河原「私は職人だから」、とよくおっしやっています。職療を見直し、患者の側に立って闘った人でした。理想とす る病院をたて、がんを得ながら、理事長室に泊まり込んで 人とは、どんな職人ですか 堀要するにね、何者でもないんです。ものをつくる職人ぎりぎりまで働いて自分の病院で亡くなりました。その理 なんです 事長室に「ひまわり」があったのです。スタッフが私に教 えてくれました。「なぜこんな枯れた花の絵を飾っている 河原堀さんの「ひまわり」の絵と、私は衝撃的に出会い ました。花が終わり、枯れて、黒々とうつむいたひまわり の ? 」と聞くと佐々木さんは「これを読みなさい」と、堀 たち。イタリアで、堀さんが描いたというその絵は、最期さんが「ひまわり」に寄せた文章を指したそうです。 しゅうえん まで医者として働いた、ある女性医師の部屋にありました。 〈ひまわり畠の終焉は、その時の私の何かを変える程の 佐々木静子さんという産婦人科医で、女性の視点から医衝撃だった。ひまわりは頭に黒い種をみのらせ、生涯の栄 光の時を迎えていたのだ。台地を見つめる顔は敗北ではな げだっ く、そのやせた姿にも解脱の風格があった。 ( 略 ) 死が生 涯の華々しい収穫の時だという事を、ひまわりから学んだ あの日を私は忘れない〉 ( 「サライ』 2006 年号「命といふ もの」堀文子 ) この絵と言葉は、彼女をどれほど支えたことでしよう 黒々と枯れたひまわりの群れを、このように見ぬくこと ができる堀文子さんという人に、私は心底おどろきました。 号 堀あら、そうですか 月 河原多くの人は、枯れたひまわりを見たら、「今年のひ 友 之 まわりはもう終わっちゃった、残念ね」でおしまいだと思 人 うんです。でも堀文子さんはちがった。どうして、その真年 の姿を見ぬくことができたのでしよう ひまわり
を自伝『ホルトの木の下で』 ( 幻戯書房 ) に書かれています。号 年来の親交厚い画廊「ナカジマアート」の 中島良成さんと、大磯のお宅で伺いました。 私が読んでショックだったのは、三女の文子さんのエビフ 友 之 ライが小さかっただけじゃなくて、お母様のエビフライま 人 婦 で小さかったこと 戦時下、自を求めて 年 堀そうそう。それなのに、兄が立派なエビフライを平気 河原「女とマスコミがしつかりしていれば戦争は防げる で食べている、その根性が許せなかったですね。 河原気がっかないのか、と怒ったんですよね。 と思っていた」と、この数年おっしやっていますが 堀両方だめです。 堀極めてひどい時代でした。お母様が一番えらいので 河原女には何を期待していらしたのですか しよう。それなのに息子がお母様より大きいのを食べてい 堀女が余計なことを考えず、どう生きるかということを、 る。それを三女の私が一人で怒ってる。そうすると私が叱 本気で考えていればいいのです。 られるの。食事中に文句なんて品の悪いことはしてはなり 河原堀さんは、女に生まれてよかったと思いますか ませんって。 堀思いませんでした。 河原そのときに「これはおかしい」と思ったのは、すご 河原おお。三女に生まれたことが、とても大きく先生の いこと。「そういうものだ」とは思わなかったんですね。 人生に影響しましたよね 堀ひどすぎますもの。私はいちいち突っかかるものです 堀そうです、そうです から、ものすごく嫌われていました。 河原男だったら、と思いましたか。 河原でもその「おかしい」という思いか、自立したい、 とい一つ強い田 5 堀思いました。ひどい女性蔑視の時代でしたから。上に独立したい、自分で稼いでやっていきたい、 いにつながったのではないでしようか 兄がいて、弟も私より上。位があるんです、父、長男、次 男、長女、次女。三女なんかに生まれたから、もう私の人堀そうですね。女も稼げばいいじゃないか、って。その 生は終わりだと思いました。 当時、女が稼ぐなんてことは、一家の恥みたいなものでし 河原幼い頃、夕食に珍しくエビフライが出たときのこと
エネルギー・フロンティア す TOKYO GAS 顔を見れば、 その日の元気メーターも 見えてきます。 「あなたは家族みたいなものだから」と、 家や家族、今日のごはんのことまで 話してくれる人がいます。 「うちのことはキミに任せたよ」と、 大きな大きな期待を寄せてくれる人がいます。 ガス機器のこと。リフォームのこと。身の回りのこと。 はじめは「ガス屋さん」だった私が、 名前で呼ばれ、頼りにしてもらえるようになる。 ガスだけではなく、私自身も、 ご家庭の毎日とつながっているんですね。 「元気メーター、よし」。今日もとこかのお宅で そうつぶやきながら、私たち東京ガスライフノヾルは、 地域の安全と暮らしを見守り続けていきます。 あなたと、この街と、つながっている。 ) ' ニし新ト立物れ一
の考え方は反戦なのだと意識するようになったのでしよう。 堀 ( テレビの国会中継を指して ) 私ね、テレビでこれだけ毎号 堀いつなんて間題ではありません。もう生まれながらに、 日知らない人を見ているのだから、私の好きだった人と 友 戦争になっていたのですから。 そっくりな人はいないかと探しているけど、絶対いません 婦 河原私たち戦後の生まれだと、戦争中はまったくものもね。つまり、人間は一人しかいないのね。 年 言えない真っ暗な時代だったと思いがちなのですが 河原戦争が終わったときは、どう思いましたか。 堀真っ暗ですけれども、自分の意思でもって、明るく 堀もう死ななくていいんだ、と思いました。毎日ね、今 だって、できました 日は生きていられないかもしれない、 って思ってた。流れ 河原そうですか。女子美の頃など戦争のさなかでも、自弾に当たるかもしれない。そうなの、撃たれちゃうのよ、 活しながら旅したり山に登ったり、冒険していらした。 上から飛行機が狙い撃ちしてるの。だからやつばり私は、 堀自分の好きなことは全部やりました。それには稼がな国家権力に反抗するように生まれついているんです。 ければなりませんから。親に「ください」なんて言っても、 くれませんよ。やつばり、人に物乞いするのはいやだった 実を見ぬく眼 のね。 つまりね、ダンスホールは許されませんでしたが、山は河原堀さんには科学者と共通するものがあると感じます。 許されました。 目の前のものをよーく見て、本当の姿、真実を発見して描 河原すると、戦争中はものも言えないような感じではな く。それは歴史や社会に対するまなざしにも通底します。 かった ? 堀絵はね、それができるんです。ほかのものは、時代に 堀平気で言っておりましたが、堂々とは言えないんです。迎合しないとだめです。 どんな本を読んでいるかも調べられていました。 河原たくさん売らなきゃならないからですかね。 山好きになったのは弟の影響です。いい弟でした。 堀絵を売ることも知らないんだから、私は 河原弟さんは、学徒動員されて、戦争の終わる年の春に 河原心のなかにあるものを、一心不乱に描いてらした ? 軍の病院で病気のため亡くなられたのでしたね。 堀そう、そうですね
私の 妹島和世 緑と料理のコ一フポレーション イナリーを訪ねたり。料理が、こん なにきちんと量を計り、温度計や時 計を使って、正確に作られていくも のだと初めて知りました。その結果、 そんなことを全く思いもさせない、 柔らかくタイナミックでかわいらし い料理が出来上がっていきました。 植物が好きで、毎日夜中に家に これから始まるであろう、あるい 帰って鉢植えに水をやるのが、私の は始めたい、私のゆっくりな日につ 1 日のリラックスの時間。そして、 いて書きます。というのも今年の夏料理はほとんどする間がないのに、 が 1 回目だったからで、まだ習慣の 料理の本を見るのが大好きな私に マい」を第必ようには書けないからです。 とって、それらが組み合わされたア 7 月の半ばに約—週間、数人の友ルザスの時間は、素晴らしい経験で した。 達と美しいアルザスの村に滞在して、 ジャム作りを中心に料理に明け暮れ 実は、三食の間にお菓子も作った ました。ヒラタマリ先生について朝ので、朝から晩までとっても忙し から晩まで三食作り、おいしく食べ かったのですが、でも、気持ちはリ 続けました ( 写真上 ) 。畑から収穫した フレッシュされました。もう次はど り、地元のマーケットに行って旬の こにしようかと、一緒に行った友達 おいしそうなものを見つけたり、ワ と次回の計画を始めています。 ゆっくりな日 建築家 2 田 6 年婦人之友 12 月号 10
、。、レて 私たちの日々の暮らしや買いものは、知らず、少ないお金でやりくりする現在、バングラデシュと彳ノー のがよい主婦と思っていました。友主に児童労働防止のための活動や少 世界の労働や環境につながっていま す。安さ、便利さ、手軽さに流されの会に出合って、ものを選ぶ基準が数民族の教育支援、コミュニティ防 災の活動などを行っています。 変えられてきたと思います。 ていませんか ? 高田ーー僕の専門は環境汚染物質で、中村ーーー途上国の劣悪な労働でつく られた商品を排除する、フェアト 合成洗剤、農薬、環境ホルモンなど、 レードのさきがけですね。 中村ーーー 2008 年、消費者庁がで人間のつくった化学物質、最近はそ きるというとき、僕は新聞のコラム れに加えてプラスチックの汚染の実平澤ーーー年前、バングラデシュの 村の女性たちを組織化して、特産品 態調査や研究をしています。 に「消費者は甘やかされる存在、無 1970 年代までの公害は、特定のジュート ( 麻の一種 ) の民具や道 防備で保護すべき存在ではない。役 具を日本に輸出し始め、今では現地 の企業が特定の場所から汚染物質を 割と影響力を自覚する方にウェイト のⅡのパートナー Z O と活動して 出した結果起きるという構図でした。 をかけなくては」と書いたのです います。工房の一角で赤ちゃんを見 すると、生産者と消費者がもつ情報年代以降、私たちが生活の中で使 ながら裁縫するなど、生産者の事情 うものが環境中に出て、その影響が は平等ではないのに、消費者にもっ に即した環境でつくられた商品をカ と賢くなれとは酷でしよう、と読者私たちに返ってきています。僕らの タログやネットで販売し、小売り店 暮らし方を変えないと、問題解決し からの抗議がいくつも届きました。 る え や生協などにも卸しています それから 8 年、あのときの間題提ない段階にきてしまいました 変 高田ーー・・カタログをみると、繊維が を起が受け人れられる世の中になって 天然素材なのがいいですね。石けん 紲きたと感じています。 もぜひ使いたい。資源が循環する、 の佐藤・ー、・私は結婚したときに、生協 という意味で環境問題とフェアトレ 加人の誘いを受けて、「安く買える平澤ーー私が働く「シャプラニー ードは関係しているんですね ル」は— 9 7 2 年に設立の Z O んですか ? 」と聞いたくらいものを 家計特集 石けんで広がる活動 51 2016 年婦人之友 12 月号
ノ、ことは生キること 河原絵の道は自立のために選んだのかもしれませんが、 ずっと夢中になって追いかけてこられました。絵を描くこ とは、ご自身の人生のなかでどんなことなのでしよう。 堀生きること 河原ああ、やつばり。 堀でも誰でも、あなただって、お仕事は生きるためで 1 ) よっ 河原代からプルーポピーを見にヒマラヤに行ったり、 堀私は生物のなかで、植物を一番尊敬しますね。もの言顕微鏡の中のミジンコを描いたり。木の木目を描いた絵も ありました。描きたいものがどんどん広がった印象です。 いませんけれど、永久に生きてるんですよ、自力で。いま、 誰でも、自分のことは人が助けると思ってるの。誰も助け 中島歳になる少し前、傘寿の展覧会を頼まれたけれど やしません。自分で這いあがるしかないのです。 先生は「やりたいことが山ほどあるので、過去をふりかえ 河原女子美を卒業した後、東京帝大農学部で記録係とな る回顧展にはなんの興味もございません」といって断った り作物を描いておられましたが、その頃から、じっと見て そうです。それからです、水のかたちや道路のひび割れ、 観察して学んでこられたことでしようか ミジンコなど、日本画家としてそれまで描かれなかったも 堀そう、そんなところは勤める人がいないんです。美術のをどんどんお描きになった。 : 。売れないと 道路のひび割れの絵を託されたときは : 学校出たらみんな学校の先生になるから。でも私は教師に はなりたくなかった。稲や麦など、植物を、徹底的に観察私は思うわけです。でも先生は「この道を通らなければ、 して記録しました。 次へは私は行けない」とおっしやる。そうしたら、ひび割 れの絵を買ってくれる方がいらしたのです。花の絵もあっ たのに。驚いてお話を伺ったら、その方にも、心にひび割 れがあった時だったというのです。 河原うわあ。 中島先生にもあるのですね、ひび割れがだから描きた いわけでしよ。それをわかる人が、ちゃんといるんです。 その方はあの絵にぶつかって、たまらずお買いになったけ れど、それはやつばり先生ご自身が、本気で描かざるをえ なかった作品だからなんです。 とおっしやって 河原描き終わって満足することはない、 いますね。 2 田 6 年婦人之友 12 月号 80
気に入った部分を切り取り、模様に沿っ て針を入れて立体的にして額に。 箱 ( 右 ) にも布を貼った。 口ゞ ロ日ロ つくりかえて、 最後まで、活かす「尉 すてきな布が手に人ると、つい何 に人らない時代でしたので、母が名 かっくりたくなります。服が古く 古屋帯の芯でつくってくれたトート なったら、次はどんなものにしよう バッグに、私が絵を描いたカバンで かと、創作意欲がわいてきます。布通学しました。これが私の手しごと どうしを組み合わせては、「これは の原点です。 相性が悪いわ」「おしゃれな感じ 今でもこの楽しみは続いています ね」などと何度も並べ替えて眺め、 か、小さな布を扱う指先のしごとは、 いつのまにか時間が過ぎて行きます。花を咲かせる庭のしごととはまた異 縫いながら、そして完成してからも、 なり、その魅力は数えきれません この部分は母のプラウス、ここは夫 針を持っ度に、新しい使い道や無 のシャッと思うと愛おしいものです。駄のない裁ち方などを考えながら、 昭和年生まれの私は、戦後まも布を生き返らせて楽しんでいます。 なく小学校へ人学。ランドセルが手 児館 / 明 森カ園 / 協学 影影由 撮撮自 広田覯子 ( 園芸家 ) 2016 年婦人之友 12 月号 36
料理に一番大切なのはク知識です。適した塩分 量や味つけの配合など、この 1 年間にご紹介したよ うな「ちょっとしたこと」を覚えているだけで、手 際もおいしさも違ってくるでしよう。それをくり返 していくうちに、だんだん技術も伴ってくるもので す。読者の皆さまから「塩分量がわかり、味が安定 するようになりました」、「目はかり・手はかりがと ても便利です」などの声をいただき、さっそく役立 ててくださったことを嬉しく思います 料理は、とにかくつくってみること。これは、私 第回 私の台所だより 小惠子 絵・片岡樹里 2 田 6 年婦人之友 12 月号 102
そんな折に知った記念館設 にあり、生活にはとても便利 では、日本で初めて出家した 鳥取中部地震の震源地より 立で、娘に連れて行ってもら 善信尼と、中宮寺の天寿国繍になっています。ゆっくり、 帳に触れていて、中宮寺で半のんびりで、観光にも向いてったのです。三沢さんが案内 1 月幻日金曜日の午後 2 時 して下さり、館内に両親がい 7 分、鳥取県の中部で震度 6 いるのですね。老若問わず、 跏像と最古の刺繍帳を見たと 弱の地震が起こった時、私は 利用しやすい電車、もっと日るように思えて涙が止まりま きの感動がよみがえりました。 今後ずっと平和が続き、遺本中に普及することを望んでせんでした。満州の地図と厚町内を車の運転中で、信号待 い名簿の中に両親弟妹の名前ちをしていました。突然、車 ます。黒部福田とも江 跡、遺物が大切に伝えられまい がありました。嬉しかった。 が小舟のように揺れ、何が起 すようにと祈りつつ、次の連 満蒙開拓記念館を訪ねて こったかわからず、思わずプ まわりにも涙を流して見てい 載を楽しみに過こします。 レーキを踏みこみました。 豊田宇野京子 8 月号対談「歴史を見る目る姿があり、私は戦争で亡く すぐにラジオで大きな地震 を育てる」にありました満蒙なった人たちがここで供養さ 路面電車で観光 と知り、家へと急ぎました。 開拓平和記念館は、私も 3 年れているように思いました。 ほくえいちょう 昨年の 8 月にもう一度、今わが家は北栄町で酒造業を営 前の開館直後に訪れました。 「町の中を電車が通るってい いわね」「 200 円で観光が読売新聞夕刊に小さく掲載さ度は孫 2 人に連れて行ってもんでいます。駆けつけると、 できるんだ」という、旅人られた開館の報を見て、早速電らいました。観光も兼ねて阿出荷前の瓶がなぎ倒されたか しい会話がもれ聞こえました。話しました。そのとき詳しく智村に泊まり、記念館を再訪。のよう。店の床にはお酒が川 富山市内をスマートな車体で説明して下さった三沢亜紀さ私も戦争の話をすることはあのように流れ出し、言葉を失 いました。 りませんでしたが、大学生の めぐるセントラムの車内です。んが登場していて驚きました。 でも、店にいた家族や従業 私の両親弟妹の名簿が資料に孫は見学しながら、そっと涙 2 月号の座談会で話題とな った ( 次世代型路面電載っていることなども、調べを拭いていました。誌面から員にけがはなく、酒蔵は守ら 三沢さんが記念館準備にご苦れました。何とか気を取り直 車システム ) は、市電と呼ばて知らせて下さいました。 し、小刻みに襲う揺れの中、 父母は八ルビンで亡くなり、労されたことを知り、平和記 れていた、私の学生時代から 大切な富山市民の足です。今弟妹は方正県で亡くなったの念館ができたことに感謝しなみんなで片づけを。電気や水 がら、戦争のない平和な日が道のライフラインが保たれた 、ハルビンに一度は行きた は富山駅の駅舎内から発で いと思いながら、生活に追わ続きますように祈っています。ことは救いで、 2 日がかりで 車、雨の日もぬれずに乗れて、 ーの前れ行かれずに時が過ぎて : 停車駅も病院やスー 横浜平澤ゆき子片づけ、日に営業を再開し 2016 年婦人之友 12 月号 186