな近老眼の進みがすごく早くて、半 拠じゃないですか。流行作家だっ 橫尾 うん。僕はアトリエがいろくなった。 年前に見えていた画面がもう見づ たら編集者が横で待っているからんな所にあるのが、いちばん理想横尾最初は原稿用紙でしよう ? らいですから。今後はそういう「今 そんな呑気なことは言っておれななんです。東宝に行ったらここで 保坂は、。 一時期、手書きで書まで通りには行かない感じ」が出 いよ。きっと保坂さんには流行作描くのとは全然違う絵を描いちゃ いた原稿をワー。フロで直しながらてくると思います。横尾さんは裸 家の資格がないのよ ( 笑 ) 。でもう。場所を変えることは自分のペ清書して第二稿を書いていたんで眼ですか ? だからいいんですよ。 ースを崩すことでもあるけど、崩す。でも今はそれもやめて、基本横尾老眼鏡をかけないと本が読 めない。 保坂 ( 笑 ) 。それと、持続もしなすのがまた自分の。ヘースだと思っは一稿だけにしちゃった。 くなりましたね。 ている。アトリエがもっとあれば、横尾 そうすると保坂さんは今は磯﨑普段の生活は ? 橫尾まあ、老化現象ですよね。もっといい。磯﨑さんが屋根裏を原稿用紙 ? ちょっと、ほけてるけど、な 横尾 でも老化に入ってしまえばそこか貸してくれたら飛んで行きます。 保坂 にもしなくて大丈夫かな。 ら本格的な世界にいきますよ。老磯﨑すごい狭いですよ ( 笑 ) 。 磯﨑でも、実は保坂さんは—e 磯﨑絵を描く時はどうですか ? 化っていうのは肉体だけじゃなく、 横尾その屋根裏に合った絵を描のスキル、高いですよね。 横尾眼鏡をかけたり、かけなか 脳も老化するし、インスビレーシきますよ ( 笑 ) 。 保坂初期の—e だけだよ。 ったり。 ョンも老化する。老朽化です。そ 磯﨑空間の感じはやつばり絵に磯﨑携帯メールを打つのがすご保坂どっちの眼鏡ですか。 れはそのまま消滅に向かうんでは出るんですか。 く速いし、オーディオ機器は僕よ橫尾老眼鏡です。その中に乱視 なくて、若い時には経験できなか横尾 そうですね。僕たちは最初り全然詳しいし : : : それでも手書も入る。今日、東宝でかけていた ったり、書けなかったことが新たにある絵を体験すると「あそこのきがいいのは、スキルの問題じゃ眼鏡はゴダールの映画を観に に書けることなんです。そうなっ美術館のあそこを曲がったところなくて、小説を書くことに関係し行った時にもらった眼鏡ですよ。 た時、物書きは紙があれば書けての壁にかかった絵」というふうにた何かあるんですかね。 磯﨑どう見えるんですか ? しまうからいいですよ。僕は昨日、連想しますよね。展覧会の会場に横尾磯﨑さんは原稿用紙なんて、横尾どうも見えないよ。ちょっ 寝床で横になったままェッセイをよって、絵が違ったふうに見える、最初から書いたことがないでしよとピンが甘いかなっていうくらい 、つワ・ 一本書いたんです。なんだ書けちそれと同じことがある。 みんなが「どう見えるんですか」 ゃうじゃんと思いましたよ。絵な磯﨑保坂さんは今、家じゃない 磯﨑そうですね。会社でずっとって言うから、「立体が平面に見 340
いたはずである いました。利鎌が高等学校へ入って、〔夏目先生の〕早稲田のお宅へ ちょうど同じ一九一三年 ( 大正一 l) 三月、彼女は三〇歳年下の腹出入りさせていただくようになってから、わたくしも二、三度お伺 いしましたが、ある時先生にお目に懸って、しみじみわたくしの身 違いの末弟、前田利鎌を雑司ヶ谷の自宅に引き取って、同居しはじ の上をお話し申し上げますと、「そういう方であったのか、それで めた。利鎌は、このとき満一五歳、郁文館中学の生徒である。 かって卓は、自身が上京 ( 一九〇五年 ) した二年後、父の妾腹のは一つ「草枕ーも書き直さなければならぬかな」と仰しやってでご 子にあたる、覚之助、利鎌というずっと年下の弟たちと、その生母ざいました。本当にわたくしという女が解っていただけたのだろう ハナを東京に引き取り、民報社の近くに借りた家で一時同居した。 と存じます。》 その後は、また分かれて暮らしていたが、ふたたび利鎌ひとりを引 このあたりの事実関係は、もはや、はっきりしない。 き取ることにしたのである。さらに二年後、利鎌は卓の養子となる 利鎌が郁文館中学を卒業し、第一高等学校文科に入学するのは、 「弟ーから「子。へと変わったわけである。 ちなみに、漱石にとって一九一三年一二月は、苦しみながら「行人」一九一五年 ( 大正五 ) 秋である。 一通だけ、漱石から前田利鎌に宛てた手紙が残っている。一九一 の連載を朝日新聞紙上で続けて、ついにまた胃潰瘍に陥って、連載 六年 ( 大正五 ) 四月一一一日付けである。 中断に至る時期にあたっている。 宋教仁の暗殺後、孫文、黄興らは、同年七月、華中、華南の各地《拝復私はあなたの名を忘れてゐました前田利鎌といふ名前を ( も ) で、袁世凱の打倒、つまり「第一一革命」を掲げて、軍事蜂起を呼び眺めてゐるうちに若しゃあの人ではなかったかと思ひ出しましたが かける。だが、失敗。彼らは、また中国を脱出し、八月、日本に渡それも半信半疑でありました穴八幡の処で会った人があなただら ってくる。 うとは夢にも思ひませんでした若しあれがあなたなら私の小説の このとき、およそ一〇カ月におよぶ黄興の日本滞在中、親身に日縮刷を手にしてゐはしませんでしたか ごろの世話を焼くのは、養育院での仕事がある前田卓に代わって、 私は多忙だから面会日の外は普通の御客には会はない事に極めて その弟、九二四郎だった。卓、九二四郎、利鎌は、同居していたよゐます面会日は木曜日ですが木曜は学校があるからあなたも忙が うである。黄興は、年少の利鎌もかわいがった。そして、翌一四年しいでせう然し学校が済んでから来る勇気があるなら入らっしゃ お目にか、りますから以上 六月、さらに彼は米国へと渡っていく。 夏目金之助 四月十二日 先に触れた森田草平による聞き書きで、のち、老齢に至った前田 前田利鎌様坐下》 卓は回顧する。 穴八幡とは、早稲田南町の漱石宅の近所にある神社である。なに 《あれはわたくしが上京してからもう十年も経った後のことでござ とがま 295 女の言いぶん
て、紐の付いているところを釘に引っかける。額には、古風な書体 願います」と挨拶して、急いで帰っていった。 鵐外が「半日」を書くのは、こうした家庭内での不幸が重なったの三字が浮き彫りにしてあった。 翌年 ( 一九〇九年 ) 春のことである。互いの神経を傷めあい、誰も これは何と読むの ? 」 かいくらかおかしくなっていて、不信感といさかい、救いのない悲於菟が訊くと、鵐外は答えた。 しみや後悔が、まだ静かに煮えているようなときであった。外自「賓和閣さ。お客が仲良くする所というわけだ。家のなかでは喧嘩 、はかり - をしている力、ら、ち一よ - フとし 。、、だろう。」 身も、例外ではありえない。 そう言うと、於菟に向かって、おどけた手つきをしてみせた。し このように見てくると、明らかになることか、さらに一つある 森しげは、自作の小説のなかで、外との結婚以来の家庭内の出来げは、出かけていて留守だった。彼女がいては、先妻の子である於 事をいろいろと書いている。だが、彼女は不律の死を直接の題材と菟と、鵐外とが、こんな父子らしい姿をその目にさらすことはでき するものは、一度も書いていないのである。「猩紅熱」の冒頭で、「一一ない。ちょっとものを言っても、嵐が荒れくるうような時代がまだ 月五日は去年生後半年ばかりで波子の男の子が肺炎で亡くなった命続いていた。 ともあれ、ここからもわかるように、子どもたちは鵐外に対して、 日に当る」と書き、また一方の「ばっちゃん」で、体の不調を抱え これは何と読むの ? ーと、いわばタメロである。 ながらも無事に男児を出産できた喜びを記してはいるのだが。誕生「パッ。、、 と追悼、その二つの言及のあいだに残された空白が、彼女の痛む傷夏目漱石の家では、そんな様子はない。彼の子どもたちは、父親 ロの深さを思わせる。おそらく、鵐外も、しげも、みずからこれらに対して、もっときちんとしたロの利き方をしたはずだ。ここには、 の創作を試みることを通して、そのことに、はっきり、出会いなお鵐外と漱石のあいだの、一種不思議な印象の逆転がある。そして、 していたのではないか。 この点について言えば、当時の中流知識人の家庭としては、夏目家 のほうが普通で、森家がくだけていたのである。鵐外やしげが、そ さほどは、このときから時を隔ててはいない大正の初めごろのこれを好んだということでもあったろう。 と。医科の学生だった長男・於菟の記憶によると、休日の午後だっ 漱石にも、作家本人の没後、なお長く全集に収録されなかった遺 稿がある。岩波書店の新書判全集 ( 一九五六 5 七年 ) になって初めて 鵐外は、自宅・観潮楼玄関の式台の上に踏み台を置いて、そこに収録されたもので、一つは、「日記」と「断片ーにおける皇室に言 乗り、右手に金槌を持ち、鴨居のなかほどに釘を打っていた。於菟及したくだり。そして、もう一つは、漱石による夫人に対する不愉 が門を入ってくると、鵐外はそこから振り返って、「ちょっと足継快が「露骨」に書きつけられている時期の「日記」 ( 一九一四年一〇 ぎを押えてくれ」と頼み、またしきりに金槌で釘の頭を叩いている。月三一日から一二月八日 ) であったと、この件の判断にあたった門弟 「於菟、そこにある額を取ってくれ」というので、玄関の上がり端の小宮豊隆は述べている ( 小宮豊隆「未発表の漱石日記について」 ) 。と に立てかけてある横長な小型の額を取って渡すと、鵐外は受け取っはいえ、漱石夫人の夏目鏡子は、このとき、まだ生きていた。 272
「病人のあるところへ来て騒がせては済まないと思って、途中で食 ク新しい女をの時代の到来を告げる「青鞜」創刊号 ( 一九一一年九月 ) べて来たの。ほんとよ。」 いくぶんそれとも毛色の異なる、この「死の家 . という作品は 「わたくしが病気でないと、詰まらない物でも、お嬢様のお口に合 この う物を拵えますのに。それでもお薩の新を先程掘らせたのが、ふか載る。そして、しげ自身、鵐外の妹・小金井喜美子とともに、 してある筈でございます。どうぞあちらで少しでも召し上がって戴雑誌の賛助員に名を連ねていた。実際に雑誌を切り盛りするのは、 平塚らいてうをはじめ、しげよりもさらに若い世代の日本女子大出 きとうございますが」 身者を中心とする社員たちだった。 「薩摩芋は相変らず結構よ。では御馳走になって来るわ。」 まっすぐに相手を見て、正直にいまの気持ちを述べる、そういう 薩摩芋なら皮があるから平気だと、弓子は思う。執事といっしょ に母屋の奥座敷に行く。せつかく支度がしてあるのだからと言って、清潔さが森しげの小説にはある。だが、実生活でもそのように生き 執事はいろいろなものを一人で食べている。給仕に出てきた母親は、れば、絶えず周囲との摩擦を引き起こすことになるだろう。 病人のことを言っては泣く。それを執事が慰める。母親は涙がばら単行本「あだ花』に収録された「旅帰」の主要人物である妻は、 ばらこばれるのに、両手で顔を覆うでもなく、前掛けで拭くでもな貧しい小官吏の家に育った人である。娘時代に、母が、父の上役か 、手放しで泣く。弓子は、この見たことのない泣き方を妙だと思ら呼び出され、手土産をどうしようかと相談するので、彼女は、 って、皺だらけの老人の顔を見ていたが、ふとおかしく思えてきて、「おっ母さん。うちでは人の喜ぶような物を持って行くわけには行 さっき汽車のなかの紳士を笑ったようになってはいけないと、唇をかないのですから、いっその事お土産なしでいらっしゃいよ。 と犬ロえる。 噛んでよそ見をしたりする。そして、ついに席を離れて病人のいる 昔気質の母親は、結局また近所でつまらない菓子を買い、それを ところに一民る 乳母の子どもが帰ってきていて、写真にも増して美しい子どもだ手土産に出向いていくのだが、こうした母娘のあいだに交わされる 会話は、私に、強い印象となって残っている。 った。乳母は、母を失う子のことをくれぐれもと弓子に頼んだ 実際には、しげは、佐賀の士族の出で大審院判事までっとめる人 執事に促されて、帰り支度を始める。実は「死」の家を離れるの がうれしかった。そして、堪えがたそうに名残を昔しむ乳母を見て、の娘である。これほど貧しい暮らしの経験はなかったのではないか。 いや、だからこそ、なのかもしれないがーーー、相手も 自分を一瞬不満に感じた。 喜ばないようなものを買うより、世間のしきたりにかまわず手ぶら 一面の青い畑の上をタ刻の涼しい風が吹いている。 とう気概が、この人のなかに 「さよなら」と言って、人力車に乗った。家の人たちはみんな出てで正直に出向いていくほうがよい、 きて見送った。がたがたと音をたて、車はくねくねした細い道を動生きつづけたのは確かだ きだす。弓子が振り返って見ると、乳母はどうやって上ったか、一一 「半日」から、ここに至る日々のあいだに、鵐外としげは、自分た 階の窓から幽霊のような顔を出して、こっちを見送っている 268
「ねえ御新さん。日が大ぶ暮れましたので、足元があぶなくなって 来ました。ここで酒手を一つ奮発してお貰い申したいもんで。ねえ。 「おはま」の視点人物、八重子は、まだ数え一八歳だが、結婚した 御新さん。」 ばかりで夫に先立たれ、世田ヶ谷村の別荘に出戻って暮らしている。 対する母親もクお富さんクみたいな口調である。 この別荘は新しく、日雇いの男女が庭を造りに通ってくる。そのな 「宿へ着いたら言われなくっても、色々面倒を掛けたのだから酒手かに、お浜という名の一一〇歳ばかりの女がいて、留吉という土方の は遣る積りだけれど、子供は連れているし、もう遅くもなったのだ親分の女房である。留吉は五〇近い男で、額の抜けあがった赤黒い から急いでやっておくれな。」 顔をしている。お浜のほうは、日に焼けてはいても、きめの細かい、 「なんでえなんでえ。御新さんはなんと云いなさるのでえ。」 輪郭の正しい顔立ちで、高い鼻などが形よく、たつぶりある美しい 六人の駕籠かきがぐるりと母の駕籠の周りに集まる。同行してい髪を東ねて、脚絆、手甲をあて、土を担いだり、草をむしったりし る書生が口をはさもうとすると、駕籠かきの一人が遮る ている。八重子が話しかけると、はじめのころは美しい顔を真っ赤 「若えのよしねえ、よしねえ。おめえじゃあ分からねえから御新さ にして、あまり口をきかなかったが、しばらくたつうちに、ご、ぶ んにお願いするんでえ。」 打ち解けて受け答えするようになった。 母親は言う。 ほかの草取り女の噂だと言って、女中がこんなことを伝えてくる。 「子供を連れた女だと思ってそんなことを云っては困るじゃあない お浜は見かけによらないふてぶてしい女で、身持ちが悪い。それで、 か。三島の宿の方へ着きさえすれば酒手は上げるから、急いで出掛亭主にはほとんど毎日、ぶったり叩かれたりしている。だが、お浜 けておくれ。」 の体は、不思議にも、太い棒でぶたれても、髪の毛をつかんで引き 当時の壅只には、まだ女性のこんな言葉づかいが残っていたのが まわされても、傷というものができたことがない。 泣きもしない わかる。しげ自身も、年配に至ると、こういう話し方だったらしい それを近所の人たちが不思議がっている。お浜は、この村で、目の 見えぬあんまの娘に生まれた。父親がわずかの金を返せなかったた このようにして、森しげの創作は、さらに「チチェロオネ」めに、一四になったばかりのお浜は、留吉に連れて帰られたのだそ ( 「三越ー第一巻二号、一九一一年四月 ) 、「岸ー ( 「三越ー第一巻六号、同年うである。 八月 ) 、「おはま」 ( 「新小説」同年八月号 ) 、「見合」 ( 「読売新聞」閨秀号、 ある朝、庭先にお浜の姿が見えないので、八重子は女たちを呼び 同年八月六日 ) 、「死の家」 ( 「青鞜」創刊号、同年九月 ) 、「りう子様に」 ( 「青とめた。 鞜」一九一一一年六月号 ) 、「お鯉さん」 ( 「三越」第二巻一一号、同年一〇月 ) 「飛んだ事でね。浜ちゃんとこでは、ゆうべ留吉さんが猪口を持っ まで、続いてい たまんま横に倒れて、それつきり死んでしまいました。浜ちゃんは なかでも、とりわけ面白いのが「おはま」。そして、「青鞜ー創刊可哀そうな事になりましたよ。」 号に発表された「死の家」である。 べつの女が言う。 女の言いぶん 26 ラ
などと訊く。つまり、「よいこ . と書くべきなのか、「よゐこ」なの ひらに載せ、小型のナイフで、すうと縦に割き、なかを眺めている。 か、と尋ねている。これなども、このころ鵐外が文部省の仮名遣調 《「あ。これがエムプリオ〔注・胚のこと〕だ。半分吸収されてしま 査委員をつとめ、表音派に対して、歴史的仮名遣い擁護の論陣を張 っている。」 っていたことなどから、家庭内での子どもらとの会話にも、おのず 「どれ」と云って大野が覗いて見た。 富子は、とうとう半分の子になったのかと思ったが、黙って目をと、それが反映したということなのだろう。 折しも、この家庭の照明は、ランプから電灯へと切り替えられる。 瞑っていた。》 「半子」という西洋人風の名と、半分に断たれたような姿の胚が、知り合いの新聞記者から電話がかかってくることで、電話の設置の 暗鬱なユーモアでつながれている。男女の別も判然としない時期でほうが早かったこともわかる。 の流産ながら、その「半子」という名は、実際に森家の家族内で語 りつがれていたようだ。つまり、鵐外の子どもたちは、長男が於菟「猩紅熱」は、一一月五日という、ある一日を舞台とする話である。 ー ) 、長女が茉莉 ( マリ ) 、流産の子が半子 ( ハンス ) 、次男「二月五日は去年生後半年ばかりで波子の男の子が肺炎で亡くなっ ( オット ( 早世 ) が不律 ( フリツツ ) 、次女が杏奴 ( アンヌ ) 、三男が類 ( ルイ ) た命日に当る。」 実生活においても、次男・不律が生後半年で早世したのが、一九 と、すべて西洋人になぞらえられた名前なのだ。 〇八年一一月五日である。だが、この作品では、舞台となる日は第一 「写真」は、遡って、しげの女学校時代のことらしい、若き男先生土曜で、主人が自宅でタ刻から「歌の会」を催す日だとされている。 つまりほば をめぐる同級生たちとの淡い恋心の思い出である。洋行のため離職だから、暦にも照らせば一九一〇年の一一月五日 していく先生に同級生一同で集合写真を撮って贈ろうと、相談がでリアルタイムで、この作品が書かれた時期に舞台は設定されている しわゆる観潮楼歌会のことをさ きあがったところで「わたくし」は高熱で倒れて、撮影には加われらしいとわかる。「歌の会」とは、、 していて、竹柏会 ( 「心の花」 ) の佐佐木信綱、新詩社 ( 「スパル」 ) ずに終わる。そして、急に縁談が持ちあがり、学校も退くことにな の与謝野寛、根岸短歌会 ( 「アララギ」 ) の伊藤左千夫らが集まる席 るのだった。 これが、しげの最初に書いた小説である。したがって、佐藤春夫だった。 が記した「自分を天下に訴える」という動機とは、隔たりがあるよ妻の波子が、八歳になる娘の学校を参観すると、元気に授業を受 , フにも田 5 , んるか けている。だが、所用を済ませて実家に寄ると、婚家の女中から電 話が入り、ピアノの稽古から帰った娘がひどい熱を出しているとい うのだった。 「旅帰」は、幼い娘が二人に増えた家庭に、夫が旅先から帰ってく ちょうど、猩紅熱で幼い娘を失くしたばかりの友人と会ったとこ る。ほかに、高等学校に通う年長の継子も一人。 数え八つになる上の女の子は、「パパ、好い子のいはア行ワ行 ? 」ろで、不安が募る。急いで家に帰ると、娘はうとうとと眠っている 258
さいな と田 5 った。 たん職場を離れ、子育てののちいずれ復職するつもりだった。 倫理上の罪悪感に苛まれることなどありえない、 二〇〇七、〇八年当時、大々的な勧誘セミナ 1 を都内の一流 しかし、さと子はその体験記を書かなかった。書いても二番 煎じに過ぎないし、エッセイストの文章を越えるものなど書け ホテルで開催し、派手な宣伝と出版物で話題になっていた「オ レンジプラン・ファンド」という投資顧問会社があった。スイ っこないことを、体験を通して悟ったのだ。 スのプライベ 1 ト・バンクを使った高利回りの投資がうたい文 彼女は、このことを社内やライター仲間にもいっさい口外し 、百万円投資する なかった。だがその後、打ち明けた人間がたった一人いる。そ句で、三カ月で六〇 % の利回りが可能といい しのぎ と、まず五十万円の額面のフリ 1 ・チケットと称するカ 1 ドか の男、木下隆は、常に発行部数でライバル誌と鎬を削っている 送られてくる。 男性週刊誌に、署名入りの記事を書く花形フリーライターの一 人だっこ。 東京ドームを借り切り、アクセサリー、貴金属、洋服、化粧 品などの有各フ , ランド品を揃えたアウトレットを出店する。顧 彼の取材は丁寧で、経済ものに強く、資料をコッコッ集めて いて、ネタもとの評論家や大学教授の勉強会やセミナーにもこ客は五十万円カードで、それらを自由に購入することができる。 まめに顔を出す。筆も早いうえ、取材費も抑えぎみで、編集者商品はすべて偽プランドか規格落ちのジャンクだったが、こう して千六百人から二百五十億円余りを集めていた。 の受けもよかった。本人は、いずれ高杉良のような企業小説の 木下はこの投資顧問会社を追っていた。ホームグラウンドの 書き手をめざしていた。 さと子が編集プロダクションの会社に入ってすぐの新人研修週刊誌に見開き四ページの記事を掲載する予定で、地道な裏付 け取材をつづけるとともに、学者、専門家のコメントを集め、 のとき、講師として招かれてきた彼に取材や文章の手ほどきを 締切り前に記事を完成させていた。しかし、彼は掲載直前にな 受けたことがある。その彼と、シネスイッチ銀座で、五年ぶり って、原稿を渡さないことにする。担当編集者は驚き、激怒し に偶然出会った。小津の『浮草』を観に行ってのことである。 て、深夜に電話での激しいやりとりが何時間もつづいた 木下はさと子を、築地場外の測除神社近くのイタリア料理店に できん ・誘った。 ある日、夜遅く帰ってきた木下は、さと子に、おれ、出禁に なった、とだけ言った。 さと子は、終始快活で、話を逸らさない木下の人当りの良さ 出禁とは、ホームグラウンドの週刊誌だけでなく、他のメデ に誘われるようにして、自分のデリへル体験を語った。彼との ィアでの執筆の機会も失われるという厳しい処分ナ 交際がはじまった。食べものの好みも合い、体の相性もい ( なぜ、あれほど力を入れて書いた記事を渡さないことにした 三カ月後には、下落合の彼のマンションで同棲生活をはじめた。 っ やがてさと子は妊娠し、迷った末に産むことに決めた。い のか、彼女は不審に思ったが、あえて詳しくたずねることはし ロ 8
逆転が行われている。この「なおみ」という読みの一致 は偶然ではなく、文学少女でもあった真由子が『痴人の 愛』を意識して、この命名に導いたのである 直巳の母親は、真由子の親友、百合で、父親は初恋の 人、諒一である。諒一は、真由子の家に下宿していた作 家の卵で、真由子が長く憧れていることを知りながら、 百合が妊娠を機に奪い取っていったのである。百合への 密かな復讐として、真由子は彼らの一人息子を、自分の なおみ 丸尾末廣による官能的な表紙を開くと、「今日、直巳【書評】 好みの愛人として育成していくことを決意し、直巳の傍 上 6 ゅ・」 らで歳月を重ねてい は二十三になりました。そして、真由子は、じきに四十東直「卞 五歳の誕生日を迎えます」と、冒頭で主人公一一人の年齢 直巳が、幼児から思春期を経て、魅力的な青年へと成 が明かされる。これを読んだ瞬間、「ナオミは今年二十 長する過程で、真由子自身もどんどんいい女になってい くんし 三で私は三十六になります」という小説の一行を思い出 。『痴人の愛』で、最初は「君子。と呼ばれるほど真 す。『賢者の愛』は、谷崎潤一郎の代表作『痴人の愛』のオマージュ作品面目だった譲治がナオミに振り回されて堕落していくのに対し、真由子 であり、「ナオミは 5 」の一文は、その「痴人の愛』の最後の一行にあたる。 は常に大人の女性として冷静に直巳をリードしている。その愛情表現の つまり、「なおみ」という名前と「一一十三」という数字をバトンのように 細部の美しさと知的な会話が、一一十歳以上年下の男と恋愛することへの つなげて物語が始まるという、心憎い演出がなされているのである。 違和感を払拭し、清々しささえ感じさせる。 『痴人の愛』では、主人公の譲治が、カフェの女給だった十五歳の奈緒しかしこの物語の眼目は、一一人の恋愛だけではなく、家族や友達の間 美を自分の家に引き取り、自分好みの美女「ナオミ」を育てようとする。に起こる複雑な愛憎をからめているところにある。特に、恵まれた家庭 しかし思惑は途中から大きく崩れ、譲治はナオミにすっかり翻弄されてで愛情豊かに育った真由子に家庭の影を背負った百合が近づき、真由子 「痴人ーと化していく。男と女の一つの特殊な愛でありながら、人の心のまわりにある愛をうばっていく様に、戦慄を覚えた。しかし、真由子 の奥底にある性愛の普遍性に触れる、刺激的な内容である。本書は、やの言動に違和感を抱き、危機を覚えながらも、結局離れられない真由子 はり特殊な愛の姿を描いて人間の心を浮き彫りにしてきた著者の手によの業の深さもまた、衝撃的である。ともに愛に対する強烈な渇望を感じ って、「痴人」ではなく「賢者 . の視点で描かれることになった。自分る 好みの愛人として育てられる存在は、男の直巳の側となり、愛人を育て、 少女から中年へ。三十代で止まっていた「痴人」は、「賢者ーとなっ 慈しむ譲治のかわりに、女性である真由子が登場する。つまり、男女のてその後の人生を刻み、深い悲しみと至福の時間を、現代に花開かせた 盛者の愛』 山田詠美著 Text: 工 igashi NaOkO 賢者の一〕 ( , 山田美、 中央公論新社
です。歳を過ぎており、既に 3 ジャングルの中で死体をたくさんたんですよね。とにかく行ったら感じはなかったですね。 見て、踏みとどまってしまうシーすっと空爆で、逃げて逃げて逃げ斎藤というか、その頃は全体的人子どももいました。だから帰っ にそうでしたよね。今みたいな感て来なきゃいけないという思いが ているうちに戦争が終わったとい ンがあるんですが、あれを見て、 強かった。独身で川代ですごく思 祖父はいつも泣いていた。祖父もう感じで、だから祖父はよく喋つじがむしろ : い詰めて行った人たちと、かなり 2 回かなりひどい負傷で病院に入たんだと思います。 平野すごく最近、唐突に広がっ ギャツ。フがあったんだなというの っていた。だけど部隊に帰りたく 斎藤孫にちゃんと語って聞かせている感じですね。 て追いかけていって、やつばり同てくれる人って、そんなに多くな斎藤すごく最近ですよね。年は、のちに大岡昇平『俘虜記』と 代はそもそも軍隊を忌避する感じかを読んでわかりました。彼も 0 じような体験をしてるんです。そいんでしよう ? の時に祖父が話していた戦死は、成田そうですね。それに加えて、だった。ヒロイックな気持ちになくらいで、しかも京大の仏文研究 るというのは、そういう人もいた者というインテリとして戦地に行 ほとんど飢餓状態でのマラリアと祖父母ー孫と、父母ー子とでは、 か赤痢とか、病死なんですよね。語る方も聞く方も構えが大きく異でしようけど、メジャーな感覚でっていますが、若い一途な人たち ↓よ、な . かっ 4 ~ 。 こそどんどん死んでいって、自分 祖父はインパール作戦にも参加しなっているでしようし。 ていて、戦争に対して、今あるよ平野だから、別の戦地で、もう成田そうですね。特に昭和天皇たちみたいなのが生き残ると書い うなヒロイックなイメージはまっちょっと加害者意識まで抱えながが死ぬ前後は、天皇の戦争責任がています。 ら帰ってきて、まったく何も言わあらためて問われますが、その中斎藤観察して、ちゃんと語れる たくなかったですね。 なかった人も僕の周りにはいましで、もう一度当事者の戦争経験が言葉があったということですよね。 斎藤平野さんの世代でそういう ことを聞いているというのは、珍た。祖父は歯医者だったんですね。呼び起こされ、語り継ぎがなされ平野最前線よりもちょっと下が ったところで、衛生兵みたいなこ しいんじゃないですか。 田舎のインテリだったから、部隊ようとします。その最後の機会だ 祖父の場合、大戦ので上官にさんざん苛められて、とったといってよいでしよう。それとをやっていたので、そういう意 平野は、。 かなり末期に行って、しかもビル にかく理不尽な理由で呼び出されを文字どおり直接に見聞きされて味でも語りやすかった。 マだったので、これはいろいろ意ては殴られたりしていたそうです。いるのは、平野さんの世代では稀成田平野さんの「初七日」とい う作品は、 ( 平野さんからすれば ) 見があると思うんですけど、祖父帰ってきてからも、戦友とのつき有でしようね。 の実感としては結局イギリスと戦あいは続いていましたけど、家か平野祖父が母に語ったことを聞父の世代から、祖父の戦場での経 いていたということもけっこうあ験を推察し、その「沈黙」の意味 らわりと近所に住んでた祖父の元 ったから、ビルマの現地の人にい ろいろ良くしてもらったというの上官とは、戦後一度も会ってませります。それから、祖父は医者でを類推する、という小説です。戦 です。加害者意識があまりなかつん。だから軍隊を美化するというすから召集されるのが遅かったん争経験の意味の探求が、「戦後」 462
かな。常連は場所を決めているかく出くわす」って言うから、「おんに言わせれば、この内容こそが 子どもと猫と病気のはなし らね。僕はだいたい午前中に行く前すうすうしいから、本渡しちや高度なことなんだと。 けど、小澤さんは午後ですね。 えよ」って言ったんです。そした こうして三人で会うのは初めて 横尾磯﨑さんとは近所に住んで 磯﨑僕は小説家としてデビュー ら、本当に渡した。 だったかな。 いるのに、最近はまた会わなくなする前から「あ、横尾忠則がいる」磯﨑会ったら渡そうと思って、 保坂駅前の喫茶店で最初に会っ りましたね。 って見ていました。 受賞作の掲載誌を鞄に入れたんでたのが三人でしたよね。 二ヶ月ぐらい前橫尾ちらほら僕を見かけていたすが、なんといぎなりその最初の磯﨑その半年後くらいに、柴崎 でしたか、僕が大の散歩をしていと言ってたね。でも僕は磯﨑さん日にお会いした。 友香さんも一緒に、世田谷美術館 た時にお会いしましたよ。 を知らなかったから気がっかない。 横尾 そうだったの。初めて聞きの横尾忠則展に伺いました。でも、 横尾それでも、もうだいぶ経つなんで横のお兄ちゃんがキョロキました。 三人でというのはそれ以来かもし よ。以前はもっと間隔が短かった。 ョロしているのかわからない。 それで今日はどんなことを話すれません。 こないだ駅前の蕎麦屋さんで「磯磯﨑 それはそうですよ ( 笑 ) 。んですか。こないだ保坂さんと「新橫尾彼女は先日芥川賞をとりま 﨑さんがいらっしやった」と言わ僕のデビ = ー作が載っている「文潮」でやった対談は全然難しくなしたよね。 れてね。僕はいつも決まって日曜藝」を渡しながら話しかけたのがい対談でね。文芸誌は難しいこと保坂はい。 比日バタバタととっち 日に行くんですけど、磯﨑さんは最初でした。 ばかり書いてあるけど、あんな対やって ( 笑 ) 。 イレギュラーだから。 横尾しかも本屋さんで。 談は初めてじゃないですか。 橫尾保坂さんのところに来る人 磯﨑そうですね。子どもが出か保坂横尾さんに渡せって焚きっ保坂そんなことはないと思いまはみんなそうだね。僕もそのうち けてたりすると家で昼食を作らなけたんです ( 笑 ) 。 すよ。文学者が語る文学の話のほ芥川賞とれるかな ( 笑 ) 。 いので、その時だけ行くんです。 横尾そうなの ? うがもっとくだらないですから。 磯﨑たしかにバタバタという感 ( 蕎麦屋の ) 増田屋の常連さんは皆、磯﨑なにかきっかけがあれば話橫尾遠藤周作さんの本を読んでじはありますが、あれからもう七 行く時間帯が決まっていますよね。しかけられるんじゃないかと保坂いたら、作家が集まると、いつも年近く経っているんですよ。 議 小澤征爾さんとお嬢さんの小澤征さんから言われたんです。 馬鹿な話ばっかりしていたって書横尾生活も変化したでしよう ? 会 工 良さんも、山田洋次さんもいらし 横尾だけど、僕はまだその時点いてありました。ある時、彼ら作磯﨑そうですね。子どもが大き てる。横尾さんも増田屋に通い始では、保坂さんにお会いしてない家たちの座談会に編集者が出席しくなっちゃいましたね。文藝賞のア めて長いんですか ? よね ? て、あまりの程度の低さに二度と贈呈式の頃はまだ小さかったから 橫尾十年、もっとかな。二十年保坂ええ。彼が「横尾さんとよ顔を出さなかったと。でも遠藤さ会場を走り回っていたのに、今で 331