しゅうん なしと云はせん事残念なり、珠運命の有らん限りは及ばぬ力の及 比べてみようー。 わすき つく ぶ丈ケを尽してせめては我が好の心に満足さすべく、且は石膏細 たうじん うつぶん いくぶん あした さびしさ ゅふべきのふ みやこ 《都さへ : : : 蕭條いかに片山里の時雨あと。晨からタまで昨日もエの鼻高き唐人めに下目で見られし鬱憤の幾分を晴らすべしと、 たて しやか いっかうせんねんちかひさが みねまっ こがらしふきとを 今日も木枯の吹通して。あるほどの木々の葉ー峯の松バかりを残可愛や一向専念の誓を嵯峨の釈迦に立し男、齢は何歳ぞ二十一の もりほねだ おほかた おと やまおもやせあは してー大方をふき落したれば。山は面瘠て哀れに。森は骨立ちて春。》 ( 幸田露伴『風流仏』 ) すさ 凄まじ》 ( 尾崎紅葉三人比丘尼色懺悔』 ) この文章が尾崎紅葉のそれに比べて分かりにくいことだけは確 かである。長いワンセンテンスの末に《齢は何歳ぞ二十一の春。》 《都さへ : : : 》と言いさして、その後に「まして」の一語もなく とあるから、文章全体で誰かのことを語っているらしいことは分 いきなり《蕭條いかに片山里》と続けるところが、オシャレであ げんぶん ぶんしようざいらい がぞくせっちう る。紅葉は前書きで《文章は在来の雅俗折衷おかしからず。言文かるが、その「誰か」がどこに隠れているのかはよく分からない。 とら も いろ / ー、き すえほう いっち 主人公となるのは引用文の真ん中辺にいる《珠運》で、彼は仏 一致このもしからずで。色々気を揉みぬいた末。鳳か鶏かー虎 さ、つざ、つ はんだん ねこ われ いつぶうゐゃうぶんたい か猫か。我にも判断のならぬか、る一風異様の文体を創造せり。》師である。彼はかなりの腕前だから、運慶の作さえ知らない一般 せけんざいらい へた ( 同前 ) と一応はヘり下って、しかし《世間在来の文とは。下手なり人は誉めるが、止利仏師 ( 鳥仏師 ) のレベルを知る本人は恥ずか おもむきこと よむひといつけん さくしやすこ しくて、自分に納得が出来て人に誇れるものを彫り出したいと嵯 にも趣を異にすれば。読人一見してつらいといふ。作者は少しも ひとみー、なに もつば つらからす。我つらからざるを人々何ゅへにつらしといふや。専峨の釈迦堂で誓願を立てたのが二十一歳の春ーと言われれば分 , 、と、つ さいどくごめんだうこ かるが、「だったらなぜ、それがすぐ分かるように書かないか ! 」 ら句読をたよりに再読の御面倒を請ふ。》 ( 同前 ) と開き直っている。 と、二十四歳の正岡子規なら言っただろう。 一一葉亭四迷の『浮雲』や山田美妙の『武蔵野』が登場したのは この二年前だが、尾崎紅葉は言文一致体なんかどうとも思わす、 幸田露伴の小説は、普通の説明のようには説明をしない。とい うよりも「説明する」という行為の野暮ったさを嫌って、正岡子 「自分は新しい文体を創った」と自負している。尾崎紅葉が文章を 書くのに苦吟し続けたという話は有名だが、それを正岡子規は《こ規の言、つ《人に解し難いやうな文章》にしてしまう。だから、な Ⅲ にを語っているのか分からないまま《三尊四天王》以下の仏教や れ位のものならば予自身でも書ける。》と一蹴してしまう。 て め 仏像に関する語が乱立する中へ追い込まれ、その末に《齢は何歳 これに対して、幸田露伴の文章はどうか 求 ぞ二十一の春。》で止まるから、「この文章のどこかに " 二十一歳を きようちゅ、つをさ さんぞんしてんわうじふにどうじじふろくらかん 近 の男 ~ がいるのか ? ーと読む者は思って、「それは誰だ ? ーと改め 《三尊四天王十二童子十六羅漢さては五百羅漢までを胸中に蔵め 、つんけい なたこがたな て鉈小刀に驂り浮かべる腕前に、運慶も知らぬ人は讃歎すれどもて探すことになる。正岡子規だって、《非常に読みにく、て殆ど解れ こころざ わざ とりぶっし 鳥仏師知る身の心恥かしく、其道に志す事深きにつけておのが業することが出来なかった》と言っているのだから、それを恥すか こ、につほんびじゅっこく ひだたくみ の足らざるを恨み、爰日本美術国に生れながら今の世に飛騨のエ匠しがる必要はない。文章を書く幸田露伴は、文章で遊んでいるのだ。 つけ われ かたやまざとしぐれ 0 ぶん のこ た いくっ かっせつかうざい
はずだが、それを言う前に正岡子規の言うことを実証しておこう。 出来なかった》正岡子規は、その理由をこう説明する まず、坪内逍遥の『当世書生気質』 《尤も其時紅葉露伴など、いふ人は既に西鶴の本を読んで居て西 、つきょ うつ ばくふ 鶴調をまねたのであったが、予の趣味は尚ほ馬琴流の七五調を十 《さまる \ に。移れバ換る浮世かな。幕府さかえし時勢にハ。武 としごと ときおほえど と、つ、やう 分に脱することが出来なかったのである。それは雅俗折衷と称す士のみ時に大江戸の。都もいっか東京と。名もあらたまの年毎に。 さえ ひら きせんじゃうげけじめ 開けゆく世の余沢なれや。貴賤上下の差別もなく。才あるものハ る坪内氏にあっても尚ほ多少この旧套を脱する事が出来ないので、 、つり・ もち くろぬりばしゃ むす たしか 妹と背鏡 ( 逍遥の小説『妹と背かゞみ』 ) などの中には慥に七五調用ひられ。名を挙げ身さへたちまちに。黒塗馬車にのり売の。息 ひげたくは おほどほり なまへ の処もあったやうに記憶して居る。所が、この西鶴調の読みにく子も鬚を貯ふれば。何の小路といかめしき。名前ながらに大通路 はしく ーカ げしゆくるまや いのもいく度も読返すうちに自然にわかるやうになった許りでな を。走る公家衆の車夫あり。》 ( 坪内逍遥『当世書生気質』第一回 ) く、その西鶴調の処が却て非常に趣味があるやうに思はれて、今 見ての通りストレートな七五調で、句点の位置がこれをしつか 度は反対に文章の極致は西鶴調にありと思ふた位であった》 ( 同前 ) り強調している。引用は冒頭部で、だからこそ様式的な七五調に あわしまかんげつ なっていると思われるかもしれないが、その後の地の文もこの通 淡島寒月という人物がいた。坪内逍遥と同年のこの人物は、「小 説も書く趣味人 , という当時には珍しくもない存在で、「愛鶴軒 . りの七五調である。地の文は文語体の七五調で、会話になると江 を号とする西鶴本のコレクタ 1 だった。彼はまだデビュ 1 前の露戸の滑稽本以来のリアルな喋り言葉になる。雅文語体と俗ロ 伴や紅葉に自慢のコレクションの西鶴本を貸して読ませた。だか語体がドッキングしたから、雅俗折衷である。真面目な馬琴は俗 ら正岡子規の言う《紅葉露伴など、いふ人は既に西鶴の本を読ん な喋り言葉を使わなかったが逍遥は使う。こんな感じである で居て》は事実なのだが、これを逆に考えると、露伴、紅葉デ みやが きみどこ すがは きみいまかへ ピュー前の明治一一十年代初頭に、井原西鶴の作品はそれほどポピュ 《 ( 書 ) ャ須河。君も今帰るのか ( 須 ) ヲ、宮賀か。君ハ何処へ行 はなし しよもっ ラ 1 ではなかったということが分かる。だからこそ淡島寒月は「愛」って来た ( 宮 ) 僕かネ。僕ハいっか話をした。ブック〔書籍〕を したや おぢ まるや 鶴軒」などとストレ 1 トにコレクタ 1 である自身を誇示するよう買ひに。丸屋までいって。それから下谷の叔父の所へまはり。今 わがはい まだもんげんだいじゃうぶ 帰るところだが。尚門限ハ大丈夫かネ工 ( 須 ) 我輩のウヲッチ〔時 な号を名乗る。それで、尾崎紅葉は自分のデビュー作の文体を《一 じつぶんぐらゐ 風異様の文体》と言い、正岡子規も《読みにくい》と言う。しか器〕でハまだテンミニッ〔十分〕位あるから。急いて行きよった だいじゃうぶ し、子規がそれを言うのは露伴の『風流仏』だけで、紅葉がわざら。大丈夫じゃらう》 ( 同前・第二回 ) わざ前書きで《読人一見してつらいといふ》と言う「二人比丘尼 会話の初めには、まず話者の名を表わす一字が置かれ、会話の 色懺悔』の方にはそんなことを感じない。《読みにくい》のは「西鶴 うみじ ニュアンスを活かすための語尾の産字ーここでは《大丈夫かネ 風だから , ではなくて、順当な説明を嫌う幸田露伴のせいである みやこ こうぢ とこ ころほひ 315 失われた近代を求めてⅢ
それでおもしろいのだけれども、ばくがピアノとゆっくり回る風力発電の風車。 のような、客は眉間に皺を寄せて腕組み あらためて思ったのは、日本の戦後の大かっこいい ! をしてジャズを聴き、おしゃべりでもし 衆芸能のべースにはジャズがあるという 山下洋輔の日記を読むと、ジャズメン ようものなら店主に叱られるような店は ことだ。渡辺プロダクションをつくる渡たちは全国のホ 1 ルやライブハウスを演減った。また、フリージャズを頂点とし しん 辺晋も、ハナ肇とクレイジーキャツツの奏して回るとき、必ず地元のジャズ喫茶て , 難解 ~ なほど偉いというヒエラルキー 面々も、みんなジャズから始まった。 に顔を出す。ときにはジャズ喫茶、ジャ もなくなった。ジャズ喫茶の変化という ばくの生ジャズ初体験は山下洋輔トリ ズバーでライプを行なうこともある。ジャ よりも、ジャズの聴かれかたの変化かも オ + 国仲勝男だったと書いたけれども、 ズ喫茶という日本独特の文化について研しれない。 山下はピアノだけじゃなくてエッセイの究したのがマイク・モラスキー「ジャズ 村上春樹『意味がなければスイングは 名手としても知られる。『山下洋輔の文字喫茶論』だ。二〇一〇年に出たとき話題ない』は、タイトルだけ見るとジャズに 化け日記』は二〇〇一、〇八年の日記。 になり、書評もたくさん出た。 ついてのエッセイのようだが、シューベ ジャズメンとはなんと旅の多い種族であ ばくも二十代のころはよくジャズ喫茶ルトのピアノソナタやプル 1 ス・スプリ ることか。国内のホールやライブハウス にいった。レコードを買うお金かなかっ ングスティーン、スガシカオ、プーラン をまわり、さらには海外のジャズフェスたし、大きな音でレコ 1 ドを聴ける部屋クの話もある。いちばん最初の章はシ ティバルにも参加する。 もなかった。安物のヘッドホンで聴くのダー・ウォルトンというジャズ・ピアニ 圧巻は「ピアノ炎上」の再演。二〇〇とジャズ喫茶の巨大なスピーカーで聴くストについてのもので、ばくは名前も知 八年、金沢で行なわれた。オリジナルはのとでは、まるで音楽が違っていた。新らなかった。地味な演奏家で、村上は「パ 一九七三年に行なわれ ( グラフィックデ宿のや四谷のいーぐるや千駄ヶ谷シフィック・リ 1 グの下位チ 1 ムで 6 番 のピ 1 タ 1 キャットによくいった。 ザイナーの粟津潔の作品「ピアノ炎上」 ) 、 を打っている二塁手」にたとえている。 ばくは昨年の秋に埼玉県立近代美術館で モラスキーは日本全国のジャズ喫茶を野球をほとんど知らないばくでも、なん 流れていた映像を見た。この伝説のパ 歩き、店主たちから聞き取りをしている。 となくイメージはできる。しかし、マイ フォ 1 マンスを金沢幻世紀美術館の企画 一口にジャズ喫茶といっても、その形態ルスでもコルトレーンでもアイラ 1 でも で再演したのだ。 はさまざまだ。喫茶だけの店もあれば夜なく、こんなしぶいピアニストについて 夕暮れ時の海岸で炎と煙を吐くピアノ はジャズバ 1 になる店もあるし、ライプから始めるところがこの本のいいところ を弾き続け、やがて弦が焼け切れ、音はスポットになる店もある。 だ。少なくとも、マイルスについての本 出なくなる。海に沈むタ陽と焼け落ちる また、時代による変化もある。かってはたくさんあるし本なんて読まなくても 永江朗 280
かんじよげいもんし ありますが、小説は実際にノベルに対応するような言葉ではあ書いた歴史書の別巻として『漢書藝文志』があります。この「志」 は「こころざし」ではなく「しるすーことです。『漢書藝文志』 りません。 魯迅に「中国小説史略』という上下巻本 ( ちくま学芸文庫 ) がの中に、中国の重要な学者や学派 ( 諸子百家 ) を、陰陽家、儒 あります。中国の古代から清朝末までの主だった物語の要約と家、墨家、法家、名家、道家、縦横家、雑家、農家という九家 に分類して、最後に小説家というのを加えて十家としています。 歴史がうまく書かれています。これは皆さん、ぜひ手に入れて この小説家は特別で重要な九家の中には入らないものだが、一 読んでみてください。賢くなりますよ。 西四世紀後半から三世紀初めにいたとされている荘子が言っ応存在するから入れておきましようという程度のものです。ちゃ そう たり考えたりしたことをまとめたのが『荘子』、あるいは『荘んとした男のやることではないが、人のうわさや、皇帝の悪口 しゅう 周』ですが、この『荘子』の中に初めて小説という言葉が現れを言っていないかを書き記してまとめて報告する、そういう職 る。「小説にかこつけて名誉や美名を求める」というふうに出て業です。 しかし、孔子はこういうものにも意味がある、志は低いしつ くる。この小説というのは「稗史ーのことです。「稗というの まらない、男子がやる仕事ではないが、それはそれなりに無意 は中国語で細かに砕けた米のことで、砕けた米のような零細な 街のうわさを拾い集めて上司に報告する、そういう仕事をして味とは言えない、と言っています。基本的に中国における文章 はいかん というのは、政治に役立つかどうかです。最も政治に役立っ文 いる人が「稗官ーで、その稗官のまとめたものが稗史です。 章は歴史で、一番偉いのは歴史家であり、最高のジャンルは歴 説とは稗史のこと。 高論卓説に対して小論小説、いわば「日刊ゲンダイーや「タ史です。小説というのは何の役にも立たないとされている。 刊フジ」などの夕刊紙の記事のようなものですね。小説はまさ にそ、ついう小さな説とい、つことですが、この小説という言葉は ・古事記』はどのようにできたのか 日本には割と早く入ってきています。藤原前期、九世紀に既に 中国の小説と、われわれが言うノベル、モダン・ノベルとい 『弘仁私記』というプライベ 1 トな歴史書の序にこの小説、稗史 う意味の小説はまるで違いますが、これを押さえておくことは、 という言葉が出てきている ぶ 学 日本の文学を考える上でとても重要です。 中国は歴史の国ですから、一つの時代が終わるとき、あるい を 学 中国において、統治の基本は歴史です。天武天皇が『古事記』 は時代の進行中にも治世の歴史が書かれます。有名な『漢書』 文 で の中に、「小説家は稗官を継承するものである」というような文を編纂しようと思ったのもそれでしよう。壬申の乱という大き 大 な内乱を勝ち抜いた彼が、国を建て直し、統一するためには中東 章が出てきます。 ここは聞き流してもらってもいいのですが、班固という人が国のように歴史が必要だと考えた。 そ、つじ はんご
文章教室 文章教室 ( よ ( ぢの 定価 1 、 680 円 ( 税込 ) 四六判 978 ー 4 ー 02 ー 251077 ー 8 高橋源一郎 高橋源一郎 「名文以上の文章」が 書けるようになるって ほんと、つ ? ある貧しい農婦がかいた文章は ことばや文字に誤りがあっても 気にならない スティーフ・ショブスは 現代最高の文章家だ。 文章は誰のものか ? それは、ぼくたちのものだ。 好きな文章をみつけることこそ、 上手な文章への一歩。 「文章の専門家」や「エラい人」以外の、 みんなのための人気の文章教室開校リ この本で、ばくは、 ほくの好きな「文章」たちを、 あなたたちに読んでもらいたいと思った。 気にいってもらえると嬉しい。〈中略〉 きっと、どんな「文章の専門家」より、 どんな「エラい人」より、 あなたの書く 「文章」の役に立 0 てまの くれるはすだから。 ~ イ 、著者より、 朝日新聞出版 お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) 、インターネットでどうぞ。 http://publications.asahi.com/
に書いていますね。勅撰ですから、天皇の命で編まれたもので 当時、神々の話が継承されたものを記憶する記憶官の集団が いた。それを稗田阿礼にすべてを覚えさせた上で、太安万侶をす。どんな争い事でも、どんなに男女の仲が険悪になっても、 中心とした中国語 ( 正しくは漢語 ) のできる人たちが集まって、歌さえあれば何もかも収まるんだ、と。まさにそのことです。 稗田阿礼が語る大和の言葉を聴き、中国語で書き取った。『古事 歌を残したい。歌は声ですから、漢文に直してしまっては声 あふみ こころ 記』は基本的に中国語ですが、本当の中国語は序文だけで、あは残りません。「淡海の海タ波千鳥汝が鳴けば情もしのに いにしへ とは変体漢文と呼ばれる日本語に化けていく漢文です。われわ古思ほゅ」とは今の人はだれも読めない。柿本人麻呂がどのよ れは読み下し文でしか読みませんから、『古事記』が中国語で成うに詠んだかということすら、われわれにはわからない、漢詩 り立っているということを忘れていますが、これは大変な作業で読むしかないわけですから。日本は歌を天皇制の中心に置こ だった。大和の言葉で、声で語られた内容を、まだ日本語表記 うとした。日本語を書くシステムには、天皇制がある。、これが 法はないので中国語で書き取る。『古事記』をつくり上げていく歴史というものです。 三十年ほどの過程で、大和の言葉を何とか漢字で書き取ろうと する努力が、実を結んでゆく。大和の言葉を漢字で、しかも中 国語ではない漢字として使って書き取る。大変なことです。 なせそんなことをしたのだろうかと、私はいつも不思議でた まらない。世界中でこんな国はありません。文字を持った文明、 イギリスなら英語を、フランスならフランス語を、征服された 文字のない国家は採用していくしかありません。征服するとい うことはまさに文字です。ある意味では核兵器よりも強い武器 です。それが日本だけはどうしてこういうことになったのか 私は、歌を残したかったからだと思っています。もし大和朝 廷が、書くシステムとして漢語を採用していたとしたら、歌を 書き残すときも漢詩に翻訳するしかない。そうすると、「春過ぎ たへ て夏来るらし白栲の衣ほしたり天の香具山ーとだれも 歌えなくなる、中国語でしか読めなくなるから。それは天皇制 の問題とかかわりますが、天皇家は歌によって支配する、国民 を平定すると考えられていた。紀貫之が『古今和歌集』の序文 ・中国の古代小説「志怪」 しかい 中国の小説をさかのばると、まず最初に「志怪ーがあります。 しる 怪を志す。これは大体、後漢のあと、三国時代から随の南北統 一までですから、西暦三、四世紀ごろから六世紀ぐらいの間に 登場します。志怪は六朝時代に盛んに書かれました。 一つ、二つ、紹介してみましよう。会稽、これは今の浙江省、 紹興のあたりの地名で、盛逸は人の名前です。 会稽の盛逸がある朝起き出してみると、道にはまだ通行人 の姿もない。ふと見れば門外の柳の木の上に一人の人がいる。 身の丈は二尺 ( 六〇センチほど、辻原注 ) 、赤い衣をまとい、冠 を付け、うつむいて舌を出し、柳の葉においた露を舐めてい る。しばらくしてその人は逸に気づき、ぎよっとしたような 顔をしたと思うと、たちまち姿を消してしまった。 辻原登 114
一冊も本のない家で、いかにして小説家が誕生するのか ? 「 : : : 何だよ、急に」 そう改めて問われると、少しミステリ 1 つほいような気がし 「いえ。仮谷さんのケースと少し似てるなあって思いまして」 てきた。いけない、また夢センセの術中にハマっている、とは 「どういう意味だよ」 思うが、もうこの段階になると、夢センセにリードを任せる以 「専門は ミステリなんですよね ? 外ない。 「 : : : 誰に聞いた ? 」 「もって生まれた才能みたいなものなんじゃないですか ? 「さあ、誰でしよう ? 、つさんくさ すると、夢センセは胡散臭そうな顔をする。 わたしにだって秘密のカ 1 ドの一枚や二枚はあるのだ。 「もって生まれた才能ねえ。俺はそんなものは信じないね。元々 「で ? それがどうかしたか ? 」 の才能で生きていけるならモーツアルトもニートでいられたは 悪びれることなく、夢センセはそう尋ねる。 ずだ」 「どうして急に恋愛小説を書こうと思われたんですか ? 」 なるほど。才能も水をまかなければ実ることはないだろう。 今後の方針を考えるうえでも、聞いておきたい質問だった。 「彼女の母親、プルーベル礼子の作詞した歌を知ってるけれど、 「どうしてってー理由なんかないよ」 かなり文学性が高い。本を読まないタイプとは思えないんだよ 、え。あるはすです。夢センセが急に恋愛小説を書こうと ね」 思ったきっかけが」 「ということは父親のほうが本嫌いだったってことですよね ? 」 「ない。ただ : : : 書けちゃっただけだ」 「そのようだね。ただ、この父親、いくら自分が本を読まない その答えを聞きたかったのだ。 とは言っても、娘にまで本を読ませないってのは何か意味があ わたしはにつこりと微笑んだ。 るよ、つに思、んないか ? 「なら、仮谷さんもそうだったんじゃないでしようか ? 」 意味ーー 本を読ませない意味とは、何だろう ? 「つまり、夢センセがある日突然、才能によって恋愛小説を書 わたしはエスプレッソをぐいと飲みほした。 けたように、仮谷さんが小説家になったことにも理由はないん 窓の外はライトアップされた日本庭園。 です」 時計を見る。もうすぐ九時だ。 夢センセは面白くなさそうに顔をゆがめて黙りこくった。っ 沖笛謙との約東ーそろそろ二次会に顔を出さなければ。 まらない言い訳をして余計に叱られた思春期の少年のような顔 「夢センセ、たとえば夢センセはなぜある日突然、恋愛小説をつきだ。 書くようになったんでしよう ? 」 わたしは夢センセがわたしより年上であることを忘れて、思 森品麿 154
で、主人公を殺すことですとんと終わらせるのは残念だな、 もったいないなと感じました。私は『 ZC 6 』という作品 で、男の子二人のアクションものを書いているんですが、 「死なないで終わる物語を書こう」ということだけは心に決 めていました。 穂村あさのさんはご自身でそういう物語を書きたいと思 われたんですね。僕はひたすら「憧れた」という感覚のほ うが強いんです。ただ、大島弓子さんの作品が典型なんだ けど、台詞なのかヒロインのモノローグなのか、位置づけ のよくわからない言葉がいつばい出てくる。少年漫画だと ストーリー があって、キャラクタ 1 がいて、会話がそこに きっちりはまってるんですよ。だけど、少女漫画はだいぶ 様子が違う。「宙にいつばい浮遊しているけど、この言葉は 何 ? 」と。ポエムみたいに見えるわけなんです。その言葉 に惹かれたという経験は、今自分がやっていることと繋がっ ているかもしれません。会話なんかでも、例えば「絵をか いて暮らしているの」と訊くと、「絵はかかないで暮らして いる」と返したりする。日常会話とはちょっと違いますよ ね。リアルじゃないとか、意味がわからないとかいう判断 で、当時の少年漫画では許されない語法だと思うんです。 でも、「絵はかかないで暮らしている」と言う人の魅力は、 この世界に間違いなくあるなって。創作への影響という面 では、僕は物語性よりも、言葉寄りのところに反応したと 思います・。 穂村さんにとってあらゆる書物の中で「人生最高の一 冊ーは、大島弓子さんの『綿の国星』だとお聞きしたこと があります。 穂村偶然書店で手にしたこの作品が、僕が初めて買った 少女漫画でした。『綿の国星』以外にも、直前の『バナナプ レッドのプディング』とかもすばらしいし、後期の短編も すばらしいですけど、やつばり特別な作品のオーラがあり ますよね、『綿の国星』には。 あさのうんうん。 穂村僕が最初に出した本は、自費出版の歌集なんですが、 15 枠組みから解き放つ「 24 年組」のカ
この問題を考えるのに、恰好のテキストがあります。横光利光利一が「純粋小説論」を発表し、小林秀雄がそれに触発され 一の「純粋小説論ーです。 て「私小説論」を書いたような作家と批評家の関係というのは、 横光利一は大正末期から活躍していた作家で、戦後すぐ、昭それ以来ほとんど日本にはありません。 和二十二年に亡くなっています。彼は日本の近代文学にとって しかし、小説家は、小説は危機にある、批評家は、批評は危 非常に重要な作家です。つまり、小説家としての問題意識を、 機にある、と常に考えることが大切です。つまり、批評が批評 近代日本の小説家の中で最も先鋭的に持っていた作家だと思い 自身を意識すること、小説が小説自身を意識すること、これが ます。 ないと本当は近代小説が成り立たないということを中心のテ 1 彼は一九三五年、今から七十八年前になりますが、「純粋小説マに、これから話していきます。 論」という文章を発表しました。横光利一はその三、四年前に 『上海』という上海を舞台にした一種の冒険小説を書き、その前「純粋小説論」が書かれた一九三五年というのは、時代的にも に、これはゴーゴリを上回るような小説だと私は思っています非常に危機的な状況であったことは確かです。一九三〇年代、 が、『機械』を書き、『寝園』という見事な風俗小説を書いてい ファシズムが台頭してきている、三六年にはスターリンの粛清 ます。そのあとに「純粋小説論」を発表しました。 が始まっています。日本では、天皇制イデオロギ 1 が国家の根 これは本質的な小説論で、小説とは何か、どうあるべきか、 幹のイデオロギ 1 として確立された時期ですし、一一・一一六事件 小説というジャンルは今危機に瀕している、だからもう一度小 や上海事変があって日中戦争に突入していく時代です。文学の 説というものをあらゆる角度から考え直さなくてはいけない。 外側で世界は激動している。 月説というものを内部から、ラジカルに、真剣に考えてみよう ヒットラーが台頭してくる、日本もファシズムの時代に入っ とした。小説を小説たらしめるものは何なのか、小説が小説自 ていく。しかし、時代というのはいつも危機的状況にある。も 身を意識する瞬間というのはどこなのか、つまり近代小説そのし、二〇〇〇年から二〇一三年の十三年間を五十年後の人がど ものの起源に直接かかわっていきます。 んな時代であったかと見れば、たいへん危機的な状況にあった この論文が発表されたのは一九三五年の四月ですが、同じ年と思うでしよう。縮めてみるとそうなる。 の五月から八月にかけて小林秀雄が「私小説論」を発表します。 実際にその時、生きている人間には、なかなか危機というの 横光利一という優れた小説家が小説について考えた文章を読ん は認識できないものですが、時間的な距離をおいて過去を振り で、触発されてすぐに「私小説論」を発表しました。批評家と返ると、歴史は危機の連続である。世界史にしても日本史にし して小説をどうとらえるか、どう考えるか。これもまた、批評ても、ほとんど戦争の歴史みたいなものになっていくのは当然 が批評自身を問い直す非常に重要な論文です。一九三五年に横のことです。われわれの幸福な日常というのは、歴史的な課題 しんえん 辻原登 108
した作品である ) 。 そっくりに書くという手もあります。アルゼンチンの作家ホ ルへ・ルイス・ポルへスの『伝奇集』に、「『ドン・キホーテ』 ・はじめに の著者、ピエール・メナール」という短篇があります。ピエ 1 四年前三〇〇九年 ) の春にここ ( 法文二号館二番大教室 ) で、 ル・メナ 1 ルという架空の作家が、十九世紀後半、二十世紀、 『ドン・キホーテ』から『ポヴァリー夫人』『白痴』を中心に、 つまり近代文学を通ってきた一人の作家が『ドン・キホーテ』 ョ 1 ロッパの近代小説について、小説を書いている私自身がど をそっくり書いてしまう、しかもオリジナルとして書く。その のように読んでいるかということを話しました。その上で、 パスティーシュ ためにメナ 1 ルは、一六一五年にセルバンテスが「ドン・キホ 1 模作という文学における最も重要な手法について触れました。 テ』の後篇を書いて以降の文学をなかったことにする、記憶の つまり、われわれがものを考えたり、想像したり、あるいは 生きていることそのものがパスティ 1 シュであるという考え方中から消し去る。あるいは、それから起きた歴史的時間も全部 消し去った上で小説を書く。それがセル・ハンテスの書いた『ド が私にはあって、文学においてもだれかのまねをする。「学ぶー ン・キホーテ』と全く同じものになるという、ポルへス一流の は「まねる」からきていますが、まねるしか生きていく方法は 文学観に基づいた短篇です。 ないわけで、文学においても同じです。 それは無理な話というか、そんなことをしても意味はありま 最後は、ヘンリ 1 ・ジェ 1 ムスの『ねじの回転』という小説 を教室の諸君と一緒に読んで要約をしました ( 『東京大学で世界文せんが、パスティ 1 シュという考え方を極端まで推し進めてい 学を学ぶ』所収「第十講義」 ) 。要約ということは、エッセンスをつくとそっくりなものを書いてしまう、しかもまねをして書いた のではなく、オリジナルなものとして書いてしまうということ かむということですからパスティ 1 シュするために最も重要な 行為です。小説は要約できないという考え方もありますが、私が理論的には起きる。 ここでプル 1 ストの例をあげてみましよう。 は要約できるし、要約しなくてはいけないと思います。逆のこ プル 1 ストが『失われた時を求めて』の完成に至るまで、 とを考えてみましよう。われわれが小説を書こうとする。先ず スティ 1 シュによる修練を重ねていたことは有名ですが、優れ 何をやるか。われわれが夢見ている小説の要約から始めるでは た作家ほど、パスティーシュと創作との間の複雑で解きほぐし ありませんか。つまり、小説の構造を読み取るには要約するし がたい関係について考え、精通していたし、自身、パスティ 1 かない。読まないで要約はできませんが、要約した上で今度は シュをくり返してもいた。むしろ作品そのものが、先行するテ それをどのようにパスティ 1 シュできるかということを考えて キストのパスティ 1 シュであるとさえいえます。 みる ( 『ねじの回転』の要約のあと、私は『抱擁』という中篇小 谷崎潤一郎の『細雪』は『源氏物語』の、そしてジェイン・ 説を書いたが、これはまさに『ねじの回転』をパスティーシュ 105 東大で文学を学ぶ