吐き捨てるようにいった。 ているってな、鳥籠屋の女房が番屋にすっ飛んで来たんだよ」 「申し訳ございません」 「この子は働き者でね。腕が痛いというからお灸をすえてやっ おけいは永瀬と瞬間、眼を合わせたがすぐにそらし、頭を下ただけだよ」 おけいは背筋が寒くなった。灸なんかじゃない。煙管の火を 「どういういきさつかは知らねえが、人様の頬を張り飛ばすのそのまま押し当てたのだ。 はよくねえよ ふうんと、永瀬は生返事すると、 「そこの女がよけいなことをいったからさ」 「ちょいと番屋で話を聞いてやってもいいぜ。ここのおかみと 母親は腕を組んで、そっほを向いた。 のいざこざも一緒にな」 「おっ母さん」 首を回して、小者へ目配せした。 おいとの声に、母親が振り向き、舌打ちした。 「なんであたしが。この女がいけないんだ」 「おう、ロ笛小町じゃねえか わかったわかった、酔いも醒まそうなと、永瀬は優しくその 永瀬が眼を見開いた。 背を押して、小者に引き渡した。おいとはおけいに頭を下げる 「おめえが、あの娘の母親か。そういやどことなく似てやがる」と、母親の傍にびたりとついて行った。 えっと、母親が顔をしかめた。 永瀬は地面に散らばった銭を拾い上げながらいった。 付け木を入れた箱を首から提げたおいとが走り寄って来る。 「なにがあったか知らねえが、こういうことは他人が口を挟む 地面に散らばった銭を見て、おいとは母親の手を取った。 とやっかいだ。とんだとばっちりを食うことになる」 「どうしたの。おばちゃんの処でなにをしているの」 おけいは俯き、唇を噛み締めた。 「うるさいねえ、おまえには関わりないよ」 「できるものならしてやりてえ。ロ笛小町がいなくなるのは寂 おいとの手を振り払い、背を向けた。 しいからな」 「あたい、大丈夫だよ。ちゃんと奉公に上がるから。心配しな 拾った銭を永瀬が差し出した。 いで」 おけいは自らの鼓動を強く感じつつ、その広い掌にそっと指 おいとは母親の背にすがるようにいった。 を伸ばした。 永瀬が、おいとが隠している右眼をちらと見た。 それとなと、永瀬が横を向き低い声を出した。 「どうした。その眼。おいおい、その左腕はなんだえ」 「ご亭主は生きていたよ。谷に落ちたが木の枝に引っかかりな やけど おやじ つんつるてんの衣から覗いた腕にまだ生々しい火傷の痕が点々 がら落ちたそうだ。炭焼き小屋の親爺に助けられてな、ひどい とあった。永瀬が鋭い眼を向けると、母親は眼を宙に浮かせて、傷を負ったそうだが、命は取りとめた」 きゅ、つ 梶よう子 424
永瀬は憤った。 死罪になる前に、羽吉のことを残らず糾すつもりだと、静か だが力強くいった。 ながせやえぞう けれど半分がたおけいの耳には届いていなかった。 永瀬八重蔵の腕に抱きすくめられ、おけいは息が詰まるほど あかし 羽吉は生きているとずっと思っていた。どこにもそんな証が だった。 なくとも、おけいは信じていた。 拒めば拒むこともできた。 女房のあたしを遺して、死んでしまうはずがない。ただ、そ そうすれば、永瀬はすぐに身を引いただろう。 ぼくとっ う信じることだけが、この三年、おけいを支えてきた。 北町奉行所定町廻り同心を務める永瀬は生真面目で朴訥で、 だから、永瀬から話を聞かされた途端、おけいの支柱がほき ましてや己の熱情だけにまかせるような若い男でもない りと音を立てて折れた。 だからこその真っ直ぐな誠実さがその抱擁に込められている けれど、おけいの心を乱していたのは、それだけではない。 ような気がして、おけいはさらに強く永瀬の胸に頬を押し当て したや 永瀬とその娘結衣とともに下谷にある花鳥茶屋へ見物に出掛 はねきち けた日の帰り道だ。おけいは下谷広小路の雑踏で、若い女と連 亭主の羽吉が行方知れずになってから丸三年。その身を支え こら てくれる腕もなく、おけいはくずおれそうになるのを懸命に堪れ立って歩く羽吉そっくりの男の姿を見かけた。 、も、つ・ろう かげろう あれは、炎暑の中に立った陽炎だったのか。人波の中、朦朧 えながら生きてきた。 としていた自分が見た幻影なのか : いっ戻るとも知れない羽吉のために『ことり屋』を守ってき 谷に落ちた羽吉の死に顔と、夫婦者のように振る舞い歩いて いた男の姿がおけいの中で入り交じった。 小鳥たちのさえずりは、おけいをいつも慰めてくれた。愛ら ほほえ いつだったか。文鳥の世話をしている羽吉が自分と顔の似た しい姿で微笑ませてくれた。 者が、この世の中には三人いるといったことがある。よく似た けれど。 顔の者はやはり同じような性質をしているに違いないと、おけ おけいが求めていたのは、温もりだ。こうして身を寄せ合い、 いは思った。だとしたら、あたしが羽吉でない男を亭主に選ん 互いの心を重ね合うことだ。 ろくすけ でも、やつばり羽吉似なのだろうと笑うや、 その羽吉は胸元が青く光る鷺を捕らえに同道した六助という 「ばあ 1 か。そっくりなャツなんざ関係ねえ。おめえに惚れて 鳥刺しによって谷に突き落とされたことがわかった。 るのは、おれだけだ。だからおめえは間違いなくおれを選ぶさ」 己の姪とわりない仲になった六助は、その関係に怯えた姪を 羽吉はいつもよりも口先を尖らせ、拗ねたようにいった。 手にかけた。それに羽吉が疑念を抱いたがためのロ封じだった。 さぎ ただ 9 ことり屋おけい探鳥双紙
でも、それじゃ駄目だ。 隣にいてくれなきや、惚れていないと同じ。 羽吉は、ほんとうにここにいたのだろうか。もしかしたら、 みんなあたしの作り話かもしれない。羽吉という名の鳥だった としたら、どこへでも好きなように飛んでいける。だから、翼 を広げて逃げ出したのだ。 それで、あらたな巣を見つけた。 きっとそうに違いない。 だから、羽吉は戻らない。 あの若い女を見つけたから。 もしかしたら、二度と飛び立てないように羽を切られたのか もしれない。ううん、あたしの傍より、居心地がいいから逃げ 出さないだけ : ・ 胸元が青く光る鷺を探しに出たのは、あたしから離れるため の口実だったとしたら。 ねえ羽吉さん : ・ なにを望んでいたの。何が欲しかったの。 あたしが悪かったの ? おけいの胸底から次々ととりとめのない思いが溢れる。いっ そ気が触れてしまったほうが楽だと感じた。 千々に乱れる心をたったひとりで鎮めることなど無理だった。 気づいたときには永瀬の胸元に倒れ込むようにすがっていた。 ただ、込み上げる不安と戸惑いに、おののき高ぶる気持ちを治 めてほしかった。 たぶん、永瀬もそれを感じ取って、受け止めてくれたのだろ おけいは店座敷に座り、通りを見るともなしに眺めながら、 えさす 餌を擂っていた。 閉じた唇から耐えきれず洩れた吐息に永瀬は気づいただろう それを思うとおけいの胸が絞られるようになる。 不意に身の内から血が上ってきて、おけいは手を止めた。心 の臓がはねるのを感じながらも、それを抑えることなどできな かった。 抱きすくめられたあの夜から、もう七日が経つが、その間、 永瀬は一度も顔を見せない。 のぞ 見廻りの途中で、大抵三日に一度は『ことり屋』を覗きに来 てくれていたのに。 わら・ヘ おけいは、童のようにかぶりを振り、再び乳棒を動かし始め すると通りから、軽やかで澄んだ音色のロ笛が聞こえて来た。 おいと、という付け木売りの少女だ。 旋律などない、まったくでたらめな音だが、なぜか耳に残る のは、どこか鳥のさえずりに似ているからかもしれない。 そろりと永瀬の背に腕を回すと、さらに永瀬の腕に力がこもっ た。胸を圧され、おけいは安堵の思いとともに、ひそやかな吐子 よ 息を洩らした。 梶 「オケイ きんしゃ つきまるかす 禽舎の中の月丸が掠れた声で鳴いた。
「店を守ってくれてたんだな」 おけいが顔を上げる。 おけいはゆっくり顔を上げ、微笑んだ。変わらない羽吉の顔 ただ、と永瀬がいい淀んだ。 「身重の女房がいる。村の庄屋の娘でな、ずっとご亭主を看病だった。だが、少しばかり引きつった笑顔がそこにあった。 「あたしだって、おまんまを食べていかなくちゃいけませんか していたそうだ」 ら。でもこんな店、面倒なことばかりで、儲けなんかありやし なにも言葉が出なかった。なにひとっ言葉が出てこなかった。 ません . 頭を強く打って、なにも覚えていなかったらしい。ようやく しゅうげん 「ずいぶんだな。あのな、あいっともきちんと話をしてきた。 記憶が戻ったのは、祝言を挙げ、夫婦暮らしをはじめてからだっ おれはおめえが許してくれるなら、ここに」 たと、永瀬はとぎれとぎれにいった。 おけいは羽吉の言葉を制した。 「おれは、死んだとおかみに告げることもできた。だが、どう 「お役人さまから聞きました。お連れ合いの方、身籠っている してもご亭主はおかみに会いたいといってきた。おれが拒むこ のでしよう。大事にしてあげてくださいな。あたしにも好いた とじゃねえ。それを伝えに来たんだ」 方がいるんです。でも訳ありの人だから、面倒でもこの店を続 タの七ッ ( 午後四時 ) だと、永瀬は背を向けた。 けているんですよ」 羽吉の顔に血が上る おけいは店座敷に座って待った。十姉妹と白いカナリヤが売 「おめえ、まさか。あの永瀬って役人と」 れた。 おけいは真っ直ぐに羽吉を見つめた。 七ツの鐘が鳴り終わる前に、店先に羽吉が立った。おけいの 不意に羽吉が唇の端を上げて、はっと乱暴に息を吐いた。そ 心の臓がびくりと震えた。 ・定価 609 円 ( 税込 ) 一 SBN978 ー 462 ー 264595 ー 1 子どものいない夫婦が迎えた三毛、いじめに直面した 息子が選んだマンクス、老人ホ 1 ムに入るおばあちゃん のために探したアメリカンショートヘア : 今日き生せるさひしさと、 明日に見える小さな光き描く 7 編 ニ泊三日、毛布付きレンタル猫が我が家にやってきた , プランケット・ じゅうしまっ 絵・高野文子 A S A Ⅲ お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞出版 ことり屋おけい探鳥双紙 425
週末は家族 「捜しているだろうよ。死んだはずの人間が生きているかもし帰れない訳があるとするならば、隣で微笑んでいた若い女のせ 、ヾ、」 0 れぬのだからな。だとしても永瀬は、羽吉の人相まで知ってお おけいの心は再び乱れた。もちろん生きていてほしい。変わ らぬだろう ? 」 らぬ姿を見せてほしいと願ってはいる。 「身につけていた衣装もお伝えしましたし、人相もできるだけ。 おけいが眉を寄せると、 でも、なにより永瀬さまは、羽吉の声を知っております 「なに、蛇の道は蛇、だ。御番所の役人であれば、常日頃から、 おけいはいった。 こうしたときのための網を張っているものだよ」 「ほう、なるほどのう。月丸の鳴き声はまさに羽吉そのもので 馬琴が励ますように強く頷いた あったからなあ。それはなかなかだ。めばしい男をみつけたら、 「永瀬という同心は、それが、おけいさんのためだと思うてい おけいといわせるつもりだろうて」 るのだろうて」 馬琴は煙を吐きながら含み笑いを洩らした。 けれど、この広い江戸でどうやって永瀬は羽吉似の男を捜す「あたしのため、ですかー 「三日に一度は訪ねて来る男だ。こんな小さな飼鳥屋に見廻り つもりなのかおけいには見当もっかなかった。いくら旅姿だっ に来るものか好いてないわけがなかろうよ。羽吉が生きてお たとはいえ、旅立っところだったのかもしれない。よしんば江 れば、それがおけいさんの幸せになると、そう思うておるのだ 戸へ来たのだとしても、しらみつぶしに旅籠を訪ね回るなど無 ろうて」 理だろう。 馬琴の言葉が、おけいの胸を衝いた だが、もし羽吉が生きて江戸に戻っているとするならば、な ぜここに帰っては来ないのかか、おけいにはわからなかった。 北上次郎氏「本の雑誌」 2 月号よ ) 「挂望実の傑作だ。家族小説の傑作だ」ー 「大輔と瑞穂とひなたの視点を交互に挿入しな から、ユーモラスに、そして時にはシリアスに、 特殊な家族の日々を、群を抜く造形と巧みな 挿話で描き出していく」 ( 北上氏 ) 読むと、すーっと気持ち軽くなります 桂望実 イラス第浜野史子 - はたご ・定価 1 、 680 円 ( 税込 ) 四六判 280 頁 一 SBN978 ー 4 ー 02 ー 250925 ー 3 A S A 印 お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞出版 ことり屋おけい探鳥双紙 421
「おけいさんらしくもないの。これまでここを守ってきた意味たしがいました。羽吉を裏切ったわけではないと。だって、死 んでいたとしたら、もう一一年半も前ですから」 がなくなったとでも思っているのかえ」 「そうして己の心を得心させようとしているのが許せないのか 違います、違いますと、おけいは小さな声でいった。 え」 「羽吉がいっ戻ってもいいように『ことり屋』を守ると決めた それもありますと、おけいは頷いた。 のはあたしです。でも、疲れてしまうこともあるのです。辛さ 「おいおい、それ以外にもなにがあるというのだえ」 に圧し潰されることだって」 馬琴は眼をしばたたいて、わすかに背をそらせた。 おけいの声は次第に高くなっていた。 「先生には、羽吉が亡くなったとお伝えしたおりには、お話し 「寂しさを埋めることも叶わないのですか。 いたしませんでしたが」 膝を回して、馬琴をしかと見つめた。 うな 馬琴が訝るように首を傾げた。 馬琴がおけいの視線をやんわり外し、ふむと唸って、顎を突 き出した。 おけいは、羽吉と瓜二つの男を下谷広小路で見かけたのだと じようまちまわ 告げた。若い女と連れ立って歩いていた。そのときは突然のこ 「あれか、永瀬八重蔵とかいう八丁堀の定町廻りかな」 とに平静さを失っていたが、あとから思い返せば、ふたりは旅 おけいは顔を伏せた。 てつこう 姿だった。手に笠を持ち、袖口からはたしかに白い手甲が覗い 「やれやれ図星かえ」 ていた。 馬琴は柔らかい笑みを浮かべ、頭頂部をつるりと撫ぜた。 あの夜、そのことを覚えていた永瀬から帰り際に問われた。 「なにがあったか訊くのは野暮だが ? 「別人でも本人でも、おかみが引っかかるのならそのままにし 「なにも、なにも、ございません」 ておけるもんじゃねえさ ただ、とおけいはロごもった。 永瀬は大きく頷くと、戸締まりしつかりなと、腰を低く屈め 小鳥たちのさえずりが耳に響く。 て潜り戸を出て行った。 「惹かれているとー それはわかりませんと、おけいは視線を落とした。でも、永「羽吉と瓜二つか」 馬琴は再び煙管をくわえた。 瀬と居ると心が安らぐのはたしかだと告げた。 はいと、おけいは小さく頷いた 「ヤツが武家だからか。そんなものはどうにでもなるわい 「このところお立ち寄りにならないので、まさかとは思うので 馬琴がふんと鼻から息を抜いた すが。 そうじゃないんですと、おけいは膝を回し、身を乗り出した。 んっと、馬琴が左だけ、眉尻を上げた。 「羽吉が谷に落とされたと聞いて、どこかでほっとしているあ あご いぶか 梶よう子 420
「なにいってんだい。子が親に従、つのは当然だろう。ようやく おけいはおずおず声を掛けた。 「馬鹿いってんじゃないよ。糞臭い処なんざ入るものか。あた親孝行できる歳になったんだ。それにさ、一枚一文の付け木売 りなんざしてるより、もっと幸せになれるからねえ しは銭を返しに来ただけだ。もうすぐたんまり金が入るんだ」 母親はけらけらと高い声を上げて、嬉しそうに笑う。おけい あははは、これであたしも好きに生きられると、身をのけぞ は、はっとして見つめた。 らせて笑った。 おいともこうして笑ったことがあった。この女にはなにも見 「かわいそうな娘だと思って、あんなはした金を施して、あん えていなかったのだ。不実な男を恨むあまり、おいとの中に自 たは満足だろうねえ。そんなお情けは迷惑なんだよ、あの娘に はさ 分を見付け出すことができなかった。悲しい女だ。 「鳥だって雛の巣立ちまで見守ります。でも逆なんですね。お おけいは身を震わせた。 いとちゃんがあなたを守っている。あなたの幸せを望んでいる。 「なんだい、その顔はあたしに文句があるっていうのかい ? どうしてでしよう」 ああ、そうか。あんたのこと、おいとから聞いたよ。ご亭主は あざ 痣が残るほど殴って、身売りを承知させるのも親のっとめで 旅に出てるそうじゃないか。ほんとはちがうんだろう。逃げら すか、とおけいは真っ直ぐに見つめた。 れたんじゃないのかい。そしたら、あんたもあたしのお仲間だ。 一瞬ひるんだ母親が、 仲良くしよ、つか」 「あんたになにがわかるってのさ。そうでもしないと、また男 母親は下卑た笑みを浮かべ、酔った眼を向けてくる。 に逃げられちまうんだよ」 「違います。羽吉は旅の途中で亡くなったんです , にわかに形相を変え、おけいの頬を張った。きんとした痛み おけいがいうと、へえと眼を丸くした。 が走る 「そりゃあ気の毒だ。でもじつは生きてて他の女とちゃっかり おけいが足下をぐらっかせたとき、 暮らしていたりしてね」 「昼日中の往来でなにしてやがる。女の喧嘩は見苦しいぜー 死んだかどうかなんて旅の空じやわかりつこないものねと、 背に低い声が響いた。振り返ったそこに、永瀬の姿があった。 再び笑った。 その後には、小者も居る。 「いい加減にしてください おけいは、静かに言い放った。 「永瀬さま 「なんだい、八丁堀が出張るほどのもんじゃないよ」 「あたしのことはほうっておいてください。でも、どうしてお 永瀬は顎を撫で、唇を曲げた。 いとちゃんが、あなたみたいな母親に従うのかあたしにはわか 「ずいぶんと威勢のいい女だな。『ことり屋』の前で騒ぎが起き りません」 ことり屋おけい探鳥双紙 423
以前は、祖母の後にくつついていたが、二年前の春に祖母を唄に合わせ、湯殿が宴会みたいになることもあったらしい。そ ういう音色を、お父つつあんは自分の唇ひとつで奏でてしまう 亡くし、いまはひとりで、このあたりを売り歩くようになって いた。幼い頃から見て来たが、透き通るような白い肌に切れ長のだと、おいとは鼻が高かった。湯殿に響き渡るこの音は、天 の眼、薄い唇をしたおいとは、十にしてはずいぶん大人びて見からの贈り物じゃないかと、おいとは幼心に感じていたと、恥 えた。 ずかしそうにいった。 でも、その男は、ほんとうの父親ではなかったという。四年 愛らしいというよりは、きれいな娘だ、とおけいは付け木を 買う度に思った。 ほど前の冬に、長屋中の人が止めに出てきたぐらいの大喧嘩を ひのき 付け木は、檜や杉などの平たい木片の先に硫黄を塗り付けた母親として、出て行ったっきり二度と戻って来なかった。その 頃のお父つつあんは働きもしないで、おっ母さんとばあちゃん もので、火を起こすときに使う。 一枚一文。 が付け木を作って売った銭をむしり取っては、酒を飲み、手慰 みに興じていたのだという。 毎日使うものであるから、東で買ってもさほどの銭ではない おいとは小さく薄い唇を尖らせた。 が、それだけ儲けも薄いものに違いなかった。 働きのない男のために稼いだって、ちっともいいことなんか それでも、おいとの付け木はよく売れるので、なんとか暮ら しが立っているのだろう。 ひゅうひゅう、びゅうびゅうとロ笛を吹きながら、売り歩く 主な登場人物 のでやはり人目も引くだろうし、ましてやロ笛を吹きながら歩 うらだな おけい ・ : 日本橋小松町の飼鳥屋「ことり屋」の女主人。亭主の く少女というのも珍しがられ、ロ笛小町などと呼ばれて、裏店 はねきち 羽吉が三年前に「胸元が青く光る鷺」を捕まえるために出た旅か からも表通りのお店からも声がかかる。ときには童にロ笛をせ ら戻らず、以降、ひとりで店を切り盛りする。 がまれて、その場から動けなくなっていることもしばしばだっ 曲亭 ( 滝沢 ) 馬琴 : : : 人気戯作者。鳥の愛好家で、「ことり屋』に しばしば出入りしては、おけいの相談にのっている。世間では気 ロ笛は、父親から教えてもらったものだと、おいとから聞い 難しいといわれているが、おけいには優しい 月丸 : : : おけいの飼っている九官鳥。おけいを人間なみの言葉遣 た。まだうんと幼い頃、一緒に湯屋へ行くと、必ず父親はロ笛 いで励ます。 を吹いたという。湯気が充満した狭い空間で反響した音は、 永瀬八重蔵 : : : 北町奉行所の定町廻りの役人。ある事件がきっか 層澄んだ音色となり、美しく重なった。湯に浸かり、眼を閉じ けで、「ことり屋』に出入りするようになる。 て耳を傾けると、至極幸せな気分になったと、おいとは懐かし 結衣 : : : 永瀬のひとり娘。口がきけない。 むように眼を細めた。ときには湯船に浸かる他人が口ずさむ小 ことり屋おけい探鳥双紙 411
おけいは戸惑いつつ馬琴を見つめた。差し出された掌を見る 出なかった。空虚な思いだけがおけいの心を覆っていた。 と木彫りの鳥が載っていた。 「これは、鷽。天神さまの」 おけいは馬琴の前に煙草盆を出すと、唇を物み締めた。 馬琴が、うむと頷いた 「あたし、嘘をつきました。ひどい嘘つきです , 「あの同心の永瀬がな、わしの処へ来おってな。こいつをおけ 馬琴が煙草の煙をくゆらせながら、 いさんに渡してくれとな」 「なんの。おけいさんなど嘘つきのひょっ子だ。戯作者のわし まったく、己が渡せばいいものを、わしを誰だと思っている など、いつも大嘘をついておるからの。まあ、閻魔に舌を抜か のだと、ぶつくさ文句を垂れた。 れる覚悟はできているがな」 「鷽は嘘に通じるからな。溜まった嘘をこの木彫りの鷽と引き 肩を小刻みに揺らし、含み笑いを洩らした。 換えるー 「先生ったら」 ゅしまかめいど 毎年年明けに行われる鷽替え神事だ。湯島、亀戸の天満宮で おけいはロ許に指をあてた。 去り際に羽吉は一度だけ、振り向いた。でもそれは自分にで行われている。一年の凶事を嘘にして、幸せに替えるというも のだ。 はなく、『ことり屋』に未練を残しているのだと思えた。 おけいは、木彫りの鷽を手にして、胸に抱いた 戻って来てくれと泣いてすがったなら、羽吉は頷いただろう ひゆるると、籠の鷽が鳴く。 か。抱きとめてくれただろうか。身重の女子を見捨てて、もう うそぶえは、真実の声になるのだろうか 一度、ここで暮らしてくれただろうか。 月丸が羽吉に聞かせた鳴き声は、おけいが教え込んだものだ。 悲しくないといったら、それも嘘になる。悔しくないという だから、おけいの声色だ。 のも嘘だ。 「イマカエッタョ 人はこうして自分の心のうちにいくつもの嘘を溜め込んでい おけいが真実聞きたかった言葉だ。でもそれはもう届くこと く。いっかそれは何かに変わるのだろうか 「嘘をついてはいかん。が、たとえ真実だとしても口にしては 悲しみと優しさが交錯する。 ならぬものもある。なあ、おけいさん 知らず知らず眼前が滲んで見えた。 馬琴は店座敷から腰を上げると、おう、忘れるところだった ああ、あたしは泣いているのだと、おけいは思った。 ( 完 ) と、懐から、何かを取り出した。 えんま ことり屋おけい探鳥双紙 427
き下げて、わざわざ隠さなくてもいい 「それに、そのおじさんがおっ母さんの面倒もみてくれるから、 「じゃあね、鷽ちゃんたちー ああ、とおけいは胸を詰まらせた。新しい男ができたのだ。 おいとは鳥籠の鷽に手を振ると、再びロ笛を吹き、歩き始め だから、おいとが邪魔になったのだ。たぶんおいとはそれと知っ ていて話している。たった十の子が、こんなに悲しい嘘をつく。 おけいはその右眼の訳を質そうと、一瞬腰を上げかけたが、 「ねえ、付け木を頂戴」 おけいはやっとの思いでロにした。おいとが不思議そうに首思い止まった。 おいとは賢い娘だ。おそらく正直に話すことなんてしない。 を傾げた。 たぶんこちらの思惑をすぐさま感じ取って、きっと嘘をつく。 「少し前に買ってもらったばかりだよ」 誰のための嘘。自分を得心させるための切ない嘘だ。 「いいのいいの。付け木はいくらあっても困らないから」 おけいは、揚げ縁の上の鷽を眺めた。おいとのロ笛に合わせ、 おけいは店座敷と続く居間の銭箱から小銭を取り出しつつ、 ひゆるると一羽が鳴き出した。 やりきれなかった。けれど、おけいにはど、つすることもできな おいとから、付け木の東を受け取り、銭を握らせた。手を開 いたおいとが戸惑う。 永瀬が姿を見せないことに、おけいはどこか、ほっとしなが 「おばちゃん、これじや多すぎるよ」 らも、内心では焦れていた。 「ううん、おいとちゃんが頑張っているからよ。これまで聞か たらい 月丸の水浴び用の盥を禽舎に運び入れながら、そこに水を張 せてくれたロ笛のお礼」 るのを忘れたまま店座敷に戻り、ため息とともに腰をおろした。 おいとカ 、にこりと笑って正面顔を向けた。 その途端、月丸が黒い羽を広げて、ばさりばさり羽ばたいた。 引き下げた手拭いがその拍子にちらと持ち上がった。瞬間、 紙 「なによ、月丸 おけいは、息を呑んだ 双 おけいは首を回して、眼を見開いた。 おいとの右眼。 探 蚊に刺されたものじゃない。眼を半分、覆うほどに目蓋は腫「ああ、あたしったら。堪忍してね」 すぐにお水をいれるわねと、おけいが立ち上がったとき、盥お れて青黒くなっていた。 の中に入っていた月丸が、嘴を開けた。 あれは、殴られた痕。 と ひゅう、ひゅうとした音だけが洩れていた。 だから、蚊に刺されたなどとごまかしたのだ。うつかりして 「月丸 ? 強く打ち付けたなら、そう素直に告げればいいし、手拭いを引 415