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検索対象: 小説トリッパー 2013年秋季号
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1. 小説トリッパー 2013年秋季号

吐き捨てるようにいった。 ているってな、鳥籠屋の女房が番屋にすっ飛んで来たんだよ」 「申し訳ございません」 「この子は働き者でね。腕が痛いというからお灸をすえてやっ おけいは永瀬と瞬間、眼を合わせたがすぐにそらし、頭を下ただけだよ」 おけいは背筋が寒くなった。灸なんかじゃない。煙管の火を 「どういういきさつかは知らねえが、人様の頬を張り飛ばすのそのまま押し当てたのだ。 はよくねえよ ふうんと、永瀬は生返事すると、 「そこの女がよけいなことをいったからさ」 「ちょいと番屋で話を聞いてやってもいいぜ。ここのおかみと 母親は腕を組んで、そっほを向いた。 のいざこざも一緒にな」 「おっ母さん」 首を回して、小者へ目配せした。 おいとの声に、母親が振り向き、舌打ちした。 「なんであたしが。この女がいけないんだ」 「おう、ロ笛小町じゃねえか わかったわかった、酔いも醒まそうなと、永瀬は優しくその 永瀬が眼を見開いた。 背を押して、小者に引き渡した。おいとはおけいに頭を下げる 「おめえが、あの娘の母親か。そういやどことなく似てやがる」と、母親の傍にびたりとついて行った。 えっと、母親が顔をしかめた。 永瀬は地面に散らばった銭を拾い上げながらいった。 付け木を入れた箱を首から提げたおいとが走り寄って来る。 「なにがあったか知らねえが、こういうことは他人が口を挟む 地面に散らばった銭を見て、おいとは母親の手を取った。 とやっかいだ。とんだとばっちりを食うことになる」 「どうしたの。おばちゃんの処でなにをしているの」 おけいは俯き、唇を噛み締めた。 「うるさいねえ、おまえには関わりないよ」 「できるものならしてやりてえ。ロ笛小町がいなくなるのは寂 おいとの手を振り払い、背を向けた。 しいからな」 「あたい、大丈夫だよ。ちゃんと奉公に上がるから。心配しな 拾った銭を永瀬が差し出した。 いで」 おけいは自らの鼓動を強く感じつつ、その広い掌にそっと指 おいとは母親の背にすがるようにいった。 を伸ばした。 永瀬が、おいとが隠している右眼をちらと見た。 それとなと、永瀬が横を向き低い声を出した。 「どうした。その眼。おいおい、その左腕はなんだえ」 「ご亭主は生きていたよ。谷に落ちたが木の枝に引っかかりな やけど おやじ つんつるてんの衣から覗いた腕にまだ生々しい火傷の痕が点々 がら落ちたそうだ。炭焼き小屋の親爺に助けられてな、ひどい とあった。永瀬が鋭い眼を向けると、母親は眼を宙に浮かせて、傷を負ったそうだが、命は取りとめた」 きゅ、つ 梶よう子 424

2. 小説トリッパー 2013年秋季号

少し早ロで、一息に言い切ると、菰池くんはあたしと久 樹さんを交互に眺めた。 「 : : : なんか、無理やりこじつけた感がある」 久樹さんがかぶりを振った。 「うん、たとえがイマイチ、適切でないよねー すく あたしは、肩を竦める。 「どうして ? びったりのたとえだろう。久樹さんも相野 さんも、そりゃあいろいろあったかもしれない。だってまあ ・ : 確かに二人とも個性的だからさ。周りとぶつかること、 あると思、つよ。けどな、それをいつまでも引き摺ってちゃ だめだって」 「ちょっと待ってよ あたしは手を振り、菰池くんを止めた。 「何であたしが出てくるの。今は、菰池くんと久樹さんの 話でしよ。あたし、関係ないでしょ 菰池くんが眼を見開き、あたしを凝視する。 「関係、あるよ。相野さんもいっしょにやるだろ」 「やるって : : : 吹奏を ? 「もちろん - 菰池くんは美しい笑みを浮かべる。どんなに美しくても、 見惚れているわけにはい、 「ちょっと待ってよ。どうして、そんな展開になるわけ ? 前にも言ったよね。吹奏なんてやる気、全然、ないんだっ て。ちゃんと言ったよね。あたし、関係ないよ。菰池くん があんまり熱心だから、協力しただけなんだから。あたし まで巻き込まないで」 「え 1 つ、じゃあ、何をやるんだよ [ 「それは : : : まだ決めてない。でも、吹奏じゃないよ」 「けっこう、意地っ張りなんだ」 「ほっといてよ」 「相野さん」 のぞ 久樹さんが、あたしを覗き込んでくる。菰池くんに負け ないほど、形の整った眼だ。睫毛も長い。 「パ 1 ト、なんだったの」 さらりと尋ねられた。それまで、さんざん問いかけてき 。。 ( し力なかった。高校生 た身とすれば、突っぱねるわナこよ、、 には高校生の仁義ってものがある。それに久樹さんの口調 べとべとしていなくてこちらを窺うような湿り気はな かった。 「フルート さらりと尋ねられ、さらりと答えた。 「フル 1 トか。人気のパートだね」 「うん。従姉妹が : : : フル 1 ト、やってたの。舞台の姿が でも、向いてな すごくかっこよくて、憧れちゃって : かった」 「向いてないって、上達しなかったの」 「そこそこまではいくよ。でも、何かしつくりいかなかっ 299 アレグロ・ラガッツア

3. 小説トリッパー 2013年秋季号

になる。 全く違う方向を目指しているし、その通り、後にまるで違う方 向の小説世界を生んでいく。 小説というのは、本当に成り上がり者です。小説は何でもか しかし、ダニエル・デフォ 1 は『ロビンソン・クル 1 ソー』 んでも利用してしまう。方法的には描写、語り、劇、エッセー を小説とは呼んでいません。彼は小説と呼ぶことも、小説家と 注釈、独白、説話といった表現方法をそっくりちょうだいしょ 呼ばれることも拒否しています。デフォ 1 はノベルを蔑視して、 う、何でもかんでもぶち込む、型式のない、あるいは定見のな 「そんなものはせいぜい下等な人間向きのもので、私の『ロビン いジャンルです。方法だけではなく、ほかのジャンルのものを ソン・クル 1 ソー』を小説と呼ばれては困る。小説というのは、 そっくりそのまま使ってしまう。寓話や歴史、物語、年代記、 その本質からして無味乾燥と感傷性に向いていて、心と同時に コント、叙事詩、こういうものも全部盗んで一つのものにして 趣味を堕落させるような、つくられた偽りのジャンルである」 しまう。だから、何でもあり。 と口を極めて小説を罵倒しています。「『ロピンソン・クルーソ 1 』 たった一つだけルールがあります。散文でなければならない、 は一つの実話である」と彼は宣言する。 この一つだけ守れば小説というのは、どういうふうに書いても 、、 0 近代小説はモダン・ノベルの訳ですが、ノベルには、「新規な 散文というのは、実は黙読によって生まれてきた。手で書く、 もの」「珍しいもの。という意味もあります。フランス語のヌー 目で読む、散文の基本はそこにあると思います。韻文はそうで ポ 1 、ヌーベルと同じです。新しいもの、今まであまり重要で はなく、まず声で表現される、そして記憶される。その集大成 はなかったもの、見たことのないもの、珍奇なもの、そういう された型式の一つが叙事詩です。人類の基本は叙事詩、歴史も 意味合いのジャンルがノベルと呼ばれていた。だから、デフォ 1 神話も叙事詩です。 は『ロビンソン・クル 1 ソー 』はノベルではない、そんなもの 「小説は散文である」、これはまさに手によって紙に書かれ、紙 ではないと言いましたが、 『ロビンソン・クル 1 ソー』が近代小 に印刷されて、聴覚を封印して目で読んでいく、そこに散文の 説の典型的な一つのジャンルの幕開けだったことは間違いあり成立の大きな原因があると思います。しかし、小説というのは ません。 散文でなければならないというたった一つのル 1 ル、条件があ 近代市民社会の勃興、成り上がりの世界を表現する。たくさ ると言っても、絶対に守らなければならないというものではあ んの成功物語。紙の大量生産と印刷技術、識字率の向上、まさ りません。散文の中に韻文が入っていてもいい に近代産業社会、市民社会が獲得していくものの流れの中で、 では、散文とは何か、日本で散文はいっ成立したか。とにか それまでの物語が、本という器に盛られて給され、黙読される く散文は、われわれが文字を、あるいは物語を目で読むように ようになる。五感のうちの目だけを使って物語を鑑賞するよう なったときに成立したと言ってもいいと思います。ハンガリ 1 ノベル 辻原登 110

4. 小説トリッパー 2013年秋季号

す 「お屋形様が戦をなされるは、天下を統 昨年、京の近くの比叡山延暦寺を焼きの診立てでは、膈の病 ( 胃癌 ) という。 板坂法印は、ト斎の父だった。すでに べ、領民百姓に安寧を与えるためと思、っ払い、多くの僧侶や女子供を殺戮したこ とりました。そのために、お父上を甲斐とは、ここ諏訪にまで聞こえている。今七十を超え隠居しているが、かっては徳 から追われたものと」 まで禁裏が加護していた比叡山に、兵を本とともに信玄の側で侍医を務めていた。 じゅうく 「徳本、そなたが何ゆえ、甲斐より諏訪向けた者もいなければ、それほどまでに徳本が取りまとめた漢方薬の処方書「十九 に行ってしもうたかは知っておる。わし酷い殺戮をした武将はいない。それだけ方。を陣中医学書に推してくれたのも法 が父上を追い出したからであろう。人の に、この辺りの民でさえ、信長に畏布嫌 情を何より大事と思うておるそなたなれ悪の念を抱いている その法印の診立てに間違いがないか確 ば、当然やもしれぬ。だが、あのまま父 信玄によると、先頃、比叡山を預かる天かめたくて、京に攻め上る途中、徳本を だいざすかくじよ おおぎまち 上を甲斐に留めておったならば、甲斐の台座主の覚恕法親王 ( 正親町天皇の弟宮 ) 茶臼山城に呼びつけたのだ。が、残念な しびと がら、徳本の診立ても同じだった。本人 国は病どころか、死人になっておった」 が甲斐へ逃れ、助けを求めてきたという。 徳本は、それを批判して甲府を離れた さらに、将軍足利義昭からも信長討伐令も薄々覚っているように死期は近い。寿 命はおそらく一年以内と診た。 の勅命を受けたということだった。 わけではない。天文十六年 ( 一五四七 ) 、 信玄が小田井原の戦で志賀城を陥落させ 天下に多くの戦国武将が群雄割拠して 信玄は視線を徳本に戻すと、鋭いまな た折、討ち取った敵兵三千もの首級を槍 いるとはいえ、やはり信長に立ち向かっざしを押し付けてきた。 の先に刺して並べたと聞き、常軌を逸して勝てる相手となると、越後の上杉謙信「わしの体は、後どれだけ持っー た信玄と距離を置くために侍医を辞し、 徳本は癒すように笑みを返した。 か、甲斐の武田信玄しかいないのだろう。 諏訪にやってきたのだ。 「わしももう五十路に入った。いっ命が「そのようなことは誰にもわかりませぬ。 信玄は庭先の、西の空に顔を向けた。 消えるやもしれぬ。近頃、体にもやや不人間、五十年と申します。それを過ぎた みかどほとけ なら、後はお天道様が与えたご褒美と思 「今は尾張の信長が帝も仏も潰し、この安を覚えてのう」 世を病にしておる。それが他国を攻め、 信玄は自分でも気になるのか、胸の辺うて生きて行けば、気に病むこともあり ますまい。不肖この徳本、そう思うて生 どんどん病を広げておるのじゃ。天下をりを軽く叩いた。 きておりますゆえ、知らぬ間に還暦にご かっての甲斐のようにしてはならぬー 近頃の信玄は、胃の腑が食べ物を受け ざりますー 尾張の大名の織田信長という男も、噂つけず、吐き戻すという。そのせいか、 信玄は寂しそうに目を細めた。 で聞く限りは、若い頃の信玄に似ている。顔色がどす黒く見えた。徳本が一時、師 むご いや、それ以上に酷いかもしれない。 事したこともある信玄の侍医、板坂法印「散々戦をし、人の命を奪うてきたわし てん 101 医は仁術なり

5. 小説トリッパー 2013年秋季号

東の武士とは違う専業の武士である。対ろうが」 「それを持っている者にはたいしたこと して城に籠城するのは二万騎に過ぎない。 小五郎は、ちらと伽那を見た。伽那のがなくても、持っていない者には大変な ( し力ない。 その二万の中に、鎌倉から見れば武士と前で殿の悪口を言うわけによ、、 価値があるように見えるものらしい。嫁 は言えない者が多数を占めている。だが伽那は笑みを浮かべたまま、父は変わりを持つ者は女を鬼のようだと言うが、嫁 思いの外に攻城戦が長引き、年を越した。者ですから、と言った。 を持たない者は女を天女のように思い込 しかし、結城城は落ちる。誰もがそう 「殿は城を持っことに執着がある。いつむ」藤太は顔を伏せたまま、言った。「お 考えている。結城が落ちれば、次に憲信かは城の主になりたいという執念で凝りれは嫁を持ったことがないが」 が古河城の制圧に向かうのは間違いない。 固まっている」 「それだろう」小五郎にも無論わかって てんじく 小五郎が藤太を仲間に引き入れようと 「城にそれほどの値打ちがあるのか ? いる。「殿は城を天女か天竺のように思い するのは、当然のことながら兵の数が足藤太は聞いた。 込んでいる」 きまま りないからである。足りないどころでは 「おれにはわからん」 「私には気儘がそういうものに思える」 つぶや ない。古河城に籠もるのは三百に過ぎな 「人といのは」藤太は腕を組んだ。 伽那が呟いた。「気儘に旅ができる人が羨 い。さらに言えばその者たちは、刀より そのとき、藤太がちらと目の端で伽那 くわ も畑仕事で鍬を振るうほうが得意な者やを見たのが小五郎にはわかった。日の出 伽那は藤太に熱い眼差しを向け続けて 山賊野伏ばかりである。戦にもなるまい。 を見るような眩しげな視線だった。 いた。それに対して藤太のほうは伽那の 「それが手に入らないとなると無性に欲視線を外そうと汗を掻いている。そのこ 「おれは逃げるしかないと思うが」小五しくなるらしい」藤太の声は低く、耳に とが小五郎には愉快だった。このひょっ 郎は腕を組んだ。「殿は籠城すると言い 心地良い とこは、と思った。風を追いかけて走る 張っている」 伽那は黒々とした目を藤太に向け続け少年のようだ。 小五郎の言葉に藤太は驚いたらしい ている。何気なく伽那に向けた藤太の視「古河の城は義基殿のものではないのだ ひょっとこに似た顔が、ますます滑稽に線が伽那の視線と絡んだ。慌てたように な」伽那の視線に息苦しくなったのか、 なった。滑稽な顔だが目に邪気がなく、 藤太は顔を伏せた。 藤太は小五郎に話を向けた。 まぶ 小五郎を見て眩しそうに目を細めている。 うぶな男だ、と小五郎は胸の中で笑っ 「殿のものではない。殿と共に籠城して その視線が小五郎には心地良かった。 た。笑ったが、嫌な気はしなかった。主 いる安重様の城だ」 「お主の考えていることはわかる。どう の義基とは随分に違う。姿が良い。眺め 「では義基殿のものにはなるまい」 して殿は逃げないのか、ということであていて気持ちが良かった。 「そうでもない、と殿は考えている。安 吉来駿作 46

6. 小説トリッパー 2013年秋季号

そういえば、昼休み、久樹さんは教室にいないことが多 い。もっとも、高校生ともなると、かなりの人 ( 主に女子 ) が校内のあちこちで思い思いにお弁当を広げている。中庭 の風の通る木影であったり、テラスの日溜まりであったり、 芝生の上であったり、と。ラ 1 メンとカレーのメニュ 1 し かないけれど小奇麗な学食もあるし、購買では菓子バンや サンドイッチや飲み物が売られている。 教室内でお弁当を食べる必要は、まったくないのだ。だ から、久樹さんがどこに行こうと自由なんだけど : 「屋上、かなあ」 菰池くんがのんびりした口調で呟いた。 「屋上 ? 」 「うん。ずんずん上っていくって感じだからさ。まさか、 三年の教室で弁当ってことにはならないでしょ 確かに、既に三階の踊り場まできている。四階には三年 生普通科の教室が並んでいる。久樹さんは、四階のどこに も寄らず、なお、上がり続けた。上にはもう、屋上しかな 、 0 「けど、何とか久樹さんと話せるチャンスをゲットしたよ な。やつば、当たって砕けろって、まさにこのことだな」 菰池くんがこぶしを握る。 「当たったのは、あたしだけでしよ。菰池くん、後ろから 押しただけじゃない。それに、砕けたわけじゃないし」 「相野さん、見かけによらず細かいな」 「それ、あたしが大雑把に見えるってこと ? 」 「何で、そんなに一々つつかかってくるんだよ。あっ」 「何よ」 「お礼、言ってなかった。ありがとう、相野さん。久樹さ んにぶち当たってくれて感謝、感謝」 「ほんとに感謝してる ? 「してるさ。相野さん、頼りになるなあってつくづく感じ てる。これからもいろいろとよろしく」 これからって、まだ頼み事があるわけ ? 尋ねようとしたとき、耳障りな音が響いた。 グとギイの間ぐらいの音。 グギギギイと響く重く鈍い音にタイトルをつけるとした ら : : : うん、 / 悪魔の歯ぎしり〃なんてびったりかもしれな いびき それとも〃地獄からの鼾気かな。 悪魔の歯ぎしり、地獄からの鼾を奏でながら、久樹さん がドアを開ける。ドアの向こうは屋上だ。 「うわあっ」 叫んでいた。口をいつばいに開けた拍子に、風を吸い込 む。風があたしの肺の中を吹き通っていった。 ドアの向こうには、空があった。屋上じゃなくて、空が 視界いつばいに広がる。それは、春のように霞んでいない 濃く青く、光を存分に含んでいる。ぎらっくほどじゃない けど、これから猛々しく育っていく光だ 空は地上よりも一足早く、夏を迎え入れようとしている。 たけだけ あさのあっこ 2

7. 小説トリッパー 2013年秋季号

ありやしない、ろくでもない男なんざ願い下げだと、母親はロ ペろりと舌を出す。 汚く罵っては、酒を呑み泣いた。いくらロ笛が上手に吹けたっ あらあらと、おけいは気の毒そうな声を出しつつ、 て、おっ母さんを悲しませたあいつは悪い男だったのだと、お 「たしか虫さされによく効く薬があったはずよ、ちょっと待っ いとは思ったとい、つ ててちょうだいね」 そのあとも、幾人かがおいとの父親になった。けれど誰も長 腰を上げかけると、にわかにおいとがまごっきはじめた。 続きしなかった。 「いいよ、おばちゃん。ちょっと腫れてるだけでもう痛くも痒 おいとはときどき揚げ縁の小鳥たちに向けて小さく口笛を吹 くもないから」 おいとは真っ白な前歯を見せ懸命な顔つきで、頭に巻いた手 中には、驚いて首をくるくる回す子もいておいとはけらけら拭いを目蓋の上まで引き下げた。 笑った。 「そう、大丈夫 ? 」 ひょろろ、ひゆるりとロ笛を吹きながらおいとが『ことり屋』 うんうんと、おいとは頷いた。 の前を通りかかった。 「だって、あたいが悪いんだ。おっ母さんのいいつけを守らな かし おけいは、おやと首を傾げた。おいとが頬被りをして笠を付 かったから。それに、ちょっとぐらい目蓋が腫ればったいほう けている。笠はときどきつけてはいたが、頼被りなどして廻っ があたいの顔はましになるって、おっ母さんが」 て来たことなど一度もなかった。 えっと、おけいは耳を疑った。 「おいとちゃん、今日もきれいな音ね。 「おいとちゃんのおっ母さんが、そういったの ? 「ことり屋のおばちゃん」 おいとは、ちょっと笑った。 いつものように笑みを浮かべながらも、おいとは慌てて右の 「あたいの顔は陰気臭いから、だって」 まぶた 目蓋を手で隠すような仕草をした。おけいのほうへしつかり顔 おけいが眉をひそめると、おいとは慌ててかぶりを振った。 を向けることもない . し . し しいの。あたいもちょっとそう思っているもの」 おけいは、ためらいがちなおいとに明るく声を掛けた。 眼は吊り上がっているし、あごも細いし、顔色も悪いと、わ 「おいとちゃん、右目、どうかしたの ? ずかに肩をすばめた。 「ううん、たいしたことないの」 「おいとちゃんは器量良しよ。きっとおっ母さんはからかって おいとが首を振る。 いるのね」 ゅうべ かや 「昨夜ね、あたいが蚊遣りを忘れちゃったの。それで目蓋を食 おけいが笑いかけたとき、揚げ縁の上の小鳥が、ひょろろ、 ひょろろと鳴いた。 われちゃったから恥ずかしくて」 ののし かゆ 梶よう子 412

8. 小説トリッパー 2013年秋季号

「でも、元気になってくれてよかったわ」 新太は笑った。それは「にやにや笑い」といっていい表情で、 何か言わなければいつまでも夫は自分を窓に押しつけ続ける 沙知は少なからず衝撃を受けた。夫のそんな表情を見るのはは ような気がして、沙知は言った。 じめてだったーあるいは、今までは見過ごしていたのだろう 「わが親ながら、あさましい」 沙知が振り返るのと同時に、新太は体を離した。すぐに背中「あなたの夢は ? を向けてしまったので、夫がどんな表情をしているのかわから 沙知は聞いた。もう窓の外は見ていないが、背中に義母の声 はまだ聞こえてくる。「そ、ついうこと、そういうこと」と、節を 「昨日は夢、見た ? つけるように言っている。なにが「そういうこと」なのだろ、つ。 シャツを着ながら、背中を向けたままで新太は言った。それ 「夢の中でも、やってたよ」 もまた不意打ちだった。沙知は用意していなかった。記憶の中 新太はそう答えた。にやにや笑いがいっそう広がる。そのう を探ると、ドアと階段と暗い踊り場が見えたような気がした。 えそのとき、シャツの裾をたくし込むために両手をズボンの中 「順番を待ってるような夢だったわ , に入れていたので、その笑いかたは卑猥な感じさえした。 「何の順番 ? 」 「もう、くたくただ」 「予防注射。焦っているのよ。それを受けないと死んじゃうか 昨夜、沙知のほうから夫に挑んだのだった誘って、煽って、 もしれないの。いいえ : : : 受けないと、ぜったいに死んじゃう 自分から旺盛に動いた。前日に勲と寝たことを考えれば、それ の。そう思ってるのよ。それなのに列がなかなか進まなくて、 は我ながら異常な衝動だった。 苛々してるの」 何かが足りなくてそうしたわけではなかった、と沙知は思う。 「へえ」 勲との行為によって、肉体的にはそれこそくたくただったし、 新太はそこではじめて振り向いた。シャツのボタンを全部留精神的には疲れきっていた。足りなかったのではないーー知り めて、下はトランクスにソックスだけという滑稽な格好で。夫たかったのだ。 の表情に、なぜか沙知は促された。 何を ? 新太と自分との間にあるもの。これまですっと、そ 「それにあなたも悪いのよ。とっくに来てなければいけないのれを知りたいと思ったことはなかった。知る必要はなかった。 に、来ないの。夫婦揃ってないとその注射は受けられないの」 知りたいと思う必要がなかった、と言ったほうがいいかもしれ 「隼は ? 」 ない。なせならそれは、夫と沙知との間にあると同時に、沙知 の手中にあったからだ。 「隼は : : : どうだったかしら。出てこなかったみたい」 「きっと、大人だけが罹る病気なんだな」 今、気がつくとそれは手の中にはなくなっていた。だから探 井上荒野 374

9. 小説トリッパー 2013年秋季号

りながら、静かに瞼を閉じた。 で海に落ちて、生きて帰ってきたものは たくさんの人を乗せた船が転覆し、多 、 6 くの死者や行方不明者が出る大惨事があっ 十左の指示で、手下どもが三郎庵に赴 き、冷たくなった三郎左の骸を運び出したらしいというのは、周りの人たちの様 「信乃は」 子から、朧気には察せられた。 目を覚ますと同時に、十左はそう声をた 信乃は他の被害者と一緒に救助された 能島村上から正式に奥島衆の新しい頭 上げ、起き上がった。 らしいが、それ以前のことが思い出せな 領と認められた十左は、怪我が回復する 「寝ていろ , かった。そんな大きな船に乗った覚えも 傍らで囲んでいる、島の海賊衆らの古と、三郎庵に赴いた。 安国寺恵瓊に会わねばなるまい。人気ないし、殆ど裸同然で助けられた信乃は、 株の一人が、十左に声を掛けた。どうや も失せてがらんとした洞穴の真ん中に立与えられた衣服のボタンの留め方すらも、 らそこは重成の館のようだった。 十左は呻き声を上げた。体の節々が痛ち、十左は誓うようにそう思った。信乃教えてもらうまでは思い出せなかったら む。両手両足の指を動かしてみたが、幸はまだ死んではおらぬ。どういうわけか、 柔らかいべッドの感触は心地良かった。 そんな確信があった。 い五体満足のようだ。 十左の手の中には、あの日、彦四郎がそれはまるで、初めて経験することのよ 「いったい何があった。浜で何人か殺さ 持参してきた一葉の精緻な絵が握られてうに信乃には思えた。 れていた」 微かに首を傾け、信乃は病室の窓を見 「毛利家から来た使者の仕業だ」 その場にいた者たちがお互いに顔を見 外には散りかけで緑色の葉が交ざり始 「わかりません。誰と一緒に船に乗った 合わせる。 めた桜の木が見えた。 のかも覚えていません。 「三郎左が刺され、信乃が連れ去られた。 その桜の木の下に、どういうわけか仲 何度聞かれても、答えは同じだった。 彦四郎とかいうあの侍は海上で討ったが、 思い出せるのは、自分の名前が信乃だの良さそうな父母と、小さな男の子の兄 骸は ? ということだけである。警察官たちが病弟が並んでいる姿を思い浮かべ、気がっ 海賊衆らが首を横に振る。 くと信乃の目の端には、涙が滲んでいた。 室から出て行くと、信乃は白い清潔なシー 「流れ着いたのは十左、お前だけだ」 それすらも僥倖だった。あの辺りの渦ツの掛けられたべッドに仰向けに横にな 75 遠き世の桜

10. 小説トリッパー 2013年秋季号

あなたがバラダイス 「それもあるけど、それだけじゃない。僕は役場勤めの自分のだ 「湖からの花火はいいですね。湖面に映る花火なんて贅沢だな 仕事に満足している。だけど、僕にとっての地に足ついていな あー い職業を目指している人を見ると、働くってことをなめんなよ、 木水さんが言った。花火に目を向けたままだが、私とは視線 とか、おまえの夢なんて地道な仕事に就いている大多数の人の 上に成り立っている余興みたいなもんじゃないか、なのに、自の高さが少し違う。同じ高さに合わせてみると、湖面に大きな とは思わない 分は特別な才能がある、って顔しやがって、なんて、その人か花火が映った。きれいだけど、花が咲いたー 湖面に映る花火はなんだかドラマのようだ。生身の人間の人 ら否定されたわけでも、バカにされたわけでもないのに、吠え てしまいたくなるんだよね。いつばいいつばいの自分を守る手生を映し出したもの。それを美しいと感じ、大半の人は両方楽 しむのだろうし、湖面に見入る人もいるかもしれない。そして、 段なんだってことに、この年になってようやく気付けたんだけ 私のように空ばかりを見上げて、下が水面だろうが地面だろう ど」 が関係ないという人も当然いるのだろう。 この年になっても、気付けませんでした。ずっと 「私は : もしかして、私は普通の人よりも、ドラマにそれほど興味が 昔に付き合ってた人が、脚本家を目指してたんですけど、私は ないのかもしれない。読書もフィクションよりノンフィクショ それを応援できなかった」 ンの方が好きだ。誰かが作ったおもしろい話よりも、実際に地 ハラバラバラ、と夜空に豆をまくような音が響き、小さなス に足付けて生きている人の話の方が、派手さや驚きや盛り上が タ 1 マイン花火が打ち上げられた。花火大会開始の合図だ。湖 りがなくても、興味を持っことができる。 上に大輪の花が咲いた。一輪、二輪、三輪 : : : 、腹の中央に振 こんな私が脚本家という仕事を理解できるはずがない 動が響く。私は、今ここにある、と実感できるものが好きなの 朝日文庫 っ , に、なラ了も 0 赤ドは ~ 楽し、 ろをたい 、ラダイス 独身図書館員・敦子、専業主婦・まどか、バツイチのライター・千里。老いた親やロうる 平安寿子 さい配偶者、ままならない体と悪戦苦闘しながらク未来を見つけていくー。女の人生の 悲喜こもごもをユーモアとアイロニーたっぷりに描く / ・定価 672 円 ( 税込 ) 336 頁 ISBN 978 ー 4 ー 02 ー 264567 ー 8 介 H お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞出版 ASAHI 401 物語のおわり