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検索対象: 小説トリッパー 2013年秋季号
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1. 小説トリッパー 2013年秋季号

ち上がらせるのは、読者一人ひとりの経験のうちにおいてです。 ものがある、そして消えていくものです。散文と韻文の違いは はっきりしています。 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなっ た」というのは、みなそれぞれ違った経験的時間をそれによっ 新聞記事と「雪国』の文章は同じ散文ですが、川端の文章は て味わう。そのときに、自分の経験的時間とびったり合う。そ 文章の外側のものを指し示しているわけではない。しかし、 説の文章が文章だけで成り立っているのかというと、そうではれが実は小説の描写におけるリアリズムの実現なのです。 新聞記事の文と違って小説の散文は幻想の領域と深く関わり ない。もし小説が文章で表現した外側のものを何も指し示さな ます。時間というのは科学的な時間ではなく、われわれの中を かったとしたら小説は成立しません。ここに微妙な問題があり ます。小説というのは、表現それ自体を目的としながら、しか流れている、ベルクソン的に言えば創造的時間です。その時間 は実は幻想です。われわれの経験、意識の中で起きていること し、現実世界とも結び付き、われわれに現実の似姿を提供する で、これは幻想領域です。新聞の散文は幻想領域とかかわって 力を持つ。 はまずい、かかわらないことが使命であり、正確に文の外側で 起こっていることを伝えればいいわけです。 小説は幻想の領域と深く関わる。目的は内的時間の実現。心 ・小説の描写におけるリアリズム 小説の最も大きな特技は、時間を表現できるということだと理、感情、思考に関わる領域。これが近代の小説の散文が対象 とする領域です。現実を幻想化すること、幻想を現実化するこ 思います。小説における時間、いわゆる経験的な時間が流れる と、両方です。これが小説の散文の大きな力です。 こと、「国境の長いトンネルと言ったときには、国境の長いト ンネルを具体的に外側に指し示していなくても、それを読んで いるわれわれの中に経験的な時間が流れる、それがわれわれの ・近代小説の最大の特色は描写である 現実感覚です。これを筋立てやストーリーと呼んだり、あるい 聴覚を奪われて描写の文章を目で追う。描写というのは実は はエピソードと呼んだりします。 一番面倒くさい行為です。書くときもそうだし、読むときもそ 「リアリズム」という言葉がありますが、これは近代において うです。なぜか。普段、われわれの言葉、思考、感情は描写し 登場してきた表現に対する一つの概念です。リアリズムという のは基本的には描写の問題です。現実をどう描写するか。現実ていないからです。そうでしよう、友達にいろんなことをしゃ の似姿をどう提供するか。言葉と現実をどう結びつけるか。そべったり、頭の中でいろいろ考えたり、恋人と話したり、独り れは実際に目に見えている現実のことではありません。表現し言を言ったりする、そこでは描写はしていないでしよう。ストー リ 1 をつくっているだけで、エピソ 1 ドはつくっているが描写 ている言葉が、意味している言葉が、意味されているものを立 127 東大で文学を学ぶ

2. 小説トリッパー 2013年秋季号

気投合した場面は描かれていますが、下書きには、食堂から出ませんから、「さて」とした。でも、原文では「 mais 」になって たあとも非常に親しげな関係がこんなふうに書かれているそう います。なぜ「しかしーなのか。これは客観的記述文ではなく です。 自由間接文体だからである だが、待てよ : 「レオンはポヴァリ 1 夫人に腕をそえていた。《こうして二人は 。生島遼一は、「すぐわかれのあいさつをし ほかの人たちより前後ろにいた》」と「前」を消し、「後ろ」 なければならない」と訳してますね。これは、「 mais 」を文章の後 に直しています。つまり、早く家に帰るということは二人が別半で生かした見事な訳と言えるのではないか、生島は、草稿を れるということですから、みんなの前にいるよりも後ろにいて、 みないまま、このフレ 1 ズが自由間接的文体と読み取っていたー みんなより遅く歩く。 T そしてほとんど感じとれない手袋をした その手の重みは、〈何故かはわからぬまま〉、その心に、 : 、彼の心 に、これまで感じたことのない、漠たる満足感を与えていた〈も ・「すべての近代小説は探偵小説である」 このテーゼは、なぜ小説。 こあれほど犯罪をテ 1 マやモチ 1 フ たらしていた〉」という下書きがあるそうです。 「この「下書き』は、初対面のふたりが夜の戸外で他の人物た にした物語が多いかということとかかわってきます。それは現 ちからやや離れて別れがたくしていたさまを明らかにしており 実が犯罪に満ちているからなのか ? そうではありません。間 それを前提にしない限り、「しかし、医者の家は旅館からほんの違いなく現実は犯罪に満ちていますが、だから小説のテーマと 五十歩ほどのところなので、すぐにおやすみを言いかわすとき して、あるいは物語が犯罪とかかわることが多いということと が来た」の「しかしー「 Mais 」の意味は理解できない。 は違う。それは幻想が行為に移る姿、瞬間が、最も鮮やかに見 すぐに「おやすみを言いかわすときがきた」が、客観的な記 えるのが犯罪だからです。その典型が殺人。 述とずっと読まれていたが、草稿で二人の親しげな関係、別れ 動機から行為へ。動機というのは内面です。行為というのは 難い関係が書かれていたものが削除されて、突然「しかしーと現実で、だれもが目に見える世界。目に見えない動機から行為 なる。ですから、この「しかしーは消された二人の心情を表す に移る、現実に、行為に移るその起源としての動機、心理、内 「しかし」である。「しかし、おやすみを言いかわすときが来た」面、これを描く。 という文章は自由間接文体と理解しなくてはならない、という なぜ『罪と罰』の最初に殺人があるのか。行為があってその わけです。 動機の探索のためです。探偵小説は最初に死体があって、そし 基本的に こういう生成論的草稿研究がまだなされていないときですかて犯行現場を再現するところまでさかのばっていく。 ら、生島遼一は「さて」と翻訳した。つまり、生島遼一は客観古典的な探偵小説には目に見える証拠さえあれば、動機 的な記述だと読んでいるわけです。下書きが読めるわけがあり は重要ではありません。だれが犯人かということがわかりさえ 辻原登 134

3. 小説トリッパー 2013年秋季号

この問題を考えるのに、恰好のテキストがあります。横光利光利一が「純粋小説論」を発表し、小林秀雄がそれに触発され 一の「純粋小説論ーです。 て「私小説論」を書いたような作家と批評家の関係というのは、 横光利一は大正末期から活躍していた作家で、戦後すぐ、昭それ以来ほとんど日本にはありません。 和二十二年に亡くなっています。彼は日本の近代文学にとって しかし、小説家は、小説は危機にある、批評家は、批評は危 非常に重要な作家です。つまり、小説家としての問題意識を、 機にある、と常に考えることが大切です。つまり、批評が批評 近代日本の小説家の中で最も先鋭的に持っていた作家だと思い 自身を意識すること、小説が小説自身を意識すること、これが ます。 ないと本当は近代小説が成り立たないということを中心のテ 1 彼は一九三五年、今から七十八年前になりますが、「純粋小説マに、これから話していきます。 論」という文章を発表しました。横光利一はその三、四年前に 『上海』という上海を舞台にした一種の冒険小説を書き、その前「純粋小説論」が書かれた一九三五年というのは、時代的にも に、これはゴーゴリを上回るような小説だと私は思っています非常に危機的な状況であったことは確かです。一九三〇年代、 が、『機械』を書き、『寝園』という見事な風俗小説を書いてい ファシズムが台頭してきている、三六年にはスターリンの粛清 ます。そのあとに「純粋小説論」を発表しました。 が始まっています。日本では、天皇制イデオロギ 1 が国家の根 これは本質的な小説論で、小説とは何か、どうあるべきか、 幹のイデオロギ 1 として確立された時期ですし、一一・一一六事件 小説というジャンルは今危機に瀕している、だからもう一度小 や上海事変があって日中戦争に突入していく時代です。文学の 説というものをあらゆる角度から考え直さなくてはいけない。 外側で世界は激動している。 月説というものを内部から、ラジカルに、真剣に考えてみよう ヒットラーが台頭してくる、日本もファシズムの時代に入っ とした。小説を小説たらしめるものは何なのか、小説が小説自 ていく。しかし、時代というのはいつも危機的状況にある。も 身を意識する瞬間というのはどこなのか、つまり近代小説そのし、二〇〇〇年から二〇一三年の十三年間を五十年後の人がど ものの起源に直接かかわっていきます。 んな時代であったかと見れば、たいへん危機的な状況にあった この論文が発表されたのは一九三五年の四月ですが、同じ年と思うでしよう。縮めてみるとそうなる。 の五月から八月にかけて小林秀雄が「私小説論」を発表します。 実際にその時、生きている人間には、なかなか危機というの 横光利一という優れた小説家が小説について考えた文章を読ん は認識できないものですが、時間的な距離をおいて過去を振り で、触発されてすぐに「私小説論」を発表しました。批評家と返ると、歴史は危機の連続である。世界史にしても日本史にし して小説をどうとらえるか、どう考えるか。これもまた、批評ても、ほとんど戦争の歴史みたいなものになっていくのは当然 が批評自身を問い直す非常に重要な論文です。一九三五年に横のことです。われわれの幸福な日常というのは、歴史的な課題 しんえん 辻原登 108

4. 小説トリッパー 2013年秋季号

のかっちりしたコマ割りと、幻年組のコマ割りの「枠のな さ」はまったく違う。だから読み慣れてないと、コマをど ういう順番で読んで、コマにまたがっているナレ 1 ション はいっ読めばいいのかわからない。枠組みのはっきりした 世界像に馴染んでいる大人的、男性的な眼差しでは、読み 取れない情報の提示の仕方だと思うんです。 あさの感覚としてものすごくいま、枠組みが強くなって いる時代じゃないですか。社会的にも、想像力の領域でも。 だからこそ、それを溶かしていくものを読みたいなと思う し、たくさんの人に読んでもらいたいなって思います。 穂村もうちょっと枠組みが強化されたら、いままで挙げ てきた作品はみんな禁書になっちゃいますよね。 あさのそうですよね。個人的なところにものすごく絡ん でくる物語は、一番最初に切られていく、社会に押さえっ けられていくものだと思います。 穂村少女漫画に関して、ある時期にあった熱狂が、いま はなくなったと感じられるのは、もしかしたら作品自体が コンサバテイプになっていったことも関係あるのかもしれ あさの枠組みの中に取り込まれて、枠組みと同化してし まっている。自分のカのなさをさて置いて言わせていただ くと、「わかってしまう」漫画が多くなったような気がする んです。 「現実」と同等のリアルさで存在する 少女漫画を読んで恋愛を学んだり、男の人ってこうい う人なんだ、女の人ってこういう人なんだと、教科書的に 楽しまれた経験はありませんか ? 穂村それをやったら、むしろ逆効果でしよう ( 笑 ) 。昔っ きあっていた女性に、「なせ現実の男はみんな ( 『ト 1 マの 心臓』の ) オスカー・ライザ 1 みたいじゃないの ? ーって、 臓腑を抉るような質問をされたことがあって。う 1 ん、そ れは : : : みたいな ( 笑 ) 。 あさの私としては、登場人物たちに恋をしているので、 現実的に恋愛なんかしなくてもいいかなって ( 笑 ) 。少女漫 画を読むことで、自分の中の恋愛感情は十分飽和状態でした。 穂村恋愛がこういうものならしてみたい、とは思いませ んでしたか ? という思いはあったんで あさのこの中で生きてみたい、 すけど : 穂村作品の中に自分が入って。 あさのそうそう。『日出処の天子』だったら官女として、 厩戸王子と蘇我毛人の恋愛を陰から見てるだけでもいい ( 笑 ) 。現実の中で、少女漫画のような恋愛をしたいと思っ たことはないですねえ。ある意味リアリストというか、現 実の中で誰かとそういう関係を結べるということは、最初 あさのあっこ x 穂村弘 18

5. 小説トリッパー 2013年秋季号

アート未満 ? 何も創らないアーティスト、もう少し正確に言、つと、美 術のマ 1 ケットで取り引きされる「作品」というものを創 らないア 1 ティストの存在が、ずっと気になっている。市 場に組み入れられることを拒むというよりは、そもそも市 場で商品として流通することが不可能な創造行為と言うべ きなのだろうか。それとも、「作品」を制作するのではなく、 何かある「出来事ーを出現させることとしての行為とでも が、そういう活動も現時点ではさら 言うべきなのか : に液状化していて、もはやそのような規定によって輪郭を なぞることすらできないよ、つにおもえる。 「芸術とは何か」という問いに答えようとする試みが、 まるでおさだまりのように、欲求不満と混乱の一つちに 終わるとすれば、おそらくー哲学ではしばしばこん 問いが悪いのである。 なことが起こるのだが ( ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』、菅野盾樹・中村雅之訳 ) グッドマンは、 ( 鑑賞者の眼からすれば ) アートとノン・ ア 1 トの境界にあるように見えて「これは芸術なのか」と 戸惑ってしま、つような作品群の評価をめぐり交わされる「芸 術とは何か」という論争に、いわば斜交いから介入していっ た。ア 1 トの液状化というとき、わたしがいま入りかけて いるのもそういう問題の一領域、そして問題へのそういう 入射角なのだろうか こわ グッドマンは、路上から拾ってきた石を、あるいは毀れ た自動車のフェンダ 1 を、ギャラリーに置いただけのもの、 ( 彫刻家・オルデンバーグの指示でなされた ) セントラルバ 1 クで穴を掘り、また埋めるという行為、さらには環境芸術、 概念芸術などを例に挙げてーグッドマンが挙げているの は七〇年代までの例だが、現在ならアウトサイダ 1 ・ア 1 トもここに含まれるだろうー、それが芸術作品かあるい はそうでないかを区分けしようというのは、まちがった問 いの立て方だという。ある物ないしは出来事が、あるとき は芸術作品として機能し、別のときにはそのように機能し ないという点に着目し、「ほんものの問いは『どのようなも のが ( 恒久的に ) 芸術作品なのか』ではなくて、『あるもの が芸術作品であるのはいかなる場合なのか』ーあるいは はもっと短く : ・『いっ芸術なのか』である」、というのだ。 「芸術が何であるか」とその本質を問うのではなく、「芸術 が何をするか」というその機能において問うべきだ、と。 ま その機能をグッドマンは「象徴ないしは「指示」といっ る た記号作用に見ている。そして暫定的にある物ないしは出 の ちゅうみつ 来事が「作品として機能する」五つの規準 ( 構文論的稠密素 / 意味論的緻密 / 相対的充満 / 例示 / 多重で複合された指 はすか

6. 小説トリッパー 2013年秋季号

作中、この作品ほど、おかしく、またかなと受け取るかは大きく意見の分かれるとこ御坂小五郎たちは「刀一本で国を獲る者 ろだろう。ただ今回の候補作から受賞作をもいる」時代に「刀で世の中を渡っていく しく、したたかな作品はなかったと思う。 本当は硝石を使っているのだが、火を吹く出すとしたら、やはりこれしかないように器量が自分にはない , として、これまた器 量の小さいどうしようもない主人にでも「目 特殊な能力を持ち、ひょっとこ面をした火思えた。 をつむり、鼻を摘んで仕えて生きるしかな の神様、火男をめぐる一種の奇譚、または不思議な味わいをなす最大の要因は、小 い」と自覚するために、戦意ばかりか生気 メルヘンといった内容のもので、いい意味説としての「視点ーがすっと高位置でストー リ 1 展開することかもしれない。時代小説すら喪失している。あたかも冴えない町工 で、歴史・時代小説にこういう持ち味の作 マンの前に 品はなかったと思う。ュ 1 モアが哀切に、 の場合、主人公の登場が俯瞰的に描かれる場や零細企業に勤めるサラリー 哀切がユ 1 モアに転じる巧みさ、また、人のは常套とはいえ、彼の内面が語られない突如ス 1 パー職人が出現し、世界に打って として受け入れられぬ主人公を通しての寓まま、先に周囲の人物の内面が、これも俯瞰出られる製品の開発を始めだしたようにし 話的要素等々。一方でさまざまな欠点も指的にだが、やけに綿密に述べられるのは珍て、火男は御坂小五郎たちに「生きる張り 摘されたが、私はこの作者が今回の五人のしいように思う。そのことに多少の違和感を与え、到底勝ち目がない籠城戦を勝利に なかでいちばん物語作家としての芽を持つはあっても、たとえば黒澤映画の『用心棒』導くのだ。 要するにこれは寓話的な大人のメルヘン のよ、つな、いわゆるトリックスタ 1 的ヒー ていると思い、受賞作に推した。 ロー物と解釈すれば、がぜん読みやすくなっとして愉しむべき作品らしく、この時代には た。主人公の風貌が文字通り「火男 = ひょっあり得ないような火器をふんだんに使用し とこ , であるのもまた、作者がトリックスた戦闘シーンもまた、現代戦の寓意として作 者は敢えて無惨に描出しているように思う。 タ 1 を十分に意識したものと窺えた。 「関東全体が熱を持ったようにいたるとこ奇しくも今回の候補作には籠城戦を描い ろで人々が沸騰している」時代に、大きなたものが二作品あって、もう一本の「孤城、 歴史の流れとは無縁な戦闘集団の共同体へ陥ちず』のほうが小説としての平均点は高 かったかもしれない。ただ如何せん、読み ふらりと迷い込んだ火男こと俵藤藤太は、 時代を超越した武器の使用で超人的な働き比べると、肝腎の籠城戦の描き方がいささ 寓話的な大人のメルヘン をするばかりではない。その誰が見ても笑か迫力不足だった点は否めない。それはな かぎゅう わずにはいられない風貌で他人の垣根をやまじ「火牛の計」の故事に拠った作品だか 『火男』には不思議な味わいがあって、そすやすと越え、結果、御坂小五郎を筆頭とすらだろうか。 もうしよ、つ第、んがっき 有名な孟嘗君や楽毅に比べたら地味な田 れを小説としての欠陥と受け取るか、魅力る名も無き武士たちの心に火を灯してゆく。 松井今朝子 Matsui Kesako でん 37 選評

7. 小説トリッパー 2013年秋季号

」当を一き驫 から求めていないかもしれません。子どもが欲しいから、結 婚はしたかったんですけどね。自分はもう、少女漫画の中 で体験した以上の恋愛は、興味もないし、できないなと思う。 するとしたら、自分の作品の中でしてみたいという感じです。 穂村ひとっ思うのは、さきほどの同性愛的世界という話に も関連しますが、あの頃の少女漫画の傑作と言われているも のはどれを見ても、ヒロインが子どもを作り、女性として成 熟していくという話はないですよね。永遠の少年性、少女性 枠組みが強化されつつある いまたからこそ読みたい 3 作品 あさのあっこの 3 冊 『半神』萩尾望都 ー 74 年小学館文庫 取子の妹と繋がっている少女ユージーは妹に 複雑な感情を抱く。分離手術を受け別々の道を 歩み始めるが・・・・・・。「テーマの深さ、端的な表現、 想像以上の結末と全てが圧巻。あらゆる表現の 中で最高傑作の一つではないか」。 ナンキン・ロード 『南京路に花吹雪』森川久美 82 ~ 年白泉社文庫 19 年代の上海を舞台に、日本と中国の諜報戦 を描く歴史大作。人気シリーズとなり、番外編 も数作発表。「時代 & 舞台設定やスパイという 題材は革新的だった。登場人物の背景の書き込 み、掘り下げ方も見事」。 『ファラオの墓』竹宮惠子 ン ' 等の・ 74 ~ 76 年中公文庫 古代エジプトを舞台にニ人の青年の争いとそ の恋を描く大河口マン。「「風と木の詩」の退廃 的な美とはまた異なる、スケールの大きな活劇。 少年期特有の普遍的な、また各々の立場ゆえの 孤独や絶望がしつかり描かれている」。 穂村弘の 3 冊 『トーマの心臓萩尾望都 ー 74 年小学館文庫 欧州の寄宿学校で起きた、一人の少年の死を端 緒に、神、友情、愛を深く流麗に描く。「萩尾望都 とヘルマン・ヘッセは僕のなかで同じだった。 「これがばくの心臓の音きみにはわかってい るはず」という言葉が象徴的」。 ″「日出処の天子』山岸凉子 : 80 ~ 年白泉社文庫 厩戸王子 ( 聖徳太子 ) と蘇我毛人 ( 蘇我蝦夷 ) を 主人公に、飛鳥時代の歴史とニ人の深い愛憎を 描いた歴史ロマン大作。「山岸さんは「アラベス ク」や、ほかの怖い短編もとてもすばらしいけ れど、やはりこの作品に尽きる」。 こラ 2 , 「バナナブレッドのプディング』 大島弓子 77 ~ 78 年白泉社文庫 Z ン ( 彡 : 人とは少し違う感性を持った女子高生の恋を 独特の語り口で表現した連作。「この主人公は 駄目なんじゃないか。心がぐらぐらで、この世 界ではどうあがいても生きられないんじゃな いか。そして、彼女は私なんじゃないか」。 ※年は発表年、版元は現在入手可能文庫版 19 枠組みから解き放つ「 24 年組」のカ 。『ホットロ 1 ド』 にフィックスした作品がほとんどで : 、あのまま行くと子どもを早めに作りそうですが あさのやつばり『ホットロ 1 ド』だけ異質ですね ( 笑 ) 。 穂村佐々木倫子の『動物のお医者さん』なんて、現実を 徹底的に遮断してるでしよう。あのリアリティのなさが、 逆に現実のプレッシャ 1 をいかに作者が感受しているかの 裏返しだと思うんです。人間が恋愛するということを知ら 7

8. 小説トリッパー 2013年秋季号

事物のフォークロア の一節だった。 闇のなかに一条の光が射すように、出口のない暗闇の ム本の樹にも なかを彷徨っていた二十代後半の僕に、「言葉」という 明かりをともしてくれたのが、寺山修司だった。その当流れている血がある 時、無為な生活をして、友人達にも心配をかけていた僕樹の中では血は立ったまま眠っている は、寺山の一冊の文庫本をきっかけにして、まるで飢え た動物のように、彼の本を読んでいった。短歌、俳句、 詩はもちろん、寺山が書いた演劇評論や映画についてのどんな鳥だ 0 て ェッセイも。彼の映画作品を観て、彼が語った他の映画想像力より高く飛ぶことはできない 、、こつ一つ も観た。パゾリーニ、プニ = エル、デ = ラス、フランソ ー、ジョン・ヒューストン、エリア・カ ワ・トリュフォ レ、フェ一アリコ・ ザン、里 ~ 澤明、ジャンリュック・ゴダーノ 世界が眠ると フェリーニ、今村昌平、大島渚 : よくジーンズの後ろポケットに彼の文庫本を入れて歩言葉が目をさます いていた。深夜営業の喫茶店の片隅で読む彼の詩や評論。 その言葉は、目の前に迷宮のように、ヌエのごとく横た わっているこの「世界」に風穴をあける、煌めくような大鳥の来る日甕の水がにごる ジャック・ナイフに見えた。そしてそのナイフは、同時大鳥の来る日書物が閉じられる 大鳥の来る日まだ記述されていない歴史が立ちあがる に読者である僕にも、容赦なく刃を向けてきた。 僕は寺山修司の言葉の力を浮力にして、精神的などん大鳥の来る日名乗ることは武装することだ 。底の状態から、少しすっ水面へ向かって浮上していった。 しばらくして、僕が雑誌に初めて書いた記事は、劇作大鳥の来る日幸福は個人的だが不幸はしばしば社会的 なのだった ーだったが、それは明ら 家如月小春の劇団公演のレビ = かに寺山修司的な見方をしたものだったはすだ。あらゆ る意味で、寺山修司は僕にとって恩人だった。 きら ( 寺山修司未刊詩集『ロング・グッドバイ』より )

9. 小説トリッパー 2013年秋季号

丿イ 刑務所に慰間に訪れた名人・八雲の落 謎の疫病により男子の数が激減した江 幼い頃家族を失った歳のプロ棋士・ 桐山零。深い孤独を抱え、将棋という戦戸時代。男女の役割は逆転し、女将軍の語にほれ込み、出所した足で弟子入りし た元チンピラの与太郎。妖艶な八雲の落 いの世界で生きるが、近所の一家 ( 3 姉元、大奥には美男 3 千人が控えていた。 語とは対照的な、八雲の親友で今は亡き 妹 + 祖父 ) と共に過ごすうち、少しずつ「生きるということは : : : 女と男というこ ただ女の腹に種をつけ子孫を残助六のやんちやで情熱的な落語にも魅力 変わり始める。命を削って戦う棋士たちとはー の姿に、著者自身のマンガに挑む姿勢がし家の血を繋いでいくことではありますを感じるようになる。そして八雲の口か まい」。男女が逆転した大奥という設ら二人の過去が語られるが : : : 。大きな 重なる。読み手にも本気で向き合うこと 定が、男という生き物、女という生き物見どころは八雲の落語シ 1 ン。表情やし を強いるような、緊迫感あふれる作品 3 姉妹の次女、中学生のひなたのいじめが抱える哀しみや、社会の抱える矛盾をぐさはもちろん、描き文字やふきだしの 問題に肉薄したくだりは必読。勇気をふあぶりだす。堺雅人主演の実写映画、ド形まであらゆる要素を駆使して官能的に りしばり闘うひなた、ひなたを本気で支ラマも話題に。近巻では平賀源内、田沼表現。落語を知らない人にもその魅力を 存分に伝えている。 ( ポ 1 イズラブ ) える零と家族、逃げる教師、逃げない教意次が登場し、大奥に新たな風が吹く。 師、いじめた側、すべての人の行動が丹手塚治虫文化賞マンガ大賞、センス・オ誌でもキュ 1 トなキャラクターたちを描 き、すでに人気だった著者は、本作で一 念に描かれる。マンガ大賞 2011 、講プ・ジェンダ 1 賞など多くの賞を受賞。 談社漫画賞受賞作。著者は萩尾望都との著者のよしながは三浦しをんとの対談気にプレイクした。非常に「いまどき」 ( 『あのひととここだけのおしゃべり』収の絵柄ながら、過去作からの伝統的な文 対談 ( 『マンガのあなたのわたし』 収録 ) の中で、萩尾に強く影響を受けた録 ) の中で、幻年組の精神を次の世代に法を積極的に取り入れた「漫画らしい」 表現も大きな魅力。 伝えたい、という旨の発言をしている。 ことを衄っている。 三月のライオン 羽海野チカ 白泉社 大奥 = ~ よしながふみ 白泉社 を」 昭和元禄落語心中 雲田はるこ 講談社 29 伝統と革新一一必読の 15 選

10. 小説トリッパー 2013年秋季号

単を主人公にし、彼を「自分が超えることき込まれることがない。 うまく織りなせていない。主人公の火男は、 のできない人間が存在することを知ってい 物語を書くということは、とりもなおさ過去を語りはするが、人物の精神的内面が る」人物と性格づけた冒頭のシ 1 ンが印象ず主人公の生き方を書くことだ。その人物空虚であるとしか感じられず、わたしは残 的なだけに、そこから脱皮して真の英雄にがなにを感じ、考え、どのように行動した念ながら最後まで同調できなかった。 なるシーンも力強いタッチで描いてほしい かが魅力的に書かれていなければ、物語は十万を超える鎌倉の軍勢に囲まれた城を、 ところだ。主人公の控えめに過ぎる性格は立ち上がってこない。 最後に残った八十数人で守りきるのが物語 作者のそれと重なるのかもしれないが、そ『孤城、陥ちす』が、わたしとしては最ものクライマックスである。枚数をたつぶり れをどこかで吹っ切ることが主人公にも作受賞に近い作品だと思った。この筆者は、使って書いてあるのだが、包囲軍に知恵が 者にも求められる気がした。 昨年も中国物で候補になった。しかし、まないせいで、臨場感が乏しく大軍に囲まれ だ筆の安定感が乏しく、選に漏れた。 ている緊迫感が感じられない 去年の作品と比べると、今年の作品は物そんな欠点を認めた上で、「作品のなかに 語の構成が格段によくなった。ただ、残念物語の芽がいくつもある」との意見があっ なことに全体的に行儀がよすぎて、主人公た。たしかにその萌芽は感じられるので、 の意志が希薄である。近ごろの中国物は、 わたしも受賞に反対はしなかった。 大家が書く作品でも文体の行儀がはなはだ『流星の秋』の筆者も、去年に続いての候 よい。しかし、そんななかでも、はっとす補である。前作より腕は上がっているが、 るディティ 1 ルや行動が書かれている。新まだ物語の東ね方がおばっかない。これも 井さんは、まだ自分の書くべき世界の細部多視点の構成で、読んでいても、どの人物 主人公の魅力 や人物の心のうねりが見えていない。全体に感情移入してよいのかわからなかった。 を構築する力はすでにそなわっているのだ多視点は物語の奥行きを深めるのに有効な 残念なことに、今回は強く押したい作品から、つぎは主人公の心情と行動に心血を手法ではあるが、ますテ 1 マと主人公をはっ がなかった。候補の五作品に共通して言えそそぎ、魅力的に書き上げる工夫を凝らしきりさせてから筆を進めないと失敗する。 ることは、いずれも主人公の人間像に魅力ていただきたい。主人公の活躍が読む者を『関白殿ご謀叛』は、大航海時代を背景に が乏しいという点である。 魅了したならば、賞はその書き手がっかむした壮大な物語になるテ 1 マだが、惜しい 物語は人間が起こす。その人間に魅力がだろう。 かな、さまざまな点で説得力が足りない。 乏しければ、物語は精彩を欠く。読んでい 『火男』は、作品の着想そのものは面白い。 壮大な物語を書くならば、それだけの材料 ても途中で飽きてしまい、物語の世界に引 ただ、多視点の構成が散漫で、物語の筋がと構成の下地をととのえてほしかった。 たん 山本兼一 Y 11a ー no [ 0 Kenichi