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検索対象: 小説トリッパー 2013年秋季号
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1. 小説トリッパー 2013年秋季号

「でも、元気になってくれてよかったわ」 新太は笑った。それは「にやにや笑い」といっていい表情で、 何か言わなければいつまでも夫は自分を窓に押しつけ続ける 沙知は少なからず衝撃を受けた。夫のそんな表情を見るのはは ような気がして、沙知は言った。 じめてだったーあるいは、今までは見過ごしていたのだろう 「わが親ながら、あさましい」 沙知が振り返るのと同時に、新太は体を離した。すぐに背中「あなたの夢は ? を向けてしまったので、夫がどんな表情をしているのかわから 沙知は聞いた。もう窓の外は見ていないが、背中に義母の声 はまだ聞こえてくる。「そ、ついうこと、そういうこと」と、節を 「昨日は夢、見た ? つけるように言っている。なにが「そういうこと」なのだろ、つ。 シャツを着ながら、背中を向けたままで新太は言った。それ 「夢の中でも、やってたよ」 もまた不意打ちだった。沙知は用意していなかった。記憶の中 新太はそう答えた。にやにや笑いがいっそう広がる。そのう を探ると、ドアと階段と暗い踊り場が見えたような気がした。 えそのとき、シャツの裾をたくし込むために両手をズボンの中 「順番を待ってるような夢だったわ , に入れていたので、その笑いかたは卑猥な感じさえした。 「何の順番 ? 」 「もう、くたくただ」 「予防注射。焦っているのよ。それを受けないと死んじゃうか 昨夜、沙知のほうから夫に挑んだのだった誘って、煽って、 もしれないの。いいえ : : : 受けないと、ぜったいに死んじゃう 自分から旺盛に動いた。前日に勲と寝たことを考えれば、それ の。そう思ってるのよ。それなのに列がなかなか進まなくて、 は我ながら異常な衝動だった。 苛々してるの」 何かが足りなくてそうしたわけではなかった、と沙知は思う。 「へえ」 勲との行為によって、肉体的にはそれこそくたくただったし、 新太はそこではじめて振り向いた。シャツのボタンを全部留精神的には疲れきっていた。足りなかったのではないーー知り めて、下はトランクスにソックスだけという滑稽な格好で。夫たかったのだ。 の表情に、なぜか沙知は促された。 何を ? 新太と自分との間にあるもの。これまですっと、そ 「それにあなたも悪いのよ。とっくに来てなければいけないのれを知りたいと思ったことはなかった。知る必要はなかった。 に、来ないの。夫婦揃ってないとその注射は受けられないの」 知りたいと思う必要がなかった、と言ったほうがいいかもしれ 「隼は ? 」 ない。なせならそれは、夫と沙知との間にあると同時に、沙知 の手中にあったからだ。 「隼は : : : どうだったかしら。出てこなかったみたい」 「きっと、大人だけが罹る病気なんだな」 今、気がつくとそれは手の中にはなくなっていた。だから探 井上荒野 374

2. 小説トリッパー 2013年秋季号

「それはそうと、あのプロット、何ですか ? 」 教えてあげるべき ? でも、ただのおせつかい ? 「気に入らなかった ? 江戸川乱歩オマ 1 ジュの恋愛小説ー 迷っていると、沖笛謙の携帯電話が鳴って、彼は電話に出た。 「 : : : それ、どこに需要があるんですか ? 」 携帯電話を片手にもったス 1 ツ姿は、一流ピジネスマンの役 けにんげんぎ 「俺に」話にならない。「花人幻戯』に『人間椅子』、あと、『お 柄も似合いそうだ。やはりわたしの青春の一ペ 1 ジは黄金級だ わ、とそんなことを思っている間にも沖笛謙のほうは携帯電話勢登場』とか『人でなしの恋』なんかも混ぜて 「もう結構です。いいですか、出版のタイミング考えると、本 を切って、そそくさとエスカレータで降りて行ってしまう。 ハッと我に返り、慌てて彼の後を追うようにして二階へ降り当に次がラストイニングになりますからね。お願いします」 ふうん、と言いながら夢センセはわたしの恰好を見て言った。 る。もう〈露草の間〉の前はフォ 1 マルな服装の人々でいつば いだった。 「どうでもいいけど、その恰好、君が思ってるよりは似合って るよ エスカレ 1 タを降りたところで、どん、と壁に当たった。 「それ失礼ですよ : : : べつに、似合ってないと思ってませんし。 「きやっ、ごめんなさい」 というかそんな発言でわたしを煙に巻こうとしても : : : 」 よそ見をしていてぶつかった対象を確認する。 食ってかかろうとするわたしを制して、夢センセは〈露草の 思わす、顔が赤くなってしまった。、先ほどまで花柄のシャッ 間〉の扉を指さした。 に細身のパンツといういつものスタイルだった夢センセが、白 「いよいよ入れるみたいだ。行こうか」 と黒の正装に様変わりしていた。その正装が夢センセの甘いルツ そう言ったときの夢センセは、すでに優雅で気品に満ちた恋 クスをよく引き立てていて、〈ラブンガク大賞〉授賞式の日のこ 愛小説家、夢宮字多の仮面に戻っていた。 とを思い出したのだ。 「行こうかって : : : あのですね、話が終わってませんよー 彼はわたしに一瞥をくれると、シニカルな笑みを浮かべた。 夢センセはそっと耳打ちした。 「おやおや、おきれいだことー 「べタベタの甘 1 いケーキみたいなプロット書けばいいんだろ ? 」 「 : : : 何か嫌味つほいのは気のせいですか ? そう言い捨てて、夢センセはタキシードの群れに紛れてしまっ 「いや、最近の婚活も大変だなって思ってね」 「だ : : : 誰が婚活なんかしますか ! 夢センセだって、そんな わたしは大きな溜息をついて、すぐにその後を追いかけた。 恰好しちゃってー 全然わかっていない。わたしが、受賞作『彼女』を初めて読 「俺はむしろ地味にしてるんだよ。主役より目立たないように んだとき、どれほどその文章に惚れ込んだのかを。 ね。君とは全然主旨が違うと思うけど ? それは、高校時代に沖笛謙をプラウン管のなかに発見したと むう : : : 言い返せない。悔しい 145 偽恋愛小説家

3. 小説トリッパー 2013年秋季号

、やぶひこ 「ずっと大事にしてきたお稲荷さんだったのですよ。私の 母は、あそこで生まれたのです。祖父は毎朝あのお稲荷の 前で手を合わせていたんだそうです。私は母の、年をとっ てからの子どもだったので、祖父には会ったことはありま せんでしたけど。戦争中、私はほんの子どもでしたけど、 藪彦さんの一家があの家に疎開して来たのをよく覚えてい ます。藪彦さんと、うちの母とは従兄妹同士に当たったの でー私の祖父が、あなたの曾祖さまの弟にあたるので すー私は母に連れられて何度か遊びにきたことがありま す。藪彦さんも、あのお稲荷さまを大事にしていらっしやっ た。それで、私の家族があの家を借りることになってから も、自然にあのお稲荷を敬って来たのですよ。情が移って、 さすがにあそこを出るときは連れて来ようかと思ったけど、 お稲荷といえども土地に根付いた神さまを、そうおいそれ 。で、あのお稲荷 と移動させることは憚られましてね : ・ さまがなんと」 「参るものがいないと寂しい。自分が何ものかわからなく なる、と」 この亀シのことばを聞いて、竜子さんの目から涙が溢れ 出た。カウンタ 1 の向こうで、なんと泰子さんも泣いてい 「連れてくればよかった」 「いえいえ」 ひいじ 亀シはたしなめる。 「お考えは正しかったのです。地神にはそれぞれ縄張りと いうものがあります。今ここに連れて来ても、首だけ持っ てくるようなもので、何のいいこともありません」 謙虚な稲荷は女性の心をつかむのであろうか。彼女たち は皆、稲荷に同情的であった。私はもう、どうにでもなれ というような気分で更なる説明を試みる。 「彼女の『夢枕に立っ』のは稲荷だけではないのです。ど うやら藪彦じいさんと思われる人物も出て来ましたし、さ らに誰だかわからないものも出て来て、実家に来るんだっ たら泊まっていけ、といっているというのです。それで稲 荷が心配して、泊まることは強いて勧めないが泊まるので といってい あれば冷えるから布団を用意したほうがいい るのだそうですー はあ、と竜子さんは絶句する。どこまで本気にとってい いのかわからないのだろう、無理もない、と思っていると、 カウンタ 1 の向こうから、泰子さんが恐る恐る、あの、か り : : : と、亀シの姓を確かめようとした。一度で名まえを 呑み込んでもらえないことに慣れているのか、亀シは即座に、 「仮縫です」 やつばりそれでいいんですね、というように、 「仮縫さんは、そういう、交信ができる方なのですか」 泰子さんに合わせ、竜子さんも頷いている。彼女たちは どうやら、私の心配するより遥かに「本気にとっている」。 187 椿宿の辺りに

4. 小説トリッパー 2013年秋季号

は忘れていた。夫が聞かなくなったからだ。 のは「—」だけで、それだって、英語にするとただの棒一本に過 ぎない。—もも— 0 (-) も、ようするにその程度のことなの わからない、と沙知は思、つ。 ではないかーあるいは、私にふさわしいのは、この世界で私 この頃はわからないことだらけだ。 に振り分けられているのは、その程度の—ととなの その中でもっとも切実に、答えを知りたい、と思うのは、あかもしれない。 の夜以来、勲からの連絡がぶつつり途絶えている理由だった。 だから沙知は、さらに考え続ける。これからどうなるのだろ 沙知は週末を待つ。あるいは夜を。勲が連絡してくるとした う、と考える。勲から連絡が来ないこと。気がかりは、それ以 ら、次もその時間帯だろうと思うからだ。沙知が家族と過ごし外にもある。家族のこと。新太も、義父も、義母も、それに隼 でまか ている時間。新太の目を盗んで電話に出て、あからさまに出任さえ、とっくに気づいているのではないか。沙知と勲の関係に せの言い訳をして、家を出てこなければならない時間。 らいて、すでに何もかも知っていて、それを沙知に思い知らせ だが週末も、夜も、ただ過ぎていく。もちろんそれ以外の時るタイミングを計っているのではないか。 myfamily—「私の」 間にも、もう何も起きない。携帯電話が壊れているのではない ものなんて、本当は最初からどこにもなかったんじゃないのか かと、調べてみたことが一度ならずある。あまりにも連絡を待だとしたらどうすればいいのか ちすぎているせいで、日々には色彩がなくなった。あるいは、 家を出る。沙知はそのことを考えてみる。出奔して、そのと 色のない何かで、日々は塗りつぶされてしまった。 きこそ、自分のほうから勲に連絡する。私、あなたのために家 沙知はやつばり考えずにはいられない。勲が、沙知を試すよ族を捨ててきたのよと。そうしたら勲はどんな反応を見せるだ 連絡が うな時間帯に呼び出した意味。それに沙知が応えた二度の情事ろう。少しは感動するだろうか。ハノノノ のあと、連絡が途絶えている意味。意味なんてない、あの男が来るのを待つばかりで、自分のほうから電話することは怖じけ 私に対してすることに意味なんてない、と吐き捨てるもうひと てできないような相手に、そんな期待をするなんて。夫ばかり りの自分の声には耳を塞いで。 でなく息子まで捨てるほどの何かが、あの男との間にあるとで もい、つのカノノノノノノノノ 私が何を捨ててきたとして そうして、耳を塞ぐ沙知は、愛について考えはじめる。 Does とも、つ he love me? 耳を塞いでいても、 も、あの男はきっと眉ひとっ動かさないに違いない。 ひとりの沙知が嘲り笑う声は聞こえてくる。でも、さらに考え 笑い声の中で、しかし沙知は空想する。勲の愛人としての人 人 恋 笑い声のこ生。虫けらみたいに扱われ、意のままになり、気まぐれに抱か とは次第に気にならなくなる。英語に置き換えているせいもあれて。空想の中でさえ不幸しか見当たらない人生。それでもそ るし、代名詞を使うことによる曖昧さのせいもある。たしかなんな人生を、選んで生きることには甘美なものを感じる。見返

5. 小説トリッパー 2013年秋季号

東の武士とは違う専業の武士である。対ろうが」 「それを持っている者にはたいしたこと して城に籠城するのは二万騎に過ぎない。 小五郎は、ちらと伽那を見た。伽那のがなくても、持っていない者には大変な ( し力ない。 その二万の中に、鎌倉から見れば武士と前で殿の悪口を言うわけによ、、 価値があるように見えるものらしい。嫁 は言えない者が多数を占めている。だが伽那は笑みを浮かべたまま、父は変わりを持つ者は女を鬼のようだと言うが、嫁 思いの外に攻城戦が長引き、年を越した。者ですから、と言った。 を持たない者は女を天女のように思い込 しかし、結城城は落ちる。誰もがそう 「殿は城を持っことに執着がある。いつむ」藤太は顔を伏せたまま、言った。「お 考えている。結城が落ちれば、次に憲信かは城の主になりたいという執念で凝りれは嫁を持ったことがないが」 が古河城の制圧に向かうのは間違いない。 固まっている」 「それだろう」小五郎にも無論わかって てんじく 小五郎が藤太を仲間に引き入れようと 「城にそれほどの値打ちがあるのか ? いる。「殿は城を天女か天竺のように思い するのは、当然のことながら兵の数が足藤太は聞いた。 込んでいる」 きまま りないからである。足りないどころでは 「おれにはわからん」 「私には気儘がそういうものに思える」 つぶや ない。古河城に籠もるのは三百に過ぎな 「人といのは」藤太は腕を組んだ。 伽那が呟いた。「気儘に旅ができる人が羨 い。さらに言えばその者たちは、刀より そのとき、藤太がちらと目の端で伽那 くわ も畑仕事で鍬を振るうほうが得意な者やを見たのが小五郎にはわかった。日の出 伽那は藤太に熱い眼差しを向け続けて 山賊野伏ばかりである。戦にもなるまい。 を見るような眩しげな視線だった。 いた。それに対して藤太のほうは伽那の 「それが手に入らないとなると無性に欲視線を外そうと汗を掻いている。そのこ 「おれは逃げるしかないと思うが」小五しくなるらしい」藤太の声は低く、耳に とが小五郎には愉快だった。このひょっ 郎は腕を組んだ。「殿は籠城すると言い 心地良い とこは、と思った。風を追いかけて走る 張っている」 伽那は黒々とした目を藤太に向け続け少年のようだ。 小五郎の言葉に藤太は驚いたらしい ている。何気なく伽那に向けた藤太の視「古河の城は義基殿のものではないのだ ひょっとこに似た顔が、ますます滑稽に線が伽那の視線と絡んだ。慌てたように な」伽那の視線に息苦しくなったのか、 なった。滑稽な顔だが目に邪気がなく、 藤太は顔を伏せた。 藤太は小五郎に話を向けた。 まぶ 小五郎を見て眩しそうに目を細めている。 うぶな男だ、と小五郎は胸の中で笑っ 「殿のものではない。殿と共に籠城して その視線が小五郎には心地良かった。 た。笑ったが、嫌な気はしなかった。主 いる安重様の城だ」 「お主の考えていることはわかる。どう の義基とは随分に違う。姿が良い。眺め 「では義基殿のものにはなるまい」 して殿は逃げないのか、ということであていて気持ちが良かった。 「そうでもない、と殿は考えている。安 吉来駿作 46

6. 小説トリッパー 2013年秋季号

セリフについて、アリストテレスは『詩学』の中で、「本当ら しいもの」と「必要なものに分けている。舞台において俳優 が声に出すセリフには、本当らしいものと必要なものの二つが ある。「必要なもの」というのは、セリフにおいて筋の明療さに ・小説の「会話」、セリフ 不可欠なもの。つまり、観ている人にとって必要なもの。私と 小説を構成する大きな要素は描写である、ということは明ら が舞台で演技している。私は、という人間に全然言わなく かになったと思いますが、次に会話について考えてみましよう。 てもいいようなセリフを発することがありますが、それは実は カギカッコでくくられる、あるいは棒線 ( ダ 1 シ ) で示されて観客向けにやっていることで、それが「必要なセリフ」です。 いる会話をどう考えるか。実はこれも描写だと考えるべきなのもう一つ、「本当らしいもの」というのは、その状況において観 です。 客に情報を伝えることを考慮することなく、登場人物が互いの 小説における会話は、芝居のセリフや映画のセリフと違いま 間で交わす言葉、これが「本当らしいもの」です。セリフには す。セリフというのは日本語ですが、どこから来たのか。小学この二種類がある 館の日本国語大辞典で調べてみると、こう書いてありました。 戯曲というのは、その両方を兼ね備えているので、朗読やラ 「せりいふ」から「せりふ。になる、知っていましたか ? 知っ ジオで聞いてもよくわかります、ストーリーもわかります。戯 ている人は手を挙げてみてください。私は知らなかった。「せり曲をラジオで朗読するのを聞いていてもわかりますが、映画は いふ ( 競言 ) 」、「せりいう」、それが「せりふーだそうです。卸どうでしよう。もしもセリフだけのサウンドトラックがあった 売市場の「セリ」もそうなんだ。漢語では台詞、科白。 としたら、絶対にわかりませんね。聞いているほうはストーリー ・定価 1890 円 ( 税込 ) 悪人から届く「哀しみ」と横道世之介が残した「希望」 ふたつの感動が響き合う新たな代表作の誕生平成猿蟹合戦図 ど 平成猿蟹合戦図い は日 新宿で起きた轢き逃げ事件が、八人の主人公を結びつけ め朝 求 ( 〃 この国の未来を変えるク戦いへと向かわせる お⑩ という意識が慰めてくれる。この二つの調和、あるいは振り子 運動の中でわれわれは生きている。 吉田修一 129 東大で文学を学ぶ

7. 小説トリッパー 2013年秋季号

新六は静かに口を開いた。 「ほう、もう、わしの間者だと見破られたのか」 「護衛のお役目はそれがし、お引き受けいたしかねまする」 「さようではございませんが、それがしはひとに疎んじられる ところがございますようで、要は嫌われたのであろうと思って 「なんだとー 勘十郎は険しい顔になって自ら酒を注いだ杯を口に運んだ。 おりますー さげす 「旧大甘派の会合に出続けておれば、刺客にならざるを得なかっ 新六が平然と言ってのけると、出雲は蔑んだ表情になって、 たと存じます。それを逃れたからには、旧大甘派はそれがしへ 「つまり、役には立たなかったというわけか」 の監視の目を強めましよう。護衛の役につけば小笠原様がどこ とつぶやいた。出雲が酒を飲み干すと、勘十郎はにじり寄っ におられるか、どの道筋を通られるかを報せるのも同然でござ て酌をした。そして新六を振り向き、 いますー 「しかし、印南を遠ざけたということは、まさに何事かを彼奴 らが企んでおる証でございましよう」 淡々と新六が話すと、勘十郎は顔をしかめた。 「刺客にはならぬが、護衛もできぬと申すか。まさに鳥でもな 「では、やはり、わしを狙うのか」 ければ獣でもない蝙蝠のごとき者だな」 出雲はつまらなそうに言った。 ひややかな言葉に新六は目を伏せ、唇を一文字に引き結んだ。 「おそらく、さようかと思います。それだけにこちらは面白い 手が打てますぞ」 翌日 、源太郎の屋敷を渋田見主膳が訪れた。 「どうするというのだ」 朝から蒸し暑く、汗ばむ日だった。 「上原与市には、ご家老の命を狙うほどの胆力はございません。 主膳は五十過ぎで肩幅が広く、肉付きのいい体格だった。眉 もし刺客になる者があるとすれば、剣客の直方円斎であろうか が太く鷲鼻であごがはった顔である。陽射しの中を歩いてきた と存じます。わが藩におきまして、方円斎と戦えるほどの腕を ため、額に汗を浮かべていた。非番だった源太郎が客間で会う 持つ者は印南だけでございます」 と、主膳は時候の挨拶の後、いきなり、 勘十郎はしたり顔で言った。せつかく、旧大甘派の刺客とな ることから逃れたと思ったのに、勘十郎は出雲の護衛をさせよ 「菅殿は忠義の臣でござるか。それとも不忠の臣ですかな」 と唐突に訊いた。源太郎は不愉快に思いながら答えた。 うというのだ、と察して新六は眉をひそめた。 「自らを不忠の臣だと言う武家はおりますまい , 出雲は鋭い目を新六に向けた。 「大甘兵庫はそなたを、いざという時、わしへの刺客といたす「さて、それはわからないことだ」 主膳はにやりと笑った。 つもりだったのであろう。ところが、そなたがわしを守ること になるとは、とんだ皮肉だな」 「いや、さようなことはない。近頃は殿の命に逆らうことを何 あかし きやっ 261 風花帖

8. 小説トリッパー 2013年秋季号

てお茶を啜る。ドアを開ける音が聞こえた。あっという間に沙ん、こっちはも、つ終わりましたから。男には頷き返しただけで、 さらに沙知は奥へ進んだ。隼の部屋の前に勲がいた。 知はいたたまれなくなる。 「ありがとうございました、奥さん」 「やつばり見てきたほうがいいんじゃないかしら 勲は薄笑いをーあきらかに、沙知だけに見せる薄笑いを 浮かべて沙知の横を擦り抜けた。狭い廊下で、体が触れ合いそ 新太はさっきと同じ返事をした。 うになった一瞬、沙知の手の中に何かが押しつけられた。折り 「だって、何をされるかわからないわ」 「そこまでばかじゃないだろ。やっとここまで漕ぎつけたのに」たたまれた紙。それがわかって、沙知はとっさに寝室へ入って ドアを閉めた。 「私たちにわからないように、何かするかもしれないじゃない , それじゃあ、これからあちらのお宅のほうへうかかいますか 「たとえば ? 」 ら。業者の声が聞こえ、それに応える新太の声が聞こえてくる。 「垂を吐くとか : : : 毒を撒くとか : 足音。沙知は急いで紙を開いた。見覚えがある紙だった。隼の 、と新太は笑った。その笑いかたに、沙知は苛立つ。 「写真。そうよ、不必要なものまで写真に撮るかもしれない」雑記帳だ。沙知は一瞬、混乱する。勲から自分への通信だとば かり思っていたのに、そこにはただ息子が描いた絵があるだけ 「カメラを持ってるのは業者なんだぜ」 だったから。 「彼がグルだったら ? 」 それは先日見たのと同じような、遺跡の絵だった。斜線で立 沙知は立ち上がった。夫は間違っている、と思う。あるいは、体感を出そうとしている洞穴の絵。この前の絵と違うのは、洞 夫はおかしい。今しも勲が私たちの寝室に入り込んで、隅々を穴の中に人物像が、はっきりそれとわかるように描かれている ことだった。洞穴よりもこちらのほうがずっと上手に描けてい なめるように眺め渡しているに違いないのに、そんなふうに笑っ る。男と女であることは容易にわかるし、裸であることもわか ているなんて。 ( 第五回了 ) る。絡み合っていることも。 廊下を進むと奥から業者が出てきたところだった。あ、奥さ 385 悪い恋人

9. 小説トリッパー 2013年秋季号

でつぶりとした腹に、無理矢理に上着のボタンをはめたもの 声をかけてきたのは、たわいもない話ではなかった。 ひかわこうへい いきなり真正面の話題だった。彼日く、日中関係の希望ある だから、今にもはち切れそうだ、と氷川航平は思った。 しかしそれが、目の前にいる彼の、いつものトレードマ 1 ク未来にとって、障害となるものは何だと思われますか、と。 笑顔は終始崩さない。笑い声さえ上げることもある。そして なのだ。服の種類はもちろん変えるが、氷川が知る限り、この りゅうちょう 日本語は流暢だった日本の歴史にも非常に精通している。日 男は、決してそのスタイルを変えようとはしなかった。 ぞうけい だが、女性客でほとんどのテープルが占領された、このイタ本の文化にも造詣が深かった。それだけで、氷川の頭に激しく リアン・トマトのような店では、胡散臭げな視線が集まること警報が鳴り響いた。 となった。 こいつは相当な訓練を積んできたプロフェッショナルだ。 だから、自分に近づいてきた目的を考えざるを得なかった。 笑いを堪えている女の子たちゃ、胡散臭そうな表情で見つめ る女性がいるのが氷川にも見えた。 もしかすると、自分は、中国情報機関の協力者獲得の対象と されているのか ? 彼のこだわりは、在日中国大使館の 1 等書記官であった頃か ならば、これまで何ヶ月も監視され、調べ尽くされてきたの らで、当時はまだ社会主義市場経済に移行する前であったので、 地味な服装ばかりであった館員の中で、彼のスタイルは一際目 立つものだった。だから追尾にどれだけ助かったものか もし、その大使館員からの接触がそれつきりだったら、そこ しかし、余りにも目立っ格好をしていたので、当初、中国情まで思わなかった。 報機関による工作の一環かと警戒した。他に重要な工作があっ お台場にある東京ビッグサイトでのモ 1 ターショ 1 において て、それから日本警察の目を逸らすためのものかと。 も、氷川はその大使館員と出会うことになったのである。氷川 しかしそれが間違いであったことに気づくのに、そう時間は は、新任の経済担当公使が中国の自動車メーカ 1 のオ 1 プニン かからなかった。 グのテープカットを行う、との情報を主催関係者から得ていた ので、その顔を見に行っていたのだった。その公使は、人民解 外務省が主催するシンクタンクの勉強会でのことである。 放軍の情報機関、総参謀部 2 部の幹部だという認定を外事第 2 彼のほうから近づいてきたのだ。 この世界、機関員を協力者に獲得することほど危険なことは課では行っていた。 ない。古くから言われている言葉で表現すれば、ミイラ取りが 大使館の公使は、そこで会うことが当然だったように余裕の はら ミイラになる危険性を常に孕んでいるからだ。 笑顔を露骨に向けてきた。 そして口にした言葉こそ、決定的だった。 彼の表情は穏やかだったし、その笑顔は本物のように思えた。 心の底からの笑顔に見えた。 「お会いしたかったです」 こら ッラ 191 背面捜査

10. 小説トリッパー 2013年秋季号

“すけ鍼 ささや きた」七郎太は小五郎に囁いた。「三名の 返し眺めた風景が、生まれて初めて見る 誤解もなく藤太の胸に染み込んでいく。 どうまるこて みずみす 武士が死んでいた。胴丸や籠手の拵えは 景色のように瑞々しく映り始めていた。 小五郎の言葉が血に溶けるようにひょっ と、も とこの身体に吸い込まれていく。何を話遠くに小さく灯った家々の明かりが満天この地では見かけないものだ。間違いな 鎌倉勢の斥候だろう」 の星のように煌めいている。長い鍬を背く しても受け止めてくれる気がする。 七郎太は、小五郎の隣に座っている藤 恋をしている相手が嬉しそうに自分の負った農夫が遠ざかっていく。家族の待 話を聞いてくれるときの幸せは、比べるつ家に帰るのだろう。そこには温かい食太に青黒い顔を向けた。 かわい たの 「お主が殺したのか ? ものがないほどに愉しい。まさにそれと事と可愛い孫が待っているに違いない 「そうです。雷様がお一人で」藤太の代 同じように小五郎は多弁になった。喋り笑い声があり、愛する者がいる とうの昔に色褪せたと思い込んでいたわりに伽那が答えた。「雷様はもの凄く強 たくてうずうずしている自分に気づいて いのよ」 驚くと共に、そういう自分に声が上ずる風景が、小五郎の目に美しく輝き出して 「しかしー七郎太は額を手のひらで拭っ いる。かっ愛おしかった。 ほどに喜んだ。こ、ついう相手に向かい合 た。冬だというのに汗を掻いている。「人 うのは幼い頃の父以来ではないか、と思っ の手で殺したとは思えない死に様ですぞ」 行灯に火を灯そうかという頃合いに、 た。川向こうに残している奥や幼い息子 にすら、こういう感情を抱いたことはな七郎太が部屋に入ってきた。痩せて日焼「どういうことだ ? 」小五郎は聞いた。 これほどに垣根のない相手に初めてけした牛蒡のように黒い顔がほのかな灯・「顔が石榴のように割れている 「斬ったのではないのか ? りの中で青ざめている。 巡り会えた、と思った。 「まるで違う。こう」七郎太は自分の顔 小五郎の目に、今まで飽きるほど繰り「伽那様からお聞きした場所を確かめて 鍼一本、灸ひとっーー人助け、世直しいたします′・ 江戸は深川蛤町で鍼灸師を営む染 谷は、腕の確かさでクッポ師なの異 名をとるほどの名手。世直しに奔 走する日々を描いた長篇時代小説。 定価 609 円 ( 税込 ) 【朝日文庫】 296 頁一 SBN978 ー 4 ー 02 ー 264576 ー 0 山本一カ あんどん きら 山本一カ こしら ASAHI お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞出版 49 火男