鵐外 - みる会図書館


検索対象: 文藝 2015年 summer
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1. 文藝 2015年 summer

て、紐の付いているところを釘に引っかける。額には、古風な書体 願います」と挨拶して、急いで帰っていった。 鵐外が「半日」を書くのは、こうした家庭内での不幸が重なったの三字が浮き彫りにしてあった。 翌年 ( 一九〇九年 ) 春のことである。互いの神経を傷めあい、誰も これは何と読むの ? 」 かいくらかおかしくなっていて、不信感といさかい、救いのない悲於菟が訊くと、鵐外は答えた。 しみや後悔が、まだ静かに煮えているようなときであった。外自「賓和閣さ。お客が仲良くする所というわけだ。家のなかでは喧嘩 、はかり - をしている力、ら、ち一よ - フとし 。、、だろう。」 身も、例外ではありえない。 そう言うと、於菟に向かって、おどけた手つきをしてみせた。し このように見てくると、明らかになることか、さらに一つある 森しげは、自作の小説のなかで、外との結婚以来の家庭内の出来げは、出かけていて留守だった。彼女がいては、先妻の子である於 事をいろいろと書いている。だが、彼女は不律の死を直接の題材と菟と、鵐外とが、こんな父子らしい姿をその目にさらすことはでき するものは、一度も書いていないのである。「猩紅熱」の冒頭で、「一一ない。ちょっとものを言っても、嵐が荒れくるうような時代がまだ 月五日は去年生後半年ばかりで波子の男の子が肺炎で亡くなった命続いていた。 ともあれ、ここからもわかるように、子どもたちは鵐外に対して、 日に当る」と書き、また一方の「ばっちゃん」で、体の不調を抱え これは何と読むの ? ーと、いわばタメロである。 ながらも無事に男児を出産できた喜びを記してはいるのだが。誕生「パッ。、、 と追悼、その二つの言及のあいだに残された空白が、彼女の痛む傷夏目漱石の家では、そんな様子はない。彼の子どもたちは、父親 ロの深さを思わせる。おそらく、鵐外も、しげも、みずからこれらに対して、もっときちんとしたロの利き方をしたはずだ。ここには、 の創作を試みることを通して、そのことに、はっきり、出会いなお鵐外と漱石のあいだの、一種不思議な印象の逆転がある。そして、 していたのではないか。 この点について言えば、当時の中流知識人の家庭としては、夏目家 のほうが普通で、森家がくだけていたのである。鵐外やしげが、そ さほどは、このときから時を隔ててはいない大正の初めごろのこれを好んだということでもあったろう。 と。医科の学生だった長男・於菟の記憶によると、休日の午後だっ 漱石にも、作家本人の没後、なお長く全集に収録されなかった遺 稿がある。岩波書店の新書判全集 ( 一九五六 5 七年 ) になって初めて 鵐外は、自宅・観潮楼玄関の式台の上に踏み台を置いて、そこに収録されたもので、一つは、「日記」と「断片ーにおける皇室に言 乗り、右手に金槌を持ち、鴨居のなかほどに釘を打っていた。於菟及したくだり。そして、もう一つは、漱石による夫人に対する不愉 が門を入ってくると、鵐外はそこから振り返って、「ちょっと足継快が「露骨」に書きつけられている時期の「日記」 ( 一九一四年一〇 ぎを押えてくれ」と頼み、またしきりに金槌で釘の頭を叩いている。月三一日から一二月八日 ) であったと、この件の判断にあたった門弟 「於菟、そこにある額を取ってくれ」というので、玄関の上がり端の小宮豊隆は述べている ( 小宮豊隆「未発表の漱石日記について」 ) 。と に立てかけてある横長な小型の額を取って渡すと、鵐外は受け取っはいえ、漱石夫人の夏目鏡子は、このとき、まだ生きていた。 272

2. 文藝 2015年 summer

一」の」、 0 は、って , 」にいこ。 に芸術家が無いからである。宜しく外国の例に倣って『芸術院』を 興し、是れを風教の基とするべきであると云うのだそうだ。而して ここで、いったい何が議論されたのか ? やや遡って、鵐外は、一九〇八年 ( 明治四一 ) 一一月の日記に、 其『芸術院』に鵐外氏が推薦する人々には、第一、抒情詩家には薄 相前後して書いている 田泣菫、高浜虚子、蒲原有明、河東碧梧桐、岡野知十等諸氏。第一一、 小説家に夏目漱石、幸田露伴、泉鏡花、小栗風葉、小杉天外、小山 《岡田次官良平に小説家に対する政府の処置といふ意見書を作りて内薫等其他各方面の人々約五十人位であると云う。」 贈る。》 ( 一九〇八年一一月五日 ) のちに明治国家は「大逆事件」 ( 一九一〇年。幸徳秋水ら一一一名 《夜平野久保の書を得て、文部省に提出せし意見書の一一六新聞に洩 が明治天皇暗殺を企てたとして、翌一一年に処刑される ) のあと、 れたるを知り、岡田次官に電報もて通知す。鈴木春浦筆受に来ぬ。》社会教化と良風涵養のためとして「文芸院」を設立する。これは、 ( 同年一一月九日 ) その原型にあたるアイデアで、しかも出所は鵐外だった。 一九〇九年一月一九日、タ亥ーー・。文部大臣官邸での「会議」兼 についても 官職名を姓名のあしナ ( ( 、ごこよさんで記すのは、鵐外独特の流儀であ「晩餐会」では、 くだんの「シラ 1 賞 (Schillerpreis) ー る。岡田良平文部次官に、彼は小説家の処遇に関する何かしらの建鵐外から説明がなされた。 議をしている。 平野久保は、歌人・平野万里 ( 一八八五ー一九四七 ) の本名。この《△シルレル賞与金鵐外氏はシルレル、パライライスを持出し「一 とき平野は、「スパルー創刊の準備にあたっていた。鵐外は、先の年中の傑作に対して二千マ 1 クの賞与金を与えて奨励して居るが日 文部省に対する意見書の内容が「一一六新聞」に洩れたとの知らせを本でも始めたら如何です」と文相に云えば「日本でも一一千円位の金 平野から得て、あわてて、それを電報で岡田次官に知らせている。 は如何にかなるから行ってみましよう」と答え、漱石氏横槍を入れ 鵐外自身、前年 ( 一九〇七年 ) から文展の美術審査委員に就任してて「しかし審判官と云う者があって変な標準を立てては困る、政府 おり、ほかにも臨時仮名遣調査委員 ( 一九〇八年 ) 、遊就館整理委員はこれに干渉せぬがよかろう」と横を向いた》 ( 「読売新聞」一九〇九 ( 同 ) 、教科用図書調査委員 ( 同 ) なども次つぎと引き受けて、文部年一月二〇日 ) 大臣らと接触する機会は多かった。 平野からの知らせ通り、同年一一月九日付「東京一一六新聞」の消 ここには、国家と文芸の関わりをめぐる漱石と鵐外の違いが、よ 息欄に「外氏の『芸術院』建議案」と題して、鵐外が文部省に出 く出ている。漱石は、文芸の自由は国家からの自立によってもたら した「意見書ーの内容が報じられている。 される、という考え方で、はっきりしている。一方、鵐外は、国家 「森鵐外氏が文部大臣に、『芸術院』設立の建議案を呈出するそうだ。の紐付きであるのが文学にふさわしい、と考えているかと言えば、 其理由は、日本の社会が堕落したのは、社会の首脳となるべき部分必ずしもそうではなく、要するに彼は、そういうことについてはあ 2 ラ 0

3. 文藝 2015年 summer

学賞、「シラー (Schiller)- 賞のこと。詩人シラ 1 の生誕百年を記 まして、同年初め、妻の逆鱗に触れることを承知で書いたとおば念して、一九世紀なかば、プロイセン国家によって創設されたもの 、つ、、 0 しい「半日」など、いつのまに彼が書いていたのかさえわからない ただ、同年一一月一五日、 鵐外の日記を補える資料として、幸い、鵐外の母、森峰子による 《半日の稿を太田に渡す。》 日記 ( 「峰子日記」 ) も公刊されている ( 山﨑國紀編『森鵐外・母の日記』、 太田とは、木下杢太郎こと太田正雄。当時は、東京帝大医科に学増補版 ) 。 びつつ、鵐外の後援を受け創刊されたばかりの「スパル」の編集を「峰子日記」の同じ一九〇九年一月一九日のくだりには、このよう 手伝っていた。とはいえ、この年一月に「スパをが月刊の文芸雑にある。 誌として創刊されると、誰より熱心に寄稿するのは、ほかならぬ鵐 外 ! っこ。 《文部省の文芸院のことに付、会議 ( 儀 ) あり、夜 ( る ) 遅く帰宅、 このように面白みのない書きぶりながら、鵐外は、儿帳面に日記 いろいろのことあるも、皆、新聞にあり。》 をつけ続ける。対照的に、夏目漱石 ( 一八六七ー一九一六 ) は、とび とびに、ある限られた期間ごとにしか、まとまりのある日記はつけ 当の鵐外自身のものより、この母による記録のほうが、具体的か なかった。たとえば、英国留学中の一時期や、「それから」の執筆っ細かいもちろん、これは、自慢の長男坊、林太郎 ( 鵐外 ) の行 前後、それに続く満韓旅行中、修善寺の大患前後の入院・療養の期動について述べているくだりである。つまり、そのタベ、鵐外が出 0 かけた小松原文部大臣官邸における晩餐会とは、この「文芸院 . したがって、鵐外と漱石の日記に、それぞれ目を通すだけでは、 ついての会議を兼ねたものだったらしい。峰子は、その日の日記を、 一一人の関わりについて見落としてしまいがちな場面もあるようだ。 日付の翌日に記しているらしく、同月一一〇日付の「読売新聞」は「文 一例を挙げれば、一九〇九年一月。この時期、漱石は日記を残し相の文士招待会」との大見出しで、たしかに次のように報じている。 ていない。一方、外のほうは、容易に尻尾をつかませない書きぶ「各派の代表的文士九名に対する小松原文部大臣の招待晩餐会は昨 りで、一月一九日、こう記すだけである。 タ五時から予定の如く永田町の同官邸に開かれた。 △欠席者なし。定刻に先っこと二十分。上田万年氏フロックコ 1 トの扮装にて第一着に腕車を乗付け、其れより森外氏は軍服、夏 《タに小松原大臣栄太郎の官邸に晩餐会に招かれて往く Schillerpreis の事を調査することを岡田次官に約す。夜暖き雨。》目漱石、幸田露伴、巌谷小波、芳賀矢一、島村抱月等の諸氏はフロ ックコート、上田敏、塚原渋柿園の両氏は和服にて何れも相前後し て参着 , これでは、そこで何がなされていたのか、ほとんど、わからない。 ちなみに、 SchiIIerpreis とは、当時ドイツで運営されていた文政治家や役人とのつきあいなど嫌いなはずの漱石も、なぜだか、 0 いでたち さきだ 249 女の言いぶん

4. 文藝 2015年 summer

・旅帰 ( 「スパル」一九一〇年一一月 ) 「うむあの二人浦島はオペラじみているね。しかし己よりは旨、。 ・猩紅熱 ( 「スパルー一九一〇年三月 ) 「それは本職ですもの。」 「あれは本職ではないよ。それだからヂレッタントだと云って、批 森しげの小説中、抜きん出て分量がある作品が「あだ花」と「波評家が悪く言っているのだ。しかし己の考では、医者だろうが、官 瀾ーである。「あだ花」が四百字詰め原稿用紙換算でおよそ八五枚、「波吏だろうが、商人だろうが、作をするのは内生活でするのだ。 ( 後略 ) 」 瀾」が同じく七〇枚ほどといったところである。この二作が単行本 これなどは、鵐外による「朱筆 , の一つの典型だろう。この種の の巻頭に配され、しかも、収録作全体の配列が、基本的に、照応すべダンチックなクいたずらクのたぐいが、単行本『あだ花』中の諸 つつもたせ るしげ自身の人生の流れに沿って、ほば時系列に並べられている。 作品には散見される。中野重治はこれらをさして「鵐外の美人局的 しげは、一八八〇年 ( 明治一三 ) 五月、のちに大審院判事をつと自己弁護 . と罵倒する ( 中野重治「しげ女の文体」、『鵐外その側面』 ) 。 める荒木博臣の長女として、東京で生まれ、華族女学校に通った。 だが、むしろ、ここは女房の作に便乗しての自己顕示と言うべきか 一九〇二年 ( 明治三五 ) 、鵐外としげが結婚するとき、外はまもな しかし、かえってそれゆえ、私は中野が言うように「外の朱筆 く満四〇歳、しげは満二一一歳になるところで美貌の持ち主として知は、しげ女において、「あだ花』が現物として示したとおりに満遍 られていた鵐外は再婚。しげにも、ごく短い期間の既婚歴があっ なく走ったのである」とは考えない外の趣味はそれとしてはっ きりしているからこそ、しげ自身の資質に拠った基本的な文の運び 巻頭に置かれた「あだ花」は、彼女の短い初婚当時のことを描いからは、浮いている。だから、かなりの確度で、両者は弁別できる たものである。結婚相手の男は財産家の息子 ( 事実においては東京のではないか。 渡辺銀行創業者の子息 ) で、役者のような美しい顔だちだった。だ しげにとって、鵐外によるそうした加筆、収録作の配列の工夫な が、新婚当初から、以前より深い仲にある芸者との関係が変わらずどは、彼女自身の執筆動機からすれば、ほとんどどうでもよいこと 続いている。若い彼女 ( 作中では「富子」 ) は、まだ新郎に対してであるようだ。それらは、彼女の創作意欲の妨げにもなりはしない。 これといった愛情も湧かず、この件に、いを動かすことさえ知らずにおそらく、しげは自身にとって大事なことをさっさと書いてしまっ いるのだが、心配する周囲の配慮によって離婚に至る た上で、その種のことに関しては、夫・外の好きなように任せて 作中、新郎が余興の脚本を執筆しようとするくだりがあり、新郎 と新婦のあいたに こんなやり取りが挿入される。 「外の一幕物だの坪内の歴史物はどう思う。」 「波瀾」は、再婚の挙式翌日からの、小旅行の模様を語る。行き先 「わたし小説だの脚本だのは父がやかましく申しまして読ませんでは、当時の鵐外の赴任地、小倉である。 したが、紅葉の金色夜叉を読みました。脚本では鵐外の一一人浦島を事実においては、東京での二人の婚礼が一九〇二年 ( 明治三五 ) ふいと去年読みましたの。 一月四日。明くる五日の夜汽車で、彼らは小倉に戻っていく。途中、 、、 0 おれ 256

5. 文藝 2015年 summer

左団次のポルクマン役で、有楽座にて公演されたことをさしている。 たことを一小す記載はない。 前日 ( 同月一一七日 ) の鵐外の日記には、「母上於菟と茉莉とを連れて、 有楽の Borkmann 興行を見に往き給ふ」との記述もある。一一八日 同年四月七日 の当日は、終演後、俳優たちと会食することになっていた。たか 《産を閲し畢る。》 妻が不同意。そこで、やむをえず一緒に帰宅したのか、しげだけを 帰らせて自分は会食の席に出たのか、そこのところははっきりしな 同年四月一一一日 《友達の結婚、 Puck の大臣、流産を校す。》 同年一二月一三日 これ以後、鵐外の「日記」に、しげの小説に関する記載はずっと 《賀古、妻の波瀾を読みて書を寄す。あだ花を校し畢る。》 一五作品にわたって見つけられず、かろうじて私が気づくことがで きたのは、一一年半を隔てて、彼女が発表するいちばん最後のものと 鵐外の親友、賀古鶴所が、しげの「波瀾」に感想の手紙をよこし思われる短い作品「お鯉さん」についての言及である。 た。その日、鵐外は、彼女の次作「あだ花。への「朱筆」も終えた 一九一一一年九月八日 《妻の作お鯉さんを閲す。》 一九一〇年一月二五日 《旅帰を閲し畢る。》 なお、この「お鯉さん」については、初出誌への掲載稿と見られ る森しげ自筆原稿が、鶴見大学図書館に所蔵されているという。こ 同年一月三一日 れを閲覧、校合した藤木直実によれば、ルビ以外の朱筆は、句読点 《妻の旅帰を校し畢る。》 や鍵括弧および送り仮名の脱落を補ったものを除けば、「いずれも 語の修正程度の三箇所にとどまる」のだそうである。 ( 藤木直実「作 同年一一月一五日 家の妻が書くと、さーー森しげをめぐるテクスチュアレ・、 ノノラスメントの構図」、 ん 「日本文学」一一〇〇五年一月号 ) 《原平吉、江藤邦松の一一人来て、妻の小説を発行することを語る。》 い つまり、単行本『あだ花』の刊行で気が済んだのは、むしろ鵐外の 女 原平吉は編集者、江藤邦松は単行本『あだ花』の版元となる弘学のほうだけで、ここから先の作品群は、鵐外の「朱筆」を受けずに、 館書店の経営者である。 しげがほとんど一人で書いていたのではないかとも思われる。そし このあと、「猩紅熱」「宵闇」に関しては、鵐外の「朱筆ーが入って、彼女の短篇小説は、これを読む者の目にも、より楽しく、多彩

6. 文藝 2015年 summer

やがて、胸が痛い、手足が痛いと苦しみだして、夫も二階での歌会 「その遺言の事だって、公証人の役場の小使が、紀尾井町〔奥さん を中座して降りてくる。 の実家〕へ来る婆あやの亭主なので、それでやっとわたしに知れた 翌日、娘の熱は冷める。猩紅熱ではなかったのである。両親は、 のだから変だわ。それはわたしなんぞの困るようには書いてないで ばかばかしいやら嬉しいやらで、そして途端に、ゆうべのお客たちしよう。どう書いてあったって、お父様がいうが、遺言状というも に失礼をしたことを気にしはじめる のは、そんなに確なものじゃあないということだわ。それにあの人 ちなみに、この一九一〇年一一月五日の外日記を見ると、 が持っているのじゃあなくって。」 《茉莉前膊腓腸たゆしとて煩悶す。短詩会を開きながら、予は茉莉 ここでの「お父様ーは、大審院長をつとめる、この奥さんの実父 の病牀にありて其席に列すること能はざりき。》 のことである。事実関係に即するならば、これは元佐賀藩士の大審 とある 院判事、しげの父親である荒木博臣その人に重ねてある。 茉莉が、手足や腹がつらいと言ってもがき苦しみ、歌会にも同席実際、こんなやりとりが彼らにあったのだろう。 できなかった つまり、この事実にのっとって、直後に「猩紅 一九〇四年 ( 明治三七 ) 三月、鵐外は、第二軍軍医部長として、 熱」が書かれたらし、 し。ただし、同じく鵐外の日記によると、前々満洲の戦地へと出征する。鵐外夫婦は、すでにそれまでの二年間、 日三月三日 ) 以来、茉莉は咳が激しくて寝込んでおり、前日 ( 四日 ) 鵐外の母・峰子、同じく祖母・清子、末弟の潤三郎、前妻とのあい には学校も休んでいるので、ここにも、しげの小説への作意が働い だの息子・於菟とともに暮らしていた峰子としげのあいだの確執 ているのは明らかである。 は、収まらずに続いていた。峰子にすれば、もともと自分が見つけ このように見てくると、単行本『あだ花』という小説集は、しげてきた長男の再婚の相手であり、困惑はなお深かった。嫁のほうは、 という女性の半生にわたる日常茶飯に題材を求めたものと言ってよ義母を「あの人」としか呼ばない。 こうした妻の態度に、鵐外も出 外が「朱筆」を以て、その完成を助力したことは確かにせよ、征が迫るにつれて、胸中を暗くした。 これが作風全体を左右するほどのものではなかっただろうと思える おまけに、夫たる自分の出征中、この妻は義母たちと同居を続け のだ ることを拒んで、娘を連れて実家のほうで暮らすと言うのである そのまま自分は戦死するかもしれない。それを思うと、妻の態度に 森鵐外「半日」に、こんなやりとりがある ふつふっと怒りが湧いてきて、ついに絶望にも駆られたらしい ん 「あなたが亡くなりでもしたら、わたしと玉ちゃんとはどうなるの いよいよ出征の日を目前にした同年一一月一三日。外は、日ごろ い です。」 から親しい後進の英文学者・上田敏、結婚の媒酌人をつとめた医師・の 女 と、奥さんが急に論鋒を転じたところから先である 岡田和一郎を証人として伴って公証人役場を訪れ、次のような遺言 「おれは公証人を立てて、立派に遺言がしてあるから、お前や玉の書を作成したのだった。 困るような事はないのだ。」 259

7. 文藝 2015年 summer

し」い - フ , 」し」亠のつつ 0 し」い , フの・は、 博士はこんなことを考えている。嫉妬の方角違いになるのも病的動の前提としてよいかはあやしい これの出所は、つまるところ、一九三六年、戦前の岩波版「漱石全 ではあるまいか。人の声に対する異様な反応なぞも、病的であると 集』が刊行されはじめたさいの佐藤春夫による次のような伝聞談 いう証拠になりはすまいカ 孝というような固まった概念のある国に、夫に対して姑のことを ( ? ) に、ほば収斂してしまうからである。そして、佐藤春夫とい あんな風に言って何とも思わぬ女がどうして出来たのか。そのうちう人は、この種の、伝聞なのか、自身のおばろな記憶、あるいは推 、台所の方でことことと音がしてくる。昼の食事の支度をすると測なのか、そこの峻別さえアイマイな話をいろいろと撒き散らしな 見える。今に玉ちゃんが走ってくるだろう。今に母君が寂しい部屋がら生きていた。 から、茶の間に嫌われに出てこられるであろう 《先生〔注・鵐外のこと〕は「半日」を発表の次の月に「半日」発表 だが、そうなのだろうか ? 後の事件に基づいて続「半日」とも見るべき ( ? ) 「一夜ーという 鵐外夫人の森しげは、自分が一方的に悪妻として書かれているが稿を同じくスパルに送ろうとしているところを夫人に発見されて、 これは夫人の希望によって破棄することにされた。尤も無条件にで この作品を書籍に収録することを長く拒みつづけたのか ? はなく、夫人に家庭内の態度の改善主として郎君及姑に対する事え いや、たしかにそうであるにせよ、彼女を落胆させていたのは、 むしろ鵐外による自分の「悪妻ぶり」への理解のありかたが、彼女方を希望され、これが実行を約した上で夫人が要求のとおり「一夜」 が期待をかけていたより、いざ蓋を開けてみるとあまりに浅すぎて、は破棄されたという。従って一夜はその作があったというだけで作 それによる作家たる夫の洞察力の欠如への深い幻滅、あるいは危機者以外読んだ人は恐らく夫人ひとりだけで棄てられたものと思う。 その時の話の末で、先生は、夫人に向って自分で自分を天下に訴 感を、ひそかに覚えたことからなのではなかろうか。悪妻で知られ る彼女が、夫・鵐外を誰より深いところで愛していたのも、ほば確える方法として小説の執筆を提言された末、以後夫人が提出する草 かである。なぜなら、彼女は、自分の夫に染みつく悪人性に気づい稿を先生は鄭重に入朱してこれを夫人の名で発表させられた。 ており、そこから官能をも得ていたからである。だからこそ彼女自「文は未だ体をなす筈もないが、その言わんとするところは世上一 身の側にも、悪人として深く理解されるという、悪人には悪人なり般の婦人の心事とは自ら異るものがあって奔放不覊の自己を主張し て甚だ妙である。これはこれで珍重すべく世に問うべきである。」 の喜びが、本当はありえたはずなのだが。 鵐外が「半日」を書き、その後、さらに「一夜ーという続編を書と傍人に語られながら先生は欣然と夫人の文に朱を入れて居られ た。「あだ花ー一冊のなったのにはこれだけの経路があると自分は きついでいたのだが、それに気づいたしげが発表を阻止してしまい 鵐外は妻への懐柔策として彼女にも小説執筆を勧め、その出版に至聞いている。》 ( 佐藤春夫「『半旦のことなど」 ) らせた というのは、わりあいによく知られた日本近代文学史上 のゴシップである。だが、ゴシップはやはりゴシップで、それを不ともかくも、鵐外からの小説執筆の勧めをしげは応諾し、この年 つか 254

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かたや、「半日」を発表した一九〇九年三月以後、鵐外の「日記」《平出修、与謝野寛に晩餐を饗す。》 か、らも、 いくらか拾っておく。 この年六月一日の幸徳秋水捕縛によって世間に明らかになる「大 逆事件について、これが、鵐外の日記に見られる初めての言及と 一九〇九年 ( 明治四一 l) 一〇月二六日。朝、中国・満洲のハルビ言えそうなものである。 平出修は、大逆事件公判で弁護人をつとめる若手弁護士であると ン駅頭で、明治日本の初代首相をつとめた伊藤博文が、韓国人義兵・ 安重根によって暗殺された日。 ともに、「スパル」刊行の出資人であり、みずから歌人でもあった。 《午後三時過ぐる頃外務省にある寺内大臣〔寺内正毅陸軍大臣〕に呼与謝野寛は、新詩社主宰者として平出の師匠格にあたる立場で、鵐 ( 務 ) ばれて行く。大臣政府局長室にありて、満洲にある医師を選びて外と平出の仲立ちをつとめた。 哈爾賓に遣らんことを命ぜさせ給ふ。本堂恒次郎、河西健次を遣る この時期、平出修は、大逆事件の弁護を受け持っ準備のため、与 こととし電文を草す。未だ草し畢らざるに、公薨ずといふ電報至る。謝野に同道されて一週間ほど夜間に鵐外宅に通い、社会主義、無政 夜賀古鶴所電話にて医師を伊藤公の許に派遣せしやと問ふ。依りて府主義についての個人講義を受けたと言われている。だが、それは この一二月一四日より早い時期、おそらくは一一月後半あたりのこ 事実を告ぐ。》 同年一〇月一一七日。 とだったはずである。なぜなら、この一一一月一四日には、すでに大 《伊藤公遺骸保存の事に関して青山胤通〔東京帝大医科大学長〕に電逆事件の公判は始まっており ( 一一一月一〇日から ) 、急ぎ足の審理が 進む最中だったからだ。 話す。》 大逆事件被告らの検事聴取書、予審調書は、公判開始まで一カ月 の期間を与えて各弁護人に大審院から謄写して貸し出され ( 大逆罪 による公判は、大審院での一審制である ) 、判決後は返却すること とされていた。そこで、平出修は、自分の法律事務所の事務長、和 貝彦太郎 ( タ潮。彼自身も新詩社系統の歌人だった ) に依頼して、 それらの調書のうち、担当する被告 ( 高木顕明、崎久保誓一 ) に関 する部分の写しを三通ずつ作らせた。そのうち、一揃えは与謝野寛 べつの一揃えは森鵐外に贈り、最後の一揃えは平出その人の手 もとに残されたと、和貝彦太郎は証言している。 ( 渡辺順三「大逆事 件裁判記録について」、「秘録・大逆事件」上巻 ) また、鵐外は、大逆事件を諷したものと読める短篇小説「沈黙の 塔」を、すでに同年一一月に発表しており、この事件についてかな 一九一〇年 ( 明治四一一 l) 八月三〇日。 《是日官報朝鮮併合を発表す。夜風雨。》 同年九月二日。 《朝鮮を併合せられしを祝しに参内す。》 同年一〇月一八日。 《胃腸病院にある夏目金之助〔漱石〕に涓滴を贈る。》 「涓滴』は鵐外の短編小説集。同日の漱石の日記には、「鵐外漁史 ( たてまっ ) より「涓滴』を贈り来る。漱石先生に捧げ上ると書いてありたり 恐縮」 ( ハルビン ) 同年一二月一四日。 274

9. 文藝 2015年 summer

まり考えていないのである。むしろ、彼は一種の文学オタクで、欧あくまで芸術家のものであって、啓蒙家の態度ではない。啓蒙家と 米の文学事情についても、洋雑誌や洋書を取り寄せてこまめに読んは、大衆に対して同じことを繰り返し説くことのできる人である。 でいるので、きわめて近況に通じている ( この年、「スパル」三月漱石は、それより、芸術の一回性に挑みつづけることを望んでいた 号から彼が連載を始める「椋鳥通信」は、そうした海外文学事情に この点では、とにかく数多くの文学作品を日本語に訳し、欧米の創 ついての短信の連射である ) 。だから、ドイツにはシラー文学賞と作世界についての先端知識を輸入しようという鵐外の努力のほうが、 いうのがあるが、日本でもやってみてはどうか ( やりたい ) と、彼はるかに啓蒙的性格を帯びたものであったろう。 はわりにごく気楽に政府に持ちかける。そういうところが、いわば鵐外には、本職たる医官の仕事に加えて文芸の生活があるわけで、 い。たとえば、先に引いた一九〇八年一一月九日 文士としてアマチュアなのだが、彼は終生、官吏としての職業も続ともかく彼は忙し けて、半アマチュア作家たる立場を意識的に貫く の彼の日記には、夜、「芸術院ーの構想が一一六新聞に洩れたので岡 ともあれ、漱石がこうした考えの人物である以上、鵐外が思い描田文部次官に電報で通知する、というくだりに続き、「鈴木春浦筆 く「芸術院の構想に、相乗りしようとするはずもない。 受に来ぬ」という短い記述がある。すでに夜更けのはずである。彼 らは、何をやっているのか ? と , 、じろ・フ 日清戦争 ( 一八九四 5 五年 ) 、日露戦争 ( 一九〇四 5 五年 ) と、両度 この春浦こと鈴木本次郎は、鵐外の次弟、故・森篤次郎 ( 医師で、 の長い従軍生活を経て、鵐外にとって、この一九〇九年 ( 明治四二 ) 劇評家・三木竹一 l) が創刊した雑誌「歌舞伎ーの編集者である。そ は特別な年だった。なぜなら、「舞姫」 ( 一八九〇年 ) など二〇代のの日、彼は「歌舞伎ー誌上に掲載する一幕物の戯曲、ホフマンスタ 初期作の時代から、およそ一一〇年ぶりで、旺盛な創作活動へと一気ール「痴人と死と」を口述筆記するために鵐外を訪ねたのだ。さら に復帰したからである。その理由を、彼は自作中の主人公のロを借 に、当夜の未明になって、「夜なかに思った事」と題する一文で、 ぎよう りて、『吾輩は猫である』など漱石の活躍ぶりに「技癢を感じた」 ( 腕こんなふうに鵐外は書いている。 がむずむずした ) と述べる ( 「ヰタ・セクスアリス」 ) 。 その間のおよそ二〇年、鵐外が主に力を注いでいたのは、欧米の《今日なんぞは、朝から午頃まで、新橋停車場に立っていた。これ 文学作品などの翻訳だった。この点も、漱石が足かけ三年の英国留は天子様が大演習地にお出でになるので、それをお見送り申上げる 学 ( 一九〇〇 5 一一年 ) を経て、東京帝大、一高で英米文学を講じ ( 一のであった。それから役所に出て、会議をした。三時に済んだので、 ん 九〇三 5 七年 ) ながら、生涯に一冊の訳書も刊行しなかったことと、英国大使館の園遊会に、芝生の上で寒風に吹かれに往った。それか い 奇妙な対照をなしている。 ら途中で晩飯を済ませて、又新橋の停車場に往った。今度は長官のの 女 一一〇世紀初頭の日本で、漱石が取りくむ先取的な作品群は、後進大演習地に立たれるのを見送ったのだ。それから内へ帰って来ると、 の多くの若者たちの思考や生活様式に大きな影響をもたらす。だが、鈴木春浦君が待ち受けている。これは歌舞伎の原稿を筆記してくれ 評論でも創作でも、つねに新たな冒険に挑もうとする彼の態度は、 に来たのだ。歌舞伎は弟の遣っていた雑誌だから、其雑誌を続けて 251

10. 文藝 2015年 summer

小説中に日時をはっきりと明示することで、意図して、その事実の身をもがいたが、忠実な看護婦たちは「お起こししては叱られます 痕跡をここにとどめさせてはいるのである。実生活での経験に符合から」と手を離さず、袞弱していた篤次郎は、そのまま窒息したの 、つ、」 0 する出来事や日付を、自作の小説にもこっそり ( と言っても、目に は留まるかたちで ) 盛り込もうとするのは、鵐外の性癖のようなも病理解剖を求めることになり、その未明のうちに、遺体は東京帝 のである。彼は、しばしば、 , フい - フことをやっている。 大医科大学に運ばれていたのである。 ひょっとしたら、当初は、この小説で、弟の死についても触れよ執刀医が「これです」と言い、遺体の喉頭内面の淡紅色の粘膜を うという目論見があったのかもしれない。しかし、それではまとまつまみ上げた。鵐外は、それを見ようとして、首を伸ばした瞬間、 りをつけきれずに、こうした形に切り詰め、結果として、そこでの卒倒した。 時間の経過だけが、弟の死の痕跡として残ることになったのかもし家に帰ると、生後半年の不律が三日前から咳をするのだと、しげ れないのだが か、ら聞′、 事実において、一九〇八年 ( 明治四こ一月一一日、鵐外の日記 はこ、フである。 「篤の葬式はどうも活気があるね」 と、鵐外は言ったという ( 小金井喜美子「次ぎの兄」 ) 。南鞘町 ( 現 《十一日 ( 土 ) 午前九時新橋に着く。弟潤三郎停車場に迎へて弟在の中央区京橋 ) の自宅は、弔問の歌舞伎役者、劇場関係者、また 篤二郎の死を告げ、且云ふ。今日医科大学病理解剖室に於いて剖観新聞記者らであふれた。「名高い歌舞伎俳優の焼香を舞台でなく見 せんとすと。直ちに大学に往く。家に還りて、一一男不律八日より咳られました」などと言う夫人方もいた。妻の久子、妹の小金井喜美 嗽すと聞く。》 子ら身内の者と、春浦こと鈴木本次郎だけがしきりと泣いていた 鈴木春浦は、篤次郎が始めた雑誌「歌舞伎ーの編集をその後も引 鵐外の五つ年下の篤次郎は、前年 ( 一九〇七年 ) 暮れから、喉がき継ぐ人物で、先に触れたように、やがてこの年の晩秋、一一月九 塞がりがちで息苦しい症状があり、咽頭潰瘍との診断を受け、賀古日夜に観潮楼で鵐外の帰宅を待ち受け、その訳述によるホフマンス 鶴所が経営する小川町の賀古病院に入院して、年を越し、切開の手タ 1 ル「痴人と死と」を筆記することになる人物である。 術を受けた。 篤次郎弔問の場での鈴木春浦は、自分は泣き上戸なのだと身内の ん その後の気分は良好な様子だったが、一月一〇日夜、突然、大量女性たちに言い訳しながら、また泣いた い に吐血した。鼻と口から血を噴き出しながら、身をひねって吐き出埋葬は、一月一四日、昼過ぎ、向島の弘福寺で行なわれた。大勢の 女 そうとするのだが、安静にして動かすなと院長から言いわたされての会葬者があり、一月にしては異様なほどに暖かかった。 いた付き添いの二人の看護婦が、起こすまいと押さえつけた。篤次埋葬が済むと、鵐外は、「さあ、早く帰らなければ」と、自宅に 郎は、「俺も医者だ、起こしてくれ、このままでは死ぬ」と叫んで残しているわが子二人の病人のことを言い、「どうか諸君よろしく 2 戸