必要 - みる会図書館


検索対象: 群像 2016年12月号
112件見つかりました。

1. 群像 2016年12月号

で独立した一つの文なのだということである。裏返せば、 調の意味を持たせる場合などを除いて主語の人称代名詞を この「お、し、 ししー ! 」には、英語では必要な「一 ( 」とコ s 」使わない 9 「ダミー主語」と呼ばれるものがある。「一 ( オ が最初から含まれているのである。コ ( 」は要らない。何 ho (. 」や「一 ( is ten 0- clock. 」といった文中の「一 ( 」のこと 故なら「主語」自体が不要であるからだ。またコ s 」すな で、「それ自身は意味がないのに、文を成立させることを わち「 Be 動詞」も日本語では必須ではない。何故なら唯一の目的として使われる言葉のことである」。つまり 「おしししー ! 」という形容詞だけですでに述語になって 「主語」という存在は、言語の別を問わず「文法」の成立 いるからである。「ここでまた強調しておきたいのは、中と深くかかわっているのである。シェイクスピアはダミー 国語や朝鮮語の形容詞もまた日本語と同じくそのままで述主語のない無主語文を書いていた。だが、その後、まず 語になれるという事実だ。つまり Be 動詞のような繋辞「英文法」が「主語」を必須の要件としてゆくプロセスが (copula) がいらない」。これも裏返すなら、日本語の形容あり、次いでそれが本来「主語」を必要としなかった「日 詞には、ある種の使用状況においては「繋辞」の機能が装本語」にも強引に適用された結果、多くの矛盾や齟齬を生 填されているということになるだろう。 み出すことになったというわけである。金谷は、あくまで 金谷は、マルチネの論を敷衍して、英仏語などの「主語 も「英語」中心に文法や構文を思考しようとする姿勢を の条件」を、以下の四つに整理する。 「英語セントリック」 ( エゴセントリックの駄洒落 ) と呼ん で揶揄してみせる。 ( あ ) 基本文に不可欠の要素である。 このように金谷は「主語無要論」を展開するのだが、彼 ( い ) 語順的には、ほとんどの場合、文頭に現れる。 が立論にあたって前提としたのが、三上章による「主語抹 ( う ) 動詞に人称変化 ( つまり活用 ) を起こさせる。 殺論」である ( 金谷は三上の評伝『主語を抹殺した男』も 著している ) 。『日本語に主語はいらない』でも、金谷は、 ( え ) 一定の格 ( 主格 ) をもって現れる。 ( 同 ) 三上の『象は鼻が長い』を参照している。ここからは金谷 論 このように見ると、英仏語には「主語」という概念が必 の記述を通して三上の主張をかいつまんで述べてみよう。 説 須であることがわかる。だが金谷によれば、実は英仏語で 三上章の構文論の特徴は、その主著である『象は鼻が長 さえ、「主語」が出現したのは十二世紀頃のことであり、 い』の奇妙な題名に端的に示されている。三上が着目する 新 それ以前には主語Ⅱ人称代名詞は、ほとんど使用されてい のは、日本語における「は」と「が」の違いである。 なかったと言う。現在もイタリア語やスペイン語では、強

2. 群像 2016年12月号

はひとしく疑いを抱いています」と書く彼女は、啓蒙の伝 への攻撃は、むしろ「安全保障」のための警察国家化を強 統のなかで文学をとらえているのに対して、大江は必ずし 化し、戦争状態を激化させてゆく。絶えざる不安定化、現 もそうではないように見える。 代までこのような感覚が世界中を覆っていることは間違い あせらずに進まなければならない。 ここでの武力介入と ないだろう。あらゆるシステムは不安定性をその内にはら 知をめぐる大江とソンタグの対立は興味深いものだ。コソ み、むしろその不安定性を糧にしているように見える。そ ・ヴォへの空爆を支持したソンタグは、 Z<+O の軍事行動 こでは危機が常態化し、それを資本の運動において再コー : セルビアによるジェノサイドを止めるためにはやむを得 ド化し続けることを永久に繰り返そうとする状態が、世界 ない行為であり、必要な暴力であったと主張する。もしも 中に出現している。この「闘争領域の拡大」を作り出し、 この介入がなければ「ポスニアの人びとがセルビアとクロ かっそれを資本の領域に再び組み入れる運動、この営為こ アチアの侵略者の攻撃にさらされていた」ことを傍観して そがまさしく現代における「統治」、ガバナンスの問題と いた「無為」が、人々を見殺しにしてしまったことを主張なっている。 していた。 様々な分野で破綻をきたしている近代の制度の欠陥と綻 現在ではソンタグが主張した、国際的な「人道的介入」 び、その綻び自体をいかにしてキャピタライズしてゆくか の理由となった強制収容所や「民族浄化」の存在は、介入 に現代の統治の問題は賭けられている。このような形での を煽るために誇大かっ偏った形で流布されたものだったこ 絶えざる危機の生産と、資本への再コード化が登場したこ とが判明している ( 柴宜弘『ューゴスラヴィア現代史』 ) 。私 とに対しては、マルクスが一九世紀に指摘していた問題を はここで事後的な立場からソンタグを批判したいのではな 少々ズラして見る視点が必要だろう。『資本論』では恐慌 、むしろここに現れた両者の対立を、その後繰り返され の必然性が唱えられ、それこそが資本主義のクリティカ ル・ポイントであることを示唆していた。資本家にとって た「知」に対する態度や思考の違いの問題として考えた 。そのためには私はここで、内戦とテロについての言説は自分だけが除かれる破局の繰り延べ、すなわち「われな の問題について考えを進めなければならない。 き後に洪水よ来れ ! 」が永遠の望みである、とマルクスは 述べた。しかし現代においては、危機そのものが「調整局 Ⅱ以前において、現在面」として、あらゆる破滅にもかかわらず自己反復を行う この「介入」の問題は、既に 9 ・ におけるテロリズムの発生とそれに伴う不確定性の増大ま運動として資本主義はとらえられる必要がある。 むろん、この危機そのものの可能性の生産は、現代のセ でを先取りする問題でもあった。ある社会の安全そのもの

3. 群像 2016年12月号

そしておのおのが辿りつく場所で、一滴の水のように地面が必要であるか。 / 私はひとりで / この回転する惑星の表 にしみこむことを目指そう ! 」と告げられることになる。 面にいる。なにを》 この詩の続きのスタンザである、《することができよう、 だが、この「本拠」から離散しつつも「 Rejoice! 」の布 教を行うという散種的な結末は、それ自体で結末だったと ミケランジェロのアダムのように / 未知の空間へと腕を伸 レシプロケイティング・タッチ 一一 = ロえるのだろうか ? このラストの解散宣言からは、むし ばして / 返礼の接触を望むよりほかに ? 》という部分 パトロン ろこの散種の後で何が起こるのかが重要視されていること は不必要だと師匠は述べ、「大体、深淵のふちで平衡をと が読みとれないだろうか。『燃えあがる緑の木』を「最後 る必要がありますか ? 」と語りながら、これをキルケゴー の小説」と ( 何度か繰り返された ) 宣言をしていた大江 ルの次の言葉と関連づけてゆく。「もし私が自分を、信じ は、その四年後に『宙返り』を発表して復帰するのだが、 ることのうちにとどめていようと望むならば、私はつねづ 「最後の小説」の後で何を書くかということこそが問われ ね外面的な不確かさを固くつかまえているよう意図しなけ ていたのではなかろうか。 ればならない。七万尋を越える水の深淵の上で、なお私の そこでは、詩の言葉の問題が問われているのだ。そこに 信じている心を保っために」。 て っ 含まれていた問題が一層露呈したのが『宙返り』であっ ここで述べられている「返礼」なしの「深淵」という問 た。『宙返り』は一九九九年六月に書き下ろしで刊行され、 題からは、世界の基底や「根拠」がないにもかかわらず保 ~ め 郎 無差別テロをやめさせるためにそれまでの教会での言葉を たれる何かあるものにおいて、自己の存在を見いださなけ テレビの前で「まるつきり冗談」だったと告げ、「宙返り」 ればならないことが主張されている。空中をとんば返りす健 バトロン ガイド 北転向を行った「師匠」と「案内人」に出会った画家の木る「宙返り」の身体にとっては、確固たる不動の大地は存 ~ 津と、彼と性愛関係を結んでいる育雄を一つの軸として話在せず、世界はそれ自体において果てしない奥行きしかな へ が進んでゆく。ここでは、師匠の英詩の解釈に集中して話 「深淵」と化すのである。そして大江にとって詩は、世 説 を進めよう。 界がこの参照点のない「深淵」状態であることを指し示す 序 木津から英詩のレクチャーを受けていた師匠は、詩人の 言語行為のあり方なのであり、それと散文における意味作が ・ r•-n ・トーマスの次の詩 ( 「 ThreshoId 」日敷居、閾 ) に用の緊張関係こそがここで重要な問題となっている。 触発されながら、自分の「宙返り」後の「地獄」の状態に 新 ついて語る。 ところでここで、「宙返り」における言語の「深淵」と 《このような深淵のふちでは / どのような平衡をとること いう問題の輪郭をより明瞭にするために、大江が常に敬意 バトロン バトロン

4. 群像 2016年12月号

2016 12 書 炎】 1 ロ 「 1 ロ 異端カタリ派の歴史 " げんきな日本論 定価 920 円 978 ー 466 ー 288391 ー 7 橋爪大三郎 x 大澤真幸 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問 新 新土器、古墳、ひらがな、安土城 = = = なぜ日本人はかくもユ = 1 、、、シェル・ロクへール武藤剛史訳定価 3 、 100 円 び - 坂クな文化を生み出せたのか ? 『ふしぎなキリスト教』でおな 世紀、南仏で大展開した宗教運動Ⅱカタリ派。その じみ、ふたりの社会学者が語り尽くす「新・日本史」ー 誕生・発展、そして異端審問・迫害・殲滅 : : : キリスト教ろ が繰り広げた酸鼻をきわめる 300 年の歴史を描く。 よ る カタリ派研究の第一人者による最良・決定版の訳書。 現代美術コレクター 定価 cooo 円 高橋龍太郎 978 ー 466 ー 288393 ー 1 さ 草間彌生、奈良美智、会田誠、山口晃 : : : 心に響く傑作を集め し た高橋コレクション、そのオーナーが語る日本現代ア 1 トの魅 絶滅の地球誌 楽 る 力と投資のコツ。さらには文化行政への提言も。 宀疋価つな、 000 円 978 ・ 466 ・ 25864 2 え 澤野雅樹 考 女領主・山の民・悪党 毎年、 5 万種が消滅する地球は 6 度目の「大絶滅」へと静 井伊直虎 かな行進を続けている。環境破壊だけでなく、「核の宅配 定価 760 円 便」までも可能となった今、人文知から自然科学への渾身 978 ・ 4 ー 06 ー 288394 ー 8 の挑戦が始まる。幻世紀を生きる全地球人、必読の書 ! 川年大河ドラマの主人公は「もののけ姫」だった ! 戦国の世、 なせ女性が領主となったのか ? なぜ近世期、彼女は忘れられ 工■好評既刊日発売中 たのか ? 時代の転換期を生きた女城主の宿命を描く。 西谷修 アメリカ異形の制度空間 0 不要なクスリ無用な手術 ノ 1 ヘル経済亠賞天才たちから専門家たち、根井雅弘編著 医療費の 8 割は無駄である定価 ooo 円 富家孝 毛利眞人 978 ー 466 ー 288395 ー 5 ニッポンエロ・グロ・ナンセンス歌謡 0 0 医者に勧められても、飲む必要のないクスリ、受ける必要のない 山下清海 新・中華封世界各地で〈華人社会〉は変貌する 手術とは ? 「医者に嫌われる医者」にしか書けない健康寿命を 平田雅博 延ばし、無駄な医療費を使わないための基礎知識。 一央五の帝国ある島国の言語の年史・・ 講談社現代新書

5. 群像 2016年12月号

第 ・応募作品は未発表の小説に限る。同人雑誌発表作、他の新 [ 選考委員 ] 人賞への応募作品、ネット上で発表した作品等は対象外と 青山七恵 する。 ・枚数は、 400 字詰原稿用紙で 70 枚以上 250 枚以内 高橋源一郎 ワープロ原稿の場合は、 40 0 字詰換算の枚数を必ず明記の こと。応募は一人一篇とする。 ー締切は 2017 年 10 月 31 日。 ( 当日消印有効 ) 多和田葉子 ■原稿は必ずしつかりと綴じ、表紙に作品名、本名、第名、ふ りがな、生年月日、住所、電話番号、職業、略歴 ( 出身地、 辻原登 筆歴など ) 、 400 字詰換算枚数を明記する。同じものをも う一枚、綴じすに原稿に添付すること。に記入いただいた個人 野崎歓 情報は受賞作の発表・応募者への連絡以外には使用いたしません ) ・宛先は、〒 1 1 2 - 8 0 0 1 東京都文京区音羽 2-1 2-2 1 講談社群像編集部新人文学賞係 ・発表は本誌 20 1 8 年 6 月号。 ( 同年 5 月号に予選通過作品を発表 し、 5 月上旬に小社にて授賞式を行います ) ー賞金は 5 0 万円。 ( 受賞作複数の場合は分割します ) ー受賞作の出版権は小社に帰属する。 一応募原稿は一切返却しない。 ( 必要な場合はコピーをとってください ) ・応募要項、選考過程に関する問い合わせには応じない。 曽群像新人文学賞 稿集 原募 [ 選考委員 ] 大澤真幸 熊野純彦 鷲田清ー 第 ・応募作品は未発表の評論に限る。卒業論文、同人雑誌発表 作、他の新人賞への応募作品、ネット上で発表した作品等は 対象外とする。 回 ・枚数は、 400 字詰原稿用紙で 70 枚以内。ワープロ原稿の 場合は、 400 字詰換算の枚数を必ず明記のこと。応募は一 人一篇とする。 ・締切は 201 7 年 4 月 30 日。 ( 当日消印有効 ) ※締切が変わります。 ー原稿は必ずしつかりと綴じ、表紙に作品名、本名、筆名、ふ りがな、生年月日、住所、電話番号、職業、略歴 ( 出身地、 筆歴など ) 、 400 字詰換算枚数を明記する。同じものをも う一枚、綴じすに原稿に添付すること。に記入いただいた個人 情報は受賞作の発表・応募者への連絡以外には使用いたしません ) ・宛先は、〒 1 1 2-8001 東京都文京区音羽 2 ー 1 2-21 講談社群像編集部新人評論賞係 ■発表は本誌 2 0 1 7 年 1 2 月号。 ( 予選通過作品も同号で発表します ) ※発表号が変わります 0 ・賞金は 5 0 万円。 ( 受賞作複数の場合は分割します ) ー受賞作の出版権は小社に帰属する。 ・応募原稿は一切返却しない。 ( 必要な場合はコピーをとってください ) 一応募要項、選考過程に関する問い合わせには応じない。 気鋭の才能を輩出した , 群像新人賞は 0 ~ 一一 ~ 更にの清新な才能を、 待望しています。 稿集 原募

6. 群像 2016年12月号

らこそ、世界の方でも、大拙を求めたのである。大拙は、 の一つの源泉、谷崎潤一郎や三島由紀夫の文学の一つの源 宗教学者ルドルフ・オットーや深層心理学者カール・グス泉、そして出口王仁三郎が『霊界物語』を書き上げる際の タフ・ユングらが創設に関わったエラノス会議に招かれ 一つの重要な源泉になっていったと推定される。近代日本 る。日本人として、エラノス会議に、公式な講演者として 思想史、近代日本文学史の隠された一つの起源である。し 招かれたのは大拙がはじめてである。その際、他の参加者かしながら、これまでほとんど大拙のスエデンポルグは正 とスエデンポルグ思想について実りの多い対話を交わすこ面から論じられることはなかった。一時の気の迷い、ある とができたと、大拙自身が回想している。エラノス会議で いは大拙思想の本道からは外れるものとするのが一般的な は、イランの地で深化したイスラーム神秘主義思想の専門 見解であった。しかし、そのような理解は、明らかに誤り 家であるアンリ・コルバンがスエデンポルグについての発である。大拙にとってのスエデンポルグは、その思想形成 表を行っている。大拙とコルバンが、スエデンポルグ思想 において決定的な役割を果たした。 について語り合ったという直接の証拠はない。 ーしかー ) 、禅 大拙によるスエデンポルグ、その軌跡をまとめてみれ の世界への紹介者・大拙とイスラーム神秘主義思想の世界ば、次のようになる への紹介者・コルバンが、スエデンポルグを介して、エラ ノス会議で思想的な遭遇を遂げるということは偶然でな 『天界と地獄』 ( 明治四三一九一〇年 ) 翻訳 く、必然でもあったはずである。大拙からバトンを受け継 『スエデンポルグ』 ( 大正二Ⅱ一九一三年 ) 大拙による評 ぐようにして、日本人として二番目にエラノス会議の正式 伝ではあるが、そのほとんどがアメリカのスエデンポル な講、 演者として招かれたのが、遺著として『大乗起信論』 グ教会信者にして研究者であるバレット (). F. Barrett) の可能性を論じた井筒俊彦であったことも、また。 の著作に拠ったものであるという ( 新版大拙全集二十四巻 の巻末に付された「後記」より ) 。 『新エルサレムとその教説』 ( 大正三 = 一九一四年 ) 翻訳 人生のある時期、大拙は間違いなくスエデンポルグとと 『神智と神愛』 ( 大正三一九一四年 ) 翻訳 もにあった。 『神慮論』 ( 大正四一九一五年 ) 翻訳 しかも、大拙のスエデンポルグは、大拙思想の完成に とって必要不可欠であっただけでなく、柳宗悦の民藝運動 先述したように、その他にも、この一時期のように密度 158

7. 群像 2016年12月号

先生の得意なのは詩であった。 ( 中略 ) その代わり自分のだろう」。この二種の例はいずれも受動文だが、ここから に読んでくれるのではなくって、自分が一人で読んで楽わかることは、英語では意味内容の変形がほとんど生じる しんでいることに帰着してしまうからつまりはこっちの ことのない「受動変形」が、日本語では時としてデリケート 損になる。 ( 同 ) で複雑な差異に結びつくということである。それは「ある 状況における制御可能性の有無が問題となるのである」。 ここに二度出てくる「自分」は、一度目は書き手であ 駆け足で金谷武洋の ( そして彼を通して三上章の ) 「主 り、二度目は「先生」である。しかも二種類の「自分」は 語無要論」を繙いてきたが、もちろんその主張にはさまざ 一文の内に共在している。ここでの「自分」は「主語」と まな疑問や反論が寄せられている。金谷が撃っている敵は いう概念とは明らかに無関係である、と金谷は述べる。 「英語セントリズム」すなわち「英語中心主義」だが、結 「は」や「自分」以外にも、金谷は日本語の格助詞の特殊局のところ、それは文法学者たちのアカデミックな世界の な機能について幾つも指摘している。たとえば「が」にか諍いでしかないとする反応もあり得るだろう。しかしこう んしては、「熊が太郎を殺した」という文章と、それを受してみると、今も書き連ねている「日本語」において「主 動文にした「太郎が熊に殺された」という文章は、表わさ 語」と呼ばれているものが、また「人称代名詞」とされて いるものが、いかにも奇態な、一種の怪物にも思われてく れている事実は同じでも、英文における能動文と受動文の る。むろん実際にはそれは「日本語」だけの話ではない 意味内容の同一性とは異なる、ニュアンスの変化が認めら れると言う。「「太郎が熊に殺された」は単に ( 略 ) 「熊が ( 「ダミー主語」のことを思い出してみればよい ) 。だが、 太郎を殺した」の視点を変えたものではなく、熊が太郎を ここまでの話を、私たちの目下の問題に引き寄せてみるな 殺した事実の他に「その状況下で太郎は無力だった」とい らば、次のようになるだろう。 う意味が加わっているのである」。また「に」にかんして 「日本語」に「主語人称代名詞」は必要か否か、そもそ は、「 ( せつかく出かけたのに ) 雨に降られた」と「 ( 大事もそう呼び得るような何かが「日本語」にはあるのかない のか、といった問題はさておき、私たちにとって重要な問 な時に ) 電話に鳴られた」という二つの文を比較すると、 、は、もしかしたら不要であるのかもしれない、そもそも 同じく「に」が使用されており、「雨」も「電話」も無生 物であるにもかかわらず、前者はごく普通に許容出来る文存在してさえいないのかもしれない「人称代名詞」が、日 だが、後者は奇妙な感じがすると述べる。それは「日本人本語小説、日本文学において、それでも今なお幾度となく の言語感覚からは「雨」は有生性がより高いと見なされる書きつけられているのだとしたら、それが意味することは 245 新・私小説論

8. 群像 2016年12月号

せることで、欲望を抑えられない敵・競争者よりも精神的かにジョウンズは泥酔して騒いでいる。また、出来心とは に優位に立っという戦略は、プリフィルほど自覚的ではな いえモリーと茂みに入ったことも、様々な挑発があったと 、とはいえ、パミラがミスターに対して採用したもので はいえスワッカムとプリフィルと殴り合いの喧嘩をしたの もあった。この対比は、、 しってみれば商品の生産者と消費も間違いない。 者との関係に似ている。消費者の欲望を冷静に観察し、必 ジョウンズが追放されたあと、プリフィルとソファイア 要な手続きを踏むことで、生産者はより多くの富を消費者の縁談が強引に進められる。当事者であるソファイアの反 から奪うことができる。近代的な小悪党プリフィルは、欲対を歯牙にもかけないウエスタン氏とその妺に対し、オー 望のエコノミストである。 ルワージ氏は疑問を抱くよ , つになる。プリフィルはソファ 他者の欲望の操縦に長けたプリフィルとバミラには、も ィアになんの愛情も抱いてはいなかったが、その財産を手 うひとつ重要な共通点がある。『バミラ』でミスターが にすることを切望していた。しかも、ソファイアの肉体を ヒロインに繰り返し投げつける非難に、「二枚舌」所有することで、プリフィルは「情慾の満足」だけでなく (equivocation) というのがある。「この二枚舌を使う小娘ジョウンズへの「勝利感」に酔うこともできる。この縁談 め ! 」 (you little Equivocator!) とか、「きみはあからさま を成功に導くには、なんとしてもオールワージ氏を説得せ な法螺を吹くことはないが、二枚舌をつかう ! 」 (I know ねばならない。 このときプリフィルが用いた論法もまた、 you won't tell a downright Fib for the world; but for 「二枚舌」 ( 今回は「あいまいな一言葉」と訳されているが、 Eq にぎ oc ミ ) といった表現から伝わるのは、ヾ ノミラの原語は同じ ) である。 性的な魅力にとり憑かれたミスターが、彼女の言葉の真 の意味を読み解くことができずに苛立っ様子である。もち ウエスタン氏はプリフィル同様、娘の意向などどうで そ ろんパミラは率直にミスターを拒絶しているのだが、 もよいと思っていたから、格別この人をだます必要も の拒絶が主人には思わせぶりな策略に感じられてしまう。 なかったが、オールワージ氏の考えは大いにこれとち プリフィルの場合、これが半ば意図的な話術となる。たと がうだけに、こちらは絶対に偽る必要があった。が、 えば、先はどのジョウンズに対する讒言のなかで、明確に この点プリフィルはウエスタンに助けられて難なく成 事実に反するものはない。オールワージ氏の恢復を喜んだ 功した。つまり、オールワージ氏は娘の父親から、ソ ためではあるが、彼が危篤を告げられたのと同じ日に、確 ファイアが十分プリフィルを愛していること、また 134

9. 群像 2016年12月号

レック・エフィンジャーのハードボイルド『重力が衰 さて、金谷は、フランスの言語学者アンドレ・マルチネ えるとき』の翻訳では、一人称小説であるにもかかわら が提唱した「主語の定義」を紹介する。 ず、原文には多数存在する「 I 」が四ページ目まで一度も 出てこないこと、それどころか「「おれ」以外の人称代名 主語は、他のあらゆる言語学的事実と同じで、その ( 具体 詞だって、三ページ中、会話の中に一箇所出てくるだけ。 的 ) 振る舞いにおいてのみ定義づけられるものだ。もし命 やればできるのである」とも書いている。 令文、省略文以外で、ある要素が述語と不可分に現れる では、英語の原文ではやたらとひしめいている人称代名 なら、それは主語である。この不可分性を持たないものは 詞を減らすコツはというと、大森は「いちばんだいじなの 主語ではない。それは形 ( 例えば語幹 ) や文中の位置が は視点をしつかり固定すること。視点が一人称の場合は簡 どうあれ、他の補語と同じく一つの補語に過ぎない。 ( 同 ) 単。たとえば、小説の書き出しに「わたしは自分が道路に 寝ていることに気がついた」と書いてあれば、「気がつく マルチネのバスク語にかんする論文の一部を金谷が訳し と道路に寝ていた」でだいたい。主語がだれなのか読 た文章を引いた。金谷はここでマルチネの言う「振る舞い 者にはっきりわかっている場合には、省いちゃって問題な comportement 」とい , つ一一 = ロ葉に注目する。文法的に正し い」と述べている。つまり日本語では、視点が固定されて いかどうかよりも「実際の言語行為におけるある名詞句の おり、そのことが読者に共有されていさえすれば、主語日 構文論上、形態論上の振る舞い」が重要なのだということ 人称代名詞がなくても文の意味は通じる ( 場合が多い ) 。 である。そして、この点を鑑みると、日本語では「主語」 これは私たちの「新しい私小説論」にとって極めて一小唆的という特別な意味を帯びた言葉は必須ではない。金谷は な指摘と言えるが、ひとまず金谷の議論に戻ろう。 「友達の家に招かれてクッキーを勧められた」という状況 戻る前に一点触れておくと、金谷は、英語から日本語へ を想定する。「食べてみるとお世辞抜きでとてもおいしい。 の翻訳とは逆のケースについても触れている。村上龍の芥友達も会心の作と見えて、こちらの反応を待っている様子 川賞受賞作『限りなく透明に近いプルー』の英訳版と仏訳だ。さて、何と言え、 。ししたろうか」 版を原文と並べてみると、日本語にはなかった「人称代名 「おしししー ! 」だけで十分だろうと金谷は述べる。だ 詞」が多数付与されていることがわかる。何故そうするの が、これを英語で言うと「一 ( is good! 」になる。金谷の主 かといえば、もちろん「英語の基本文から言って「そうし張は、この場合の「おいし いー ! 」は、正しい文から ないと非文法的になってしまうから」である」。 「 I ( 」と「一 s 」が省かれたのではなく、それだけで必要十分 240

10. 群像 2016年12月号

て勝利とされるのか、途方に暮れたにちがいない。 一九三四年、すでに労働者階級の過激な代弁者として知 いくつかの工場で身 こういうズレの存在について、たんなる狂信のせいにし られていたヴェイユは、教職を辞し、 て片付けてしまうべきではないだろう。むしろこう思う。 分を隠して働いた。知人に宛てた手紙のなかで、工場労働 当時、人びとに見えていたものと、ヴェイユに見えていた の経験に含まれている「重要なこと」を表現するためには と思われます」と言い淀んでい ものとが、そもそも食い違っていたのではないか。根本的「別の言語が必要らしい る。およそ八カ月のあいだ女工として働いたヴェイユは、 な齟齬があったために、ヴェイユは状況からズレていかざ るをえなかったのではないか。また現在においてもヴェイ その経験の持つ重要な意味について考えながら、「本質的 ュの思想がわかりづらいとすれば、それは、そのような齟なものを表現できない」不全感に悩まされていたのだ。手 齬がいまだに存在し続けているからではないのか。そうい 紙の続きにはこうある。 う根本的な食い違いにヴェイユ自身が気づいていたかはわ からないが、気づいていたとしてもそれを優に超えるだけ 私にとって、この経験は、私の考えのしかじかのものを の切迫感があったことはたしかだろう。同じく晩年に書か 変えたというわけではなく ( 反対に、多くのものが強め られました ) 、それどころか、ものごとについて私の抱 れた主著『根をもっこと』のなかで、あらゆる理想はいま ここで実現されなければならない、そのための改革にいま いている見とおしの一切を、人生について私の抱いてい すぐ着手しなければならない、と連呼しているのも、その る感情そのものを、変えてしまいました。私はなおこの 先もよろこびを知ることでしようが、そのなかにある一 ような切迫感のあらわれだろう。 では、ヴェイユをして「聖なるもの」と「人格」の差異 種の心の軽やかさは、相変わらずありえぬものであるだ ろう、と思われます。でも、こんなことはもうたくさ に固執させ、非戦論者を不可解な主戦論者に転向させたも のとよ、、 。しったいなんだったのか。ヴェイユと状況とのあ ん。表現できないものを表現しようとすれば、それを いだにズレを生じさせていたものとは、いったいなんだっ 損ってしまいます。 たのか。 そもそも工場労働の直接の目的は、直前に書き上げてい た『自由と社会的抑圧』について実地に試験することに 2 あいだとカ あった。その意味での成果なら十分にあった。一方では、 ( 4 ) 67 不幸と共存ーーーシモーヌ・ヴェイユ試論