「ご指摘の通りです。ダンベルでは無理があり過ぎます」 あっさりと老人が自分の推理を捨てたので、私は面食ら ってしまった。 「仮にそれが可能だったとしても、彼には釣り糸で被害者 の首を絞めることができません」 「あっ、そうですよね」 どうにも振り回されている感じがしたが、当の老人は全 く気にした風もなく、 「残るのは三枝木氏ですー 当たり前のように検討を続けた。 「しかし彼は津田邸に近づくどころか、デザイン事務所か ら一歩も出ていない。そうですよね」 「その点については、ちゃんと事務所のスタッフが証言し ております。つまり三枝木氏のアリバイは、立派に成立し ているわけです」 「でしたら、彼に犯行は不可能 「と断言して良いのでしようか またしても老人が思わせ振りな物言いをしたので、 「何か方法があるとでも ? 妙にどきどきしながら私は尋ねた。 「犯行時刻に近い時間、デザイン事務所の屋根裏のべラン ダに出ている三枝木氏を、あなたはご覧になっていますー 「ええ、性懲りもなく看板を撮影しているようでした」 「それが実は振りで、あなたがスクラップブック作りや私 との会話に熱中する瞬間を待って、ある行為をしたのだと したら、どうでしよう」 「それは一体どんな : 「釣竿の釣り糸の先に結びつけたダンベルを使い、自宅の べランダにいながら、隣家の津田氏の頭を殴打するーーと いう行為ですー 驚いて絶句したまま、しばらく私は固まってしまった。 しかも脳裏には、釣り糸に揺れる血染めのダンベル・ いう悪夢のような光景が、はっきりと浮かんでいた 「そ、そんな方法で人を殺せますか」 「練習次第では可能かもしれません」 「しかし : : : あっ、首を絞めた釣り糸はどうなりますー 「三枝木氏は投げ釣りが好きだった。釣り糸の先に別の釣 り糸を絡ませ、それを被害者の首へと飛ばした」 「けど、そんなに上手くーー」 と私が言いかけると、 「成功するわけありません」 そう老人が受けたので、再び私は面食らった。 件 「第一それでは津田氏の首を絞めることはできません。そ 事 人 して何よりの問題は、殴打の痕があったのは被害者の後頭 の 部だったという事実です。犯行時刻に津田氏は、三枝木デ ・・と 235
こちらの反応に気づいた三枝木が、意地悪くも口を閉ざ スタッフが答えるや否や、ころっと態度が変わった。 したので、がっかりした。野次馬根性が満たされすに失望 「こっちにお通しして」 あぶはちたかし したのではない。出版業界の内幕を学ぶ機会を逸したこと 突然の訪問者は音楽プロデューサーである虻鉢孝の独り が残念だったのである 息子で、文学少年には似合いそうもない体育会系の身体を だが、それで私も断り易くなった。 持つ高校生の保だった。 「あの看板の所有者は津田さんですから、使用許可なら彼 「ど、つ、も に求めて下さい 学校の帰りに寄ったらしく、鞄を持った制服姿で無愛想 「それができんから、君に頼んでるんだろ」 に応接間へ入って来た彼は、私には見向きもせすに、さっ 三枝木は執拗だった。 さと椅子に座って踏ん反り返っている 「でも、私の一存では : : : 」 「よく来たね。珈琲を頼もうか」 「無断で撮影するのはいいのか」 そんな無礼な高校生に、三枝木は笑顔で対するばかり 遂には脅す始末である か、湖畔亭に電話して珈琲まで頼んだ。私にはお茶の一杯 「撮影したデ 1 タは、飽くまでも私個人が楽しむものです」 も出さなかった癖に 「それにしたって、津田に断りなく撮ったわけだ」 虻鉢保は父親の影響を全く受けなかったようで、作家志 所有者の許可なしに商業的な使用を目論む人物に言われ望だった。それもミステリ作家である。せっせと中学時代 たくないと、私は大いに憤った。とはいえ争い事は好まな から創作に励み、この春に高校へ進学したのだが、受験勉 いので顔には出さない。 この場をどうやって切り抜ける強の傍らに執筆したという中篇「砲丸邸殺人事件ーを書き か、それだけを考えていた。 上げていた。しかも本格物らしい そのときインタ 1 ホンが鳴った。仕事部屋で応答したら このエピソ 1 ド自体は微笑ましいのだが、なんと彼はそ しいスタッフが、すぐ応接間に来客を告げに現れた。 の原稿を自費出版した。しかも装丁をはじめ本文デザイン 「誰 ? 」 を三枝木デザイン事務所に依頼する懲りようである無論 不機嫌そうに三枝木は尋ねたが、 それらの費用は父親の孝が出した。典型的な親莫迦だろう。 「保君ですー とはいえ保の気持ちも分からなくはない。私も中学時代 たもっ 223 G 坂の殺人事件
そんなことまで言い出した。おまけに、 既に構想しているというから、三枝木にはお得意さんとい うわけだ。 「今に俺は傑作を書く、まだ書かないのは面白いアイデア が浮かばないからだ などと言い訳して、結局いつまで 私が三枝木デザイン事務所の玄関から外へ出ると、ちょ しずか 経っても執筆しない、 というよりもできない、なのに一端うど湖畔亭の静香が珈琲を運んで来たところだった。彼女 はマスターの獅戸静夫の独り娘である の作家気取りでいる輩よりは、とにかく作品を書いている 「あれ、出前はマスタ 1 に代わったんじゃなかった ? 」 彼の方が、余程まともではないか」 惚けた振りをして訊くと、 私に対する当て擦りのような台詞までロにした。大きな お世話である 「それは : : : 津田先生のお宅だけですー 静香が可愛らしい顔を赤らめて答えたので、あの噂を知 「だからといって将来、保君の小説が何処かの商業誌に載 っていた私でさえ、むっとしてしまった。 るとも、彼がミステリ作家になれるとも、まあ限らないけ ど 津田信六と湖畔亭の静香が不倫をしているのではない か、と近所で囁かれ出したのは、今年になってからであ 最後にフォローのつもりなのか、まるで付け足すように る。といっても噂しているのは一部の者だけで、余り広ま 言ったが、やはりこの男とは馬が合わないと改めて思い直 しただけである ってはいない。そうなる前に獅戸静夫の耳に入り、津田家 虻鉢保の顔を見て、ここ一週間ほどの出来事を私が回想への珈琲の出前はマスターが代わるようになったからだ。 わざ 以上が津田信六を巡る坂の人間模様だった。いや、こ していると、三枝木が態とらしく咳払いをした。もう用は こにあの老人も加えるべきだろうか ないから帰れと言いたいのだろう かくしやく かなりの高齢にも拘らずいつも矍鑠としており、何処か 私が暇を告げる間もなく、三枝木と保は早速「打ち合わ せ」をはじめた。まだ書き上がってもいない第二作「弾丸英国紳士を思わせる振る舞いの反面、時に少年のような好 奇心を覗かせ、何よりも怪談奇談が好きな、とてもジ 1 館殺人事件ーの装丁について、二人は熱心に話し出してい ンの似合うその老人は、ここ二カ月ほどで湖畔亭の常連客 る。依頼者の保は当然としても、三枝木にプロの誇りはな となった人物だった。常連といっても顔を出すのは日曜だ いのかと、私は情けなくなった。恐らく虻鉢孝の支払いが けだが、私はすっかり仲良くなっていた。 良いのだろう。ちなみに保は第三作「薬丸家殺人事件も 225 G 坂の殺人事件
リと呼べる作品がほとんどないとか、そういう指摘は止め 招きし出した。こっちに来いとい、つことらし、。 ただ て貰いたい。名探偵の代名詞の看板が、あの津田邸に飾ら 不審な行為を質されることを覚悟して、私は津田邸を辞 れていること、それ自体が問題なのである すと、そのまま三枝木デザイン事務所へ向かった。通され うらや 私は羨ましさの余り : : : では決してなく、飽くまでも序たのは応接間だが、投げ釣りが好きな三枝木らしく、あち でがあったので、その週の金曜の夕方に、問題の看板を見こちに趣味の釣り道具が目につく。正直、余り寛げない部 に一打くことにした。 屋である 津田は自慢したい気持ちがあったのか、特に渋ることな 私はもう慣れてしたが、 、 ' 先程の自分の行為に対する上手 く三階のべランダまで私を案内した。そこで「如何にこの い言い訳が何も思い浮かばず、実はかなり緊張していた。 看板のことを知り、そして入手したか」という退屈な話を ところが、三枝木の口から出たのが、 聞かされたのだが、 津田夫人に呼ばれて彼が階下に下りた 「あの看板を、ひょっとして撮影しなかったか 隙に、私は看板を撫で回して好き勝手に弄り倒した挙句、 予想外の意外な質問だったので、とても驚いた : ええ、まあ ちゃっかりスマートフォンで撮影までした。 ちなみに津田夫人だが、いつも派手な洋服を着ている外 とはいえ無断撮影である。余り堂々とは認められない 見とは裏腹に、とても淑やかな女性である。読む本もホラ だから私は言葉を濁したのだが、いきなり相手は喜びはじ ーは嫌いでミステリが好きという真っ当な精神の持ち主めた。 で、あんな男には全く勿体ない奥方だった。 「そりや良かった」 当初の目的を達して、私が非常に満足していると、急に 「えつ」 視線を覚えた。恐る恐る南側のーー私の家とは反対側のー 「その撮影データを、ちょっと貸してくれないか」 ー隣家に目を遣り、ぎよっとした。自宅でデザイン事務所 「 : : : はあ」 を構える三枝木大作が、その屋根裏部分の小さなべランダ 「ちょうど津田と君がべランダに出て来る前に、俺も望遠 に出て、こちらを凝視しているではないか。 機能を使って撮ってたんだけど、やつばり映りが悪くて 事 人 : 見られた ? な。こっちのべランダの方が低いのも、上手く撮れない原 の 焦る私を他所に、彼は片手を挙げると、くいくいっと手因だろう」 だいさ、 もったい しと 221
ザイン事務所の方角を向いて読書をしていた。彼の姿が椅 子から消える一、二分前に、あなたによって目撃されてい る。ということは、仮に釣竿のトリックが有効だったとし ても、三枝木氏が被害者の後頭部を殴るのは、かなり難し かったことが分かります」 「そうなると容疑者が、もう : 「いなくなりますか」 と返され考え込む私に、なんとも意外な名前が告げられ 「津田夫人がいます」 「いや、けど : : : 」 「彼女は犯行時刻に、津田邸にいました」 「しかし女性には、あの犯行は不可能でしよう」 「だから彼女は、三階のべランダからダンベルを落とした」 「あっ」 「それも津田氏が読書に、『熱中して思わず前屈みに』な るときをちゃんと狙った」 「だから後頭部に痕が残った」 そこで私は例の釣り糸の問題を口にした。 「窓からダンベルを落としただけでは不安だったので、念 のために釣り糸を持って庭に出たーーーと考えれば確かに筋 は通ります。でも、そんなことをすれば、間違いなく私に 姿を見られたはずですー 「そうでしようか。津田邸には種の玄関隠しとして、常 緑の庭木が植えられています。よって夫人が玄関から外に 出ても、湖畔亭からは見えません」 言われてみればそうだった。 「あとは四つん這いになり、垣根に身を隠しながら進め ば、倒れている被害者には簡単に近づけます 「帰りは逆のことをしたわけですか」 「そうですー 「動機は夫の不倫ですねー 「機会と方法と動機の三つが、彼女の場合は見事に全て揃 っています」 老人は纏めながらも、 「ただ お馴染となった思わせ振りな態度を見せたので、私は大 いに警戒した。 「ただーーー何ですか」 「彼女が着ている洋服は、いつも派手だったんですよね 「ええ」 「事件の日に買い物に出かけた服も、実際にそうでした」 「それが : : : 」 「いえ、そういう服を着て垣根沿いに進んだ場合、あなた に気づかれるのではないでしようか」 「 : : : そ、つです」 236 G 坂の殺人事件
件 「 : : : でしよ、つね この坂の略称だった。坂下から見上げて左手ーーっまり西 「画像デ 1 タの取り込みはうちでするから、君はスマホを側ーーーに並ぶ家々に、服飾デザイナ 1 、書道家、ピアニス の 坂 貸してくれるだけでいい ト、ブックデザイナ 1 、作家、イラストレ 1 ター、画家、音 ほかんとする私に、彼が片手を差し出している。私のス楽プロデュ 1 サ 1 、作曲家といった芸術関係に携わる人々 マホを渡せということらしい が多く住んでいたため、そう呼ばれるようになったらしい。 「どうしてですー 勿論そこに私も入るわけだが、デビュ】作の装画や装丁 遅蒔きながら尋ねると、 の仕事を、この坂の住人たちに頼むとは限らない寧ろ 「書籍の装丁に使うからさ」 避けると思う。なせなら津田信六をはじめ、彼らの才能を 当たり前のような口調で返された。 余り評価していないからだ。 「でも、それなら津田さんに だからといって莫迦正直に自分の気持ちを表に出すほど 私に最後まで言わせることなく、三枝木が首を振った。 私も傲慢ではない。何と言っても隣近所の付き合いもあ こり 「彼とは新作『狐狸のように騙すかもしれないもの』のプ る。それは他の住人同士の間柄についても同じだった。そ ックデザインを巡って、かなり派手に喧嘩したばかりなん のため三枝木と津田の争いに関しても、私は興味のない振 りをした。 で、まず無理だな」 「へえ、そうなんですか 津田信六の著作デザインの一部を、お隣同士という関係 実際は微に入り細を穿っ説明を聞きたかったが、ここは もあるのか、三枝木デザイン事務所が受けていることは、 前々から私も知っていた 我慢だと己を諭した。 尤もそれを言うなら、ある津田作品の表紙を飾る油絵を すると三枝木が、その反応の悪さにかちんときたのか、 描いた画家も、別作品の表紙に使われたイラストを作成し 「大体あのセンセイは、ちょっと売れたからってーーー」 たイラストレータ 1 も、同じ坂に住んでいた。津田を担 と憎々しげな口調で、徐に津田信六批判をやりかけた。 当した編集者は、この急な坂を上り下りするだけで、彼の余程プライドを傷つけられたらしい そこで私は、つい身を乗り出す失策を犯してしまった。 著作の装丁作業の打ち合わせができたことになる。 「いや、部外者にこんなこと言っても仕方ないか」 坂の説明が遅れたが、これは「芸術坂」の異名を持っ うが むし 222
すー 田氏が不審に思いませんか」 する気は更々ありませんが、徒歩でならまだしも自転車に 「 : : : 警戒されますよね」 乗った状態だったことを考えるとーー」 「いえ、それだからこそ保君には、犯行が可能だったので 「それに獅戸氏の片手と甕の周囲、凶器も濡れてしまいま はないかと考えたのです」 「自分の手は拭けば済むけど、他は跡が残りますか」 「一体どうやって ? 」 「真夏でもない限り、そうなるでしよう」 「津田邸に差しかかった所で、被害者の後頭部を目がけて 「獅戸静夫には動機と機会があった。でも彼には肝心の凶 ダンベルを投げるのです」 「なんですって」 器が使えなかった」 「そういうことになります」 「砲丸投げの要領ですね」 ここまでの検討を私が簡単にメモするのを待って、老人 「まさか自作『砲丸邸殺人事件』を参考にしたとか」 が先を続けた。 私の解釈に 「三枝木大作氏と虻鉢保君の容疑は、まあ同程度でしよう 「その作品は読んでいないので、何とも言えませんが・ーー」 老人は困った顔をしてから、 かお二人とも津田氏によって、非常にプライドを傷つけ られた。これは犯人が男性の場合、充分な動機になります」 「とにかく坂は非常に急な坂です。にも拘らす保君は猛 スピ 1 ドで下って行ったと、あなたは記しています」 「男の動機には顕著な例ですね」 「ええ、見たままを書きました」 「はい。ただし両人とも、現場には全く近づいておりませ ん」 「あれは目一杯の打撃力を出すために、彼が態とやったの 「三枝木は自宅にいて、保は津田邸の前を自転車で通り過ではないでしようか」 ぎただけです 「自転車が坂を下るスピ 1 ドを利用して津田を殺害し、そ ここで老人が何とも思わせ振りな発言をした。 うすることで且つ自分のアリバイも作った : : : 」 「ただし保君は一時だけとはいえ、被害者の側を通った。 思わず納得しかけたが、すぐに疑問が浮かんだ。 つまり現場にいたことになる」 「そんな体勢で投げる凶器に、ダンベルは向いていたので : いた、と表現するのはどうでしよう。別に彼を擁護しようか。それこそ砲丸の方が相応しくありませんか」 234 G 坂の殺人事イ牛
れた常緑の庭木で隠されているため、第二の目撃者に見つ 「あなたにはそう見えたのでしよう。だから実行した。そ かる心配はありませんでした」 して『坂の殺人事件』を書きはじめた。まだ〈事件〉と その第二の目撃者である老人に、こうして私は追 記された章しか拝読していませんが、本格物がお好きなあ い詰められている なたは、その記述に思わぬ苦労をする羽目になった」 「あなたが現場に立ってやることは、次の三つです。まず 「 : ・・ : 分かりますか」 新聞記事を切るのに使った鋏で釣り糸を切断する。次に凶 「津田邸への訪問を『飽くまでも序でがあった』と正直に 器のダンベルを被害者の側に転がす。最後に釣り糸を巻き 言したうえで、甲板のポ 1 ルにする仕掛けも『好き勝手に 弄』ったと遠回しに書いている。そして『当初の目的を達取って衣服のポケットにでも隠す。これで殺人計画は成功 するはすでした。しかし、この一連の行為を読者から完全 して』、自分は『非常に満足している』と纏めています。 ちゅうちょ に隠すことに、あなたは躊躇した。トリックの一番肝心な ここで隣家から視線を感じたあなたは、一連の『不審な行 為』を三枝木氏に見られたのではないかと懼れた。だから部分を内緒にするのは、フェアでないと思った。そこで 『私は片手の鋏で、何の躊躇いもなく釣り糸を切った』と 彼に声をかけられたとき、非常に焦ったわけです いう一文を、あなたは大胆にも記すことにした。ただし、 確かにあのときは、生きた心地がしなかった。 「しかし、あなたが最も苦労した記述は、振り子の殺人装そのままでは唐突過ぎて不自然なため、その釣り糸が被害 者の首に最初から巻かれていた かのような錯覚を読者 置を解体する場面でした。当たり前ですが、実録ミステリ に与える、そんな書き方をしたのです」 『坂の殺人事件』で、この一連の行為を正直に書くわけ 老人はプリントアウトに目を落としながら、 にはいきません。でも本格物を志向するなら、全く書かな 「その箇所に改めて目を通すと、被害者の首に巻かれた釣 いで隠すこともできない。アンフェアになりますからね」 り糸を切ったとは一言も書かれていない順番としては、 老人の言う通りだった。 まず釣り糸を切った、それから被害者の首に巻かれた釣り 「津田氏の後頭部を一撃した振り子の凶器は、その衝撃に より揺れも次第に収まっていきます。このダンベルの状態糸を認めた、という風に読めます。あなたが現場でした実 際の動きが、その通りだったからです。もっと正確に言う をよく見極めてから、あなたは行動を起こした。ちなみに と、適当な長さに切った釣り糸で被害者の首を絞め、残り ポールから釣り糸にぶら下がった凶器は、玄関前に植えら おそ 240 G 坂の殺人事件
「思うのですが やや自嘲的な気持ちで私はロを開いた 「本格ミステリによく見られる物理的なトリックのほとん どは、プロバビリティの犯罪ではないでしようか」 「複雑な機械トリックになればなるほど、成功率は下がる からですね」 「無論そう読者に感じさせないように、作者は色々と工夫 をします」 「それでも苦しいアイデアや無理だろうと突っ込みたくな るトリックが、まあ目白押しかもしれませんな」 老人の物言いは、そんな本格ミステリの欠点を批判して いるようにも、逆に楽しんでいるようにも聞こえた。だか らこそ私も自分の意見を躊躇いなく言えたのかもしれない 「そこで私は、こんな風に考えたのです。犯罪計画を練る 犯人は、その成功を心から望む一方で、失敗した万一を想 像して心から恐怖することも、実は楽しんでいるのではな 「ほうつ」 老人が感心したような顔をしたので、私は嬉しくなった。 「被害者を殺したいだけなら、通り魔殺人か強盗殺人にで も見せかけるのがべターでしよう。手の込んだトリックを 考案する必要は全然ありません。にも拘らず荒唐無稽な計 画を立てて実行するのは、それが失敗するかもしれないス リルとサスペンスも味わうためではないか えたわけです 「その心理は無意識でしようね」 「はい。 きっと犯人自身は気づいていませんー 「だとしたら遊戯性の強い犯罪計画を練ること自体が、自 らの犯行に覚える罪悪感の裏返しとも取れますな」 とても興味深い老人の考察に、思わず私は興奮した。こ ういう刺激的な会話ができるのは、本当にこの人くらいで ある。 こういったミステリ談義を、私は新聞記事の切り抜きと スマホでの検索をしながら、老人は珈琲を味わいつつ、お 互いが楽しんでいた。そしてあのときを迎えるわけだが、 その前後の周囲の様子をできるだけ正確に、ここに記して おきたい。 まず津田邸の庭では、津田信六が椅子に腰かけて熱心に 読書をする姿が、先述した通り垣根越しに臨めた。 その南隣の三枝木デザイン事務所の屋根裏部分のべラン ダでは、懲りすに津田邸の看板の撮影をする三枝木大作の 姿が、一時だけだが見えていた。 湖畔亭のマスタ 1 の獅戸静夫が、津田に珈琲を運びに行 き、しばらくして店に戻って来た その少し前に自転車に乗った虻鉢保が、命知らすにも猛 スピ 1 ドで坂を下って行く姿が目撃された。 と、ふと考 229 G 坂の殺人事件
いえ、それだけで殺しはしないだろう。私に動機がなかっ こんな機会は滅多にないので、私は津田信六殺しを記録 たのも幸いしたのかもしれない することにした。普通なら隣人が被害者の事件を小説化す ただし、現場で釣り糸を切った行為については、相当ね るなど、なかなか抵抗があってできるものではない。だが ちねちと突っ込まれた。 幸い津田との間に深い交流はなく、そのため彼の死を悼む 「頭部の酷い傷は目に入っていましたが、釣り糸で止めを気持ちも余り感じなかった。酷い言い訳だと自分でも思う とっさ 刺そうとしたみたいに見えたので、咄嗟に切りました」 が、この立場を別の視点から見ると、私こそ最も事件を客 幾らそう説明しても、既に絶命していると思わなかった観的に記せる存在である、とは言えないか。 のかと返してくる 引き続き警察には煩わせられたが、私は気にせずに「 「それは、もう死んでるように見えましたけど : : : 。首吊坂の殺人事件」を書きはじめた。仮にこの事件が迷宮入り りを発見したら、まずは下ろそうとしませんか助かるか しても、被害者がホラーミステリ作家の津田信六なのだか どうか分からなくても : ら、きっと発表の場はあるだろう。何と言っても本稿は実 人命救助を優先したと訴えて、ようやく許してもらえ録ミステリなのだから。 た。勝手に現場を弄ったことが、予想以上に心象を悪くし 前の段落までの文章を三日で書き上げ、その続きに取り たらしい。これで老人の証言がなく、更に私の津田嫌いが かかろうとしていた木曜の午後、我が家のインターホンが 曲解して受け取られていたら、今頃は犯人扱いされていた 鳴った。また警察かと思いうんざりして出ると、あの老人 に違いない。そんな想像をしたら、ふっと布くなった。 だったので驚いた。日曜以外の日に彼が坂まで来るの 警察の事情聴取は津田邸の隣近所をはじめ、ほば坂の は、恐らくはじめてではないか。 わた 住人全般に亘ったようである。その中でも特に繰り返し話 私は大いに歓迎して、突然の訪問を詫びる老人を応接間 を聞かれたのは、発見者である私と老人、三枝木デザイン に通すと、湖畔亭に珈琲を頼んだ。 事務所の三枝木大作、湖畔亭のマスタ 1 の獅戸静夫と娘の 「出前ではなく、お店に行っても良いのですが・ 「それでは事件の話をし難いでしよう」 静香、音楽プロデュ 1 サ 1 の虻鉢孝と独り息子の保であ る。恐らく私と老人を除く全員が、この事件の容疑者なの 老人の返答が、この訪問の目的を物語っていた ではないだろうか 実はこちらも次の日曜に、湖畔亭でミステリ談義をする 231 G 坂の殺人事件