正岡子規 - みる会図書館


検索対象: 小説トリッパー 2013年秋季号
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1. 小説トリッパー 2013年秋季号

進路だってコロコロと変わる。正岡子規と知り合う前の夏目漱石 書生気質』と出会った正岡子規は「哲学」を目的にしていたから。 そこでまた珍妙な煩悶が始まる。 は、建築家志望だったが、人から「日本で建築家はたいした仕事 をすることが出来なと言われて、志望を英文学に変え第一高 坪内逍遥のーと言うかべンネーム「春のやおばろ」の書いた 『当世書生気』によって「小説」なるものに夢中になってしまった等中学校の本科に進学する。それも明治二十一年のことである。 正岡子規は、哲学と詩歌小説を、質の違う対立するものと思って漱石だって、漢学好きだったのが「これからは英語だ」と方向転 いたのである。本当になにも知らぬまま次々と現れる新しいもの換をして、それから建築家志望になってまた英文学に戻るのだか に仰天する明治の第一世代の無垢さには驚いてしまうが、正岡子ら、似たようなものだ。 『当世書生気質』に衝撃の大感動を受けて、しかし正岡子規は「小 規が哲学と詩歌小説を「両立しがたい反対のもの」と考えていた理 由は、《哲学者ハ四角四面なる者にて、文芸の末技などに区々たる説を書きたい」とも「文学者になりたいーとも思わず、更には坪 ものにあらず。僧侶が小説を作りしこともなく、スペンサーが詩内逍遥以外の人間が書いた小説を読もうともしなかった。理由は えせ 歌を作りし話をも聞かざれパ也》 ( 正岡子規『筆まかせ』の内「哲《予の心底では世の中の似非小説家などが何事をするものかと頭か ら高をく、って見くびって居ったのである。》 ( 『天王寺畔の蝸牛廬』 ) 学の発足」 ) である。更に素敵なのは、哲学を人生の目的にしよう としたこの当時の子規が、イギリスの経験論の哲学者ハ 坪内逍遥崇拝と言うよりも、十九歳の時に読んだ『当世書生気 スペンサ 1 以外の哲学者を知らないままだったということである。 質』の感動をそのままにして審美学の方へ進んでいた正岡子規が それで哲学を志してしまうのだからいい度胸だが、哲学を目指次に衝撃を受ける相手は、同年の幸田露伴である。 しながらそれと対立するような詩歌小説にも引かれてしまう正岡 三正岡子規と紅露時代 子規は、「この相反する一一つを結び付けるものはないか」と思って、 詩歌書画の美術を哲学的に論ずる「審美学ーというジャンルの存 と審美学の方に進んでしまうことになる。 正岡子規は、我が強いというか異様にプライドが高い。八歳年 在を知り、「これだー 《小説なくてハ夜があけぬ》 ( 同前 ) と思うくらいになっていた子上の逍遥なら尊敬出来るが、それ以外の若い同年代の人間がなに Ⅲ 規は、「審美学」というものに出会って、自分の中に健在だった文をしても、「知らぬものか」という態度でいる。やっとこの章の冒 て め 人的資質を西洋的に提え直そうとしたのである。正岡子規がスペ頭に戻って、二十三歳になった正岡子規が第一高等中学で夏目漱 求 を ンサ 1 と出会うのは、明治二十一年二十二歳の時である。 石と知り合う明治一一十一一年、尾崎紅葉は「二人比丘尼色懺悔』で 代 もちろん、威勢がいいだけでなんにも知らず、おまけによそか文壇にデビュ 1 する。同年ながら既に帝国大学に進んでいる尾崎近 れ らの影響を受けやすい正岡子規だから、そのまま審美学の方向へ紅葉の成功を、帝大の手前にいる正岡子規はどう見たのか ? わ 失 突き進んだりはしない。すぐにまた方向転換を考える。明治生ま れの第一世代の前には、次から次へと新しい選択肢が現れるから、 《その頃であったと思ふが新著百種といふものが発行せられる事

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たとえば、《運慶も知らぬ人は讚歎すれども鳥仏師知る身の心恥風の小説の外は天下に小説はないと思ふて居った予の考へは一転 かしく》の《鳥仏師》は必要だろうか ? 《運慶も知らぬ》の受け して、遂に風流仏は小説の尤も高尚なるものである、若し小説を は、「それ ( ⅱ運慶 ) 知る身の心恥かしく」でいいはずだ。「運慶書くならば風流仏の如く書かねばならぬといふ事になって仕舞ふ た。》 ( 正岡子規『天王寺畔の蝸牛廬』 ) よりも止利仏師の方がレベルは数段上だ」ということを言いたい のかもしれないが、それをすることによって意味は些か分かりに それで、正岡子規は翌年の暮から『月の都』という長篇小説を くくなる。もちろん、幸田露伴はそんなことを百も承知で、ここ書き始め、年が明けた二月に幸田露伴のところへ持って行く。幸 に《鳥仏師》を投げ込む。その方が、文章がにぎやかになるからだ。 田露伴の号は「蝸牛庵」で、その住居は「谷中天王寺町 . だった 尾崎紅葉は、自身のデビュ 1 作で彼の工夫した文体について語っ つまり『天王寺畔の蝸牛廬』とは「幸田露伴の家 , というこ ている。「自分は新しい文体を創った」と思うカら紅葉はそれをする とで、正岡子規の原稿を読んだ露伴は「絶賛」なんかしなかった。 が、幸田露伴はそんなことをしない。『風流仏一の初めに前書きはな未完のままの『天王寺畔の蝸牛廬』は、子規が『月の都』を書か いが、デビュ 1 作の『露団々』にはそれがあって、しかしそこで幸んとするところで終わっているから、幸田露伴がこれにどんな批 さてお 田露伴が一言うのは、《文章のったなきは扨置き》だけである。デビュー 評を加えたのかは分からない。しかし、子規はその後も何度か露 に際しての謙遜は決まりもののようなもので、儀礼上それをする伴宅を訪ねた末に、小説家志望を断念することになる。一一十六歳 露伴は、自分の文章創作の上での苦労話なんかをしない。正岡子規の子規は、精神状態が不安定になり、友人に「この先はあまり露 に「なにを言ってるのか分からない」と言わせるような新しさを持っ伴のことを言わないでくれ」とか、「僕は小説家になろうとは思わ ているのに、幸田露伴は文体創造の苦労を語らない。語らないのは、 ない、詩人になりたいんだ」なんてことを言っている。「自分は幸 彼が彼のオリジナル文体の文章を書くに際して、苦労なんかして 田露伴になれない」と思うことが、よほど悔しかったのだろう。 いないからだ。「分かりやすさ」の前に、「文章のおもしろさ」や「に正岡子規は、そうして俳人への道を進んで行く。 ぎやかし」を考えて遊んでいるから、苦労を感じる必要がないのだ。 四井原西鶴がやって来る 幸田露伴の文体は、遊びが多くて破綻がない。そういう饒舌な 文章だから、おばこな正岡子規をとまどわせのだが、長篇の『露 私がしたいのは正岡子規の話ではなくて、正岡子規のあり方を 団々』を創刊間もない雑誌「都の花』に掲載した編集主幹の山田 美妙ー一歳年上の尾崎紅葉と共に硯友社を結成しながら先に独典型とする明治生まれの最初の文学青年のあり方だから、正岡子 立してこの雑誌のトップになった彼は、露伴の作を読んで、あっ規の出番は後一つの証言を除いて終わりである。正岡子規にして と言った。 さり「天才だ もらう最後の証言は、日本近代文学史の初頭に登場する井原西鶴 に関するものである。 正岡子規だ 0 て、彼にと 0 ては読みにくい一『風流仏』を何度も 読み返す内に幸田露伴の魔術にかかって、《そこで今迄は書生気質 「風流仏』を読み始めて《非常に読みにく、て殆ど解することが 橋本治 314

3. 小説トリッパー 2013年秋季号

とするが、正岡子規に特徴的な明治生まれの第一世代は、既に存在 している「新しいもの」と出会って、人生を変えてしまうのである。 《其後 ( 註】上京後 ) 共立学校へ行き始めて荘子の講釈を聞き、こ んな面白き本がまたとハあるまいと思ひていとうれしかりしが、此 ニなんにも知らない正岡子規 時にもまだ哲学なる者を知らざりし也。其後何によりて哲学なる者 つまびらか あるを知りしか詳ならざれども、余が哲学を目的とし誰がす、め 十九歳の春に「誰がなんと言おうと哲学ーとその志望を変えて ても変ずまじと思ひこみたるハ、明治十八年春の事なりき。》 ( 同前 ) しまった正岡子規は、その年の秋になると、今度は「文学 , と出 十九歳の正岡子規は当時のエリート校、大学予備門 ( 後の第一 会って衝撃を受ける。夏季休暇を終えて東京に戻った子規は、友 高等中学校 = 一高 ) の学生になっているのだが、それでもこのザ人の下宿で、世に出たばかりで継続刊行中だった坪内逍遥の小説 マである。 『当世書生気質』を手にするのだ。 正岡子規は三十六歳で死亡するが、死の月に刊行された『ホト 正岡子規が哲学にはまった理由は、簡単に説明出来るはずであ かぎゅうろ る。真面目な漢学少年だった正岡子規は、「説得力のあるヘんな考トギス』誌には『天王寺畔の蝸牛廬』という彼の未完の文章が掲 え方」を知らなかった。ところが東京に出て来た子規は、叔父か載されていて、そこには「当世書生気質』と出会って衝撃を受け よもやま るまでの子規の読書体験が書かれている。それはそのまま、明治 ら四方山話の末に「聞いたことのない公理ーのような話を聞かさ れて興奮してしまうのである。たとえば、《墨を白紙にこばせバ紙の世に生まれた若い読者の目で見た草創期の近代日本文学史でも あるから、少し引いてみる ハ黒くなる。実におかしきことなり。又男も女の着物を着け女の まげをいへば ( 結えば ) 女と少しも変ることなし。併シ矢張男ハ 子規の父親は六歳の時に死んで、漢学の師でもある母方の祖父 男にて、到底女とハいふべからず》 ( 同前 ) とか もその三年後に死んで、少年子規の教育を管轄するのは母親であ この思考と認識の体験が、十代の子規にとっては「哲学ーなの である。子規にとって「哲学ーとは、「面白い考え方との遭遇 , で、 る。この母が《小説などを読むと邪道に陥る様に思ふて居たので、 Ⅲ 「哲学書によって哲学と出会った」ではない。だからこそ、《何に学校の教科書か毎朝素読してゐた漢書類の外は一切読まさぬとい て め ふ方針であったのである。》 ( 正岡子規「天王寺畔の蝸牛廬』 ) よりて哲学なる者あるを知りしか詳なら》ずになってしまう。 求 を ーしろんなものと遭遇し 十代の正岡子規のおもしろいところよ、、 《十四五歳にもなれば多少は自分の意見も通すことが出来るやう 代 近 になって、其貸本屋にある小説の中で馬琴の書いたものは八大伝、 て感動してしまうことである。江戸時代の武士的教養の中で真面 れ 目に生きている正岡子規は、明治の新しい教養と出会って、「こん弓張月などはいふ迄も無く、其他十冊二十冊の短篇に至る迄、馬 わ なものがあったのか ! 」と激烈な反応を示すのだ。彼等より少し上琴物といへば必ず読んで読み尽してしまう程であった。馬琴以外失 の本でも水滸伝とか神稲水滸伝とか武王軍談、三国志とか、其他 の世代の人間は、新しいものに驚くやこれをただちに取り入れよう

4. 小説トリッパー 2013年秋季号

だかっ は漢字で考え漢詩を作るのが好きな漢学少年になっている。それ ハ勿論蛇蝎視したり。それよりハ寧ろ法律か政治かにきめんと思 が政治少年に変わってしまうのが、十六歳の年である。 ひて、無理にも目的を定めて某氏にいひわけしたり。何となれバ、 その明治十五年は、前年に議会開設が決定され、自由民権運動余ハ某氏の言に感じ、目的なきハ愚者なりと思ひし故也。而して とその弾圧が高まる時期で、小学校を卒業した北村透谷がプ 1 太此時ハ勿論哲学とか文学とかいふことハ少しも知らざりし也。名 郎状態からやがては自由民権運動に接近して行くような時期だが、 だに聞きしことなかりし也》 ( 正岡子規『筆まかせ』の内「哲学の 少年子規の暮らす松山は、「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退発足 , 原文にない句読点ルビを補った ) 助の出身地である土佐の隣国だから、自由民権運動を通して正岡 子規が政治に目覚めても不思議はない。武士の教養である漢学は 《某氏》というのは、松山で少年子規に「将来の目的 , を尋ねた 「治世の学 , で、政治はまだまだ「漢文で語るよ、つなもの」だから、 人である。頭脳明晰でやがては当時の最高学府である帝国大学に 漢学少年の正岡子規にとっては理解のしやすいものでもある。 入ろうという人が、その数年前には「将来の希望を尋ねられて答 かくして、十七歳になった正岡子規は政治家を志望して地元の えられないのはバカだから、なにか考えなければ」と考え、「哲学」 中学を中退し、東京にいた叔父を頼って上京する。いかにも自由 とか「文学というものが存在するのを知らないから、「志望は政 民権運動時代の少年のようだが、北村透谷のあり方とは違って、 治 . と答えてしまっているのである。これが、江戸時代とは縁を 正岡子規のあり方はもう少しとばけている。なぜかというと正岡切ったところで生まれた、明治の第一世代の実情である。そう考 子規は、積極的に政治家になりたかったわけではないからだ。 えると、子規と同年の漱石が書いた《どこで生まれたかとんと見 松山で少年子規は、人に「将来の目的を定めよ」と言われた。 当がっかぬ。何でも薄暗いじめじめしたところでニヤ 1 ニャー泣 漢学少年の子規は、漢詩を作ったり漢文を書いたり絵を描いたり いていたことだけは記憶している。》という『吾輩は猫である』の する「文人ーに憧れていたが、堅い漢学で育ったおかげで、自分一節が妙にリアリティを持って感じられる。 の目的を「文人になることーなんかにしてはいけないと思って、 少年正岡子規が松山の中学で熱心に演説をしたり、自由民権関 政治や法律への道を志したのだと、自分で言っている。政治への係の校内雑誌の創刊を計画したりする政治活動をしていたことは 道を志す正岡子規のあり方は、実のところ江戸時代の真面目な武事実で、政治家志望で上京して来たのも事実である。「他に選択肢 士のあり方と同じなのだが、なせそうなってしまったのかと言う がないから」という理由で「政治家志望」を口にしただけの人が と、明治の十年代半ばを過ぎているにもかかわらず、少年正岡子熱心に政治活動をするというのも不思議だが、明治の少年正岡子 規が「それ以外の選択肢ーをまったく知らないでいたからだ。 規にとってはこれが不思議ではなかった。正岡子規の「へんな選 択」は、その後も続くからである。 《詩人画師などハ一生の目的とすべきものにあらずと思考せり。 政治家志望で東京へ出て来た十七歳の正岡子規は、二年後その されバとて他にこれぞと思ふ者もなし。医者ハ大嫌ひ也。理科学方向を「哲学」に変えてしまうー。 橋本治 308

5. 小説トリッパー 2013年秋季号

谷はあまり一つにして語られないし、漱石と子規の交遊は有名で あっても、この二人と紅葉、露伴はあまり一つにして語られない 同年代であっても、早く世を去った北村透谷には、夏目漱石や正 岡子規との接点がない。しかし、同年の尾崎紅葉、夏目漱石、正 岡子規の三人は、へんなところですれ違っている℃「二人比丘尼色 懺悔』で文壇デビュ 1 を果した時、尾崎紅葉はまだ学生だった。 一明治生まれの第一世代 東京の帝国大学法科という不似合なほどに堅いところにいた紅葉 は、やがて国文科に転科するが、翌年の学年末試験に落第して、 明治二十二年 ( 一八八九 ) 四月、二十二歳の北村透谷は『楚囚いい幸いとばかりにこれを退学してしまう。夏目漱石、正岡子規 ににんびくにいろざん 之詩』を発表するが、同じ四月には尾崎紅葉が三人比丘尼色懺の二人が同じ大学の英文科と国文科にそれぞれ入学するのは、尾 悔』で文壇デビュ 1 を果し、その前の大日本帝国憲法が発布され崎紅葉が退学した後の新学期である。漱石の作家デビューは尾崎 た二月には、幸田露伴のデビュ 1 作である『露団々』の雑誌掲載紅葉の死んだ後だから、二人は関係ないと言えば関係がないが、 が始まる。このことは既に前々回に言ってはあるが、紅葉も露伴しかし、尾崎紅葉の去った国文科へ入った正岡子規と紅葉の間に も北村透谷を語る話の枕に使われただけだから、別段記憶に残る は微妙な因縁がある。同じ明治生まれの第一世代でありながら、 わけでもなかっただろう。そのためにここで改めて言ったのだが、 明治文学の有名人である透谷、紅葉、露伴、漱石、子規のあり方 『楚囚之詩』でデビューした北村透谷の死までの五年間は、文壇的は相互に関係があるとも思えないが、ここに一本の筋を通してく には「紅露」と並び称された尾崎紅葉と幸田露伴の時代で、北村れるのが正岡子規なのである。 透谷の時代なんかではまったくない。 正岡子規は四国松山藩士の子として生まれた。廃藩置県となっ 尾崎紅葉と幸田露伴は同年の生まれで、明治一一十二年には北村 透谷より一歳年長の二十三歳。この年齢は数え年だから、尾崎紅て、武士が髷を切り刀を差さなくてもよいようになったのが五歳 Ⅲ 葉と幸田露伴は明治維新の前年に生まれていることが分かる。明の年で、学制が出来上がって「小学校」なるものが出現するのは て め 治維新の年に生まれた北村透谷を含めて、彼等は、江戸時代から六歳の年だが、だからと言って子規はいきなり近代の子にはなら 求 を ない。幼い子規は髷を結い、外出の時には腰に小刀を差していて、 脱した明治生まれの第一世代なのである。同じ第一世代には夏目 代 漱石と正岡子規もいる。作家としてのデビュ 1 はずっと遅いが、 母方の祖父が旧松山藩の儒学者だったから、小学校に入ると同時 れ 漱石は紅葉や露伴と同年の生まれで、彼と親しかった俳人の正岡 にこの祖父から漢文の教育を受けている。 わ 子規の生まれも同年である。 明治の第一世代として生まれても、少年正岡子規を育てたのは、 同じ明治生まれの第一世代でありながら、紅葉、露伴と北村透江戸時代以来の武士の教養である漢学で、十代の半ばまで、子規 第四章紅露時代 こうろ っゆだんだん

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はずだが、それを言う前に正岡子規の言うことを実証しておこう。 出来なかった》正岡子規は、その理由をこう説明する まず、坪内逍遥の『当世書生気質』 《尤も其時紅葉露伴など、いふ人は既に西鶴の本を読んで居て西 、つきょ うつ ばくふ 鶴調をまねたのであったが、予の趣味は尚ほ馬琴流の七五調を十 《さまる \ に。移れバ換る浮世かな。幕府さかえし時勢にハ。武 としごと ときおほえど と、つ、やう 分に脱することが出来なかったのである。それは雅俗折衷と称す士のみ時に大江戸の。都もいっか東京と。名もあらたまの年毎に。 さえ ひら きせんじゃうげけじめ 開けゆく世の余沢なれや。貴賤上下の差別もなく。才あるものハ る坪内氏にあっても尚ほ多少この旧套を脱する事が出来ないので、 、つり・ もち くろぬりばしゃ むす たしか 妹と背鏡 ( 逍遥の小説『妹と背かゞみ』 ) などの中には慥に七五調用ひられ。名を挙げ身さへたちまちに。黒塗馬車にのり売の。息 ひげたくは おほどほり なまへ の処もあったやうに記憶して居る。所が、この西鶴調の読みにく子も鬚を貯ふれば。何の小路といかめしき。名前ながらに大通路 はしく ーカ げしゆくるまや いのもいく度も読返すうちに自然にわかるやうになった許りでな を。走る公家衆の車夫あり。》 ( 坪内逍遥『当世書生気質』第一回 ) く、その西鶴調の処が却て非常に趣味があるやうに思はれて、今 見ての通りストレートな七五調で、句点の位置がこれをしつか 度は反対に文章の極致は西鶴調にありと思ふた位であった》 ( 同前 ) り強調している。引用は冒頭部で、だからこそ様式的な七五調に あわしまかんげつ なっていると思われるかもしれないが、その後の地の文もこの通 淡島寒月という人物がいた。坪内逍遥と同年のこの人物は、「小 説も書く趣味人 , という当時には珍しくもない存在で、「愛鶴軒 . りの七五調である。地の文は文語体の七五調で、会話になると江 を号とする西鶴本のコレクタ 1 だった。彼はまだデビュ 1 前の露戸の滑稽本以来のリアルな喋り言葉になる。雅文語体と俗ロ 伴や紅葉に自慢のコレクションの西鶴本を貸して読ませた。だか語体がドッキングしたから、雅俗折衷である。真面目な馬琴は俗 ら正岡子規の言う《紅葉露伴など、いふ人は既に西鶴の本を読ん な喋り言葉を使わなかったが逍遥は使う。こんな感じである で居て》は事実なのだが、これを逆に考えると、露伴、紅葉デ みやが きみどこ すがは きみいまかへ ピュー前の明治一一十年代初頭に、井原西鶴の作品はそれほどポピュ 《 ( 書 ) ャ須河。君も今帰るのか ( 須 ) ヲ、宮賀か。君ハ何処へ行 はなし しよもっ ラ 1 ではなかったということが分かる。だからこそ淡島寒月は「愛」って来た ( 宮 ) 僕かネ。僕ハいっか話をした。ブック〔書籍〕を したや おぢ まるや 鶴軒」などとストレ 1 トにコレクタ 1 である自身を誇示するよう買ひに。丸屋までいって。それから下谷の叔父の所へまはり。今 わがはい まだもんげんだいじゃうぶ 帰るところだが。尚門限ハ大丈夫かネ工 ( 須 ) 我輩のウヲッチ〔時 な号を名乗る。それで、尾崎紅葉は自分のデビュー作の文体を《一 じつぶんぐらゐ 風異様の文体》と言い、正岡子規も《読みにくい》と言う。しか器〕でハまだテンミニッ〔十分〕位あるから。急いて行きよった だいじゃうぶ し、子規がそれを言うのは露伴の『風流仏』だけで、紅葉がわざら。大丈夫じゃらう》 ( 同前・第二回 ) わざ前書きで《読人一見してつらいといふ》と言う「二人比丘尼 会話の初めには、まず話者の名を表わす一字が置かれ、会話の 色懺悔』の方にはそんなことを感じない。《読みにくい》のは「西鶴 うみじ ニュアンスを活かすための語尾の産字ーここでは《大丈夫かネ 風だから , ではなくて、順当な説明を嫌う幸田露伴のせいである みやこ こうぢ とこ ころほひ 315 失われた近代を求めてⅢ

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になって先づ其第一篇が紅葉山人の作で二人比丘尼色懺悔といふそれが正岡子規の「書きたいーと思うような小説ではなかったか ものが出版せられた。其が非常の評判で世の中に持て囃されたけ らだろう。だからその翌年になって幸田露伴の『風流仏』に出会 れ共、予は其を侮るのか妬むのか、敢て読まうとも思はずたゞ何うと、子規は全面的に降伏して、「『風流仏』のような小説を書き 事かあらんと済し込んで居た。》 ( 同前 ) たい , と思、つよ、つになってしま、つ 早い話が嫉妬である。だからこの文章はこう続く 「新著百種ーというのは、吉岡書籍店というところが企画したオ 《話が横にそれるがこの硯友社の成立については予は詳しいこと リジナルの叢書で、雑誌のような安価な値段で書き下ろしの書物 は知らないけれど、兎に角同級者などにその末派に居る者もあっ が手に入れられるようにと考えられ、そう厚くはなく、一冊完結 ひそか たので、我楽多文庫など、いふ極めて幼稚なる雑誌を偸み見て窃を原則として毎月刊行を目指したものである。新著百種は方向性 に其紙面の才気多きに驚いて居ったのであったけれ共先づ同輩位を小説だけに限定したものではなかったが、その第一号が「二人 な書生がやるのであると思ふ為めに半ば之を妬み、半ば之を軽蔑比丘尼色懺悔』であったということは、版元の方に「新しい小説 して居ったのであった。さういふ次第であったから、色懺悔が出を世に出して行く , という意図があったからだろう。だから、紅 た時も、強て世間の好評を打消してせ、ら笑ひして居ったが、或葉と同年にデビューした幸田露伴の新作もラインナップに加えら れることになる。 友人が是非読めといふて本を貸して呉れたので始めて色懺悔を一 読して今度は本統に安心して仕舞ふた。予自ら嫉妬心を除いて公 正岡子規は、既に《今の世の小説家はこれ位のものであるか》 平に考へて見ても、色懺悔は少しも傑作といふべき処はない。こ ( 同前 ) と、小説そのものを見くびっていたのだが、下宿で同室の れ位のものならば予自身でも書ける。否今少し面白く書けるであ友人は『風流仏』を読んでいる。《友人は其小説の文章のむづかし たしか らうといふことを慥めた。》 ( 同前 ) いこと、且っ面白いこと、を予に説いたけれ共、予はフンといふ 硯友社文学というと「後ろ向きであまり近代的ではないものー 返辞で簡単にそれをあしらって仕舞ふた。》 ( 同前 ) ー厄介な正 的なイメージを持たれているが、日本最初の文学結社である硯友岡子規は、そばで友人が読んでいるのを聞いて、「なんだかよく分 社は、帝大とそこへ続く大学予備門 = 第一高等中学校 ( 一高 ) の からない、ひねくれた文章だ」と思っていたのである。 学生を中心とした、当時の最先端を行くエリおト集団だったので それから一年後、本郷の夜店に『風流仏』が並んでいた。《善か ある。硯友社は正岡子規と極めて近いところにあったから、子規れ悪かれ兎に角人に解し難いやうな文章を書くものは尋常でない》 の自負心あるいは敵愾心は相当なものだったろう。 ( 同前 ) ということが気になっていた負けず嫌いの子規はそれを買っ 「俺の方がもっと面白く書ける」は、単なる子規の自負心で、一一 てしまうのだが、《果して冒頭文から非常に読みにく、て殆ど解す 十三歳当時の文章は幼稚で人前に出せるようなものではなかった ることが出来なかった。》 ( 同前 ) と、その当時を振り返る子規は認めているが、妬みからではなく ついでだから、正岡子規が「こんなものか」と思った尾崎紅葉 《本統に安心して仕舞ふた》と言うのはなぜだろう ? 単純な話、 の作と、《殆ど解することが出来なかった》幸田露伴の作の冒頭を ほんと、つ ぬす 橋本治 312

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それは限定的で、予定調和の枠内にある。井原西鶴はやがて「好き手の主張、が入り込んでも違和感を見せない。ただし、それを 読んだ人が「余分なものが入り込んでいて分かりにくい」と思う 色物」から離れるが、西鶴の『好色一代男』に始まる浮世草子は、 遊里を舞台とするだけの限定的なものになる。その末にある曲亭馬可能性は大であるけれど。 正岡子規を悩ませた幸田露伴の『風流仏』はその例証ではある 琴は、奔放な想像力を示すが遊戯性を欠き、「勧善懲悪」の予定調 和に収まり、「七五調」という様式を堅固にしてしまう。そんな江けれど、しかし慣れてしまえば、自然な形で作者の意図が文章か ら湧いて来るのが分かるようになる。正岡子規が《その西鶴調の 戸時代は終わって明治になるが、しかし「自由奔放 , は蘇らない。 江戸時代が終わって、「終わってしまった前時代の硬直」に揺さぶ処が却て非常に趣味があるやうに思はれて、今度は反対に文章の 極致は西鶴調にありと思ふた位であった》と言うのは、それであ りをかけるのは、「自由奔放」ではなくて、西洋の文明だった。 る。井原西鶴はそうして、まだ近代文学になろうとしてなれない 江戸時代の遊戯性は萎縮して、かってそこに「自由奔放 , があっ たことはなかなか思い出されない。西洋文明を摂取する時代は大黎明期の明治文学に、微妙な新しい一歩を付け加えたのである。 三遊亭円朝の落語を参考にして『浮雲』を書いた二葉亭四迷は、 真面目になってしまって、「自由奔放ーの入る余地はない。だから おそらくまだ西鶴を読んでいない。だから『浮雲』の文章はサラ 西鶴を取り入れて、尾崎紅葉は《一風異様な文体》と言いわけを して、にもかかわらずその文体は順当なものでもある。尾崎紅葉サラとして、揶揄は書けても複雑なニュアンスまでは表現出来て なごり かみなづき しオし 《千早振る神無月も最早跡二日の余波となツた廿八日 は、自由奔放であるには真面目で臆病すぎるから、終生自身の文 の午後三時頃に神田見附の内より途渡る蟻、散る蜘蛛の子とうよ 章への検討を重ね、その前衛ではない「調和力」によって、一代 いずおとがい イ、ぞよイ、沸出で、来るのは孰れも顋を気にし給ふ方々、》 ( 二 の人気作家となった。そこが「文章がひねくれて難解ーな幸田露 葉亭四迷『浮雲』第一回 ) 伴とは違うところである。 しかし、西鶴を学んだ別の作家の文章は、濃厚で複雑なニュア 私は、文語文であれロ語文であれ、成熟した文章はわざわざ作 ンスに富んでいる。明治二十九年 ( 一八九六 ) に二十五歳で世を 者が姿を現して説明に苦労しなくても、「文章そのものが語るべき ことを語る」と思っている。二葉亭四迷の「浮雲』や山田美妙の去ってしまう樋口一葉である。 『武蔵野』という言文一致体の試作が登場したばかりの明治一一十年 《廻れば大門の見かへり柳いと長けれど、おはぐろ溝に灯火うつ 代初頭に、「成熟した文章ーは文語体のものしかない。そして、「文 章そのものが語るべきことを語る文章 , とは、成熟した結果の個る三階の騒ぎも手に取る如く、明暮れなしの車の往来にはかり知 られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりと 性のない文章でもある。ということはつまり、「成熟した文章ーを は陽気の町と住みたる人の申き、》 ( 樋口一葉『たけくらべ』 ) 使っている限り、そこに「作家の主張ーの出番はないということ である。だからこそそこに、「自由奔放な西鶴、の出番がある。文 有名な文章ではあるけれど、ここには「分かりやすい親切な説 章そのものに「自由な饒舌」が宿っているのだから、そこに「書 ゆき、 317 失われた近代を求めてⅢ

9. 小説トリッパー 2013年秋季号

工》の《工》ーも欠かせない。最初の《 ( 書 ) 》は、「まだ " 宮賀 ~ 引用の部分は、但馬の国 ( 兵庫県北部 ) の鉱山のある里に生ま の名がはっきりしない書生、の意味の「書、で、そこのところは近れて、男色と女色の両道に夢中になった結果「夢介」と仇名され 代の小説つほいが、俗なる会話は江戸の臭い濃厚な芝居の台本み るようになった、『好色一代男』の主人公・世之介の父の紹介であ たいである。これを読んだ正岡子規は「そこに自分と同様の書生る。京に出て来た夢介は遊里に通い、夜更けて一条通りを戻って がいるリアルさ」に感動興奮するが、今の目で見ると「江戸風の書来る。一条通りには戻橋という橋が架かっていて、ここに女に化 生ーは、「こんなんで大丈夫か ? ーと言いたくなるような存在である。 けた鬼が出たーーそれを退治したのが大森彦七という男だという さかやき これが「読みにくくない当時の小説文体。で、続けては井原西伝説を踏まえて、「夢介は若衆姿になったり僧侶や月代を伸ばした 鶴である 伊達男のコスプレでここを通った。まるで化物みたいだが、当人 は大森彦七の気分で、遊女に取り殺されてもいいと思って遊里通 さくら なげ いるさやま 《桜もちるに歎き月はかぎりありて入佐山。爰に但馬の国かねほ いに励んだ」である。冒頭の《桜もちるに歎き月はかぎりありて ほとり、つきょ しきだう る里の辺に浮世の事を外になして色道ふたつに寝ても覚ても夢介入佐山》は、伝統的で雅びな修辞だが、「花は散るし、月もやがて もん とかえ名よばれて、名古や三左加賀の八など、七つ紋のひしにく は山の端に入る」から、但馬の国の《入佐山》を導き出してしま でうとをよふけもど あるときわかしゆでたち みして身は酒にひたし、一条通り夜更て戻り橋。或時は若衆出立、 うと、もう風雅とは無縁の奔放である。《但馬の国》になにか根拠 すがた すみぞめながそで まこと ばけものとを 姿をかえて墨染の長袖、又はたて髪かつら、化物が通るとは誠に があって夢介の出生地としたのかどうかは分からない。掛け詞で これ ひこしちかほ かみ 是ぞかし。それも彦七が白ハして願くは咀ころされてもと通へば、 ある《入佐山》の縁で ( 入佐山は但馬の国の歌枕 ) 、筆まかせに すてがた そのころなたか なほ見捨難くて、其比名高き中にもかづらきかほる三タ思ひ / 、 《但馬の国》になってしまったのかもしれない。 みうけ ひっこみあるいひがしやまかたかげ ふち に身請して嵯峨に引込或は東山の片陰又は藤の森ひそかにすみな 『好色一代男』を書く前の西鶴は、奔放な作風で名高い俳諧師で、 おらんだ して、契りかさなりて此うちの腹よりむまれて世之介と名によぶ。 人に言われるまま自ら「阿蘭陀流」「阿蘭陀西鶴ーを名乗った。「阿 かき あらはに書しるす迄もなし、しる人はしるぞかし。》 ( 井原西鶴『好蘭陀流ーとは、「常識はずれでぶっ飛んだ」である。なんだかんだ 色一代男』巻こ 言われながらも阿蘭陀流は一時世にアピ 1 ルしたが、西鶴より二 歳若い同時代人・松尾芭蕉のお上品な俳諧が世に広まると衰退し 明治一一十年の頃から一一百年も前の十七世紀江戸時代の作だから、 た。だから、やがては俳人となる正岡子規も、初めは西鶴から遠 近代的な句読点などは意味を持たないが、しかしこれが七五調の いところにいるのである。 文体で書かれたものでないことは一目瞭然である。西鶴の文体は 時代が若い時は「自由奔放ーが大手を振って罷り通る。「自由奔 『当世書生気質』とも違うし、紅葉の三人比丘尼色懺悔』とも違放 , の前に、前代の古い「硬直」があるからである。しかし悲しい う。なにが言いたいのかよく分からないままリズミカルに続いて ことに「自由奔放 . は長続きしない。時代が落ち着けば「自由奔放」 行く点で、露伴の『風流仏』とそっくりである。 の居場所はなくなる。江戸時代の町人文化は遊戯的だが、しかし ちぎ 0 こと ねがは かみ ね せき さめ ゅめすけ 橋本治 316

10. 小説トリッパー 2013年秋季号

しゅうん なしと云はせん事残念なり、珠運命の有らん限りは及ばぬ力の及 比べてみようー。 わすき つく ぶ丈ケを尽してせめては我が好の心に満足さすべく、且は石膏細 たうじん うつぶん いくぶん あした さびしさ ゅふべきのふ みやこ 《都さへ : : : 蕭條いかに片山里の時雨あと。晨からタまで昨日もエの鼻高き唐人めに下目で見られし鬱憤の幾分を晴らすべしと、 たて しやか いっかうせんねんちかひさが みねまっ こがらしふきとを 今日も木枯の吹通して。あるほどの木々の葉ー峯の松バかりを残可愛や一向専念の誓を嵯峨の釈迦に立し男、齢は何歳ぞ二十一の もりほねだ おほかた おと やまおもやせあは してー大方をふき落したれば。山は面瘠て哀れに。森は骨立ちて春。》 ( 幸田露伴『風流仏』 ) すさ 凄まじ》 ( 尾崎紅葉三人比丘尼色懺悔』 ) この文章が尾崎紅葉のそれに比べて分かりにくいことだけは確 かである。長いワンセンテンスの末に《齢は何歳ぞ二十一の春。》 《都さへ : : : 》と言いさして、その後に「まして」の一語もなく とあるから、文章全体で誰かのことを語っているらしいことは分 いきなり《蕭條いかに片山里》と続けるところが、オシャレであ げんぶん ぶんしようざいらい がぞくせっちう る。紅葉は前書きで《文章は在来の雅俗折衷おかしからず。言文かるが、その「誰か」がどこに隠れているのかはよく分からない。 とら も いろ / ー、き すえほう いっち 主人公となるのは引用文の真ん中辺にいる《珠運》で、彼は仏 一致このもしからずで。色々気を揉みぬいた末。鳳か鶏かー虎 さ、つざ、つ はんだん ねこ われ いつぶうゐゃうぶんたい か猫か。我にも判断のならぬか、る一風異様の文体を創造せり。》師である。彼はかなりの腕前だから、運慶の作さえ知らない一般 せけんざいらい へた ( 同前 ) と一応はヘり下って、しかし《世間在来の文とは。下手なり人は誉めるが、止利仏師 ( 鳥仏師 ) のレベルを知る本人は恥ずか おもむきこと よむひといつけん さくしやすこ しくて、自分に納得が出来て人に誇れるものを彫り出したいと嵯 にも趣を異にすれば。読人一見してつらいといふ。作者は少しも ひとみー、なに もつば つらからす。我つらからざるを人々何ゅへにつらしといふや。専峨の釈迦堂で誓願を立てたのが二十一歳の春ーと言われれば分 , 、と、つ さいどくごめんだうこ かるが、「だったらなぜ、それがすぐ分かるように書かないか ! 」 ら句読をたよりに再読の御面倒を請ふ。》 ( 同前 ) と開き直っている。 と、二十四歳の正岡子規なら言っただろう。 一一葉亭四迷の『浮雲』や山田美妙の『武蔵野』が登場したのは この二年前だが、尾崎紅葉は言文一致体なんかどうとも思わす、 幸田露伴の小説は、普通の説明のようには説明をしない。とい うよりも「説明する」という行為の野暮ったさを嫌って、正岡子 「自分は新しい文体を創った」と自負している。尾崎紅葉が文章を 書くのに苦吟し続けたという話は有名だが、それを正岡子規は《こ規の言、つ《人に解し難いやうな文章》にしてしまう。だから、な Ⅲ にを語っているのか分からないまま《三尊四天王》以下の仏教や れ位のものならば予自身でも書ける。》と一蹴してしまう。 て め 仏像に関する語が乱立する中へ追い込まれ、その末に《齢は何歳 これに対して、幸田露伴の文章はどうか 求 ぞ二十一の春。》で止まるから、「この文章のどこかに " 二十一歳を きようちゅ、つをさ さんぞんしてんわうじふにどうじじふろくらかん 近 の男 ~ がいるのか ? ーと読む者は思って、「それは誰だ ? ーと改め 《三尊四天王十二童子十六羅漢さては五百羅漢までを胸中に蔵め 、つんけい なたこがたな て鉈小刀に驂り浮かべる腕前に、運慶も知らぬ人は讃歎すれどもて探すことになる。正岡子規だって、《非常に読みにく、て殆ど解れ こころざ わざ とりぶっし 鳥仏師知る身の心恥かしく、其道に志す事深きにつけておのが業することが出来なかった》と言っているのだから、それを恥すか こ、につほんびじゅっこく ひだたくみ の足らざるを恨み、爰日本美術国に生れながら今の世に飛騨のエ匠しがる必要はない。文章を書く幸田露伴は、文章で遊んでいるのだ。 つけ われ かたやまざとしぐれ 0 ぶん のこ た いくっ かっせつかうざい