主膳 - みる会図書館


検索対象: 小説トリッパー 2013年秋季号
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1. 小説トリッパー 2013年秋季号

「それでは家中がおさまりません」 源太郎は主膳に続いて立ち上がると、玄関まで見送りに出た。 「むしろ渋田見殿を罷免なさるべきでございます」 玄関先には主膳の供ふたりが控えていた。 「出雲様のなされように不満を持っ家中の者は多いのでござい 主膳は玄関先で刀を差し、出ていこうとしたが、ふと、振り まする」 向いた。 蔵人たちは大広間で忠固に相次いで言上した。 「本日はまことにありがたきお話をうかがえた。これからのこ 忠固は黙って家老たちの言い分を聞いていたが、話が一段落 とを思うと、まことに心丈夫でござる。菅殿とそれがしはこれ すると、吐き捨てるように言った。 から同志であるとお思い願いたい、 「主命に逆らうとは、まことに不忠の者たちであるな」 なめらかな口調で主膳は言った。 げんち 忠固の言葉に家老たちは凍りついたようになった。不忠の臣 源太郎ははっとした。主膳の誘いに対して、何の言質も与え とまで言われては 0 これ以上の諫言はできない てはいなかった。だが、主膳は供の前で声を高くしてあたかも 黙り込んだ家老たちを見据えた忠固はこめかみに青筋を立て 源太郎との間で約東事ができたかのように振舞って見せたのだ。 た癇性な顔つきで、 「渋田見様ー」 「そなたらの申し条は相わかった。それ以上、聞きとうはない 源太郎はあわてて声を発したが、主膳は重々しく、 ゆえ下がれ」 「大事ござらぬ。菅殿の心中、よくわかり申した」 きびす と言った。 と言って踵を返し、背中を向けた。主膳は呆然としている源 「仰せではござりまするが」 太郎を残して、そのまま蒸し暑さが増した陽射しの中へと出て 蔵人がなおも言上しようとすると、忠固は腹立たしげに立ち いった。 上がった。 「もはや、聞かぬと申したのが、わからぬか」 小笠原出雲は家老たちと話し合いを行った後、あわただしく 厳然とした言葉に家老たちは、言葉もなくうなだれるしかな 江戸へと戻っていった。 家老たちとの協議はととのわないままで、家中にはしこりのかった。 小笠原家中の対立はもはや抜き差しならないものになろうと ようなものが残った。 していた。 九月に入って、藩主忠固が帰国した。 渋田見主膳を家老とすることをあらためて告げられた小笠原 蔵人や伊藤六郎兵衛、小宮四郎右衛門、一一木勘右衛門らはこぞっ て反対した。 263 風花帖

2. 小説トリッパー 2013年秋季号

さな灯りが動くのが見えた。傍らの松に身を隠した順太が囁く よう離れた場所で見張っている。 よ、つに一言った。 すでに月が上がっていた。 ちょうちん 「あれは主膳の供が持っ提灯かもしれませんぞ」 間も無く主膳が下城してくるのではないかと思えた。源太郎 「そうだな」 は主膳を襲う心を定めていた。 うち 源太郎は答えながら、声が落ち着いていることに安堵した。 主膳と何度か話をする間に相手の胸の裡にひややかなものが あるのに気づいていた。おそらく源太郎との関わりは政に利用もはや、迷ってはいないのだ、と思った。後は、主膳が近づく のを待って斬りつけるだけだ。 するためだけのものなのだろう。 ( 渋田見様、どうやらわれらが出会ったのは悪縁だったようで だとすれば、藩を改革するために斬ることをためらう必要は ない、と覚悟を決めた。しかし、主膳を斬ることですべてが終ござる ) 源太郎は胸の中でつぶやいた。すると、闇の中から、 わるのだろうか、と不安な気持があった。 ひとたび血を見れば、際限なくその争いは続いて流血が続く 南無阿弥陀仏 のではないだろうか。与市は常に君側の奸を除けば、藩政を革 南無阿弥陀仏 めることができると唱えているが、出雲は藩主忠固の意を受け 南無阿弥陀仏 て動いている。 出雲を除くことは、忠固をないがしろにすることであるから という低いつぶやきが聞こえてきた。順太がこれから斬る主 には、改革の行く末は容易ではないだろう。そう考えれば、こ れからは主君との争いになるのだ、と源太郎は重苦しい心持ち膳のために阿弥陀仏に帰依し奉る、と唱えているようだ。 源太郎もいつの間にか、小声で、 になった。 屋敷で待っ吉乃の顔が思い浮かんだ。 南無阿弥陀仏 何不自由のない身で心安らぐ家族がありながら、藩政への思 いから、修羅の道へ踏み入ろうとしているのだ、とあらためて と唱えていた。いまから振るうのは破邪顕正の剣なのだ、と 思い知った。しかし、もはやここまで来てしまったからには、 自らに何度も言い聞かせていた。 引き返すわけにはい、 源太郎は脳裏に浮かんだ吉乃の面影を消そうとした。主膳を 新六は闇の中を疾走した。やがて黒々とした松並木が続く馬 斬れば、もはや、屋敷に戻ることはないかもしれない 場が見えてきた。 源太郎は心を静めようとした。そのとき、大手門の方角で小 271 風花帖

3. 小説トリッパー 2013年秋季号

とも思わぬ者がおると聞いておる」 主膳は厳しい顔つきで言ってのけた。源太郎は主膳に向き直っ て口を開いた。 「殿の命には何でも従うのばかりが忠義ではございますまい 「渋田見様はなせさような話をそれがしになさるのでござろう 殿に諫言し、君側の奸をはらうのも忠義かと存ずる」 「だが、出雲様が溜間詰昇格のことについて、かねてから何度か」 も殿に諫言いたされておるのはご存じあるまい」 主膳はさりげない様子で出されていた茶碗に手をのばした。 主膳はしたたかな顔になって言った。 背をかがめ、茶をすすってから、 「なんですとー 「旧大甘派で物の役に立つのは菅殿おひとりと見たからでござ 「まことのことなのだ。出雲殿は溜間詰昇格を運動しようとする。何も出雲様の派閥に入れとは言わぬ。わしは出雲様と親し れば費えがどれほどかかるか計り知れぬ、と殿をお諫めしてき き間柄ではあるが派閥に入っておるわけではない。そのわしと た。しかし、どうしてもお聞き届けくださらぬゆえ、それなら ともに藩のため力を尽くさぬか、と申し上げておるのだ」 ば自らが行うことで費えを少しでも少なくしようとしておられ と答えた。主膳の言葉には重みがあった。源太郎はしばらく るのだ。そのことを国元の家老たちは見ようとはせぬー 考えたが、 やや苦しげに言った。 「それはー」 「さような仰せはまことにありがたくはございますが、それが 源太郎は言い返そうとしたが、言葉に詰まった。主膳はさら しはいまさら志を同じくする同志の方々を裏切れませぬ」 に畳み掛けるように言葉を継いだ 源太郎の言葉を聞いて主膳は苦々しげにーっぷゃいた。 まつりごと 「菅殿、政と申すは悪人の仕事なのだ。そこもとが信奉された 「同志などとは慮外な申し様をされる。家中一同、心を同じく 大甘兵庫殿がまさにさようなおひとではなかったかな。何事も して主君にお仕えいたすのが武士たる者の本分でござろう。い そし 強引に推し進め、ひとの謗りを意に介さぬ。さようなひとでな たすらに私党を作り、藩政を動かそうとするは、不忠の極みで ければ政はできぬのだ。そうは思われぬか」 すぞ」 主膳にうかがうように見られて、源太郎は目をそらせた。主 「それは出雲様も同じではございませぬか [ 源太郎は突っぱねるように言った。主膳はからからと笑った。 膳は、源太郎の内心を推し計るかのように、何度も、つなずいた。 「大甘兵庫殿亡き後、さような仕事ができるのは出雲様しかお 「なるほど、そうかもしれん。しかし、わしは違うぞ。それゆ られぬのはおわかりでござろう。なるほど、儒者の上原与市の え、菅殿にはわしとともに立っていただきたいのだ」 いとま 説くところは正義であり、耳に聞こえがよいかもしれぬが、実 言い終えた主膳は膝を正して、では、そろそろお暇いたすと のところは何の役にも立たぬ。おのれが正しいと言い立てて立しようか、と告げた。さりげない振舞いだが、有無を言わせぬ 身出世を願っておるだけの話だ」 ところが主膳にはある。 葉室麟 262

4. 小説トリッパー 2013年秋季号

らあまりに警固が厳重ゆえ、断念いたした。主膳は出雲に比べ逆らう者どもを根こそぎに致されるようでござる」 「根こそぎとなると、家臣の半分にもおよぶかもしれぬ れば警固は手薄のはず。斬るのはさして難事ではございますま 主膳は考えながら言った。 「それほどにいたさねば、殿の溜間詰昇格のことはかなわぬと 「されど、いかなる大義名分があって渋田見様を斬ると言われ 思われたのでありましよう」 るのか 勘十郎の言葉に主膳は皮肉な笑みを浮かべた。 源太郎が眉根を曇らせて訊くと、与市は笑った。 「殿はさほどに老中になりたいと思われてか」 「渋田見主膳は言わば、出雲の手先でございます。それだけで 「異国の船がわが国の近海に出没するようになっております。 斬る理由は十分ではございませんか」 いまこそ幕閣にあってお働きになられたいのだと存ずる」 方円斎と順太もうなずいた。源太郎は目を閉じて訊いた 「そのために金をいくら使っても惜しくないというのでは、家 「それがしに渋田見様を斬って身の潔白の証を立てろと言われ るか 臣や領民にとって困りものだがな」 主膳は平然と忠固を謗るかのごとき言葉を口にした。勘十郎 「さよう、武士なれば逃げられぬところと存ずる」 が閉ロして、 方円斎がびしりと言った。源太郎は腕を組んで考え込んだ。 「渋田見様ー 眉間にしわが寄って、苦しげな表情だった。 と言うと、主膳は声を出さすに笑った。 「わしは忠義の家臣だ。仮にも殿のなされることを謗ったりは この日、主膳の屋敷を伊勢勘十郎が訪れていた。江戸の出雲 せぬ。ただ、百姓どもがさぞや搾り取られることになろうと思っ から届いた手紙を見せるためだった。 主膳は勘十郎を茶室に招じ入れ、茶を点てたうえで、手紙をてな」 開いた。 冗談めかして言う主膳を戸惑った面持ちで見つめていた勘十 勘十郎が茶を喫する間に読み終えた主膳は、手紙を巻くと勘郎はふと思い出したように口を開いた。 「そう言えば、渋田見様が彼の菅源太郎めに仕掛けられた罠は 十郎の膝前に戻した。 自分のために黒楽茶碗に茶を点てた主膳は、ゆっくりと飲み功を奏したようでございますな」 「ほう、そうか」 干してから、 「さよう、旧大甘派の者たちは、菅源太郎が寝返ったと疑って、 「出雲様はよほどのお覚悟のような」 騒動いたしておるとのことでございます」 とつぶやいた。勘十郎は大きくうなずいた。 勘十郎が舌なめずりして一言うと主膳は薄い笑いを浮かべた。 「さよう、すでに殿と打ち合わせておられるとのことですが、 265 風花帖

5. 小説トリッパー 2013年秋季号

源太郎は観念したように言った。 十一 「それでも渋田見様を訪ねられたのはいかなるわけでございま しよ、つか」 藩内で不穏な気配が漂う中、旧大甘派では源太郎が孤立して 「渋田見様は政とは悪人の仕事だと言われた。謗られてでも成 し遂げねばならぬことがあると。それゆえ、危ういと思いつつ 源太郎はその後も招かれるまま、主膳の屋敷を何度か訪れても献策いたそうと考えたのでござる」 藩政について語り合っていた。 与市は、ふふ、と笑った。 出雲派に寝返るつもりはなかったが、主膳を通じて藩への献「つまるところ、菅殿は主膳めにだまされたのです」 策が行えるならば、という気持ちだった。しかし、このことが 「だまされたと言われますか ? 」 旧大甘派に知られると、上原与市と直方円斎、早水順太が屋敷 眉をひそめて源太郎は問い返した。 を訪れた。 「菅殿が主膳の屋敷に行かれておることがなぜわれらの耳に入っ 奥座敷に通された与市は厳しい声音で、 たと思われまするか。出雲の派閥の者たちが言いふらしておる よしみ 「菅殿が、渋田見主膳を通じて出雲に誼を通じようとしている からですぞ。いずれは藩の重職に上ると見られている菅殿がわ たもと とい、つがありますが、まことでございましよ、つか」 れらと袂を分かったと知られれば、家中の者たちで動揺する者 と糾問した。源太郎は表情を硬くして答えた。 もいるからです 「さようなことはござらん。渋田見様に藩政についての意見を 「さようなことはー」 いささか申し上げただけのことでござる」 源太郎が頭を振ると、順太が膝を乗り出した。 「献策でござるか。それはよきことでござるが、つまりは自ら 「ないと仰せになるのであれば、証立てていただきとうござる」 を用いてくれという意を伝えたというわけですな」 源太郎はむっとして順太を見返した。 与市はひややかな口調で言った。 「どうせよと言われるのだ」 「さようなことは決してしておりませぬ」 方円斎がふわりとした言い方で割って入った。 源太郎は心外だ、と言わんばかりに答えた。方円斎が身じろ 「なに、造作もないことでござる。疑いの元となっている渋田 ぎして口を開いた。 見主膳を斬ればよいのですからな」 「されど、菅殿が渋田見屋敷を訪ねられれば、かような疑いを 「なんですと」 持たれることはわかっておられたのではありませぬか」 源太郎は目を剥いた。方円斎は目を鋭くして言葉を発した。 「疑念が生じるやもしれぬという危惧はあり申した」 「以前、君側の奸である出雲を斬ろうといたしたが、残念なが 葉室麟 264

6. 小説トリッパー 2013年秋季号

またもや、白刃が光った。 源太郎が声を低くして言うのと同時に、傍らの松の陰から順 新六は宙に跳んで、方円斎が斬りつける刀をかわした。方円太が飛び出して、 「来たぞ , 斎はさらに間合いを詰めて斬りつけてくる。 と言うなり駆けだした。源太郎もあわてて追おうとした。そ 新六はゆらゆら揺れるようにして、かわしていたが、方円斎 のとき新六が、 が上段から振り下ろした刀が空を切ると、刀の峰に飛び乗った。 ご免 「おのれ、足鐔か」 というなり、源太郎の腕をつかんで腰を入れて投げ飛ばした。 方円斎は叫ぶなり、放胆にも刀を捨てた。新六が宙で回転し 源太郎は地面に叩きつけられて、うめき声をあげた。 て跳ぶところへ方円斎は脇差を抜いて斬りつけた。 「すぐに立ち去られよ」 新六は地面に降り立っと刀に手を添えて鍔で方円斎の脇差を 新六は源太郎に声を掛けると順太を追って走り、たちまち抜 受け止めた。次の瞬間、新六と方円斎は弾かれたようにそれぞ き去った。そのときに順太が手にしていた手槍を新六は奪い取っ れ後ろに跳び退った。 ていた。 「勝負なしじゃな」 提灯を持った供を連れた主膳に風のように新六は駆け寄った。 方円斎が笑って言うと、新六は頭を下げて背を向け、また走 り出した。 新六に気づいた主膳が、 「何者だ」 と怒鳴ったとき、新六はふわりと跳んでいた。主膳の頭上を 源太郎は提灯の明かりが近づくのを待ち受け、刀の柄に手を かけていた。いまにも立ち上がろうとしたとき、背後でひとの跳び越えるとき、新六は手槍を投げつけていた。 新六は地面に降り立っと、そのまま振り向かずに走り去った。 足音がするのを聞いた。 供の者が、旦那様、と声をあげて駆け寄ると、主膳の体がぐら はっとして振り向くと、頭巾の男が近づいてきて、 りと揺れて仰向けに倒れた。 「菅殿かー」 主膳の肩先から首筋にかけて手槍が刺さっていた。 と声をかけた。新六の声だった。 その場から供の者によって主膳は屋敷へと運ばれた。まだ、 「なせ、来られた」 辛うじて息があったが、四日後に絶命した。 源太郎が驚きの声をあげると、新六はそばに身を寄せた。 「奥方様に頼まれたのでござる。刺客など菅殿のなさることで はない。それがしが代わりましよう」 「何を申される。さようなことはできぬ 273 風花帖

7. 小説トリッパー 2013年秋季号

馬場に駆け入ろうとした新六の足がびたりと止まった。 雲につながる渋田見主膳を斬ったところで不思議はござるまい」 月が出ている 新六は平然と言った。 馬場に松の黒い影が伸びていたが、その影に隠れるようにし 「七月に出雲を斬ろうとしたおりには、巧みに逃げた印南殿が てひとが立っていた。ゆらりと人影が動いて月明かりの下に出なせ考えを改められたのでござろうか。さように申しながら、 てきた。 実は主膳を助けようという魂胆かもしれぬな」 頭巾をかぶっているが、腰の構えと体つきで、直方円斎だと 方円斎はなおも構えを解かず、うかがうように新六を見据え 新六にはわかった。方円斎もまた新六だと見破っていた。 「印南殿、いずこへ行かれる」 「いや、さようなことではありませぬ。ただ、それがしにはお 方円斎は落ち着いた声をかけた。 守りせねばならぬひとがおります。そのひとの願いによってか 「直殿がここにおられるからには、渋田見様を襲うのは、やは くは参った」 り馬場ということですな」 新六が言い終わるや、 新六が確かめるように言うと、方円斎は、くつくっと含み笑 ー笑止 いした。 一声かけて、方円斎は踏み込んで間合いを詰め、居合を放っ 「そうだとしたら、どうされるつもりだ」 た。きらつ、きらっと白刃が月光に輝いた。 「刺客の中に菅殿がおられよう」 新六は後ろに跳び退って、刃を避けながら、片手を突きだし 「言えぬな」 て制した。 方円斎は素っ気なく答えた。 「待たれよ。それがしはまことのことを申しておるだけでござ 「その返事だけで十分でござる。それがしが参ったのは菅殿を る。偽りは申さぬ。それよりも早水殿と菅殿だけではしくじる 連れ戻すためにございますゆえ」 やも知れませんぞ。それがしが参れば万に一つも主膳を逃しは 「ほう、われらの企てを邪魔されるつもりか」 いたさぬ。そのこと、直殿ならおわかりのはず」 方円斎はわずかに腰を落として身構えた。新六は頭を横に振っ 新六が懸命に言うと方円斎は刀を鞘に納めた。 「よかろう。ならば、行くがよい。菅殿らは馬場の北の端にて 「さにあらず、菅殿は刺客にふさわしくないゆえ、お戻りいた主膳を待ち伏せいたしておるー だき、それがしが代わって主膳を斬り申すー 方円斎にうながされて、新六は、ならば参る、と答えて走り 「なんと 出した。方円斎の傍を駆け抜けようとしたとき、方円斎が一瞬、 「それがしも旧大甘派に身を置いているのであれば、小笠原出腰を沈めた。 しさ 葉室麟 272

8. 小説トリッパー 2013年秋季号

「あの男は学問もでき、頭もよいが、上士の家に生まれただけつぶやいていた。 に、いささか甘いところがある」 「ほう、甘うございますか」 夜になって、源太郎は書斎にひとり籠り、蝋燭を点して書見葉 「それまで親しくもなかった相手がおのれに近づいてくれば言台に向かっていた。だが、読書は形だけで、ひたすら考え続け うことを眉につばをつけて聞かねばならぬが、あの男はまっとていた。 うに耳を傾ける」 与市らの唆しによって、渋田見主膳を暗殺すれば、もはや後 勘十郎は首をかしげて主膳を見た。 戻りは許されない。 「ただいまのお言葉をうかがうと、何やら菅源太郎を買ってお 出雲派との争いに勝たなければ、いずれ切腹か斬首の刑にな られるようでございますが」 るだろう。もとより、武士として常時、死は覚悟しているつも 「物の役には立っ男だ。されど、家中の争いがこれほど根深く 、藩主忠固の命に逆らっての死であれば、不忠の汚名を なって参れば生き延びるのは難しかろう」 着ることになる。 おうのう 主膳は無表情に答えた。 そのことへの恐れが胸中にあるため源太郎は懊悩していた。 「では、菅を救ってやろうとはお思いになられませぬかー そんな源太郎の様子に茶を持ってきた吉乃は心配げな目を向け 勘十郎は確かめるように訊いた。 「さような甘いことはせぬ。これからは一歩足を踏み外した者「昼間、何かございましたのでしようか」 が首を失うという厳しき争いになろう。ますはおのれが生き延 吉乃が座って声をかけると、源太郎はわれに返ったように振 り向いた。 びることを考えねばならぬ。ひとのことを構ってはおられまい」 主膳はためらいのない口調で話すと、もう一服進せようと言 「なせ、さようなことを聞くのだ」 い添えた。 「申し訳ございませぬ。上原様たちがお見えになったおり、あ 勘十郎は主膳の点前を見つめながら、 まりにもただならぬご様子でしたので」 「菅源太郎め、間もなく首を失うやもしれませんな」 吉乃は伏し目がちに言った。源太郎は、そうか、とつぶやく と愉快そうに言った。いまでは菅源太郎の妻になっている吉 ように一言うとため息をついた。 「これは、御家の大事に関わることゆえ、妻であるそなたにも 乃に乱暴しかけ、そのために新六に御前試合で打ち据えられて、 ひどい怪我を負ったことを思い出していた。 らすのもいかかかとは思うが、わたしの身に万一のことがある ( 菅源太郎が酷い目にあえば、あの女はさぞや嘆くことだろう ) やもしれぬから、話しておこうかと思う」 「お聞かせくださいませ。決してひとにはもらしませぬゆえ」 それが新六への何よりの仕返しになると、勘十郎は胸の中で むご

9. 小説トリッパー 2013年秋季号

新六は感銘を受けたように何度もうなずいて吉乃の話を聞い はないか、と案じていたが、やはりこういうことになっていた た。そして膝をびしやりと手で叩くと、 のかと思った。新六は吉乃を見つめた。 「わかり申した。それがしが何としても、菅殿が生きて吉乃様 「菅殿は誰を狙うかをお話しになりましたか」 のもとに戻れるようにいたしますぞ」 「いえ、聞いておりませぬ」 吉乃の顔がばっと明るくなった。 吉乃は頭を振って答えた。 「まことでございますか。夫には止められておりましたが、や 「さようでございましような」 応じながらも、新六はおそらく狙われているのは、渋田見主はり新六殿をお頼みいたしてようございました」 源太郎には止められていた、と吉乃が言うのを聞いて新六は 膳だ、と見当をつけた。いま、旧大甘派が国元で暗殺を企てる せいれいかっきん 相手としては主膳ぐらいしかいない。職務に精励恪勤する主膳悲しげな顔になった。 の下城はいつも深夜になる。 「吉乃様、それがしが昔、生涯かけて吉乃様をお守りいたすと 申したのを覚えておられますかー 源太郎たちはどこかにひそんで主膳を待ち受けるつもりだろ 突然、言われて吉乃は戸惑いつつもうなずいた。まだ娘のこ う。まだ主膳が襲われる刻限には間があるはすだ、と考えた新 六は落ち着いて吉乃に訊ねた。 ろ素戔鳴神社の杉木立で伊勢勘十郎に乱暴されそうになったと 「それで、吉乃様はそれがしに何をして欲しいと思われるのでき、助けてくれた新六は、 ござるか 「ご安心ください。わたしが吉乃様をお守りいたしますから」 問われた吉乃は戸惑いながらも懸命に答えた。 と言った後、声を低めて、 「このことは生涯かけて変わりませんぞー 「夫に刺客などして欲しくありませぬ。生きて戻ってきてもら いたいと思います と付け加えたのだ。後になって、このころ親戚の間で自分を 「菅殿を無理に連れ戻すことはあるいはできるやもしれません。新六に嫁がせようという話が進んでいたと知った。 しかしそれでは菅殿は面目を失い、卑怯者の汚名を被ることに 新六が勘十郎の手から吉乃を助けたおりにロにした言葉はや がて妻となる女人に向けたものだったのだ。 なりますぞ」 新六の言葉に吉乃はぞっとしたかのように、頭を激しく振っ しかし、新六は吉乃が恐れを抱き続けることがないように、 御前試合で勘十郎を叩き伏せ、怪我を負わせたことで江戸に追 いやられた。 「さようなことになれば、夫は生きておらぬと存じます。武家 その間に吉乃は源太郎に嫁して、ふたりの歩む道が重なり合 の妻として覚悟ができておらぬと蔑まれるかとは思いますが、 うことはなかった。それでもなお、新六は吉乃への想いを失わ わたくしは夫に生きて欲しいのでございます」 すさのお 269 風花帖

10. 小説トリッパー 2013年秋季号

新六は静かに口を開いた。 「ほう、もう、わしの間者だと見破られたのか」 「護衛のお役目はそれがし、お引き受けいたしかねまする」 「さようではございませんが、それがしはひとに疎んじられる ところがございますようで、要は嫌われたのであろうと思って 「なんだとー 勘十郎は険しい顔になって自ら酒を注いだ杯を口に運んだ。 おりますー さげす 「旧大甘派の会合に出続けておれば、刺客にならざるを得なかっ 新六が平然と言ってのけると、出雲は蔑んだ表情になって、 たと存じます。それを逃れたからには、旧大甘派はそれがしへ 「つまり、役には立たなかったというわけか」 の監視の目を強めましよう。護衛の役につけば小笠原様がどこ とつぶやいた。出雲が酒を飲み干すと、勘十郎はにじり寄っ におられるか、どの道筋を通られるかを報せるのも同然でござ て酌をした。そして新六を振り向き、 いますー 「しかし、印南を遠ざけたということは、まさに何事かを彼奴 らが企んでおる証でございましよう」 淡々と新六が話すと、勘十郎は顔をしかめた。 「刺客にはならぬが、護衛もできぬと申すか。まさに鳥でもな 「では、やはり、わしを狙うのか」 ければ獣でもない蝙蝠のごとき者だな」 出雲はつまらなそうに言った。 ひややかな言葉に新六は目を伏せ、唇を一文字に引き結んだ。 「おそらく、さようかと思います。それだけにこちらは面白い 手が打てますぞ」 翌日 、源太郎の屋敷を渋田見主膳が訪れた。 「どうするというのだ」 朝から蒸し暑く、汗ばむ日だった。 「上原与市には、ご家老の命を狙うほどの胆力はございません。 主膳は五十過ぎで肩幅が広く、肉付きのいい体格だった。眉 もし刺客になる者があるとすれば、剣客の直方円斎であろうか が太く鷲鼻であごがはった顔である。陽射しの中を歩いてきた と存じます。わが藩におきまして、方円斎と戦えるほどの腕を ため、額に汗を浮かべていた。非番だった源太郎が客間で会う 持つ者は印南だけでございます」 と、主膳は時候の挨拶の後、いきなり、 勘十郎はしたり顔で言った。せつかく、旧大甘派の刺客とな ることから逃れたと思ったのに、勘十郎は出雲の護衛をさせよ 「菅殿は忠義の臣でござるか。それとも不忠の臣ですかな」 と唐突に訊いた。源太郎は不愉快に思いながら答えた。 うというのだ、と察して新六は眉をひそめた。 「自らを不忠の臣だと言う武家はおりますまい , 出雲は鋭い目を新六に向けた。 「大甘兵庫はそなたを、いざという時、わしへの刺客といたす「さて、それはわからないことだ」 主膳はにやりと笑った。 つもりだったのであろう。ところが、そなたがわしを守ること になるとは、とんだ皮肉だな」 「いや、さようなことはない。近頃は殿の命に逆らうことを何 あかし きやっ 261 風花帖