吉乃 - みる会図書館


検索対象: 小説トリッパー 2013年秋季号
34件見つかりました。

1. 小説トリッパー 2013年秋季号

新六は感銘を受けたように何度もうなずいて吉乃の話を聞い はないか、と案じていたが、やはりこういうことになっていた た。そして膝をびしやりと手で叩くと、 のかと思った。新六は吉乃を見つめた。 「わかり申した。それがしが何としても、菅殿が生きて吉乃様 「菅殿は誰を狙うかをお話しになりましたか」 のもとに戻れるようにいたしますぞ」 「いえ、聞いておりませぬ」 吉乃の顔がばっと明るくなった。 吉乃は頭を振って答えた。 「まことでございますか。夫には止められておりましたが、や 「さようでございましような」 応じながらも、新六はおそらく狙われているのは、渋田見主はり新六殿をお頼みいたしてようございました」 源太郎には止められていた、と吉乃が言うのを聞いて新六は 膳だ、と見当をつけた。いま、旧大甘派が国元で暗殺を企てる せいれいかっきん 相手としては主膳ぐらいしかいない。職務に精励恪勤する主膳悲しげな顔になった。 の下城はいつも深夜になる。 「吉乃様、それがしが昔、生涯かけて吉乃様をお守りいたすと 申したのを覚えておられますかー 源太郎たちはどこかにひそんで主膳を待ち受けるつもりだろ 突然、言われて吉乃は戸惑いつつもうなずいた。まだ娘のこ う。まだ主膳が襲われる刻限には間があるはすだ、と考えた新 六は落ち着いて吉乃に訊ねた。 ろ素戔鳴神社の杉木立で伊勢勘十郎に乱暴されそうになったと 「それで、吉乃様はそれがしに何をして欲しいと思われるのでき、助けてくれた新六は、 ござるか 「ご安心ください。わたしが吉乃様をお守りいたしますから」 問われた吉乃は戸惑いながらも懸命に答えた。 と言った後、声を低めて、 「このことは生涯かけて変わりませんぞー 「夫に刺客などして欲しくありませぬ。生きて戻ってきてもら いたいと思います と付け加えたのだ。後になって、このころ親戚の間で自分を 「菅殿を無理に連れ戻すことはあるいはできるやもしれません。新六に嫁がせようという話が進んでいたと知った。 しかしそれでは菅殿は面目を失い、卑怯者の汚名を被ることに 新六が勘十郎の手から吉乃を助けたおりにロにした言葉はや がて妻となる女人に向けたものだったのだ。 なりますぞ」 新六の言葉に吉乃はぞっとしたかのように、頭を激しく振っ しかし、新六は吉乃が恐れを抱き続けることがないように、 御前試合で勘十郎を叩き伏せ、怪我を負わせたことで江戸に追 いやられた。 「さようなことになれば、夫は生きておらぬと存じます。武家 その間に吉乃は源太郎に嫁して、ふたりの歩む道が重なり合 の妻として覚悟ができておらぬと蔑まれるかとは思いますが、 うことはなかった。それでもなお、新六は吉乃への想いを失わ わたくしは夫に生きて欲しいのでございます」 すさのお 269 風花帖

2. 小説トリッパー 2013年秋季号

ずにいるようだ。 その声を聞いて、吉乃は新六から助けられてからのことをま そのことに気づいたとき、源太郎を助けるよう新六に頼んだざまざと思い出した。あのおり、自分がおびえなければ、新六 は御前試合で勘十郎に怪我を負わせることはなかっただろう。 のは酷いことなのかもしれない、と吉乃は思った。 新六の人生を曲げてしまったのは自分なのかもしれない。し だが、今夜、源太郎を救えるのは、新六しかいないのだ。 「新六殿、わたくしは申し訳なきことをお頼みいたしているのかも、いままた、源太郎を助けてくれ、と新六に無理な頼みを している。そのことがまた新六の運命を大きく変えてしまうか かもしれません」 もしれないのだ。 吉乃がうなだれると、新六はあわてて言葉を継いだ 「新六殿、わたくしは何ということをしてしまったのでしよう」 「何を言われまするか。それがしは吉乃殿のお役に立てるのが 嬉しいのでござる。よくぞ、それがしを頼ってくださいました」 後悔の念が吉乃の胸にあふれた。だが、新六は笑顔で答えた。 「何を言われますか。それがしが引き受けたからにはご安心な 「なれど、新六殿にご迷惑をおかけいたしては申し訳ありませ ん。夫が無事、戻りましたなら、わたくしにできますことなら、 さって屋敷で菅殿のお帰りをお待ちくださいー 新六にうながされて、吉乃は後ろ髪を引かれる思いながらも どのようなことにてもさせていただく覚悟でございます」 吉乃が思いつめた表情で言うのを、新六は悲しげな目で見つ屋敷へと戻っていった。門前で吉乃を見送った新六は部屋に戻 めて、 ると身支度をした。 たすき 袴の股立ちを取り、刀の下げ緒で襷をかけると、頭巾をかぶつ 「何を言われることやら、吉乃様からはすでに十分なることを て顔を隠し、草鞋を履いて足ごしらえをした。家僕には、今夜、 していただいております」 外出したことをひとに漏らすなと言い含めてから裏口を出ると、 と言った。吉乃は驚いて問い返した。 日が落ちて薄闇となっていた。 「わたくしが新六殿のために何かして差し上げたことがござい 主膳は下城するおり、大手門近くの松並木で囲まれた馬場を ましたかー 「はい、今年の春にお屋敷で、吉乃様が見守る中、桜の花びら横切る。主膳が襲われるとしたら馬場だろう、と新六は見当を つけていた。 が舞う庭にて千代太殿と剣術の稽古をいたしました」 薄闇の中を新六は黒い影となって走り出した。 「あのことが 「さようです。申し訳なきことながら、あのおり、吉乃様を妻 そのころ、馬場では頭巾をかぶった源太郎と順太がそれぞれ に迎えて生した男子に剣を教えているような心持ちがいたし、 松の幹に隠れるようにして身をひそめていた。順太は手槍を携 まことに温かく満ち足りた思いがいたしたのでございますー えていた。方円斎は源太郎と順太が襲撃するのに邪魔が入らぬ 新六はしみじみと言った。 葉室麟 270

3. 小説トリッパー 2013年秋季号

吉乃に重ねて訊かれて新六は思いがけない真面目な表情になっ 微笑んで訊いた。考えてみれば、こんな風に新六と語ること などいままでになかったことだ、と吉乃は思った。 「上原殿たちは、殿が怒りをお見せになられぬゆえ、諫言を受 「面白うはございませんが。やはり、四季おりおりで変わりま け入れられたと思われているようですが、さようなことはあり すからー ます・まい 「それを眺めて楽しまれるのでございますね」 「では、なにゆえ、殿様は何もなされぬのでございましようか」 吉乃に言われて新六は照れ臭そうに答えた。 吉乃は首をかしげた。確かに忠固が静まり返っているのは不 「はい、 四季があるということは、時が流れているということ 気味だった。 でございますから、何とのう命というものを感じるのです」 「おそらく、出雲様のご帰国を待たれているのでしよう。出雲 「命を感じられるのですか」 吉乃は眉をひそめた。やはり新六は源太郎を助けるために刺様が戻られたなら、嵐が吹き荒れることになるのではあります まいか。そう思うと、庭の木々も何とのういとおしく思えて眺 客となったことを悔いているのではあるまいか、と思った。 めておりました」 また、何気なく庭に目を遣った新六に吉乃は声をかけた。 吉乃ははっとした。新六は、出雲が帰国したら死ぬことにな 「やはり、わたくしは申し訳のないことをしてしまったようで ると覚悟しているのではないだろうか 吉乃は新六ににじり寄った。何かを新六に言わねばならない 新六は怪訝な顔をして振り向いた。 と思った。 「何のことでございますか」 「新六殿、死んではなりませぬ」 「わたくしがお頼みしたため、新六殿は心に添わぬことをなさ 真情の籠った声で言われて、新六は戸惑った顔になった。 れたのだと思います。きようはお詫びに参ったのです。お許し たやす 「さて、困りました。死ぬ覚悟をするのは、容易いことでござ ノ、ださい るが、生きる覚悟は難しいものです . 吉乃が頭を下げると、新六は手を振った。 「ですが、わたくしは新六殿に生きていただきたいと思ってお 「何を言われますか。武士であれば、常に生死の覚悟はいたし ります」 ております。渋田見様もそれは同様だったと存じます。武士た これほどの思いを新六に抱いていたのか、と吉乃は自分でも る者はいっ何時、首を失うことになろうとも悔いる心は持って 驚きながら言い募った。新六はしばらく考えた後で、 おらぬものです」 「されど、新六殿は浮かぬ顔をされておられました。生死の覚「ならば、生きましよう」 と口にした。 悟を定められておられるはずなのに、なせでございましようか」 275 風花帖

4. 小説トリッパー 2013年秋季号

吉乃が新六の屋敷を訪ねたのは、十日後の夕刻になってのこ とだった。 源太郎のもとへは、その後も方円斎や順太が訪れて、何事か 打ち合わせている気配があった。 日がたつにつれ、源太郎は緊張した様子で夜中に起きだして は、庭で真剣を振るうなどしていた。ロ数も少なくなり、吉乃 が問うても、何も訊くな、と一喝するだけで、もはや打ち解け た話などしなくなっていた。 そしてこの日、いつもより早く下城した源太郎は迎えに来た 順太とともに、 「今宵は遅くなるぞ」 と言い置いて出ていったのだ。 今夜、何事かが起きるのだ、と吉乃にもはっきりとわかった。 このままにしていれば、取り返しのつかないことになるので はないか、と思った吉乃はたまりかねて新六の屋敷を訪れたの 吉乃は顔を伏せて口籠ったが、恐る恐る、 「新六殿はおやさしい方だと存じます」 と口にした。 源太郎は目を閉じて考えをめぐらした後、あきらめたように つぶやいた。 「やはり、印南殿を頼るわけにはいかぬ」 吉乃はうつむいて何も言えなかった。 夜がしだいに更けてゆき、庭から虫の声が聞こえてくる。 十二 すでに日が傾き、新六の屋敷の門はタ焼けに赤く染まってい 吉乃が訪いを告げると、年寄の家僕が出てきた。家僕は玄関 先に吉乃が立っているのを見て、目を丸くすると奥にいた新六 にあわてて告げにいった。 玄関に出てきた新六は驚きの表情を浮かべた。 「吉乃様、いかがされましたか」 「お願いの儀があって参りました。夫を助けていただきたいの でございます」 切羽詰まった表情で言う吉乃を新六は中庭に面した座敷に上 げた。いまも妻をめとらずにいる新六の屋敷は質素でどこか寂 しげだった。 座敷の障子を開け放ち、夕暮の赤い陽射しを奥まで届かせな から、新六は話すように吉乃をうながした。吉野はうなずいて 口を開いた。 「夫は今宵、どなたかを殺めに参ったのではないかと思いますー 「それは上原殿らが関わりのある話でござろうかー 事態が急だと察した新六は短兵急に訊いた。 「さようでございます。夫は渋田見主膳様とお近づきになった ため、上原様たちから、あらぬ疑いをかけられたようでござい ます」 「なるほど、おおよその察しはっきます。菅殿はそれで刺客に なることを求められたのでしよう」 新六は眉をひそめた。源太郎が主膳の屋敷へ何度も行ってい るという噂は新六も聞いていた。与市たちが黙っていないので 」 0 葉室麟 268

5. 小説トリッパー 2013年秋季号

心配だった。 「新六殿に難儀がかかるのではありますまいか . 十三 吉乃が案じて言うと、源太郎は頭を振った。 渋田見主膳が暗殺されると、忠固はすぐには怒りを露わには 「いや、印南殿があの場にいたことを知る者はわたしと早水殿、 しなかった。 直殿だけだ。誰もあの一件を口にする恐れはない。それに印南 却って出雲派とされていた重職たちを遠ざけ、小笠原蔵人や殿は刀で斬らす、手槍を使われた。斬り口から印南殿だとわか 伊藤六郎兵衛、小宮四郎右衛門、二木勘右衛門を重く用いる姿ることもあるまい」 勢を見せた。 源太郎は確信ありげだったが、仮にも人ひとりの命を奪って、 与市たちは、忠固が考えを改めたものと見て、 そのままですむとは吉乃には思えなかった。しかも、新六か刺 「これで藩政改革は成ったぞ」 客となったのは、自分の頼みを引き受けたからだ、と思えば申 と喜んだ。だが、主膳が殺された日以来、源太郎は病と称し し訳なさが募った。 て出仕せすに屋敷にいた。 ( わたくしは新六殿に甘えすぎている ) 大甘派との接触も断って、何事か考えているようだったが、 吉乃は何としても新六に詫びなければと思った。 ある日、吉乃に話して聞かせた。 「わたしは印南殿に助けられて、渋田見様への刺客となること 十月に入って、吉乃は新六の非番の日を確かめたうえで屋敷 を免れた。これは僥倖であったと言っていい 。上原殿のやり方を訪ねた。相変わらず新六の屋敷には年寄りの家僕がいるだけ だった。 は過激に過ぎる。わたしは旧大甘派から身を引こうと思う」 憑き物が落ちたような源太郎の言葉を吉乃は嬉しく聞いた。 家僕に案内された吉乃が座敷に上がると、新六は縁側でばん これ以上、源太郎に藩内の争いの中にいて欲しくなかった。 やりと庭を眺めていた。わずかな庭木があるだけの、何の変哲 「差し出がましゅ、つはございますが、わたくしもそれがよろし もない庭だった。 いかと存じます」 座敷に座って吉乃が挨拶すると、新六は縁側であわてて膝を 「これもそなたが印南殿を頼んでくれたおかげだ。ありがたく正した。吉乃は思わず、 思っているぞー 「新六殿、何をされておられました」 源太郎は先日までとは打って変わった様子で言った。 と訊いた。新六は頭に手をやって苦笑した。 吉乃は喜んだが、気になるのは新六のことだった。源太郎に 「いや、庭を眺めておっただけのことです」 「庭は面白うございますかー 代わって主膳を仕留めた新六が罪に問われるのではないか、と 葉室麟 274

6. 小説トリッパー 2013年秋季号

「印南殿かーー」 吉乃は源太郎に真摯な眼差しを向けた。源太郎は唇を噛んで 源太郎は意外な名を聞いたという顔をした。しかし吉乃から 考えてから顔を引き締めて話し始めた。 「わたしはいま大甘派の同志の方々の疑いを受けておる。渋田新六の名を出されて、七月に出雲が帰国したおり、暗殺の企て 見主膳様の屋敷に何度か伺い、藩政についての話をいたしたゆがあったことを思い出した。 あのおり、方円斎は新六を刺客とするつもりだったようだ。 えだ。無論、やましいところはないつもりだ。しかし上原殿た しかし、新六は機先を制して辞去し、刺客にならすにすんだ。 ちはわたしを信じられぬ様子で証を立てるよう迫られた」 「刺客のことを言いだされる前に印南殿は身をかわされた。思 源太郎の顔に翳りが浮かんでいた。吉乃は痛ましいものを感 えば、あれもまた剣の奥義なのかもしれぬな」 じつつ、 「では、新六殿なればかようなおり、どのように切り抜けたら 「されど、日一那様は決して私利私欲で動かれる方でないことは よいか、おわかりなのではありますまいか」 皆様もよくご存じのはずと思いますが」 吉乃は勢い込んで言った。源太郎はじっと吉乃の顔を見つめ と言った。源太郎は二度、深くうなずいた たが、しばらくして頭を横に振った。 「そうなのだ。わたしも信じていただけると思っていたが、ど 「印南殿を頼ろうというのか。それはできぬ。印南殿はすでに うやらそうではないようだ。言わば不徳のいたすところかもし れぬが、上原殿たちは、証を立てるため、さる方を斬れと言わ身をかわされたのだ。それなのにわたしのことに関わっては身 のためにならん」 れるのだ」 「ですが、新六殿は必ず、カになってくださると存じます」 苦しげな源太郎の言葉に吉乃は目を瞠った。 吉乃は力を込めて言った。源太郎は訝しげな表情になった。 「どなたをでございますか」 ゆかり 「印南殿はそなたの親戚ではあるが、わたしとは何の縁もない 「それは言えぬ。言えば同志の方々を裏切ることになろう」 「されど、仮にも同じ家中の方を殺めるなどあってよいこととそれなのに、迷惑はかけられぬ」 「新六殿は迷惑とは思われぬと存じます」 は思えませぬ」 吉乃がはっきりした口調で言うと源太郎は首をかしげた。 吉乃は案じるあまり、出過ぎたことかと思いながら言った。 「なぜ、そのように思うのだ。印南殿は霧ヶ岳で烽火を上げる 「わたしもさようには思うのだが、いつの間にか、どうにも抜 際もひそかにわたしをかばってくれたような気がしている。あ けられぬ罠に落ちたような気がしている」 のおりから何故であろうと思っていた。印南殿には何かわたし 源太郎は腕を組んでほっりほっりと話した。吉乃は目を伏せ 、、、をかばわねばならぬわけでもあるのだろうか」 て思いをめぐらせていたが、ふと、ロを開いた。 「さようなことはないと存じますがー」 「かようなとき、新六殿ならばいかがされましようか」 しんし あや 267 風花帖

7. 小説トリッパー 2013年秋季号

きてくれ、と吉乃に言った。怪訝な顔をした吉乃が茶を煎れて 書斎へ持っていくと、着流し姿の源太郎は腕を組んで考え事を していた。茶を置いた吉乃に座るように言った。 小倉藩の大庄屋である中村平左衛門の日記には、 「これはひとに知られては大変なことになるゆえ、心するよう 正月十四日夜五ッ半時分吉見陣ニ烽火上り、御家中は言 前置きした源太郎は、霧ヶ岳から偽の烽火をあげたのは、新 およばず のこらす に不及当郡中長崎御手当銘々人馬等不残篠崎御屋敷馬場へ 六だと打ち明けた。 まかりで ごんごどうだんのそうどう うえはらよいち 罷出る言語道断之騒動いたし候由 「これは上原与市殿が言い出したことだ。城下を混乱させ、重 おがさわらいすも 職方の責めを問い、小笠原出雲様を追い落とそうという策だ」 とある。霧ヶ岳から烽火が上がった際、城下だけでなく郡部 吉乃は眉をひそめた。 でもひとびとが驚き、騒いだのだ。それだけに、烽火が何者か 「さような荒い所業は新六殿に似つかわしくないように思いま の企みによるものだ、とわかると、城下はただならぬ不穏な気するが」 配に包まれた。 「そうだ。わたしも印南殿が自らやると言い出されたので驚い すがげんたろう いぬかい 菅源太郎は翌日から、旧大甘派の会合にしきりに出かけ、夜た。しかし、後で考えてみると 遅く帰ってくることが多くなった。烽火の一件について、源太 源太郎は当惑した様子で言葉を切った。 郎は何も言わなかったが、下城して屋敷に戻り、着替えている 新六は源太郎が烽火を上げると言い出したとき、自ら名乗り きちの おりに、手を添えていた吉乃にため息まじりに、 出た。源太郎に危ない真似をさせないためではなかったか、と いんなみ 「印南殿はまことに見事な方だ」 も思える。もし、そうだとすれば源太郎が吉乃の夫だからだろ ともらした。偽の烽火をあげながら、正体を知られずに闇の しんろく そのことを吉乃に話しておきたかったが、いざ口にしようと 中に姿を消すことができたのは新六に武芸で鍛えた敏捷さがあっ たゆえだろう。日頃、目立たず、・言挙げもしない新六の凄さがするとためらいが生まれた。吉乃との間には嫡男の千代太を生 見えた気がしていた。 しており、夫婦仲は円満だった。 「新六殿がいかがされましたか」 それだけに新六の想いにふれることは心無いことではないか。 吉乃に訊かれて、源太郎ははっとした。 それとともに源太郎は自分の胸のうちにわずかながら新六とい 旧大甘派の策謀について妻にもらすなど、あってはならない う男を軽んじる気持ちがあることを感じていた。 むそうがんりゅう ことだ。しかし、しばらく考えた源太郎は、書斎に茶を持って 新六がかって御前試合で七人抜きをやった夢想願流の遣い手 のろし けげん 251 風花帖

8. 小説トリッパー 2013年秋季号

吉乃はほっとして胸が熱くなるのを感じた。その思いは源太 笠で顔を隠して屋敷に入った出雲は夜になって勘十郎を呼び 郎への気持ちとは別なものだ、と感じた。 寄せた。奥座敷で勘十郎に会った出雲は開口一番に、 娘のころから、いまにいたり、さらにずっと将来まで続く気「どうだ、わかったか 持ちだと思えた。それほどの思いをなせ新六に抱くのだろう。 と訊いた。 吉乃にはよくわからなかった。ただ、わからないまま、この 勘十郎は、わかりましてございます、と言って懐から書付を ように向かい合っているのが理不尽なことのような気がする。 取り出した。出雲が受け取って、蝋燭の明かりで見ると書付に 不意に婚礼の夜、源太郎に抱かれながら、新六の面影が脳裏は旧大甘派や小笠原蔵人ら国元の四人の重臣に連なる十数人の よぎ を過ったことを思い出した。あのとき、新六は毎年、屋敷の軒藩士の名が記されていた。その中でも、 先にきて巣をかける燕に似ていると吉乃は思った。 菅源太郎 その燕が三年ほど姿を見せず、ようやく戻ったときには屋敷 直方円斎 の主人は変わっており、軒先に巣をかけることは許されなかっ 早水順太 たのだ。 印南新六 新六は戻るのが、遅すぎたのだ、と吉乃はあらためて思った。 という四人の名前に印がつけられている。源太郎につけられ もし、そうでなければ、ふたりには違う在り様があったのかも た印だけが三角で他の三人は丸の印だった。 しれない。 「調べましたところ、渋田見様が殺された夜、外出いたしておっ 新六はまた庭に目を転じた。 たのは印をつけました四人でございますー 吉乃は頭を下げて、きようはこれにて帰ります、と告げた。 勘十郎は冷徹な顔つきで言った。出雲はあらためて書付を眺 めた。 新六はうなずいたが振り向こうとはしなかった。 吉乃は座敷を出て玄関まで来たとき、新六が振り向かなかっ 「なるほど、刺客に選ばれるとすれば、まずはここらあたりで たのは目に涙をためていたからではなかったか、と思った。 あろうか」 玄関を出て門をくぐった吉乃は、あたりの風景が滲んで見え 勘十郎はひそかに目付を使って怪しい者の動向を調べていた るのに気づいた。 のだ。その中に新六の名が入っていると知って舌打ちする思い だった。 自分も泣いているのだと知って、なぜだろう、なせだろうと 胸奥深くでつぶやきながら帰路をたどった。 「印南め裏切りおったか。しかし、菅の印だけが違うのはどう い、つことだ」 出雲は十一月になってひそかに帰国した。 出雲は名前をあらためて見つめながら言った。 葉室麟 276

9. 小説トリッパー 2013年秋季号

でござる」 打ち据えようとした。しかし、新六が後ろに退くと空しく地面 たびはだし 言うなり、新六は足袋跣のまま庭に降りた。吉乃があわてて、 を叩いた。そのとき、新六がふわりと木刀の上に両足で乗った。 千代太はびつくりして木刀を撥ね上げた。 「新六殿、お履物を持ってまいります」 その動きに逆らわず、新六は宙に飛び上がる。さらに空中で と言うと新六は頭を横に振った。 一回転して千代太を跳び越えた。 「いや、この方がよいのです . 地面に降り立っ直前、新六は足で千代太の背中を軽く押した。 ためらう様子もなく千代太に近づいた新六は、傍の桜を見上 前のめりになった千代太は地面にうつ伏せに倒れた。 げると脇差の柄に手をかけた。風が吹く。桜の花びらが散った。 飛び降りた新六はゆっくりと振り向いた。泥を顔につけなが その瞬間、新六は脇差を抜いて振った。きら、きらと白刃が ら起き上がった千代太は顔を輝かせた。 光った。 花びらが数枚、すっと脇差で切られた。花びらはそれぞれ一一 「印南様、すごいです。ただいまのは何という技なのですか」 そくたん へんやさい 「夢想願流の開祖松林蝙也斎様が工夫された〈足鐔〉という技 枚に斬られて地面に落ちていく。 です。いささか外連のようではありますが、相手の意表を衝く 千代太が目を丸くして地面の花びらを数えた。 だけに立ち合いで勝ちを制することができるとされています」 「すごい。四枚の花びらがみんなふたつになっている」 「印南様が宙に飛ばれたときは、まるで蝙蝠のように見えまし 吉乃が近づいて千代太の肩にのった花びらをつまんだ。 「いいえ、五枚ですよ」 無邪気な顔で千代太が言うと、蝙蝠という言葉が胸に響いた 吉乃がロにすると同時につまんでいた花びらがふたつに割れ た。新六はなんでもないことのように脇差を鞘に納めた。そし のか新六の表情にかすかに翳りが浮かんだ。 吉乃はそれを察して、さりげなく、 て、千代太の前に立って告げた。 「せつかく、稽古をつけてくださった新六殿を蝙蝠のようだな 「さあ、木刀でそれがしに打ちかかってごらんなさい」 千代太は木刀を手にちらりと吉乃の顔を見た。吉乃がうなずどと申してはなりません」 くと、千代太は木刀を握りなおした。ゃあっ、と甲高い気合い と千代太をたしなめた。新六は苦笑した。 を発して木刀を振り上げ、新六に打ちかかった。新六はわずか 「いや、松林蝙也斎様は、まさに跳ぶ姿が蝙蝠のようであった とされたことから、蝙也斎と号されたのでございます。されば に退いて木刀をかわした。 千代太がなおも打ちかかるのを、新六は右や左にゆらゆらとそれがしが蝙蝠に見えたのは流儀をよく伝えているということ かもしれません」 陽炎のように揺れながら避けていった。 「さようでございますか」 千代太は汗だくになりながらも、力を振り絞って真っ向から かげろ、つ けれん 、」、つーもり・ 257 風花帖

10. 小説トリッパー 2013年秋季号

「印南様は夢想願流という剣術の達人だと父上からうかがいま をどうすると決めておくより、流れに添って身を処されるがよ した」 すなわち、水は方円に従、つでござる 真剣な目を新六に向けながら千代太は言った。 与市は黙って聞き終えて丁重に頭を下げた。 「さて、達人などではありませんがいささか修行いたしまし 「お教え、かたじけなく存じます。なるほど、それがしは融通 を欠くところがござる。流れる水の如くを心がけるといたしま 「わたくしに教えていただけませんでしようか」 しよ、つ」 一座の緊張が与市のひと言でほぐれると、新六は会釈して障「千代太殿に ? 」 「よい、 わたくしは強くなりたいのですー 子を開け、縁側へ出た。庭を眺めてひと息入れたかった。 千代太は無邪気に目を輝かせた。どうしたものか、と新六は 縁側を進むと奥庭に面したあたりへ出た。 奥庭には桜が植えられていた。庭へ目を遣ると桜の下で源太迷った。二刀流剣術で名高い剣豪宮本武蔵の養子であった伊織 が小笠原家に仕えたことから小倉藩では武蔵を流祖とする二天 郎の嫡男千代太が木刀を手に素振りをしていた。 風に散る桜の花びらを木刀で打とうとしているようだ。千代流が盛んだった。 源太郎も二天流を千代太に手ほどきしているはずだ。他家の 太はすでに九歳になる。吉乃に似て色白で利発そうな目をして 子弟に別な流派の剣術を教えるのは憚らねばならない。 残念だが、と新六が言おうとしたとき、庭に吉乃が出てきた。 小柄な体にはやや大振りな木刀で、懸命に素振りをする姿は 吉乃は新六に頭を下げ、千代太にやさしい顔を向けて、 健気だった。源太郎が力を込めて振るほど桜の花びらは風にのつ 「まだ、素読を終えていないのではありませんか。剣術の稽古 て舞い、木刀に当たらない。 はそれからでもできるはずですー 新六は縁側から声をかけた。 と言った。千代太は不満げに口をとがらせた。 「千代太殿、稽古にお励みで結構なことでござる 「ただいま、印南様に夢想願流の稽古をつけてくださるようお 千代太は驚いて振り向くと新六をまじまじと見つめた。赤子 のころからよく屋敷を訪ねてきて、遊んでくれた新六に千代太願いしていたのです」 「まあ、さような無理を申してはなりませんよ。新六殿が困っ はなついていた。 ておられるではありませんか」 「印南様ー」 たしなめるように言、つ吉乃を見ていた新六はあわてて言った。 千代太はロにすべきかどうか迷っているようだった。新六は 「いや、迷惑などではござらん。稽古をつけるということでは 微笑んでうながした。 なく、それがしの技を見ていただくだけなれば造作もないこと 「何でござろうか」 はばか 葉室麟 256