「ああ、そうだな。やつばり矛盾してる。けどね、あたしらを とにかく今、リオの耳に入れておかなければならない。即座 無視する理由が分かるなら、捕まろうがどうなろうが構わない に理解出来るか否かは、あまり重要ではない。 そんな思いで、カイが言葉を継いでいるように感じられたのと思ってる。オ 1 ティ 1 達は違うのかもしれないけど 「へえ・ : しい。なんだったら、犯罪じゃなくて 「きっかけはなんだって、 「な ? 戻って来ただろ ? 」 も善行でも : ・ 「あ、ああ、そうだな。あたしは、そんな深いところまで考え てたわけじゃないけど。もっとこうシンプルな、無視すんなよっ 「それホント ? 突然、カイが顔をぐいとリオに近付けた。 て感じで : ・ リオは思わず「へ ? ーと変な声を出してしまった。 「構って欲しいの ? オ 1 ティーと一緒で、自己顕示欲って奴 ? 」 そうではない。目立ちたいわけではないし、むしろ静かな生 「さっきの、ほら、犯罪でも善行でもって」 「あ、ああ、そうだな。どっちでもいい。なにか、考えがある 活を望んでいる。ただ、戸籍上存在しないことになっている地 のか ? 」 下住民を、ここまで徹底して無にしようとするのは何故なのか カイは「う、んとねえ , と腕を組み、ウロウロ歩き始めた。 先程のカイの話は、地下住民が野放し状態になっている理由の てすり 一端でしかない。リ オが知りたいのは、カイの言う「公にはし手摺にもたれて暗い空を見上げ、ロの中でなにかブップッと呟 き、屋上をぐるりと一周して戻って来た。 ないってスタンス」の理由だ。 「まあ、アイデアはないこともない。乗ってみる ? 」 「言わないってことは、積極的に嘘を吐いてることにはならな 「あ、いや、内容によるけど」 いかもしれない。けど、あたしらは確かにここに存在してる。 ( ( ( し力ないけど、まあ、 それを無にしたい理由が分からない 「そっか。そうだな。今すぐにつてわナこよ、、 しよっちゅ、つ起こることだから : : : 」 「捕まりたい、って意味じゃないよね ? 」 「しよっちゅう起こる ? だから、なんのことだよ 「ん ? ああ、そうだな。捕まりたくはない アイデアの中身はまったく擱めないリオだったが、なんとな 「捕まりたくはないけど、自分の存在は知らしめたいってこと ? 」 く、突飛なことだというのは予感出来た。 「まあ、そういう感じかな」 ( 第六回了 ) 「ははは、やつば矛盾してらあ」 343 Y. M. G. A.
「あんたも ? 」 の車に乗り込んだあとも、むしろそれまでよりいっそうの切実 義母は憤然として、新太に向き直った。 さで、沙知は同じことを感じたから。 「いや、俺はヒマだけど」 「何でわざわざ日曜日なの ? 」 義母はやはり続きを待っ顔をしたが、新太もそれきり何も言 沙知は言う。勲は返事もしなければ、振り返りもしない。い わなかった。「ちょっと」の理由は、新太にはもう説明してあっ つものホテルの部屋で、ハンガ 1 にコ 1 トを掛けている。勲は、 た。「英会話の友だちに、相談したいことがあると言われた」と コ 1 トや脱いだ服を沙知にさわらせるようなことは決してしな 言ったのだ。それを今、新太が義母に明かさないのはなぜだろ う、と沙知は考える。もちろん自らあらためて口にする気には 「日曜日は困るわ , ならない。 そのうえ誘いの電話は今朝、ほとんど起き抜けといっていし 「べつに急ぐことでもないだろうよ」 時間にかかってきたのだった。昼から出てこいよ、と、ちょう それまでほとんど口を利かなかった義父の一声で、やりとりど朝食のときの義母のような身勝手さと気軽さで。新太と隼は は打ち切りになった。めずらしく義母が反撥しなかったのだ。 まだ階下に降りていなかったので、辛くも気づかれずにすんだ もう食べるのやめていい ? と隼が言った。いいわよ、と沙知のだ。 は答えてしまったあとで、「ごちそうさまでしよ」と息子をたし 「返事をしないことに決めてるわけ ? なめるべきだったのだと気がついた。 沙知はとうとうそう言ってしまう。ずっと勲の背中を睨みつ けているせいで、自分はまだコートを着たままで、マフラーす 沙知は急いだ。 ら取っていない。勲はわざとらしく落ち着き払った手つきでコー 家を出てからバス停まではほとんど小走りになったし、バス トの形を整え、それからようやく振り返った。 に乗ってからも車が信号で止まったり、停留所に停まるたびに 「返事が必要だと思わなかったからさ」 苛々した。ひどく寒い気がした。薄曇りの寒い日ではあったが、 べッドのほうへ移動しながらそう言う。コ 1 トの下は今日は 実際の気温よりずっと低い、つめたい空気が自分を包んでいる スーツ姿ではなく、黒いタートルネックのセ 1 タ 1 にウ 1 ルの ような。あるいは逆に暑くて、熱波で息苦しくなっているよう パンツというスタイルだった。それらの服をコートよりずっと な感じもした。 無雑作に脱ぎ捨てて、勲はあっという間にボクサーショーツ一 そんな状態は、勲に会いさえすれば終わる。そう確信してい 枚という格好になった。 た。だから急いだのだ。早く楽になりたくて。だが、間違って 「やるの、やんないの ? 」 いた。ここを出れば寒くなくなる。息ができるようになる。勲 勲のこういう態度は、私の反応に呼応したものなのだ。たと 井上荒野 372
【忍び秘伝ド ーメ 」ーーときわ書房・宇田川拓也氏 書 'H 「この妖異′・この感動〃これそ新・時代伝奇の傑作川 " ぬか。消えたと見せかけて、また襲って わかった。 感情を感じさせない二つの目が、左門 後ろの敵は体を低くして突進をはじめくるのではないか。 を見据えている。路上で燃える提灯の火 決して油断はできない。いつまた襲い を浴びて、男の身なりが知れた。黒装東ていた。すでに半尺ほどまでに近づいて かかってくるか、本当に知れたものでは を着込み、忍び頭巾のようなもので顔をきている。同じように黒装東に身を固め、 忍び頭巾をかぶっている。長脇差が得物ないのだ。 覆っている。 提灯なしで、左門は旅籠までの道を歩 提灯が燃え尽きた。男の姿が闇ににじのようだ。 いた。着物が汗で濡れそばっている。 その動きは、左門によく見えていた。 み、見えにくくなった。 この俺が、と左門は思った。これほど そのとき背後で殺気が沸き立ったのを、すり足で横に動き、刀を払う「、容赦なく まで緊張しているのか 左門は感じた。も、つ一人がまったく気配首を刎ね飛ばすつもりだった。 認めたくはないが、どうやらそういう だが、男は体勢をさらに低くして、左 を感じさせないまま、近づいてきていた ことらしい 門の斬撃をかわした。刃は、忍び頭巾の のだ。 俺も案外に小心者だな。 左門は振り返ろうとした。だが、その上のほうをかすめただけだ。男は闇の中 たカ、小心のほうが長生きできるらし 瞬間を逃さず、前にいる男がいきなり宙にそのまま姿を消した。 いからな。 背後の敵が左門は気になった。さっと を飛んだ。 肝が小さいことを、左門が恥じること 後ろを向いたまま、左門は刀を旋回さ振り返り、敵を捜した。だが、そこには どろりとした闇が横たわっているだけだ。 宙を飛んだ せた。手応えはなかったが、 終わったのか。いくらなんでも早すぎ 男が刀をよけるために体勢を崩したのが ASAHI お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞出版 447 柳生左門雷獣狩り
」当を一き驫 から求めていないかもしれません。子どもが欲しいから、結 婚はしたかったんですけどね。自分はもう、少女漫画の中 で体験した以上の恋愛は、興味もないし、できないなと思う。 するとしたら、自分の作品の中でしてみたいという感じです。 穂村ひとっ思うのは、さきほどの同性愛的世界という話に も関連しますが、あの頃の少女漫画の傑作と言われているも のはどれを見ても、ヒロインが子どもを作り、女性として成 熟していくという話はないですよね。永遠の少年性、少女性 枠組みが強化されつつある いまたからこそ読みたい 3 作品 あさのあっこの 3 冊 『半神』萩尾望都 ー 74 年小学館文庫 取子の妹と繋がっている少女ユージーは妹に 複雑な感情を抱く。分離手術を受け別々の道を 歩み始めるが・・・・・・。「テーマの深さ、端的な表現、 想像以上の結末と全てが圧巻。あらゆる表現の 中で最高傑作の一つではないか」。 ナンキン・ロード 『南京路に花吹雪』森川久美 82 ~ 年白泉社文庫 19 年代の上海を舞台に、日本と中国の諜報戦 を描く歴史大作。人気シリーズとなり、番外編 も数作発表。「時代 & 舞台設定やスパイという 題材は革新的だった。登場人物の背景の書き込 み、掘り下げ方も見事」。 『ファラオの墓』竹宮惠子 ン ' 等の・ 74 ~ 76 年中公文庫 古代エジプトを舞台にニ人の青年の争いとそ の恋を描く大河口マン。「「風と木の詩」の退廃 的な美とはまた異なる、スケールの大きな活劇。 少年期特有の普遍的な、また各々の立場ゆえの 孤独や絶望がしつかり描かれている」。 穂村弘の 3 冊 『トーマの心臓萩尾望都 ー 74 年小学館文庫 欧州の寄宿学校で起きた、一人の少年の死を端 緒に、神、友情、愛を深く流麗に描く。「萩尾望都 とヘルマン・ヘッセは僕のなかで同じだった。 「これがばくの心臓の音きみにはわかってい るはず」という言葉が象徴的」。 ″「日出処の天子』山岸凉子 : 80 ~ 年白泉社文庫 厩戸王子 ( 聖徳太子 ) と蘇我毛人 ( 蘇我蝦夷 ) を 主人公に、飛鳥時代の歴史とニ人の深い愛憎を 描いた歴史ロマン大作。「山岸さんは「アラベス ク」や、ほかの怖い短編もとてもすばらしいけ れど、やはりこの作品に尽きる」。 こラ 2 , 「バナナブレッドのプディング』 大島弓子 77 ~ 78 年白泉社文庫 Z ン ( 彡 : 人とは少し違う感性を持った女子高生の恋を 独特の語り口で表現した連作。「この主人公は 駄目なんじゃないか。心がぐらぐらで、この世 界ではどうあがいても生きられないんじゃな いか。そして、彼女は私なんじゃないか」。 ※年は発表年、版元は現在入手可能文庫版 19 枠組みから解き放つ「 24 年組」のカ 。『ホットロ 1 ド』 にフィックスした作品がほとんどで : 、あのまま行くと子どもを早めに作りそうですが あさのやつばり『ホットロ 1 ド』だけ異質ですね ( 笑 ) 。 穂村佐々木倫子の『動物のお医者さん』なんて、現実を 徹底的に遮断してるでしよう。あのリアリティのなさが、 逆に現実のプレッシャ 1 をいかに作者が感受しているかの 裏返しだと思うんです。人間が恋愛するということを知ら 7
柚子の花咲く 斎は唇がわなわなと震えるのを感じた。 いを浮かべた。 た。略画式で、人や物の内面を提える感 これまで愛用してきた鼬白圭の筆が、粗 懐から、桐製の細長い木箱を取り出し、 覚を磨いているからである。 期せすして息が早まったが、素知らぬ水気の乏しい、かさついた手で差し出す。末な一品に思えて来る。 「こ、これは : : : 」 蕙斎が木箱を受け取り、蓋を開くと、 顔で応対する。 喉の渇きを覚えながら、貞助の顔を見 一本の筆が納めてあった。取り出し、翳 「略画式を学びたいと須原屋から聞いちゃ り始めた陽の光に穂先を晒す。毛の太さ上げた。 あいるが」 「どうだ、その筆で間違いはないか。な 「さよう。明日の午までに、全てを伝授は、意外にも狸の毛と同じぐらいだった。 らば、ただ今から、略画式の奥義を伝授 次に、左の手の甲に穂先を当ててみる。 していただきたい。すぐに江戸を離れね 穂先は、手の甲にうっすらと浮いた汗をしてもらおう」 ばならぬのだ」 元尾筆は魔性の筆だった。絵の技法に 蕙斎殺害について奉行所の吟味が終わたちまち吸い込んだ。 押しつけたときの心地よい撓り具合に長けた者ほど心を奪われる。一度でも手 るまで、しばらく江戸を離れるとの魂胆 まず驚く。反発の手応えは、粘りと繊細にしたら、とうてい手放す気にはならな か。冷や汗が一筋、背を伝った。 さを程よく併せ持っていた。筆を持ち上 「その前に、元尾筆を見せてもらおうか 貞助とて同じだろう。この筆を他人に 約東を果たした挙げ句に得たものが、つげると、しなやかな動きで、もとの形状 を取り戻す。いずれも、これまで経験の渡す気など毛頭ない。つまりは、遅かれ まらぬ偽物であっては困るからなあ」 早かれ蕙斎を始末するつもりなのだ。そ 貞助は、蕙斎のささやかな抵抗を楽しないものだった。 予想していた以上に上質な感触だ。蕙れでも筆の魔力に取り憑かれた蕙斎は、 むかのように、腹の底まで凍りそうな笑 介 橋 「生きていることが辛いと思える時、私たちには葉室麟の小説がある」縄田一男氏 ( 文芸評論家 ) 、称賛′・ ラ はむろりん 恩師殺害の真相を探るべく、青年藩士・筒井恭平は隣藩への決死の潜入を試みる 葉 ( 至麟愛とは、学ぶとは、生きる意味とは何かを問う、感動の長篇時代小説。定価 1 、 785 円 ( 税込 ) 哭判、 0 , , 。 0 = 。「 , , 。 ~ 、当。。、 ゅ ひる ず しな はつけい お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞出版 A S A H ー 83 隈取絵師外伝「忍者絵師」
オーティ 1 がそれを初めて耳にしたのは、昼間に地上に出て など象徴的なものを残して逃走する、大胆不敵なパターンだ。 次の襲撃場所を模索している時のことだった。 一刻も早く窃盗団の名称を考案しなければならない、一广 1 その前夜、襲撃したビルの近くを通り掛かると、警察の規制ダー的存在である自分の一存で決めても良いのだが、民主的に 線の外に野次馬が集まりちょっとした人垣が出来ていた。 皆の意見を聞いておきたい。 からす 「鳥に襲われたらしいよ」「また鳥か。警察はなにやってんだよ」 そういったわけで設けられたミーティングだった。 そんな言葉を聞き、オ 1 ティーは思わず「誰が鳥だコラ」と 「え、つと : : : 」 擱み掛かりそうになったという 一刻も早く眠りたいニッキが手を上げた。 誰が言い始めたのか分からないが、気付けば自警団や用心棒 「鼠賊って言葉があるじゃん ? 大昔の盗賊の蔑称だっけ ? の間でも、ネット上でも、「鳥ーという呼び名が定着しつつある。 あれを逆手に取って、カラスゾクってどうですかね ? 」 「上手いこと言うね。地上を駆け回ろうが空を飛ばうが、結局 「う、ん、カラスゾクか。音感はイマイチだけど字面は悪くな は都会の嫌われ者ってことか」 いやいや馬鹿か」 リオはそう言って笑ったが、オ 1 ティ 1 は「冗談じゃねえぞ」 と珍しくリオに喰って掛かった。 「烏賊じゃねえか 「鼠だの鳥だの呼ぶってことは、俺達をその程度の存在と認識 リオとオトヤを除く全員が大爆笑し、オーティーの「明日ま してるってことだろ ? 本当はビビってやがるくせによお でに各自、考えといてくれ , という言葉でミ 1 ティングは終わ 集められたメンバ 1 の多くは「なんだ、そんなことかーとい ろうとした。だが、 う感じで顔を見合わせた。 「あのお : : : 」 「鳥って、鼠よりマシじゃない ? 恐る恐るという感じで、オトヤが手を上げた。 「うん、ちょっと格好いい感じもするよ 彼もまた、窃盗団がアフロを駆って仕事をするようになって ただ 「そもそもさ、名前なんてどうでもよくない ? 」 からずっと不満を蓄積させている一人だ。但し、理由はオ 1 ゴンザ達がそう意見すると、オーティ 1 は「いや、駄目だ」 一アイ 1 とは一起、つ。 と激しく頭を振った。 「なんで僕はアフロに乗せて貰えないの ? 」 「名前こそが大切なんだ。世の中にどう認識されるかってこと アフロの操縦は、カイを除けばリオとオーティ 1 がずば抜け は、俺達の存在意義そのものなんだ」 て上手い。それ以外には、構造をある程度分かっているゴンザ そこでオーティ 1 は、遠い昔の窃盗団よろしく自ら名乗りを とスズキがカイ日く「まあまあ」で、次にコプとニッキも「仮 上げることを思い付いた。盗みに入った場所に千社札や折り鶴免かなあ」ということで危険な状況下でなければ操縦を許され 三羽省吾 334
いたせいかもしれない。結局、勲は酔いから醒めた。そして何 トの二階のべランダから落ちて、打ち所が悪くて死んじゃったっ ていう話が、卒業生の間で結構広まっていたのよ。知ってた ? 」らかの後悔をした。あれはそういうことだったのだろうと沙知野 上 はあとになって考えた。行為のあと勲は眠り込んだが、沙知が それは嘘だった。だがその「噂」の情景は、ありありと浮か シャワ 1 を浴びて出てきたときには、裸のままべッドの上に起 んできた。そうだ、これは最近私が見た夢なのだと沙知は思っ き上がっていた。モノを見るような目で沙知を見ていたーっ 「鍵をなくして窓から入ろうとして落ちたっていう説と、じつまりそれは、まったくいつもの勲の視線だった。 下着を身につけようとして沙知が屈み込むと、うしろから腰 は自殺だったって説があったわ。その部屋はあなたの部屋じゃ を擱まれた。もう帰らなければならないからと抗うと、乱暴に なくて、恋人の部屋だったっていう説も。へんなふうに落ちて、 首の骨を折ったっていうところだけは緒。素直に落ちれば軽された。もっともそれは、沙知が従うことがわかっているうえ 傷ですんだかもしれないのに、受け身の姿勢を取ろうとして失での、計算された乱暴さだったけれど。それが終わると勲はべッ ドに体を伸ばした。上掛けを引き上げると、すぐにまた寝息を 敗したっていうところも」 たてはじめた。沙知はその横に滑り込んだ。 ははは、と勲は屈託なく笑ったが、「その頃って本当はどうし 勲が起きる気配がないまま、一時間が経ち、一一時間が経った。 てたの ? ーという問いには、「まあ、ふつう」と答えただけだっ つまり勲は、今夜はここに泊まっていくつもりなのだ。もちろ 勲はビ 1 ルを飲み干すとバーボンをロックで二杯飲み、沙知ん、一緒に泊まろうとは言われていない。この男はただやりた いことをやりたいようにやって、眠りたいから眠っているだけ は白ワインをもう一杯だけ飲んだ。沈黙と僅かなやりとりとを だ。そう考えながら、沙知は起き上がれなかった。早く帰らな 繰り返すことに神経を使いすぎて、沙知は時間の感覚がなくなっ ければ。遅くなればなるほど、家族へ説明のしようがなくなっ ていたが、時計を見ると、店にいたのは一時間足らずだった。 てしまう。焦りながら、ずっと勲の寝息を聞き、ほんの少し身 とい、つのは、勲がそ、つし ふたりは店を出、ホテルを出た じろぎすれば触れられる距離にいる勲の体温を感じていた。 た、とい、つことにほかならなかったが。 ホテルの前で勲が拾っ たタクシ 1 に、ふたりは乗った ( 勲は今日、自分の車で来てい とい、つことに、 ソフアの下に落ちていた紙は隼の雑記帳から落ちたものらし でなければバ 1 で飲めるはずもない 沙知は今さら気がついた ) 。タクシ 1 を降りたのはいつものラブく、広げてみると遺跡の絵が描いてあった。 もっとも遺跡だというのは、あとから気がついたことで、最 ホテルの前だった。 初は何の絵なのかわからなかった。ただ「みように大人びた絵 そこでの勲は、、 しつもの勲だった。いつもより幾分しつこく、 熱心で、幾分やさしいような感じもしたが、それは彼が酔ってだ」と感じたのだった。
「すごい、気持ちいいね」 両手を横に伸ばし、思いっきり深く息を吸い込んでみる そして、吐き出す。 「ねえ、空気が美味しいって感じ。教室とは全然、違うよ ね」 返事はない。後ろを向くと誰もいなかった。 久樹さんはパッチワークのカバンを提げたまま、変わら ない足取りで歩いている。菰池くんは二メ 1 トルほど離れ て後に従っていた。 「ちょっと、菰池くんー 菰池くんに追いっき、白いシャツの腕を引っ張る 「少し薄情じゃない」 「薄情 ? 何が ? 「勝手にいなくなったりしないでよ。あたし、一人でしゃ べってたじゃん。もう、恥ずかしいー 「だって、久樹さんが止まんねえんだもの。おれとしては、 ひたすらついていくしかねえだろう」 せりふ 忠実な大みたいな科白だ。おかしいような、いじましい ような複雑な気分になる。菰池くん、もうちょっとしつか りしなよと、背中を叩きたいような心持ちにもなる。 「あっ、止まった」 菰池くんは尾行の相手を確認する探偵よろしく、首を伸 ばし、前方を凝視する。 屋上は薄緑色の網状フェンスに囲まれている。そのフェ ンス近く、給水タンクの影が落ちている場所に久樹さんは、 ビニ 1 ルシートを広げていた。工事現場などで使われてい る、あの、青いシートだ。摸様も飾りも一切、ない。そし て、けっこ、つ、大きい あたしと菰池くんは、顔を見合わせ、どうしてだかうな ノトまでゆっくりと歩いていった。 ずき合い、、、 1 唐突に、菰池くんがくしやみをする。日溜まりと物影で は温度差がかなりあるのだろう、シ 1 トの辺りは肌寒いほ どだ。 「座っていいー あたしが尋ねる。 久樹さんが答える。答えながら、カバンに手をつつこむ。 カバンと同じパッチワークの袋を取り出す。お弁当の包み だ。かなりの大きさだった。当然、中身のお弁当箱もかな りの大きさだ。単行本ぐらいありそうだった。しかも、一一 段重。 「久樹さん : : : それ、一人で食べるの ? ー 「そうだよ。当たり前でしよ」 当たり前なのかな。あたしは、手の中の包みをシ 1 トの ラ 上に置いた。あたしのお弁当箱も二段重だけれど、とても 小さい。久樹さんのが単行本だとしたら、ちょっと大きめグ レ ア の文庫本ほどだ。 「あんた、これつほっちで足りるの ? ほんとに ?
私を変えた この一冊 へ生活の拠点を移した。 外から見るとざっくばらんな印象があ るが、イタリアは堅牢な階級社会で成り 立つ国である。外国から来て、さて自分 はどの階級に属すのだろうか、と迷い子 のような気持ちだった。 まもなく、極東からの外国人は階級社 会の外のカテゴリ 1 であり、確固とした 自分を持たないとここでは根無し草同然 なのだ、と知った。 どこにも属さない、という感覚は、自 同い年の友人から、引っ越し通知が届らかもしれない。やっと落ち着いたと思っ営業の私にとってはむしろ楽だった。仕 た矢先に、もう次の引っ越しが待ってい 事は、イタリアのニュースを日本のマス 九十九年期限の借地に自ら設計して新るという具合だった。転勤は父の出世の コミ業界に打電する通信社業務である。 すみか 築を建て、「終の住処です」と、文面に証しだったが、先が寸断されたようにも いったんミラノで段取りをつけたのち、 あった。 見え、子供心には『一寸先は闇』という 思うままに各地へ行った。 そういう未来永劫の安定が、私はとて感じもした。 日帰りで訪ねることもあったが、たい も苦手である。 引っ越し先に合わない物は、処分せざるていはしばらくその地に暮らした。車を 父親が転勤の多い仕事で、幼い頃からを得なかった。その時点で必安なものだ持たないときは、電車で。電車の通らな 数年毎に引っ越しを繰り返して育った。 けが家財であり、一生ものは持たなかっ いところへは、バスや知人の車に乗って、 家から家、といってもどちらも社宅で、 さしたるあてもなく移動した。 両親も私たち子供も、住むところに愛着 引っ越しの度に手元に残るのは唯一、 どこへ行っても、着いた先に過度の期 も未練も感じなかった。毎度、遠く離れ暮らした土地で知り合った人たちとの縁待はしない。新しい地を訪ねることより、 と、本だった。 たところへの引っ越しで、新しい土地に 移動そのものが目的になることも多かっ 慣れるのに気を取られ、それまでの暮ら しを懐かしがっている余裕がなかったか そういう一一十数年を送って、イタリア そういう旅の最中にいつも頭の中にあっ 行く先を探す旅 内田洋子 text by Uchida イ ko illustration by Yamamot0 kanako し、 0 0 386
亀シはなんら臆することなく、 「はい と応えた。堂々たるものである。 亀シの「交信能力ーを仮縫氏が治療に使う、そのことに ついて、昨夜海子は滔々と自説を述べた。 「たとえば亀子に、あなたは実は前世天上界にいたのだが、 その昔人間界にいた頃に恩を受けたひとの子孫が、今苦労 しているのを見て、なんとか助けてやりたいと、この世に 生まれて来たのだ、と言われたひとがいるとする。そうす ると、そのひとは、ああ、そうであったか、と深く納得す るの。自分がこの世で感じていた生き難さは、実は自分が そもそも天上界のものであったからなのだ、こんな下賤の ものたちとうまくやっていけるわけがなかったのだ、とい う納得。自分の肉親たちについても、こんなひどい一族、 と思っていたけれど、あまりに悟りから遠く、見ていられ ない、この一族を助けてやらなければ、と実は自分が天上 界に在るとき、一念発起してこの世に生まれてきた、もと もとそのくらいひどいんだから、今苦労していて当たり前 だ、という深い納得。自分自身に対するプライドは損なわ ずに、自分の現状を肯定できる : : : 。私、それで生きやす ししと思、つのよ くなったり症状が軽快するのであれば、、、 亀子はその辺り、私思うに、直感ででっちあげるのではな いかしらねえ : : : 亀子にはわかるのよ、どういう『物語』 がそのひとに一番『効く』か。本人が意識してやっている 歩 のか無意識でやっているのか、よくわからないけれど、で もあの兄妹の確固たる感じは、どちらにせよ、使命感があ木 るのだと思う。私、よくなればなんでもいいのよ。だから ね、亀子がうちの先祖について、何をいおうが、一応、受 け入れてちょうだい。山幸が、そういうのばかにしてるつ てのはわかってる。わかってるけど、今回は、信じてちょ いや、信じてるふりをしてちょうだい。いやいや せめて、彼女がいうことに突っかからず、揚げ足を取らず、 邪魔をしたりしないでちょうだい : 私がいつ、「突っかか」り、「揚げ足を取」り、「邪魔をし たり [ したというのだ、と いいたかったがぐっと堪えた。 確かに、我々はこの痛みから解放されたいのであって、解 放さえされれば、その手は何であろうが構わないのだから。 それで、この展開にもあくまで中立の立場で巻き込まれ ていこうと思ったのだった。竜子さんは静かに、 「私たち、そういう方を探していたのですよー その前よりも低めの声でいった。 「ことの発端は、教育委員会なのです」 ′ハよ たぶん亀シもーどういう話になるのか見当も つかず、泰子さんがつくってくれたミックスサンドとカッ サンドをそれぞれ神妙にロに運びつつ、黙って耳を傾ける しかなかった。 ( 第七回了 )