( 一九〇九年 ) の「スパルー一一月号から、彼女は寄稿しはじめる。 月号 ) 、「お鯉さんー ( 「三越」第二巻第一一号、一二年一〇月 ) と書き、 ただし、それは、佐藤春夫が言うような「「あだ花』一冊分ーにと ここでびたっと終わっている。明らかになっている限りで、作品は どまるものではない。 計一四本。わずか三年という期間のことだった。 ただし、年譜上で見ても、この期間は、家庭婦人としての彼女に 私がまず驚かされるのは、しげの執筆ぶりに見られる律儀なまで の勤勉さだ。「写真 [ ( 「スパル」一九〇九年一一月号 ) に始まって、以時間のゆとりがあった時期とは言えない。次女・杏奴の出産 ( 一九 後は毎月、「友達の結婚、パックの大臣、流産 . ( 同一〇年五月号 ) ま〇九年五月 ) 、三男・類の出産 ( 一一年一一月、ただし長男・於菟は先妻の子 ) で、「スパルーに七本の短篇小説の寄稿が毎月続き、単行本の森しと続いて、子育てにも多忙な時期である。 外によって原稿に加えられた朱筆というのは、どう考えておく げ著「あだ花』 ( 弘学館書店、一〇年六月 ) 刊行にあたっては、そこか ら「宵闇」 ( 「スパル [ 一〇年四月号 ) が外されて、代わりに「産ー ( 「女べきか ? 当時、若年作家の小説が、師匠格の作家の朱筆を受けた 子文壇」第六年第六号、一〇年五月 ) が加えられるかたちで、やはり計上で発表されるのは、珍しくなかったはずである。外の長男・於 菟でさえ、しげの「あだ花」について、「文章はもとより父が手を 七本の作品が収録されている。 これからのちも、さらに彼女の「スパル」への寄稿は続く。同じ入れているが、それは多く冗長の部を削り取ったもので、他の人の 短篇でも、原稿分量はそれ以前のものよりさらに短く、四百字詰め文章を添削する時に父は大概これを原文の一一分の一以下に切りつめ たのである」 ( 「鵐外と女性」、「父親としての森鵐外』 ) と述べている。 原稿用紙で二〇枚内外のものが中心になっていくのだが、こと短篇 いずれにせよ、鵐外は、この一九〇九年春先の「半日」で、初め 小説の場合、それは創作意欲の減退というより、むしろ、習熟の現 一方、朱筆を受けるべきしげの小説は、 て口語体の小説を書いた われと見るべきものだろう。 「間引菜ー ( 「スパル」一〇年七月号 ) から「記念」 ( 同一一年一一月号 ) ま最初からすべて口語体だった。 で、途中、一一年一月号に寄稿を休んではいるが、さらに七本の短単行本「あだ花』に収録された作品の配列は、初出発表の順序か 篇小説の掲載が同誌上で続く。そうするうちに、「中央公論」「東亜ら大きく組み替えられて、玄人はだしの巧みなものとなっている。 之光 [ 「三越ー「新小説ー「読売新聞」閨秀号、そして、「青鞜」創刊あるいは、ここにも、鵐外の判断が加わっていたのかもしれない。 号 ( 一一年九月 ) にも、小説の寄稿が求められるようになっていく。 単行本「あだ花』の目次の配列に、初出誌の年月を添えてみる。 こうした事実の推移がありながら、ただちに佐藤春夫が言う「先 生は欣然と夫人の文に朱を入れておられた」という出所不明の伝説 ・あだ花 ( 「スパル」一九一〇年一月 ) ・波瀾 ( 「スパル」一九〇九年一二月 ) ( ? ) に基づいて、森しげの作品を十把一絡げに鵐外執筆の付属物 ( ( ーし力ないのではないか。と、私は田 5 う の - フに扱 - フわナ・こよ、 ) ・産 ( 「女子文壇」一九一〇年五月 ) ともあれ、このあとは、森しげの執筆はやや間を置いて、一九一 ・友達の結婚、パックの大臣、流産 ( 「スパル」一九一〇年五月 ) ・写真 ( 「スパル」一九〇九年一一月 ) 一一年に入ってから、随筆風の消息文「りう子様に」 ( 「青鞜」一一一年六 255 女の言いぶん
電話して 藤沢周氏、保坂和志氏、星野智幸氏、山田詠美氏 各紙で話題 ! 注目の新人テビュー ! 一愕死にたくなったら この小説の挑戦は 文学が究極的に 目指可と・ごろた 。 ' なんという毒か世界 、禁断の扉が開く。 「 ( を拷問にかけるような 至福の「心中ー小説 ' 」一螳この虚無と呪詛。拍手ー 李龍徳 ISBN 978 ー 4 ー 38 ー 02336 ー 6 ・ 1500 円十税 アルタッドに 金子薫 1 生と死、そして 圭日くことを問、つ 圧倒的「青春」小説 ISBN 978 ー 4 ー 309 ー 02337 ー 3 ・ 1300 円十税 保坂和志氏 星野智幸氏 書 私はもう断然 こ - つい - つ小説が 好きた イ アルタッドが一番 キュートで魅力的
あのような小説ができたというふろがありました。 を得るという意味では、文化人類斎藤中村雄二郎は一時期、国語 うに思うじゃないですか。年代的成田いわゆる「戦後思想」の王学などの方がはるかに面白かった。の入試問題にものすごく多く出題 たとえばュングの話をしていると、されたんですよ。 にそれはありえないんだけど、で道ではない方向から。 もそうかなと思いぎや、むしろ逆斎藤異端ですね。 年代の批評家たちは、ユングと成田そう。中村さんは、硬い言 ということですね。 成田異端の方から、ということ聞いただけで「へ ? 」みたいな感葉ではなく、実にわかりやすく哲 になりますが、その異端が、しかじだった。「オカルト」と言って学を語る作法を実践されています。 平野僕はエリアーデが好きだっ たし、文化人類学にも興味があっし年代には嫡流になるわけです終わりです。でも中村さんと話し中村さんは、ヨーロッパの知を踏 たので : よね。その転換を見ながら、平野ていると、「ユングのこの部分はまえつつ、それを相対化し、全体 斎藤共鳴するところがあったとさんは、「年代の知」を獲得し面白い」というような具体的な話の構図といま問題化されているこ ていったということになるでしょ になるし、「あの辺になると危なと、そしてその意味付けを実に明 いうことですよね。 いけど」と笑いながら語っていて、晰に語ります。複雑なことをとて 平野ありました。あと僕は、そうか。 の前の年代から年代にかけて平野そうですね。やつばり僕はそういう柔軟さが僕は好きなんでも明快に説明するのですが、その の澁澤龍彦とか横尾忠則とか、あ小説家ですから、イマジネーショす。ュングは、エックハルトに影一つの結実が『術語集』 ( 198 あいう世界が好きだったんですよンを喚起してくれるものが好きな響を受けたドイツ神秘主義の末流 4 年 ) でしよう。キーワードで「知 だと思いますが、そういう面白さの現状を説明する。いまや当たり ね。それを面白いと思うところかんです。分析的に厳密なものは、 ら、山口さんたちのお仕事にはけ政治や社会について考えていく時をわかってくれるのが、あの人た前すぎる方法ですが、でもこれが 出た時はとても新鮮だった。 っこうすんなり入っていけるとこ には役には立つんですけど、着想ちでした。 オリーブ少女ライフ この雑誌の主人公になりたい。紹歳の時、 ) 初めて「オリーブ」を読んで、そんな風に思った。 女子力ルチャー紹介の第一人者が、雑誌「オリ 1 プ」と共に過 山崎まどカ ごした少女時代を綴る、 1980 年代メモワール。「オリ 1 プ」 で連載された伝説コラム「東京プリンセス」を完全収録 ! ツ ? を = ブッ女ライツ ~ 山第まどか ・本体 1500 円十税 ISBN 978 ー 4 ー 309 ー 02331 ー 1 河出書房新社 東京都渋谷区千駄ヶ谷 2-32-2 tel. 03-3404-1201 www.kawade.co.jp
・旅帰 ( 「スパル」一九一〇年一一月 ) 「うむあの二人浦島はオペラじみているね。しかし己よりは旨、。 ・猩紅熱 ( 「スパルー一九一〇年三月 ) 「それは本職ですもの。」 「あれは本職ではないよ。それだからヂレッタントだと云って、批 森しげの小説中、抜きん出て分量がある作品が「あだ花」と「波評家が悪く言っているのだ。しかし己の考では、医者だろうが、官 瀾ーである。「あだ花」が四百字詰め原稿用紙換算でおよそ八五枚、「波吏だろうが、商人だろうが、作をするのは内生活でするのだ。 ( 後略 ) 」 瀾」が同じく七〇枚ほどといったところである。この二作が単行本 これなどは、鵐外による「朱筆 , の一つの典型だろう。この種の の巻頭に配され、しかも、収録作全体の配列が、基本的に、照応すべダンチックなクいたずらクのたぐいが、単行本『あだ花』中の諸 つつもたせ るしげ自身の人生の流れに沿って、ほば時系列に並べられている。 作品には散見される。中野重治はこれらをさして「鵐外の美人局的 しげは、一八八〇年 ( 明治一三 ) 五月、のちに大審院判事をつと自己弁護 . と罵倒する ( 中野重治「しげ女の文体」、『鵐外その側面』 ) 。 める荒木博臣の長女として、東京で生まれ、華族女学校に通った。 だが、むしろ、ここは女房の作に便乗しての自己顕示と言うべきか 一九〇二年 ( 明治三五 ) 、鵐外としげが結婚するとき、外はまもな しかし、かえってそれゆえ、私は中野が言うように「外の朱筆 く満四〇歳、しげは満二一一歳になるところで美貌の持ち主として知は、しげ女において、「あだ花』が現物として示したとおりに満遍 られていた鵐外は再婚。しげにも、ごく短い期間の既婚歴があっ なく走ったのである」とは考えない外の趣味はそれとしてはっ きりしているからこそ、しげ自身の資質に拠った基本的な文の運び 巻頭に置かれた「あだ花」は、彼女の短い初婚当時のことを描いからは、浮いている。だから、かなりの確度で、両者は弁別できる たものである。結婚相手の男は財産家の息子 ( 事実においては東京のではないか。 渡辺銀行創業者の子息 ) で、役者のような美しい顔だちだった。だ しげにとって、鵐外によるそうした加筆、収録作の配列の工夫な が、新婚当初から、以前より深い仲にある芸者との関係が変わらずどは、彼女自身の執筆動機からすれば、ほとんどどうでもよいこと 続いている。若い彼女 ( 作中では「富子」 ) は、まだ新郎に対してであるようだ。それらは、彼女の創作意欲の妨げにもなりはしない。 これといった愛情も湧かず、この件に、いを動かすことさえ知らずにおそらく、しげは自身にとって大事なことをさっさと書いてしまっ いるのだが、心配する周囲の配慮によって離婚に至る た上で、その種のことに関しては、夫・外の好きなように任せて 作中、新郎が余興の脚本を執筆しようとするくだりがあり、新郎 と新婦のあいたに こんなやり取りが挿入される。 「外の一幕物だの坪内の歴史物はどう思う。」 「波瀾」は、再婚の挙式翌日からの、小旅行の模様を語る。行き先 「わたし小説だの脚本だのは父がやかましく申しまして読ませんでは、当時の鵐外の赴任地、小倉である。 したが、紅葉の金色夜叉を読みました。脚本では鵐外の一一人浦島を事実においては、東京での二人の婚礼が一九〇二年 ( 明治三五 ) ふいと去年読みましたの。 一月四日。明くる五日の夜汽車で、彼らは小倉に戻っていく。途中、 、、 0 おれ 256
てきた菓子バンを食べている。 頭をカチ割られて解雇されるか、あるいはおとなしく自主的に辞め 「三つある」 るのは、紛れもない事実だ。資格や訓練という担保されたものが、 わたしは即答した。 絶望的にまで存在しない。 極端に言うと、編集部に配属された途端、 「 1 、素直さ。 2 、一文が短い 3 、締め切りをきちんと守る : 漢字一つも知らない外国人の新入社員でも編集者になる。編集者に 中でも 3 が最も重要じゃないかな」 は編集見習いも編集者補もなく、社員すなわち編集者である。連中 だが、何故「素直さ」が大事なのか ? そして、何故「一文が短 「これまでどんな本をつくってきたのか ? 」と訊くといい過去 し」いいの一カ ? ・ に自分が購入したことのある本が、彼らの口から二つか三つ飛び出 それらの言葉の裏にある「真実」を理解できる人間は、恐らく優せば、それなりのヒットの達人であると思っていい。 れた編集者になる資格を有している。 わたしが現役時代に書いていた小説には いま冷静に考えれば、 残念ながらまったく魅力がなかった : : : 扱っているのが、読者にと 「文芸誌に掲載される小説と、掲載されない小説の違いは何か ? って親しみ易い現実の日常的な事柄の反復ばかりだとはいえ、熱の こもったわざとらしい 次にこのような質問が、特に背広が似合わない男性から出た。 いかにも趣向を凝らしたと言わんばかりの 無論、出版される小説が、すなわち売れる本であるとはいえない。文体 : : : まるで侍が語ったかのような時代錯誤。どの作品も自身の だか、とりあえず出版社に「売れそうかも」と太鼓判を押された小 青春時代の偽りなき記録とはいえ、顔を赤らめずにはおれない、青 説であることは間違いない。出版社はいかなる理由をもって「これ臭い苦悩が刻印されている。その上、独創性はまるで皆無で、基本 バカ売れしそう」と判断したのか、今後改めてじっくり考える機会的な日本語の基礎文法さえ理解できていない。現在の自分には、ど が欲しい れもろくに読めたものじゃないが、当時は意外にもどれも飛ぶよう 晴れて出版社に入社して雑誌担当になれても、雑誌記者の仕事はに売れた : : : 売り上げは、自分の懐にはあまり入金されなかったが。 編集プロダクションやフリーライターに依頼することが多く、わた だが、わたしは所詮、ただの物書きであって、出版の企画のプロで しの名前を騙って記事を書くこともそうそうあり得ず、単調な編集はないのであるし。担当編集者時代の浜口も、その部分はよく理解 管理だけの仕事になるのは覚語しなければならない。 していて、できるだけわたしの持っている僅かな才能を、低賃金で 編集という職業の解釈やイメージが、個々人によってまったく異最大限引き出そうとした努力は認める。そうすると小説から取りこ なるのは当然であり、それは各個人の中で刻一刻と、大字宙のようばした然るべき描写などを、わたしの過去の経験から探るしかない に果てしなく広がっていく : ・ : 残念ながらイマジネ 1 ション豊かなあとは編集者の技術の問題。何か有意義なことを助言しないと、優 彼らに、資格試験や新人研修のようなものがあるという話よ瑁、こ 一ⅱ ( ドしオれた編集者じゃないと思っている人もいる。わたしが書いた下手な ことがない実際には、スキルのない編集者が、好き勝手にやりた 小説をそのまま掲載したら、誰からも認められるようなスーパ これはち一よ いように編集している。編集者の意にそぐわない書き手は、花瓶で集者じゃないという思い込みを持った人も少なくない。
やがて、胸が痛い、手足が痛いと苦しみだして、夫も二階での歌会 「その遺言の事だって、公証人の役場の小使が、紀尾井町〔奥さん を中座して降りてくる。 の実家〕へ来る婆あやの亭主なので、それでやっとわたしに知れた 翌日、娘の熱は冷める。猩紅熱ではなかったのである。両親は、 のだから変だわ。それはわたしなんぞの困るようには書いてないで ばかばかしいやら嬉しいやらで、そして途端に、ゆうべのお客たちしよう。どう書いてあったって、お父様がいうが、遺言状というも に失礼をしたことを気にしはじめる のは、そんなに確なものじゃあないということだわ。それにあの人 ちなみに、この一九一〇年一一月五日の外日記を見ると、 が持っているのじゃあなくって。」 《茉莉前膊腓腸たゆしとて煩悶す。短詩会を開きながら、予は茉莉 ここでの「お父様ーは、大審院長をつとめる、この奥さんの実父 の病牀にありて其席に列すること能はざりき。》 のことである。事実関係に即するならば、これは元佐賀藩士の大審 とある 院判事、しげの父親である荒木博臣その人に重ねてある。 茉莉が、手足や腹がつらいと言ってもがき苦しみ、歌会にも同席実際、こんなやりとりが彼らにあったのだろう。 できなかった つまり、この事実にのっとって、直後に「猩紅 一九〇四年 ( 明治三七 ) 三月、鵐外は、第二軍軍医部長として、 熱」が書かれたらし、 し。ただし、同じく鵐外の日記によると、前々満洲の戦地へと出征する。鵐外夫婦は、すでにそれまでの二年間、 日三月三日 ) 以来、茉莉は咳が激しくて寝込んでおり、前日 ( 四日 ) 鵐外の母・峰子、同じく祖母・清子、末弟の潤三郎、前妻とのあい には学校も休んでいるので、ここにも、しげの小説への作意が働い だの息子・於菟とともに暮らしていた峰子としげのあいだの確執 ているのは明らかである。 は、収まらずに続いていた。峰子にすれば、もともと自分が見つけ このように見てくると、単行本『あだ花』という小説集は、しげてきた長男の再婚の相手であり、困惑はなお深かった。嫁のほうは、 という女性の半生にわたる日常茶飯に題材を求めたものと言ってよ義母を「あの人」としか呼ばない。 こうした妻の態度に、鵐外も出 外が「朱筆」を以て、その完成を助力したことは確かにせよ、征が迫るにつれて、胸中を暗くした。 これが作風全体を左右するほどのものではなかっただろうと思える おまけに、夫たる自分の出征中、この妻は義母たちと同居を続け のだ ることを拒んで、娘を連れて実家のほうで暮らすと言うのである そのまま自分は戦死するかもしれない。それを思うと、妻の態度に 森鵐外「半日」に、こんなやりとりがある ふつふっと怒りが湧いてきて、ついに絶望にも駆られたらしい ん 「あなたが亡くなりでもしたら、わたしと玉ちゃんとはどうなるの いよいよ出征の日を目前にした同年一一月一三日。外は、日ごろ い です。」 から親しい後進の英文学者・上田敏、結婚の媒酌人をつとめた医師・の 女 と、奥さんが急に論鋒を転じたところから先である 岡田和一郎を証人として伴って公証人役場を訪れ、次のような遺言 「おれは公証人を立てて、立派に遺言がしてあるから、お前や玉の書を作成したのだった。 困るような事はないのだ。」 259
1 OO 430 【特別鼎談】 震災と詩歌 過去、現在、そして未来と向き合う「言葉」たち 平田俊子 x 川野里子 x 小川軽舟 司会 = 田村文 その現実に、詩歌はどう向き合ったのか ? 詩、短歌、俳句の実作者が語り合う「あの日」からの言葉 【マンガ】 414 364 【連載小説】 恩田陸灰の劇場第六回 田口ランテン逆さに吊るされた男第五回 町田康ギケイキ第九回 ' 宮内勝典永遠の道は曲らくねる第二回 356 月、林ェリカウノレフー青 ぼくの人生は失敗だったけれど、とても幸福です 【連載】 ・今日マチ - 了、ばらいそさがし第二回 現代の『グロウィ夫人』 斎藤美奈了・日本文学全集とその時代 ( 下 ) 局橋源一俍に一億三千万人のための「論語」教室第二回 保坂和志遠い触覚第一叭回 2 ー第 53 回文藝賞応募規定 474 475 476 477 478 479 480 481 【 BOOK REVIEW 】 山田詠美『賢者の愛』東直子 磯﨑憲一郎『電車道』西崎憲 高橋源一郎『動物記』滝ロ悠生 柴崎友香『ノヾノララ』長島明夫 小野正嗣『九年前の祈り』小倉美惠子 恩田陸『 EPITAPH 東京』門井慶喜 佐々木中『神奈備』安藤礼ニ 最果タヒ『星か獣になる季節』坂上秋成
いうときにも、彼のなかには、硬く張りつめたものかあるのも、こ 同年七月三〇日、満洲の戦地より の妻は知っている。結婚してから、夫を批評する意識はだんだんに 《七月十一日のお前さんの手紙が来た。茉莉が次第に物がわかるや薄れていき、 いまでは何によらずただ夫に盲従するようになったと、 うになると見えるね。 小いうちは教育なんぞと云っても別にむつか この妻は自分自身について感じている。だが、そんな自分にも、た しいことはない。大概は自然に任せて置けば好いのだおとなが勝 だ一つ、夫に抵抗する原動力が残っていて、それこそが「嫉妬」な シャウバッ 手におもちゃのやうに扱ふのがまちがひなのだ。賞罰は正しくせねのだと、彼女は意識する。 シカ ばならぬ。併しどんなにおとなが困ることでも小児がわるぎなしに 「わたくしも今から出てゆきます。」 した事を罰してはならぬ。 ( 中略 ) と、彼女は言う。これから夜汽車で大磯の友だちのところに行く 七月三十日 林 のだと告げる。夫は、いったん止めるが、それでも行くと妻が言い しげ子殿》 張ると、勝手にしろという態度である 「ではよろしい。今から行け。汽車で夜行くのだぞ。もし道で間 単行本「あだ花』刊行までに発表された森しげの作品中、もっと違でもあったら、己はお前さんとこれきり顔を合わせないよ。女が も優れた出来ばえを示しているのは何か。私は、この単行本の収録今時一人で汽車旅行をするということがあるものか。それが承知な からただ一作外された、「宵闇」ではないかと思っている。 ら勝手になさい。」 ステーション 「宵闇」は、単行本「あだ花』に収められる作品群とは、明らかに 妻は、新橋停車場を夜九時過ぎに発っ列車の一一等席に一人で乗り 異質な特徴を備えている。 込む。四十前とおばしき男が、彼女の隣に腰かける。列車は、浜離 ーー、王人公の永山五郎は小説家である。 宮付近の海づたいに走り、宵闇の海がほのかに光っているのが、窓 知り合いの新聞記者から電話での呼び出しがあるたび、彼は家をから外に見えている。隣の席の男が声をかけてきて、思わず彼女は 出て、 しくたか、そこの店へ、なじみの芸者と会うために行くのだ 品川で気持ちをひるがえし、逃げ出すように降りてしまうーーー。 と、妻の瑞枝は知っている。夫は、これも小説を書くためのことだ ここには、「半日」で鵐外が描いた彼女の姿に対する反論の姿勢 と、言い訳も用意している。瑞枝は、「あなたのようにどの作にも かある。あそこで描かれていることのなかに、自分はいないのだ、 どの作にも芸者が出なくてはならないというわけのものじゃあござ と言っている。 ん いますまい」と、きつい声で抗弁することもある 「あだ花」収録の諸篇では、折あるごと、鵐外に重ねられた夫たる い だが、そういうときの夫は、「瑞枝さんもやつばり日本の細君だね」人物は「芸者ぎらい」だと繰り返し強調される ( これは、鵐外そのの 女 「お前も日本のお嬢さんだね」などと、そのたび「日本の」と頭に人も、家庭にあって、、繰り返し言ったことのようだ ) 。つまり、女 つけて、優しい目に鋭い光を宿して嗤うのである 遊びになど関心がない人物だということである。ひょっとしたら、 夫は、どんな人にも調子を合わせて、さかんに話す。だが、そう これらの、フちのいくばくかも、 鵐外の「朱筆」だったかもわからな よる
さらに、やつれ果てて苦しむ茉莉を見ていて、医師がほのめかせた る。琴平の宿でタ飯まで済ませてしまって、それで間に合うのだろ 安楽死という選択に、夫婦は傾く。そして、あわやというところで、うか ? 見舞いに来た舅 ( しげの父・荒木博臣 ) からの一喝で、目が覚める 小説の運びが、これほど時間的にせわしくなってしまうのは、そ ように思いとどまったという話。もともと安楽死をすすめようとしれなりに理由がある。現実の一九〇八年の年初、鵐外の旅程は、一 たのは、孫の苦しみを見かねた祖母・峰子だったという話や 月五日に琴平で一泊してから、翌六日に善通寺の兵営病院を視察し 不律には、それが実際に施されたのだという強い推測 : : : 。家族をている。そして、その夜に、最寄りの多度津港から大阪行きの舟に 突然に失うこととは、こうした錯雑とした混乱の経験でもある。互乗る。つまり、現実には一泊一一日でこなした旅程を、小説では丸一 いに、立ち会う時間も、人間的な信頼関係も違っているので、記憶日のうちに片付けようとしているのだ。なぜなのか ? の前後関係、一致点は容易に見いだされずに、不信と混迷も深まる。 理由は、二つあるのではないか。 確実な事実にはたどり着けない。だから、互いの気持ちの上での納ひとつは、小説の導入部としての緊張感を保っため。現実の一九 得は、もっと違ったものから形づくっていくほかない。 〇八年の旅程では、一月六日に多度津港から大阪行きの夜舟に乗っ ちなみに、しげの実家は、東京の芝・明舟町。すぐ隣の町域に虎たあとも、七日に着いて泉州の堺で一泊。翌八日は大阪の砲兵工廠 ノ門の金刀比羅宮があり、生家 ( 荒木家 ) の素朴な信仰の対象だつを視察して、もう一泊。さらに九日に大阪で病院を視察、一〇日の 日中に大阪の兵営を視察。この日の夜汽車で東京をめざし、翌一一 「金毘羅ー作者としての鵐外自身にも、記憶の混乱は続いている。 日朝九時に、東京の新橋停車場に着いている。 前年 ( 一九〇八年 ) の年初、各地の兵営病院巡察の公務の途上で四国・ もう一つの理由は、さらに重要だつまり、ここにあるような時 琴平の旅館に泊まっており ( 一月五日 ) 、これが「金毘羅 . の創作に間の進行の上で、事実と創作「金毘羅のあいだに共通するのは、 重なる。 一〇日の夜、どちらもともに夜舟ないし夜汽車で過ごし、よそ 問題は、作中の主人公たる博士の帰路である。博士は、高松でのからの連絡が取れない状態にいる、ということだ。鵐外は、この小 講演後に琴平へと案内され、入浴し、夕食をとるうち、この日のう説を書く上で、ここだけは事実経過と照応させておきたいという動 ちに帰路に就くことを思いっき、女中に舟の時刻を訊くと、晩の七機があった。 時だと教えられる。琴平の旅館女中が知る舟便なのだから、多度津なぜなら、この一九〇八年一月一〇日夜とは、鵐外の次弟・篤次 から出る舟だろう。琴平から、多度津の港まで、道のりにして一一「郎が、急死する時間だったからである。鵐外は、そのとき、大阪か 三キロはある。車夫を急かせても一時間あまりはかかるだろう。車ら東京にむかう夜汽車に乗っていたので、それを知ることができな を降り、舟に乗るまでのあいだも、まずは回船問屋の板の間に上が かった。知ったのは、翌朝、新橋停車場で出迎えた末弟・潤三郎の 口からである。 って、沖がかりの舟まで送る艀を待たねばならない こんな悠長なことをしなければならないのに、舟は晩の七時に出外は、その事実をこの小説「金毘羅」では伏せている。いや、 270
左団次のポルクマン役で、有楽座にて公演されたことをさしている。 たことを一小す記載はない。 前日 ( 同月一一七日 ) の鵐外の日記には、「母上於菟と茉莉とを連れて、 有楽の Borkmann 興行を見に往き給ふ」との記述もある。一一八日 同年四月七日 の当日は、終演後、俳優たちと会食することになっていた。たか 《産を閲し畢る。》 妻が不同意。そこで、やむをえず一緒に帰宅したのか、しげだけを 帰らせて自分は会食の席に出たのか、そこのところははっきりしな 同年四月一一一日 《友達の結婚、 Puck の大臣、流産を校す。》 同年一二月一三日 これ以後、鵐外の「日記」に、しげの小説に関する記載はずっと 《賀古、妻の波瀾を読みて書を寄す。あだ花を校し畢る。》 一五作品にわたって見つけられず、かろうじて私が気づくことがで きたのは、一一年半を隔てて、彼女が発表するいちばん最後のものと 鵐外の親友、賀古鶴所が、しげの「波瀾」に感想の手紙をよこし思われる短い作品「お鯉さん」についての言及である。 た。その日、鵐外は、彼女の次作「あだ花。への「朱筆」も終えた 一九一一一年九月八日 《妻の作お鯉さんを閲す。》 一九一〇年一月二五日 《旅帰を閲し畢る。》 なお、この「お鯉さん」については、初出誌への掲載稿と見られ る森しげ自筆原稿が、鶴見大学図書館に所蔵されているという。こ 同年一月三一日 れを閲覧、校合した藤木直実によれば、ルビ以外の朱筆は、句読点 《妻の旅帰を校し畢る。》 や鍵括弧および送り仮名の脱落を補ったものを除けば、「いずれも 語の修正程度の三箇所にとどまる」のだそうである。 ( 藤木直実「作 同年一一月一五日 家の妻が書くと、さーー森しげをめぐるテクスチュアレ・、 ノノラスメントの構図」、 ん 「日本文学」一一〇〇五年一月号 ) 《原平吉、江藤邦松の一一人来て、妻の小説を発行することを語る。》 い つまり、単行本『あだ花』の刊行で気が済んだのは、むしろ鵐外の 女 原平吉は編集者、江藤邦松は単行本『あだ花』の版元となる弘学のほうだけで、ここから先の作品群は、鵐外の「朱筆」を受けずに、 館書店の経営者である。 しげがほとんど一人で書いていたのではないかとも思われる。そし このあと、「猩紅熱」「宵闇」に関しては、鵐外の「朱筆ーが入って、彼女の短篇小説は、これを読む者の目にも、より楽しく、多彩