リュームがあるから決まるのね」 このときの治子は、ふらりと入った輸入酒店で、突然に、一九九 感嘆するように言ったムラサメは、ちょっと、 しい ? と訊くと、治九年もののアンリ・ジロー・フュ・ドウ・シェーヌのフルポトルを 子が返事をするより先に彼女の新しい髪型を前後左右から写真に収買うと言うのだった。瑞希の知る治子は、高級酒の銘柄には強くな める。 それはいまも変わっていないのだろう。冷蔵棚の前に立ち、ど それから治子と瑞希は美容院のすぐ近くにあるネイル・サロンに れにしようかな、とでも言うかのように、まるで駄菓子屋の店先に 行く雑居ビルの一室のここも瑞希の行きつけだ。バイカラ 1 ・ダ立った子供のようにして、治子はこの税込七万五千六百円のシャン プル・フレンチというスタイルを治子は初めて試してみる。 ハンを選んだ。そして現金で支払いをした。 ネイル・サロンの隣にギャラリーがあった。ふたりはそこも覘く 「銀行強盗でもしたのかよ」 三十平米程度の広さの白壁の部屋のなかに数点のア】トピースがあ笑いながら瑞希が問うと、 った。だ、こいは号から号ぐらい、号サイズのものが一 「宝くじが当たったんだよ」 点。写真コラ 1 ジュとアクション・ペインティングとスプレ 1 ・ア とポ 1 カー・フェイスのまま治子が応じる ートがミックスされた技法、と言えばいいのか。壁を背にばつねん ふたりは次の目的地に行く。よく冷えたポトルを上着の陰に隠し とスッ 1 ルに坐る白人青年と、受付に立っ眼鏡をかけた日本人女性つつ、カラオケ館の渋谷店に入る。井ノ頭通りに面したビルの上層 だけがその部屋のなかにいた。 瑞希に倣って、治子も芳名帳に名前階、外が見える大きな窓のある部屋で、青黒く暮れゆく空の下で徐々 を記す。部屋のなかをぐるりと一周してから、悪くはないね、と瑞に灯り始めた周囲のビルのネオンを眺めながら、飲みつつ歌う。 希が言う。治子がうなずく。青年が暗い目で瑞希を見上げる。 治子はまず、カステラという日本のバンドの「ビデオ買ってよ」 という歌をうたった。次に瑞希は、フィッシュマンズという日本の 4 ハンドの「なんてったの」という歌をうたった。それからふたりで、 これはスタンダ 1 ドと言っていし オリジナルはザ・デルフォニク 真顔で冗談を言う奴だ、と瑞希は密かに治子を評し、その存在をスの「ララ・ミ 1 ンズ・アイ・ラヴ・ユー」を英語で歌った。 て 面白がっていた。一見こわもてと思われがちな瑞希に対して、一切「ハル坊、思い切ったねえ」 て 臆することもなく、 いつも自分のペースでものを言う治子が彼女に 治子が次の曲を選んでいるときに、彼女の髪に手をやりながら瑞 は新鮮だった。その面白味はこの日も変わらなかった。だから瑞希希が言う。かって治子は、たしかにこのように、瑞希から「ハル坊で よ、いつものよ - フにこ , フ一言った。 と呼ばれていた呼び名が変わったのは、、 ( わゆる寿退社すること 月 「あんたやつばり面白いよ。笑わしてくれるよ」 が決まったときだ。クライアントだった大手デベロッパ ー会社の社 「そ , フ ? ・ 員だった幸喜から見初められ、結婚することが決まったとき、治子 と治子も、いつものように返事をする。 はそれを、社内の同僚ではまず最初に瑞希に伝えた。このとき、瑞 のぞ 3 2 1
と、治子はつい嘘をついてしまう。 ドも電話口に呼んで、くれぐれも娘の安全を保ってくれるように、 「そうなのか ! 」 と頼んだ 幸喜の声が一瞬弾む。 あれから何年経ったのか しかしもちろん、本当のところは、治子にもよくわかってはいな きっと様変わりしているはずのこの渋谷の界隈も、夜暗のうちで かった。あのア 1 トビ 1 スが意図しているものがなんなのか。ボク はその違いが判然とはしない。乗り逃がした電車の行き先を思うよ うな、茫漠たるイメ 1 ジだけが治子の脳裏に去来し続けていたそシング・グローヴをはめた二頭のカンガルーがファイティング・ポ ーズをとっているリングの周囲を、大量のモアイ像とディズニ 1 のせいだろうか、母との通話を終えて電話を切るつもりが、キャッ キャラクタ 1 が取り囲み、それらぜんぶの背後で、水爆実験だろう チホンで入ってきたコ 1 ルを受けてしまう。幸喜だった。 か、巨大なきのこ雲がひとつ大きく立ちのばっている、という内容 「何度も電話したんだ」 のコラ 1 ジュ作品の意図が と彼は言った。 すこしだけ前向きになった幸喜が残金について質問してきそうに 「知っている」 幸喜の精神なったので、あっバッテリ 1 が、と言いながら治子は急いで電話を と治子は応えた。彼女がやり過ごしていたあいだに、 状態は多少の均衡を取り戻し始めたようだった。声色に興奮の影は切る。ついでに電源も落とす。 目を上げると、まだ通りの向こう側に少女たちがいた。治子は手 もうなかった。抑揚もなく、平坦だっこ。 を挙げて左右に大きく振ってみる。手招きもしてみる。しかし少女 「話せるかな、いま たちは、こっちのほうを見やるだけで、それ以上の反応はしない 「わからない」 焦れた治子は、段ボール箱を抱え直すと明治通りを渡る。そして 正直なところを治子は言った。同時に、それ以上話すことがない 最初に目が合った、ペットボトルを持っている女の子に声をかける。 ことも悟った。そのせいかこう付け足してしまう お願いがあるんだけど、と言う。はあ、と気のない様子で応える少 「来週、部長さんのところに荷物が届くから」 女に、治子は自らの携帯電話を差し出す。 「えつ、宮崎さんのところに ? きみが送ったの、なにか ? 」 ええ、まあ、と治子は曖味に答えるのだが、そのせいで幸喜は深「特定の電話番号の着信拒否をしたいんだけど、どうやるか教えて ほしいの」 読みをしてしまう。 不審そうに治子の顔と携帯を交互に眺めていた少女は、なんだそ 「それを見れば、わかるんだね」 んなことですか、と気安く応じてくれる。そして一一度と幸喜の電話 「わかるって、なにが」 を受ける必要がない設定が彼女の手によって成される。 「きみの、その、今日一日のいろいろが。その真意が」 「ありがとう」 と幸 ~ 暑が言うもので、 と治子は礼を言う。そして両足の靴を脱ぐ 「そこに答えはある」 328
「し、けるらしいよね、そ , フい - フ一言いかた」 がら、治子の後ろ髪の毛先あたりを下方から手の平でそっと支えて、 「しげるって呼ぶなよ」 重さを量るかのように一一度三度と持ち上げてから少量をつまみ、親 瑞希はことさら大仰に眉根にしわを寄せてみる。 指と人差し指の間から出ている毛東を治子に示して言った。 樋口瑞希は、愛称であるならば、ぐっち 1 と呼ばれることが多か 「これぐらい ? 」 った。「しげる」なんて呼ぶのは治子だけだ。なぜそうなるのか、 、え、もっと」 という由来について、治子が瑞希に説明をしてくれたことがある。 「じゃあ、これぐらいかな」 「だって、「みずき』なんだから、『しげる』でいいじゃない ? 「もっと大胆に」 これを聞いたとき、思わずその場でずつこけそうになったことを「だとすると、こうかな ? 瑞希は憶えている。 「ううん、違う。そんなんじゃあ、切ったうちに入らない 治子が新卒で就職した中堅どころの広告代理店でふたりは同期だらい」 った。美大受験を一一浪した瑞希のほうが治子よりも年上だったのだ 「えつ」 が、新人研修の段階で、すぐに意気投合して仲よくなった。瑞希は治子は自分の側頭部の髪の、根本から八、九センチほどのところ アート・ディビジョンに、治子はコビ 1 ライター・チームの一員とをつまみ上げて彼に示す。 して配属された。ふたりで同じプロジェクトに関わったことも幾度「ここ」 かある。上司や先輩社員が帰宅したあとの深夜のオフィス、缶ビ 1 「そこまで、切るの ? ルを片手にふたりだけで作業をしていて、途中からたんなる酒盛り 「ええ。切って下さい」 になってしまったことも何度かあった。 ムラサメの表情が、困惑から、意を決したものへと段階的に変化 治子は、瑞希の左隣の椅子に坐った。ほどなくして、短髪に糸のしていくのを、瑞希が鏡越しに、興味深そうに見ている。 ように細い口髭を生やした男が彼女の後ろに立つ。この人物が、表「わかったわ。そうするのならね、色も変えたほうがいいわね」 参道の <OC>< で修業して最近独立したばかりのムラサメさん、 と、ムラサメはプロフェッショナルの顔になって言う。治子の頬 つまりこの店のオ 1 ナ 1 美容師だった。いつも完璧に計算された長骨のあたりに両の手の中指の第一関節をそっと添えると、右に左に さと色のショ 1 ト・ポプに整えられている瑞希の髪を、この五年間軽く傾けながら、そうね、そうね、と唇の奥でぶつぶつ言い始める 一手に引き受けているのが彼だった。ああらこんにちは、はじめま結局のところ、治子のヘア・スタイルは、前髪が額の三分の一ま して、あれつおひとりですか ? と問うムラサメに、治子は、来るはでを隠し、両耳と襟足はくつきりと出るほどの長さとなった。明る ずだった友だちは急用で帰ってしまいまして、と答える。そして、 かった色調は、ト 1 ンを落としたアッシュ系のプルネットへと変化 「短くしたいんです」 と自らの希望を伝える。ムラサメは、短く、短くね、と復唱しな 「あらあ、よく似合うわね。きっと頭の形のせいよ。後ろ頭にヴォ , 」れな、 320
もっともっと先のほうにあるんだけどね」 そうか、そういう話にしていたのだった、と治子は思い出す。 真利江は快活に笑う 「たまには同級生と楽しんできなさいって、予約取ってくれたんだ よね。わざわざー 「まあ、そんなところ」 「さっきのスパとこのランチ、こう言っちゃなんだけど、結構する でしょ - フに 予定外にひとりになってしまった治子は、携帯電話をバッグから 取り出す。操作して、作業をいくつかおこなう。その途中、夫の幸 「だめだよ、お金のことなんか、気にしちゃあ」 喜からのメッセージが何件か送られてきていることがわかる。しか 「そうだよね、せつかくの奢りなんだものね」 し治子はそれを読まない。携帯のモニタを見ながら、治子は行った 「そう、そう」 ことかない店に向かって歩いてい 「でもねー、わたしだって一応、山の神だからさあ」 中央通りを新橋方面へ。和光を過ぎて、五丁目の交差点を右に入 そこからほんのすこし、自らの家庭の家計について、やりくりの 苦労話めいたことを真利江は語った。治子はうなずき、時折相槌をつてすこし行くと、目当てのラ・ベルラ銀座店があった。いちど通 打っことしかできなかったのだが、もとよりなんの役割も求められり過ぎながら店内を横目で盗み見て、数メートル行ったところでき びすを返す。店の前まで戻って、ドアの正面に立つ。肩幅よりちょ ているわけではないことを彼女もよく承知していた っとだけ広げて立った両足の裏に均等に体重をかけて、ぐっと踏み 「あ 1 やだやだ、所帯じみちゃって、やーよねえ。子持ちはさあ しめる。店内の最奥部までさしつらぬくかのように睨みつける。そ 、とこなんだよ、おっかさんの」 「それかい ( して大きな深呼吸をしてから、治子はドアを押し開いた 「もう、やめてよ。おっかさん禁止 ! 」 ・プルーのエル・カラ 結局治子はここで、日本限定色のべイビ 1 そう言い合いながら、ふたりはまた地上へと降りる。真利江はこ ・ロホ、アンダ 1 ワイア・プラとプラジリアン・プリ 1 フのセッ こから地下鉄に乗ると言う。もう帰っちゃうの、まだ早いじゃない、 ト、計八万七千三百円を買った。そしてすぐに着用した。外国製の と治子は言うのだが、こういうときにいつも子供を預けている義母 カこのイタリア製のラン が今日は病院に行かねばならないとかで、真利江の自由な時間はま下着を身につけるのは初めてではない。ゞ、 ジェリ 1 は、下着はおろか、これまでに治子が着たことがあるいか もなく終わってしまうのだという。 なるものとも、似ても似つかないものだった。 「シンデレラみたいな身の上なんだよ」 いま彼女は、自らの肉体の存在そのものを意識していた と真利江は言う。 走り、泳ぎ、さっきまでスパで磨いていた治子の身体とそこに装着 「いまそう言おうと思ったんだよ」 されたラ・ベルラは、、 ( まひとつの生命体として神経系と血管を結 と治子は返す。 「ま、実際の住処は、あそこのあの立派なシンデレラのお城よりか、合して張り巡らせ、力強い脈動を始めていた。彼女はまるで自分が
だけだった。繰り返し彼女に礼を言う青年と受付の女性がどうやら「それはいらない」 「あっ、マスカット。マスカットはどうですか。おいしいですよ」 カップルであることに、治子はようやく気づく 「ちょっとわたしに見せてみて」 治子がリアカ 1 の上を覘いてみると、そこにマスクメロンがあっ 夜風が心地よかった。だから治子は、とりあえず渋谷まで歩いて「これはおいくら ? 」 たいへんお安くなっています」 いくことにした。人気がなくなった表参道を進んでいって、明治通「 りまで来たところで左に折れる。しばらく行ったところで、若い男「だから、おいくらなの ? 」 マニュアルに不備があったのか、若者は、ええと、ええと、と困 から声をかけられる。 り始める。 「あのう、すいません」 その男はリアカ 1 を引いている。台車の上にはいくつものロが開「じゃあこれで、買えるだけ頂戴 治子は財布のなかに残った二枚の一万円札のうちのひとつを差し いた段ボール箱が載せられている。 出す。あっ、ありがとうございます、と若者は最敬礼せんばかりに 「フル 1 ツ、いかかですか ? 」 治子は足を止める。夜目にもくつきり、こばれ落ちんばかりの爽喜ぶのだが、その一瞬あとで、 、パッション・フルーツはいかがですか。ごいっしょに」 やかな笑みが若者の顔じゅうに貼り付いていることがわかる。白目「あのう と訊いてくる。 が街灯の光を反射している。 「メロンだけで一万円分埋まらないようなら、それが入ってもいし 「あなた、こんな時間に果物を売っているの ? 「はあい」 と治子は答える 「こんな神宮前の道端で」 「おつりはいらないから」 「はあい そのまま治子がなにも言わずに顔を見ているものだから、若者は結局のところ、サイズのメロン四つとパッション・フル 1 ッ が十数個、ごろごろと入った段ボ 1 ル箱を両手で抱え、治子は歩い もう一度、 ていくことになる。さすがにこれは骨が折れたので、いちど箱を降 「はあい」 ろしてひと息つ く。この馬鹿馬鹿しい有様を、通りの向こう側から、 と言う。ふう、と小さく溜息をついてから、治子は訊いてみる。 じっと凝視している少女かいた高校生ぐらいだろうか、ペットボ 「どんなフル 1 ツがあるの」 トルを片手に、同じぐらいの年頃の女の子ふたりといっしょに、宮 「えっと 、パッション・フル 1 ツでえす。奄美で獲れたんです ! 下公園入り口の階段に腰をかけている。治子は段ボ 1 ル箱の脇に立 今日、市場で仕入れたんですよお」 326
「迷惑かもしれないけど、 これ、もらってくれる ? 」 「ええ知ってますよ。足立区の六月。わたしタクシー、長いですか 「えつ」 少女は困惑した表情で、治子が手にしているクリスチャン・ルプ「そうですか。ここからなら、おいくらぐらいでしようか」 タンを見る。 「そうねえ、八千円から九千円弱ぐらい。一万円はいかないと思い 「あなたの靴のサイズ、たぶんわたしと同じぐらいだと思うから」ますよ」 「それをくれるんですか ? 」 「じゃあ足りるので、お願いします。母が住んでるんです。足立区 「ええ。ちょっと歩きにくかったから。わたしはもういらない さ六月の四丁目まで、乗せてってください」 つき買ったばかりだから、アウトソ 1 ルの真っ赤な色も、まだきれ運転手はメ 1 タ 1 を倒すと、ギアを入れ、タクシーを発進させる。 いなままよ」 後部座席の治子は、パッション・フルーツを運転手に勧めてみよう すごいじゃない、ルプタンだよ、と少女の友たちのひとりが言う。 か、と思案する。しかしあれは、ナイフとスプーンがないときに食 しいんですか ? ともうひとりが治子に訊く。なぜならば、治子はい べられるものだったか、どうか。とりあえず幾つか彼に手渡して、 ま、裸足で路上に立っているからだ。 ダッシュポードの上に並べておいてもらえばいいのか 「ほしい人が履くのかいちばんいい。ほしいなら、きっとあなたに あずき色の果実がウインドシ 1 ルドの上で並んで揺れる様を治子 似合うはずだと思う」 は想像する。ガラスを抜けてきた色とりどりの街の灯が、それらす ようやく、少女の顔に微笑が浮かんでくる。治子が差し出した靴べてに反射する様子を思い描く。 に手を伸ばす。 0 フルーツが詰まった箱を抱えた治子は、すぐにタクシーをつかま えた。なにも考えずに、手を上げて最初に停まったクルマに乗り込 んだのだが、どうやらそれは当たりだったようだ。歴戦の強者の個 人タクシ 1 だった。だからこんなやりとりをした。どちらまで、と 運転手から問われた治子が、 「六月まで」 と一言 - フと、 「はい承知、六月のどちらまで ? と彼は返してくるのだ。ちょっとびつくりした治子が聞き返す。 「運転手さん、ご存じなんですか ? 」 ら」 六月まで乗せてって 329
た現金をすべて引き出す。そして十分に呼吸を整えてから改札をく ぐると、こんどは日比谷線に乗り換える 「あああ極楽だあー」 真利江の唇から今日何度目かのそのひとことが漏れる。たしかに、 P-«アルテイメイト・ホディ・トリ 1 トメントのこのコ 1 スに は、そう評して差し支えないだけのものがあると治子も感じていた もっとも治子とて、このクラスのスパに馴染みなどない。 結婚生活が順調だったのかどうか、真剣に検証してみたことが治やって来たのも初めてだった。しかしだれにだって初めてのときは 子にはない。それが順調なのか、そうでないのか、いかなる基準をある。初めてあの世に行ったばかりの魂だって、極楽に着いたとき もってして判定すればいいものなのか、といった方向で考える にはきっと「ここが極楽なのだ」と気づくに違いない。それと同じ あるいは、考えようとして途中で停止するーそんなことは、まま ほどの意味で、治子は背中の丸石が発する熱の心地よさに深く感じ あった。だからこのときも、 入っていた。 「まあまあかな」 治子と真利江は大学の同期生だった。結婚は真利江のほうが早く、 と答えた。治子の会話の相手は友人の木下真利江だった。そしてすでに子供がふたりいた 4 、学校に上がったばかりの女の子と、三 歳違いの男の子だ。三十歳になってから結婚して、まだ子供もいな こう付け加えた。 「よくも悪くもない、たぶん。そうう」 い治子にとっては、まさに真利江の存在は、人生のある領域におい 「だよね 1 」 ての圧倒的な先駆者として、つねに尽きぬ興味の対象だった。 その逆に真利江は、折に触れて治子のことを誉めたたえるのだっ そう言って真利江は同意を示した。そんなものだよね、みんな、と、 ひとりごちるよ - フにトさくっふやいた たたとえば今日のような場面では、治子の体型を誉めた。いいよ ふたりはいま、六本木の東京ミッドタウンの敷地内にある、ザ・ねー、細いよね 1 、と彼女は言う。学生時代と、まるで変わってな 。、 . レームこいる リツツ・カールトン東京の地上四十六階にあるスノ いみたいじゃない。わたしなんか、産むたびに緩むだけ緩んじゃっ 落ち着いた室内で、ふたりは隣り合わせになったマッサージ・べッて、さあ。子供を育ててるつもりが、こっちまで育っちゃって。お ドにうつ伏せになり、背中と腰のいたるところに熱せられた丸石が腹のここのあたりとか、と快活に笑いながら言う だから治子はこう応える 載せられていた。これは一連の施術のクライマックスと呼ぶべき行 「さっきまで、さんざん泳いでいたから、わたしの筋肉、まだ張っ 為だった。各人の身体の経絡の流れにおいて重要なポイントとなる 箇所にヒ 1 ト・トリートメントをおこなっているのだ。ここに至るているんだよ。だから幾分、締まって見えるのかもしれない まで、ふたりはオイルと塩で全身をクレンジングされたあげく、フ 「へええ」 このスパに待ち合わせの時間よりも早く着いていた治子は、先に ェイシャルおよびヘッド・トリートメントも織り交ぜっつ、幾重に もほぐされ、磨き上げられてきた。 現金でふたり分の料金をビジタ 1 扱いで支払ってから、水着も買い
「それ、だめだから。ホールの決まりってだけじゃなくってね。ま たんだ。パソコンで。そうしたら」 あ、パチンカ 1 の、心意気ってやっかな。初心者のお嬢さんが勝ち ここで数秒、たぶん三、四秒、幸喜は絶句してから絞り出すよう 取った玉をね、はいありがとうといただいたってんじゃあ、こちと に一言った。 ら、寝覚めが悪くてしようがない」 「 : : : 口座がからつばだった」 だから治子は、出玉の一部で取り替えた温かい缶コ 1 ヒ 1 を一本、タクシーは治子がタ方に訪れていたギャラリ 1 こ」 。着する。思っ お礼として男に進呈することにした。これは彼も喜んで受け取ってたとおり閉場寸前、よほど客が来ないのだろう、受付の女性も、青 年も、治子のことをはっきりと記憶していて、彼女の再訪を驚きっ 結局、治子の勝ちはト 1 タルで六万円弱にもなった。減ったはずつも歓迎してくれる。 の現金がまた増えてしまった。そこで彼女は一計を案じる。時間が 「これでこの絵は買えますか ? 」 ないので甲州街道でタクシーを拾って北青山三丁目に。車中でまた 紙幣を手に、治子は受付の彼女に訊く。さっき訪れたとき、すで 携帯が振動する。録音されたばかりの新しいメッセ 1 ジを聞いてみに治子は、入り口にあったア 1 トピースの価格が記された一覧表を る。やはり幸喜が喋っている。 目にしていたたから、この号ほどのコラ 1 ジュ作品の価格はわ 「あのねえ」 かっていた。そこに五万三千円と書かれていたからだ。治子の手に と、かなり強い口調で彼は話し始める。いわく、きみはどういう は一万円札が五枚と千円札が七枚、さっきパチンコの景品交換所で つもりなんだ、あるいは、どうするつもりなんだ、いったい、 と幾もらったものがそのままあった。おっ 1 り、おっ 1 りとあたふたす 度も繰り返す。 る白人青年に、おつりはいりません、と治子は言う。 「ご飯粒が、風呂場じゅうに散らばってるじゃないか ! 」 「そのかわり、これを梱包して、送ってほしいんです。指定した住 悲鳴じみた声で彼は言う。どうやら自宅までもう帰り着いている所に」 らしい。キッチンとダイニングのいたるところに、味噌汁がぶち撒受付の女性はそれを了承した。治子は最初、まるつきり出鱈目な かれた形跡もある。それは半乾きになっている。シンクには瀬戸物住所を教えるつもりだったのだが、途中で考えを変えて、千代田区 の破片らしきものと真ん中からまつぶたつにヘし折られた箸一一本が大手町にある幸喜の会社の住所と部署名、記憶のなかにある彼の直 て ある。脱ぎ捨てられた彼女の下着まで床の上にある、のだと暑は属の上司の名前を紙に書いて渡す。今週末で展示が終わるので、そ 言う。 れから梱包して、来週中にはこちらにお届け出来るはずです、と受で ま 「あと、定期が : : : きみは僕に無断で、定期預金を全部解約してい付の彼女が一言う。 月 たのか ? 気になって調べてみたら、銀行の担当者は、解約したロ 彼女によって、赤い球状の頭をしたピンが一本、治子が買った絵 座のお金は、いつも使っている普通口座のほうに移したって言うじのすぐ右下の壁に打たれる。それが販売済みの作品の目印となるこ ゃないか。何週間も前に。だからそっちの残高をさっき確認してみとを治子は初めて知った。全展示品のなかで、ピンはまだその一本 325
カラオケで三千円とシャンパンが七万五千六百円、あとタクシーに もたもたしていると、隣席の初老の男が声をかけてくる。親切心や、 も乗った。つまり今日一日で約七十四万円を使い切ったことになる。あるいは下心などからではなく、治子の手際の悪さに純粋にいら立 財布のなかに、瑞希からもらった一枚のカ 1 ドを発見する。ふた っている様子だった。ああ、違う違う、ここ、 ここに入れるんだっ り分のカラオケ代を支払った治子に、お礼にいい ものあげるよ、とて ! と、まさに手取り足取り、男は指導してくれる 瑞希がくれたのがこれだった。新宿駅近くにあるパチンコ店に行け 「初心者はね、むつかしいことね、考えなくっていいの。ここね、 ば、遊戯用の玉を借りることが出来るプリペード・カ 1 ドとのこと このぶっ込みのとこをただただ狙うの」 だった。まだ玉が残ってるんだよね、と瑞希は言っていた。だから「ここですか」 治子は新宿に来てみたのだった。忘れていた 「あっ違う違う。こっち、ここ、 そこで治子は、新宿駅の東南口にあるパチンコ店に行ってみる。 ビルひとっ分が遊技場となっている、大きな店た。入り口のドアを「あーもう、玉、あんなに無駄にしちゃってからもう」 くぐった途端、高密度の音と臭いが、彼女の全身をすつばりと包み「すみません」 込む。 「そんでね、ここにね、百円玉を挟むのよ」 音は、遊戯球の動きから発している。弾かれては転がり落ち、吸「はあ」 い上げられ、パイプのなかを通って磨かれていく無数の玉の衝突や「違う、違う ! 十円じゃだめ。百円 ! 十円玉は薄いからね、厚 摩擦から生じた音が、反響してくぐもって、彼女の耳を覆う。まるみが」 で切れ目がない水音だ。降り続く雨と、側溝いつばいに渦を巻いて「なるほど。百円のほうがおさまりますね。ハンドルが」 走る濁流に飲み込まれたかのようだ。臭いのもとは、タールだ。煙「でしよお」 草のヤニだ。小さなスチ 1 ル球のクローム加工された表面に付着し 前歯の抜けたロで男は嬉しそうに笑う。 たそれが、ハンマーで叩かれ、釘に衝突するたびに散らす荷電した ほどなくして、治子の台がさらにけたたましく光る。さらに大き 微粒子が、エア・コンディショナーに吸い込まれては吐き出され、 な音が鳴り始める。うわっやったなあ、と男が言う。やりましたか、 と治子が訊く。ビギナ 1 ズ・ラックってやつだなあ。まいっちゃっ いま鼻腔まで到達してきた、というイメ 1 ジを治子は持った。 治子は、パチンコ遊戯の経験はほとんどなかった。高校生のころたなあ。そっち坐ればよかったよ俺も、と彼はくやしそうに言う。 大量の玉が治子の台から吐き出されてくる に一度だけ、面白半分で友だちと遊技場に立ち入ったことはあった。 しかしそのころと比べて、いまのそれは、なにもかもがけたたまし そのあとも治子はツキ続ける。大きな箱に何杯分も玉が出る。ま 激烈なものへとエスカレーションを果たしているように思える るで反比例するかのように男の台は彼の玉を吸い込み続ける。だか あらゆる場所が点滅しては効果音を鳴らしている。だから彼女はカら治子は男にすこし玉をあげようとしたのだが、決然たる態度で断 ードで玉を借りることすらままならず、適当に坐った遊戯台の前でられてしまう。 ここ」 324
と亜 5 くなるよす・ぐに。、 しまのガキなんてさあ、まるでボタン押すこ 希が呼ぶ治子の名が変わった。坊ではなく「タマ」へ。おそらく玉 の輿を意味するそれへと、呼び名の末尾が変化した。 とだけを教えられたサル同然なんだから。そんなふうにしてボタン 押してるだけのことを、今日では「仕事』って言うんだってさー 治子が瑞希に声をかける。 に若い男がひどいね。マザコンばかり。四十歳以下は男じゃな 「煙草、わたしにも一本頂戴」 しかし瑞希はそれを制して、 ああ、瑞希のいまのポーイフレンドは四十代なんだな、と治子は 「喫うんだったら、こっちのほうかいし 理解する。治子の知るかぎりにおいて、瑞希の人生に男の切れ目は と、手で巻かれた細長いものをポケットから一本取り出す。 「ちょっと、それはまずいんじゃない。 ここで」 切れるどころか、複数重なっていることすらよくあった。男 そんざいに、好きなことを好き 「あ ? だいじよぶだいじよぶ。日本のいいところはね、この臭いは彼女のことを放ってはおけない。。 がなんだかわかんない人が多いってこと。もし気にする奴がいても、 なように言っているようでいて、誘蛾灯のように男を呼び込んでし ま , フ、ちょっとしたフアム・ファタール。それか治子がむかしから 『お香だよ』。これでいいんだから、楽。 よく知る、グッド・オールド「しげる」だった。 「本当かなあ」 最後にふたりはまたいっしょに歌う。セックス・ピストルズの「ア 「ま、ぐっといきなよ、ぐっと」 。ポトルがナ 1 キ 1 ・イン・ザ・」。映画『ロスト・イン・トランスレ 1 そのままふたりは存分に杯を重ね、灰を増やしていく ション』の一シ 1 ンのように、窓の外できらめいているネオンを背 残りすくなくなったころ、治子がばつりと言う。 にして歌う。そしてカラオケ館をあとにする。瑞希はこれからいち 「仕事に戻ろうかな、と思うときがある」 おう会社に戻ると言う。治子の眼を正面から見据え、惜しいよな、 「へえ 1 うちの会社に ? 」 とつぶやく 「うん。そう考えることかあるんたけど、どうたろう ? 「あたしがレズビアンだったら、貰ってやるのに」 「ちょっと現実的じゃないね。難しいんじゃないかなあー 「お断りだよ」 「やつばり。プランクがあるものね」 口元だけで薄く笑いながら治子が応える。 「いや、そういうことじゃなくって。もっとひどい話。うちの会社、 もうだめだから。まともな人に、まともにやらせるような仕事すら、 なくなっているのかもしれないどうにもこうにも、安請け合いの 安づくり仕事を、安く雇った見習い同然の若造に投げ与えてるって いうかなあ」 何件かの留守番電話メッセ 1 ジがあることを携帯のスクリーンか ら治子は知る。山手線で移動しながら、ひとっふたっ、新しいもの 「不景気のせいで」 から順に聞いてみる 「不景気にしているんだよね。みんなでよってたかって。でももっ 322