しかし、この作者の二〇〇九年の本賞 友祐は、当事者たちも押し殺して自覚でる。意味を生んでいる部分は、時として、 候補作『まずいスープ』から読んで来て、 きなくなっている声を聞く耳を持つ。人マジョリティの物語に取り込まれる。 現在見られる見事な語りが、作者のキャ は自分が信じたい現実を揺るがす声を聞李龍徳の作品は、秀作であるデビュー くと、まずは全否定しにかかる。東北の作を越える要素が少なかった。『異郷の友ラクターに由来する天然のものなどでは なく、試行錯誤の結果見い出された資質 声は、震災直後と違って、今は否定を誘人』、他者が書かれないことが気になっ に合った技芸だと知っていると、軽やか 発するのだろう。私の考えでは、震災のた。『やがて海へと届く』は真摯な作品だ 年に発表されたこの作品が今年になるまが、読み物系の小説として評価されるべな見かけに相違して、全候補作の中で本 作が最も手間暇かけて磨き上げられた作 で書籍化されず黙殺されたことと、被災き。 品だということは見て取りやすい。着想 者の現在に対する世の無関心とは、同根 を得た昂奮のままに筆を走らせ着想を充 だ。文学がその無関心に同調する格好に のろさを讃える 分に伸ばさずじまいだったり、設計図通 なっているのは残念である。文学はえて りに書くことに注意を奪われて遊びの部 して、人が文学だと認識していないとこ 松浦理英子 分がほとんどなかったりする作品を読む ろに生息している。 『家へ』。新潟の小さな町に生きる、血縁受賞作、戌井昭人『のろい男ー俳優・と、なぜそんなに書き急ぐのかと首をひ ねり、受賞作の「のろさ」がより好まし だけの結びつきではない家族の現実を亀岡拓次』は、それそれに意欲的でセー 淡々と描きながら、共同性の暴力を描きルス・ポイントのはっきりした候補作のく感じられるのである。 この語りのスタイルでは書けることが 出す。「いい人」しか出てこないのに、そ中では、飄々として肩の力が抜けている ド限られるのではないかという危惧もない の人たちが無言で引く境界線が微妙に変ように見える。亀岡拓次という架空の有 わるさまが恐ろしい。日本社会そのもの優がロケその他で出向いた土地で出喰わではなく、ここからまた工夫を重ねて作 品世界を拡げて行くとすればたいへんな したちょっと面白い出来事を短編シリー を描いた作品。 ズとして書き繋ぐという、ご当地ソング作業になるかと推測するが、戌井昭人は 私は以上二作品を推した。 『のろい男』。作中に頻出する映画のタイならぬご当地小説の形式は、延々と書き急がず気負わず自惚れずじっくりと成し トルが妙にリアルで面白い。無意味さに続けることができるうまい発明だと感心遂げてくれるものと信じる。 触れるとき、戌井昭人の真価が発揮されする一方で、楽しそうでズルイとも思う。 8
もみんな感動したところなんですね。 町田完全に狂ってますよね。ないものをどうやって訳す 堀江細かくやっている意識はないんです。各篇の発表の間 が空いていますから。読み返すということをあまりしないの 堀江ないものをどうやって訳し、どう日本語にして、どう 解釈するか。手を伸ばしても、何も掴めずに、壁の向こう側 で、《詩》もうろ覚えになって、引用を間違えたりする。前 と語句が違うと、校閲の方によく指摘されました。あわてて に突き抜けてしまう感覚ですね。何をやってもスーツと言葉 読み返すと、確かにおかしい。その時点で、書き直しにな が逃げて行く。自分にとっては、抵抗が欲しいわけです。紙 る。 に手書きをするときの、ペン先の引っかかりみたいなもの 町田やり直し。緻密に間違えているわけですね。 を、どうにかしてたぐり寄せたかった。 堀江一行、二行の断片が頭にあるだけで、《詩》のプロッ 町田この詩は普通に読んでいると、意味がよくわからない ク全体を覚えているわけじゃないんです。風、止、葡萄酒、 部分が多いですよね。 そういう単語のつながりだけが浮かんで、そこから次を書い 堀江そうですね ( 笑 ) 。自分でもわからない。わからなく てもしいというか、まずは漢詩みたいに、視覚に訴えられれ ていく感じなので、手探りというのか、思い出す過程をその まま記したという印象ですね。 ばよかった。言葉の意味を深く考えず、自動筆記のように、 ないものを《翻訳》していきました。にもかかわらず、発表 ■「幻の原典」を翻訳する 後の誌面を眺めていると、意味をなすように見える個所が あって、それでますますわからなくなる。今回は無名の書き 町田今の話を聞いた読者の単純な興味として伺いたいんで手を前提としていますが、既成の作家、既成の詩人の作品を望 すけど、作中の詩は、一応フランス語を翻訳したという形に 読むときにも生じる感覚です。 葉 言 なっているじゃないですか。そこは実際はどんな感じだった 時間を置くと、自分の書いたものもそうなんですけど、言 のかなと、ちょっと興味があるんです。例えばフランス語で葉がまったく違って見えてくることがある。前の日に何を読 先に書いて、それを後で日本語に落とし込んだとか。 んだか、どういう音楽を聞いたか、何を食べたか、睡眠時間射 堀江そうではないんです。幻の原典があって、それをどう翻が多いか少ないかによって、文字の景色が変わる。そういう 訳するかという、幻の自乗のような作業をやっていました。 変化を身体的に許容して、先に進む。
ジャイアント馬場でも、つ一首。 吉川宏志 マンホール鉄蓋のうえジャイアント馬場は死につっ立てり月の夜 「月の夜ーの幻想風景なのだろう。「マンホール鉄蓋のうえ」に、異形の 姿が浮かび上がったのだ。「ジャイアント馬場」のニックネームは「東洋 の巨人」だった。これも、今聞くと懐かしく、どこか切ない響きがある。 「東洋」という、近年は耳にしなくなった言葉のせいだろうか。西洋人に 較べて体の小さな東洋人、その中における「巨人」。作中の「ジャイアン ト馬場ーは、淋しさの塊のような存在感を放っている。 最後に、ちょっと珍しい「レスラーの歌」を。 長与千種 苦労したリング思えば必勝のロード歩くぞ一途な願い 尾崎魔弓 クソミソにリングで言われヒールとはロックのリズム怒りの鼓動 これらは女子プロレスラー本人が作った短歌である。長与千種はライオ ネス飛鳥とのコンビによるクラッシュギャルズとして一世を風靡したレス ラー。一方の尾崎魔弓も「美しき悪魔 . の異名を持つ、同時代を代表する ノ ヒール ( 悪役 ) レスラ 1 である。いずれもそれぞれの立場からストレート 歌 に思いを吐露した作品に見える。だが、実は五七五七七の最初の音が代 「く」「り、「ひ。「ろ」「い」Ⅱ「栗拾いの折り句になっている。まさに現 プロレス的なギミック ( ? ) だ てつぶた てつぶた
柿本人麿 「吉野の宮に幸しし寺に、 柿本朝臣人麿の作れる歌」 古い日本語の「新しさ」 リ 1 ビ一央雄 日本語を書くようになる前し 」こ、ばくは長年、日本語を読 み、ときにはその日本語を英語に翻訳することもあった。読 みながら一字一句に責任をもって日本語にとっての異一一 = ロ語で 「書き直す」という過程の中で、作品の全体とその細部まで 読みこむことが課せられていた。英訳そのものとして成功し た作品もあったが、日本語の小説とノンフィクションを十八 冊刊行した今となって振りかえると、英訳として成功したか どうか以上に、英訳という厳密な作業を通して日本語の内部 に導かれて、「古典」としての日本語だけではなく可能性と しての日本語を考えさせられたことが大きかったかもしれな 最も古い日本語の中には「新しさ」を感じることが多 っこ 0 、カ子 / 美しい日本語 日本に定住する前の時代、アメリカの大学の東洋図書館に こもり、一万里離れた風景を思い浮べながら、近代の日本語 からすこしずっさかのばり、「古い」日本語を読んだ。読ん でいるうちに、、 しつの間にか「古い」日本語の源泉だとされ ている万葉集にたどりついた。 万葉集を、その最古の歌から始まり、飛鳥時代に詠まれた という作品群を、近代日本のあらゆる解釈書をたよりに、何 とか読解できるようになった。 七世紀の終り頃の日本語を、「伝統主義」や「懐古」も知 らず、異質な風土の大陸の中で、とにかく次から次へと読も , っとした。 そのアメリカ大陸ではじめて、柿本人麿の歌が目に入っ た。「柿本人麿」の名声もばく然としか分らなかった。なの 、風景と心情を直に、しかも雅びやかに結んだその短歌が ただ鮮やかだった。 あふみ ゅふなみちどりな 淡海の海タ波千鳥汝が鳴けば情もしのに古 思ほゅ 「タ波千鳥」という四つの漢字からは、軽さと重みが同時に 感じられて、その一句を何度も目でたどっているうちに、そ れに相当するような英語がやがて、 skimming evemng waves こころ いにしへ 188
映画における物語内カメラの視点は、そのカメラを 一一一人称多視占 構えている登場人物の視点とほば一致 ( 完全に一致するこ となる。これらをふたたび映画に置き換えてみよう。「一 とはあり得ない ) している場合もあれば、切断される場合 もあり、遠く隔てられる場合もある。物語内の一台のカメ 人称一視点映画ずっと一人の見た目」は、映画における 叙述トリック的な作品 ( 実はここまではすべてひとりの人ラによって記録された映画という設定の作品があったとし て、カメラを構えていた者はカメラを置いて自画撮りをす 物が見ていた映像だったのだ ! など ) がまずは思い浮か ることも出来るし、そのカメラを別の誰かに受け渡してい ぶ。「三人称一視点映画Ⅱ ( 物語外の ) カメラの見た目の くことも出来る。この場合、分離したり転移したりしてい み」は登場人物の視点映像が一切出てこない映画のこと るのは「視点」だろうか「人称」だろうか ? ( だが繰り返すがその認定は必ずしも容易ではない ) 、こん 中国の映画作家ワン・ビン ( 王兵 ) に『原油』というド にちの映画では「三人称多視点映画日 ( 物語外のカメラ キュメンタリー作品がある。上映時間十四時間という途方 + ) 複数の人物の見た目が混在」が明らかにもっとも多い もなく長大な作品だが ( 私も全部は観れていない ) 、その ( これも繰り返しになるがこれらの視点の判別も実際には 中に、原油採掘場の休憩室で労働者たちが佇んでいる場面 かなり難しい ) 。そしてここでも「一人称多視点映画」だ こヾートはそれしかなかった ) 。 がある ( というか私が観オノ けがどういうものをそう呼べるのかが明確ではない。それ そこでは薄暗い部屋の一番奥の壁際にデジタルカメラが据 はそうだろう。映画の「人称」に相当するのは ( ナレー ションという次元を考慮しなければ ) 観客が見ている映像え置かれ、映像が撮りつばなしにされている。やがて部屋 にはひとりしか居なくなり、当然だが会話もなくなり、遂 を物語内で見ていることになっている者ということであ にその男も出ていってしまい、誰もいなくなり、それでも り、それは「視点」と同定されている。つまり「一人称映 カメラは延々と部屋を撮り続ける。このカメラ映像はど 画」とは「一視点映画」のことなのだ。 う考えてもワン・ビンの視点とは一一一一口えない。ならばこれは だが、そうとは言えないケースもある。近年の映画で一 「無人称一視点映画」ということになるのだろうか。それ 潮流を成している、いわゆる「 (PointofView) 映画」すなわち物語内の ( 複数の ) カメラに記録された映とも「三人称一視点映画」でいいのか。ドキュメンタリー という形式はフィクションとは性質が異なっていると思う 像のみから成るという趣向の映画はどう呼んだらいいのだ ろうか。人ではなく機械だから「無人称映画」だろうか。 かも知れないが、同じことをの劇映画でやることは 295 新・私小説論
れ見よがしな個性も雄弁さも、必ずどこかに無理を装ってい かゆくて仕方がない。やがてかゆみが暴走し、胃を掴み出し るひきつれと怯えが潜んでいる。その仮面の完成美と対極の て体が裏返しになる幕切れが、引用の文章である。頭のかゆ 文章を求めていた。 みも胃のつかえも、自分という存在の不確かさから来る宿痾 まず有効な特効薬となったのは、三島がほとんど唯一、及のようで、一種の自己放棄の衝動とともに、読む者の底に潜 び難い思いで憧れていた谷崎潤一郎である。第二の谷崎になむ不確かさまで引きずり出してくる。それは言葉を書くとい り下がることを恐れた三島は、肉体と行動の具現へと赴い う不確かな行為そのものと地続きだ。 た。のちに谷崎を論じることで私は文芸評論家としてデビュ というのも、夢ほど言葉にしにくいものはないからだ。そ ーしたわけだが、結局それは三島以外、というより三島以上 れはかたちが定まらず、事象にことわけて書き写すことがで きないシームレスな織りものである。夢をモチーフにしてい の、「美しい日本語」への帰結だったといえる。 しかし本当の三島以外とは、「美しい日本語」らしきかた る作家は少なくないが、ほとんどは夢の内容を梗概におきか え、ユニークなストーリ ーの要素を利用しているばかりで、 ちに結晶し磨かれていくべクトルとは別の、誇りから美しさ から身を退き、かたちに凝固することを拒むような文章でな夢独自の書きにくさの表現に本当に挑んでいる作家は稀だ。 ければならないはずだ。そんな文章が実在することを教えて逆に島尾敏雄はそれこそを自分の文学の目標にしているよう くれたのが、島尾敏雄に他ならなかった。 な人で、いわば言葉にしがたいものを書くことに邁進した不 島尾敏雄の文章には、まだ骨格も精神も固まっていない乳思議な作家である。代表作の『死の棘』にしても、梯久美子語 幼児のようなやわらかさ、進行途上の生成感がつねに生々し の労作『狂うひと』が示唆するように、妻のミホとの名状し く宿っている。そのような島尾らしさが最もよく表れている がたい特殊な関係性そのものを、服従と協同の務めとともに 美 のが、初期から晩年まで一貫して書きつづけていた夢をモチ書いたものだろう。 る ーフとした作品群である。「夢の中での日常」はその筆頭だ 島尾敏雄を境に、私のなかで言葉の受けとめ方が大きく変え ろう。ある一夜の夢というより、 いくつかの夢が物語風に合わった気がする。佇まいのくつきりした美しい言葉への憧れ 人 体して構成され、「私」がどんどん夢の場面から場面へ移動と並行して、その対極の、書くことへのためらいからくずれ〇 していく作品である。居場所も職業も定まらない「私」の不ていく文章にも惹かれるようになった。強いていえばそれ は、くずれの美しさだろうか。 安を炙りだすような不快で不吉な状況が次々と現れる。頭が 美しい日本語
やはり私はおかしなことを書いているのかもしれない。 された「三人称」を「視界の限定」や「発話時点の制約」 というか書いている。しかし続けよう。野口史観の第二段を持たない「無限定・無制約」なものだとしているが、そ 階、すなわち「世俗的一人称」が「中性的三人称ーを産出れは「超越的一人称」がその視野に「死角と限界」を持っ するプロセスに向かおう。野口はそれを「詞」Ⅱ「作中人物ていなかったという状態に、ある意味で回帰しているよう の言表」と「地」「作者の一人称の発話」の布置の問題と にも見える。しかしもちろん「一人称」と「三人称」の違 して捉え、このプロセスが進行する舞台となった「一一一一口文一 いがここにはある。つまり「一人称」では「約束事」ゆえ 致」運動とは森鵐外に倣って「「地」の文章の一人称がい に許されないことが「三人称」ではごく当然に許される。 かに「三人称」化されるかの過程」であったと言う。ふた 右の野口の文章は前々回に引用した部分から少し削った たび前々回に引用した『三人称の発見まで』の記述を見よ のだが、省いた一文に「三人称の成立は、 ( 略 ) 一言語空間 う。二葉亭四迷の『浮雲』について述べた部分である。 を「事実らしうもてなす」要請に応じている」という記述 がある。「事実らしうもてなす」とは坪内逍遙『小説神髄』 作者の作者性表示ーーー言表行為性の提示ーーーは、『浮 にある表現である。ここには「リアリズム」とルビを振る 雲』第三篇ではみごとに抹消された。作者はどこへいっ ことが出来るだろう。こうして「小説」というフィクショ たのか。作中人物に内在し、かつまた、作品世界に遍在ンが「事実らしうもてなすⅡリアリズム」に平伏する道具 するようになったのである。作者はこれ以上もう話者の として「三人称」が召喚され、その使用価値を認められ 存在態を取らず、一種仮有の時空点から発話する。これ て、日本の小説に蔓延していくことになった。 が三人称である。 しかし何度でも繰り返すが、野口も「言語対象の客観性 一人称と三人称は、視界方位ならびに時間深度を異に と定在性、言表行為の公正性と信憑性」の「外見」とさり する。 ( 略 ) 一人称には視界の限定があり、発話時点の げなく記しているように、それはまったくもって「そうい 制約があるのに対して、三人称は無限定・無制約であ うことにする」ということでしかないのであって、実際に り、一言語対象の客観性と定在性、言表行為の公正性と信は「三人称」であっても「 ( 一人称的な ) 語り手」は消失 憑性の外見を保持することができるのである。 ( 同 ) などしていない。それは「作中人物に内在し、かつまた、 作品世界に遍在するようになった」ということでさえな お気づきのように、 ここで野口は遂にこうして「発見」 。それはたとえば一編の小説を丸ごと鍵括弧に入れて、
業は地味なものだが、珠樹に充実した気分をもたらした。 あることも、珠樹が働き始めてから了解したことだ。それま 大学近くのレンタルビデオ店でバイトを始めておよそ一カ では全国一律、もしくは逆だと思っていた。 月がたった。別に映画好きというわけではないつもりだった 「逆 ? 」店長はけげんな声をあげた。学生は金がないから、 が、ちょこちょこ借りてみるようになっていた。 大学の側にあるレンタルショップはむしろ安価に設定するだ 新作の入荷は店内のモニターや無料紙などで派手に ろう、と珠樹は普通に考えていた。実際は、学生は映画をよ りみたがるから、あしもとをみている。 宣伝されるが、なにかの作品があるときから「旧作」に成り 下がったことは特にアナウンスされない。ただひっそりと また、ここで働くまで、ビデオ屋における「新作」「準新 「サスペンス」「アクション」といったジャンルごとの棚に納作」「旧作」という料金区分は時限性なのだと思っていた。 まるだけだ。忘れ去られるわけではないが、事物が「過去に レンタル開始から半年たてば「準新作」に、一年たてば「旧 なっていく」様態をありありとみせられるような寂しさがあ 作」になるというように。これも実際には違っていて、人気 る。 のある作品はいつまでも旧作にはならない。知ったとき、な だが「新作」から料金が下がるのを執念深く待ち構えてい んだかズル、と思ったものだ。旧作で、利益率の落ちた作品 る客というのが一定数いる。バイトを開始して、店内での作はそのままワゴンセールで売られていってしまうのが少し切 業もレジ打ちも慣れてきて、だんだんと客の様子を把握でき るようになってきた。旧作はアナウンスされないので、彼ら 「『ア・ハター』のなにがいいか分からない。だって顔青いん は自主的に、店内をうろっきながら棚の変化を探っている。 だよ」先輩のノリコさんがやっと「準新作」から「旧作」に あれは、単に安くあげたいというばかりでない気がする。過なった『アバター』のバッケージをもう一人の男性の先輩 去になっていくことへの抵抗とでもいおうか、彼らの生物め 彼女にとっては同期、ーーの山崎さんに次々と渡しながら いた嗅覚の発揮や、あるいは人としての矜持のようなものを訴えている。人気のあった映画だから、どっさりある。 ( 勝手に ) 珠樹は感じ取り、それで貼り替え作業が充実する 「臨場感じゃないですか」 のだった。そのようなことを思うことを自分でも意外に思い 「そういうんじゃなくてさ山崎くん、顔が青いんだよ ? 」か れ ・ま はしたが。 おが、あおいのところに深い抑揚をつけた。 店舗ごとに値段設定が異なるが、珠樹のバイト先の大学 「ああ、 3 で— < >< シアターで観ないと本当のよさが出う 前は学生の利用が多いので、レンタル料金も少し高額だ。 ないってオッサンがよく言ってますよねー」 店舗ごと料金が異なることも、「利用が多いので高額」で 「もう、信じらんない」二人の会話は噛み合ってない。バッ
題材に「美しい日本語」を論じるのは難しすぎる。 和歌については、百人一首に毛の生えた程度の知識しか持 たないが、俳句より多少長く、情感を乗せやすいこともあ り、「美しいーと思える作品は多い。私の好みとしては、情 が勝ちすぎているものは駄目である。切腹前の辞世の句に は、だからろくなものはない。たとえば、吉田松陰の「身は たとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」はプロバガン ダであって、美しい日本語からは程遠い。私が、美しいと思 える和歌は、実朝の「吹く風の涼しくもあるかおのづから山 の蝉鳴きて秋は来にけり」。茂吉も小林秀雄も吉本隆明もこ 「美しい日本語」という特集に何か書けということである ぞって名歌だとほめているものを、今更私が取り上げるのも が、文章の美しさに客観的な基準があるとは思えないので、 ごく主観的な感想を記すことにする。中学生のころから文章気が引けるが、この歌が美しいのは、自然の移り変わりに耳 を澄まし、叙景の中に情感を沁みこませているところにあ を読むのは好きだったが、小説は読むのが面倒くさいので、 る。ただの叙景でも、ただの叙情でもなく、この二つが見事 あまり好きでなかった。専ら読んだのは詩とエッセイで、 に調和して、妙なる調を奏でている。叙情が乾いているのも 時々俳句なども作り、国語の先生に褒められて得意になって いたが、ある時「枯れ枝に烏とまりて秋の暮」という句を素敵だ。この歌を口ずさむ時に、おのづから、で一呼吸入れ ないで、涼しくもあるか、で一呼吸入れると、叙景の美しさ 作って先生に見せたら、ひどく怒られた。「枯枝に烏のとま がはっきりする。ところで、このセミの種類はツクックボウ りたるや秋の暮」という芭蕉の有名な句を剽窃したと思われ シとする説があるが、ヒグラシに決まっていると思 , つ。ック たのだ。今読めば、この二つの句の格調は全く違うが、中学 ックボウシは残暑の中で鳴く蝉で、涼しいというコトバには 生の私は、駆け出しにも芭蕉と同じ作品が作れる俳句の価値 ヒグラシは今の暦で、 7 月の中旬から 9 似つかわしくない。 に疑問を抱き、句作をやめてしまった。後年、桑原武夫が 月の下旬近くまで鳴いている出現期の長い蝉で、通常、明け 「俳句第二芸術論」を唱えていたのを知り、さもありなんと 思ったのを覚えている。俳句の価値は一句一句にあるのでは方とタ方に鳴くが、冷たい風が吹いてきて、雲が陽を遮った りすると、一斉に鳴きだすことがある。実朝はそういう情景 なく、俳人が生涯にものした句の集大成としてみるべきもの を詠んだのだ。我々は、この歌を詠んだ数年後に待ち受けて だと今は思うが、いずれにしても、俳句は短すぎて、これを 美しい日本語 石原吉郎「位置」 見事なリズムの形式美 池田清彦 152
第 ■応募作品は未発表の小説に限る。同人雑誌発表作、他の新 人賞への応募作品、ネット上で発表した作品等は対象外と 回 する。 ■枚数は、 400 字詰原稿用紙で 70 枚以上 250 枚以内 ワープロ原稿の場合は、 400 字詰換算の枚数を必ず明記の こと。応募は一人一篇とする。 ■締切は 2017 年 10 月 31 日。 ( 当日消印有効 ) ■原稿は必ずしつかりと綴じ、表紙に作品名、本名、筆名、ふ りがな、生年月日、住所、電話番号、職業、略歴 ( 出身地、 簟歴など ) 、 400 字詰換算枚数を明記する。同じものをも う一枚、綴じずに原稿に添付すること。に記入いただいた個人 情報は受賞作の発表・応募者への連絡以外には使用いたしません ) ■宛先は、〒 1 1 2-8 0 0 1 東京都文京区音羽 2-1 2-2 1 講談社群像編集部新人文学賞係 ■発表は本誌 201 8 年 6 月号。 ( 同年 5 月号に予選通過作品を発表 し、 5 月上旬に小社にて授賞式を行います ) ■賞金は 5 0 万円。 ( 受賞作複数の場合は分割します ) ■受賞作の出版権は小社に帰属する。 ・応募原稿は一切返却しない。 ( 必要な場合はコピーをとってください ) ・応募要項、選考過程に関する問い合わせには応じない。 [ 選考委員 ] 青山七恵 高橋源一郎 多和田葉子 辻原登 野崎歓 第 [ 選考委員 ] 一応募作品は未発表の評論に限る。卒業論文、同人雑誌発表 作、他の新人賞への応募作品、ネット上で発表した作品等は 大澤真幸 対象外とする。 回 一枚数は、 400 字詰原稿用紙で 70 枚以内。ワープロ原稿の 場合は、 400 字詰換算の枚数を必ず明記のこと。応募は一 熊野純彦 人一篇とする。 ー締切は 2017 年 4 月 30 日。 ( 当日消印有効 ) 鷲田清ー ※締切が変わります。 ・原稿は必ずしつかりと綴じ、表紙に作品名、本名、筆名、ふ りがな、生年月日、住所、電話番号、職業、略歴 ( 出身地、 筆歴など ) 、 400 字詰換算枚数を明記する。同じものをも う一枚、綴じずに原稿に添付すること。に記入いただいた個人 情報は受賞作の発表・応募者への連絡以外には使用いたしません ) ■宛先は、〒 1 1 2 ー 8001 東京都文京区音羽 2-1 2-21 講談社群像編集部新人評論賞係 ■発表は本誌 2017 年 12 月号。伃選通過作品も同号で発表します ) ※発表号が変わります。 ■賞金は 5 0 万円。 ( 受賞作複数の場合は分割します ) ■受賞作の出版権は小社に帰属する。 ・応募原稿は一切返却しない。 ( 必要な場合はコピーをとってください ) ・応募要項、選考過程に関する問い合わせには応じない。 稿集 原募 気鋭の才能を輩出した 群像新人賞は、 更に一層の清新な才能をャ 待望しています。 稿集、一 原募