わから - みる会図書館


検索対象: 群像 2016年11月号
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1. 群像 2016年11月号

こ。はっきり言ってそれはもっともやってはならないこと だった。なぜなら犬は動くものを追う性質を本能として持っ 幸いにして大たちは延喜を噛み殺すのに夢中でこちらには ているからで三頭の犬は、延喜が走り出すのとほば同時に走なんらの注意も払っておらなかった。岩戸を抜ければすぐに り出した。 でも走りたかったが、そうすると大というものは気配に敏感 その疾きこと弾丸の如しで、忽ちにして延喜は追いっか な生き物だから、その気配を察知してこっちに向かって走っ れ、後ろから飛びかかられた。そのうえで犬たちは喉笛に噛てきて噛んで、結局は延喜と同じことになる。 みつき、首を左右に振り回した。これは犬が洒落や冗談で噛 そろっと岩戸を抜け走りたいのを我慢してときおり後ろを みついているのではなく、本気で殺しにかかっていることの振り返りながら林で弁天池まで戻った。 証左である。 どうやら大は追ってきておらず、助かった、と思いつつ暫 普遍的人道的立場に立てばこの場合、私は延喜を救済すべ く虚脱して、それからなぜか急にそうしなければならないよ く、銃で犬を撃ち殺すべきであろう。仮に延喜の命がすでに うな気持ちになり、萱子さんの新墓にぬかっき、両の手を合 失われていたとしてもだ。人間の命を奪った動物は殺される わせて祈り、そしてまるで生きている人に語りかけるように べきなのだ。これ以上の犠牲者を出さないためにも ! して語りかけた。 う理窟かどうかは知らないが、人間をかみ殺した犬や熊、脱 「延喜は死んだよ。大に噛まれて死んだよ。笑うね。笑っ ちゃいけないんだけどさ。しかしながら、こんなことになっ 走した虎などが射殺されているニュース映像を私はしばしば 見たことがあった。 たのはあいつのせい、って訳ではないけどね。まあ、いい奴 けれども私はそんなことは当然しなかった。なぜなら逃げ だったのか。俺も女房に死なれた男だ、とか言ってたけど、 る機会を失したくなかったからで、私はこの距離で三頭の動それで狂っちゃったのかね。わかんないけどね」 き回る犬に弾を命中させる自信はなく、下手したらすべてを そんなことを言っていると、辺りが急に暗くなった。あ 外す可能性もあった。 れ、雨でも降るのか。珍しいことだ。 そうしたらどうなる。こんだ自分が延喜のようなことにな そう思って見上げると、頭上に真っ黒い帯状の塊が蟠りわ ナ るのであってそんなことは御免だ。三十六計逃げるに如か ななき、ふるえており、わぶぶ、私は今度は全力で駆けだし ず。それもまた普遍的価値なのか。 た。耳に羽音がこびりついて頭が痺れた。 私は岩戸に向かってゆっくり歩き、そろっ、とこれを抜け っ ) 0

2. 群像 2016年11月号

「全然、再起動をしないんです。しそうにもないんです。ど 開けて入っていっても顔さえあげなかった。 うしたらいいんだか、まったくわからないんです。あらゆる 修行者の健康管理もまた僕の頭を悩ませた。修行は深夜に ものを私は自分から取り外せずにいるんです。肉体的なもの まで及び、睡眠時間や食事時間を削るため、衰弱して貧血で はもちろん、社会的なものからも何一つ脱却できないんで 倒れる者が続出した。 僕自身が頻繁に見て回って、過度な連続修行を取り締まるす。衣服も社会的なつながりのひとつだと思ったんです。せ めてこれからだけでも脱却しようと服を脱いで裸で修行をし しかなかった。部屋の施錠を禁止し、定期的に巡回した。 たんです。いい考えだと思ったんです。でも全然だめなんで ある夜、ひとつの部屋の明かりがついていないのを発見し た。廊下は電灯を消して真っ暗にしてあるから、扉の下の隙す。再起動しないんです。全然 : : : 」パープルは号泣した。 「いいかい」僕は説得する気などなかった。慰める気もな 間から光がもれてこない部屋はすぐにわかった。 かった。ただ面倒を感じただけだった。「まず服を着なさい。 就寝するには早い時間だ。修行部屋が無駄になっているこ 服を脱いでも何の脱却にもならない。それと再起動はそう簡 とがわかると熱心な信者たちがうるさく文句を言ってくる。 単に得られるものではない。ひどく時間がかかるものだし、 僕は一応ノックをしてから扉を開けた。 照明が落とされた漆黒の部屋の中に信者が座っていた。懐最後まで再起動できない人もいるでしよう。だからあせらず 中電灯を当てると女だと分かった。一糸まとわず裸だった。 僕は話しながらも突然に、この女に何もかもぶちまけてし 女は泣いていた。それはバープルだった。 まいたい衝動にかられた。遊び半分の教団立ち上げ、単なる 暗い中に座るバープルの白い肌はひどく青く見えた。透明 トリック。全部をひとつひと 感のある、闇に浮き立つような裸だった。暗さの中にあって妄想の教義、あらゆる嘘、罠、 つ、種明かししてしまいたかった。僕はこの瞬間、猛烈にこ も自身が欲情しそうで僕は怖かった。 の女を「仲間にしたい」と願った。首を振って思いを消さな 懐中電灯を消し、自分でも驚くほどのやさしい口調で僕は ければならないほど強烈に、僕の頭を占領した。 聞いた。 「いったいどうしたんだい ? 僕は黙った。荷でもいい、何か言葉をつなごうと口を開き 服なんか脱いで。何かあった かけた瞬間、僕の中の欠落に突如気づいた。 のかい ? 」僕は嫌な事件を想像した。 仲間にしたい ? 俺には確かな仲間がいたはずじゃない 「再起動しないんです」バープルは嗚咽しながらそう答え か。クオーターだ。俺の中のクオーターはいったいどこに いってしまったんだろう ? 「そう簡単には、再起動はしないよ。焦る必要はない」

3. 群像 2016年11月号

見るといったいなにが起きたのだろうか。私の犬がいた位 置に私が銃を構えて立っていた。はっとして振り向くと、草 子が倒れていた。その上空を無数の毒虫が旋回していた。私 は激怒した。牙を剥き、目を剥き、唸り声を上げた。私が 言った。 「おまえが怒るのはわかる。しかし仕方がない。おまえの目 を覚ますにはこうするより他なかったんだ」 うるさい、おまえに俺の気持ちがわかってたまるか。そう 言って私は草子のところに駆け寄った。草子は草の上に仰向 けに倒れていた。黒衣がまくれ上がって下半身が丸出しに なっていた。なぜか乳も丸出しになっていて、左の胸の下に 赤黒くて汚らしい穴が空いていた。顔面を長い髪が覆ってい 草子おおつ。 私は泣きながら、どうやったかは夢中だったのでわからな っ ) 0 馬鹿言ってンじゃないよ。馬鹿言ってンじゃないわ。 思いつっ引き金に指をかけたのはあくまでも遊戯だった。 「五つ数えて、撃たなかったら」 「どうするっていうんだ」 「私はあなたから永久に去ります。ごお、よん、さん、に、 いち、という可愛らしい草子の声と同時に乾いた銃声が響 、草子の髪をかき分け、その顔を間近に見た。そしてのけ ぞった。 私の大は嘘を言っておらなかった。そうだった。忘れてい たが始め草子はこんな顔だった。私は悲しくてならなかった が草子が死んで悲しいのか、不細工で悲しいのか、わからな くなった。そしてそれがわからない自分が悲しかった。 乳や尻を丸出しにした草子の死骸は顔だけでなく、踊って いたときはあんなにしなやかで美しく見えた身体も、なんだ かプョブョしていて醜悪だった。ところどころが変色して既 に腐敗糜爛が始まっているような感じすらした。 色とりどりの細い金属の線を鼻から突き込まれたような感 じがしていた。 気がつくと私が隣に立っていた。その背後には多くの犬が したがっていた。私が私の頸を抱いて言った。 「おまえの気持ちはわかる。けれども仕方がなかった。それ が本当の草子の姿だ。おまえは騙されていたんだ」 うるさい。草子を殺しやがって。おまえも殺してやる。 私は後先のことを考えられなくなって、喚き散らしながら 私に噛みかかっていった。本当に殺したいのか、どうしたい のか、それすらわからないままに。 そして、本当に殺してしまったらムチャクチャ後悔してそナ サ の後、途方に暮れるのだろうな、と思った。だから私が、座 れ、と言ってくれたのはよかったことだった。 私はそう言われてビシッと座った。そして言った。

4. 群像 2016年11月号

「ああ、基本はな。とりあえずは噛む、それが犬の基本姿勢 から、そのへんのことは言えば必ずわかって貰えると僕は信 だから」 じてます。また、それができるのは名代の動物通訳として一 「それじゃあ、無理ですよ。僕はそりゃあ確かに犬のことは 瞬とはいえ栄光をつかんでラジオ出演をしたり雑誌連載を やってましたけど、それは飽くまでも飼い犬で、それもチワ 持ったことのあるあなたにしかできないことだと強く思って ワとかプードルといった愛玩犬がほとんどでした。とりあえ るんですよ」 「それはそうかもしれないが、どう考えても大が人のためにず殺しに来る、ってそんな闘大みたいな奴は僕は無理です」 「大丈夫。そのためにこれがある」 命を捨てるとは思えない。それは映画とか童話とかの話で そう言うと男は、顔の光をとめた。そうすると自然に風景 しよう。忠犬ハチ公の美談的な」 と時間が男の後方に矢走っていくのもとまり、座敷は尋常の 「ああまあ、そうかもしれないが、あの犬ばかりは特殊で ね。徳性もかなり高いようなんだよ。それに本当のことを言座敷に戻った。そして自らも常の身に戻った男は隣座敷に 立っていき、弓を手に持ちそして矢が入ったケースを背負っ うといま犬と言われているものが本当に犬かという問題があ るんだけどね」 て戻ってきた。 「なんすか、そりゃあ」 「そんなわけのわからないことを言ってね、煙に巻くってい 「これは弓とそして矢ですよ」 うのは、もういまは通用しないんですよ」 「それは見ればわかる。それをどうしろというのですか。ま 「そんなことはない」 さか、それで刃向かう犬を射殺せというのではないでしよう 「どっちが、ですか。煙に巻いているのではないといってい ね。申し訳ないが僕にはそんな残酷なことはできない」 るの ? それとも時代のことを言ってるの ? 」 「さあ、どっちだろうね」 「馬鹿なことを言うな。いざとなればおまえは必ず犬を殺 す。自分が助かるためにな。でもそれは自分を殺すことでも 「だから、そういう思わせぶりはやめてください、って言っ てるんですよ。僕の犬はどこに消えたんですか。ヨーコが連あるんだぜ。おまえは貧しい労務者を雨の中に追い出した。 おまえはあの労務者がおまえ自身であることをいつわかった れて行ったんですか」 んだよ。いまか。明日か」 「なんで急にそんなこと言うんだよ」 男がそう言ったとき私は驚いた。男がまるで権威あるもの 「わからない。ただ思ったんだ。とにかく、説得かなにか知 のように話したからである。 らんが、いずれにしても大は凶暴なんだろ」 73 ホサナ

5. 群像 2016年11月号

を行う主体は誰かってことだよ。それはもちろん俺ではな 「俺の通ってきた駐車場」 おまえでもない。おまえはただの伝書鳩の奴隷だ。じゃ 「そう。それは一種の国土軸の歪みでね、君は車でスロープ あ大輪なのか。それとも、もしかして日本くるぶし ? 」 を降りていって地下三階に至り、それから階段で地上に上 「それは、まあ俺のような伝書鳩の奴隷にはわからないし、 がってきたわけだが、その地上の様子はどうだったね。前と わかる必要もないことがわかる僕とそんなことすらわからな 同じだったかね」 いどうしようもない君との決定的な動物としての品格の差だ 「いいや、一変していた」 とは思うが、それを言ってしまえば光柱なんじゃないの」 「ルフフ。一変上人てえくらいのものだったよね。というこ 「はあ ? 光柱こそがなにかの意思の表れと教わってますけ とは論理的に考えましてふたつのことが考えられる。ひとっ ど」 はそれだけ町の景色が一変するくらいに長い時間が経過した と言って私は不思議に思った。そんなことを誰かに教わっ ということ。そしていまひとつは君が別の場所に出た、とい うこと。なんだけど、これはどちらも」 た覚えがなかったからだ。しかしここで動揺していることを 悟られたら議論に負けるのでむしろ昂然とした感じで、 「あり得ないね」 「光柱が現象である以上、その原因が必ずある訳でしよう。 「つていうのはそりやそうだ。君はスロープを非常に長く感 それが普遍的価値のようなものに反したから、つまり、誤解じたらしいが普通に考えればそんな深く地下を掘ればおそら を恐れずに言えば一種の天譴とまでは言わないにしても天譴 くは岩盤に突き当たる。莫大な資金と高度な技術を投じてそ に喩えられるような現象である、と普遍論者のあんたらは れを掘る意味はどこにもない。おそらく君たちが感じた長さ 言ってるんでしよ、違うのかなあ」 というのは観念的な、或いは文学的な長さだろう。事実、同 と畳みかけた。 じ長さの階段を上がってきた際は、ひょっとこに阻まれたと はいえ、そんなにはかからなかったのだし」 ところが男はちっとも動じず、 LOHAS が田植えをして脱 「言われてみればそうだな」 に入っているような表情と口調で微笑を浮かべて言った。 「それは興味深い議論ですね。光柱のことを現象と考えるの 「ならば別の場所に出た、つまり地下で水平移動したのかと い , っとこれも」 はもっともよく知られた理論だけど、それでは説明のつかな いことがいくつも起きている。その好例が、例の地下駐車場 「違う。公園やら高架橋やらビルやら景色に見覚えがある。 第一、こんなでかい奥森がふたっとあるか」 102

6. 群像 2016年11月号

を知らなかったとしてもひとつひとっ教えてやれま、 の話だ。「ひとつのペッドでどうやって二人で寝るんだ ? 」 クオーターは要は子供なのだ。 クオーターの意志の欠如ーー「君の好きでいい」はまさに 就職活動が始まるとリクルート・スーツに身を包んだ人間 もまた、軍隊帰りの悪癖にすぎない。彼 彼の口癖だった があふれかえり、友人関係が途端にぎこちなくなった。皆が は自らの判断で二塁に走ったり、突飛なセイフティ・バント を狙ったりする選手ではなかった。常に「サイン待ち」な人皆、ロが固くなり互いの腹の底をさぐりあうようになった。 間であり、あくまで指示に忠実であり続けることで、「信頼馬鹿馬鹿しい情報戦の始まりだった。その種の器用さをもた ないクオーターだけが僕の変わらぬ友人として残った。 のおける」「見ていて安心できる」選手として評価されてき 僕は大きな組織に入りサラリーマンとして働くことに抵抗 た。彼はそれが理由でレギュラーであり続けたのだから、一 があった。高校の時に死別した父親は大学病院からドロップ 種の才能と言っていいだろう。 アウトした歯医者で、最終的には個人開業医として生涯を終 「野球をやめて寮を追い出されてさ、ひとり暮らしを始めて えたが、家で酒を飲んで酔っ払うたびに組織の面倒さを愚 一番困ったのは食事だよ。作るのが面倒とか、金がかかると か、そんな話ではないんだ。毎日毎晩、何を食べたらいいの痴っていた。そんな話を聞かされて育ったからか、僕自身誰 かに命令されて生きるのを極端に嫌う性質になっていた。 かがわからないんだ。これまでは寮で全部メニューが決めら あれはクオーターと二人での飲酒の会合だった。 れていただろう ? でも今や自由に選べる。最初のうちはう れしかったけどね、そのうち考えるのが面倒になった。あれ 「他人の下で働くなんて、ごめんだな」僕は人恋しく心細い これ考えるより『今日はこれ』と決まった食事が出てきた方気分だった。周りの学生たちが順調に就職先を決めているう えに、入学当初からっきあっていた同学年の女子学生と別れ がありがたい。日替わり定食、それが一番いいね。考えなく た直後で飲む酒の量が多くなっていた時期だった。「組織に ていい」 そんなクオーターだからこそ、僕にとってもっともよきパ 入るんじゃなくって、自ら組織を作って、自分の仕事をして みたい」 ートナーたりえたのだろう。クオーターに出会わなかった 「そうかな。僕は、どこでもししレ 、、ナど、とにかく大きな組織 ら、その後の僕はなかったと言っていし に入りたいな」クオーターは大企業ばかりを選んで就職活動

7. 群像 2016年11月号

せず、弥陀の称号を唱えてガンガン死んでいったらよいと思 たし、金色の大もいた。また、大きな犬は全体の三分の一く うし、おそらくそんな簡単なものではないように思う。阿弥らいで、中型犬や小型犬もけっこういた。そしてまた犬種も 陀如来が来た、と思って喜んだのも束の間、よく見たら日本様々で、もちろん恐ろしげな闘犬、大形の狩猟犬もいるには くるぶしで、「バ ーベキューせんかあ、ばけ」と言われると いたが、プードル、チワワという愛玩犬もけっこういた。或 いった、そんな馬鹿馬鹿しい落ちが待っているのが関の山だ 、は、チャイニーズクレステッドドッグやキースホンドと ろう。 いった珍しい犬もいて、私はもしかして、いけるかも。と 思った。 けどまあそれくらいのことならやっておいて損はないとい , つか、ダメ元とい , つか、やることによるリスクはなにもな 根底からの野犬、もはや半ばは狼のような野犬であれば初 というかいまから死ぬのだからリスクなんてそもそもな手から話にならないが、こうした元々は家で飼われていたよ い。私は銃を腰に戻して合掌し、目を閉じて、「南無阿弥陀 うな犬であれば或いは話が通じるのではないか、とそう思っ たのである。 仏」と唱え、暫くしてから、もう一度、「南無阿弥陀仏」と 唱えた。 それで、「どうもこんにちは。遊びましようか」とか、「コ そして犬が噛みかかってくるのを待ったが、まだ襲ってこ ッコツ・サラダはいかが」とか、「虫の匂いがいみじいね」 ない。ならば、この世の風景をもう一度見よう、と思って目 など話しかけてみるのだが反応が無い。といってまったく通 を開けた。 じていないのかというと、そんなこともないらしく、殆どの 激怒した犬たち。草原。空。遠くの海が見えた。風の音、 犬は相変わらず唸っているのだけれども、なかには急に前肢 大の唸り声、毒虫の羽音がひときわ高く聞こえて音楽のよう を舐めたり、急に真顔になって座りをする者もあり、まった だった。私はこんなことになっているのにもかかわらず、な くなにも聞こえていないわけでもなさそうなので、さらにい にもかもを美しく感じた。 ろいろなことを話しかけている , っちに、こちらの一一 = ロうことは 私は犬たちの顔をよく見た。それまでは漠然と大、たくさ向こうには無意味な音声としてしか聞こえていないようなの んの獰猛な犬、みんな怒っている、と思ったが、落ち着いて だけれども、向こうの言っている、言葉がわかるわけではな みるといろんな犬がいることがわかった。さっきまでは、大 、言葉がわかるわけではないが、その意味内容が雑音の彼 方が茶色か黒で、身体の大きなまるで狼のような犬しかいな方から明瞭になったり不明瞭になったりしつつ波のように伝 いように見えていたが、そうではなく、白い大もけっこうい わってきた。犬らは以下のような意味のことを言っていた 116

8. 群像 2016年11月号

言っているうちに本当におかしくなってきた。私は笑いの囲 途に、背後で大きく鼻を啜る音がした。 「でも森さんみたいですけど」 せいで自然に波打とうとする上体に翻弄されながらも、首と 片目ずつ薄目を開けると、沢田 ( 妻 ) の顔面が先ほどの懐中肩をせわしなく動かすことはやめなかった。 電灯の残像で真っ白に抜けて見えたが、すぐに元に戻った。 とうとう沢田 ( 妻 ) は眉根を寄せて目を閉じた。金槌が動 沢田 ( 妻 ) は、腕を高く上げて私の頭の上から部屋の中を く気配があって押さえつけていた左手をそっとのけると、沢 照らし、爪先立っていた。私はちらりとうしろを確認した。 田 ( 妻 ) は金槌を握りしめたまま右手の甲を額に当てた。目 が回ったらしかった。 森ちゃんは、立てた膝に掛け布団をかぶせ、その上に完全に 顔を伏せている。こちらからは布団の小山に黒い毛の塊が 沢田 ( 妻 ) はロを半開きにし、はあっと音を立てて息を吐 載っているようにしか見えない。 きはじめた。長く長く息を吐いて、そんなに吐けるものかな 「森ちゃん ? ちがいます、トランジです。ほらトランジ、 と心配になってきたころにやっと吐ききって、最後の息と 沢田さんに挨拶して」 、つしょに沢田 ( 妻 ) は言った。 こ、こんばんは : : : 」声は震えていて、いやにか細く 「お友達はいつもどうやってあなたの部屋に入るの ? 正面 高かった。 玄関から入ってきていないことはわかっています」 「髪の長いお友達じゃありませんでした ? ショートカット 疲れ切った、芯のない声だった。沢田 ( 妻 ) のそんな声 に見えますけど」沢田 ( 妻 ) が冷徹に言い放った。 を、私ははじめて聞いた。小柄な体が、さらにしばんでし 「イメチェンです、だって失恋したしい ? 」 まったみたいに見えた。 森ちゃんがくぐもった嗚咽を漏らしはじめた。なかなか上 「そこの、机のところの窓からです」私は正直に答えた。 手い。本当に泣いているのかもしれない。 「そう : : : 」沢田 ( 妻 ) は言った。「あなたも、そこから出 なおも覗き見ようとする沢田 ( 妻 ) をさえぎるために、私は入りしたことがあるんでしよう ? 」 「まあ、ええ、はい」私は言った。「二、三度だけ」 脚はしつかり開いて床に踏ん張りつつ、わざと鳩みたいに首を 「危ないことを」 上下させ、肩は左右に揺らし、上半身だけ小刻みに動いてみた。 「お願いです、追い出さないであげて。トランジすつごく傷 「意外と簡単です、まあ今みたいに雨が強ければちょっと危 ないですけど」 ついてるんです、ひどいんですよおトランジの彼氏三股かけ てたんです、トランジ激怒して彼氏の頭蹴っちゃって、私が 「そうですか」沢田 ( 妻 ) は目を開けた。右手と金槌はだら 必死で止めたんです、笑える」 りと重そうに体に沿って垂れ、左手の懐中電灯がまた私の喉

9. 群像 2016年11月号

のことだけれども反天地の方へとその爆発力を押し出す。も が完全にイコールだということによって生じていると一般に ちろんそれは光柱の形を取る。そうすると今度は反天地の考えられている。つまり、個人というのはただのひとりの人 側、というのは最初からあった天地の方なのだけれども、そ 間に過ぎない。その人間の快楽や快感に対する執着の質量と こに光柱が出現し、それはそれでまた矛盾と混乱のエネルギ いうか、それこそ、おほきさ、がまったく同一つていうこと ーを生む。そしてそれは今度はもうポールペンではない、 がわかってきたんだけれども、おかしいよね、普遍的ってい バットくらいだ。それがまた、もう一方の天地に押し出され うことは全体ということで、全体つてひとっぴとつを足した る。そうするとそれはそれで矛盾と混乱を生むので、また光ものだから、そのひとっと全体が大きさも重さも同じという 柱が押し出される。つまりどちらが原因でどちらかが結果と ことは普通あり得ねえ。どういうことって考えたら、それが も言えぬピストン運動なのだ。つまり相互因果ということ同じ重さとかそいう問題じゃなくて、完全に同じもの、とい だ 9 そして、こうした運動、いわば光柱のピストン運動が生 うかひとつのものを別の名前で呼んでいるだけ、ってことが むエネルギーはもちろんなににも変換されずただひたすら光わかってきて、でも歴史は普遍的正義と快感は別のものとい 柱と向こう側の天地の巨大化に使われる。そしてそれが最初うことねというか次元の違うものとして進んできたというか に生まれた瞬間から一回目のヨメコビドッグバークくらいの進めてきた。その実態と実体の距離が限界に達したとき、最 大きさになるまでにかかった時間は百万分の一秒程度、つま初の小さな光柱が生まれた、という訳さ。それは遺伝子や染 り同時因果ということだ。光柱はこういうメカニズムで生ま色体にも確実に影響を及ばしているし」 れてきたってえわけよ」 「じゃあ、いまある大敗の渚とかそんなめりこみや裏返しも 「よくわからんのだがねえ。それをもの凄く要約すると社会 の矛盾が光柱を生んだ、とこう言ってるわけか」 「おっしやる通りでさあ。巨大光柱が巨大なピストン運動 「違う。社会の矛盾が生むのは甲虫。ただのザムザに過ぎな やってるのとは別に小さな光柱の抜き差しもあちこちで起 。光柱はもっと同時相互因果のおほきな : : : 」 こっている。だから元の天地にも変な説明のつかない空間の 「なにが、おほきな、だ。おまえふざけてそんなこと言って吹きだまりがあちこちにできていたはずだ」 るのか」 それには心当たりがあった。たとえばあの事務所がそう 「いや必ずしもそうとは言い切れない。同時因果が生まれる だったが、そのことには触れずに聞いた。 原因は普遍的正義とひとりびとりの個人の快感に対する執着 「するとどうなるんです」 105 ホサナ

10. 群像 2016年11月号

さいね。まず、なぜあなたかという問題ですが、抽象的な議知ってて、わざと、この男を逃がした、その狙いは、ってい 論はさておいてなによりもます、あなたしかいないというこ うと、そう、仰る通り、警告でさあね、この領域に入ったら とがあります。というのは、その犬というのが、さっき私が死ぬ、ということを外の世界に知らしめるために、敢えて殺 変なこといったの気がっきませんでした ? そう、私、本さなかったってわけですわ」 来、群れ、と一一 = ロうべきところ大の集落と言いましたよね。な 「ちょっと待って。それでなんで僕なんだよ」 ぜかというと、その犬たちが実に統率力のある指導者に率い ってか。ははは、あなたは犬の専門家じゃありませんか。 られ定住生活を営んでいるからで、当然、外敵の侵入は強力犬の心がわかるわけじゃありませんか。大と同類項なので にこれを阻んでいます。なぜそれがわかったかというと二宮しよう。そしたら、犬の心に直接、語りかけることもできる が一度、試したことがあるからです。 訳でしよう。それは余人にはできませんよ。 勿論、二宮が自分で入ったわけではない。ああ見えて二宮 「馬鹿な。いくら犬とて人間のために殺されてくれって言わ は用心深い男だからね。じゃあ、どうしたって、人を使った れて、はいそうですか、とは言わんよ」 に決まってる。地上ではみな飯を欲しがっているからね。蕈 「それは一一一一口えばわかるんじゃないですか。いやいやいや、人 料理を二皿かそれくらい食わせてうまくいきゃあ、肉も食い 間だってそうじゃありませんか。人のために自分の命を投げ たい次第、となりゃあ、行きたいって奴には事欠かない。 出す、ってことはこれまでもありますでしよう。多くの菩薩 さっそく何名か集め、防虫剤をふりかけて編隊を組ませ、六 行と呼ばれる行為はそうした勇猛心を根本においています。 尺棒を持たせて突入させてみたものの六名の内、五名は帰っ 乙な話、あなたがやっていた活動も煎じ詰めりゃあそういう てこず、ようやっと逃げ帰ってきた奴の話によって犬の群は ことでしよう。人が人にする。人が犬にする。ならば、犬が とてつもなく頭のよい真白な犬に率いられて勇猛果敢、戦略人のために自分の命を投げ出したっておかしくありませんや 戦術も優れていて、最初は調子よく犬を追い詰めていたはず な」 が気がつくと獰猛な犬に囲まれて吠え立てられ、自分ひとり 「いや、それはないでしよう。釈迦の捨身飼虎というのは がようやっと逃げ帰ってきた、あんな恐ろしいところには二 あっても、虎の捨身飼釈迦ってのはない」 度と生きたくないと泣きながら嘔吐するやら脱糞するやら 「普通ならね。普通の大ならね。けれどもあの犬の理解度は で、いやはや非道い有り様で、そして二宮日く、この男は偶かなりすごい。そこいらの地上の、餓えと恐怖から脳が駄目 然に助かったのではなくして、賢いうえにも賢い犬たちは な感じになってしまった人間なんかより遥かに理解力がある