ツをしたりする青春映画に比べ、実写はどうしてもお金あった。しかし、今その伝統はまったく途絶えてしまっている。 、刀、か、か 00 「映画は客が入らない」「ハリウッド映画には勝てない」 日本で小説やマンガがというジャンルにおいて量・質 - とジャンルそのものを忌避してきた結果、実写的想像力 ともに充実しているのに対し、実写映画が極端に少ない を持っ職人たちがいなくなってしまった。指向している人は のは、具体的なモノを用意しなければならないという表現形少なからすいる。だが、それは俯瞰すれば局地戦におけるい 態の違いによるところが大きい。いくら技術が発達して - くつかの点であり、過去と未来をつなぐ線ではない。 も、人やモノは絶対的に必要だからだ ( すべてで作るな は現実世界を反射し、同時に現実社会を撃つ。地震や ら、それは限りなくアニメに近づく ) 。 津波によるカタストロフィ、放射能の制御不可能性という日 だがそれよりも深刻だと思われるのが、想像力の問題だ。〈本の直面している問題だけでなく、人工知能やビッグデータ は現実の先にある未来 ( あるいは別の現在・過去 ) を . など地球規模の文明のあり方についても、映画だからこ 描き出す。自分たちが生きる社会への懐疑が出発点になるかそ描けるものが多い。科学と哲学の領域が近接すればするほ もしれないし、科学や文明に対する批評からスタートするかど、的想像力は力を発揮する。 もしれない。描かれるのがユートピアにしろディストピアに はたして日本の実写映画の復活の日は来るのか。 しろ、その根幹は想像力だ。 ただの直感でしかないが、そろそろ零年が来るだろうと私 百年後の国境はどこに引かれているか、核爆発によって壊は思っている。政治や社会にどんづまり感が増すほど、また 滅した都市はどうなるのか、進化した知性の持ち主はどんな人間という存在の輪郭が不明瞭になればなるほど、生身の俳 身体に変化するのか。もっと身近なところでは、 iPhone や - 優を映す実写に求められることは大きくなると思うから ガラケーはいつ、何に取って代わられるのか。想像力を無限だ。生身の身体とその身体によって生み出される運動には、 に膨らませつつ、具体的に調達可能なモノを頭の隅に置いてアニメーションやでは再現が難しい知性が備わってい 落としどころを見つけていく。その夢想と現実の往還が実写る。そして、日本に蔓延するどんづまり感はそろそろ飽和点 には要求される。 に来ている。昭和期に深い眠りについてしまった日本の実写 かって日本には、円谷英二たちが牽引した実写映画の】的想像力も、そろそろ目覚めようとしている気がするの 土壌があり、小松左京の小説を映像化できる技術と想像力がたが、これはあまりに楽観的だろうか。 279 随筆
ここでの「幻想」への言及には、大江の想像力に対する像力」は、詰まるところあくまで既成の政治の枠組みにい かに資するかという一点を決して揺るがさないものなの 評価が影響していると言ってよい。この「幻想」の肯定の モチーフには、かって大江が想像力の二つのあり方につい それに対し、李珍宇と金嬉老は外界の抑圧を事件におい て語っていた問題意識が重なり合っているのである。それ が読み取れるのは、エッセイ「政治的想像力と殺人者の想て「具体的に把握し、それを否定することによって自分自 像力」である。そこで大江は一九六八年七月に参院選に出身を超える瞬間を体験した」と大江は評価する。彼らは、 「日常」では一般に意識されない暴力の形を、想像力にお 馬した石原慎太郎と、小松川事件の犯人・李珍宇あるいは いて描き出すことができた存在として評価されている。彼 】金嬉老を対比しつつ、後者の方が一層強く「想像力」の問 らは「想像力の世界に『警察』と『新聞』、すなわち日本 題を体現していると評価していた。 まず大江は想像力をバシュラールに則り、「基本的イメ人一般を具体的な形で喚起し、生涯においてはじめてそれ に対して優位にたってのコミュニケイションをおこない、 ージからわれわれを解放し、イメージを変える能力」とし その上でそれらをすべて否定しようと」したと意義づけら て定義している。政治的想像力とは一般民衆が共有してい れるのだ。 る基本的なイメージを変え、「新しい現実」を啓示するも 大江は李珍宇と金嬉老に対して全てを賞賛しているので のだと大江は述べる。その上で、そこからすると石原の想 はなく、最終的にはそれらの行為が「自身の内部の核心に 像力にそういったものは一つもないと批判するのである。 石原が「自民党の体質改善のためにも、若い世代の想像力向っての乗り超え」であり、永続きしないものであったと も述べている。しかしここで提起された、「われわれすべ を注ぎ込んでゆくことが必要だと思った」 ( 傍点引用者 ) と 語りつつ、「党の体質改善」を主張することや沖縄への米ての人間の現実世界でのありようの根本に関わる」次元で 基本的なイメージを変える契機としての想像力に加えられ 軍援助を拒否した際の経済的影響について述べることは、 る力の問題は、彼の長い作家活動を通じて反復され続けた 毫も政治的なものの「基本的イメージ」を変容させないの ものでもあった。大江は現実的な問題に対する際には、常 だと大江は指摘する。「もし政治的な想像力をもっと自己 にこの想像力に加わる力の変容を目指す立場に立っていた 主張する人間であるならば、そうしたイメージをうちゃぶ のであり、『新しい人よ眼ざめよ』における「新しい人」 り、そうしたイメージのうちなる悪しき現実からわれわれ への言及やプレイクの詩の引用は、この「現実世界でのあ を解放して、新しい沖縄のイメージをつくりあげる者でな ければならない」。石原がここで語った「新しさ」や「想りようの根本」に関わる基礎的なイメージを変化させるモ
つけをほどこすことになった。人びとは公開の席で大っ の歌から、あまりに真剣な恋の経験を引き出そうとする びらに唱和された恋の贈答に拍手喝采しながら、同時 から、間違うのである。額田王の父は鏡王といって、鏡 、二人の中年男女の胸のうちにひそむ秘められた思い 山山麓の近江蒲生郡の豪族 ( 皇族でなくても王を称し が、この意識的に大向うをねらった公開の歌の中に案外 た ) らしく、その娘に鏡王ノ女・額田王の姉妹があり、 にもそっと洩らされているのかもしれない、などと勘 紀には鏡姫王・額田姫王と記している。神聖な処女とし ぐって興じる材料さえも与えられたわけである。 て、兄媛・弟媛と揃って高貴な賓人に娶されることは、 古代には普通のことで、その場合、兄媛は主賓中大兄 『万葉集』巻一のこの贈答歌について、大岡は『私の万葉 に、弟媛は副賓大海人に仕えたという想像も成り立つ。 集』でも同じように触れている。また、私が聞いたある講 だから、弟の愛人を兄が奪ったなどという想像は、しな 演では、スター自ら、誰もが知っている自分たちの三角関 くてもすむのである。額田王がかって弟に愛されたとし 係のゴシップを舞台上で披露して喝采されるようなもので ても、もともと彼女が兄の持ちものでなかったとは言え すと、「うたげ」のありようを現代の聴衆にも分かるよう ないからだ。一寸、現在の男女関係から言えば、想像で に説明していた。そのときは、解釈の大胆を和らげるよう きないような関係がそこにあったようだ。 に、山本健吉の説に従っているむねを述べていた。 山本の説というのは、山本自身の編集した『文芸読本・ 山本は「この唱和の歌は、狩猟のときの宴席の歌であ 万葉集』 ( 一九六三 ) に書き下ろした「萬葉秀歌鑑賞」のこ る」と続け、さらに・「だから、苦悩のヒロインとしての額 とであり、そこでこの相聞の解釈も行われている。他にも 田王の肖像を、この歌から作り出してはならない」と駄目 同年刊行の池田弥三郎との共著『萬葉百歌』があるが、ほ を押している。折ロ信夫の論文「額田女王」 ( 一九三五 ) を ば同様の文章ながら文芸読本のほうが山本の意を尺、くして敷衍した解釈にすぎないが、あえていえば俗耳に入りやす いように、古代をめぐる折ロの含みある発言のその含みは 払拭されている。折ロの「額田女王」は後に引くが、先回 これはおそらく、額田王が四十歳近くになってからの りしていえば、大岡、山本、折ロそれそれの解釈の、その 歌だろうが、それでいっこうに差し支えない。 この唱和微妙な差がきわめて興味深い 216
簡単にいえば、大岡には、大らかというか、古代人と現ような」という物言いにからめていえば、大岡には、天智 代人の差など無きに等しいのだ。だが、山本に言わせれ も天武も鏡王女も額田王も、怒りもすれば笑いもする、愛 ば、古代人には現代人からは「一寸、想像できないよう しもすれば嫉妬もするだろうことは、疑いようがなかっ な」ところがあるのである。折口にしてみればしかし、こ た。彼らの心は、その環境、その文脈を正しく復元できさ えすれよ、、 れが重大なのだが、「一寸、想像できないような」という 。しくらでも想像でき、共感できるに決まってい 物言いそのものが許せなかったに違いない。古代人は現代るのだ。大岡の鑑賞がはるかに生き生きしているところか 人のなかに生きているからである。人は、自身のなかにあ らもそれが分かる。大岡は、人間がいくらでも相手の身に る古代人の声に耳を傾けなければならない。声高に言って なれるその能力の淵源に「うたげ」を見出しているのであ いるわけではないが、それが折ロの基本なのだ。大岡がほ る。そしてさらにその「うたげ」を逆説的に支えるものと とんど無邪気に見えながら深みを感じさせるのは、自身の して「孤心」を見出しているのだ。 なかに古代人が生きていることなど自明のことだったから 考えてみれば自明だが、個性すなわち自分と他人との違 である。大岡は、自分が人麻呂の身になり額田王の身にな いは、まず、そのような「うたげ」の場で比べられてのみ りうることを疑っていなかった。とすれば大岡と折ロは接形成され発揮されるのである。離れ離れの「孤心」におい しているのである。大岡と折ロは近く、山本はむしろ遠そは個性の次元そのものがありえない。結果的に、個性を 狙う「孤心」は新たな「うたげ」の場すなわちジャーナリ 大岡が、そしてまた折口が、特異なのだろうか。誰も、 ズムなりアカデミズムなりを形成することになるわけであ 人麻呂の身にもなれれば額田王の身にもなれるなどと思い り、それが「うたげ」の変質をもたらし、この新たな「う はしないのだろうか。だが、そうでなければ文学など存在たげ」がさらに新たな「孤心」を形成する。こうして近代 しないことになるのではないか。言語などあってもなくて的な「孤心」すなわち近代的孤独なるものが登場すること も同じことになるのではないか。 になるわけだが、大岡が問題にしているのはしかし「うた 大岡の疑問の根はそこにあったのであり、むしろその自 げと孤心」の変容ということではない。むしろ、その変容 明なことがなぜ人には自明ではないのか、それが不思議さえも、「うたげと孤心」に包み込まれているのではない だったのである。たとえば、山本の「一寸、想像できない かということである。『梁塵秘抄ロ伝集』に魅了されほと 語の政治学 217
チーフとして描かれていることがまずは指摘できる。 私が『宙返り』の最後に書いたのは、じつは私の「知 らないこと」です。しかも、老年にいたろうとしている 私がーーーそしてエッセイにおいて知らないことを書くの 「偶発事」をめぐって は犯罪にひとしい、と知っている私がーーー唯一望みをか けることとして、それを小説に書いたのです。 しかし、このような想像力と政治性の関係は、後に『暴 次の四半世紀に、この国に「新しい人」が現われなけ 力に逆らって書く』所収の往復書簡でスーザン・ソンタグ ればならない、 に問いただされ、ユーゴ内戦時の Z<+O 軍の空爆の是非 と私は書きました。それでいて私は、当 の「新しい人」について、具体的に確かなことを知って についてのすれ違いが起こる要素にもなったと言える。ソ いるのではありません。ただ、「古い人」ーー私もその ンタグはそもそも大江が繰り返し語る「新しい人」の概念 自体に懐疑的であり、それを人間の「改良」計画に基づい なかに入りますーーーによってはこの国の窮境を乗り切る ことができないだろう、と考えているのです。私はかっ ているものとみなしているのである。「『新しい男』も『新 てこれほど切実に、自分の小説への、若い人たちからの しい女』も、いまの私たちが大切にしている多くの喜びや 疑いを忘れてしまっただけの話」かもしれないとソンタグ 反響を待ち受けたことはないと感じます。 は述べつつ、それは二世紀にわたって繰り返されてきた、 丿エーションにすぎ 大江は「新しい人」が何であるかを具体的には知らな 人間の本性に関する改良の神話の一ヾ ないものとしている。 。しかし知らないことを書くべきではないにもかかわら だがそれに先立つ大江の書簡では、ソンタグの理解とはず、それは書かねばならなかったものとして書いている。 すれ違っている。大江はヘミングウェイ生誕百年の記念講この、「書かれるしかないものーを書くこと、それが「犯 演で述べた「知っていること」と「知らないこと」の問題罪にひとしい」ことでありながら書かれるということこそ が、大江にとって「新しい人」の核心をなしている事柄な を挙げ、それが「新しい人」のモチーフとつながる事柄で のである。ソンタグはこれに反対して「書くことは、何か あると書いている。 を知ることであり、またその何かを可知のものにすること 小説家は「知っていること」を書くのか、言葉と想像的です。文学は知識です」 ( 傍点原文 ) と語り、その両者の区 なものの不思議な力によって「知らないこと」を書くも 別はつかないと語る。また「知らないことの価値の主張に のなのか ? 二十一世紀において、それはどうだろう ? ついても、若者に特別の美点を見出すことについても、私 95 新たな「方法序説」へーー - 大江健三郎をめぐって
会」に気づくというところで小説は終わる。「しかし自殺改めて対峙することこそが、むしろ「おれたちの時代ーの する機会はいくらでもあるのだ、数百万の陸橋があるだろ条件として浮かび上がっていると言えよう。「時代」が描 き出す姿を真に自らのものにするためには、このような意 う、数百万の絶壁があり、数百万の踏切があるだろう、自 殺の機会は遍在している」。靖男はこの「遍在する自殺の味での構造的暴力と骨がらみになった状況との関係を見出 機会に見張られながら」生きてゆくことこそを、「おれたすことが必要なのだ。これを経ることで、状況に規定され た「人間」のあり方に対して、そこから逸脱する力が浮か ちの時代」として呼び直すのである。 び上がってくるのである。この否定性を経なければ、「時 呼びかけられた「きみたちの時代」へと参画すること は、いわばここでは西欧中心の秩序の中核へと組み込まれ代」の桎梏の中で生きる「人間」に対して、自らの状況の るなかで、あたかも「脱出」したかのような生を生き続け構造から逸脱するものとしての「新しい人」なる発想は現 れて来ることはない。 ることに過ぎない。また経秀実が指摘したように、靖男は 学生コミュニストの呼びかけにも応えないで話は終わる ( 『革命的な、あまりに革命的な』 ) 。靖男は、「きみたちの時 「新しい人」と「想像力」 て っ 代」に対する否定性を体現するような人物としてここで描 かれていると言えよう。それに対もて「おれたちの時代 このような問題意識を持っていた大江にとって、核装置 ~ を の世界的な拡散はまさしくグロ ーバルな規模の監禁装置と に気づくこととは、自分たちが住ま , つインフラストラク して現れてくるのも当然であっただろう。『ヒロシマ・ノ チャーにおいてあらゆる面で監禁され、監視されていると 健 いう状況自体を浮かび上がらせることとして描かれてい ート』『核時代の想像力』に明白なこの問題意識の中、「新 ~ 江 る。ここでは「きみたちの時代」なるものの特権性は失わ しい人」という概念がやがて現れてくることになる。『新 れ、むしろ遍在する監禁・監視状況こそが向き合うべき しい人よ眼ざめよ』はウィリアム・プレイクの詩片の解釈 ~ へ 説 「時代」として現れてくることが、「おれたちの時代」の真が挟まれながら、一九八二年にテレビの企画でヨーロツ。ハ 序 法 の問題だとされているのである。 の反核運動を訪ねた体験と、脳に障害を持っ長男ィーヨー 方 。しついかなる ここで「日常」として現れている世界よ、、 ら家族との自宅での「共生」の間を行き来して描かれた連 イ 4 説だ、とひとまずは言えよう。加えてここには、「楯 きっかけで異化され、「自殺」へと駆り立てを行うもので 新 あるかを示している。ここにおいてインフラストラクチャ の会」を連想させる団体とのプールでの遭遇や、イーヨー ーの潜在的な暴力と、そのような状況に住まわせる暴力と の誘拐事件の潁末などが描かれており、これらは「政治的
温湯は効果があるかどうかをめぐってまだ色々とある。もし し、ほかのは肺を湿らすだろう》と」 ( 同上 ) それらに興味があればこの章を読めばわかることだから、医 これを聞いたモンテーニュの反応は辛辣そのものである。 「これらすべての寄せ集めを混ぜ合わせて飲み薬を作った学にたいする批判はこの辺できりあげよう。 うえで、さていったい、それらの薬効をもった成分がこの混 ざり合った混淆物から分離され、抽出されて、首尾よくこれ ほど雑多な役目を果たすために駆けつけてくれるなどと期待 、、。ムよ、さまギ、 モンテーニュは結石の治療について、自分ではどういう手 するのはほとんど狂気の沙汰ではあるまし力不。 を打ったのだろうか。医者の治療を当てにしなかったことは まな薬効をもった成分が途中で名札を失くしたり、取り違え 断るまでもない。 られたりして、それぞれの行くべき地区を混乱させはしまい 彼が一五八〇年に二巻本の最初の『エセー』を上梓したあ かと気が気ではないのだ。それにまたこの混ぜ合わされた液 と外国へ旅立って、各地の温泉場でその治療に当たったこと 体のなかで、これらの成分の効力がたがいに傷つけ合い、混 はすでに述べた。その詳細は彼の『旅日記』に記されてい ざり合い、変質し合わないとだれが想像できるだろうか」 る。残念ながら湯治は期待したほどの効果をあげなかったよ ( 同上 ) うで、帰国後も結石の発作は続いていて、結局死ぬまで彼を 薬と薬の飲み合わせが危険な副作用を引き起こすことは今 日でも薬害として怖れられていることで、その意味でモンテ悩ますことになるのである。 腎臓結石は周知のとおり昔から激痛で知られる病気であ ーニュは時代に大きく先駆けて薬の弊害を危惧していたので る。そんな病気にとり憑かれたことはだれよりも幸福に生き ある。またその一方、十六世紀になって盛んになりはじめた ることを切望した彼にとっては思いもかけないつらい試練に 解剖学のおかげで、彼は臓器の複雑な配置を知っていたか ら、半分は人体の内部のありさまを想像で愉しみながら、薬なったわけだが、むろん彼は自分だけが老いてなお病気を免 が、それがめざす目的地である患部を探し求めて迷路のようれるのを期待するほど甘い考えを持ってはいなかった。「 われわれはだれでも病気をしないでいられるものではない」 な臓器のなかを降りて行く様子を得々と説明する医者をあざ ( Ⅱの十一 l) と書いていたからだ。宗教戦争が見せつけた人間 笑った。 の残虐と悪徳の光景は彼の理性と良心を試練にかける機会に 医者たちのあまりに食い違った見解や薬への痛烈な諷刺は なったが、結石との付き合いのほうは彼の忍耐と精神の力を このほかにも、小便はたびたびするべきか我慢すべきか、ご 同時に試練にかけて病気とどう共生すべきかを考えるまたと 婦人との交わりは石の排出を助けるかそれとも慎むべきか、
にまで測鉛を垂らしておきたいとの思い なかなかに手なれておられるなと思った。 ことのできないもの」に「引き渡される」 が、選考にあたってはあった。テクストのが、その手なれを超えて、宮澤さん自身がことによって主体であるという、「恥ずか 意味するものだけでなく、テクストが状況今後どういう《方法》を紡いでゆくのか、 しさ」をめぐるアガンべンの論を引きっ に身を晒すときのそのテクスチャーにも目しばらくは遠くから見つづけたい。 つ、「関係に徹底して対称性を求めながら、 を届けておきたいという思いである。そう 川口好美さんの「不幸と共存ーー・シモー同時にそれを非対称的にも捉え」、そこに いう意味で、その人がどのような《方法》ヌ・ヴェイユ試論」は、ヴェイユの言明の留まりつづけることへとヴェイユの意志を をみずから拓こうとしているのかにも注目「わかりづらさ」、その背景にある彼女の信収束させてゆくところに、この人の思い切 念の「度を越した激烈さ」を執拗に問う。 りのよさが出てくる。わたしならば、途中 それじたいはあたらしい《方法》を駆使ヴェイユが「人格にかかわる生来の権利なにあったあの「屈託」という、一瞬きらり しているわけではないが、その《方法》 にど存在しない」と一一一一口うときに対項として引と光る語を用いて、副題を「シモーヌ・ 焦点を定めた論考はあった。宮澤隆義さんかれる「聖なるもの」の意味、非戦論からヴェイユの屈託」とでもしたいところだ。 の「新たな「方法序説」へーー・大江健三郎主戦論への転回、そして「「自分の戦争」 この論考は、「「不幸」との非対称的な関 をめぐって」。その論の理路を追うことはを戦え」という、人を戸惑わせ、神経を逆係を奇蹟的に通過することのできた、まっ しないが、不可視の状況に囲まれたときに なでするような不可解な言明がどこから来たく未知の、新しい、倫理的な人間」こそ とるべき態度、「危機が現前しない場合にるものなのかをめぐって、議論を重ねてい があらゆる権利の基盤に想定されないと、 も谺している「叫び声」の次元」、偶発事る。主題は明確である。が、「あいだ」の戦争を経ることの意味が不明になるという のなかに「深淵」を見るきっかけを探りあ概念規定をめぐって木村敏や・・レイ指摘で閉められるが、宮澤さんの論考にお てる感受性ないしは想像力と、そこに立ちンの額面どおりの引用で済ませたことが、 ける「新しい人」とおなじく、ここでも 上がる一一 = ロ語表現のある方法 : : : といった論問題のさらなる掘り下げを、さらには錯綜「新しい : : : 人間」の像が遠望されている。 点が、大江健三郎の「新しい人」という概した同時代的状況のなかでヴェイユの言明不思議な偶然だが、ほんとうは偶然ではな 念を糸として数珠のようにつながっていを歴史的に位置づける作業を、困難にしてくて、見えないままに切迫してくる現実に る。初期から現在まで大江の膨大な作品を いるようにおもう。また、「なんとなく理どのような構えで臨んだらいいのかという 貫く軸線を析出しようというその論理に解できる」「思い切ってそう推断したい」ところに、新しい世代の《方法》的意識が は、こういうふうに読むことができるのかといった緩みも気になって、読みづらかっ収斂しつつあるということなのかもしれな と納得させる力があった。見得の切り方もた。けれども後半に入って、「引き受ける 114
の前提となる空白の空間」であること ( その意味で「世界ろそこでは、物事の計算可能性が増大すればするほど、同燗 は存在しない」こと ) を語っている。言い換えれば一言語ゲ時に計算不可能性もまた増大してゆくのである。そこにお ける知と無知は、ソンタグの啓蒙主義的なモデルが前提と ームを根底的に規定するものは何もなく、そこには無底と しての偶発性が存在するのであり、かっこの無規定性こそするような「啓蒙あるいは野蛮」の関係を結んでいるので はない。むしろ知れば知るほど無知の領域が広がるのが、 が主体化において引き受けられるべき端緒とされるべきこ 「知」の真の問題である。ソンタグの啓蒙主義に対する大 とを彼は主張しているのである。 可能世界論的な宇宙観を成立させるためには、この無規江の問題提起は、介入すればするほど一層の介入を招いて 【定性の元にある「偶然性」が必要なのだ。この意味で、偶ゆくような同一的な次元の拡張 ( 想定内 / 外 ) においてで はなく、根本的な形で政治的想像力に働きかける意味での ・発性は世界の無根拠性が露呈し、一切の規定が別様であり 「偶然性」を描くことと結びついているのである。 うるという原理性の存在を示している。さらにここから 大江にとって「新しい人」とはこの「偶然性」の次元を は、「限界の特定はその限界を超えた領域を生成させる」 引き受ける者のことであり、それゆえそれはソンタグが想 こと、すなわちある規定の成立そのものがそれ自体を超え た領域を示唆するという問題が生まれる。これは、先にソ定したような、実体的に改良された人間でもなければ、段 ンタグと大江の間で交わされた「知」の条件、すなわち知階的に到達可能な人間像でもない。それは偶発性のカオス を引き受ける、新たな形での〈主体性〉の発生の問題なの れば知るほど無知が生まれるという、無底の問題と結びつ いていると言える。 である。『新しい人よ眼ざめよ』の最後において、プレイ ニュー・エイジ この問題は、危機の存在とそれへの介入という問題を考ク『ミルトン』序の「眼ざめよ、おお、新時代の若者ら よ ! 無知なる傭兵どもらに対して、きみらの額をつきあ えたとき、示唆的である。巷間にはこういう声があるだろ わせよ ! 」を引きながら、「プレイクにみちびかれて僕の うーーー危機は現行のシステムにおいて必ず起こる、後はど ニュー・エイジ まがまが 幻視する、新時代の若者としての息子らのーーそれが凶々 こでどのように起こるかということだけだ : : : われわれは ニュー・エイジ それに備え、警備を増強し、いざそれが起こった際には緊しい核の新時代であればなおさらに、傭兵どもへはっきり 急事態として新たな「利潤」を得るためのきっかけにすれ額をつきつけねばならぬだろうかれらのーー・その脇に、も ばよい・ うひとりの若者として、再生した僕自身が立っているよう 危機の発生する「可能性」という発想は、出 にも感じたのだ」と語られる時、この「新しい人」はいわ 来事の発生がそもそも予め計算可能か否かということが論 理的なマトリックスの前提とされている。しかし実のとこ ゆるニューエイジ思想とは位相を別としており ( そもそも
「自分のものだから、じゃなくて、自分のものになった瞬間 て自分が選ばれたのか、よく判らないし、本人にそれを直接 に、世界観と価値観を変えて、ってことですね」 訊いても困らせるだけだろうし訊けなくて、だからずっと、 「そうそう ! そうそうそうそう ! 結婚相手つてまさしく取り俺なんかで妥協して良かったのかな、棚子ちゃんの幸せは 替えのきかないものでしょ ? だからこそ、幸福度も恋愛度も もっと他にあるんじゃないかなと思ってたの。でもさ、あの 上昇して、ひょっとしたらその度合いは僕の幸せや愛情と同 スピーチ聞いて他のカップルの幸せを信じられたのを踏まえ じくらいなんじゃないかな、と。皆俺 : : : 僕と同じように、 て翻って考えて、やつばさ、すんごく信じがたいことだけ この出会いはもの凄くラッキーで、運命的なものなんだと信ど、同じように彼女も幸せだし愛情を持ってくれてるんじゃ ないかなと思えたんだよね」 じてるんじゃないかな、って、何となく具体的に想像ができ たんだよね」 「なるほど」 「うん。そういうこと」 「そんでさ、俺的に最も大事なポイントはね、それが理解で としみじみ頷く友樹さんに私は確認する。 きてホッとした : : って言うとまた嫌らしい感じなんだけ 「終わりですか ? 」 ど、なんか、しみじみと良かった、と思ったんだよね。僕 「え ? うん。そう思えて良かったなって」 さ、これを一言うとまた図々しく聴こえるんだけど、棚子ちゃ 「で、それを棚ちゃんに伝えたんですか ? 」 んみたいな子と付き合ってて、俺みたいな奴が、とか、分不 「うん。良かったなーと思って」 「へえ : ・ 。で、棚ちゃんが怒ったんですか ? 」 相応な気持ちがあって、何と言うか罪悪感みたいなのもずつ とあったんだよね。 : さらに言うと、極悪なんだけどさ、 「あ、そうそう。そうなんだよね。それが本気で意味不明で 俺だけ幸せですみません、っていうよな、ね。ホントごめん さ。いや想像はできるって一一一一口うか、やつば他のカップルのこ だけど。そういうのがさ、そのスピーチでぜーんぶ吹き飛ん と見下してたように捉えられて、それが軽蔑されたんじゃな いかなーって : : : 」 だんだ」 「へえ : : : 」 「え ? 本当にそうだと思うんですか ? 」 「うん。で、正直な話をさらに進めるとさ、俺はね、あー 「 : ・・ : や、他にもあるよ ? え ? あれ、トビちゃんも何か思う ・ : まあ単純な話なんだけど、自分が棚子ちゃんに愛されて ところある ? やつば、この話」 るっていう確信が持てなかったんだよね。と言うか、どうし 「まあ私の感想はい、。 してすから、友樹さんの考えを教えてく