「印南殿かーー」 吉乃は源太郎に真摯な眼差しを向けた。源太郎は唇を噛んで 源太郎は意外な名を聞いたという顔をした。しかし吉乃から 考えてから顔を引き締めて話し始めた。 「わたしはいま大甘派の同志の方々の疑いを受けておる。渋田新六の名を出されて、七月に出雲が帰国したおり、暗殺の企て 見主膳様の屋敷に何度か伺い、藩政についての話をいたしたゆがあったことを思い出した。 あのおり、方円斎は新六を刺客とするつもりだったようだ。 えだ。無論、やましいところはないつもりだ。しかし上原殿た しかし、新六は機先を制して辞去し、刺客にならすにすんだ。 ちはわたしを信じられぬ様子で証を立てるよう迫られた」 「刺客のことを言いだされる前に印南殿は身をかわされた。思 源太郎の顔に翳りが浮かんでいた。吉乃は痛ましいものを感 えば、あれもまた剣の奥義なのかもしれぬな」 じつつ、 「では、新六殿なればかようなおり、どのように切り抜けたら 「されど、日一那様は決して私利私欲で動かれる方でないことは よいか、おわかりなのではありますまいか」 皆様もよくご存じのはずと思いますが」 吉乃は勢い込んで言った。源太郎はじっと吉乃の顔を見つめ と言った。源太郎は二度、深くうなずいた たが、しばらくして頭を横に振った。 「そうなのだ。わたしも信じていただけると思っていたが、ど 「印南殿を頼ろうというのか。それはできぬ。印南殿はすでに うやらそうではないようだ。言わば不徳のいたすところかもし れぬが、上原殿たちは、証を立てるため、さる方を斬れと言わ身をかわされたのだ。それなのにわたしのことに関わっては身 のためにならん」 れるのだ」 「ですが、新六殿は必ず、カになってくださると存じます」 苦しげな源太郎の言葉に吉乃は目を瞠った。 吉乃は力を込めて言った。源太郎は訝しげな表情になった。 「どなたをでございますか」 ゆかり 「印南殿はそなたの親戚ではあるが、わたしとは何の縁もない 「それは言えぬ。言えば同志の方々を裏切ることになろう」 「されど、仮にも同じ家中の方を殺めるなどあってよいこととそれなのに、迷惑はかけられぬ」 「新六殿は迷惑とは思われぬと存じます」 は思えませぬ」 吉乃がはっきりした口調で言うと源太郎は首をかしげた。 吉乃は案じるあまり、出過ぎたことかと思いながら言った。 「なぜ、そのように思うのだ。印南殿は霧ヶ岳で烽火を上げる 「わたしもさようには思うのだが、いつの間にか、どうにも抜 際もひそかにわたしをかばってくれたような気がしている。あ けられぬ罠に落ちたような気がしている」 のおりから何故であろうと思っていた。印南殿には何かわたし 源太郎は腕を組んでほっりほっりと話した。吉乃は目を伏せ 、、、をかばわねばならぬわけでもあるのだろうか」 て思いをめぐらせていたが、ふと、ロを開いた。 「さようなことはないと存じますがー」 「かようなとき、新六殿ならばいかがされましようか」 しんし あや 267 風花帖
心配だった。 「新六殿に難儀がかかるのではありますまいか . 十三 吉乃が案じて言うと、源太郎は頭を振った。 渋田見主膳が暗殺されると、忠固はすぐには怒りを露わには 「いや、印南殿があの場にいたことを知る者はわたしと早水殿、 しなかった。 直殿だけだ。誰もあの一件を口にする恐れはない。それに印南 却って出雲派とされていた重職たちを遠ざけ、小笠原蔵人や殿は刀で斬らす、手槍を使われた。斬り口から印南殿だとわか 伊藤六郎兵衛、小宮四郎右衛門、二木勘右衛門を重く用いる姿ることもあるまい」 勢を見せた。 源太郎は確信ありげだったが、仮にも人ひとりの命を奪って、 与市たちは、忠固が考えを改めたものと見て、 そのままですむとは吉乃には思えなかった。しかも、新六か刺 「これで藩政改革は成ったぞ」 客となったのは、自分の頼みを引き受けたからだ、と思えば申 と喜んだ。だが、主膳が殺された日以来、源太郎は病と称し し訳なさが募った。 て出仕せすに屋敷にいた。 ( わたくしは新六殿に甘えすぎている ) 大甘派との接触も断って、何事か考えているようだったが、 吉乃は何としても新六に詫びなければと思った。 ある日、吉乃に話して聞かせた。 「わたしは印南殿に助けられて、渋田見様への刺客となること 十月に入って、吉乃は新六の非番の日を確かめたうえで屋敷 を免れた。これは僥倖であったと言っていい 。上原殿のやり方を訪ねた。相変わらず新六の屋敷には年寄りの家僕がいるだけ だった。 は過激に過ぎる。わたしは旧大甘派から身を引こうと思う」 憑き物が落ちたような源太郎の言葉を吉乃は嬉しく聞いた。 家僕に案内された吉乃が座敷に上がると、新六は縁側でばん これ以上、源太郎に藩内の争いの中にいて欲しくなかった。 やりと庭を眺めていた。わずかな庭木があるだけの、何の変哲 「差し出がましゅ、つはございますが、わたくしもそれがよろし もない庭だった。 いかと存じます」 座敷に座って吉乃が挨拶すると、新六は縁側であわてて膝を 「これもそなたが印南殿を頼んでくれたおかげだ。ありがたく正した。吉乃は思わず、 思っているぞー 「新六殿、何をされておられました」 源太郎は先日までとは打って変わった様子で言った。 と訊いた。新六は頭に手をやって苦笑した。 吉乃は喜んだが、気になるのは新六のことだった。源太郎に 「いや、庭を眺めておっただけのことです」 「庭は面白うございますかー 代わって主膳を仕留めた新六が罪に問われるのではないか、と 葉室麟 274
「菅は渋田見様の一件以来、旧大甘派から遠ざかっているよう 小倉城に異変が起きたのは、十一月十六日のことだった。こ です。どうやら、渋田見様の殺害に加わってはおらぬのではあ の日は朝から鉛色の雲が空を覆っていた。 りますまいか」 時折り霰が音を立てて降ってきた。 「ふむ、印南が向こうにつき、菅は離れたというわけか。さす 早朝、寒さに震えながら藩士たちが登城してくると鉄御門が がに菅はかしこい男のようだな」 閉まったままだった。登城の時刻には開けられている定めだけ 出雲は何かを考える風だった。 に驚いた藩士は大声で門番に呼びかけたが何の応えもなかった。 「それに比べて印南は愚か者にございますー 登城してきた与市も城の門扉が固く閉ざされているのを見て 勘十郎は嘲るように言った。出雲は笑った。 愕然となった。 「まあ、愚か者にもそれなりの使い方はある」 「ど、つい、つことだ」 「さようでございまするか」 あわてた与市が大甘派の同志に呼びかけて探らせると驚くべ 勘十郎は目を瞠った。出雲は何でもないことのように言った。 「菅のように考えを変える者が出てくれば、皆の足並みが乱れきことがわかった。この間、忠固によって遠ざけられていた出 雲派の重臣たちがまだ未明のうちに呼び集められて城中に入っ る。それに印南はもともとわしの手先となっておった。そのこ たというのだ。 とを明らかにすれば、皆、疑心暗鬼となるに違いなかろうが」 「まさか、そんなことが」 「なるほど、さようでございますな」 与市はあわてて門に駆け寄り、どん、どんと叩いた。 「大甘派を割るために使、つのは菅と印南ということになろう。 「ご開門、ご開門、願わしゅう存じまする」 殿にもさよ、つに申し上げよ、つ」 与市が何度、呼びかけても門の内側から答える者はなかった。 「それでは、彼奴らに鉄槌を食らわせる日は近いのでございま やがて小笠原蔵人たち家老も出仕してきたが他の藩士たちとと すか」 もに門前に立ち尽くすだけで、なす術がなく顔を見合わせるば 勘十郎は緊張して訊いた。出雲は頭を大きく縦に振った。 かりだった。 「わしが帰国いたしたからには、もはや容赦はせぬ。彼奴ら目 鉄御門は忠固の意に添わぬ藩士たちを締め出して開かれるこ を剥いて驚くことになろうぞ」 ( 第二回了 ) とはなかった。 出雲は低い声で笑い出したが、やがて呵呵大笑した。 てつつい かかたいしよう あられ 277 風花帖
そめてつぶやくように言った。 似合わぬ、まことに厳しき覚悟を定めておられると感服仕った」 「なるほど、それしかないということか 他の者たちも方円斎に新六の覚悟を教えられて、感銘を受け 主君に諫言するからには、一死を以て行うのが武士の道だと た様子だった。だが、平然と死を覚悟している新六に薄気味悪 さも感じていた。 は、誰もがわかっていた。しかし、いざ、腹を切るとなると、 皆の胸にためらいが生じる。何よりも諫死を行うのは、それな 新六は方円斎にかすかに感謝する目を向けると、またいつも りの地位にある者でなければならない のようにうつむき加減でロを閉ざした。 この一座の中では与市か源太郎だろう。与市は目を光らせて、 膝に手を置いて静かに座した新六の姿から清冽な気迫が漂っ ていた。 新六を睨み据えた。 「印南殿はそれがしに諫死せよと言われるのか」 与市の鋭い声に、新六は驚いたように目を瞠った。源太郎と ほうえんさい 方円斎や順太も新六がどう答えるのかじっと見つめている 上原与市が家老の伊藤六郎兵衛に伴われて江戸に向かったの 「いえ、決してさようなことはござらぬ。ただ、殿についてい けぬと仰せの重職方からさような思案も出るのではないか、と は三月のことだった。 思ったしだいでござる」 かねてから与市が献策している国元の家老たちは、渋田見主 「ほう《では、印南殿も腹を切る覚悟はないのでござるな」 膳の家老就任に反対し、さらに忠固の溜間昇格の運動を取りや めるという考えを固めた。 与市が嘲るように言った。新六は黙って答えない。 「なぜ、何も申されぬのだ」 家老たちの意見をまとめた六郎兵衛は忠固に拝謁して、諫言 与市が苛立って声を高くすると、傍らの方円斎がくすりと笑っするため江戸に行くことにしたのだ。旅立ちに際して与市は源 た。与市が目を向けると方円斎は手を挙げて制した。 太郎の屋敷で旧大甘派の面々に、 「武士が生死のことを口にするからには、おのれがなせぬこと 「なんとしても殿にお考えを変えていただく所存だ」 を、ひとにせよとは申せぬのでござる。印南殿が諫死と言われ と告げた。さらに、新六を見据えた。 たからには、自ら腹を切る覚悟があるのはわかりきったことで 「殿をお諫めいたして、お聞き届けなくば切腹いたす。それが ござろう」 しの覚悟のほどを見ていただこうか」 方円斎にたしなめられて与市は顔をこわばらせた。順太が腕 与市の皮肉めいた言葉に新六はかすかにうなずくことで答え 組みをして、 た。すると、方円斎が静かに言った。 「いかにもさようではありましようが、印南殿は平素の様子に 「江戸に参られてから、何が起こるかまだわかりませんぞ。何 みは 255 風花帖
「殿はもはや諫言に耳を貸されるつもりがないということであ 吉乃は、うなずきながらも、どこか寂しげな新六を慰めたい ろ、つ」 と思ったのか、 与市は苦々しげに言った。順太が頭を振りながらロを開いた。 「夫は御用が忙しく、なかなか千代太に剣術の稽古をつけてや ることができずにおります。きようは新六殿に千代太の父親代「これでは、藩のすべてが出雲の思い通りに動くことになりま すぞ。なんとかしなければ」 わりをしていただきました」 方円斎が身じろぎして声を低めた。 と囁くように言った。その言葉を聞いて新六は額に汗を浮か 「されば、すべての元凶を斬るしかないのではあるまいか」 べてうろたえた。 与市はぎよっとした顔になった。 「滅相もないことでござる」 「出雲に刺客を放っと言われるのですか」 あわてて足袋の裏を手で払って土を落とした新六は縁側に上 がると、 方円斎は与市の問いに答えす、新六に顔を向けた。 「印南殿、いかが思われるか」 「ご無礼仕った」 新六は腕を組んで考え込んでから、しばらくして口を開いた。 と頭を下げた。千代太が縁側に駆け寄る。 「出雲様は用心深いお方です。刺客が襲う隙を見せるとは思え 「印南様、ありがとうございました。また、お教えください ほほえ 千代太に言われて、新六は嬉しげにうなすく。吉乃は微笑んませんな」 「印南殿が刺客となっても無理と思われるか」 で新六と千代太を見つめていた。 方円斎は目を鋭くして問うた。 風が吹いて桜の花びらが散った。 「出雲様はこれまで登城や下城の際には家士を五人ほど供にさ れていたと存じます。しかし、危、ついと思えば供揃えを十人ほ 江戸に向かった与市からは、その後、何の便りもなく過ぎた。 どにはされるのではありますまいかそうなれば、手は出し難 国元に戻ってきたのは六月に入って、夏の暑さが増すころだっ くなりましよう。もし、狙うとすれば出雲様のお屋敷に討ち込 まねばなりませんが、そこまでなれば、もはや合戦の気構えが 源太郎の屋敷で開かれた旧大甘派の会合で与市は、無念そう いるのではありますまいか」 新六が珍しく言葉数を多くして話すと、与市が大きくうなず 「殿は伊藤殿に拝謁をお許しになられなかった。それゆえ、わ たしも殿に諫言いたすおりがなかった」 と話した。源太郎は首をひねって言った。 「いかにもさようだ。迂闊なことをしては、しくじりのもとに なる。せつかく国元のご家老方を味方にした苦労が水の泡にな 「お目通りも許されぬとはいかなることでございましようか」 、 ) 0 葉室麟 258
「印南様は夢想願流という剣術の達人だと父上からうかがいま をどうすると決めておくより、流れに添って身を処されるがよ した」 すなわち、水は方円に従、つでござる 真剣な目を新六に向けながら千代太は言った。 与市は黙って聞き終えて丁重に頭を下げた。 「さて、達人などではありませんがいささか修行いたしまし 「お教え、かたじけなく存じます。なるほど、それがしは融通 を欠くところがござる。流れる水の如くを心がけるといたしま 「わたくしに教えていただけませんでしようか」 しよ、つ」 一座の緊張が与市のひと言でほぐれると、新六は会釈して障「千代太殿に ? 」 「よい、 わたくしは強くなりたいのですー 子を開け、縁側へ出た。庭を眺めてひと息入れたかった。 千代太は無邪気に目を輝かせた。どうしたものか、と新六は 縁側を進むと奥庭に面したあたりへ出た。 奥庭には桜が植えられていた。庭へ目を遣ると桜の下で源太迷った。二刀流剣術で名高い剣豪宮本武蔵の養子であった伊織 が小笠原家に仕えたことから小倉藩では武蔵を流祖とする二天 郎の嫡男千代太が木刀を手に素振りをしていた。 風に散る桜の花びらを木刀で打とうとしているようだ。千代流が盛んだった。 源太郎も二天流を千代太に手ほどきしているはずだ。他家の 太はすでに九歳になる。吉乃に似て色白で利発そうな目をして 子弟に別な流派の剣術を教えるのは憚らねばならない。 残念だが、と新六が言おうとしたとき、庭に吉乃が出てきた。 小柄な体にはやや大振りな木刀で、懸命に素振りをする姿は 吉乃は新六に頭を下げ、千代太にやさしい顔を向けて、 健気だった。源太郎が力を込めて振るほど桜の花びらは風にのつ 「まだ、素読を終えていないのではありませんか。剣術の稽古 て舞い、木刀に当たらない。 はそれからでもできるはずですー 新六は縁側から声をかけた。 と言った。千代太は不満げに口をとがらせた。 「千代太殿、稽古にお励みで結構なことでござる 「ただいま、印南様に夢想願流の稽古をつけてくださるようお 千代太は驚いて振り向くと新六をまじまじと見つめた。赤子 のころからよく屋敷を訪ねてきて、遊んでくれた新六に千代太願いしていたのです」 「まあ、さような無理を申してはなりませんよ。新六殿が困っ はなついていた。 ておられるではありませんか」 「印南様ー」 たしなめるように言、つ吉乃を見ていた新六はあわてて言った。 千代太はロにすべきかどうか迷っているようだった。新六は 「いや、迷惑などではござらん。稽古をつけるということでは 微笑んでうながした。 なく、それがしの技を見ていただくだけなれば造作もないこと 「何でござろうか」 はばか 葉室麟 256
馬場に駆け入ろうとした新六の足がびたりと止まった。 雲につながる渋田見主膳を斬ったところで不思議はござるまい」 月が出ている 新六は平然と言った。 馬場に松の黒い影が伸びていたが、その影に隠れるようにし 「七月に出雲を斬ろうとしたおりには、巧みに逃げた印南殿が てひとが立っていた。ゆらりと人影が動いて月明かりの下に出なせ考えを改められたのでござろうか。さように申しながら、 てきた。 実は主膳を助けようという魂胆かもしれぬな」 頭巾をかぶっているが、腰の構えと体つきで、直方円斎だと 方円斎はなおも構えを解かず、うかがうように新六を見据え 新六にはわかった。方円斎もまた新六だと見破っていた。 「印南殿、いずこへ行かれる」 「いや、さようなことではありませぬ。ただ、それがしにはお 方円斎は落ち着いた声をかけた。 守りせねばならぬひとがおります。そのひとの願いによってか 「直殿がここにおられるからには、渋田見様を襲うのは、やは くは参った」 り馬場ということですな」 新六が言い終わるや、 新六が確かめるように言うと、方円斎は、くつくっと含み笑 ー笑止 いした。 一声かけて、方円斎は踏み込んで間合いを詰め、居合を放っ 「そうだとしたら、どうされるつもりだ」 た。きらつ、きらっと白刃が月光に輝いた。 「刺客の中に菅殿がおられよう」 新六は後ろに跳び退って、刃を避けながら、片手を突きだし 「言えぬな」 て制した。 方円斎は素っ気なく答えた。 「待たれよ。それがしはまことのことを申しておるだけでござ 「その返事だけで十分でござる。それがしが参ったのは菅殿を る。偽りは申さぬ。それよりも早水殿と菅殿だけではしくじる 連れ戻すためにございますゆえ」 やも知れませんぞ。それがしが参れば万に一つも主膳を逃しは 「ほう、われらの企てを邪魔されるつもりか」 いたさぬ。そのこと、直殿ならおわかりのはず」 方円斎はわずかに腰を落として身構えた。新六は頭を横に振っ 新六が懸命に言うと方円斎は刀を鞘に納めた。 「よかろう。ならば、行くがよい。菅殿らは馬場の北の端にて 「さにあらず、菅殿は刺客にふさわしくないゆえ、お戻りいた主膳を待ち伏せいたしておるー だき、それがしが代わって主膳を斬り申すー 方円斎にうながされて、新六は、ならば参る、と答えて走り 「なんと 出した。方円斎の傍を駆け抜けようとしたとき、方円斎が一瞬、 「それがしも旧大甘派に身を置いているのであれば、小笠原出腰を沈めた。 しさ 葉室麟 272
が続くようでは、ご老中方がいかに思われるかと案じられます念のほどをうかかいたいー 与市に突如、名指しされて新六は戸惑った。 る」 「いや、それがしには、何ほどの考えもござらん 出雲はきつばりと言い切った。しばらく考えていた忠固は深 くうなずいた。 「さようとは思えませんぞ。霧ヶ岳で偽りの烽火を上げた義士 「よかろう。渋田見を家老といたすことを国元へさように申しである印南殿なれば、さぞや卓見がござろう。うかかいたいー 与市はわざとのように霧ヶ岳の一件を持ち出した。 , 源太郎は 伝えよ」 眉をひそめて、与市から顔をそむけた。 かしこまりました、と出雲は頭を下げた。 集まっている者たちは霧ヶ岳で烽火をあげたのが新六の仕業 渋田見主膳が家老となると伝われば、国元が騒然となること とカ は出雲にはよくわかっていた。 であることは知っている。しかし、あえて口にせず、新六が咎 おもんばか だが、それでも荒療治を行わねばならない。そのことを伊勢めを受けることのないよう慮っているのだ。 かんじゅ、つろう 与市は烽火を上げたのは新六だと言うことで、いまさら寝返 勘十郎に伝えておこう、と胸のうちで考えていた。 りができないように追い詰めるつもりなのだろう。 新六はため息をついてからロを開いた。 二月になって老職の小笠原蔵人が家老に昇格した。 「それがしは、ただ、何事もいま少し穏やかに進まぬものかと すでに渋田見主膳を家老にする忠固の意向は国元へ伝えられ ており、言うなればこれに異を唱えようとする老職への懐柔策思っておりますー であることは明らかだった。 「穏やかにですと ? 」 与市はひややかに問い返した。 上原与市始め旧大甘派の主だった面々は、たびたび源太郎の 屋敷に集まっていかにすべきかを話し合った。与市が頬を紅潮「同じ家中で相争っても、いたしかたございますまい。要は殿 に考えをあらためていただきたいだけでございますから、ー させて、 じか 「そのためにこそ動こうとしておるのだ。他に方法があるのな 「これは、もはや殿に直に申し上げるしかない。溜間詰に入ら うけたまわ らば承ろ、つか」 れることを諦められ、君側の奸である小笠原出雲を退けていた さて、それがしなどには、と新六はロを濁したが、 だくのだ」 つかまっ 「諫死を仕ればいかがでございましようか」 と述べると源太郎始め、集まった男たちは深くうなずいた とさりげなく言った。 その中で新六だけが畳に目を落としたまま、与市の話を聞い ー諫死 ても無表情だった。与市は目敏く、新六の様子に気づいた。 という言葉が一座の者たちを緊張させた。早水順太が眉をひ 「はて、印南殿はそれがしとは考えが違うようでござるな。存 はやみじゅんた 葉室麟 254
吉乃はほっとして胸が熱くなるのを感じた。その思いは源太 笠で顔を隠して屋敷に入った出雲は夜になって勘十郎を呼び 郎への気持ちとは別なものだ、と感じた。 寄せた。奥座敷で勘十郎に会った出雲は開口一番に、 娘のころから、いまにいたり、さらにずっと将来まで続く気「どうだ、わかったか 持ちだと思えた。それほどの思いをなせ新六に抱くのだろう。 と訊いた。 吉乃にはよくわからなかった。ただ、わからないまま、この 勘十郎は、わかりましてございます、と言って懐から書付を ように向かい合っているのが理不尽なことのような気がする。 取り出した。出雲が受け取って、蝋燭の明かりで見ると書付に 不意に婚礼の夜、源太郎に抱かれながら、新六の面影が脳裏は旧大甘派や小笠原蔵人ら国元の四人の重臣に連なる十数人の よぎ を過ったことを思い出した。あのとき、新六は毎年、屋敷の軒藩士の名が記されていた。その中でも、 先にきて巣をかける燕に似ていると吉乃は思った。 菅源太郎 その燕が三年ほど姿を見せず、ようやく戻ったときには屋敷 直方円斎 の主人は変わっており、軒先に巣をかけることは許されなかっ 早水順太 たのだ。 印南新六 新六は戻るのが、遅すぎたのだ、と吉乃はあらためて思った。 という四人の名前に印がつけられている。源太郎につけられ もし、そうでなければ、ふたりには違う在り様があったのかも た印だけが三角で他の三人は丸の印だった。 しれない。 「調べましたところ、渋田見様が殺された夜、外出いたしておっ 新六はまた庭に目を転じた。 たのは印をつけました四人でございますー 吉乃は頭を下げて、きようはこれにて帰ります、と告げた。 勘十郎は冷徹な顔つきで言った。出雲はあらためて書付を眺 めた。 新六はうなずいたが振り向こうとはしなかった。 吉乃は座敷を出て玄関まで来たとき、新六が振り向かなかっ 「なるほど、刺客に選ばれるとすれば、まずはここらあたりで たのは目に涙をためていたからではなかったか、と思った。 あろうか」 玄関を出て門をくぐった吉乃は、あたりの風景が滲んで見え 勘十郎はひそかに目付を使って怪しい者の動向を調べていた るのに気づいた。 のだ。その中に新六の名が入っていると知って舌打ちする思い だった。 自分も泣いているのだと知って、なぜだろう、なせだろうと 胸奥深くでつぶやきながら帰路をたどった。 「印南め裏切りおったか。しかし、菅の印だけが違うのはどう い、つことだ」 出雲は十一月になってひそかに帰国した。 出雲は名前をあらためて見つめながら言った。 葉室麟 276
新六は静かに口を開いた。 「ほう、もう、わしの間者だと見破られたのか」 「護衛のお役目はそれがし、お引き受けいたしかねまする」 「さようではございませんが、それがしはひとに疎んじられる ところがございますようで、要は嫌われたのであろうと思って 「なんだとー 勘十郎は険しい顔になって自ら酒を注いだ杯を口に運んだ。 おりますー さげす 「旧大甘派の会合に出続けておれば、刺客にならざるを得なかっ 新六が平然と言ってのけると、出雲は蔑んだ表情になって、 たと存じます。それを逃れたからには、旧大甘派はそれがしへ 「つまり、役には立たなかったというわけか」 の監視の目を強めましよう。護衛の役につけば小笠原様がどこ とつぶやいた。出雲が酒を飲み干すと、勘十郎はにじり寄っ におられるか、どの道筋を通られるかを報せるのも同然でござ て酌をした。そして新六を振り向き、 いますー 「しかし、印南を遠ざけたということは、まさに何事かを彼奴 らが企んでおる証でございましよう」 淡々と新六が話すと、勘十郎は顔をしかめた。 「刺客にはならぬが、護衛もできぬと申すか。まさに鳥でもな 「では、やはり、わしを狙うのか」 ければ獣でもない蝙蝠のごとき者だな」 出雲はつまらなそうに言った。 ひややかな言葉に新六は目を伏せ、唇を一文字に引き結んだ。 「おそらく、さようかと思います。それだけにこちらは面白い 手が打てますぞ」 翌日 、源太郎の屋敷を渋田見主膳が訪れた。 「どうするというのだ」 朝から蒸し暑く、汗ばむ日だった。 「上原与市には、ご家老の命を狙うほどの胆力はございません。 主膳は五十過ぎで肩幅が広く、肉付きのいい体格だった。眉 もし刺客になる者があるとすれば、剣客の直方円斎であろうか が太く鷲鼻であごがはった顔である。陽射しの中を歩いてきた と存じます。わが藩におきまして、方円斎と戦えるほどの腕を ため、額に汗を浮かべていた。非番だった源太郎が客間で会う 持つ者は印南だけでございます」 と、主膳は時候の挨拶の後、いきなり、 勘十郎はしたり顔で言った。せつかく、旧大甘派の刺客とな ることから逃れたと思ったのに、勘十郎は出雲の護衛をさせよ 「菅殿は忠義の臣でござるか。それとも不忠の臣ですかな」 と唐突に訊いた。源太郎は不愉快に思いながら答えた。 うというのだ、と察して新六は眉をひそめた。 「自らを不忠の臣だと言う武家はおりますまい , 出雲は鋭い目を新六に向けた。 「大甘兵庫はそなたを、いざという時、わしへの刺客といたす「さて、それはわからないことだ」 主膳はにやりと笑った。 つもりだったのであろう。ところが、そなたがわしを守ること になるとは、とんだ皮肉だな」 「いや、さようなことはない。近頃は殿の命に逆らうことを何 あかし きやっ 261 風花帖