問題 - みる会図書館


検索対象: 群像 2016年11月号
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1. 群像 2016年11月号

を、なんらかの疑念のゆえに、あるいは軽視や無関心の ために断念することよりも、あやまりに陥る危険を冒し てでもいっさいを賭して遂行しようとする。純粋理性そ のものにとって不可避なそうした課題は、神と自由と不 死性である。しかもその究極の意図が、そのあらゆる装 備をあげて元来ただこうした課題の解決にのみ向けられ ている学があり、その学が形而上学と呼ばれるのであ る。 ( ト 6f. ) よく知られているように、カントは『純粋理性批判』を 第一批判の「序論」によれば、人間のある種の認識は 公刊するにあたって「序文」を草し、その冒頭で、人間の 「すべての可能な経験の領野」すら立ちさって、「経験のあ理性の「奇妙な宿命」について語っていた。理性は斥ける らゆる限界」をも超えてゆこうとするものである (Krv ことも答えることもできない問いに悩まされる。その問い 6 ) 。そういった認識へとむかって駆けぬけようとすること は理性自身に避けがたく課され、しかもすぐれて崇高な問 が、しかし同時にカントによれば、人間理性にとって避け いであるがゆえに斥けることができない。それはまた、経 こ、、いわば宿命なのである。なぜだろうか。カントの験のかなたにかかわる課題であるがゆえに、答えることも 発言をつづけて引用しておく。 かなわない課題なのである (KrV AVIIf. )。ーー神と自由と 不死性の問題を解決することが、形而上学の「唯一無二の そしてまさにこのような認識ー。ー・感性界を超えでて、 目的」にほかならない (vgI.KU473)0 とりわけ神の存在ま そこでは経験がもはやいかなる手引きも是正も与えるこ こそが、形而上学の中心に位置している。ほかならぬ神学 の とのできない認識 にこそ私たちの理性の追究すると が、形而上学の核心なのである。どうしてだろうか。問題 レ」 理 ころがある。私たちはこの追究を、その重要性について のすこしてまえから、あらためて考えておこう。 と は悟性が現象の領野で学びうるすべてよりはるかに優 理性は、無条件的なものをもとめる。たほう、経験とそ 美 れ、その究極の意図もはるかに崇高であると考えている の対象は条件づけられている。だが、条件づけられたもの のである。そこで私たちは、これほどまでに重要な探究 が与えられているなら、それを条件づけるものもまた存在 ントにおける倫理神学の構築にあるのではない。かえって 自然神学の断念をこそふたたび問題としておく必要があ る。そのためには、『純粋理性批判』の文脈に立ちかえっ ておかなければならない。そのような迂回をへて私たちと しては、『判断力批判』の背後にある、そのむしろ隠され たモチーフへと最終的に到りつくことができるはずなので ある。

2. 群像 2016年11月号

妙自身はそれを待遇表現と考えていたのであるが、じつは ある。「三人称の発見」とは、こういう意味である。 人称の問題なのである」。 しかし、それでも「地ーの文が ( そして当然「詞」の文 も ) 「作者の発話Ⅱ言表」であることには変わりはない。 言文一致の要点は、「地」の文章に集中している。 それは実際には常に必ず「作者による三人称」である。な ( 略 ) 「詞」はどうでもよかった。少なくとも二の次であ らば、誰もが気づくように、そもそも「三人称」とは「作 る。なぜなら、「詞」 ( 作中人物の言表 ) の部分の言文一者の一人称性」を限りなく縮減してゆき、ほとんど零度に 致化は、江戸文学のいくつかのジャンルーー・洒落本・滑まで濾過した結果、あたかもニュートラルであるかのよう 稽本などーーーがとっくに成就していたからである。問題 に見えている文Ⅱ小説の様態ということになる。というこ は一にかかって「地」 ( 作者の一人称の発話 ) の部分に とはつまり、「一人称」から「三人称」への移動とは、あ あった。「地」は文章家にとっての聖域であった。それ る見方からすれば「作者性」の隠蔽の作業に他ならない。 をいかに劫掠するか。 ( 同 ) そしてそれは明らかにそうなのだ。むしろ「三人称」化に よって、「作者」は「一人称」に較べ、より多大なる権能 野口は「鵐外は言文一致が人称の問題であることに気づ を獲得するとさえ言っていいのではあるまいか いていた」という。そして、その問題の焦点は「「地」の とはいえ、こんな当たり前のことを言い募るのはとりあ 文章の一人称がいかに「三人称」化されるかの過程」で えずよして、野口の論に戻ろう。『三人称の発見まで』の あったのだと。右の引用で「地」には「作者の一人称の発最終章 ( 第七章 ) は「「た」と人称」と題されている。 話」というカッコ内注記が付けられている。つまり、ある 時点までの日本語小説、あるいは「小説」未満の言語表現 明治の日本語は、三人称の形態表示を知った。その段 においては、「作中人物」と「作者」がそれを語っている 階で初めて、三人称性にいかなる言語形式を与えるかの こと、より精確にいえば「作者」の語りの内部で「作中人 選択が問題日程にのばったのである。見たところ、課題 物たち」が語りを許されているということが、意識される はいかにも山積しているかのようである。言文一致と人 ことさえない自明の前提条件だったのであり、それ以外の 称とはどう折り合うのか。「言」と「文」、つまり言葉の 「語り」の様態は認識されていなかった。ところが「言文 聴覚一言語性と文字言語性との塩梅いかん。「地」と「詞」 一致」が、「作者の一人称の発話」とは異なる「地」の文 との力関係はどうなるか。しかし、あまり案ずるには及 の可能性を、その必要性を惹起させたのだ、というわけで ばない。文末詞「た」の登場が、問題を言語事実的に解 308

3. 群像 2016年11月号

うに、未来の富への不確実な予期は、急速に信憑性を失義の中にいるということを示しているのだ。一八世紀の初 い、たちどころに収縮してしまった。要するに、バブルが頭のフランスでは、資本主義的な心性は、完全には広く深 はじけたのだ。植民地経営についてのちょっとした悪い噂 く浸透していなかった。ローのシステムが機能するかどう がきっかけになったという。一七二〇年三月には、バニッ かを、資本主義が成熟しているかどうかの指標として活用 クがやってきた。数カ月前には株券を欲して押し寄せてきすることができる。では問おう。フランスでま、、 。しつか た人々が、今度は逆に、株券を売ろうと殺到してきた。こ ら、ローのシステムが持続的に機能できたのだろうか。ロ の年の十二月には、王立銀行の銀行券も諸インド会社の株 ーがどの段階に出現していれば、惨めな敗者にならずにす 券も、文字通りの紙屑となっていた。 んだのか。答え。フランス革命の後。フランス革命を経た 人々の非難と怒りは、外国からやってきた財務大臣ジョ ヾリにやってきてい すぐ後に、つまり一世紀弱の後に彼カ / ン・ローに集中的に向けられた。彼は、あわれにも、密か たら、彼の方法は見事に成功していたに違いない「 にフランスから逃げ出すしかなかった。その後も、ローは 3 国王ルイと皇帝ナポレオン 再起をねらってヨーロッパを旅行したとのことだが、それ はついにかなわなかった。一七二九年、ローはヴェニスで どうしてそんなにはっきりと断定できるのか。その根拠 客死した。享年五十八。 はどこにあるのか。この問いには、次のような質問を媒介 彼の墓には、ラテン語で「代数学の法則でフランスを零 にして、回答を与えることができる。プルポン王朝の王た 落に追いやった」と刻まれている。だが、ここで立ち止ちとナポレオンとは何が根本的に違うのか。ルイ十六世と まって考えてみよう。今日の観点から評価したとき、ロー ナポレオンとでは何がどう違うのか。 のシステムは、それほどひどいものなのか。はっきり言お フランス革命の中で、ルイ十六世はギロチンで処刑され う。現在であれば、このシステムはまったく問題なく機能 た。一七九三年一月二十一日のことである。この革命は、 学 哲 する。株価に変動があっても、無に帰することはないだろ 王殺しを敢行し、共和政を実現したのだ。その後も錯綜し の う。現在、われわれが頼っている金融システムは、ローの た経緯をたどるわけだが、その部分はここでは省略して結 史 システムよりもはるかに不確実性が高い。それでも、貨幣論だけを見るならば、革命の終盤に、ナポレオンが登場界 は問題なく流通するのだ。どうしてなのか。 し、皇帝となる。ナポレオン・ポナバルトの戴冠式は、一 この事実こそ、われわれがすでに十分に成熟した資本主八〇四年十二月二日に挙行された。

4. 群像 2016年11月号

すぐに連想される。 らず『万葉集』の和歌、とりわけ人麻呂の歌に著しいとし 第一章冒頭、大岡は、『紀貫之』を書いてゆく過程で、 ている。そういう意味では、『万葉集』と『古今集』は一 貫之の自撰本がーー現在十三葉三十二首の断簡として残っ般に思われているほど違ってはいない、ともに遊戯的人為 ているにすぎないのだが , ーー、多く「いわば暗い衝迫をも的であって少しも変らないというのである。土田の念頭に ち、そして情熱的である」歌によって占められているとい あったのが子規、虚子、茂吉らの万葉観であったことは疑 う事実にしばしば考え込ませられたと述べ、貫之自身、屏 。とりわけ島木赤彦の、「鍛錬道」へと収斂する真 風歌を典型とする公的な性質の歌、すなわち付き合い上の面目一本やりの万葉観が非難されているのだ。大岡は一九 歌と、個人的動機にもとづく私的な性質の歌とを明瞭に分六〇年「日本古典詩人論のための序章」という文章を書い けて考えていたのではないかと推測している。 ているが、痛烈な赤彦批判である。土田に自分の先達を見 ているのだ。 「私がこういうことに執拗くかかずらったのは、結局のと ころ、詩歌が生れる場の多層性に関心をそそられたためだ 大岡は次に『万葉集』巻十六に話題を移し、穂積親王や といえる。貫之を「うたげ」の詩人という側面において眺長忌寸意吉麻呂らの機知にとんだ滑稽な歌を次々に紹介し めるか、それとも「孤心」の詩人という側面において眺め たうえで、「笑いというものは本質的に社会的なものであ るか、というふうに、問題をいささか強引に単純化してみ り、集団性から生じ、またそれに回帰してゆく。たとえ嘲 ることもできるだろう。もちろん、事柄はそんな二者択一 笑的な笑いであってさえ、この本質からははずれない」と を簡単に許す性質のものではないが、あえてそれをやって述べている。 みたくなるような誘惑を、貫之の「自撰本」問題はひめて 「『万葉集』からこういう要素を取りのぞいてしまったら、 いた。」 実に多くの貴重なものが失われるだろう。一言でいって集 「うたげと孤心」という主題の拠って来たるところを直截団の歌。ここに『万葉』の豊沃な土壌がある。そこには皇 に述べているわけだが、大岡は次いで、いまでは不当にも族、貴族を中心とする歌も、旋頭歌や東歌、防人歌などに ほとんど忘れられている思想家・土田杏村の「懐風藻と万 うかがわれる庶民の歌もあるが、儀式典礼の歌から相聞に 葉集」の一節を引いている。執筆は一九三〇年。土田はそ いたるまで、宴席の歌から挽歌にいたるまで、『万葉』の こで「詩を賦することは多くは宴の興を添へるためのもの歌のきわめて多くの部分は、それを聴き、受け入れてくれ であったらしい」と述べ、それは『懐風藻』の漢詩のみな る相手が現実にそこにいるという条件において生みだされ

5. 群像 2016年11月号

誰がなんのためにそんな飾りを取り付けたのか。おそらく めに犬を派遣したということなのか。私はなんのために犬の は神への御供物という洒落のために大輪がこんな飾りを廃墟気持ちがわかっていたのか。それがもうわからない。 化した町から探してきて取付け、大敗の渚に押し出したので そして私はもっと変なことも考える。果たして向こうに あろう。馬鹿なこ ) とをしたものだ。 って大輪がいるのかどうかということだ。というのは大輪 そしてゴムボートの船縁に取り付けた簡易なアーチで、ひ は私の主人が変成したものだという。けれどもその元の私の とつのポートには、「私たちを救ってください」と、もうひ主人が死んだのだから大輪自身も消滅するか、或いは形は とつのポートには、「栄光がありますように」と大書した紙あっても意志や感情のない木偶人形のようなものになってい が取り付けてあったのがふるってた。 ゃあしないか。だったら私は向こうにいってどうなるのだろ まあ、しかし五分の距離を行くだけだからこんなものでも うか。ただの犬として追い回されるのだろうか。 なんの問題もない。適当に漂っていれば着くだろう。 それだったらここにいた方が増しだがでもここには草の毒 それよりなによりも問題は無事に対岸に着くかどうかより が充満している。そうであれば少しでも生き延びる希望のあ も、着いてからの問題だった。このように私は犬の姿になっ る対岸に渡った方がよいのだが、でもこうなってみると生き てしまっている。そして一緒にいるのも犬ばかり。犬、犬、 延びることになんの意味があるのか、逆にうまく栄光のなか 犬の犬づくしだ。対岸でこれを迎える大輪からすれば自然の に滅びていく方法があるのではないか、と思ってしまう。具 寄りものとなんら変わらない。おいしい肉が漂着した、って体的にはなにも思いっかないのだが。 なものだ。それに対して、いやそうではない、俺はおまえが だから取りあえず行くしかないが、じゃあその場合、こい 派遣した人間だ、ということを訴えなければならないが、果つらはどういうことになるのか。希望に向けての脱出なの たしてわかって貰えるだろうか。いきなり他の犬と同じ犬と か。神の要請によってやるべきバーベキューのための犠牲な 見なされて食肉にされてしまうのでは。 のか。生け贄なのか。そもそもこいつらの一部にはなかに矮 という問いに対して私は奇妙なことを考える。私はいっか 小化した人間の頭部が入っているはずで、犬と雖も人間だ、 らいまの姿だったのか。もしかしたら大輪のところに行った と一一 = ロ , っこともできるし、人間と雖も犬だ、と一一 = ロ , っこともでき ときから、いやさ、もっと前からいまの姿だったのではな る。そして、そのどちらについても、随ってその生命を尊重 カったか、ということを。ならば大輪は私を私とわかって他しろ、とも言えるし、だからこんな奴らどうなったっていし の犬とは別に扱うはずだ。或いはそうではなくて犬を呼ぶた んだよ、とも言える。間違いがないのは私が犬を助ける立場 134

6. 群像 2016年11月号

うな文学様式が登場する。時代が下って近代に入り、今度 「以上は、日常言語の話である。文学一一 = ロ語となると、とた は「散文」から「小説」が分化してくる。「ずばり定義す んに世界は変る」と野口は続けている。「文学は文法を無るなら、近代小説とは、ヨーロッパの特定の時期に、市民 視する。いや、はじめは処女のごとく従順に文法を守りな 社会の成立を土台に、作者および読者を産出しつつ勃興 がら、やがて脱兎のごとく疾駆する。その結果、文法の方し、そして現代にいたっている一つの文学ジャンルであ から折り合いをつけなければならないような仕儀になる。 る」。 文学は文法を変える。それはどうやら、文学が日常一言語の 世界に、 ( 略 ) 虚構の人称を持ち込んだかららしいのであ る」。「文学」と「文法」を鋭く対立させる、このようなス タンスが理論的に妥当であるのかどうかは、本論では問わ ない。ここで掲げられた「発生史」の是非も問題にはしな 野口の論を援用しつつ、これから私が考えてみたいの は、簡潔に述べるなら「一人称」の再発見である。 「三人称の発見まで」と言うからには、それ以外に「一人 称」と「二人称」の「発見」もあったわけであり、野口の 言う「文学一一一一口語」において、一でも二でもない「三人称」 の登場が重大な歴史的意味を持ったのだとして、その理路 を辿り直すことによって、むしろ「一人称」の意味を、効 用を、ポテンシャルを、新たに発見出来ないかと思うので ある。 「ソクラテスやプラトンが活躍した古代ギリシアには、散 「こういうことが可能なのはなぜなのだろうか」と野口は 文はなかった。あったのは、劇であるか詩であるか対話か 問い、ポール・リクール『時間と物語』におけるエミー ル・バンヴェニストとケーテ だった。 ( 略 ) 確実にいえるのは、この三つが一人称だっ ・ハンプルガーにかんする言 たことである」。しかしやがて「劇」でも「詩」でも「対及を参照して、現在一一一一口うところの「ナラトロジー ( 本文中 話」でもない、ごく曖昧に「散文」と呼ばれるしかないよ ではナラトロジイ ) Ⅱ物語学」の ( 当時の ) 理論的収穫に それは現実の記述とよく似た、まがいものの記述を導 入した。歴史と虚構とは区別がっかないものになった。 本来は、どっちがどっちでもよかった。しかし、近代小 説は、これは虚構ですとことわることからスタートし た。歴史記述まがいのロ吻で語ることのライセンスがそ れで得られたのである。たとえそういわなくても、一人 称の記述がそもそも真偽あやしいものであった。厄介な のは、小説家が三人称で書き始めたことであった。一人 称の物語は、真偽いずれにせよ語り手の当事者性という 担保がある。ところが三人称は、そうした担保なしに、 かえって信憑性を増すかのように扱われるのである。 ( 同 ) 304

7. 群像 2016年11月号

( ミミ Z さミ ) でありうるのである。 の、有機的な産出の基盤となる「土地と境位」のうちに 最終的な目的は、けれどもいまだ究極的目的は、およそいかなる目的もふくまれていない。それどころ か大地や大海を産みだしたものは「むしろ荒廃させる原 ( E トミ ) ではない。あるいは人間が自然の一部として その最終的な目的であったとしても、その件によっては自因」であって、人間すらそうした自然の脅威から現在もな お免れていないのだ ( KU427 ) 。 然的な存在者であるかぎりでの人間が自然の目的であるこ そればかりではない。人間もまた自然連鎖のうちに組み とは保証されない。自然は破壊をくりかえすことで現在の こまれ、自然はみずからの一項にすぎない人間を、その恣 自然の形状をつくり上げた。人間は自然の寵児ではなく、 自然の統御不能な威力の数々は、いまもなお自然の一部と意的で偶然的な暴力によってもてあそぶ。「自然の破壊的 作用」は「その対象をえらぶことがなく、人間は他の生物 しての人間をも呑みこみつづけている。 とならんでつねにその作用に曝されている ( ト 430 ) 。 自然の一部として存在する人間自体はすこしも偉大では 第三批判は、世界創造の究極的目的をめぐる考察をうけ なく、その存在はむしろ卑小なものである。人間もまた たうえで「神の現存在の道徳的証明について」 ( 第八七節・ 「自然目的の連鎖のうちのたんなる項」にすぎないからだ。 人間はしかし神聖な道徳法則の主体であり、倫理性の主体標題 ) 論じている。ここではまずややめずらしい論点をふ カントは、、かなる意味で であるかぎりでの人間は、創造の究極的目的とみなされな くむ一節を引いておこう。 もスピノザ主義を承認しない。とはいえカントは、スピノ ければならない。道徳法則をみずから立法して、倫理性を になうかぎりでの人間とは、ヌーメノンとして存在する存ザそのひとが誠実な人間であることは信じていた。以下の 在者なのである。ーーー自然の目的論的な体系は道徳的存在引用の冒頭でスピノザが言及されている背景にある消息で ある。 者である人間をもって完結しうるのか。前回の末尾でそう 問うたように、この件がなお問題となるだろう。 有機的存在者は自然目的である。前回も見ておいたとこ ろであるとおり、とはいえこの有機的存在者を支えるも 私たちは、だから、誠実な人間 ( たとえばスピノザのよ うに ) で、神は存在せず、また ( 道徳性の客体にかんして 同様の帰結が生じるところから ) 来世もまた存在しないと かたく信じている者を想定することができる。〔中略〕 かれは、道徳法則を遵守することで、この世においても エレメント 267 美と倫理とのはざまで

8. 群像 2016年11月号

しているのだ。 が根本的に変わってしまった、という感覚があったに違い ない。その変わった何かが何であるかを、われわれは今、 つまり、政治的に実現していることを、経済の領域に転 概念的に把握したのである。トルストイの『戦争と平和』用するならば、そのままローの「システム」になっている で、主人公のピエールはこう言っている。「プルポン家の のだ。一八世紀の初期に、ローはフランスで挫折した。し 連中は革命から逃げて、人民を無政府状態においたので かし、彼が革命の後に同じことを試みていたならば、きっ す。ただナポレオンだけが革命を理解し、革命にうちかち と成功していただろう。このように推測することには、十 ました」。皇帝ナポレオンが反動に見えたとしても、その分な根拠がある。 反動も含めて、革命の精神が彼に体現されている、という 4 特権的な革命 趣旨をここに読み取ることができる。 さて、問題は、ジョン・ローの「システム」であった。 ここまでの考察は、次のことをも示唆している。フラン 以上のことはローの手法とどう関係しているというのか。 ス革命とは何であったのか、フランス革命が何を実現した ローが関わったのは主として経済現象ではないか。それに ことになるのかを解明することが、同時に、資本主義の可 対して、フランス革命は主に政治についての革命だ。だ 能条件が何であるのかについても手がかりを与えるだろ が、ここまでの説明からすでに明らかであろう。自覚され う、と。二つは同じ問題ではない。 しかし、両主題の間に た ( 支配者と従属者の間の ) 承認の循環は、あの「貨幣の は、何らかのつながりがある。 自己循環論法」とまったく同じ論理形式をとっている、 この点を自覚した上で、フランス革命を見直してみる と。貨幣の自己循環論法とは、貨幣と商品の間のーー・互い と、人は気づくことになろう。フランス革命は、西洋で起 に意識された 承認の循環にほかならない。 きた数ある革命の中でも特別な革命であった、と。確か 商品が買われるということは、その商品が貨幣によって に、フランス革命よりも百年以上前にイギリス革命 ( 清教 承認されたことを意味している。これは当たり前のこと徒革命・名誉革命 ) があり、われわれも、「近世篇」でそ た。たが、このとき、商品の売り手は、それ自体としては の重要性に注目もした。また、フランス革命の勃発に先 何の有用性ももたない、貨幣を受け取る。これこそ、商品 立って、アメリカの独立革命が完了しており、フランス革 の方が貨幣をまさに貨幣として承認する所作になっている命の指導者たちはここから多大な影響を受けている。だ のだ。「売りー買い」は、全体として、承認の循環を形成が、イギリス革命は、イギリスの革命でしかない。独立革

9. 群像 2016年11月号

する。まして自分はと信じる。なぜなら、法華経の教えを 起こった未曾有の都市化現象があると考えるが、いわば 「宋銭と今様」とでもいうべきこの主題が、同時代の文学中心とする今様の法文歌は、釈尊の教法にそむくところが とどのように切り結ぶのか、いまなお判明な像を得ている ないからだ」と解釈している。それにしてもこの一文、内 わけではない。だが、密接にかかわることは疑いないと 容はともかく、「それだに」「まして」の語調の強さのため 思っている。宗教もまた無関係ではありえない。 に、「善人なはもて往生をとくし。 。、、よんや悪人をや」の語 後白河の権謀術数がいわば「政治のための政治」であ調をつい想い起してしまうのは、おそらく私だけではない だろう。 り、それは「芸術のための芸術」を思わせると述べたのは 加藤周一だが、大岡が浮かび上がらせた実像は、その「政 後白河には悪人正機説のような逆説があるわけではな 。逆説は論理の必然としていつでもどこでも成立するだ 治のための政治」を可能にしたのはむしろ後白河の今様狂 ろうが、それが個の自覚として機能するには背景として都 いであったということを物語っている。そしてその核心に は宗教があったというのが、大岡の説なのだ。 市とその住民が必要とされるだろう。悪人も善人も不特定 多数の人間がいてはじめて意味をもっからである。後白河 大岡は第六章の結論部分に『ロ伝集』の次の一節を引い ている。 の語調が悪人正機説を感じさせるのは、後白河の『梁塵秘 抄』にも『ロ伝集』にも、そこかしこに都市と宿駅の匂い たとひ あづ 仮令又今様を謡ふとも、などか蓮台の迎へに与からざら が漂っているからである。室町時代の匂いを先取りしてい あそびたぐひ るのだ。 む。其の故は、遊女の類、舟に乗りて波の上に泛かび さを だが、そんなことは枝葉末節にすぎない。「宗教的感情」 〔遊女は水駅で客をとった〕、流れに棹をさし、着物を飾 のあらわれの細部などここでは問題ではない。重要なの り、色を好みて、人の愛念を好み、歌を謡ひても、よく ほか は、後白河もまた「ほうとした気分」の最中にあって、そ 聞かれんと思ふにより、外に他念無くて、罪に沈みて、 れが「宗教的感情」というほかないものであることに気づ 菩提の岸に到らむ事を知らず。それだに〔そんな罪深い 遊女でさえ〕一念の心発しつれば往生しにけり。まして いていたということである。それこそが集団 ( 死 ) と個治 しゃうげう 政 我等はとこそ覚ゆれ。〔なぜなら〕法文の歌、聖教の文 ( 生 ) の問題を解く鍵にはかならないことに。 の 語 に離れたる事無し。 私はなお、折口がなぜ『梁塵秘抄』を真正面から扱わな 言 かったのか、気にかかっている。 ( 以下次号 ) これを大岡は、「遊女でさえ、一念発心すれば極楽往生 おこ

10. 群像 2016年11月号

し、祖父母世代のアメリカにおける日本語てきて、収拾がっかなくなるんじゃないか石田私も行ったことがなくて。 への願いを知ります。 片岡これでいいと思いますよ。よく書け サンフランシスコに戻ったレイは、野崎情報量が非常に多いと言えるかもしています。ですから、これを書くために著 治療をやめます。仕事にも復帰して、新製れませんね。 者が使った労力に釣り合うだけの労力を、 品発表会の舞台に立ちます。薬は飲んでい片岡ものすごく多いです。 読むほうも使うべきじゃないかなと、ふと ますが、聴衆を前に落ちついて製品の説明野崎強制収容所といった歴史上の事柄に思うんです。ただ漫然と読んでいるだけで ができています。ここが今の自分のカプーしても、現代のコンピュータ業界の第一線は、何か申しわけないような気がするんで ルの園であり、ここで生きる。レイは意をの事柄にしても、たくさんの情報がつぎ込すね。 新たにします。 まれています。それから、舞台はアメリカ石田登場人物が、とても魅力的ですね。 片岡大変面白かったです。読み方に新たですけど、片岡さんが昔からなさっていたそのなかでレイは、現代の女性が抱えてい な工夫があると、 しいかなという気がしましように、日本の小説だからといって日本にるいろんな問題を背負って、でもひとに期 た。普通は本を手に持って、目で文字を閉じこもっていなくていいという、そうい待せず、独力で解決していこうとする。そ 追っていきますよね。一回はそれをやってう書き方であるのかもしれません。それだのカみでいろいろ軋轢が起きている。 もいいんですが、そうではなくて、ここでけフィールドを広くとっているとなると、 ここ数年、母親の毒に悩まされる娘とい 音楽のリミックスの話が出てきますけど、見えてくるものはいろいろあると思いまう話題が多くなっています。毒母の問題 ミックスされる前の部分品の状態に解体しす。 は、教育に性別の差がなくなるにつれ、娘 て、並べて、全体を見渡すと、また違った片岡例えば、彼女が住んでいるオークラも、息子が父親を殺して母親と結婚するエ 感銘が出てくると思うんです。主人公のレンドやサンフランシスコの身辺の描写なんデイプスみたいなほうに向かうのか、でも イの生い立ちや心理診療のこと、あるいは かも、それだけ抜き出してみると非常に面日本の父親は家庭内での存在が希薄かなあ お母さんとの関係や祖父母のこと、祖父母白いと思うんですよ。 と思ったり、女の子は、母親を踏みつけな の友達のミャケさん、収容所の話と、いろ野崎僕はアメリカに行ったことがないのいと大人になれないという、新しい反抗期 んな部品がたくさんありますね。普通に読で、片岡さんのご意見を伺うのが楽しみなのかという気もちょっとします。私自身 だったんです。 んでいると、それらが次から次にかぶさっ も娘ですから同じ怒りを知っています。た 342