妙自身はそれを待遇表現と考えていたのであるが、じつは ある。「三人称の発見」とは、こういう意味である。 人称の問題なのである」。 しかし、それでも「地ーの文が ( そして当然「詞」の文 も ) 「作者の発話Ⅱ言表」であることには変わりはない。 言文一致の要点は、「地」の文章に集中している。 それは実際には常に必ず「作者による三人称」である。な ( 略 ) 「詞」はどうでもよかった。少なくとも二の次であ らば、誰もが気づくように、そもそも「三人称」とは「作 る。なぜなら、「詞」 ( 作中人物の言表 ) の部分の言文一者の一人称性」を限りなく縮減してゆき、ほとんど零度に 致化は、江戸文学のいくつかのジャンルーー・洒落本・滑まで濾過した結果、あたかもニュートラルであるかのよう 稽本などーーーがとっくに成就していたからである。問題 に見えている文Ⅱ小説の様態ということになる。というこ は一にかかって「地」 ( 作者の一人称の発話 ) の部分に とはつまり、「一人称」から「三人称」への移動とは、あ あった。「地」は文章家にとっての聖域であった。それ る見方からすれば「作者性」の隠蔽の作業に他ならない。 をいかに劫掠するか。 ( 同 ) そしてそれは明らかにそうなのだ。むしろ「三人称」化に よって、「作者」は「一人称」に較べ、より多大なる権能 野口は「鵐外は言文一致が人称の問題であることに気づ を獲得するとさえ言っていいのではあるまいか いていた」という。そして、その問題の焦点は「「地」の とはいえ、こんな当たり前のことを言い募るのはとりあ 文章の一人称がいかに「三人称」化されるかの過程」で えずよして、野口の論に戻ろう。『三人称の発見まで』の あったのだと。右の引用で「地」には「作者の一人称の発最終章 ( 第七章 ) は「「た」と人称」と題されている。 話」というカッコ内注記が付けられている。つまり、ある 時点までの日本語小説、あるいは「小説」未満の言語表現 明治の日本語は、三人称の形態表示を知った。その段 においては、「作中人物」と「作者」がそれを語っている 階で初めて、三人称性にいかなる言語形式を与えるかの こと、より精確にいえば「作者」の語りの内部で「作中人 選択が問題日程にのばったのである。見たところ、課題 物たち」が語りを許されているということが、意識される はいかにも山積しているかのようである。言文一致と人 ことさえない自明の前提条件だったのであり、それ以外の 称とはどう折り合うのか。「言」と「文」、つまり言葉の 「語り」の様態は認識されていなかった。ところが「言文 聴覚一言語性と文字言語性との塩梅いかん。「地」と「詞」 一致」が、「作者の一人称の発話」とは異なる「地」の文 との力関係はどうなるか。しかし、あまり案ずるには及 の可能性を、その必要性を惹起させたのだ、というわけで ばない。文末詞「た」の登場が、問題を言語事実的に解 308
決してくれているのである。 ( 同 ) 言表行為性の提示ーーは、『浮雲』第三篇ではみごとに 抹消された。作者はどこへいったのか。作中人物に内在 野口は「た」を「人称詞」と名付ける。これは彼の造語 し、かつまた、作品世界に遍在するようになったのであ である。「言文一致体が背負い込むすべての厄介事は、そ る。作者はこれ以上もう話者の存在態を取らず、一種仮 の重圧は、日本語の構造上どうしても文末にのしかかって 有の時空点から発話する。これが三人称である。 くるという言語現実に、自然体で身を任せた方がよいので 一人称と三人称は、視界方位ならびに時間深度を異に ある。文末詞「た」はけなげにも、そのストレスをたった する。三人称の成立は、 ( 略 ) 言語空間を「事実らしう ひとりの肩で支えている」。かなり芝居がかった文章だが、 もてなす」 ( 引用者註【坪内逍遙『小説神髄』より ) 要請に 「三人称の発見」を「言文一致」と綿密に重合させてきた 応じている。一人称には視界の限定があり、発話時点の 理路が、単に時制を表す文末詞ではない、人称詞としての 制約があるのに対して、三人称は無限定・無制約であ 「た」に流れ込むことによって、『三人称の発見まで』は終 り、言表対象の客観性と定在性、言表行為の公正性と信 わろうとしている。 憑性の外見を保持することができるのである。 ( 同 ) 野口は、二葉亭四迷の『浮雲』の未完の第三篇、その末 尾の段落が、それまでとは違って終始「た」止めで書かれ 「明治の日本の公共圏は、そうした新しい文法空間の出現 ていることに注目する。「完全な文末詞「た」の連発に、 を不可欠としていた」と野口は続けている。ところでしか 作者はもう何のためらいも見せない」。そこには第一篇の し、ならば、この「三人称」と文末詞ⅱ人称詞「た」は、 時点では色濃く残留していた江戸の戯作調が最早まったく どう結びついているのか。 見られない。それは「近代小説史の始発期の試行錯誤に一 野口は、、 谷崎潤一郎の「現代ロ語文の欠点」 ( 一九二九 つの区切りをつけた」と野口は言う。「た」の顕現によっ 年 ) という文章を取り上げる。谷崎がこれを書いた時点で て何が起こったのかといえば、それはまさに「作者」の消 は、言うまでもなく「言文一致」はとっくに成立してい 滅だった。 た。その上で、谷崎がここで「欠点」と言っていることの 一つが「のである口調」の問題である。それは明治の政治 行間にも作者の顔はのそかない。消え失せたのは江一尸戯家たちの演説口調、「極め付きは、当時の新聞でも口真似 作スタイルだけではない。作者自身も作中世界からいな されたという「あるんであるんである」という大隈重信の くなってしまっているのである。作者の作者性表示 日常会話でも出た語調である」。谷崎は、それは「ロ語で 38 新・私小説論
野崎これもつまらない言いがかりなんでてしまう。ちょっと関係のある土地があれとも言えますね。同じく没入させられてい すけど、タイトルをどうして「オリオン」ば、そこに突っ込んでいく、だれのためでるわけですから。あやめさんの場合、熱中 ではなく「オライオン」にしたんでしよもない熱が生まれてくることがある。そのしたのは自分の家族やルーツに関わること う。「オライオン」は英語読みだから、フ熱をあやめさんが放って、一良を巻き込だったからだと思います。今、自分のファ ランス語読みの「オリオン」でないとジャみ、もしかすると、語り手であり作者であミリーヒストリーを掘り起こしたいという ピーにはびんとこないかもしれない。 る髙樹さんも、その熱に引き込まれるよう欲求が広く共有されているという印象はあ 片岡冒頭に飛行機から見た夜空の描写が にお書きになったのかなと思いました。 りますね。 ありますね。それから、飛行士が操縦して片岡なるほど。あらゆる謎は、全て経過石田どんどん検索ができるようになっ いるときの描写があり、最後はまた夜間飛した時間の中にあるわけですよ。その過ぎて、調べやすくなったことも大きいと思い 行でしよう。語り手にとって、きっと重要去った時間をたどっていくためには、あるます。 なのです。 種の没入が必要になりますね。ここにはな野崎ふだん創作合評は、どちらかといえ 野崎サンテグジュペリの『夜間飛行』い時間へと入っていくのですから。 ば若手の意欲的な作品を取り上げています のオマージュという感じもします。とても野崎一良さんは最初、あやめのそういうが、今回はこんなに安心して読めていいん きれいで引き込まれる描写です。さすがに没入に危険なものを感じますけど、結局はだろうかという感じでした ( 笑 ) 。作者の 文章が練れていて、時計の修理といった具時計を一生懸命直すことで協力したわけで介入というのは、クンデラがよみがえらせ 体的な作業の描写にも味わいがありますす。 たところがありますけど、そのクンデラに ね。 石田修理していく中で、「自分の願望にも負けない見事な語り口だと思いました。 石田アンドレと久美子が、親指を重ねて抗えず、前へ前へと自分を押し出したことメタフィクションと言ってしまうとすごく 「イクス (><) 」の字をつくりますね。フロがあったのを思い出した」と、彼自身もまコンセプチュアルですが、これは物語を親 ーランスと父親もおなじ握手をしていたとた少し変わっていきました。 しみやすいものにする介入の仕方です。 わかる。ことばではなくからだで語る場面片岡謎を解くためにいろんなものに没入片岡それは小説の可能性です。作者がい がたくさんありました。 していくことは、危険でも何でもないと思かに介入するか。介入しながら物語をどう ルーツをたどるのは、とても個人的で孤うんですけどね。 = 一口るか。面白いです。 独な作業です。それで、次々と調べていっ 野崎小説を読んでいる人間はみんなそう 352
救世主か、破壊者か ゾンビの出現からちょうど一年が経つ。その間、文学の果 堆積する言葉 記されはしない言葉が、気づけばうずたかく積もってい たすべき使命や役割について微塵も考えぬ作家はいなかった であろう。結果として、多くの作家が言葉を失い、文学の周る。福田満さんの「サージャント・キクタの探し物」は : 辺で騒ぐことはあっても、小説として書き表すべきかどうか という問題については、慎重になりすぎた。 選評 「怪奇飲食」。〈なめろうをわしやわしやと食らうゴンはひひ 「怪奇飲食」エンターテイメントとしてよくまとまった作 ひひと〉スべってる擬音語や擬態語のオンバレードは辛いっ 品。ヤクザの貫禄があるショーパプ芸人に主人公達が歯向か す : : : 。ナンセンス文学としてもイマイチ。 うエピソード等、下らない小ネタにいちいち笑わせられる。 「スフレ」。有名海外ドラマを文章に起こしただけのガール ただ、それだけ。小説という形式でなくてもよかったのでは ズ小説。時折挿入される、体言止め多用のナレーションも既 ないかという疑念が最後まで消せなかった。また、完成度と しても、前候補作のほうがはるかに上だった。対照的に、落視感まみれ。普段テレビなんか観ないおじさんたちは騙せる のかもしれないけど。 ち着いた筆致で書かれた「サージャント・キクタの探し物」 所詮、調理されたものを食べている場合ではなく、人間を の、古典的かっ洗練された作風は 食べなければダメなのか。 「しかくいまる」。一見、近頃やたらよく読む、記憶や時 選評 間・時系列が複雑にかき乱される類の前衛作品。しかし丁寧 今回は低調だった。受賞作となった「しかくいまる」を私 に読み込んでゆくと : は推せなかった。統合失調症の人が書く小説を思い描きなが ら書くのと、本当に統合失調症の人が書くのではまるでわけ が違ってくる。それと同じで、作者がゾンビであるという作 夏枯れ 見るに見かね、選考委員として復活したが、此度の惨状を 品の外側にある事実も、小説という表現手法にとっては案外 目の当たりにして日本文学の衰退を : 軽視できない。 ( 了 ) 誤解してほしくないのだが、私はゾンビと化してしまった 作者に対し :
います。 高樹のぶ子はまた変わっているかもしれない。その作者を語 る別の作者がいたりするかもしれない。そのようにどんどん ■新しい語りへの挑戦 相対化していく。それは不安だけれども、書く者に常にある 高樹私はこの小説で、初めて、作者としての語りを前に出冒険の面白さでもあるんですよね。 してみたのです。これまで私は、作者が物語をハンドリング どこにもよりどころがないあいまいな中で不安に耐えなが しているという手法はとらずに書いてきたんです。自分の認 ら小説をつくっていく、それが小説家です。自分の中に何か 識というものをそこまで打ち出していいのかというためらい への愛があって初めて、その不安に耐えていける、そう思っ がずっとありました。でも今年、七十歳になって、もう作者ています。 が顔を出して語ってもいいだろうと思ったんですね。 ・身体表現としての恋愛 作者の存在をポンと出して、私はこう感じる、恋愛につい てもこういう感覚を持っている、これから語っていきますよ高樹佐藤さんは、恋愛において男と女の間で言葉が通じて ということを、語ってみたのですね。その試みがうまくいっ いると思いますか。 たかわからないけれども、ある種の居直りがあってそのよう 佐藤私は言葉なんてあまり信用したらいけない感じがする な書きかたをしてみました。 んですね。ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』 これは古典的な手法でもありますが、私にとっては初めて にも墓とか音楽とか、フランツとサビーナの間で同じ言葉を のことです。私は今、自分が語ることに夢中になっています使っているけれども全然通じていないということが延々と書 行 かれていますね。 ので、次の長篇でも、絶対に語ってやろうと思っています。 飛 佐藤多声的なことと著者が登場することは、おそらく密接 キリストは、何を食べたら罪になるかと弟子たちが心配し冒 な関係で、例えばドストエフスキーは、それをかなり早い時て議論したときに「人を汚す ( すなわち罪を作り出す ) のは 愛 期に実験していたと思うんです。ミハイル・プルガーコフの食べるものではない。口から出てくるものだ」と言ったんでけ お 『巨匠とマルガリータ』もそうだし、多声的というのは面白す。つまり、言葉が罪の原因だということですね。 説 いですよね。 高樹この小説では、久美子とアンドレ・ジャピーはお互い 高樹でも、作者が語るということは、その語っている作者の言語を解さないという設定です。ふたりの恋愛を描くの を常に相対化していく作業というか、次に語るときの作者・ に、あえて言葉を捨てたのです。
追悼田中弥生 文芸評論家の田中弥生さんが亡くなった。まだ四十代なかき、作家の名前やキャリアに臆することなく、鮮烈な批判を ばでの死であった。私は田中さんと個人的なっき合いがあっ繰り広げていった。もちろん、それとともに、肯定的な意見 たわけでもなく、ここに追悼文を書く資格があるとはとてもも率直に語ってくれてはいたのであるが : 田中さんは、 フィクション 思えない。 しかしながら、時期は数年ずれるとはいえ、同じ「作者の死」であるとか、虚構のもっ虚構性をあえて問い直 群像新人文学賞の評論部門で優秀作を与えられ、ある時期かすメタフィクション的な作品には一貫して厳しい評価を下し らはほとんど並行するような形で、自分たちの信じる批評をていた。 同じ雑誌に載せ続けていった者同士として、自分が実際に出 田中さんは、文学とは、固有の「私」の体験にもとづき、 会い、そして読んできた田中弥生という人とその批評につい その体験を磨き上げて固有の「文」を創り出す営為だという て記しておきたいと思う。 信念をもっていた。少なくとも、私にはそう思われた。だか 私が田中さんとはじめて会ったのは、二〇一一年三月十七らといって、ナルシシズムに溺れる「私」をそのまま「文」 日である。いわゆる三・一一、東日本大震災からまだ一週間として提出した作品にも容赦がなかった。強い人だと思っ 経っていなかった。東京でも、交通機関の麻痺状態が続き、 た。もちろん、私には、田中さんが下す評価をそのまま受け 夜の街にはほとんど灯がともっていなかった。そんななか容れられない場合も多かった。あまりにもその個性は際立っ で、この日から毎月一回の合計三回、群像の創作合評を、作ていた。三作品が取り上げられる合評のうち、毎回、必ず一 家の島田雅彦氏とともにはじめるため、音羽の講談社に集回は正面からぶつかり合った。ある場合には、相当に激しい まったのである。田中さんは自らの確固たる信念にもとづ応酬になった。そのおかげで、私自身、どのように文学の現 田中弥生さんを追悼する 安藤礼二
上の時制詞「た」と形態論上の区別を欠いたところの人称た、という一文との間に、とりあえずの趣向の別以外の何 ごとかを見出すことはしなくなっているように思われる。 詞「た」である。三人称の発見がこの既存の助動詞にもう 一つの機能を要請した」。読まれる通り、野口が「た」を しかし、野口武彦の論は、私たちに重要なヒントを与え 「人称詞」と呼ぶのは、それが「一」か「三」かの違いを てくれた。彼が近代文学史から抽出してみせたのは、シン 越えた、いわば新しい「人称性」の獲得と不可分だったかプルに纏めてしまえば、「超越的一人称」↓「世俗的一人 らである。裏返せば、従来とは異なる新しい機能を帯びた称」↓「ニュートラルな三人称」という一連のプロセスで 「た」が使用可能になったからこそ、それ以前とはまった ある。そしてそれは「人称操作者 ( 作者 ) の作中人物に対 く違った「三人称小説」という新しい小説のかたちが成立するスタンス」の変化とバラレルであり、すなわち「作者 し得たのだ、ということである。こうして日本 / 語の「小 性」の濾過の過程となっている。とするなら、その初源に 説」は、かって新しく「人称という思考」を発見した。そ存在していた「超越的一人称」が有していたとされる種々 してそれから百年余りが経過した。 の可能性は、どこかに置き去られてしまったのだろうか。 だが、この「人称性の思考」は、思考であることの必然余計なもの、無用なものだと、小説家たちによって、そし 的な帰結として、時間の流れとともに「小説」と呼ばれる て「小説」それ自体によって考えられたから、それらは失 営み / 試みの無意識の領域に、いっしか深く沈潜していっ われてしまった、どこかに捨てられてしまった、というこ たのではあるまいか。ふと気づけばそれは、ただ単に話法となのかもしれない。それにそれらにしたって、もともと 上の選択肢の問題に過ぎなくなっていたのである。その は「作者」の権能の一部に他ならない。 昔、「一人称」から「三人称」へと跳躍するために、どれ しかし私は、それらは実は消滅などしておらず、ずっと ほどの困難が、どれほどの危険が伴っていたか、どんな決秘かに「人称」の内部に潜んでいて、そしてある時から、 断が、どんな智慧が、そこに必要とされていたのか、今で あたかもとっぜん息を吹き返したかのように、日本 / 語の は覚えている者はほとんどいない。むしろ「た」の不断の 「小説」の表面に浮上してきたのではないかと考えている 機能ぶりによって、その忘却は完膚なきものになっている のだ。そして、このことが「私小説」の問題、われわれの とも一一一一口える。そこでは、作者という作者が、自らの「作者「新しい私小説」の問題と、深くかかわっているのである。 性」を都合良く、それも都合よさを一切感じることのない だが、そこにはまだ赴くまい。その手前に踏み止まって、 ままに、意識せすに行使しており、読者もまた、それを 「人称の思考」を、また別の角度から眺めてみたいと思う。 ( 以下次号 ) 易々と受け入れて、私は走った、という一文と、彼は走っ 312
だ、母親の毒を発表するという行為には、るトラウマの呪縛との闘いがあるわけでに、実際にこれだけの問題を集めて書くの のちのちそのことを後悔するんじゃないかす。ところが、非常にヘビーな内容であるは大変なことだと思いますが、すっと読め と臆病になる。発表した瞬間におなじ土俵にもかかわらず、どこか風通しがよいものる作品になっていますね。 に立ってしまうのではないか。それは、に感じられる。それは一つに、粘着質では片岡せつかく文字で固定されているんで せつかくいままで黙っていたのにもったい ない、明るく読みやすい文章で書かれていすから、素早く読んで、それでおしまいで ない。それで、書くことについては躊躇するからだという気がします。 はなくて、解体すると、 しいと思うんです るところが私にはあります。 母親に対して、自分がいじめられているね。どんなふうにいじってもいいわけで この作品は、母と娘の問題の、現時点のということは言えずにいた。一方、日系人す。そうすると、弱点も多少見えてくる。 模範解答だと思います。作者は男性ですけ 弱点が見えても、別にどうということはな れども、終盤に向かっていくレイの姿は、 いんですけども、お母さんの話というのは きっと多くの女性の共感を生むものでしょ 厄介ですね。ちょっと分量が少ない気がし 氏 う。このぐらいかいいのではないかとい 、讐第一千ます。それから、過去も同じく足りない。 う、軟着陸に持っていっているなと思いま 田野崎過去になればなるほど、ほんとは重 石 した。最後に母親と対峙して、いじめられ 大な話が理もれているわけですよね。で ていたことを告白するところは、とても美 も、例えば短篇の規模で全部描けるかとい しいシーンです。今回のふたつの作品は、 うと、なかなか難しい。それは小説をお書 どちらもいい映画になりそうと思って読みが戦争中に強制収容所に入れられていたときになっている方にとって、切実な問題だ いう事実が、長い間ふたをされた形で、あと思うんです。 野崎学校でいじめられているだけではなまり公にされていなかった。この二つの沈片岡アメリカで活躍しているエイドリア くて、実は母親も自分のことを理解してく黙が、ちょっとうまく重なり過ぎているよン・トミーネというコミックスの作家がい れていないという、行き場のない子ども時うな気がしないでもないのですが、全体とます。彼は日系の人で、遠峯という名前で 作 代から始まります。たしか「カルマ」なんして一つの救済に向かうという爽やかさす。ローマ字で Tomine と書いて、アメリ ていう言葉も出てきますけど、テーマとしも、風通しのいい理由としてあると思いま力だと「トミーネ」になる。彼の書く話と ては、大人になっても執拗に取りついてくす。最初に片岡さんがおっしやったようよく似ていて、日系の女性の造形なんかは
になされているとはいえ、理想的というほかないものであ集団的に制作されたとは、和辻の複数作者説も含めて、ど うしても思えないのである。他方、池田は、集団的に制作 る。芭蕉にとって望ましかっただろう人間関係がそのまま 現実化して描かれているのだ。現実には、江戸にせよ名古されたもののほうにこそ価値があると思っているのだ。池 屋にせよ近江にせよ、芭蕉を取り巻く人間関係にはそれな 田のいう「多数の作者の参加」した作品の背後に、共同社 りの軋みもあれば歪みもあったに違いないのである。対す会すなわち集団の力を肯定的に評価しようとする姿勢があ るに、大岡の集団は、階級、階層はどうであれ、要するに ることは疑いを入れない。池田は文学もまた集団制作され 笑いもすれば泣きもするただの諸個人の集合にすぎないの るものであり、民俗学はそういう作品、すなわち民謡や古 であって、かりそめにも「全」という包括的な言葉で置き謡を論じるものだと考えているのである。要するに日本の 一言でいえば、山本の共古典文学にも十分に集団制作の要素があると思っているの 換えられるようなものではない。 同社会が到達すべき理想を引き寄せて書かれているのに対だ。山本にもこの池田に近いところがある。 して、大岡の集団は出発すべき現実として猥雑なままに描 指摘するまでもなく池田は、折口が教鞭を取り始めた慶 応大学で山本の同窓である。山本一九〇七年生、池田一九 かれているのである。この違いは大きい。 一四年生。七歳年下だが、池田が折ロの文字通りの弟子 大岡と山本の違いということでは、何よりもまず折ロ信 夫との関係を挙げなければならないのだが、その前にこの で、国文学者、民俗学者であるのに対して、山本はそうで はない。学者ではなく、改造社の編集者であり、文芸評論 問題に結着をつけなければならない。 前々回、阿部秋生の『源氏物語研究序説』に言及し、阿家である。かりに折ロ学派とでもいうべきものがあるとす 部が、折ロ門下の池田弥三郎などが主張する、源氏物語を れば、いわば客分である。だが、同世代であり、昭和初年 して「多数の作者の参加」した作品であるとする説に対し代が彼らの青春時代であった。 ては、頑固に否定しながらも、他方、折ロ自身の貴種流離 昭和初年代、学生知識人の多くがマルクス主義に惹かれ るか、少なくとも関心を持った。時代はしかし昭和十年代 譚説に対しては、「とはすかたり」という無意識的な語り に入って二、三年もすると、大きく変わった。マルクス主 の形式を根拠に、それが源氏物語に影響を与えた可能性を 否定しなかった、むしろ肯定的でさえあったという経緯を義は弾圧され、主だった左翼の活動家が次々に転向して いった。こうして転向した学生知識人が新たに眼を向けた 紹介した。 先が、柳田国男であり折ロ信夫であったことは不思議でも 阿部と池田の違いは、集団を肯定的に捉えるか否定的に 捉えるかの違いであるといっていい。阿部には源氏物語が何でもない。民俗学の領域ではなお、民衆や大衆、集団や 292
ーターはまた爪を噛んでいた。「君はすぐに神になりたがる。 たりするのは楽しい作業だった。宗教法人の設立には都道府 しかも自分という神以外を認めない、そこが君の悪いところ県の認可が必要でその審査はひどく厳しいのだが、裏では売 だよ」 買されていることを初めて知った。専門のプローカーまで暗 「神になろうとなんて思ってない」僕は憤然と答えながら躍している。ただし多くが土地建物までついた億単位の物件 でとても手が出なかった。「墓なし信者なし五千万円」そん も、神というキーワードを得て新たな作戦が頭をもたげ始め るのを感じとっていた。神、か。 な相場の世界なのだ。 「でも、思い切って神になってみる、というのは手だ」 そこで僕は墓地墓石販売業者に目をつけた。地域によって はじめはすべてが冗談だった。 は墓地関連の事業は宗教法人にのみ業務が許されている。そ 「神を作る、というのは悪くない。宗教法人をやるんだ」 の場合多くの業者は田舎の跡継ぎの絶えた寺など、休眠状態 の宗教法人の名義を借りて営業を行うことになる。だがここ 数年、活動実績のない宗教法人に対する監査が厳しくなって きたらしい。そこで何かしらの活動実績を作ることを条件に それが僕の 引き継ぎを求める宗教法人がいるに違いない ーの暗がりで僕が起業アイディアを話し始めたときとよ作戦だった。狙いは成功だった。すぐに絶好の案件が出てき く似ていた。場所がオフィスに変わっただけだ。ばんやりと た。代表権のみの売買であれば数百万円で話はすんだ。書類 した考えを僕がクオーターに話す。クオーターは公務員試験作業で代表者におさまるのは簡単なことだった。あとは僕ら の参考書をべらべらめくりながらも適当に相づちを打つ。何なりの宗教世界を作るだけだった。 かコメントをするわけではない。キャッチャーが淡々と球を 教団として独自の活動を始めるにあたり、僕らが取り決め たことは三つあった。 捕球し投げ返してくるように僕の話を聞いてくれた。 ビジネスとして宗教法人をやるーー僕の考えは決まってい 第一に、信者との金銭のやりとりは月額の会費収入に限り、 た。経営者時代に一番頭を悩ましたのは税金問題だった。 原則これ以外のお布施等の収益を禁止とする。宗教法人が問 「宗教法人なら楽なんだけどな」僕らはよくそんな冗談を言題視される最大の原因はやはり金なのだ。僕らは二人分の生起 い合ったものだ。だがそれを真面目にやるのだ。 活費の確保で十分だった。月額会費は三千円で、これは新聞 目標を定めると、調べ物をしたりあちこち相談や調整をし購読料を目安にそれより安く設定した値段だった。