〈世界史〉の哲学大澤真幸 2 の / の命 ク命外革 屮革神 が治ス精 ロ プ ある。「アメリカにあってアメリカ以上のもの」「アメリカ ニつの「フィガロ」 はアメリカによって超えられる」等の表現も用いられてい る。それゆえ、この書物は優れたアメリカ社会論でもある アレクシ・ド・トクヴィルは、名著の誉れ高い『アメリ のだが、トクヴィルは、常に、対照項を念頭においてアメ 力のデモクラシー』で、こう書いている。「アメリカは、 リカ社会の特徴を浮かび上がらせている。対照項とは、も 世界中で最も頻繁に結社 (association) が引っ張り出され ちろん、トクヴィルが所属していたフランス社会、一九世 る国であり、人々はこの強力な行動手段をきわめて多様な 紀前半のフランス社会である。 目的のために応用している」。『アメリカのデモクラシー』 この連載でも、アメリカ社会をいずれ考察の俎上に載せ は、アメリカ社会の観察を媒介にしてデモクラシーの理想 をー・・ー言い換えれば平等社会の理想をーー描こうとした書る。が、われわれの目下の関心の中心は、トクヴィルが暗 物である。トクヴィルは、アメリカ社会を完璧なデモクラ黙のうちに参照しているフランス社会の方にある。トク ヴィルは、一八〇五年に生まれた。この時代に、つまりフ カ彼が、デモクラ シーと同一視しているわけではない。。 : ランス革命が終結してから四半世紀の間に、ヨーロッパに シーの理想をアメリカ性の延長上に見ていることは確かで 連載評論翫 247 く世界史〉の哲学
時代の精神と共振しているのである。 とは違い、 柔軟に、多様な目的のために結社が形成されて すると次のような順序を得ることができる。フランス革はいなかった。このことをトクヴィルの言明は逆に示して 命からしばらく ( およそ四半世紀 ) 、革命の記憶を抑圧し いる。だから、彼は、アメリカの結社の多様性や自由度 ようとする時代があった。トクヴィルやマルクスのよう を、羨望の思いをこめて、紹介しているのである。 に、まさにその時代に生まれ、青春までを生きた世代は、 だが、われわれはここで、いささか奇異なことに気づ 革命に間に合わなかったことに、そして時代が革命の刻印 く。普通は、このような憧れのまなざしを向けるのは、相 を消そうとしたことに、 ( 無意識のうちに ) 後ろめたさを手の方が進んでいる、と思っているからだ。自分たちが果 感じたのではあるまいか。彼らは、成人してからの知的活たそうとしながら成功していないことを、相手はすでにな 動や政治的実践によって、それを克服し、取り返そうとし しとげている、と。つまり、称賛の対象となっている他者 たのだ。およそこのように時代の流れを描くことができる に、自分たちの夢の現実化した姿を見ているのだ。『アメ のではないか。 リカのデモクラシー』も、全体的な論調は、まさにそうし た枠組みに当てはまる。率直に言えば、トクヴィルは、フ 2 結社の繁栄と弾圧 ランスが革命まで起こしながら完遂できていないことを、 さて、少し回り道を通ったが、われわれがここで論じて アメリカは、革命を経ることなくおおむね実現している、 おきたいのは、トクヴィルだ。彼は、一八三一年から三二 と見ているのである。その意味で、トクヴィルの視点に 年にかけて、九カ月にわたってアメリカを視察した。友人は、アメリカは、フランス革命がもたらさねばならなかっ のポーモンとともに、である。このときの衝撃をもとに書た しかしできなかったーーー社会的な状態と ( 完全では かれたのが『アメリカのデモクラシー』である。冒頭に引 ないとしてもおおむね ) 一致するものと見えていることに いた言葉が入っている第一巻が出版されたのは、一八三五 なる。アメリカがほば実現しながら、フランスが革命を経学 哲 年。トクヴィルは、アメリカの結社に驚いている。その数ても獲得できなかったこととは何か。「諸条件の平等」で の の多さに圧倒され、アメリカ人が臨機応変にどんなときに ある。フランスには未だにアリストクラシーが残っている 史 界 でもそれを活用することに感心しているのだ。トクヴィル が、アメリカはすでにデモクラシーの社会である、という 世 がアメリカの結社に驚愕したのは、フランスには、そのよ わけだ。だが、しかし、「結社」に関しては、このような うな結社は稀だったからである。フランスでは、アメリカ構図は成り立たない。
トクヴィレが、 ノアメリカの結社を高く評価していたこと しがる必要はあるまい は間違いない。第一巻の五年後 ( 一九四〇年 ) に出版され それとも、トクヴィルは、フランス革命の遂行者たちと た、『アメリカのデモクラシー』第二巻では、トクヴィル は異なる意見をもっていて、結社や中間集団に好意的だっ の、結社への評価や賛意はますます大きくなっている。そ たのか。ル・シャプリエ法は悪法で、結社の創出をむしろ れならば、フランス革命は、結社的なものが広く普及し、 後押しすべきだった、と彼は考えていたのか。そうではな 活用されるような社会を目指していたのか。そのような社 いらしい。彼は、この点について、フランス革命の中心的 会をめざしながら、フランス革命は挫折したのか。そうで な担い手と同意見だったに違いない。フランス革命のとき はない。まったく逆なのだ。むしろ、フランス革命は、結 には彼はまだ生まれてもいないのに、どうしてそんなふう 社的なものを、さまざまな団体を形成する自由を抑制しょ に結論することができるのか。一八四八年の一一月革命のと うとしていた。革命の最中にあたる一七九一年に成立した きの、トクヴィルの一一 = ロ動からそのことがわかるのだ。二月 ル・シャプリエ法は、結社の自由を厳しく制限するもの革命の後、トクヴィルは憲法制定委員に選ばれ、それ以降 だった。この法によって、ギルドのような同業団体をはじ も議員であり続けた。失業対策のために設立された国立作 めとする都市のさまざまな団体が禁止され、あるいは労働業場が、たった四カ月で廃止されると発表されるや、労働 者の団結権が否定された。要するに、フランス革命は、国者たちが暴動を起こした ( 六月蜂起 ) 。当時、「秩序党」の 家と個人の中間にある集団を一般的に敵視したのである。 一員だったトクヴィルは、この暴動に対して、「自由を救 ここに、ルソーの思想の影響を見るのが、通説である。ル 出するための唯一の手段は自由の抑圧だ」などと主張し、 ソーは、社会的紐帯を個人と社会の両極に分解した上で、 新聞の自由を制限したり、クラブを禁止したり、戒厳状態 両者の統合を説いている ( と解釈された ) からである。 を正規化したりする法案を、仲間とともに提案している。 ずれにせよ、フランス革命が、積極的に結社的なものを排要するに、トクヴィルは、フランス革命の推進者たちと同 除しようとしていたことを思えば、トクヴィルがアメリカ じことを二月革命でなそうとしたのだ。 の結社に羨望のまなざしを向けるのは、筋違いではないだ トクヴィル自身も、結社を制限しようとした。これは、 ろうか。確かに、大革命の前で比べても、フランスでは、 アメリカの結社を称賛した態度とは矛盾するのではない アメリカほどには士旧社はなかっただろう。しかし、フラン か。実際、アメリカの政治理論家シェルドン・ウォーリン スは、革命を通じて、結社的なものをわざわざ減らしたの は、この点を厳しく指摘している。ウォーリンは、基本的 だ。それならば、結社の数や質に関して、アメリカを羨ま には、トクヴィルに非常に好意的な専門家である。それだ
けにかえって、彼は、二月革命のときのトクヴィルの判断 トクヴィルと正確に同じことに、アメリカ社会のまったく は間違っていた、と批判するのだ。 同じ側面に、ヴェーバ ーも強く印象づけられている、とい うことだ。すなわち、ヴェーバ ーも、アメリカ人の結社活 3 西洋の中の「近代 / 前近代」 動がきわめて旺盛であることに《驚嘆しているのである。 ここで、トクヴィルの思想そのものに深入りするつもり トクヴィルが述べたことが、彼の偏見や恣意的な感想では はない。ただ、注目しておきたいことは、フランスとアメ なかったということが、これでわかる。 リカの間で生じている視差である。たとえば、結社を臨機 その上で、ヴェーバ ーの最も重要な洞察は、アメリカの ゼクテ 応変に活用することを可能にする社会的なメカニズムは、 結社はプロテスタントの教派を原型としている、という占 フランスの側からも、アメリカの側からも、近代性の条件 にある。ヴェーバーはまず、それぞれの個人について、キ の一つとして見えている。しかし、そのようなメカニズム リスト教のどの教派に属しているのかということが、彼ま は、フランス側では直接に実現することはできない。むし たは彼女の社会的信用に影響を与えた、と指摘している。 ろ、フランス社会では、類似のメカニズムは徹底して否定さらに、アメリカでは、宗教に関係しないさまざまな結 される必要があると見なされる。どうしてこのような違い 社、つまりクラブや何らかの目的をもった団体は、すべて が出るのか。 プロテスタントの教派の世俗化された形態ではないか。 マックス・ヴェーヾ ノーが論じていることがヒントにな ヴェーバーはここまで示唆している。 ゼクテ キルヒ工 る。トクヴィルの旅行のおよそ七十年後に、ヴェーバー 「教派」には、ヴェーバーは「教会」を対置している。 アメリカを旅行した。ヴェーヾ ノーが渡米したのは、二〇世「教会 / 教派」の二分法は、「アンシュタルト / フェライ 紀の初頭、一九〇四年のことである。それは、あの名高い ン」という集団類型の特権的で至高の実例である。アン 論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の シュタルトは、一定の属性 ( たとえば出生や居住地 ) を備 執筆の最中だった。厳密に一言えば、この論文の前半を書き えた者を強制的・自動的に加入させる集団である。フェラ 学 終えた後、そして後半を発表する前に、ヴェーバーはアメ インは、任意加入の団体、つまり意図的な協定によって結の リカの各地を訪問した。このときの経験は、論文の後半に成された団体だ。カトリックは、教会 ( アンシュタルト ) 史 界 反映していると思われる。また彼は、この旅行のことを、 の構成をとっている。プロテスタントは、教派 ( フェライ 世 「プロテスタンティズムの教派と資本主義の精神」という ン ) と親和性が高い。どうして、プロテスタントは教派を ェッセイにも書いている。まず、われわれが驚くことは、 好むのか、なぜプロテスタントの教派は、他に類を見ない
に拠って立つ国々だ。 しまっている。 フランス革命は、カトリックに抗するかたちで生起し、 引用文の冒頭の言葉からも分かるように、ショーニュが進行した。カトリック教会こそ、革命の最大の敵である。 こう書いているのは、一九八〇年代の初頭である。 - 現在の フランス革命は王権を打倒し、共和政を実現した、と言わ はまだ存在せず、また冷戦も終結してはいないが、こ れる。しかし、王と王権は、カトリック教会に比べれば、 こで述べていることは、今でも完全に成り立つ。つまり、 革命にとって大きな敵ではなかった。革命の最中に、王 二〇一六年の地図は、一五六〇年の地図と、ショーニュが が、つまりルイ十六世が殺される。だが、革命がはじめか 述べているような意味でーー「はとんどびたりと重ね合せ ら王殺しを目指していたわけではない。最初に蜂起した者 ることができる」。 たちは、やがて王を殺すことになるとは思っていなかった このように西洋の西洋性、西洋の近代性をほば独占的に はずだ。ルイ十六世の処遇を決定する裁判でも、半数近く 担ったのは、プロテスタンティズムの方である。たとえ が死刑に反対だった。それに対して、カトリック教会は、 ば、資本主義の世界システムにおいて、これまで覇権国に最初から最後まで、革命の主要な闘争目標であり続けた。 なったのはすべて、プロテスタント系の国だった。オラン フランス革命と、他のいわゆる市民革命とを比べたと ダ、イギリス、アメリカと。 き、キリスト教の役割が正確に逆になっていることに、誰 たが、このような図式に収まらない大きな例外がフラン もがすぐに気づくはずだ。イギリス革命 ( ピューリタン革 ス、とりわけフランス革命である。フランス革命が近代へ命と名誉革命 ) やアメリカの独立革命においては、キリス の転換の最も重要なメルクマールのひとつであることは、 ト教は革命の味方である。キリスト教こそが、人々を革命 疑いようがない。 しかも、繰り返し強調してきたように、 に駆り立てたと言ってよい。しかし、フランス革命では、 フランス革命は、全ヨーロッパ的に体験された。つまり、 今述べたように、キリスト教は最大の反革命勢力である。 ヨーロッパ中の知識人が、それを注視しつつ我がことのよ 同じキリスト教でも、前者と後者では種類が違う。イギリ うに共感し、興奮したのである。フランス革命は、これほ スやアメリカで革命を推進したのは、プロテスタンティズ ど西洋的な近代性ということに深く結びついた現象ではあ ム、しかも純粋でラディカルなプロテスタンティズムであ るが、プロテスタンティズムではなくカトリックが圧倒的る。フランス革命において、革命の攻撃対象になったの に優勢な国で起きたのだ。どうしてであろうか。ここで は、カトリックだ。 は、プロテスタンティズムと近代性との結びつきが崩れて いずれにせよ、近代性を集約するような出来事が、カト 253 く世界史〉の哲学
のである。十分に徹底した宗教改革を経験していれば、革革命自体がなかったのだ。いや、そこまで言ったら、言い 命がもたらした社会的現実を受け入れる精神的な素地が準過ぎかもしれない。少なくとも、ドイツがフランス革命に 備されていたはずだ、と。革命が強迫的な暴力へと転じた匹敵する政治的な改革を実現するのは、ずっと後のことで のは、宗教改革が用意してくれたにちがいない精神的な実ある。たとえば、小さな領邦に分裂していたドイツが、中 体が、フランスにはなかったからだ、というわけである 央集権的な近代国家として統一されるのは、一九世紀も後 これは、広く分け持たれている標準的な理解であり、たと半に入ってからである。「ドイツでは宗教改革が根付いて えば、今回われわれが考察の俎上に載せたトクヴィルに いたから、革命が速やかに進行した」とはとうてい言えな も、同じような問題意識がある。アメリカを見れば、あん い状況だ。 なひどい暴力的な革命を経なくても、しかるべきもの ( デ モクラシー ) を得ることができたのではないか、と。 だが、ドイツは後進国で、当面革命とは無縁だった、と だが、この標準的な見解の妥当性を検証する素材とし事態を記述したとすると、ここからは、明らかに、別の真 て、アメリカは適切ではない。 ヨーロッパの伝統的な共同実が溢れおちる。確力。 、こ、ドイツには、現実的で政治的な 体との結びつきを保証していた根を絶っことが、すでに、 革命はなかった ( あるいは著しく遅れた ) 。しかし、別の 一種の「暴力」になってしまっているからだ。アメリカに 観点から捉えれば、ドイツにもそれに匹敵した革命が、し 渡ったピューリタンたちは、暴力をへずに革命的な成果だ かもフランス革命とほば同時期に いやフランス革命に けを得たのではなく、彼らの新大陸への移住自体がすでに わずかに先立ってーーあったからだ。それは、精神的革命 暴力だったのである。検証のための素材は、フランスの とも呼ぶべきものである。われわれは、今回の考察の最初 もっとすぐ近くにある。ドイツである。ドイツこそ、宗教の節で、モーツアルトのオペラを一瞥した。それは、フラ 改革の故郷、宗教改革がそこから発生した場所である。ド ンス革命に先立っ作品なのに、革命的なメッセージをすで ィッとフランスとを比較してみれば、広く信じられている に宿している、と。モーツアルトという現象が、フランス 見解が成り立つかどうかを知ることができる。 の政治的革命に匹敵する、ドイツの精神的革命の一部だっ ドイツとの対比が含意する結論は、はっきりしている。 たからだ。そして、ドイツの精神的革命の精華は、他でも 標準的な説は成り立たない。ドイツでは、宗教改革の成果ない、カントを中心におくドイツ観念論の哲学である。 が広く深く浸透していたから、暴力を含まない穏やかな革 カントがフランス革命にいかに興奮したかということ 命が実現しただろうか。そうはならなかった。ドイツでは は、すでに繰り返し述べてきたことだ。フランス革命は、 255 く世界史〉の哲学
クハルトに変わるが、神秘主義による仏教とキリスト教の貫して、大拙の思想と、ヨーロッパに生まれアメリカで発 オカルト 比較対象という観点は、大拙の名前を冠した初めての書展した近代的な秘教思想との関連について調査を進めてき 物、ポール・ケーラスの『仏陀の福音』の翻訳 ( 一八九五 た例外的な研究者である。何度かの増補改訂を経て、最新 年 ) から晩年に英語でまとめられた著作、『神秘主義キ の知見を盛り込んだ「大拙とスウェーデンポルグ」が、鈴 リスト教と仏教』 ( 一九五七年 ) まで一貫するものである。 木大拙著『スエデンポルグ』 ( 講談社文芸文庫、二〇一六年 ) 一一一一口葉にすることができない「神秘」の体験を通して、人間 の巻末に参考資料として収録されている。 から超越する「神」 ( あるいは「仏」 ) と人間に内在する 吉永の調査によれば、『天界と地獄』の翻訳刊行以前に、 「心」が一体化する、つまりは「合一」するのである。神大拙とスエデンポルグ思想の接点は三回あったという。第 人合一にして即身成仏の理論である ( 大拙の『大乗仏教概 一回目は、大拙の渡米以前である。大乗非仏説ーー大乗仏 論』は、ヨーロッパの文献学的仏教学者から、あまりにも典は明らかに仏教の始祖ゴータマ・シッダルタ没後相当の ブッダ 密教的な理解である点が批判されていた ) 。もちろん、大月日が経ってから編纂されたものであり、歴史的な覚者 拙は「神秘」に溺れきっていたわけではない。「神秘」は、 シッダルタが直接説いたものではない ( 非仏説 ) 、つまり なによりも実践を通してしか顕現しない。 しかも、定義 は覚者の真意を正確に伝えることのない後代の偽書である 上、言語化を拒絶する「神秘」の体験を、大拙は、なんと に揺れた明治の仏教界で、逆に、そうした大乗仏典で か言語化しようとしていた。大拙は「科学」を最後まで捨あればこその価値を探る僧侶たちや研究者たちの試みが幅 てなかった。大拙にとって、神秘と科学は両立するもの広く、かっ切実に、行われていた。そのなかで、密教的な だった ( それこそ、大拙が、プラグマティズムの哲学が勃即身成仏を基礎づける「如来蔵」思想とスエデンポルグ神 興するアメリカで得た最大の教訓であったはずだ ) 。 学の比較対照は、いわば当時の流行ですらあった ( 状況は それでは、神秘と科学、大乗仏教の如来蔵思想とスエデ新大陸アメリカでも変わらなかった ) 。 ンポルグの霊界思想等々、通常では相容れることない二つ 大拙は、そうした環境のなかで、近代的な仏教研究を志 の教えが、大拙のなかで一つに結び合わされたのは一体、 したのである。ただし、渡米以前に大拙が「如来蔵」思想 「何時」のことだったのか。 とスエデンポルグ神学の共通点を論じた諸論考を読んでい 吉永進一は、多くの研究者が「大拙とスエデンポルグ」 た直接の証拠は存在しないのであるが : : : 。大拙とスエデ や「大拙と神智学」という問題系から目を背けるなか、一 ンポルグ思想の第二回目の接点にして、確実にその痕跡を 161 大拙
重々しさでつづいた。 「あのね、市川が膵臓ガンで、手術しなきゃならないの」 「わかった ! すぐ送るから」 「 : : : どうも : : : 」 「それで、あなたは大丈夫なの ? 無理しないでね。誰か、 手伝ってくれる人はいるの ? 」 「市川のお友だちや仕事関係の人も、みんな男ばかりだから」 声の調子が少し明るくなったので、また長電話になること を恐れ、私はそそくさと電話を切った。その後、すぐニュー ヨークで弁護士をしている孫娘に電話をして、アメリカでガ ンの手術をすれば、どれくらい病院の費用はかかるかと訊い た。アメリカは日本より病院の費用はとんでもなくばか高い からと、彼女はてきばきおおよその金額を告げた。 電話を切るなり、私は教えられた金額の二倍を送金した。 こういうことは三年ほど前にも一度あった。その時は税金が 払えないからということだった。次の日、受け取ったという それがいつも 電話はあったが、くどくど礼などは言わない。 ) の河野流なので、私もけろりとして気にもしない。 術後の経過も何も知らせてはこない。報せのないのは無事 の証拠だろうと、私もそれつきり電話をしなかった。 身寄りもないニューヨークで言葉も充分ではないのに、ど んなに心細いことだろうと思いやったが、多惠子の声の暗さ に、用件以外の話はしたくないという感じを受けたので、そ れつきりにしこ。 三月ほど経って河野多惠子の電話がきた。 「 : : : わたし : : : 」 「あっ、どうだった、市川さん大丈夫 ? 」 「ありがとう・ : : ・色々 : : : どうも : ・・ : 今、わたし東京なの」 「あ、賞の件 ? 「そうなの、今朝着いて、今日選考会で、明後日発つの、だ から京都まで行けなくて」 ごめんなさいという一一一一口葉ははぶいていても、気持が通じる のが、長い友情の賜なのだろう。市川さんの術後の経過はよ く、もう退院して、絵を描きはじめているという。 「市川がくれぐれもよろしくって」 二、三、出版社の編集者と会うことになっ 選考会の前に、 ているからと、この日の電話も短かかった。私の笑い声を聞 前号までのあらすじ 二〇一四年秋、私は約半年の入院生活を終えて退院した。入院中の ガンの手術を思いながら、宇野千代、江國滋らのこと、寂庵を建てた 頃に世話になった人たちのことが胸を去来する。久しぶりに庵の風呂 に入り、心地よさの中で岡本太郎の秘書・とし子のことを思い浮かべ たのも束の間、風呂から出た途端激痛に見舞われ、改めて死を意識し た。人相が変わるほど痩せて人と会う気もなくなった日々の中で、ふ と河野多惠子のことが気にかかった。多惠子のことを思い出しなが ら、彼女が強く意識していた大庭みな子のことも鮮やかに浮かび上が る。 いのち 195
混沌三 電話狂の河野多惠子から全く電話のかからなかったのは、 夫の市川さんの後を追ってアメリカへ出かけていた間だっ た。その間も数種の文学賞の選者を引き受けていた為、年に 数回は日本に帰っていたが、選評会に出るだけで、すぐとん ば返りでニューヨークへ引き返すので、私に電話など寄こす ことはなかった。いや、たしか二度あった。 連載小説 いのち 〔第八回〕 それは二度とも突然ニューヨークからかかってきた電話 、、 ? ) っこ 0 「 : : : わたし : : : 」 低い押えこんだようなその声を聞いただけで、河野多惠子 だとわかった。 「どうしたの ? 今、東京 ? 」 「ううん、一一ユーヨーク : : : 」 「まあ珍し、、 しこちらからかけ直しましょ , つか ? 」 長電話の電話料金のかさむことを案じて言うと、 「ううん、このままで。短く一一 = ロうから」 押えようともしない私の笑い声に、、 しつものように笑い返 しもしないで、 重い多惠子の声が咽喉から押し出すような 194
の濃いものではないが、アメリカ時代から晩年に至るま い共感があったこともまたきわめて明白であると思われ る。 で、大拙の諸著作の各所にスエデンポルグの名前、あるい はその思想の痕跡を追うことが可能である。このなかで 帰国した大拙は学習院の英語講師の職に就き、その上で 『天界と地獄』、『神智と神愛』および『神慮論』はきわめ まず世に問うたのが、スエデンポルグの代表作『天界と地 て大部の著作であり ( 逆に『スエデンポルグ』と『新エル 獄』の翻訳だった。それでは、一体なぜスエデンポルグ サレムとその教説』は小篇である ) 、『天界と地獄』が体験だったのか。大拙は、『スエデンポルグ』の「緒言」で三 篇、『神智と神愛』と『神慮論』が理論篇となっている。 つの理由をあげている。おそらく大拙のスエデンポルグ受 大拙による翻訳を通じて、スエデンポルグの実践と理論 容、スエデンポルグ理解は、その三点に尽きている 。 : ほば過不足なく理解できるようになっている。 『天界と地獄』を訳出し、刊行したとき、大拙はすでに四 まづ彼は天界と地獄とを遍歴して、人間死後の状態を 〇歳を迎えようとしていた。しかもその前年、大拙は十年 悉く実地に見たりと云ふが、その云ふところ如何にも真 以上に及ぶアメリカでの生活を切り上げ、ヨーロッパを経 率にして、少許も誇張せるところなく、また之を常識に 由して日本に帰国したばかりであった。その帰国の途中、 考へて見ても、大に真理に称へりと思ふところあり。是 ロンドンに立ち寄った大拙は、かの地に存在するスエデン れスエデンポルグの面白味ある第一点なり。 ポルグ協会から、スエデンポルグの諸著作の日本語訳を依 此世界には、五官にて感する外、別に心霊界なるもの 頼された ( それゆえ、スエデンポルグ神学の実践と理論が あるに似たり、而して或る一種の心理情態に入るとき 十全に紹介されたのである ) この「依頼」による翻訳 は、われらも此世界の消自 5 に接し得るが如し。此別世界 という点に、大拙とスエデンポルグの関わりの消極性、受 の消息は現世界と何等道徳上の交渉なしとするも、科学 動性を考える者たちもいるが、全集で三巻にわけて収録さ 的・哲学的には十分に興味あり。是れス氏研究の第二点 れているその翻訳の分量は、大拙の側からの積極的かっ能 動的な働きがなければ、とうてい不可能であっただろう。 スエデンポルグが神学上の所説は大に仏教に似たり。 プロプリアム また、これほど短期間に一気に翻訳がなされていることを 我を捨てて神性の動くままに進退すべきことを説く 考えれば、それ以前から、大拙のなかにスエデンポルグ神 ところ、真の救済は信と行との融和一致にあること、神 学に関する相当な知識と、スエデンポルグ神学に対する深 性は、智と愛との化現なること、而して愛は智よりも ウイズダムラブ 159 大拙