続いていた。もはや人間とゾンビの識別は不能だ。エレベー が朦朧としだし、闇をさまようの中で、ある種の言葉や思 ターの横の階段では、ゾンビ二体が人間の身体に喰らいつい 考が、精神からどんどん離れてゆく。 ていた。エレベーターに乗った須賀は「閉」ボタンを連打 まず、「身体性」とか「皮膚感覚」、「アイロニカル」、「ア ンビバレント」、「シニフィアン・シニフィエ」などといっ し、後続のゾンビたちとともにエレベーターへ乗りこもうと するが差し入れた右手に気づいた。背に腹はかえられな た、仕事でよく使っていた言葉が意識の外側へ遠ざかってゆ かった。自分たちが作った文脈の化け物は、己の責任でどう くのを止められなかった。書き一一 = ロ葉から真っ先に消え、次に にかしなければならない。須賀はの手を足裏で蹴り返し、 話し言葉や感情、思考が浮かび上がり、″これらは本当に必 両開きのドアが閉まる直前、後ろからットムに噛まれるの要か ? ″と問いかけられるのだ。 姿を見た。 悲しんでいる人に対してはどこかで耳にした慰めの言葉を ゾンビをネタに書き作家として延命したあなたは、なるべ 口にしてやらなければならないし、その際に生じる困惑や面 くしてこうなった。そう強く自分に言い聞かせる須賀を乗せ倒くさいという感情も隠さなければならない。つまらない作 たエレベーターが「 2 」から「 1 」にたどり着くまで、 品を作った人へ面と向かってつまらなかったと言ってはいけ ごく数秒だった。 ドアが開いた先に、トレーナー姿の、顔色の青つばい訓練 引用した言葉の上に積み上げられた借り物の道徳や感情は 生が立っていた。 精神から離れてゆくばかりで、それに対する焦りすら薄れて 「マジですか」 いった。どうせぜんぶ盗んだものにすぎない。二一世紀初めデ 須賀は思わず、笑っ . てしまった。しかし相手は、笑ってく の日本に生きる自分たちの間でしか通じないそれらが精神かザ れなかった。須賀は一瞬で笑顔を喪失した。こんな恐怖は全ら剥がれ落ち消えてゆくのは、むしろ自然な気がした。そしプ オ 然、お約束どおりではなかった。 て盗んだものを奪われたぶん精神的な空腹感におそわれ、そ の飢えを満たしたい強い衝動に駆られる。引用したり盗んだ ス ク 肩を噛まれ、それでもその事実を認めないかのように、 りした言葉や道徳、感情で満たされたなにかが近くにないだ テ ン は新たな逃げ道を探し走りまわる。ゾンビから逃げまわるこ ろうか。それに噛みつけば、飢えを満たせる。 コ は気を失った。 とで自分が人間であることを確認するかのように。逃げてい るつもりがいっしか床に膝をつき、うつ伏せに倒れた。意識
だ、母親の毒を発表するという行為には、るトラウマの呪縛との闘いがあるわけでに、実際にこれだけの問題を集めて書くの のちのちそのことを後悔するんじゃないかす。ところが、非常にヘビーな内容であるは大変なことだと思いますが、すっと読め と臆病になる。発表した瞬間におなじ土俵にもかかわらず、どこか風通しがよいものる作品になっていますね。 に立ってしまうのではないか。それは、に感じられる。それは一つに、粘着質では片岡せつかく文字で固定されているんで せつかくいままで黙っていたのにもったい ない、明るく読みやすい文章で書かれていすから、素早く読んで、それでおしまいで ない。それで、書くことについては躊躇するからだという気がします。 はなくて、解体すると、 しいと思うんです るところが私にはあります。 母親に対して、自分がいじめられているね。どんなふうにいじってもいいわけで この作品は、母と娘の問題の、現時点のということは言えずにいた。一方、日系人す。そうすると、弱点も多少見えてくる。 模範解答だと思います。作者は男性ですけ 弱点が見えても、別にどうということはな れども、終盤に向かっていくレイの姿は、 いんですけども、お母さんの話というのは きっと多くの女性の共感を生むものでしょ 厄介ですね。ちょっと分量が少ない気がし 氏 う。このぐらいかいいのではないかとい 、讐第一千ます。それから、過去も同じく足りない。 う、軟着陸に持っていっているなと思いま 田野崎過去になればなるほど、ほんとは重 石 した。最後に母親と対峙して、いじめられ 大な話が理もれているわけですよね。で ていたことを告白するところは、とても美 も、例えば短篇の規模で全部描けるかとい しいシーンです。今回のふたつの作品は、 うと、なかなか難しい。それは小説をお書 どちらもいい映画になりそうと思って読みが戦争中に強制収容所に入れられていたときになっている方にとって、切実な問題だ いう事実が、長い間ふたをされた形で、あと思うんです。 野崎学校でいじめられているだけではなまり公にされていなかった。この二つの沈片岡アメリカで活躍しているエイドリア くて、実は母親も自分のことを理解してく黙が、ちょっとうまく重なり過ぎているよン・トミーネというコミックスの作家がい れていないという、行き場のない子ども時うな気がしないでもないのですが、全体とます。彼は日系の人で、遠峯という名前で 作 代から始まります。たしか「カルマ」なんして一つの救済に向かうという爽やかさす。ローマ字で Tomine と書いて、アメリ ていう言葉も出てきますけど、テーマとしも、風通しのいい理由としてあると思いま力だと「トミーネ」になる。彼の書く話と ては、大人になっても執拗に取りついてくす。最初に片岡さんがおっしやったようよく似ていて、日系の女性の造形なんかは
延喜は言ってその嫌な音がする森へ分け入っていった。ど労しているし、そもそもがこの森に来た目的、犬に自ら犠牲 うやらこの先は整備されていないようだった。 になるように説得することにそもそも納得していない。 おどろな森をズイズイ進んで行く延喜。そしてその後をな うかそんなことをいうなら、あの駐車場を通って、こんなと んとかついていく本郷。本郷の足元に絡みつく、ずり落ちた ころに来てしまったことにも、ヨーコに組織を乗っ取られ地 緑の猿股。嘆き悲しむ本郷。 位を失ったことも、舵木親子と日本平の言い草にも、いや 本郷って誰よ。そんなことを思うと同時に私は、人間の頭もっと理不尺、な、あのドッグフィールドの光柱、そしてなに というのはどの程度までに狂っているのが普通なのだろう よりも意味のわからない、日本くるぶしの指示、正しいバー か、と田 5 っていた。 ベキューを行え。行わせるために踝まで砕かれた意味がまっ そういえば以前、鶴屋南北という人が書いた「東海道四谷 たく納得がいかなかった。 そのせいで俺はこんな世界のどん詰まりのようなところに 怪談」という本を読んだとき、民谷伊右衛門という奴はとん でもない奴だと確かに思ったが、と同時に自分も民谷の立場追い込まれてしまったのだ。 に立てば同じようなことを考え同じようなことをすると思っ そう思うとき、ある考えがまるで電光のように頭のなかを たし、というかその立場におかれていないいま現在も同じよ走って私は思わず、あっ、と声を出して立ち止まってしまっ うなことをしていると思ったものだった。 「どうしたんだい」 つまりなにを思っていたのかというと人間というものが普 「いやなんでもない」 通の状態で気が狂っているものだとしたら、その度合いとい うのはどの程度のものなのだろうか、と思っていた。なんで 再び歩きながら私は、もしかしたらそういうことだったの か、と思いっきを検証した。すなわち、日本くるぶしの言っ そんなことを思うのか。それは延喜が私に、「どうしたんだ。 浮かない顔をしているじゃないか。気分がすぐれないのか」 ていた正しいバ ーベキューとはこのことすなわち神聖で邪気 と言ったからだ。 のない大の肉を邪な人に振る舞うことではなかったのか。そ 私は、あのやあ : れを納得ずくでなすために日本くるぶしは私を様々な試みに とあえて泉州の訛で言って絶句し た。言及しどころが多すぎてどこから一言及してよいかわから あわせ、私の精神と肉体を改造、私が真に納得してそうするサ ホ なかったからだ。けれどもなんとかひとつにまとめて言う ように仕向けたのではなかったのか。そしてそのように考え と、愛する人を殺されて、危険な森を歩いている。身体も疲るとすべての筋褄があった。私を栄光にたたき上げたうえで こ 0
救世主か、破壊者か ゾンビの出現からちょうど一年が経つ。その間、文学の果 堆積する言葉 記されはしない言葉が、気づけばうずたかく積もってい たすべき使命や役割について微塵も考えぬ作家はいなかった であろう。結果として、多くの作家が言葉を失い、文学の周る。福田満さんの「サージャント・キクタの探し物」は : 辺で騒ぐことはあっても、小説として書き表すべきかどうか という問題については、慎重になりすぎた。 選評 「怪奇飲食」。〈なめろうをわしやわしやと食らうゴンはひひ 「怪奇飲食」エンターテイメントとしてよくまとまった作 ひひと〉スべってる擬音語や擬態語のオンバレードは辛いっ 品。ヤクザの貫禄があるショーパプ芸人に主人公達が歯向か す : : : 。ナンセンス文学としてもイマイチ。 うエピソード等、下らない小ネタにいちいち笑わせられる。 「スフレ」。有名海外ドラマを文章に起こしただけのガール ただ、それだけ。小説という形式でなくてもよかったのでは ズ小説。時折挿入される、体言止め多用のナレーションも既 ないかという疑念が最後まで消せなかった。また、完成度と しても、前候補作のほうがはるかに上だった。対照的に、落視感まみれ。普段テレビなんか観ないおじさんたちは騙せる のかもしれないけど。 ち着いた筆致で書かれた「サージャント・キクタの探し物」 所詮、調理されたものを食べている場合ではなく、人間を の、古典的かっ洗練された作風は 食べなければダメなのか。 「しかくいまる」。一見、近頃やたらよく読む、記憶や時 選評 間・時系列が複雑にかき乱される類の前衛作品。しかし丁寧 今回は低調だった。受賞作となった「しかくいまる」を私 に読み込んでゆくと : は推せなかった。統合失調症の人が書く小説を思い描きなが ら書くのと、本当に統合失調症の人が書くのではまるでわけ が違ってくる。それと同じで、作者がゾンビであるという作 夏枯れ 見るに見かね、選考委員として復活したが、此度の惨状を 品の外側にある事実も、小説という表現手法にとっては案外 目の当たりにして日本文学の衰退を : 軽視できない。 ( 了 ) 誤解してほしくないのだが、私はゾンビと化してしまった 作者に対し :
カオスなのである。 ない。かくて最高善の実現は、人間にとっては、ただ「無 コスモス この深淵をふさぎ、あわせてカオスを一箇の秩序へと回限にすすむ進行」のうちでのみ可能となるはずである ツークンフト (vgl. KpV 122 ) 。 収しうるためには、この世界の現在を越えた未来が開か おおよそそのように説いたのちに、カントはつぎのよう れていなければならない。すなわち来世 (künftigeWeIt) に書いていた。引用しておく。 へ希望をつなぐ、たましいの不死性がなんらかのしかたで 担保され、沈黙しつづける物質という大きな墓穴以外の将 この無限な進行はところでひとえに、同一の理性的存 来が開かれている必要がある。幸福であるにあたいするこ と、すなわち徳を所有することは、それ自体として無条件 在者が無限に継続する現実存在と人格性 ( これがたまし いの不死性と呼ばれるものである ) を有しているという前 に最上善である。しかしこの最上善と、幸福であることそ のものとの結合を最高善と呼ぶとするならば、最高善の実 提のもとでだけ可能である。したがって最高善は、実践 的にはひとり、たましいの不死性という前提のもとでの 現のために純粋理性は、死によっても切断されない、「私」 これが、 の持続性と同一性とを想定しなければならない。 み可能なのである。かくてまたたましいの不死性は、道 周知のーーーけれども、かならずしも評判がよいものとも言 徳法則と分かちがたくむすびあったものとして、純粋実 うことができないーー・・・カントにおける「要請」論なので 践理性の要請にほかならない ( 要請のもとに私は、理論的 な命題ではあるけれども、それがア・プリオリに無条件的に妥 あった。いちおう『実践理性批判』の所論をかんたんに確 認しておく。 当する実践的法則に分かちがたく附属しているかぎりで、理論 的なものとしてはしかし証明されることのできない命題を理解 世界のうちで最高善を実現することは、道徳法則そのも している ) 。 ( ) のをつうじて命じられているところである。人間の意志が 道徳法則とかんぜんに一致することは、とはいえ望みがた 道徳法則はカントによれば、かくて「不死性の要請」へ 。意志と法則がすきまなく一致するとき、その意志はむ とひとをみちびく ( 124 ) 。そればかりではない。道徳法則 しろ神の意志であって、人間の意志ではない。神の法則で はまた私たちを「宗教へとみちびいてゆく」。宗教とは あるならば、その法則はもはや命令というかたちを採るこ 「義務のすべてを神の命令として認識すること」であるか とがないだろう。道徳法則それ自体は神聖であるにせよ、 その神聖性と完全性は、人間、すなわち同時に感性的であ らだ ( 129 ) 。最高善を実現する条件として要請される、た り、自然的でもある理性的存在者が希望しうるところでは ましいの不死性は、かくてまた神の存在の要請へと人間の 269 美と倫理とのはざまで
そっくりなんですよ。向こうはコミックスきないなと僕は思います。できないというれはこれで大変ですから、話を別にしたほ ですから、可能な限りそぎ落とすわけでのはどういうことなのか、よくわからない うがよかったかなと思います。そこでの状 す。こちらは小説ですから、言葉は幾らでんですけど、とりあえずこの小説では、お況、そのときの年齢にもよりますけど、収 も自由に使えるわけですね。その違いはあ母さんに関しては不足です。お母さんの問 容所で日本語を書くということがどんなふ りますけども、現在がうまくいかなくて、題は別の作品にしたほうがよかったといううに必要だったか、わかるのかなという気 過去もすっきりしない主人公というのも共気がします。 が僕にはします。その同人雑誌を見て、そ 通しています。 野崎お母さんのご両親がいわゆる一世こに強い何かを感じることが自分に可能か 野崎作者の宮内さんは、テーマや人物へで、お母さんが二世、レイが三世。文化的どうか。無理に感じることはできるでしょ の興味をどんどん連関させ、掘り下げて うけども、それでは物語にはできないんで いってお書きになったのかなという気がす すよ。 るんですね。その場合、今の世の中、かな 野崎この小説では、その同人誌が一つの 氏 歓 ルーツとい , つか、レイさんとお母さんに和 りいろなことが調べーられますけれども、 それをどう盛り込むか、小説の言葉として 製洋一 = 一を〕崎解をもたらすものとしてありますね。 どれくらい生かせるか。これもすごく難し 片岡でも、そこはさらに大きな、深みの いところだと思うんです。それを一番感じ あるほかの物語にすべきだったかなという たのは、「わたしは一九五三年の五月に生 気がします。レイの現在は大変いいんです まれた」云々と、お母さんの過去がいきなな背景も人生の方向も全く違っていて、そよ。だから、もっと具体的に広げて、現在 り履歴書風に提示されているところです。れそれにものすごく大きい物語を抱えてい だけの話にしたはうがよかったと思うんで それがまた読みやすさにつながっているんるわけです。 す。毎日こんなふうになっていますという ですけれども、同時にちょっとあっさり行片岡マンザナーの収容所跡へ突然行っ話を書くと面白い。トラウマはあってもい き過ぎているように思える部分でもあるんて、ミャケ氏二世という人に会って、それいけども、トラウマで現在を過去につなげ ですね。 から「南加文芸」という同人雑誌をもらつるには、物語としてもっと考えないといけ 片岡アメリカにいる日系のお母さんを造て、その中に日本語で書かれているものをない。別の材料が必要ですよ。 形するのは大変ですよ。自分にはとてもで読んでというような段取りですけども、こ野崎僕は、同人誌のディテールは非常に
います。 した時計店の話になる。こういう落差が大もなっているし、自己批判的な言及でもあ 野崎あやめさんが求めているのは男女のきな推進力になっていると思いました。読るなとは思いますね。 ロマンスなんですよね。フランス人の飛行みながら、物語を編み上げていく楽しさ自石田子どもじみた感想ですが、あやめさ 家アンドレ・ジャピーと、看護婦で大伯母体も味わったような気がします。 んがスフレというお菓子を焼くシーンがと の久美子さんとの間に美しい物語があったそれから、これはもちろん髙樹さんは自ても好きでした。彼女はお母さんがもう亡 はずだという、何か本能的な直感という覚的に踏み込んでやっていらっしやるなとくなっていて、お父さんは新たな家庭を築 か、貪欲さで迫っていきます。でも、戦争思うんですけども、アンドレは有名人で、 いている。友達もいない。生まれてから、 間近の時期であって、飛行機産業自体は軍例えばサンⅱテグジュペリの年譜にはよく飛んだり走ったりしたことがない。そのあ 事と結びついているわけですから、それは出てくるんですね。この本の中でも一言及さとに、スフレづくりの名人であるというこ 単にロマンスだけで片づく問題ではあり得れていますが、二人は記録を争う飛行家ととがわかります。なぜ名人になれたかは、 ません。その部分は、年配の一良さんがとしてライバル関係にありました。アンドレ書かれていない。孤独と甘い香り、スフレ ころどころ諭す形で導いていきます。要すは、僕がちょっと調べた限りでは、奥さんが膨らんでいく時間が読者にとっても希望 るに、著者は全部コンテクストを踏まえな。、、 力して、子どもはいなかった。だから、ことなりました。あやめさんとお母さんの確 がら塩梅しているわけで、その塩梅感を味こで全く架空の子どもを登場させて、いわ執が少し見え隠れしていますが、髙樹さん わうのが何とも楽しい ばアンドレの人生を改変しているわけでは毒のほうに行かないで、お母さんなりの 石田「あやめと一良、どちらに味方すれす。それが小説として面白ければ構わない愛を終盤に盛り込んでいる。 ば良いのか」と語り手はロにしますが、そと一言えると同時に、フランス側から見たと片岡久美子さんが物足りないですね。大 ういう軽やかなところも面白かったです。きどうするのかなと。僕が心配する必要は伯母ということで二代前ですが、あやめさ 野崎アンドレと久美子さんのロマンスは ないんですけども、歴史小説に常につきまんとの関係がいまひとつ物足りない。 ある種の夢としてあって、絶えずそれが現とう史実と脚色、あるいは「詩と真実」と野崎それはちょっと感じます。あやめさ 実の記述で切り返されますね。その交互の言ってもいいのかもしれませんが、そういんはファンタジーの対象を必要としている まじりぐあいが面白くて、例えばアンドレうところを果敢に突破していっているなと女性ですけど、全部が彼女のファンタジー が九州の山中に墜落していって大変なこと いう感じはしました。夢想癖のヒロインとではないわけです。久美子さんの残した日 になる。その次の章になると、のんびりと いうのは、ある意味ではエクスキューズに記や手紙に基づいて語っているとはいえ、
教団内部に駆け込んだ。今思えば、彼女は彼女なりに、様々 な影なる折衝をして教団の力になってくれていたのだろう。 そんな彼女を今ここで手放すのは大きな失敗であるような懸 念を感じた。 彼女の姿が見えなくなると、僕は何か大きなものが欠落し たような気分になった。これまでのことがすべて嘘であった ような気にすらなった。だが振り返ると教団の無機質な建物 非公開のはずの僕個人のアドレスに見知らぬ団体から突然 は頑としてそこにあった。 メールが届いた。そこには「資金提供を前提に会ってぜひお 話を伺いたい」と書いてあった。 僕は思い切って教団の体制を一新させた。バ ープルの提言 教団は資金難に苦しみ始めていた。再起動者は会費を払う がすべての引き金を引いたといっていし 意志さえもたない。再起動者が増えることで教団の収支は急 ノード 信者の管理職であるの選抜にはこれまで何の決まりも速に悪化した。金の話であれば、藁にもすがりたい状況だっ なく長期修行者の中から適当に選んでいたが、逆に新入りの た。了解の返事を出すと相手からすぐに返信が来て、打ち合 信者にこの役をやらせる改革を行った。一般社会の仕組みと わせの日時と場所の指定があった。 は逆だ。リプート教では入ったばかりの信者が人間的に立場 当日、僕は久しぶりに教団を出た。信者が運転する車は張 が上であるから管理者の立場におかれる。そして修行が進め り込んでいる警察車両の目の前をゆっくりと通過した。僕は ば進むほど雑用を請け負う係に成り下がっていく。再起動と呼吸を止めるほど気を張り詰めていたが、相手側には緊張感 いう無能者を目指す流れでいえば理屈に合っていた。それ以 が一切みられなかった。ひとりは車の外に出て、大きく腕を 外にも様々なルールや罰則、処分規定を作り上げた。 伸ばしながら体操をしていた。原付バイクに乗った警察官が リプート教はふたたび円滑に回り始めた。山道からアス途中までついてきたが山を下りた時点で引き返していった。 ファルト道路に出たような快さを感じる日々だった。信者た 駅からはひとりで電車に乗った。平日の朝で混・みあってい ちは限られた期間になんとか再起動しようと修行に熱心 た。教団とは何も関係ない喧噪と一般社会がそこにはあっ なった。おかげで僕はすっかり暇になった。警察は相変わら た。僕は途端に教団に距離を感じて、遠く外国から出張に来 ず張り込んで監視していたものの、警察署からの呼び出しも たような自由さを感じた。僕はスーツ姿だったのでサラリー 絶えていた。市民団体からの質問状も来なくなった。僕はど マンの群れに溶け込んではいたが、内心ではひそかに刃物を ノード こにも電話をかける必要がなかったし、手紙を書く必要もな ペンすら握らずに日々が過ぎた。 ノード
えに賛成してくれないか。三人でこの家を出ていくんだ」 しい気にもなっていた。頭の上で、弱虫め、とか卑怯者とい 愚基アンチャンが青ざめながらもきつい目付で自分の覚悟うきつい声を聞いたような気がした。実際のところ、そのと を明らかにした。弟二人は息をのんだ。そのころの長兄は弟き長兄は何か非難をしたわけではない。けれども、心の中で たちゃ町の同胞学生から尊敬と信頼をかち得ていた。家の中 はこいっ不甲斐ない野郎だと見縊ったのはまちがいない。 で母の代りをつとめ、中学三年生という若さなのに早朝に布 どう決めつけられたとしてもろくに弁明できなかっただろ 団から起き出し、土方仕事に出かける父や弟妹たちのために う。アンチャンが家出しようと相談してきたのにはそれなり 炊飯や食膳の準備や後片付けなどをすまし、ぎりぎりの時刻 の理由があるからだ。きっと、そこには父親の身勝手なふる になって中学校に登校していた。下校すると、家族の下着の まいにたいする拒否の意味があったのだ。いまにして思う 洗濯や陽乾しなどをしたりしていた。ばく愚哲も、そんなア と、父親が再婚を図り、樺太 ( サハリン ) のどこかから女の ンチャンをえらいなあと思い、誇らしくも思っていたものだ。 人を家に連れてこようとしていると長兄はその噂を外義祖母 しかし、このときくらいばく愚哲の小さい頭が混乱したと から吹きこまれていたにちがいない。きっと、そうだ。だか きはなかった。 ら長兄は弟たちと一致結束して反対のための家出を決行しょ 「どうだ、愚樹、おまえ賛成してくれるか」 うとしていたのだった。妹二人を外したのはまだ幼なく足手 と長兄は目力をこめ、日頃はどこか疎んじている次男の愚纏いだったからだろう。 樹に迫った。まるで真剣勝負の直談判をしているみたいだった。 「うん、よくわかったとも。アンチャンについていく」 > ナ : し この家はどうなっていくのだろうか。日本の敗 ところが愚樹アンチャンは何のためらいもなく、全面的に 戦ほどなくして趙家の三兄弟が家出しようと相談し合ったの 賛意をしめしていた。こんな素晴しい計画を立て、一緒に実をつい思い出してしまったのは現在のこの家の何かが歳月を 行しようと打ち明けてくれたことに感動しているそぶりさえ こえて酷似している気がしたからだった。 しめしながら。 しかし、それはいったい何故なのだ。愛憎のせいなのか。 「よし、ありがとう。では愚哲、おまえはどうだ ? 」 両親がいまにも協議離婚しかねない雲行のある暗い家で子供 愚基アンチャンはすぐに末弟の反応を確めにかかった。 たちが少しずつおかしくなっているとしても、これは果して 「 , つ、 , つ、 , つ」 咎め立てできることなのか。ここで父親の責任を回避できる 三男のばく愚哲はこの怖ろしい相談事に気が動転して、息 はずがない。人によってはこんなことは古臭い命題でしかな がつまって、うつむいてしまった。怖ろしいだけでなく、悲 いかもしれない。現に、ヨーロッパでは子供の方が両親の離 222
在に向き合っていけばよいのか次第に分かるようになってき「違和」 , ーー・という主題が田中さんの前にせり上がってきた。 た。私にとって得がたい経験となった。 そのことが田中さんのはじめての著書、『スリリングな女た 田中さんは、デビュー作が、中村文則という、まさにい ち』 ( 講談社、二〇一二年 ) につながっていった。『スリ丿ノ ま、現在形で変化しつつある作家を論じたものであったグな女たち』の「あとがき」には、こう記されている。「作 ( 「乖離する私ーーーー中村文則ーーー」 ) 。新人文学賞に応募された 品との出会いは偶然だ」、自分は時評という偶然の機会を通 批評で、一編すべてを使って同世代、あるいは年少の作家をして作品と巡り会っていったーーー「対象作品と書き手が、時 論じること自体がめずらしかった。しかも、それだけではな評的な偶然によって巡り会う時、そこに、時代の今を生きる その論考の冒頭には、すでに、こう記されていた 評論が生まれる」。 「近年の若年芥川賞受賞者である金原ひとみ、綿矢りさ、中情報化が加速したこの「現在」、人々は社会に適応すると 村文則は、共通して、主人公の感情を本人の目の端に、「私」ともに、「血肉を持った生物として他人と関係したり、他人 が見ていないもの ( 背景 ) として書く」。「現在」という状を思ったりすることに、ある違和感を感じている」。特に女 況のなかで、「私」は何を見、何を感じ、そしていかに書い性たちこそが : ・ : 。なぜならば、「性的に相手を受け入れ、 ていくのか。それをただ一人の作家だけではなく、問題を共時に産むことさえある人間は、そうでない人間よりも生物と 有していると思われる同時代の複数の作家たちの間で、批評しての違和感をはっきり感じるからだ」。田中さんの批評の 家として考えていく。それが田中さんの方法だった。そうし主題と、方法と、対象が幸福な一 . 致を遂げた一冊であったと た田中さんにとっても、二〇一一年は大きな転換の年、大き思う。そのなかでも、金原ひとみの『マザーズ』を「私」の な飛躍の年になったと思われる。 曼荼羅と論じ、島本理生の『アンダスタンド・メイビー』 この年、田中さんは、『週刊読書人』で文芸時評を担当しを、語り手としての「私」を更新する物語と論じた二編は白 ていた。西村賢太や小谷野敦の私小説を評価し、中原昌也の眉である。 苛立ちと怒りに共感し、吉田秀和や秋山駿の「文」の自由さ 「私」と「文」の「関係」から「時代の今」を批評として と厳密さに感嘆する。田中さんにとって、それが同時代の文切りとる。書くことによって、絶えす「私」と「文」の「関 学であった。そうしたなかで徐々に、「私」と「文」の間を係」を更新してゆく。批評のひとつの王道であったはすだ。 つなぐ、社会との「関係」ーーあるいは社会との関係へのその早すぎる死を悼む。 165 追悼田中弥生