運動 - みる会図書館


検索対象: 世界 2016年10月号
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1. 世界 2016年10月号

ほどになった。 いなかった」という。 とはいえ、朴氏は捕虜のなかでも知識層である。彼は音楽 同年一〇月ごろ、彼らはまとめてハバロフスクに異動にな が好きで、収容所では朝鮮人捕虜の行進曲を作曲した。その った。送られたのは帰国のための中継収容所で、各地の収容 歌詞は、「我々は若者たちだ。二〇世紀の朝鮮の若者たちだ。所から集められてきた朝鮮人がいた。 界祖国の明日を思いながら、三千万の同胞の先頭に立とう」と そこで朴氏は、初めて民主運動に出会った。「朝鮮人のア いったもので、朝鮮語で作詞した。 クチプ ( 活動家 ) がいて、作業とタ食のあとに政治集会をや 一九四七年夏、朴氏は一人だけで、クラスノヤルスク第一収 ったり、朝鮮人どうしで『反動分子』をつるし上げたりして 容所に異動させられた。その理由として朴氏が推測している いた。ロシア語の歌を朝鮮語に訳したものを歌わされたりも のは、ロシア女性との関係がソ連側に知れたことだった。当 した」。民主運動の宣伝のために各地の収容所に配布されて 時のロシアは若い男性が多数戦死して、深刻な結婚難だった。 いた『日本新聞』も、ここで初めて見た。 「作業所の仕事を終わって収容所に帰る前、洗面器で顔を 、バロフスクで一カ月余りをすごしたあと、彼ら約二三〇 洗っていると、タオルを捧げ持っている女性がいた。『私を 〇名は一一一月にナホ下力に移動させられ、ソ連の商船に乗せ 妻にしてください』となんども言っていた。しかし捕虜の身 られた。行先は北朝鮮の興南港だった。 では彼女を幸せにできないし、故郷を捨てて結婚はできなか 上陸して宿泊所に入れられたのち、北朝鮮や満州の出身者 った。手も握ったことはない」 たちは、比較的わずかな期間で帰郷が許可された。しかし南 第一収容所でも、五〇人くらいの朝鮮人が分離棟に住んで の出身者たちは、四〇日ほど留め置かれた。管理側の説明は、 おり、朝鮮人の責任者がいた。「人の上に立つのが好きな男 「南朝鮮は共産主義教育を受けたあなたがたを受け入れな で、やけにいばっていた。『人間のくず』だと思ったよ」。そ い」というものだった。北朝鮮側は、当時の李承晩政権を認 の責任者は北の出身で、朝鮮戦争のさいに、北朝鮮人民軍将 めておらず、韓国政府と交渉しようとしなかった。 校として韓国に侵攻してきたのを見た友人がいると朴氏はい しかし朴氏らは故郷に帰りたいと交渉し、出身地別に三つ の集団となって三八度線を越えた。韓国政府側は彼らの存在 一九四八年に入ると、日本人捕虜の帰国が始まり、収容所 を知らず、国境警備の韓国兵の誤認射撃で、三七名が死亡す ( 6 ) る事件もおきている。 の人数が減った。やがて第一収容所の朝鮮人は、川むこうの 第四収容所に異動し、もとからいた朝鮮人と合計で一〇〇名 韓国側にひきあげてきた約五〇〇名は、仁川の収容所に一一

2. 世界 2016年10月号

は、私はこれに何をさらに付け加えるべきなのか ? 無批判 身隊問題対策協議会 ( 以下挺対協 ) という団体活動に限定する ことを、まずは明らかにしておきたい。 したがって本稿で述 な賛辞や非倫理的な批判ではない形で運動史を分析し意義を 見いだすとはどのようなことなのだろうか ? べる日本軍「慰安婦」関連運動史は自ずと挺対協の歴史を中 、いに記述されることになる。 運動は、私的な経験と公的な空間、個人と社会、歴史間の 「挺対協運動」については、これまで多くの研究者たちと 出会い、そこから発生する不思議な科学的発生物の予想外の 当事者である活動家たちが様々な側面から記録し、その意義 社会的共鳴の過程であり結果だ。数多くの人々が、数多くの を浮き彫りにしてきた。とりわけ二〇一四年に発行された 経験が、時空間の間隙を縫って折り重なり絡み合いほどけな 『韓国挺身隊問題対策協議会一一〇年史』は、年代記的に活動 がら一つの巨大な運動の流れを形成する。それゆえ運動史を の内容と意義を整理しているばかりでなく、海外の連帯団体評価する作業は常に部分的でしかなく、時には偏波的でさえ の活動に関する歴史的な意味をも見逃していない。序文を書 ある。さらに、当事者らの集団的な作業にならない時、また チョンジンソン いた鄭鎮星は、「挺対協運動」を準備期 ( 一九八〇年代木ー一九 評価者自身がその運動の内部者でありながら外部者としての 九〇年 ) 、確立期 ( 一九九一年ー一九九五年 ) 、国連勧告の発表と 立ち位置で長い間かかわって来なかった時、運動史は歪曲さ れることもある。 国民基金反対運動 ( 一九九六午ー一九九八年 ) 、一一〇〇〇年女性 国際戦犯法廷運動 ( 一九九九午ー一一〇〇〇年 ) 、記念事業の発展 だからこそ、今、私は怖れている。挺対協二〇周年記念行 と米下院決議後の新しい転換期 ( 二〇〇一年ー現在 ) の五段階 事の際に分かりもしないで書いた恥ずかしい原稿を引っ張り 出して、しばらくの間ためらった。二五周年にまた書かなけ に分けている。そして、民族主義を中心とするのではなく、 史 ればならないという事実が重圧感となっているためであり、 「植民地主義の暴圧、戦争の被害、女性卑下の残酷さが相互 動 決 再現されるであろう恥ずかしい記憶に堪える自信がないから に交錯しながら形成された抑圧的」な「歴史的事実」を究明 でもある。しかし、また書く決意をした。かっての恥ずかし 題する作業であり「女性の人権運動」であったと評価している ー一三頁 ) 。「被害者と共におこなう運動」であり、市民 い記憶も私の責任であることが喚起されたせいでもあるが、 婦 今、これを書く行為そのものが私にとって、否、「私たち」 社会レベルで南北統一をめざし、韓国社会の歴史認識を高め にとって「生きていること」を知らせるシグナルであり、運 軍たという点でも大きな意義があるとしている ( 二三ー二五頁 ) 。 補足の必要がないほどに、よく整理されていると思う。で 動の一部だと思うからだ。

3. 世界 2016年10月号

国立病院・療養所の営利化、療養所の統廃合などをねらうも 開することによって、現状の変革を一みるものだった。 のだった。こうした圧力に対して、全日本国立医療労働組合 分断を越えて は「国立病院・療養所の整備拡充」と「合理化 ( 職員削減・統 廃合 ) 反対」を、日本患者同盟 ( 結核患者の運動組織 ) は「療養 以上みてきたように、戦後日本における施設という場所に 生活を権利として保障させる」ことを基礎に運動を展開して は、入所者とそこで働く人々が作り上げてきた、固有の文化 いる。ハンセン病療養所入所者は、これらの運動体と路線を と歴史の蓄積がある。日本の知的障害者入所施設については、 ひとつにし、病者を切り捨てる「合理化ーの圧力に抗する運 入所者や職員を対象とした施設生活に関する聞き取り調査が 動を続けてきた。施設生活者とそこで働く人々の地道な運動手薄であり、私も本格的な聞き取りを始めたばかりであるが、 は実を結び、療養所は、従来の収容所的な隔離施設とは根本本稿で述べた施設生活者や職員らの戦後の営みを振り返るな 的に異なった形式の施設へと再編されていった。 らば、現段階で少なくとも次の点はふまえておくべきである。 ハンセン病療養所で発刊された機関紙などを見ていると、 ( なお、知的障害者入所施設の法律上の呼称は「精神薄弱者更生施設」 入所者が療養所をあたかも守るべき聖域のごとく表現してい 「知的障害者更生施設」「指定障害者支援施設」などと変遷しており、法 る文章を目にすることがある。この奇妙な表現は、療養所運律上定められた利用形態にも変化がみられるが、本稿では煩雑さを避け 営予算の削減など、ただでさえ少ない療養所の資源を奪って るため、これらを総称して知的障暑入所施設と呼ぶことにする。 ) いこうとする政府側の動きに対して発せられている。あるい すなわち「施設に入所している人々はみな不幸だ」と一方 は、療養所の統廃合の兆しを捉えたとき、入所者たちは強制 的に決めつけ、施設の存在を一面的な観点から否定すること されうる移動に対して、「動かない」ことを宣言している。 は、施設入所者とそこで働く人々が長年にわたって築き上げ 彼らは自らに強いられた「動けない」という条件を、ときに、 てきた医療・福祉制度拡充のための基盤をも、否認してしま こ 「動かない」という手段として取って返すことによって、不 うことになりかねないことである。さらに、現在の日本社会 条理を強いる当局側の要求をはねのけ、自らの住処である療をとりまく政治経済体制のなかでは、施設という存在を不用 養所を守ってきた。ハンセン病療養所入所者の運動と実践は、 意に否定する身振りは、社会福祉予算の削減を正当化する言 で病者に対する社会的排除と隔離政策を問題化しつつ、同時に、 説に回収されてしまいかねないという点にも、留意が必要で 施療養所という生活の場を防衛し、そこを拠点として活動を展ある。

4. 世界 2016年10月号

各地の収容所でよくあったことだが、食料や仕事の分配に、 軍隊時代の階級を利用した不公平があった。将校や下士官は 食料を余分にとり、若い朝鮮人たちは古兵の世話をさせられ 界 こうした不平等にもめ事が絶えず、ソ連側と交渉した結果、 世 一九四六年初春には約五〇人の朝鮮人は別棟に移された。リ ーダー格になったのは、ハルビンの専門学校 ( 一九二〇年創設 の「ハルビン学院」だと思われる ) でロシア語を学んだ男だった。 ところが一年ほどたっと、朝鮮人だけが、北方のミハイロ チェスナコフスカヤの収容所に異動になった。黒河を泳いで ( 7 ) 渡り、脱走した者がいたからだった。 プラゴヴェシチェンスクは国境の町で、黒河を渡れば中国 だった。満州出身の朝鮮人捕虜にとって、あるいは半島出身 者にとっても、満州に点在する朝詳人集落で食料をもらいな がら歩けば、故郷に帰ることはできる。黒河は川幅が数百メ ートルあるが、渡るのは不可能ではない。 異動先のミハイロチェスナコフスカヤの街は小さく、寒さ も食料事情も、プラゴヴェシチェンスクよりずっとひどかっ た。さらに金起龍氏の場合は、激しい民主運動も経験した。 運動はプラゴヴェシチェンスクで朝鮮人捕虜たちが分離し たあとから始まり、日本語の『日本新聞』やマルクス主義テ キストが使われた。「捕虜になってソ連の取り調べがあった とき、朝鮮で邑職員だったことを話してしまっていました。 それが日本帝国主義への協力だということで、朝鮮人活動家 っ ) 0 たちからつるし上げられました」 その後は、ワジャイエプカやウラジオストックの収容所を 転々とした。一九四八年春、国際赤十字を通じて、故郷の父 親に手紙を出した。検閲があったので、生きて無事にやって いる、といった簡単な手紙だった。 「それが故郷に着き、大騒ぎとなったそうです」。父親の金 漢雄は、日本降伏後に結成された朝鮮民主党の創立メンバー だった。朝鮮民主党は、北部朝鮮内の権力争いに敗れて一九 四六年一月には党首が軟禁され、やがて衛星政党となってし まう。しかし一九四八年当時は、金漢雄は臨時人民委員会の 人民委員だった。そうした地位の人物でも、息子がシベリア に抑留されているとは知らなかったのである。 手紙を出して二カ月はどして、父から返事が届いた。文面 はごく簡単だったが、父はその時期に、北朝鮮政府と交渉し たという。そして一九四八年一二月、他の朝鮮人捕虜たちと 同じ / 、、ハノ 、ロフスクとナホトカを経由して北朝鮮の興南港 に帰還した。金起龍氏も収容施設に入れられたが、すぐに父 が会いに来て、数日で出ることができた。 その後は、ロシア語の高校教師として雇われた。氏はシベ リアで、日本軍が作ったロシア語の辞書を入手してロシア語 を独学し、通訳を務めるまでに上達していたからである。当 時の北朝鮮にロシア語をできる者がほとんどおらず、「ソ連 の将校からうまいと言われました」 しかし言論の自由はなく、シ・ヘリアで体験したことの多く

5. 世界 2016年10月号

世界 SEKAI 2 0 1 6 . 1 0 ー 2 8 8 方によっては、社会主義女性解放論、それを読みながら、 大の社会学科に在籍していた池銀姫 ( 後に挺対協共同代表、盧武 シモーヌ・ド・ポーヴォワールとか、べティ・フリーダンと 鉉政権時の女性家族部長官 ) も、師である李効再を通して社会主 かを一方では読んでいて、第三世界の女性解放理論、ある 義女性解放論に目覚め、後日、日本軍「慰安婦」問題解決運 意味で民族の解放と繋がる方向を読んだりはしていなかっ 動に積極的に関わるようになったという。一方、日本軍「慰 たんです。 ( ロ述者【池銀姫、面談者】李娜榮、二〇一四年七月 ) 安婦」研究の中心になったと言える鄭鎭星 ( ソウル大学教授 ) も、ソウル大学在学中に韓国教会連合会の幹事として活動す 李効再、尹貞玉、私、この三人が会ったんです。李効再先 るなかで李効再に初めて出会い、博士号を取得して帰国する 生が、日帝時代を勉強した社会学者で女性問題にも関心が 頃に李効再から日本軍「慰安婦」研究と「挺対協運動」への あって、という人は鄭 ( 鎭星 ) さんしかいない、尹貞玉先参加を勧められたという。当時、韓国教会女性連合会の総務 生が挺身隊問題で研究会をやってこられたんだが、私たち だった尹榮愛も一九八七年一二月、李効再教授を通して尹貞 玉と知り合った。 は韓国挺身隊問題対策協議会という、もっと大きな運動団 体をつくることにしたから、そこに代表として来なくては 彼女たちは皆、李効再との縁で「挺対協運動」に献身する ならない、だから研究会の方の責任者になって欲しい、私 ことになり、それぞれ国際連帯、政策、研究、幹事の業務を にそうおっしやったんです。 受け持ち、現在の「挺対協運動」の基本的な枠組みと方向性 ( ロ述者【鄭鎭星、面談者【李娜榮、二〇一三年四月 ) を決定する上で大きな貢献をすることになる。朴正熙独裁体 制に抵抗しながら社会意識を養い、一人の師または友から分 一九五〇年生まれで梨花女子大学英文科の学生だった申蕙 断体制下の女性の生に対する感受性、社会問題に対する組織 秀 ( 後に挺対協代表及び国連社会権規約委員会委員 ) は、大学報の 的な理解を獲得した彼女たちは、「挺対協運動」を通して一 記者をする一方、李効再が指導教授をしていた「セオル」に つになった。教会女性運動、民主化運動、学生運動、女性有 入ったことで社会意識に目覚めたと告白する。「社会を変え権者連盟、クリスチャン・アカデミー、女性社会教育院、韓 るためには社会学を勉強しなければ」と決心したのも李効再 国女性社会研究所などの組織化と集団的な運動を通して、抵 の影響で、生涯、女性運動をすることになったきっかけも李抗的なエネルギーを表出させる経験を共有した彼女たちは、 効再の勧誘によるものだった。一九七〇年代当時、梨花女子 アイリス・ヤング ( 二〇一三 ) の表現に従えば「他者の運命に

6. 世界 2016年10月号

に出向いてビニールハウスの製造・販売を行なうことなどが の「残飯闘争」、帰る家を失った病者たちによる「コロニー なされ、その収益は独自の方法で再分配されていた。こうし 開拓」という名のコミューン建設、一九五三年の「らい予防 た相互扶助的な生活実践は、当局側から強要される施設運営法闘争」など、終戦直後から一九五〇年代にかけての患者運 のための労働とは別のかたちで、入所者による自主管理のも動は、創造的かっ野性的なエネルギーに満ちていた。 界 とで営まれ長期にわたって維持された。 これらの活動はしばしば、手段と目的の連関すら脱日させ 世 ハンセン病療養所では、極限状況のなかを生き延びていく てしまうほどの勢いを持ち、やけつばちで非合理的にみえる ために、そして、自らの生きる世界を少しでもよりよいもの ような局面もあったが、しかし確実に、病者や障害者に対す に変えていくために、入所者自身の手によってさまざまな試 る社会的認識の転換を促し、その後の日本の社会保障制度確 みが行なわれていた。入所者達は、療養所の内外で多彩な実 立の礎を築いてきた。 践を展開することによって、ハンセン病者に押しつけられた ◆上からの「脱施設化」と抵抗 「悲惨さ」とは別種の生き方と、それを可能にする別種の時 日本の場合、新自由主義が導入されるはるか以前、具体的 ・空間をつくりあげていたのである。 には一九五〇年代頃から、社会福祉予算は政府・財務当局・ 厚生当局によって削減の標的にされてきた。この時代に施設 施設当事者による闘い 解体の圧力を受けていたのは、国立病院と国立療養所だった。 ◆自立生活運動以前の当事者運動 このとき当局側は、「自由」や「解放」といった理念を巧妙 ハンセン病療養所や結核療養所では、当事者による運動体 に織り込みつつ、社会福祉予算の削減を正当化する言説を練 も組織されている。戦後日本の障害者運動の歴史は、「脱施 り上げ、これを政策として打ち出してきた。それに対して、 設化運動」や「自立生活運動」など一九六〇年代以降に欧米 当時の国立病院・国立療養所の職員と患者達は、「脱施設 から輸入された概念によってその意義が語られてきた。しか 化」ではなく「合理化」という言葉でこの事態を捉え、福祉 し、それ以前、すなわち第一一次世界大戦終戦直後から一九六 と社会保障の退行を食い止めるべく抵抗を続けてきた。 〇年代前半にかけて、かなりの激しさをもっ患者運動が、日 厚生省からは、一九六〇年一〇月に「国立療養所再編成計 本各地の隔離収容施設 ( 結核療養所・ハンセン病療養所 ) で展開画」が、一九六五年には「国立療養所整備特別会計構想」が されていたことはあまり知られていない。とくに結核療養所打ち出された。これらの政策は、医療への国庫支出の削減、

7. 世界 2016年10月号

なども参加しています。 としても、人びとの力を結集して対抗しですし、を拡大した米国自由 メリンダ米国では大企業や商工会議所、ようとしています。 貿易圏構想 ( ) も、多国間投資協 業界団体が政治システムの中で影響力をローラヨーロッパの視点で言えば、こ定 (><—) も市民の反対によって実現 行使し、選挙がお金で買われているようの数十年間に「オルター・グローバ丿。 ーセしていません。こうした抵抗の延長上に、 な状況があります。要するに「政策をお ーション」 ( もう一つのグローバル化 ) 運動現在の e や e —との闘いがある 金で買っている」わけですね。その一方が各地に存在しています。こうしたわけです。多国籍企業は連帯しています。 で、貧困や格差、最低賃金や気候変動な下地がある上に、各地でなどの私たちも連帯しなければいけません。多 どの問題も企業の支配が強まっていった話をしていくと非常に理解が早いことをくの人が、うまく言い表すことはできな わけですが、そこにメスを入れずに長い実感します。またスペインのボデモスに くても、企業の巨大な権力やルールが自 間やってきたわけです。しかしトリクル代表されるような「新しい政党」も登場分の生活にどのような影響を与えている ダウンがもう起きないという中で、米国しています。こうした積み重ねの結果、か実感し、不安を感じています。決して に根本的な価値観の変化はありうるので反対の声は多様で重層的につな伝えにくい問題ではありません。ですか しようか。私自身は、反対運動のがりながら、欧州議会を動かす力にもならあまり細かいことや技術的な側面にこ 中でここ数年で起きたことを考えると変っています。もちろん課題もあります。だわらず、生活者の視点から、そしてそ 革の可能性はあると楽観的に考えていま (---te—g«反対の中には排外主義的なナシのシステムの恩恵を受けていない人たち 言す。 E-*@-A 反対は労働者、高齢者、学生、ヨナリズムを煽る運動も存在することもが感じたことを率直に伝えていくべきで 、女性、消費者団体、環境など事実です。これに対しては、排外主義的す。日本での国会批准審議がこれから再 易大きな広がりを見せています。そして重な考えと私たちは違うということを明確開するわけですが、米国でのの行 由要なことは、二大政党の民主党も共和党にしなければなりません。 き詰まりを、日本の反運動強化に はもこうした人びとの声、有権者の怒りに メリンダ現在、米国での反対運動の成もつなげていけば、ともにを敗北 会 社 対応しなければいけなくなったというこ果があるのも、国際市民社会が企業の権に追い込むことができます。 民 のとです。これが私たちのチャンスになっ利拡大とたたかってきた歴史のおかげだ内田メリンダさん、ローラさん、あり 欧ているわけです。お金では対抗できない と思います。 *E—O に対する運動もそうがとうございました。

8. 世界 2016年10月号

しえない、その集団の一員であるという事実」から導かれる (n) 李効再の貢献 と言う。尹貞玉は、自身が直接おこなったことではないが 「いかなる意志的な行為をもってしても解消しえない」共同 もう一人、「挺対協運動」を組織化し外延化させた最も重 体の一員として、他者の苦痛に責任があると感じたのかもし要な人物として、李効再を忘れてはならない。尹貞玉も、日 界 れない。一九八八年二月、日本への取材に同行した金恵媛は 本軍「慰安婦」問題解決運動の積極的な参加者になった背景 世 尹貞玉を次のように記憶する ( 二〇〇七年、二四頁 ) 。 に李効再がいたと強調する。尹は自身を「女性運動家タイ プ」ではないとし、李効再がいなかったら「挺対協運動」そ 世間知らずで、原則を破るということがなかった。温室か のものが生まれなかっただろうと評価する。 ら出て来たばかりの草花のように弱々しく見えた。ところ が : : : 尹先生は、この上なく力強く「慰安婦」問題といえ 面談者】組織化の背景には、他にどのようなものが ( あっ たのでしようか ) 。 ば世界中どこにでも荷造りして一人で飛行機に乗り込んだ。 広野に一人立っ常緑樹に変身したのだ。 ロ述者】いや、 ( 他のものは ) ない。でも、私がそんなふう に、それを追いかけ回して、私が人に会ったりしているの ここで記憶すべきことは、歴史的な事件に対し責任を尽く を一番深く、近くで見て知っていた人が李効再だった。 そうとする人々の出会いがなかったら、彼女たちが抱いた感 ( 中略 ) 私はちょっと旅行したりするのが好きな、実は女性 情は単に少数の道徳的な感受性の強い人々の個別的で即発的 運動家タイプではないのよ。李効再さんがいたからこうな ったのよ。 ( ロ述者】尹貞玉、面談者】李娜榮、二〇一三年 ) な事件に終わってしまったかもしれないという事実だ。個別 の責任感が政治的なものになるためには結局、多数の人々の 能動的な参加と公共の善のための公的な行為が伴わなければ 尹貞玉は解放直後の一九四五年、梨花女子専門学校に再入 ならない。個人的な倫理と道徳観に止まるのではなく、類似学し、一歳年上の李効再に出会う。一九五三年、米国に留学 の不正義を繰り返さないための変革的な行動が含まれなけれ した際、在学中 ( 一九四七年頃 ) に先に米国に行っていた李効 ばならないという意味だ。多数の参加は、相互の出会いと勧再と再会し、二人は生涯の親しい友となり、運動の同志にな 誘によって成就する。 る。同じ大学に在籍しているということ以外にも、裕福な家

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等なく・ - 粡リきる局ら・ ~ 経吉せら 税起いピた 会究 説 0. 中 義秀さひ " てレれ幻 2 発 4 文考 社 : 研 源臣連を . ・豊関 告 尸・と分 下文詩云円 曜 8 で躍や「 0 文判散代 イ 0 将長き新 ~ 0 0 5 4 のムロリ 平信動に " 房別第円代上 と 2 ・田の究 " ら : ′市 と比各 8 上の リのしやかす都弡 る・ 0 , の下 京 8 真織会 1 心以判道・社説 . 刊す 3 す 中政統〔 ド テ局倍を悟 0 〒 著→雄著 ~ 法著。代著 まかピ安制覚 9 日一之・下武 麻・の盟の佳京め古彦 立呈 いのレ、規の日価 村頼化き】 示 表 田時説解【 、るテが主」 ン 代典憲記篇 世安本明 一ョロレ オ 出鵐 ~ 集 体い役々自ビ 英「中部《日森 女テ安言 一て現人のク 徳永恂著 高良真木・高良留美子・吉良森子編・ 4200 円 尸 0 LO 1 ー人 1 よ、ー・ . 異郷こそ故郷ー徳永恂文芸選集 、ー人 11 Ⅱ・ 浜田糸衛生と著作上巻 現代ドイツ思想研究の碩学の、「私の人生の最後の 戦後初期の女性運動と日中友好運動 0 0 は 見晴らし台からの風景を打ち明けた」文芸選集。 戦後の女性運動を牽引、この人が事務局長ならと平塚らいてうは婦団谷格 連会長を引き受けた。日中友好運動に一〇一一歳で亡くなるまで関わる 2 一房説「継ぎだらけの履歴書」をはじめ、「ハイデガーとへ ルダーリン」「旅の曾良・筑紫の白魚」「井伏鱒一一論」 伍賀偕子 などを収める \ 3600 十税石 ・ 14 。。円版書 千〃 著 区ゅ 女・オルク己女性の自律と労働組合運動の出 8 カ高山真 京缸 フェミニズムの視点から、労働組合運動のすそ野を広げる総評主婦の り〈被爆者〉になる 会、家族会、自らのオルグとしての実践・活動、その歴史を検証する 都 8 面せ変容する〈わたし〉のライフストーリ ! インタピ = ー 京事 今井けい 長崎の被爆による極限的な体験をした人々の記憶を東 0 ・ 3000 円 1 t.O いかに伝えるかに苦闘する三人の被爆者でもある語 現代イギリス女性運動史 ~ ル平等と区 り部に十年にわたってインタビューし、〈語りえない〉心開 1 工れ ウイミンズ・リプとの出会い、第一波・第一一波フェミニズムの差、女都 の痛みを抱えて生きる被爆者たちの存在に限りなく 京山 性解放運動の源流を探り、ジェンダー平等か階級の平等かを問う。 \ 3200 十税〒 東白 迫るカ作。 A5 判 A5 判 1 1 , 000 円 〒 1 13-0033 東京都文京区本郷 6 - 8 - 16 TEL 03-3812-5821 FAX 03-381 1 -0617 http://rr2.hanawashobo.co.jp

10. 世界 2016年10月号

庭環境や女きようだいが多い三人とも五姉妺 ) という点、文 学的な感受性を持っていたという点など、多くを共有してい た二人は、いつも「話がよく通じ」た。 梨花女子大学社会学科教授だった李効再は、分断社会学の 創始者であり、韓国フェミニズムの大母で、長年に亘り韓国 の社会問題に対する深い洞察力を持って社会運動に関わり続 けてきた。維新時代の家父長的なイデオロギーが独裁イデオ ロギーと結びついていると見た李効再は、性差別と軍事独裁、 階級問題を連結させて理論化する作業をおこない、その後、 韓国女性学の主要なモデルを提供した。彼女は、民主化運動 を支援しながら学内外の学生たちを糾合して女性団体を組織 し、尹貞玉を社会問題に繋げていった。とりわけ李効再が梨 花女子大生らを対象につくった研究共同体「セオル」は、そ の後、韓国社会全体を揺るがしジェンダー秩序に亀裂をもた らす数多くの女性リーダーを生み出し、「挺対協運動」を組 織化する実質的な下地となった。 史 動 決 セ ( 新しい ) 、オル ( 精神 ) 。「セオル」というグループがあ 解 題 って、これを学生たちが組織する時に一緒にやったのが李 効再さんだと思う。 : : : 李効再さんが指導教授だったから。 婦 安 ところが李効再さんが、また私をそこに引き込んだのよ。 軍それで私は指導教授じゃないけど、とにかく逃げ回る学生 たちをかくまってあげたのよ。 ( 中略 ) 私はそんなふうに社 会活動するなんて思ってもみなかった。ところが李効再さ んはその当時から社会活動をしていた。それが彼女の分野 で、女性問題だから ( ロ述者】尹貞玉、面談者】李娜榮、二〇 = 三年 ) 李効再先生がセオルの指導教授でした。私はセオルの活動 をしながら、あ、社会を変えようと思ったら社会学を学ば なければと思って、それで社会学に専攻を変えて大学院に 進学し、李効再先生の女性資源開発研究所の助手になった んです。 ( ロ述者【申蕙秀、面談者【李娜榮、二〇一五年二月 ) 初めて組織的につくられたグループがセオルチームでした。 そのセオルチームの一番上がおそらく申蕙秀と李オッキョ ンだったと思う。 : そのグループが新しくつくられて、 そのセオルの指導教授が李効再先生でした。 : : : 実は、李 効再先生が一番大切に思っているのはセオルチーム。 ( 私 は ) 韓国社会の階級、階層については関心が少しありまし たが、それが女性解放の意識にまで進展してはいなかった。 ところが大学四年生の時、李効再先生がいらっしやって、 貧民地域の研究、こんなことをやらせたんです。その過程 でそういった考え方が深まったのかもしれませんが、まだ そういう意識が透徹していたわけではなく、個人的な経験 のようなものが内在していたとでも言うのかしら。 : : : 見