特集短篇ーっぐない 「一人ずつ、消されていったというのか ? が自分たちとうまくやっていけないと言ったそうだ 「笑い事じゃない、ジョン んとうは、家族のほうが彼女とうまくやっていけなかった ハスの笑みが消えた。「そうだよな。じゃあ、いっ んだが。というわけで彼女はここに入り、ここの雰囲気を 明るくしてくれた : : : 先週まではな。先週、救急車が彼女たいどういうことなんだ ? 「よくわからんが : : : 最近の新聞記事にな、老人ホームの を迎えに来て、三日後に彼女は死んだと聞かされた」 職員は老人には何の処置も施さないでそのまま死なせると 「ケン : か書いてあった 「ミセス・エドワ 1 ズだけじゃないんだ、ジョンフラッ 「思いやりから来る放置 ? バスが異論を唱えようとしているのを トレイの声は、リー 「この場合、ク思いやりという表現はふさわしくない」 察して、執拗になった。「ある日、ドット・ ーカ 1 が病 「食事をろくに出さないと言うのか ? 」 気になり、翌日には死んだ。マニイ・レイラーもそうだっ 「いや、食事は出るよ : : : 曲がりなりにも」 「じゃあ、なんだ ? 」 「よく聞く話じゃないか、そうだろ ? こっそりと患者に 毒を盛る看護師がいるとかさ」 「ケン・ ハスの声に警告の響きが戻った。フラッ リ 1 バスはため トレイが黙ってリー バスを見つめたので、 息をつき、椅子の背にもたれた。「おれにどうしろと言う んだ ? 」 作 「誰かが何とかしなければ、と思って : : : 」語尾が消え ク ン 「誰かが不審な死に方をしたら、たとえ老人であろうと、 必す検死がある」 ス 「でも、不審な死に方じゃなかったらどうする ? 長年病 新 気だったり、袞弱していたら : : : 病理医は予想どおりの死 説 解 リーバスは、かって先生と呼んだ警官フラ ットレイを老人ホームに訪ねた。彼は老人ホ ームの住人たちが職員の手によって、一人す つ殺されていっているのではないかと疑って いた。自らにもおとずれつつある老いという ものを考え、沈むリーバス。そんなとき二人 の目の前で入居者の男が脱走しようとしてい た。彼は、死体が埋められた場所を思い出せ ない、わしはあんたが思っているような人間 しゃない、などとロ走っており・・ 現代を代表する作家のひとり、イアン・ラ ンキンは 1960 年スコットランド生まれ。現 在自らも住むエジンバラを舞台に、納得がい くまでとことん捜査を行なう一匹狼の刑事リ ーバスを主人公としたシリーズをものしてい る。そのリーバスものの長篇『他人の墓の中 に立ち』の邦訳が 4 月に刊行される。詳しく は 63 ページの「今月のポケミス・ガイド」 をご覧ください。本作の初出は短篇集 The Co 襯が e S ん 0 S ね (Orion, 2008 ) 。 4 053
いえ、それだけで殺しはしないだろう。私に動機がなかっ こんな機会は滅多にないので、私は津田信六殺しを記録 たのも幸いしたのかもしれない することにした。普通なら隣人が被害者の事件を小説化す ただし、現場で釣り糸を切った行為については、相当ね るなど、なかなか抵抗があってできるものではない。だが ちねちと突っ込まれた。 幸い津田との間に深い交流はなく、そのため彼の死を悼む 「頭部の酷い傷は目に入っていましたが、釣り糸で止めを気持ちも余り感じなかった。酷い言い訳だと自分でも思う とっさ 刺そうとしたみたいに見えたので、咄嗟に切りました」 が、この立場を別の視点から見ると、私こそ最も事件を客 幾らそう説明しても、既に絶命していると思わなかった観的に記せる存在である、とは言えないか。 のかと返してくる 引き続き警察には煩わせられたが、私は気にせずに「 「それは、もう死んでるように見えましたけど : : : 。首吊坂の殺人事件」を書きはじめた。仮にこの事件が迷宮入り りを発見したら、まずは下ろそうとしませんか助かるか しても、被害者がホラーミステリ作家の津田信六なのだか どうか分からなくても : ら、きっと発表の場はあるだろう。何と言っても本稿は実 人命救助を優先したと訴えて、ようやく許してもらえ録ミステリなのだから。 た。勝手に現場を弄ったことが、予想以上に心象を悪くし 前の段落までの文章を三日で書き上げ、その続きに取り たらしい。これで老人の証言がなく、更に私の津田嫌いが かかろうとしていた木曜の午後、我が家のインターホンが 曲解して受け取られていたら、今頃は犯人扱いされていた 鳴った。また警察かと思いうんざりして出ると、あの老人 に違いない。そんな想像をしたら、ふっと布くなった。 だったので驚いた。日曜以外の日に彼が坂まで来るの 警察の事情聴取は津田邸の隣近所をはじめ、ほば坂の は、恐らくはじめてではないか。 わた 住人全般に亘ったようである。その中でも特に繰り返し話 私は大いに歓迎して、突然の訪問を詫びる老人を応接間 を聞かれたのは、発見者である私と老人、三枝木デザイン に通すと、湖畔亭に珈琲を頼んだ。 事務所の三枝木大作、湖畔亭のマスタ 1 の獅戸静夫と娘の 「出前ではなく、お店に行っても良いのですが・ 「それでは事件の話をし難いでしよう」 静香、音楽プロデュ 1 サ 1 の虻鉢孝と独り息子の保であ る。恐らく私と老人を除く全員が、この事件の容疑者なの 老人の返答が、この訪問の目的を物語っていた ではないだろうか 実はこちらも次の日曜に、湖畔亭でミステリ談義をする 231 G 坂の殺人事件
すー 田氏が不審に思いませんか」 する気は更々ありませんが、徒歩でならまだしも自転車に 「 : : : 警戒されますよね」 乗った状態だったことを考えるとーー」 「いえ、それだからこそ保君には、犯行が可能だったので 「それに獅戸氏の片手と甕の周囲、凶器も濡れてしまいま はないかと考えたのです」 「自分の手は拭けば済むけど、他は跡が残りますか」 「一体どうやって ? 」 「真夏でもない限り、そうなるでしよう」 「津田邸に差しかかった所で、被害者の後頭部を目がけて 「獅戸静夫には動機と機会があった。でも彼には肝心の凶 ダンベルを投げるのです」 「なんですって」 器が使えなかった」 「そういうことになります」 「砲丸投げの要領ですね」 ここまでの検討を私が簡単にメモするのを待って、老人 「まさか自作『砲丸邸殺人事件』を参考にしたとか」 が先を続けた。 私の解釈に 「三枝木大作氏と虻鉢保君の容疑は、まあ同程度でしよう 「その作品は読んでいないので、何とも言えませんが・ーー」 老人は困った顔をしてから、 かお二人とも津田氏によって、非常にプライドを傷つけ られた。これは犯人が男性の場合、充分な動機になります」 「とにかく坂は非常に急な坂です。にも拘らす保君は猛 スピ 1 ドで下って行ったと、あなたは記しています」 「男の動機には顕著な例ですね」 「ええ、見たままを書きました」 「はい。ただし両人とも、現場には全く近づいておりませ ん」 「あれは目一杯の打撃力を出すために、彼が態とやったの 「三枝木は自宅にいて、保は津田邸の前を自転車で通り過ではないでしようか」 ぎただけです 「自転車が坂を下るスピ 1 ドを利用して津田を殺害し、そ ここで老人が何とも思わせ振りな発言をした。 うすることで且つ自分のアリバイも作った : : : 」 「ただし保君は一時だけとはいえ、被害者の側を通った。 思わず納得しかけたが、すぐに疑問が浮かんだ。 つまり現場にいたことになる」 「そんな体勢で投げる凶器に、ダンベルは向いていたので : いた、と表現するのはどうでしよう。別に彼を擁護しようか。それこそ砲丸の方が相応しくありませんか」 234 G 坂の殺人事イ牛
老人は坂の近辺に住んでいるわけではなく、坂下に家老人が現れるのを待っていた。日曜の午後の、それが私の のある元大学教授を毎週訪問しているのだという。その人楽しみだった。 物は嘗て大学で民俗学を教えていたため、家には貴重な専 老人が元教授の家で蔵書を見るのは専ら午前中で、それ 門書が一杯あるらしい。その蔵書を老人は見に来ていた。 から駅前で昼食を済ませて、以前は帰るだけだった。それ 「あなたも大学の先生だったのですか」 が二カ月ほど前に元教授から湖畔亭の存在を聞き、好奇心 知り合って間もない頃に尋ねると、老人は楽しそうに笑から訪れたのが今では習慣になっている。老人も江戸川乱 いなカら、 歩の愛読者だったからだ。加えて週に一度の私とのミステ 「そんな堅実な職に、僕は就いたことがありません。ずつ リ談義を、もしかすると彼は心待ちにしているのかもしれ と旅から旅の生活で、各地方に伝わる怪異譚の民俗採訪を からからんつ。 遣っておりました」 「市井の民俗学者ですね。 ドアの上部に取りつけられたカウベルが鳴って、お待ち 私が納得していると、 かねの人物が湖畔亭に入って来た。 「ただの好事家に過ぎません」 老人はマスタ 1 に挨拶してから、いつものように「こ さらっと老人は流した。それでも話をするうちに、きっ こ、よろしいですか」と私に断ったうえで、テ 1 プルを挟 と専門的な著作が何冊もある人物に違いないと、私は確信んだ向かいの席に腰を下ろした。 を持つようになった。元教授の家に出入りしているのも、 いつもなら天候の話など、老人は日常的な会話から入る 勉強のためだというのだから驚く。ただ残念ながら私の興のだが、その日は違った。 味ではないため、それ以上の突っ込んだ話はしなかった。 「津田氏のお宅の切妻に掲げられている看板、あれはシャ 意外だったのは怪談奇談が好きな癖に、ミステリに対す ーロック・ホ 1 ムズではありませんか」 る造詣も非常に深かったことである。老人は「探偵小説 座るや否や質問してきたのは、同じくミステリを愛する の呼称を好んで使ったが、本格物にも精通していて私を狂者として微笑ましかった。 喜させた。そこには同好の士に巡り合った嬉しさがあった。 私が看板の由来と撮影した話をすると、是非その画像を はさみ だから私は、その日も新聞記事を鋏で切り抜きながら、 見せて欲しいと頼まれた。スマホに表示して手渡したとこ かっ こうずか 226 G 坂の殺人事件
は巻き取って回収したのでしよう」 なものが写っていることに、実は気づいていました。勿論 あのときすぐ近くで本当に見ていたような、そんな老人そのときは意味が分かりませんでしたが あれを警察 の説明だった。 で拡大して分析すれば、釣り糸のようなものだと判明する 「話が少し戻りますが、プロバビリティの犯罪例として、 のではないでしようか」 あなたは釣り糸の仕掛けをご自分で挙げながら、『余り良 そう言えば撮った写真を、私は一度も確認していない。 い例とは言えない』と評した。・ ヒー玉の例をご存じで、且 「その作業と同時に、あなたの直前に撮影した三枝木氏の っ『理想的なプロバビリティの犯罪』だと認めているにも写真も調べて、何処にも釣り糸が写っていなかったとした ら、ど、つでしよ、つ」 拘らず、なぜか釣り糸の仕掛けを取り上げた。その理由 は、振り子の殺人装置に釣り糸を使用するためではありま 優秀な弁護士を雇えば幾らでも言い逃れはできるかもし せんかだから前以って読者に釣り糸を印象づけた。携帯れない。だが私は潔く負けを認めたいと思う。 と同じです。幾らフェアな描写を心掛けるとはいえ、凶器 このあと老人の勧めで、本稿の〈推理〉の章を書き上げ のダンベルに言及するのは、流石に無理でしよう。そこで ることにした。彼によると小説の完成は、同時に供述書の 釣り糸を選んだわけです 作成にも繋がるからという理由らしい。しかし実際は、私 そう言いつつも老人は、ふっと考え込むような素振りを に最後まで小説を書かせて遣りたい という老人の優し さではないかと感じている 見せると、 「振り子の殺人装置で殺害できなかった場合を見越して、 だから私はこうして、我が家の応接間で老人を待たせた つづ はじめから釣り糸で止めを刺すことも、もしかすると考慮まま、この文章を綴っているのだが していたのかもしれませんね」 原稿の続きを執筆する前に、「あなたは、どういう方な より深い推理を口にして、更に私を追い詰めた。 のですか」と私は尋ねた。だが返ってきたのは、「ただの 「 : : : 証拠はあるんですか」 年寄りですーという答えだけだった。 心の底では無駄な足掻きと思いながら、それでも最後の 一体あの老人は何者なのか 抵抗を試みずにはいられなかった。 「坂の殺人事件」で最後に残った謎が、事件を解決した 「あなたが撮った看板の写真を拝見したとき、ポールに妙老人の正体なのかもしれない 241 G 坂の殺人事件
件 代わりに、老人と事件の検討をするつもりでいた。それが 「 : : : ありがとうございますー 事 早まっただけである。しかも老人の指摘通り、マスタ 1 の 嬉しさの余り私が頭を下げると、とんでもないことを老 の いる店でそんな話はやり辛いので、この訪問は有り難かつ人が言い出した。 「お返しといっては何ですが、今度はこちらが現場の状況 珈琲が届くまでの間、私は書きかけの原稿のテキストデ についてお話いたしましよう」 1 タをプリントアウトして、老人に読んでもらうことにし 「えつ」 た。被害者を巡る人間関係を知らないと、事件に対する突 「ちょっと伝手がありましてねー っ込んだ推理もできないからである それ以上の説明はせずに、警察でないと知り得ない情報 やがて珈琲が届いた。配達は静香だったので、それとな を老人は語り出した。 くマスターの様子を訊いてみると、 「死因は後頭部に受けた打撲による脳挫傷で、死亡推定時 「とても疲れているみたいですー 刻は午後二時前後です。そのとき津田夫人は、ちょうど買 言葉少なに答えただけで、逃げるように帰って行った。 い物から戻ったところでした。ただし出入りにはキッチン もし父親が犯人だった場合、その動機は彼女の不倫にある の勝手口を使い、住宅の西側を通る裏道を利用している わけだから無理もない。 また帰宅してからはキッチンで買い物の片づけをしてお 老人に珈琲を勧めると、礼を言って口をつけたが、その り、そのため表側の庭で起きている出来事に、全く気づけ 眼差しは私の原稿に向けられたままである。如何に実録原なかったようです。凶器は現場に落ちていた鉄製のダンべ 稿とはいえ、自分が書いた文章を目の前で読まれるのは、 ルでした。両側に錘があって、中央の持ち手を掴んで持ち 流石に照れてしまう。 上げるタイプですね。その一方の錘の部分で、被害者は後 「良く書けていますね」 頭部を殴打された。相当な力で殴られたようで、犯人は男 最後まで目を通したあと、老人が褒めてくれた。 性と見做されています。首の釣り糸は死後に巻かれたもの しよせん 「所詮ご近所のことですから でした。念には念を入れて止めを刺すために首を絞めたも 「いやいや、ちゃんと細部まで観察して書かれている。こ のの、犯人にも被害者の絶命が分かったのか、余りカは入 の原稿は非常に役立ちます」 っていませんでした。ダンベルも釣り糸も量販店で売られ 232
ろ、老人は一枚ずつ丁寧に鑑賞し出した。こういうときの好に合っているらしい がんぜ 表情は、本当に子供のように頑是ない。 珈琲が来るのを持ってから、恒例となった二人のミステ リ气義がはじまった。テーマを出すのは私の番だったの 「遠目では細部まで分かりませんので、これは良いものを 拝見できました」 で、谷崎潤一郎や江戸川乱歩や・・スティーヴンソン 老人は丁寧に頭を下げると、私にスマホを返しながら済の作品に見られるプロバビリティの犯罪を提案した。 まなさそうに言った。 「本格物がお好きな方にしては、珍しいテ 1 マですね 「スクラップブック作りのお邪魔をして申し訳ない。どう 「そうですか」 ぞ続けて下さい 指摘された意味が分からずにいると、老人は茶目っ気の ある口調で、 いつも私が、切り抜いた記事の内容をスマホで検索し、 まえも 「勝手な思い込みですが、本格探偵小説を好む人は、前以 また関係各所に電話をかけて追加情報の有無を調べ、あれ って綿密に練り込まれた計画犯罪でないと満足しない印象 ばメモする習慣なのを老人は知っていた。だから謝ったの だろ、つ が、やつばりあるからでしよう」 スマホが出る前は、電話はともかく記事の検索は家に帰 「なるほど。言われてみれば、そうかもしれません」 ってパソコンで遣っていた。前の携帯電話でも検索はでき ご存じない方のために説明しておくと、プロバビリティ がいぜんせい の犯罪とは言わば蓋然性の殺人のことである たが、やはり使い勝手が悪かった。そのためスマホを使い 出してから、それまでの携帯は家に置きっ放し状態になっ 例えば殺意を覚える相手が、全く人通りのない坂道の路 ている 地を、いつも自転車で下る習慣があるとする。そこで路地 ) え、寧ろお見えになるのをお待ちしていたので、邪の途中に、ちょうど相手の首の高さを狙って釣り糸を張っ ておく。すると自転車で走って来た相手は、その釣り糸に 魔されたなんてことは全くありません」 慌てて否定する私に、ほっこりとした笑みを老人は返し首を引っかけて死ぬかもしれない。上手くは引っかかるも てから、ようやくマスタ 1 に珈琲を注文した。老人のお気のの死なないかもしれない。頭を下げていて無事に通過す るかもしれない。そもそも問題の路地を通らないかもしれ に入りは古書店街で有名な都内の神保町にある〈エリカ〉 という店の珈琲だったが、湖畔亭のプレンドの味も彼の嗜ない別の人間が被害に遭うかもしれない。というように 227 G 坂の殺人事件
ている代物で、購入先を突き止めるのは、かなり難しいで せていたとは、とても思えません」 しようね。ちなみにダンベルと釣り糸の他に、現場の庭と 警察でしたのと同じ証言を繰り返す私に、 津田邸内から、不審なものは何ら発見されておりません」 「ええ、それは無理でしよう」 老人の話に興味を引かれつつ、一体この人は何者なの すぐに老人も賛同したのだが、私が考えもしなかった方 か、という疑問が頭の中を回っていた。だが、ここは取り 法を、さらっと提示した。 あらかじ 敢えず事件に集中するしかない 「ただし、現場となる庭の何処かに、予め凶器を隠して 「犯人が男と思われるため、私も疑われたのでしようか」 おくことは可能です」 「第一発見者という立場も、無論あったと思います。ただ 「 : : : そうか被害者の日課を、犯人は熟知していた。珈 し、あなたには動機がない。津田氏を快く思っていなかっ琲を頼むことも分かっていた」 たのは、ご近所の皆さんの証言もあって確かですが 「だから、そういう計画も立てられた」 これは聞き捨てならなかったが、敢えて反論はしなかっ 私は予想外の展開に興奮して、何の考えもなしに思いっ た。往々にして世間とはそういうものである いた隠し場所を口にした。 「かといって過去に喧嘩をしたとか、揉めたという事実は 「北側の庭は垣根で囲まれています。あの中に潜ませたの 一切ない。動機としては弱過ぎるでしよう」 ではありませんか」 老人にそう断言してもらえて、なぜか私はほっとした。 しかし老人は首を振ると、 「動機があると見られているのは、湖畔亭のマスターの獅 「それでは津田氏に、すぐに気づかれてしまいます」 戸静夫、隣のデザイン事務所の三枝木大作、高校生の虻鉢 「 : : : ですよねー 保の三人ではありませんか」 次に私が考えついたのは、もう少し増しな場所だった。 私の推測に老人は頷くと、 「庭の隅の大きな甕はどうですか。金魚が飼われています 「最も容疑が濃いのは、やはり獅戸氏でしよう。津田氏が が、甕には水と砂利と藻が入っているので、絶好の隠し場 庭に倒れているらしいのをあなたが気づく前に、現場を行所ではないでしようか」 き来した唯一の人物ですからね」 「そこなら確かに可能です。とはいえ、どんな理由をつけ 「でも、彼が珈琲の出前をした際に、何処かに凶器を潜ま るにせよ、 いきなり獅戸氏が甕に片手を突っ込んだら、津 233 G 坂の殺人事件
その証拠に、私は垣根越しに津田の青いジャケットを見 「撲殺が失敗した場合を考え、止めを刺すために釣り糸は つけたではないか。それは老人も確認している 用意されていた。そう解釈するのが最も自然だと思いま 「犯行時だけ着替える手もありますが、そうすると今度す。ただ分からないのは、素人目に見ても絶命しているの は、着替えた衣服に草や土が付着します。でも、その服を が明らかな被害者の首を、なぜ犯人は絞めたのでしよう。 始末する暇が彼女にはありませんでした。にも拘らず津田止めを刺す必要など全くなかったのに」 邸内から、そんな衣服は見つかっておりません」 「 : : : どうしてです」 「つまり : 本当は訊きたくなかったのに、つい私は合いの手を入れ 「津田夫人にも犯行は無理ですー てしまった。 「でも、他に : ・ : 」 「現場で釣り糸を切った自らの行為を、犯人が隠したかっ 「犯人がいませんか」 たからです 「はい 「あなたがいるじゃないですか」 「犯人が切ったのは被害者の首に巻かれていた釣り糸では 飽くまでも今まで通りの態度で、何の気負いもなく老人なく、津田邸の屋根の切妻から伸びたポールより垂れ下が がロにした。 った、その先にダンベルが結びつけられた釣り糸だった。 「わ、私が 第二の目撃者に仕立てるーーー実際は第一発見者になります 「はい。真犯人は、あなたですねー がーーー予定の人物に、この振り子の殺人装置を見られてし 「ちょ、ちょっと待って下さい」 まう前に、犯人が素早く解体したわけです」 では一体これまでの検討は何だったのだ : : : と尋ねたか 第二の目撃者に予定した人物とは、無論この老人のこと ったのだが、 である 「引っかかったのは、被害者の首を絞めたと思われる釣り いえ、あなたが、 「犯人が と一言い直しましよ、つーーーー振 糸でした」 り子の殺人装置を仕掛けたのは、津田邸に英国パプの看板 そんな私の困惑を他所に、もう老人は新たな推理を述べ を見に行ったときです。津田氏が夫人に呼ばれて席を外し はじめている た隙に、あなたは予め用意しておいた釣り糸の一端を輪に 237 G 坂の殺人事件
「ご指摘の通りです。ダンベルでは無理があり過ぎます」 あっさりと老人が自分の推理を捨てたので、私は面食ら ってしまった。 「仮にそれが可能だったとしても、彼には釣り糸で被害者 の首を絞めることができません」 「あっ、そうですよね」 どうにも振り回されている感じがしたが、当の老人は全 く気にした風もなく、 「残るのは三枝木氏ですー 当たり前のように検討を続けた。 「しかし彼は津田邸に近づくどころか、デザイン事務所か ら一歩も出ていない。そうですよね」 「その点については、ちゃんと事務所のスタッフが証言し ております。つまり三枝木氏のアリバイは、立派に成立し ているわけです」 「でしたら、彼に犯行は不可能 「と断言して良いのでしようか またしても老人が思わせ振りな物言いをしたので、 「何か方法があるとでも ? 妙にどきどきしながら私は尋ねた。 「犯行時刻に近い時間、デザイン事務所の屋根裏のべラン ダに出ている三枝木氏を、あなたはご覧になっていますー 「ええ、性懲りもなく看板を撮影しているようでした」 「それが実は振りで、あなたがスクラップブック作りや私 との会話に熱中する瞬間を待って、ある行為をしたのだと したら、どうでしよう」 「それは一体どんな : 「釣竿の釣り糸の先に結びつけたダンベルを使い、自宅の べランダにいながら、隣家の津田氏の頭を殴打するーーと いう行為ですー 驚いて絶句したまま、しばらく私は固まってしまった。 しかも脳裏には、釣り糸に揺れる血染めのダンベル・ いう悪夢のような光景が、はっきりと浮かんでいた 「そ、そんな方法で人を殺せますか」 「練習次第では可能かもしれません」 「しかし : : : あっ、首を絞めた釣り糸はどうなりますー 「三枝木氏は投げ釣りが好きだった。釣り糸の先に別の釣 り糸を絡ませ、それを被害者の首へと飛ばした」 「けど、そんなに上手くーー」 と私が言いかけると、 「成功するわけありません」 そう老人が受けたので、再び私は面食らった。 件 「第一それでは津田氏の首を絞めることはできません。そ 事 人 して何よりの問題は、殴打の痕があったのは被害者の後頭 の 部だったという事実です。犯行時刻に津田氏は、三枝木デ ・・と 235