ありますけれども、まず、ここにいる人間が、ここというの は免震重要棟の近くにいる人間の命にかかわると思っていま したから、それについて、免震重要棟のあそこで言っていま すと、みんなに恐怖感与えますから、電話で武藤に言ったの 世かな。一つは、こんな状態で、非常に危ないと。操作する人 間だとか、復旧の人間は必要ミニマムで置いておくけれども、 それらについては退避を考えた方がいいんではないかという 話はした記憶があります。その状況については、細野さんに、 退避するのかどうかは別にして、要するに、二号機について は危機的状態だと。これで水が入らないと大変なことになっ てしまうという話はして、その場合は、現場の人間はミニマ ムにして退避ということを言ったと思います。それは電話で 言いました。ここで言うと、たくさん聞いている人間がいま すから、恐怖を呼びますから、わきに出て、電話でそんなこ とをやった記憶があります。ここは私が一番思い出したくな いところです。はっきり言って。 質問者それに対して、おふた方、武藤さんなり、本店側の 人間に対して電話したときの向こうの反応はどうでした ? 回答者別にどうということではなくて、そういう状況かと いうことなんです。それでだとか、そうではないとかい う話ではないんですけれども、私は、そういう危険があるよ と、わかったと、そういう感じなんですね。私の行動として は、廊下にいた協力企業の方のところに行きまして、みんな、 よくわからないでばーっと見るなりしていますから、この人 たちを巻き込むわけにいかないと思って、一生懸命やってき ましたけれども、非常に大変な状況になってきて、みなさん、 帰ってくださいと。退避とは言わないです。帰ってください と。帰っていただければというお話をして、あとはこっちに 戻って来て、こっちも声なかったですよ。その時点で。あと は待つだけですから。水が入るかどうか、賭けみたいなもの ですから。それだけやったら、あとはほとんど発言しないで、 寝ていました。寝ていたというか、茫然自失ですよね。 質問者それは、弁がなかなか開かないとか。 回答者開いたんです。開いたんですが、なかなか圧が下が らないところから、弁を開けるところはまだ操作ですか ら、何やっているんだ、どうなっているんだとなるんですけ れども、弁が開いたにもかかわらず、圧が落ちない。そ ら、見たことかと。結局、サプチャンのほうが高いですから ね。落ちないんではないかと。落ちないで、燃料がどんどん 水位が下がっていっているなと。もう一つは、あまり時間が なかったものですから、ポンプが、消防車の燃料がなくなっ て、水を入れるというタイミングのときに、炉圧が下がった ときに水が入らないと。そこでもまたがくっと来て、入れに 行けという話をしていまして、これでもう私はだめだと思っ たんですよ。私はここが一番死に時というかですね。
2 51 ー「父と私」 とも彼は涙ぐみ、韓国語で話し続けたが、通訳によれば、 で抑留された人々が対象であり、一九四八年に帰国した私の 「今頃なんで来た。一〇年前に来ていれば、朔風会のみんな 父は二五万円だった。 も元気だったんだ」「日本は立派な国で、豊かな国のはずだ。 、ゝけに、ムはどう返答するか迷った。しかし、こ 世界一だと教えられた」などと述べていたそうだ。 こでリップサービスを言っても、何にもならない。そこで、 それでもカメラマンは、涙を流す金学範氏の表情を撮影す 「ご苦労を考えると、もらって当然とも思いますが、日本の る。テレビ制作者たちは、繊細ではやっていられない。 シベリア抑留者もそんなにもらっていません」と述べた。 撮影に立ち会っていたプロデューサーの金萬鎮氏は、金学 そう答えると、氏の表情が変わった。そして「日本人は一 億五〇〇〇万ウオンもらったと聞いた」と言う。私の父も抑範氏に事前調査で会っている。それでも、金学範氏の涙は想 留されたがそんなにもらっていないと述べると、いくらもら定外だったようだ。やがて私たち一行は、お礼を述べて氏の アバートをあとにしたが、気まずい雰囲気が流れた。 ったかと聞く。「二五〇万ウオンくらい」と答えると、氏は そのあと、金萬鎮プロデューサーは、二人でタ食に行こう 韓国語で言葉を続けた。通訳を介して聞いたところ、「そん と言ってきた。プロジェクト全体の話のあと、問わず語りに、 なにわずかなのか。日本は豊かな国なんだろう」「そんな金 金プロデューサーの経歴の話になった。 額をもらってどうするんだ。馬鹿にするな、そんなのもらい たくない」と言っているという。 金萬鎮氏は大学卒業時に、一九九七年のアジア金融危機に ぶつかった。韓国は ( 国際通貨基金 ) の管理下に入り、 私はそこで、「私の父も、同じ理由で、もらいたくないと 言っていました。しかし、半額企業倒産があいついだ。しかし彼は運よくテレビに雇 われ、ドキュメンタリー番組を数多く作ってきた。在職しな を朝鮮人の元抑留者に寄付しょ がら日本の歴史認識論争をテーマにナショナリズム批判の論 うと思って、申請したんです」 李 文を書き、修士号も取得している。 と述べた。すると氏は言葉に詰 影 ところが、保守系の朴槿恵政権ができると、大統領を支持 まり、手を振りながらこう述べ 撮 する経営者が送り込まれてきた。硬派の番組作りで知られた では、経営陣との意見の対立がおこり、二〇一二年に 〔、〔、第、 ' . ' 範「やめなさい、さようなら」 金 これはつまり、「もう帰れ」 大争議が発生する。金萬鎮氏も「中堅活動家」として、争議 ということなのだろう。そのあ に参加したという。
かに遠い国の人たちがバレスチナ解放をその共通点は忘れて映画を完成させた とえば悪というのはイスラエルだけじゃ ない。第二次世界大戦でのナチスドイツ掲げて行動したこと自体には強く動かさのですけど、オランダにいる友人が観た 2 もそうです。日本だって中国を侵略した。れました。その時に思ったのです。「嘆後、「これは本当に君の物語だね。見た くだけでなく何か行動をしなければ」と。目もそっくりだよ」と言われました それも悪です。 界そもそも悪というものは我々人間の中 監督は本作を「自分についての物語」と ( 笑 ) 。その時に気付きました。本作を創 にあるのです。。ハレスチナ人だって邪悪も語っていますが。 りたいと思ったのは、これが私の経験で なことをする。でも人間の生とはその悪 ムハンマドと初めて会った時、好青年あり、物語であり、自分の前向きな気持 よりも大きい。どんな占領政策がなされで、前向きで、笑顔に溢れた人物との印ちの物語だったらだと。『バラダイス・ ても、我々の中にはより大きな、力強い象を受けました。それは一貫して変わらナウ』と『オマル』の主人公たちは悲観 何かがある。それは楽観主義。前向きな ないのですけど、同時に彼はこうも言い的ですが、私は楽観的だし、前向きだし、 気持ちといったものです。我々の中に備ました。「ばくは時間をさかのばって、活力もある。物事をどんどん解決して乗 わっているこれらが人間を前へと進歩さ無名でただ歌を歌っていた自分に戻りたり越えて行くタイプです。むしろ私はム せてくれる力になる。私はそう信じてい い」と。彼に寄せられている期待の大き ハンマドに似ていました。 でもいずれ、「悪夢」は実現するかと。 ます。今の状況は確かに悪い。でもそのさゆえです。実は彼は強い恐怖心を抱え 「悪さ」を口にするだけで何も行動を起ていたのです。それは私自身の経験があそうなったら、オスカー像を持って来 こさないような、「甘やかされた人びるから感じ取れた。私の二作はアカデミます。私の重圧を感じてください ( 笑 ) 。 と」ではなく、悪より大きい、楽観主義ー賞の外国語映画賞にノミネートされま ◆「ガザ」という困難 や前向きな気持ち、あるいは寛容さをもした。正直、受賞しなくて本当に良かっ イスラエルが封鎖を続けるガザで撮影が って進んでいく人が何かを変えて行くのたと思っているのです。それまでに寄せ です。それが人間の進歩です。 られた期待を考えれば、このうえ受賞し出来たのは、僅か三日間と聞いています ( 準 私が幼い時です。日本人が空港でバレたらどうなってしまうのだろうと。 ( 受備はニ日、計五日間 ) 。その困難について教えて スチナ人の解放を訴えて事件を起こしま賞を逃した ) 朝、心が軽くなっていたことください。 した。私は暴力否定派です。だからこそでその重圧に気付きました。もし受賞すまず大変だったのは、ガザに入る許可 アートでレジスタンスをしてますが、遥れば悪夢でした。 を得ることです。三、四カ月間、毎日、
サテライト校でそれそれ教えている。多かれ少なかれ原発事 ちには「伝える」。自分のような問題が、次の世代に起きる 故の影響をうけた地域の教育現場で、様々な事情を抱えた子 ことを防ぐためだ。 どもたちに日々向き合っている。 放射線防護をめぐる意見交換と温度差 カーチャの、自分たちの経験を役立ててほしいという思い 界 は強い。 カーチャは、教員に会うと「アア、カレーガ ( 同業者 世 日本の先生方の受け止め方には、温度差も感じられた。 ね ) ! 」と喜んで握手を求める。 お話しできたのは福島県内の一部の地域、それも三人と限 今は市民団体で教育活動に取り組んでいるが、「もともと られた人数だ。「福島県の先生は」と一般化することはでき 自分は学校の先生」という意識がある。 自分が作った放射線防護のための教材を持ち歩いて、教員ない。ただ、お会いした先生方に限って言えば、それぞれの に会うたびに、どんな工夫をすれば子どもたちに理解しやす 反応に共通点があった。 いのか、そのメソッドを生き生きと話す。 先生方は、カーチャの話を真剣に聞いてくれた。そして彼 低学年の子どもたちにも理解できるように、有名な絵本の 女の取り組みを評価してくれた。でも、「そのとおりに、う ちの学校でできるかどうか : : : 」自信なさげな反応であった。 キャラクターを使ったり、クイズ形式の問題を出したり、苦 「放射線の影響は考えないといけないし、いま聞いたよう 心して開発してきた教え方を、福島の「カレーガ ( 同僚 ) 」た なプログラムの必要性はよくわかるのだけど。それをいま、 ちに一所懸命に伝える。その姿を見ていると、「本当にこの 学校でできるかと言われると。どうやったらいいか考えてし 仕事が好きなんだ」とよくわかる。 まいます。子どもたちの中には、親が東電で働いている子も そんなに夢中になって語れる仕事に出会える人は、ロシア でも日本でもそんなに多くはないだろう。次々に繰り出され いるし。原発事故についてはどう話していいか」 る彼女のロシア語を日本語に変換しながら、かすかにうらや 旧緊急時避難準備区域の学校で教鞭をとる、低学年担当の ましささえ感じた。 先生は言う。福島市内で理科を担当する教師と話したときも、 今回会うことができたのは、福島県内の小中学校で教鞭を似たような懸念が伝えられた。 「私の科目は理科だから、まだ放射線については扱いやす とる先生方三人であった。旧緊急時避難準備区域の学校、福 島市の学校、避難指示区域から避難した子どもたちのための いかもしれません。でも、たとえば同僚の社会科の教師はど
り合わせでの決断や行動の記憶は、その人の記憶の回路に、 を受けてきたマキシムの祖母ガリーナはこう言った。 「絶対に福島の被災者が見殺しにされないようにしてくだ いつまでも新鮮な画像を伴いながら保存されるのだろうか。 2 さし 。こちらの経験では、最初の段階は薬ももらえたし、検 ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスの名作『永遠と 査やアドバイスも無料で受けられましたが、どんどん次々ひ 一日』では、不治の病で人生の最後の一日を迎えた詩人が、 界 どくなりました。一年に一回もらう補助金はどうにもならな 幻想の浜辺で死に別れた妻と会い、「明日の時間は ? 」と問 世 い金額です。だからお願いです。福島の皆さんが国から支援 いかける。すると妻は「永遠と一日」と答える。この美と詩 を受けられるように、みなさんは頑張らなければならないん情の極北に比べるべくもないし、その意図もない。また「永 です」 遠」という言葉の意味するものは異なるように思うが、私は 本稿に「永遠の一日」と名付けた。 それは誰にでもある、生涯を左右する出来事の時間をこえ アレクセイ・プレウスが四月二六日の七時間の出来事を、 た回帰。永遠に追いかけてくるかのようなある日の記憶。そ 会うたびに詳細に話すように、チェルノブイリ原発事故を体 れはあるときは戦争体験であり、愛する人との離別であり、 験した被災者は、進んで思い出したくない人であっても、話 この場合は原子力発電所で起こった事故である。 し始めると例外なく異様な高揚を再現するかのように話す。 スクリーンには突然、あのプリピャチの高層団地八階の旧 マキシムの祖母のガリーナも、夫が夜中に原発近くのプリピ 居の壁にバステルで絵を描くアレクセイ・プレウスの姿が映 ャチ川で魚釣りをしていて爆発を目撃したこと、その日の早 し出される。描かれるのは真っ赤に染まった海をゆく客船タ 朝に原発で働く義兄が家に来て子ども用にヨード剤をくれた イタニック号。いやそうではない。チェルノブイリ原発の全 こと、プリピャチから避難するバスの出発時刻が間違って伝景だ。それはどこに向かっているのか、正体は何なのか。は わり、一日前の一一六日の午後に子どもを連れて外で待ってい つきりとはわからない 0 だが剥き出しになったコンクリート たこと、そしてその後各地を転々とした避難の一部始終など の壁にバステルを走らせながらプレウスはこう言った。 を話した。 「ここに描いた絵は、誰にも盗めない」 これは福島原発事故で緊急避難した人々がいまも昨日のこ 本稿も私の映像作品も、もう少し彼の「永遠」に付き合っ ( 次号につづく ) てみることにする。 とのように細部を覚えていることにも重なる。死の危険と隣 「永遠の一日プ
二号機の注水をしている消防車が燃料切れを起こして一一号質問者この後ぐらいに、要するに、弁がなかなか開か 機に注水できていない状況が発生した可能性が報告された。 ないというところから、夜に行くぐらいのころ、本店も含め 実際その報告通りだった。 てなのかどうかはともかく、実際の退避はの方に行って いますけれども、退避なども検討しなければいけないのでは 「吉田電話」が発火点 ないかみたいな話というのは出ていた ? ここから吉田所長の動きが慌ただしくなる。 回答者出ています、というか、これは、あまりに大きい話 二号機に水を入れることができない状況になり、吉田所長 になりますし、そこでうちの本店から言ってきたわけではな は細野豪志首相補佐官に直接電話をする。朝日新聞一一〇一四 くて、円卓で言いますと、円卓がありますけれども、廊下に 年六月一日付朝刊に記録がある。二号機原子炉に冷却用の水 も協力企業だとかがいて、完全に燃料露出しているにもかか を入れられなくなった後だ。細野氏は「 ( 吉田氏は ) 福島第一 わらず、減圧もできない、水も入らないという状態が来まし で作業できない状況になる可能性を示唆したと私は受け取っ たので、私は本当にここだけは一番思い出したくないところ た。完全に現場から撤退しなくてはならないと」と振り返っ です。ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと思 ている。その時のやり取りを抜粋すると「『吉田所長』。 ったんです。これで二号機はこのまま水が入らないでメルト 細野氏の携帯に表示が出た。吉田氏からかかってきたのは初して、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出てい めてで、『ことの重さを感じた』という。官邸五階の首相応 ってしまう。そうすると、その分の放射能が全部外にまき散 接室を外して電話に出た。『吉田です』。その声は深刻そうな らされる最悪の事故ですから。チェルノブイリ級ではなくて、 響きを伴っていたが、ゆっくりと落ち着いていた。電話の向 チャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況 こうはざわざわしていた。『二号機に水が入りません。原因 になってしまう。そうすると、一号、三号の注水も停止しな が分かりません』。その切羽詰まった言葉に細野氏は『自分 いといけない。これも遅かれ早かれこんな状態になる。 書 回答者そうなると、結局、ここから退避しないといけない。 田たちは頑張ってきたけど、ダメかもしれないというニュアン 吉 スと受け止めた』という」。 たくさん被害者が出てしまう。もちろん、放射能は、今の状 題 解 吉田調書にもその時の心情が吐露されている。傍線筆者。 態より、現段階よりも広範囲、高濃度で、まき散らす部分も
しえない、その集団の一員であるという事実」から導かれる (n) 李効再の貢献 と言う。尹貞玉は、自身が直接おこなったことではないが 「いかなる意志的な行為をもってしても解消しえない」共同 もう一人、「挺対協運動」を組織化し外延化させた最も重 体の一員として、他者の苦痛に責任があると感じたのかもし要な人物として、李効再を忘れてはならない。尹貞玉も、日 界 れない。一九八八年二月、日本への取材に同行した金恵媛は 本軍「慰安婦」問題解決運動の積極的な参加者になった背景 世 尹貞玉を次のように記憶する ( 二〇〇七年、二四頁 ) 。 に李効再がいたと強調する。尹は自身を「女性運動家タイ プ」ではないとし、李効再がいなかったら「挺対協運動」そ 世間知らずで、原則を破るということがなかった。温室か のものが生まれなかっただろうと評価する。 ら出て来たばかりの草花のように弱々しく見えた。ところ が : : : 尹先生は、この上なく力強く「慰安婦」問題といえ 面談者】組織化の背景には、他にどのようなものが ( あっ たのでしようか ) 。 ば世界中どこにでも荷造りして一人で飛行機に乗り込んだ。 広野に一人立っ常緑樹に変身したのだ。 ロ述者】いや、 ( 他のものは ) ない。でも、私がそんなふう に、それを追いかけ回して、私が人に会ったりしているの ここで記憶すべきことは、歴史的な事件に対し責任を尽く を一番深く、近くで見て知っていた人が李効再だった。 そうとする人々の出会いがなかったら、彼女たちが抱いた感 ( 中略 ) 私はちょっと旅行したりするのが好きな、実は女性 情は単に少数の道徳的な感受性の強い人々の個別的で即発的 運動家タイプではないのよ。李効再さんがいたからこうな ったのよ。 ( ロ述者】尹貞玉、面談者】李娜榮、二〇一三年 ) な事件に終わってしまったかもしれないという事実だ。個別 の責任感が政治的なものになるためには結局、多数の人々の 能動的な参加と公共の善のための公的な行為が伴わなければ 尹貞玉は解放直後の一九四五年、梨花女子専門学校に再入 ならない。個人的な倫理と道徳観に止まるのではなく、類似学し、一歳年上の李効再に出会う。一九五三年、米国に留学 の不正義を繰り返さないための変革的な行動が含まれなけれ した際、在学中 ( 一九四七年頃 ) に先に米国に行っていた李効 ばならないという意味だ。多数の参加は、相互の出会いと勧再と再会し、二人は生涯の親しい友となり、運動の同志にな 誘によって成就する。 る。同じ大学に在籍しているということ以外にも、裕福な家
婚したいと言って退位しましたが、そういう自分本意の話と もまったく違う。あくまで憲法の想定している天皇制を永続 的、安定的に支えようと思えば、いまの自分の体力ではそろ そろ難しい、ということでし・よう。非難されるべき点がある とは私には思えません。 「生前退位」をめぐる様々な議論 となると、生前退位を制度化する方向に行かざるを得ないと思 います。どのような方向性が憲法の下で一番いい形なのでしようか。 長谷部どれが一番いいというのはなかなか言いにくいと ころで、取りあえず考えられるのは皇室典範を改正する道と、 今回に限った特別法を制定するという道だと思います。イギ リスのエドワード八世の時は特別法でした。 これについては、皇位は「皇室典範の定めるところにより、 これを継承する」と定める憲法第一一条の文言を根拠にして、 特別法は無理ではないか、という意見もあるやに伺っており ます。硬く解釈するとそうなるかもしれません。ただ、第二 条のテクストを素直に理解すれば、これは皇室典範の定める ルールによって継承順位は自動的に決まると言っているだけ 前ですので、退位について特別法という可能性はないわけでは ないと思います。 天皇室典範に生前退位の制度を恒久的に設けることになると、 象年齢などの客観基準とするのか、本人の判断による主観基準 とするのかなど、要件の定め方が難しいのではないか。とは いえ、皇室典範改正が正攻法であることはたしかでしよう。 一部メディアでは、憲法改正をしない限り生前退位は認められ ないかのような報道もあります。たとえば、「日本国憲法は天皇の地 位は日本国民の総意に基くと定めていて、天皇の意思で退位するこ とはこれに抵触する」と内閣法制局が指摘しているのだとか ( 日本 テレビ、八月ニニ日 ) 。 長谷部天皇の地位が「日本国民の総意に基く」、それが 何を意味しているかというと、何かが何かの象徴だというの は、みんながそう思うからです。ハトが平和の象徴だという のは、みんながハトは平和の象徴だと思うからであって、天 皇が日本の象徴なのも、日本国民が天皇は日本の象徴だと思 うから象徴なのだということを言っているだけの話です。そ こから何か法的な帰結、法制度をこうしなければいけないと いうことまでは出てこない。ましてや、退位のために憲法改 正が必要ということにはならないと思います。 保守派のなかでは、生前退位はまかりならんという考え方もあ るようです。 長谷部なぜまかりならんのか、よく理解できません。生 前退位は、中世から近世にはよくあった話ですし、皇極天皇 以前はなかったという話があるらしいですが、それ以前の歴 史がどれほど確かなものなのか私にはよくわかりません。 明治憲法下の天皇主権原理は、遡れば君主制原理と言われ
世界 SEKAI 2 0 1 6 . 1 0 ー 2 5 6 本政府が建てた石碑だけだった。石碑には「日本人死亡者慰霊 碑」と刻まれ、建立の日付は「平成二十五年七月」となっていた。 石碑は、建てて三年しかたっていない。しかし、みかげ石 の化粧板が割れてはがれ、中身であるコンクリートの石柱が むき出しになっていた。大陸の日差しは強く、真夏の気温は 三〇度以上だ。日本製の石碑は、真冬の零下五〇度から真夏 の三〇度までを上下するシベリアの気候に耐えられなかった のだろう。日本政府は、そこまで考えが及ばなかったようだ。 石碑の前に立っ私を撮影したあと、金プロデューサーは、 「拝まないのか」と聞いた。私は「日本政府が建てた石碑だ。 君らしくもないな。ここにはもう遺骨はない」と言い、「拝 むなら、帰る前にもう一度、収容所の前に行って拝むよ。父 の話では、あそこで何十人も死んだそうだから」と答えた。 金プロデューサーはうなずきながら、「『日本人死亡者』と 書いてあったが、朝鮮人も混じっていただろうな」と言った。 私は「死者に国籍など関係ないさ」と答えた。カメラマンが ドローンを飛ばし、草原にたたずむ私を上空から撮影したあ と、その場を去った。 ロシアを離れる前日、私はチタで自由時間をもらい、収容 者が埋められていた墓地は、二〇〇〇年代の遺骨収集で掘り所の跡地まで、もう一度行ってみた。最初の冬に父の作業現 出され、いまは跡地となっている。日本に移送された遺骨は、 場だった発電所は町の南で、北はずれの収容所までは歩いて 引き取り手が現れるまで厚生労働省に保管され、一定期間後 三〇分以上かかる。収容所までは上り坂で、飢えて疲れた父 には千鳥ケ淵戦没者墓苑に移送されたのだそうだ。 が零下四〇度のなかを歩いたときは、遠く感じたそうだ。同 跡地にあるのは、かって墓地だったことを示す白い道標と、日 じ道をたどってみると、上り坂の途中で、少し息が切れた。 抑留者墓地にたたすむ筆者
同年六月十九日だった。 荒れる夜の海の船上で柳達鉉を審問。正体を知った船員や乗 船の青年たちが彼を船室から引きずり出して、マストに吊る 南承之が李芳根の死を知ったのは、自殺から一カ月後の七 し上げて死に至らせるのを放置した故の李芳根の死か。そう、 ハンデョン 月二十日頃、済州島から密貿易船韓一号で日本へ来た韓大用 それらは説明し得るだろう。説明し得ること。李芳根本人で 船主からだった。大阪駅前近くの韓大用が馴染みの朝鮮食堂 ない説明を。 平和亭の一室。韓大用の太い声が呼ぶイ・バングンの名の響 自由な人間は殺人をしない。そのまえに自らを殺して自殺 きが鼓膜を打って、現われた李芳根の顔、姿、記憶が瞬時に する。他者を支配せず、支配されない。殺人をするまえに自 炸裂、蒸発して消えた衝撃。イ・バングン : ・ 。ゥーック、殺をしないのなら、それを超えて殺してしまったのだから、 唸り声を発して立ち上がりざま眩暈、貧血で大きくよろめい いや、殺人を、現実に殺してしまったのだから、自らのタブ た南承之。李芳根の死、自殺。なぜ ? 理由を、理由らしき ーを砕いてしまったのだから、その殺人を踏まえてさらに自 もの、動機らしきものを考えるのは、そこまで行くのはかな殺せずに生きるべきではなかったのか。他者に対する支配、 り時間が経ってからだった。 被支配はまた別のものではないのか。虐殺のるつばのなかで なぜ、李芳根がいないのか。李芳根の存在がない ? なぜ の殺戮者に対する殺害、殺人の現実の矛盾。李芳根の自由な 有るものが無いのか。不在、消滅 ? どこからの ? 李芳根精神は殺人とからむ現実のなかで事実、崩れてしまった。 ャンシュ はもういない、地上に。どうしたことだろう。なぜだ ? な 李芳根が生前に果したかったのは、妹の有媛、そして梁俊 ぜ、いなくなった、死んだんだ。そう、それでも、なぜいな 午、南承之の島外脱出、日本への密航だった。有媛は途中寄 ムンナンソル いんだ。 港の釜山で乗船。李芳根は有媛を送って下船、文蘭雪がいる チョンセョン 親戚の警察幹部鄭世容を雪山のゲリラアジトでゲリラ武装 ソウルへ。有媛はそれを知っていたし、願っていた。そう、 兵を押しのけて、助命を叫ぶ相手を射殺したからか。南承之 オッパ ( 兄 ) はソウル、そして再び済州島へ戻るだろう : : : が手にしていたピストルを奪い取って。一月一日早朝、城内 文蘭雪からの電話に四日後の船便でソウルへ行くと言ったの を脱出するとき李芳根から手渡されたピストルだった。 だが、李芳根よ、ほんとうにおまえは行くつもりだったのか 党員名簿を警察に売り渡したスパイ・党組織城内地区責任 ああ、行くとも。だからナンソリと約束をしているんだ。 ュタルヒョン 底者、友人でもある柳達鉉が日本に逃亡すべく、李芳根の乗船 : わたしはどうして、このようになるのを知らなかったの 」ろ、つ 海を知らずに密航船で脱出を図るが、彼を追っていた李芳根が しいえ、知っていました。知りながらこうなりまし ハニル プサン ュウオン