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検索対象: 群像 2016年12月号
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1. 群像 2016年12月号

この有名な恋の贈答歌についてくだくだしい説明は不要 だろう。天智とその弟・天武、そして額田王をめぐる三角 関係は古代ロマンスの一典型と思われてきた。 大岡はこの贈答歌をめぐって、「才媛額田王が、最初天 智天皇の弟大海人皇子 ( すなわちこの贈答の答歌の作者 ) とのあいだに十市皇女を生み、この贈答の行われた天智天 皇七年当時には、天智に召されていた女性であったという ば成立しえないにもかかわらす、それがある限りは忘れて事実から、三人のあいだに胸ときめかすような三角関係を いる、そういうものだ。いっしか、孤独な意識すなわち空想し、その空想によって右の二首の唱和そのものを染め 「孤心」が、読書さらには思考の前提になってしまったと あげながら、「あかねさす紫野行き標野行き」をくりかえ し愛誦した人びとは数えきれないほど、いたはずである」 この享受の仕方が文学の理解を大きく変えてしまったの と、「古典を読む」シリ ーズの一冊として書き下ろされた 『万葉集』 ( 一九八五 ) に書いている。「もちろん私もそうい ではないか。「うたげ」に対する大岡の関、いは、まずその 疑問から始まっている。 う少年の一人だった」と続けたうえで、しかし、そういう 一例を挙げる。『万葉集』巻一の第二十と第二十一。 ロマンティックな思い入れでこの相聞歌を鑑賞することは 許されないのだと戒めている。なぜなら詞書きにある「天 天皇、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌 皇、蒲生野に遊猟したまふ」というその遊猟とはあくまで あかねさす紫野行き標野行き野守は見すや君が袖振る も宮廷の一儀式であり、二首は、狩猟が終わって催された 皇太子の答へましし御歌明日香宮に天の下知らしめし盛大な宴席での贈答歌として披露されたものだからであ し天皇、諡して天武天皇といふ る。歌の内容は忍ぶ恋ではあっても、それが披露され享受 むらさき 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゅゑにわれ恋ひめや されたのは衆人環視の「うたげ」の場において楽しまれた 、も ものだったからだというのだ。 少々うがって考えれば、そのような場であったからこ そ、歌の主題が忍ぶ恋であることは重要だった。この主 題は秘められた情熱をうたうものだから、当然人々の興 政 をそそったはずである。浮き浮きした宴席の場では折り の 語 に合っておもしろいと喝采されたにちがいない。その 上、額田王と大海人皇子がかって愛人関係にあったこと は、これらの歌のもたらす効果に、ある意味で絶妙な味 215

2. 群像 2016年12月号

て、「いっから疼きましたか ? 」と言うので、「昨日の夕方で ことばっかりなんだろう ? 別に病気がちの人間でもなかっ す」と言ったら、医者は「十五分で手術は終わりますよ」と たのに。それでも、たかだか盲腸の手術で、俺は三週間も入 言って、私はそのまま入院した。十五分で終わるはずの手術院していた ) は四十五分もかかって、「腹膜炎の一歩手前でした」と言わ 隣の病室に後から中学生の男の子が盲腸の手術で入院し れた。まだ青春の時間帯だったので、病院は木造の二階建て て、それが一週間もしないで退院してしまった。巨漢の看護 で、手術室は一階にあった。もちろん、エレベーターなんか婦に「隣の中学生はもう退院しましたよ」と言われた時、 「あんたはバカだからまだいるのね」と言われてるように はない。手術が終わって、まだ麻酔で体の半分がしびれたま ま手術台に横たわっている私に向かって、巨漢の看護婦は背思った。 中を向けると、「つかまって下さい」と言った。本当に巨漢 ( よく分かったけど、私は自分の遭遇した大地震になんか、 の看護婦だったのだが、背だけは私の方が少し高かったの ちっとも関心はないんだな。だって、何百万人だかもっとが で、私はその看護婦の背中にぶら下がったまま足だけを引き被害に遭ってんだから、その顛末なんかそっちの方に聞きや ずって、二階の病室へ運ばれて行ったのだ。歩道橋の上で兄 いいんだもん。今更だけど、私的には「あ、そうなんだ」で ちゃんに「つかまって下さい」と言われた時に、そのことを しかないんだね ) 思い出した。 ( 年取ると、自分の外側のちょっと離れたことにはほとんど ( どうして俺の思い出すことは、絶対安静の病気とか病院の関心がなくなるんだね。思考の範囲が狭まって、見える範囲 ◎記憶とともに甦る、いまは亡き人たち 世界をわからないものに店ぐ 書田 育てることー文学・思想論集 示 ここで起こ 0 ていることに驚き、立表 刊加藤典洋 四六判・本体 2000 円、、′ . ま ち止まる。 言葉の降る日 岩京 加藤典洋 哭判・本体 28 。円二日の尢む国力らー政治・社会論集 親しくその謦咳に接した吉本隆明、鶴見俊輔の在りし日の姿。太 私たちがいま、直視すべき日本社会 加藤典洋 四六判・本体 2000 円 宰や安吾、三島の実像と思想の核心にふれ、生と死の諸相に迫る。 の実相。 191 九十八歳になった私

3. 群像 2016年12月号

講談社 話題のノンフィクション 2016 , 12 ゆ : 〃わ 00 た c んわ . た 0 面 n 毓化 co. 加 / 老衰死 円 0 5 5 3 知られざる天皇明仁橋本明 生前退位問題に揺れる今、学習院時代から今上天皇を見続けてきた学友定脳 のジャーナリストが綴る「人間・天皇」。天皇になるとは、かくも過酷なのか 0 8 0 2 田原桂一 迎賓館赤坂離宮 今春より一般開放がはじまり、東京の新名所となったク国宝建築物ク迎賓館定」 赤坂離宮。その美しき深奥を世界的写真家・田原桂一が撮りつくした ! キンドル・アンリミテッドの衝撃石井貴士 読み放題サービスの出現で、出版社・企業・個人の稼ぎ方はこう変わるー キンドルセルフ出版でベストセラ 1 作家を目指せ。ダイレクト・パプリッシング を活用して経営者・個人事業主がビジネスを成功させる方法を紹介。 円 愛される色 七江亜紀 オトナ世代の色えらび 3 万人を変えたカラ 1 コンサルタントが伝授する二秒で美人をつくるツ秘密 を公開。大人女子が本当に欲しかった「代後半からの色の指南書」。 さらば白人国家アメリカ町山智浩 ト , 、一プ対』 , リー、史上最悪 0 大統領選が暴〔た大国・一 , リ , 0 黄昏。 = 大 . きな一反響を呼んた 在米の著者が各地の「現場」で体感したサイレント・マジョリティの叫びー 、Ⅱス〈シャルか書籍 4 なせ老衰死は苦しくないのか ! ? 定価 1 , 200 円 978-4-06-220312-8 スペシャル取材班を 。延命せす 古しまない 死〕に」カをしたい 一平物死新める 老袞死 0 書石飛を二医師の の取りのトキ夛ントと 大切な身内の 世最前線の き年料学が 穏やかな最期のために響村待 ' 初当・らかにした 日たカ員実 。大切な身内の穏やかな最期のために 定価 1 , 300 円 NH K スペシャル取材班 0 ? ま 4-06-22030 み生、 「平穏死」を提唱する石飛幸三医師の現場ルボと、 。世界最前線の老年医学で明らかにい

4. 群像 2016年12月号

転させて堂々と「この戦争は宗教戦争である」と宣言でき は戦後を睨んでそう言っているのか。しかし別の論考で、 るようにせよ、そうフランスの人びとにけしかけてもいる この戦争を国家間の争いとしてではなく、真の意味におけ のだ。力点は後者にある。 る「宗教戦争」として受け取り直し、戦い直さなければな この戦争を 若干飛躍し、二つの論考をつなげてみたい。 らないと主張していることを考え合わせるとき、わかりづ らさは増幅してしま , つ。 「自分の戦争」として戦えとはつまり、「善と悪の対立」の ヴェイユはそこで、この戦争は「善と悪の対立」という隠蔽・回避としての戦争を、真の意味の「宗教戦争」に反 転させた上でそれぞれがその戦争を戦い直し、勝利せよと 「人間にとっては堪えがたい重荷」を投げ捨てようとする いうことだ。そうしないならばたとえ表面的には勝利した 者同士の争いなのだと断じている。これまでフランスはじ としても、戦後に向けて語られている麗しい理想の数々 め連合国側は「善と悪への無関心」に落ち込むことによっ そ は、意に反してことごとく空転してしまうだろう。 て、対するドイツはその「無関心」にたいする「反動」か うヴェイユは主張しているのである。 ら「偶像崇拝」に熱狂することによって、やり方は異なる もちろんヴェイユは、キリスト教を信仰する者が善で、 が「重荷」を投げ捨てようとしてきた。その点で両者はじ そうでない者が悪だと言うのではない。だが「聖なるも つは同断である。現在戦われているのは「善と悪の対立」 の」がそうであったのと同様に、善や悪についての定義は という本質的な対立を隠蔽・回避しようとする陣営同士の このテクストを読んだだけでは判然としない。。 それを度外 戦争なのだから、今のところ、けして、フランスが善でド 視するとしても、ヴェイユの主戦論が当時の状況とズレた ィッが悪なのだとは言えない。むしろ問題は、この戦争に 一種異様なものであったということははっきりしている。 は「善と悪の対立」が不在だということであり、まずはそ の事実を直視し認識した上で、自己の陣営を善の側に位置実際に占領され、生活を破壊されて打ちひしがれていた人 びと、それでもなお反骨精神を維持しながら未来について せしめなければならない。論旨はほばこのようなものだ。 思考していた渦中の人びとがこのようなことを聞かされた タイトルにはそれゆえ二つの意義が込められている。目 としたら、どう反応しただろうか。彼らが、なんとか怒り 下の争いは「善と悪の対立」という本質的な「宗教戦争」 ださずにヴェイユの言を受けとめられたとしても、では、 " からネガテイプな意味で派生したものだという理由で、 これからいったい誰にたいしてどのような心持で「反乱」 「この戦争は宗教戦争である」。ここにアイロニーがある。 と同時に、そのネガテイプな意味をポジテイプな意味に反すればよいのか、また「宗教戦争」においてはなにをもっ ( 3 )

5. 群像 2016年12月号

(lntelligence) である。『大乗仏教概論』の最終章 ( 第十三 に秘めているのだ。さらに大拙の言葉を借りる。「法身」 章「涅槃」 ) で、大拙は、理想的な人間である覚者のなか とは、「現象の限界を超越しているのに、いたるところに に、法身の「愛」と「叡知」による完成を見る。人 間に内在して輝かしく自らを顕現し、われわれがその中で生き とって、あるいは森羅万象あらゆるものにとって、救済に て活動し、自分の存在を成り立たせている、そういう実 して新生、すなわち「涅槃」を得るとは、こうした「法在」なのである。大拙は、森羅万象あらゆるものを産出す 身」にして「覚者」と一つのもの (one) であると認識する「一」なる実在、法身を、主に『華厳経』の表現を用し ることで果たされる。 て「太陽の仏」、あるいは端的に「太陽神」 (the sun ・ god) もちろんスエデンポルグと大拙、あるいは『神智と神と表現している。宇宙は、この「太陽神」たる法身の顕現 愛』と『大乗仏教概論』では、当然のことながら、両者で であり、その表現なのだ。 用いられている語彙に微妙な差異が存在する ( 大拙は、あ 大拙はいう。法身は「虚空」 ( ゼロ ) であることによっ る章では、「法身」を「叡知」と「愛」のみならず「意て、そのなかから無限の光を発する太陽のような存在であ 志」、つまりは三位一体のものとして定義している ) 。しか る。さらに『華厳経』では、「インドラの網」という比喩 しながら、大拙とスエデンポルグが、ほとんど同じ光景を を用いて、法身と法界の在り方を説いている。透明で光輝 見ていたこともまた疑い得ない。だからこそ時間と空間の く宝珠が無数に連なって織り上げられた網のようなものな 隔たりを乗り越えて、両者は共振したのである。両者の関のである、と。一つの宝珠のなかには他の無数の宝珠の姿 心の焦点は、霊界における「主」の在り方、法界における が映り込み、他の無数の宝珠のなかには一つの宝珠の姿が 法身の在り方に集約される。 映り込む。あらゆるものが光のなかで一つに融け合う。そ 『大乗仏教概論』において、「真如」とは「法身」そのも の際、小さな宝珠ほど、大きな宝珠の姿をそのなかに取り のであった。その「真如」について、大拙は、こうまとめ 込むことが可能になる。一つは無数のものであり、無数の ているーーー「真如は仏教における神性 (the Godhead) で ものは一つのものであり、大きなものは小さなものであ あり、一切の起こりうる矛盾を統合し世界の事象の方向性り、小さなものは大きなものである。ゼロにして一なる光 を自ずから指し示す最高原理」なのである。この「真如」、 の源である法身から、無数にして無限なる報身が輝き出で る。 すなわち仏教の「神」 (God ーーー大拙自身が使っている言 葉である ) である「法身」を、われわれはすべて心のなか 第二次世界大戦後、大拙はアメリカにふたたび戻り、コ ブッダ

6. 群像 2016年12月号

の濃いものではないが、アメリカ時代から晩年に至るま い共感があったこともまたきわめて明白であると思われ る。 で、大拙の諸著作の各所にスエデンポルグの名前、あるい はその思想の痕跡を追うことが可能である。このなかで 帰国した大拙は学習院の英語講師の職に就き、その上で 『天界と地獄』、『神智と神愛』および『神慮論』はきわめ まず世に問うたのが、スエデンポルグの代表作『天界と地 て大部の著作であり ( 逆に『スエデンポルグ』と『新エル 獄』の翻訳だった。それでは、一体なぜスエデンポルグ サレムとその教説』は小篇である ) 、『天界と地獄』が体験だったのか。大拙は、『スエデンポルグ』の「緒言」で三 篇、『神智と神愛』と『神慮論』が理論篇となっている。 つの理由をあげている。おそらく大拙のスエデンポルグ受 大拙による翻訳を通じて、スエデンポルグの実践と理論 容、スエデンポルグ理解は、その三点に尽きている 。 : ほば過不足なく理解できるようになっている。 『天界と地獄』を訳出し、刊行したとき、大拙はすでに四 まづ彼は天界と地獄とを遍歴して、人間死後の状態を 〇歳を迎えようとしていた。しかもその前年、大拙は十年 悉く実地に見たりと云ふが、その云ふところ如何にも真 以上に及ぶアメリカでの生活を切り上げ、ヨーロッパを経 率にして、少許も誇張せるところなく、また之を常識に 由して日本に帰国したばかりであった。その帰国の途中、 考へて見ても、大に真理に称へりと思ふところあり。是 ロンドンに立ち寄った大拙は、かの地に存在するスエデン れスエデンポルグの面白味ある第一点なり。 ポルグ協会から、スエデンポルグの諸著作の日本語訳を依 此世界には、五官にて感する外、別に心霊界なるもの 頼された ( それゆえ、スエデンポルグ神学の実践と理論が あるに似たり、而して或る一種の心理情態に入るとき 十全に紹介されたのである ) この「依頼」による翻訳 は、われらも此世界の消自 5 に接し得るが如し。此別世界 という点に、大拙とスエデンポルグの関わりの消極性、受 の消息は現世界と何等道徳上の交渉なしとするも、科学 動性を考える者たちもいるが、全集で三巻にわけて収録さ 的・哲学的には十分に興味あり。是れス氏研究の第二点 れているその翻訳の分量は、大拙の側からの積極的かっ能 動的な働きがなければ、とうてい不可能であっただろう。 スエデンポルグが神学上の所説は大に仏教に似たり。 プロプリアム また、これほど短期間に一気に翻訳がなされていることを 我を捨てて神性の動くままに進退すべきことを説く 考えれば、それ以前から、大拙のなかにスエデンポルグ神 ところ、真の救済は信と行との融和一致にあること、神 学に関する相当な知識と、スエデンポルグ神学に対する深 性は、智と愛との化現なること、而して愛は智よりも ウイズダムラブ 159 大拙

7. 群像 2016年12月号

の救い主だったのか。少なくとも、浮かれ騒ぐ男たちの傍の最後の矛盾を解く鍵は、他でもないソファイアに見出さ で、彼女がどのような表情を浮かべたのかは、一切記され れるべきだろう。「お父さまのご意志なら、それでは明日 ていない。 の朝といたします」という一一一一口葉は、単なる父への従属の宣 むしろソファイアの視点から見れば、一定期間ジョウン 言ではないはずだ。この父の命令など、ソファイアの知恵 をもってすれば、いくらでもはぐらかすことができるのだ ズの誠実を試練にさらし、彼が自分で浮気心を律する力を もつよう努力させるというもくろみが、父の介入によって から。ゆえにやはり、ここで彼女は主体的に選び取ったの 潰えたとも言えるのではないか。それまである程度の妥協である。この選択は、決して「自分自身の意志を完璧に表 はしたが、事態はほば彼女の計算どおりに進行していたの現した」ものではない。 しかし彼女は、これまで僭称者た である。強引な父の裁定でジョウンズと結婚できるのは嬉る男たちの乱脈な世界を経験し、さらに最後の最後で喜劇 しいが、結婚の形は彼女の望むものと少し変わってしまっ を笑劇に変えてしまう父のハチャメチャな乱入を目撃した 空 時 た。そんな彼女の心理は、歓喜と不安の入り混じったもの ことによって悟ったのではないか。乱脈なる世界のなかで の 名 だったのかもしれない。 幸福を獲得するには、乱脈を受容する意志が必要である 僭 と。 しかし他方で、どれほど「試験期間」を設けたところ ズ かくしてソファイアは、父ウエスタンという媒介によっ で、一抹の不安を拭いきれるものでもない。むしろ父親の ン ウ て、アクシデント的世界をそれと知りつつ受け容れること 闖入は、未完結の″今″たちが絶え間なく継起する近代小 ジ 説の時空における、″ 正統″な婚姻手続きではなかろうか。 で、諦めとともに喜びの生活へと決定的な一歩を進めるこ ム 彼の卑俗極まりない言葉は、空想的なジョウンズの長広舌とができた。根拠なき幸福という、果てしない世界のただ と理性的なソファイアの応答という予定調和的な対立に向なかへと。そしてこの一歩は、近代小説が黄金郷へと至る けて、現実原則を突きつけるものだ。父による婚姻の締結道のりのはじまりでもあった。いや、それは特定の場所、 は、まさに過剰決定である。ウエスタン氏が狩猟を好む古固定した時空ではなく、おそらく始まりも終わりもなく、 能 ソファイア き良き時代の郷士で、アナクロニズムを象徴する存在であ人間が懐疑的な知恵を放棄せず、しかもアクシデントを受の 説 ることは前に述べた。この「絶対的な過去」に属するはずけ容れる準備ができているかぎり、いまここにも出現して いるはずなのだ。かすかな苦みを伴いながら。 の存在が、「未完結の現在」を動かす現実原則となるのは、 ( 完 ) 常識では理解しがたい矛盾だと言うしかない。しかし、こ

8. 群像 2016年12月号

的な寓話特有の調和した世界がある。これに比して、『バ ー』から『トリストラム・シャンデイ』までの小説は、自 ミラ』は調和から逸脱している。この「バミラ」という名分の役割を喪失し、本質を見失った人びとの困惑と迷走 は、もともとシドニーの『アーケイディア』 ( 十六世紀後半を、個々の人物に即して描いた。この流れのなかにあっ に執筆・出版 ) に登場する楽園の王女の名で、「すべての蜂て、『トム・ジョウンズ』の作者はあえて本質のない贋物 蜜」 ( つまり「全身が甘美なもの」 ) という意味のギリシャ を本物であるかのように読み替え、さらに贋のプロットと 語から人工的に作られたものである。しかしリチャードソ贋の調和を提供することで、かなり強引に物語文学の伝統 ンの小説のヒロインは、まだ十五、六歳の小間使いであ と近代小説の世界観とを接合してみせた ( なお、本連作で いくら可愛らしいといっても「すべての蜂蜜ーとはお これまで扱った小説のうち、『トリストラム・シャンデイ』 おげさだ。そもそも『バミラ』の読者の多くはこの名前の ( 一七五九 5 六七 ) は『トム・ジョウンズ』 ( 一七四九 ) より 起源も語源も知らなかっただろう。むしろこの名前は当時後に刊行された作品であることを、念のため断っておく ) 。 空 時 のイギリスではかなり珍しかったので ( 今日では女性の名 こうした認識の転回によって彼は、決してネジ巻き時計を の 前としてよく見られるが、まさにこの小説の人気がきっか 日時計に作り直すことなく、複雑化した世界の仕掛けを動名 けとなったようだ ) 、なによりも小間使いという身分とは かし、その針の動きを読むことを試みたのだが、そろそろ ズ 不一致な、異郷的で高貴な響きにおいて読者の脳裏に刻ま その成否を実地に検証しなければなるまい ン ウ れたはずである。固定した意味から逸脱した捉えどころの ジ ない名前として、「。ハミラ」は作品世界からはみ出してし 『トム・ジョウンズ』とはいかなる作品か。正確な原タイ ム まう。文学作品をひとつの調和した世界の表現として捉え トルは、 The H ~ 0 、ミ Jo ミゝ F きミ in であり、 るならば、確かにこの名前をもっ女性は異物であり、根拠逐語訳を試みるなら『みなしごトム・ジョウンズの伝記物 のないまがい物といえる。 語』となるだろう。主人公トム・ジョウンズは、河原和音 しかし十八世紀の文学が直面した課題は、まさに不調和 とアルコによる漫画『俺物語 " 【』の剛田猛男から性的な潔 機 を抱えたまま浮沈を繰り返して発展する社会の実相を描く 癖さを差し引いたような青年で、男気と正義感には溢れて の ことにあった。個々の人間が自分に割り当てられた役割を いるが、直情径行ゆえに誤解を受けやすく、こと女性に関 演じることで全体の調和が取れるような社会など、もはや して脇が甘い。生まれながらのみなしごの彼は、田舎地主 おとぎ話にしかならない。ゆえに『ロビンソン・クルーソ であるトーマス・オールワージ氏の寝室に置き去りにされ

9. 群像 2016年12月号

■を・・を第■・る。戦後の日本人 ( の大半 ) は「平和主義されてはいるが、そこまでの論の展開で、 であることが正義の絶対的な必要条件だと当初の疑問はほとんど解明されてはいない 思っているから、ヴェイユの転向がどのよので、この結末自体がかえって唐突な印象 うな論理に裏打ちされているのかを知りたを与えてしまう。途中に、キリストが ( 他 幸 くなるだろう。しかも、ヴェイユは、戦争者の眼を通して ) 「不幸」を見るとか、人 吉一を「宗教戦争」として受け取らなくてはなは憤激しつつ恥じ入ることがあるとか、い らない、などと一見まったく時代錯誤的なくつかの興味深い論点の提示があるが、そ 澤 大ことを述べている。どういうことなのだろれらの間の有機的な関連づけを通じて、冒 うか ? この疑問は、しかし、この評論を頭の疑問が解けるようには書かれていな 読んでも、ほとんど解けない。 この論考 すると、結局、ほんとうは、冒頭に記 この賞が新人文学賞から独立して二回目は、疑問を提起した後、自己と他者とのされた問い自体が、きちんと対自化されて にあたる今年も、残念なことに、新人評論「あいだ」、がどうしたとか、「不幸」がどうはいなかったのかもしれない、 とい , っ疑し 賞と認めうる作品には出会わなかった。真だとか、「キリスト」による奇蹟的な介入が残ってしまう。せつかく興味深い問いを に読むに値する評論を書くことは、こ、 オしへがどうであるとか、一般的で抽象的な問題提起しているのに、この問いをめぐる探究 ん難しいらしい ということをあらためてへと議論の方向を変え、ほとんどそのままに、 著者が全然執着していないからだ。 思わざるをえない。以下に、優秀作の二本行ったきりの状態になってしまうからだ。大江健三郎の小説の主人公、大江自身と を含む、最終選考に残った四作について、もちろん、ヴェイユの主戦論は、情勢判断重ね合わされている「長江古義人」は「徴 選評を記しておく。 のようなものから来るものではなく、人間候コギト」であると見て、彼の小説は、デ 川口好美の「不幸と共存ーーシモーヌ・ の存在の普遍的な条件についての彼女の洞カルトばりの「方法序説」に向かってい しかし、る、とするのが宮澤隆義の「新たな「方法 ヴェイユ試論」を優秀作としたのは、冒頭察に根をもっているに違いない。 の問題設定に興味深いものがあったからでそうした洞察と、戦争についての不可解な序説」へーーー大江健三郎をめぐって」であ ある。ヴェイユは、ナチス・ドイツとの戦論評との間にどのようなつながりがあったる。デカルトから大江へと渡されたバトン 争に関して、最初は徹底した平和主義的非のか、この評論が、この点を明晰に示してを、さらに受け取ろうという、全編にみな 、ドぎる野心のようなものが、この評論を優秀 戦論の立場をとっていたのに、戦中に突然いるとは言えない。結末で、もう一度丿 手のひらを返したように、主戦論に転ず戦論から主戦論への移動ということが一一一一口及作に値するものにしている。だが、新人賞 、一三ロ 110

10. 群像 2016年12月号

れは、彼女が「不幸」にまつわる関係を基本的には存在論する者を前にして赤面しながら、その「恥ずかしさ」に耐 的なレベルで思考しながら、時には日常的なレベルでも思 え、とどまることの困難さなのである。 考しているためだ。だがわれわれはアガンペンの論との相 隣人愛はほとんど不可能だという言葉や、あるいは「実 同性を貫くために少々危険を冒し、存在論的なレベルのみ在の衝撃」という一一一一口葉は、ここから理解されるべきなのだ に重心を置きたいと思う。そこから見れば、非対称的な関ろう。思い切って断言したい、「実在の衝撃」とは、「不 係を保つことにかんして責任があり、ほんとうにそれが求幸」を見る主体が曝されることになるはげしい恥辱を指し められ、かっ困難なのは、「不幸」を見る者 / 告知される 示しているのだ、と。「実在の衝撃」に総身で曝されて、 " 者の方である。 躓かないことなどまずありえないだろう。だが、躓けるだ 奇蹟的に他の主体の内部に「不幸」を見出した ( 見出し けでも十分、文字どおりに有難いではないか。ヴェイユは てしまった ) 主体は、恥じ入り、そして受け入れがたい事そう言いたかったはずだ。その上なんとか「不幸」との非 実を自分に告げ知らせた主体ーー「不幸」な者ーーーを、嫌対称的な関係を持ちこたえ、それを暴力的に断ち切らずに 悪せずにはいられない。主体にとって、自身の内奥の秘密済んだとすれば、ほんとうの奇蹟だ。人間の意志やカ能を を他の主体からーーー受動的かつ「不快」な主体からーーー認超えたなんらかの力による支えなしでは、そのような奇蹟 知させられることほど不条理なことはないからだ。これを は起こりえない。力が具体的にどのようなもので、どこか つぎのように表現することもできるだろう。主体の本源的ら到来するのか、わからなかっただろう。しかし、それで かっ内在的な非対称性 7 主体は「引き受けることのでき も晩年のヴェイユは、そのような力の存在を信じ、キリス ないもの」に「引き渡される」ことによって主体である ) トと呼び、それに賭けようとしたのだ。 が、外部における非対称的関係 ( Ⅱ「不幸」な主体との関 係 ) に置き換えられて主体に突きつけられる、と。主体は 九分九厘、「不幸」とのこの非対称的な関係に躓き、恥じ、 嫌悪し、憤激するはずだ。そうして、自分にそれを告知し 徹底した非戦論から主戦論へ、という不可解な移動をふ た他の主体を否認し、見なかったことにしてしまうか、そ たたび取り上げたい。極端に言えば、ヴェイユは暴力を肯 れとも、暴力的な衝動に駆られて関係を断ち切ってしまう定している。だがいったい誰にたいするどのような暴力に はずだ。したがって、非対称的な関係を保つことの困難さ ついて語っているのか、そこにわかりづらさがあった。 とは、「不幸」を見る者 / 告知される者が、「不幸」 / 告知 おそらくヴェイユが肯定しようとしていたのは、存在論 不幸と共存ーーーシモーヌ・ヴェイユ試論