羽吉 - みる会図書館


検索対象: 小説トリッパー 2013年秋季号
14件見つかりました。

1. 小説トリッパー 2013年秋季号

の顔は少しばかり卑屈なものに、おけいの眼に映る。 「そうかい。道理であのお役人、懸命だと思ったせ。おめえの 情人とは思わなかったが」 おけいは身を硬くした。 羽吉がゆっくりと首を振った。 「だとしても、おめえを責めることなんざ、おれにはできねえ。 いくら帰れねえ訳があったとしてもだ」 三年だよなあ、と羽吉は呟いた。 たカだか三年。けれど女の身には、十年にも二十年にも感じ るのだと、おけいは責め立てたかった。羽吉の胸元を気が済む まで叩きたかった。でもそれも詮無いことだと、呑み込んだ。 おいと母娘の姿が浮かぶ。 おけいはすっくと立ち上がり、 「身重の女子を見捨てる人と、あたしは一緒にいたいと思いま せん」 棚の鳥籠の掃除を始めた。指先の震えを羽吉に悟られないよ う、おけいは背を向けた。 「強えな、おめえは。おれがいなくてもこうして立派に飼鳥屋 をやってきたんだものな」 違う。いなかったからこそ、懸命だった。それがどうしてわ からないの。いっ戻ってもいいようにとなりふり構わずやって きたことが、強いのひと言で済まされてしまうの。 おけいの胸の底から、静かに怒りが湧き上がる。 すべては、羽吉のためだった。 青い鷺は、すぐ傍にいたのに。 「イマカエッタョ 突然、月丸が鳴いた。はっとして、おけいが振り向くと、禽 舎へ眼を向けた羽吉の顔がぐしゃぐしやになっていた。 「月丸は : : : 連れて行ったほうがいいか ? おけいが首を振る。 「困るでしよう。あたしの名を呼ばれたら、お連れ合いが嫌な 思いをしますよ」 ああ、そうだなと、羽吉が俯いた 「それに、近頃はあたしの声色もだせるから」 おけいはくすりと笑みを洩らした。 「賢いャツだな」 羽吉は禽舎へ近づいた。 「月丸。勝手なこといって済まねえが、おけいと仲良くやって くれな。頼んだぜ。 止まり木から月丸は羽吉を不思議そうな眼で見上げた。 「おめえもそんな眼でおれを見るのか」 皮肉つほい口調でいうや、羽吉は身を返し、表へと出て行っ た。空を見上げ、険しい顔をする。黒い雲が垂れ込めている。 羽吉はなにかに引かれるように振り返った。 だが、それは一瞬のことで、すぐに首を回し、足早に去った。 羽吉が去って、半刻 ( 一時間 ) もしないうちにひどい雷雨と なった。大粒の雨は土をはね飛ばし、稲光は黒い雲を不気味に 光らせた。小鳥たちは身を寄せ合っている。 「今帰ったよ」 羽吉の口から聞くことができなかった。 そのとき、おけいははっきり気持ちにけじめをつけた。 おけいは、揚げ縁を上げす、じっと激しい雨を眺めた。涙は 梶よう子 426

2. 小説トリッパー 2013年秋季号

永瀬は憤った。 死罪になる前に、羽吉のことを残らず糾すつもりだと、静か だが力強くいった。 ながせやえぞう けれど半分がたおけいの耳には届いていなかった。 永瀬八重蔵の腕に抱きすくめられ、おけいは息が詰まるほど あかし 羽吉は生きているとずっと思っていた。どこにもそんな証が だった。 なくとも、おけいは信じていた。 拒めば拒むこともできた。 女房のあたしを遺して、死んでしまうはずがない。ただ、そ そうすれば、永瀬はすぐに身を引いただろう。 ぼくとっ う信じることだけが、この三年、おけいを支えてきた。 北町奉行所定町廻り同心を務める永瀬は生真面目で朴訥で、 だから、永瀬から話を聞かされた途端、おけいの支柱がほき ましてや己の熱情だけにまかせるような若い男でもない りと音を立てて折れた。 だからこその真っ直ぐな誠実さがその抱擁に込められている けれど、おけいの心を乱していたのは、それだけではない。 ような気がして、おけいはさらに強く永瀬の胸に頬を押し当て したや 永瀬とその娘結衣とともに下谷にある花鳥茶屋へ見物に出掛 はねきち けた日の帰り道だ。おけいは下谷広小路の雑踏で、若い女と連 亭主の羽吉が行方知れずになってから丸三年。その身を支え こら てくれる腕もなく、おけいはくずおれそうになるのを懸命に堪れ立って歩く羽吉そっくりの男の姿を見かけた。 、も、つ・ろう かげろう あれは、炎暑の中に立った陽炎だったのか。人波の中、朦朧 えながら生きてきた。 としていた自分が見た幻影なのか : いっ戻るとも知れない羽吉のために『ことり屋』を守ってき 谷に落ちた羽吉の死に顔と、夫婦者のように振る舞い歩いて いた男の姿がおけいの中で入り交じった。 小鳥たちのさえずりは、おけいをいつも慰めてくれた。愛ら ほほえ いつだったか。文鳥の世話をしている羽吉が自分と顔の似た しい姿で微笑ませてくれた。 者が、この世の中には三人いるといったことがある。よく似た けれど。 顔の者はやはり同じような性質をしているに違いないと、おけ おけいが求めていたのは、温もりだ。こうして身を寄せ合い、 いは思った。だとしたら、あたしが羽吉でない男を亭主に選ん 互いの心を重ね合うことだ。 ろくすけ でも、やつばり羽吉似なのだろうと笑うや、 その羽吉は胸元が青く光る鷺を捕らえに同道した六助という 「ばあ 1 か。そっくりなャツなんざ関係ねえ。おめえに惚れて 鳥刺しによって谷に突き落とされたことがわかった。 るのは、おれだけだ。だからおめえは間違いなくおれを選ぶさ」 己の姪とわりない仲になった六助は、その関係に怯えた姪を 羽吉はいつもよりも口先を尖らせ、拗ねたようにいった。 手にかけた。それに羽吉が疑念を抱いたがためのロ封じだった。 さぎ ただ 9 ことり屋おけい探鳥双紙

3. 小説トリッパー 2013年秋季号

「おけいさんらしくもないの。これまでここを守ってきた意味たしがいました。羽吉を裏切ったわけではないと。だって、死 んでいたとしたら、もう一一年半も前ですから」 がなくなったとでも思っているのかえ」 「そうして己の心を得心させようとしているのが許せないのか 違います、違いますと、おけいは小さな声でいった。 え」 「羽吉がいっ戻ってもいいように『ことり屋』を守ると決めた それもありますと、おけいは頷いた。 のはあたしです。でも、疲れてしまうこともあるのです。辛さ 「おいおい、それ以外にもなにがあるというのだえ」 に圧し潰されることだって」 馬琴は眼をしばたたいて、わすかに背をそらせた。 おけいの声は次第に高くなっていた。 「先生には、羽吉が亡くなったとお伝えしたおりには、お話し 「寂しさを埋めることも叶わないのですか。 いたしませんでしたが」 膝を回して、馬琴をしかと見つめた。 うな 馬琴が訝るように首を傾げた。 馬琴がおけいの視線をやんわり外し、ふむと唸って、顎を突 き出した。 おけいは、羽吉と瓜二つの男を下谷広小路で見かけたのだと じようまちまわ 告げた。若い女と連れ立って歩いていた。そのときは突然のこ 「あれか、永瀬八重蔵とかいう八丁堀の定町廻りかな」 とに平静さを失っていたが、あとから思い返せば、ふたりは旅 おけいは顔を伏せた。 てつこう 姿だった。手に笠を持ち、袖口からはたしかに白い手甲が覗い 「やれやれ図星かえ」 ていた。 馬琴は柔らかい笑みを浮かべ、頭頂部をつるりと撫ぜた。 あの夜、そのことを覚えていた永瀬から帰り際に問われた。 「なにがあったか訊くのは野暮だが ? 「別人でも本人でも、おかみが引っかかるのならそのままにし 「なにも、なにも、ございません」 ておけるもんじゃねえさ ただ、とおけいはロごもった。 永瀬は大きく頷くと、戸締まりしつかりなと、腰を低く屈め 小鳥たちのさえずりが耳に響く。 て潜り戸を出て行った。 「惹かれているとー それはわかりませんと、おけいは視線を落とした。でも、永「羽吉と瓜二つか」 馬琴は再び煙管をくわえた。 瀬と居ると心が安らぐのはたしかだと告げた。 はいと、おけいは小さく頷いた 「ヤツが武家だからか。そんなものはどうにでもなるわい 「このところお立ち寄りにならないので、まさかとは思うので 馬琴がふんと鼻から息を抜いた すが。 そうじゃないんですと、おけいは膝を回し、身を乗り出した。 んっと、馬琴が左だけ、眉尻を上げた。 「羽吉が谷に落とされたと聞いて、どこかでほっとしているあ あご いぶか 梶よう子 420

4. 小説トリッパー 2013年秋季号

「店を守ってくれてたんだな」 おけいが顔を上げる。 おけいはゆっくり顔を上げ、微笑んだ。変わらない羽吉の顔 ただ、と永瀬がいい淀んだ。 「身重の女房がいる。村の庄屋の娘でな、ずっとご亭主を看病だった。だが、少しばかり引きつった笑顔がそこにあった。 「あたしだって、おまんまを食べていかなくちゃいけませんか していたそうだ」 ら。でもこんな店、面倒なことばかりで、儲けなんかありやし なにも言葉が出なかった。なにひとっ言葉が出てこなかった。 ません . 頭を強く打って、なにも覚えていなかったらしい。ようやく しゅうげん 「ずいぶんだな。あのな、あいっともきちんと話をしてきた。 記憶が戻ったのは、祝言を挙げ、夫婦暮らしをはじめてからだっ おれはおめえが許してくれるなら、ここに」 たと、永瀬はとぎれとぎれにいった。 おけいは羽吉の言葉を制した。 「おれは、死んだとおかみに告げることもできた。だが、どう 「お役人さまから聞きました。お連れ合いの方、身籠っている してもご亭主はおかみに会いたいといってきた。おれが拒むこ のでしよう。大事にしてあげてくださいな。あたしにも好いた とじゃねえ。それを伝えに来たんだ」 方がいるんです。でも訳ありの人だから、面倒でもこの店を続 タの七ッ ( 午後四時 ) だと、永瀬は背を向けた。 けているんですよ」 羽吉の顔に血が上る おけいは店座敷に座って待った。十姉妹と白いカナリヤが売 「おめえ、まさか。あの永瀬って役人と」 れた。 おけいは真っ直ぐに羽吉を見つめた。 七ツの鐘が鳴り終わる前に、店先に羽吉が立った。おけいの 不意に羽吉が唇の端を上げて、はっと乱暴に息を吐いた。そ 心の臓がびくりと震えた。 ・定価 609 円 ( 税込 ) 一 SBN978 ー 462 ー 264595 ー 1 子どものいない夫婦が迎えた三毛、いじめに直面した 息子が選んだマンクス、老人ホ 1 ムに入るおばあちゃん のために探したアメリカンショートヘア : 今日き生せるさひしさと、 明日に見える小さな光き描く 7 編 ニ泊三日、毛布付きレンタル猫が我が家にやってきた , プランケット・ じゅうしまっ 絵・高野文子 A S A Ⅲ お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞出版 ことり屋おけい探鳥双紙 425

5. 小説トリッパー 2013年秋季号

週末は家族 「捜しているだろうよ。死んだはずの人間が生きているかもし帰れない訳があるとするならば、隣で微笑んでいた若い女のせ 、ヾ、」 0 れぬのだからな。だとしても永瀬は、羽吉の人相まで知ってお おけいの心は再び乱れた。もちろん生きていてほしい。変わ らぬだろう ? 」 らぬ姿を見せてほしいと願ってはいる。 「身につけていた衣装もお伝えしましたし、人相もできるだけ。 おけいが眉を寄せると、 でも、なにより永瀬さまは、羽吉の声を知っております 「なに、蛇の道は蛇、だ。御番所の役人であれば、常日頃から、 おけいはいった。 こうしたときのための網を張っているものだよ」 「ほう、なるほどのう。月丸の鳴き声はまさに羽吉そのもので 馬琴が励ますように強く頷いた あったからなあ。それはなかなかだ。めばしい男をみつけたら、 「永瀬という同心は、それが、おけいさんのためだと思うてい おけいといわせるつもりだろうて」 るのだろうて」 馬琴は煙を吐きながら含み笑いを洩らした。 けれど、この広い江戸でどうやって永瀬は羽吉似の男を捜す「あたしのため、ですかー 「三日に一度は訪ねて来る男だ。こんな小さな飼鳥屋に見廻り つもりなのかおけいには見当もっかなかった。いくら旅姿だっ に来るものか好いてないわけがなかろうよ。羽吉が生きてお たとはいえ、旅立っところだったのかもしれない。よしんば江 れば、それがおけいさんの幸せになると、そう思うておるのだ 戸へ来たのだとしても、しらみつぶしに旅籠を訪ね回るなど無 ろうて」 理だろう。 馬琴の言葉が、おけいの胸を衝いた だが、もし羽吉が生きて江戸に戻っているとするならば、な ぜここに帰っては来ないのかか、おけいにはわからなかった。 北上次郎氏「本の雑誌」 2 月号よ ) 「挂望実の傑作だ。家族小説の傑作だ」ー 「大輔と瑞穂とひなたの視点を交互に挿入しな から、ユーモラスに、そして時にはシリアスに、 特殊な家族の日々を、群を抜く造形と巧みな 挿話で描き出していく」 ( 北上氏 ) 読むと、すーっと気持ち軽くなります 桂望実 イラス第浜野史子 - はたご ・定価 1 、 680 円 ( 税込 ) 四六判 280 頁 一 SBN978 ー 4 ー 02 ー 250925 ー 3 A S A 印 お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞出版 ことり屋おけい探鳥双紙 421

6. 小説トリッパー 2013年秋季号

おけいは戸惑いつつ馬琴を見つめた。差し出された掌を見る 出なかった。空虚な思いだけがおけいの心を覆っていた。 と木彫りの鳥が載っていた。 「これは、鷽。天神さまの」 おけいは馬琴の前に煙草盆を出すと、唇を物み締めた。 馬琴が、うむと頷いた 「あたし、嘘をつきました。ひどい嘘つきです , 「あの同心の永瀬がな、わしの処へ来おってな。こいつをおけ 馬琴が煙草の煙をくゆらせながら、 いさんに渡してくれとな」 「なんの。おけいさんなど嘘つきのひょっ子だ。戯作者のわし まったく、己が渡せばいいものを、わしを誰だと思っている など、いつも大嘘をついておるからの。まあ、閻魔に舌を抜か のだと、ぶつくさ文句を垂れた。 れる覚悟はできているがな」 「鷽は嘘に通じるからな。溜まった嘘をこの木彫りの鷽と引き 肩を小刻みに揺らし、含み笑いを洩らした。 換えるー 「先生ったら」 ゅしまかめいど 毎年年明けに行われる鷽替え神事だ。湯島、亀戸の天満宮で おけいはロ許に指をあてた。 去り際に羽吉は一度だけ、振り向いた。でもそれは自分にで行われている。一年の凶事を嘘にして、幸せに替えるというも のだ。 はなく、『ことり屋』に未練を残しているのだと思えた。 おけいは、木彫りの鷽を手にして、胸に抱いた 戻って来てくれと泣いてすがったなら、羽吉は頷いただろう ひゆるると、籠の鷽が鳴く。 か。抱きとめてくれただろうか。身重の女子を見捨てて、もう うそぶえは、真実の声になるのだろうか 一度、ここで暮らしてくれただろうか。 月丸が羽吉に聞かせた鳴き声は、おけいが教え込んだものだ。 悲しくないといったら、それも嘘になる。悔しくないという だから、おけいの声色だ。 のも嘘だ。 「イマカエッタョ 人はこうして自分の心のうちにいくつもの嘘を溜め込んでい おけいが真実聞きたかった言葉だ。でもそれはもう届くこと く。いっかそれは何かに変わるのだろうか 「嘘をついてはいかん。が、たとえ真実だとしても口にしては 悲しみと優しさが交錯する。 ならぬものもある。なあ、おけいさん 知らず知らず眼前が滲んで見えた。 馬琴は店座敷から腰を上げると、おう、忘れるところだった ああ、あたしは泣いているのだと、おけいは思った。 ( 完 ) と、懐から、何かを取り出した。 えんま ことり屋おけい探鳥双紙 427

7. 小説トリッパー 2013年秋季号

でも、それじゃ駄目だ。 隣にいてくれなきや、惚れていないと同じ。 羽吉は、ほんとうにここにいたのだろうか。もしかしたら、 みんなあたしの作り話かもしれない。羽吉という名の鳥だった としたら、どこへでも好きなように飛んでいける。だから、翼 を広げて逃げ出したのだ。 それで、あらたな巣を見つけた。 きっとそうに違いない。 だから、羽吉は戻らない。 あの若い女を見つけたから。 もしかしたら、二度と飛び立てないように羽を切られたのか もしれない。ううん、あたしの傍より、居心地がいいから逃げ 出さないだけ : ・ 胸元が青く光る鷺を探しに出たのは、あたしから離れるため の口実だったとしたら。 ねえ羽吉さん : ・ なにを望んでいたの。何が欲しかったの。 あたしが悪かったの ? おけいの胸底から次々ととりとめのない思いが溢れる。いっ そ気が触れてしまったほうが楽だと感じた。 千々に乱れる心をたったひとりで鎮めることなど無理だった。 気づいたときには永瀬の胸元に倒れ込むようにすがっていた。 ただ、込み上げる不安と戸惑いに、おののき高ぶる気持ちを治 めてほしかった。 たぶん、永瀬もそれを感じ取って、受け止めてくれたのだろ おけいは店座敷に座り、通りを見るともなしに眺めながら、 えさす 餌を擂っていた。 閉じた唇から耐えきれず洩れた吐息に永瀬は気づいただろう それを思うとおけいの胸が絞られるようになる。 不意に身の内から血が上ってきて、おけいは手を止めた。心 の臓がはねるのを感じながらも、それを抑えることなどできな かった。 抱きすくめられたあの夜から、もう七日が経つが、その間、 永瀬は一度も顔を見せない。 のぞ 見廻りの途中で、大抵三日に一度は『ことり屋』を覗きに来 てくれていたのに。 わら・ヘ おけいは、童のようにかぶりを振り、再び乳棒を動かし始め すると通りから、軽やかで澄んだ音色のロ笛が聞こえて来た。 おいと、という付け木売りの少女だ。 旋律などない、まったくでたらめな音だが、なぜか耳に残る のは、どこか鳥のさえずりに似ているからかもしれない。 そろりと永瀬の背に腕を回すと、さらに永瀬の腕に力がこもっ た。胸を圧され、おけいは安堵の思いとともに、ひそやかな吐子 よ 息を洩らした。 梶 「オケイ きんしゃ つきまるかす 禽舎の中の月丸が掠れた声で鳴いた。

8. 小説トリッパー 2013年秋季号

いつもなら羽吉の声色で「オケイ、オケイ」と騒がしく鳴い は即命取りになる。しかも小さな生きものたちは、自分が弱っ ているはずだった。 ていることを見せまいとする。それは自然の中では、命の危険子 よ 月丸は懸命に嘴を開けるが、鳴き声にならないことに戸惑っ にさらされるからだ。そうした行動はたとえ籠の鳥であっても 梶 ている。首を傾げ、羽をわずかに動かした。 変わらない。ああ、元気を取り戻したと、飼い主が喜んでいる そういえば。 と、その数日後に死んでしまうこともある。 永瀬が来た日から月丸の声を聞いていないような気がしてい 月丸は上を向き、嘴を開けて、掠れた声を出している。いっ ものおしゃべりはどこへいってしまったのかと思うほどの声だ。 たたき おけいは、店座敷から裸足のまま三和土へ降り禽舎の中へと 「月丸、どうしちゃったの ? 」 入った。 空の盥の中から月丸はおけいを見上げた。深い深い黒色の瞳 暑さのために餌が腐ったのかもしれない。 が不安に揺れ、黒曜石のような輝きが失われている。助けてく 小鳥には、食べた餌を一日一納めておく袋が喉のあたりにある。 れといっている。おけいは、その場にしやがみ込んで、月丸の ありか 雛に差し餌をすると、その袋が透けて見えるので、在処がわか首元から背にかけて、静かに撫でた。 る。 「ごめんね、月丸。ずっと苦しんでいたの ? あたし気づかな どういうはずみか、運悪くその袋に詰まった餌が腐ったり、 くて」 黴びたりすることがある。これはとてもやっかいな病だ。声が けふけふ、と月丸が何かを吐き出すように嘴を開け閉めして いる 出ない、餌を食べようとしない、首のあたりを止まり木にこす りつけるような仕草をする。 あたし、なにをしていたのだろう。 その病を患った子は、ほとんどか助からない。おけいは、そ 自分のことばかり考えて、まったく、月丸のことを見ていな ういう小鳥たちをこれまでたくさん見てきた。 かった。餌を与え、水浴びをさせた。でもそれはただの日課に すぐに餌を見る。食べている量はいつもの半分に満たない。 すぎない。これまでは、羽の艷、眼の周り、足などに異常がな 糞はどうだろう。九官鳥の糞は水分が多い。裸足の足裏で糞を いかどうか常に気を配っていた。 踏みながらいつもと変わりがないのを見て、胸を撫で下ろした。 月丸はただの九官鳥ではなく、羽吉の声色でおけいを慰め、 、まだまだ油断はできない。 励ましてくれた大切な子だ。 鳴き声が出ないのだ。 なのに、月丸の変調に気づいてやれなかった。どうしたらい いたろ、つ 喉そのものが荒れている場合もある。 人ならば、三日も寝ていれば治る軽い風邪が、小さな身体で おけいは、禽舎を出て、羽吉が揃えた小鳥の飼育書を手当た か

9. 小説トリッパー 2013年秋季号

告げた。 ないんです , 「お恥ずかしいです。簪の先から失くなっていることに気づい むっと、馬琴がいつものように唇をへの字に曲げた。 てはいたのですが、どこかで落としたものだろうぐらいにしか 「きっと苦しんでいたと思います。なのにあたしったら、何日 思っていなかったので」 も気づいてやれなくて。朝だって、いつもだったらあの子の鳴 まさか、月丸の禽舎の中だったとはまったく考え付かなかっ き声に追いまくられるのに、それがないのをおかしいと感じて いなかったんですから」 たと、おけいは俯き、膝の上に載せた両の手を握りしめた。 馬琴は、店先から三和土のほうへと入り、禽舎の前に立った。 どこか上の空だったんですと、おけいは込み上げてくる思い 月丸は止まり木ではなく下に降りてじっとしたまま動かない をたまらず口にした。 嘴を弱々しく開けて、馬琴を見上げた。 「他の子と同じように、餌を与え、水をやりました。でも、月 丸は亭主の羽吉が遺していった大事な大事な子なのに」 「おお、わしがわかるかえ、月丸」 月丸が再び嘴を開けた。 「なあ、おけいさんや」 馬琴は煙管を手にした。 「よいよい、無理はするなよ。元気になったら、またおまえの おけいは馬琴の次の言葉を待ちながら、煙草盆を引き寄せた。 声色を聞かせてくれよ」 月丸は馬琴の言葉が理解できたかのように小さく首を動かし 「なにゆえ、そう己を責め立てる。月丸の世話に身が入らない あや のも仕方なかろう。羽吉が殺められたというのであれば、当然 た。その姿に、おけいはさらに胸を絞られるような痛みを覚え 、」 0 おけいは、童のようにかぶりを振る 「不注意であったろうが、自分を責めることはない。餌箱の中 「なにをそう苦しんでおる」 にでも入っていたのだろうよ。あるいは、光るものに興味を示 したのやもしれんな。それで沢渡はなんと」 馬琴はいささか呆れた口調だ。 「はい。きちんと餌を食べるようになれば大丈夫だからと。水 刻みを詰め、一口煙草を喫む。 その口から洩れた白い煙がすうと立ち上った。 にお薬も入れてあります」 「それならば」 「いっそ、気が触れてしまえば楽でしようか」 おけいはばそりと呟いた。 馬琴は店座敷に腰を下ろし、気に病む事はない、大事に至ら なくてよかったと、おけいへ顔を向けた。 「馬鹿をいうでない」 がんくび おけいは俯いたまま、ため息を洩らした。 馬琴は、灰吹きへ雁首をカンっと打ち付けた。その鋭い音に、 「先生はそういってくださるけれど、あたしは、あたしが許せおけいは思わず身をすくませる。 キセル ことり屋おけい探鳥双紙 419

10. 小説トリッパー 2013年秋季号

り次第に繰った。 「先生、おいでなさいませ」 おけいが店座敷にかしこまると、ふむと難しげな顔をして馬 焦っているせいか、ただ文字を追うだけでさつばり頭に入っ てこない 琴が口を開いた。 ちょう 「どうだね。少しは落ち着いたかえ。といってもすぐには無理 おけいが夢中になって丁を繰っていたとき、 だろうがな」 「おかみさん、こんにちは」 なにげなく羽吉のことに触れた。 若い男が店先に立った。 さわたりみつぐ 馬琴にはすでに伝えてある。すぐに香典を包んでくれたが、 医者の沢渡貢だ。 おけいは丁重に断った。 「沢渡先生、月丸を診てやってくださいませ。お願いです」 馬琴はます店先に立ち、揚げ縁の鳥たちと挨拶を交わす。偏 おけいは顔を上げ、店座敷から身を乗り出した。 屈だの、頑固だの、吝嗇だのと、馬琴とかかわる者は一様にそ ういってはばからないか、小鳥を前にした馬琴からはそうした 翌日。うだるような暑さは過ぎたものの、それでも少し動く と汗が滲んだ。おけいが棚に並ぶ鳥籠の掃除を終え、勝手で首影は微塵も見えない。どちらがほんとうの馬琴だろうとおけい は時々思、つこともあった。 筋の汗を拭っていたとき、 「さてさて今日も、皆元気かえ」 「今日も暑いの」 馬琴は眼を細めて、揚げ縁に置かれた鳥籠の中の小鳥に話し いつものしわがれ声が聞こえ、慌てて店に戻った。人気戯作 きよくていばきん かけ・る。 者で、常連の曲亭馬琴が、せわしなく扇子を動かし、剃髪頭を チッチッと、文鳥やカナリヤ、紅雀たちが首を上げ、馬琴を 拭っている。 朝日文庫 せんす 環 ・定価 588 円 ( 税込 ) 一 SBN978 ムー 02 ー 264612 ー 5 事件の唯一の目撃者。それは、 、目が見えないはずの女性たったーーー . 結婚直前に事故で失明した菜穂子は、まだ動物実験ー の段階だと知りつつ、人工眼を埋め込むが : ・ 書き下ろし最先端医療ミステリし「・ご ていはっ みじん とりか ) 」 お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞出版 ことり屋おけい探鳥双紙 417