織田が渋面を作った。 は、織田は、女がシャワ 1 を浴びている隙に封筒の中を覗いて 「ははは、織田さんは、銀行員というより商売人さ。鞍替えしみたのだ。思わず声を上げそうになった。確実に百万円はあっ た方かいいと思、つよ」 たからだ。女の視線が気になって再び内ポケットにしまい込ん 柳井は、封筒を織田のス 1 ツの内ポケットに突っ込んだ。 だ。この金を受け取ったからには、柳井の提案を受けざるを得 「さあ、きれいどころが待っているから、行こうか。今日は、 ない。そう織田は思った。 織田さんと俺との新しい出発だよ」 「なあ、織田さん。面白く暮らすのもいいぜ , 柳井は立ち上がると、織田の手を擱んだ。 柳井の鋭い視線が織田を射抜いた 柳井は店を出ると、タクシ 1 を捕まえた。 「でも : : : 、不良債権になるのはごめんだよ」 「どこへ行くんだ」 織田は、警告の意味を込めて言った。柳井が紹介する会社に 「天国だよ」 融資をするのはいい。 しかし不良債権になっては元も子もない。 柳井は、不安そうな顔の織田に笑いかけた。 こっちの首が飛んでしまう。 タクシーが止まったのは、吉原のソープ街だった。その一角「それは安心しろ。どの融資も短期の繋ぎだ。織田さんもいっ の高級ソ 1 プに柳井は迷うことなく織田を押し込んだ。 転勤するかわからないからな。それに不良債権にならないよう 織田は、柳井の金で女を抱いた。天国だという意味が分かっ に俺が監視する。金額に応じて手数料は変わる。千万円までは 五 % 、それ以上は八 % だ」 柳井が新しい出発と言った意味が分かったのは、ソ 1 プでの 「支店長の権限は、無担保で五千万円だ。それ以上だと本部の 熱気が冷めていない帰りのタクシーでのことだった。 審査部に回さないといけなくなる。できれば五千万円以内に収 柳井は、融資の度に織田に数パーセントの手数料を支払うとめてくれ。支店長ならどうにか丸めこめるからー 日 た 言った。それは今までのような一般客向けの不動産斡旋融資と 「そうするよ。織田さんの成績が上がるように色々と協力をさ し 融 は違う融資だった。その時は、柳井が関係する企業という説明せてもらうから。ところで奥さんとは上手くいってないんだろ しかなかった。 行 「分かったよ 柳井はにやりと含み笑いを洩らした。 織田は、柳井の提案を了承した。そうしなければならない空 織田はぎくりとした。どうしてそれを知っているのだ。家庭巨 気を感じたのだ。柳井はいつものようなソフトな感じから抜けの話などしたことはない。 抗 出ていた。了承しなければならない圧力を感じていた。胸に手 織田は、学生時代から付き合っていた女性と就職して一年後 と、も、」 を置くと、先ほど寿司屋で握らされた封筒の厚みを感じた。実 に結婚した。しばらくして女の子が生まれた。朋子という。し 、」 0
織田が説明した。 芳江が弥生の方に振り向いた。 「なんだか銀行で鶏の羽をむしっている絵だなんて、あまりに 「奥さま も銀行にびったりしすぎているわね 弥生が動揺した素振りを見せた 芳江が含み笑いを洩らした。 織田が、弥生を一暼した。 「ははは、大丈夫です。預金者をむしったりしませんよ。そん 「怒っちゃだめですよ、織田さん。私が無理に聞いたんだから」 ひど な酷い銀行じゃありませんから」 「はい、 承知しました。いずれご相談をしようとは思っていた 織田は、笑いながら、芳江と弥生の前にコ 1 ヒーを置いた。 のですが、後手に回りました。申し訳ありません」 「どうぞ、コーヒーでも 織田が頭を下げた。 「あらあら偉い人にコ 1 ヒ 1 なんか淹れさせて、申し訳ないわ 「そんな : : : 。謝ることはないわよ。私は嬉しいんだから。あ ねー なたには主人が亡くなって以来、お世話になりつばなしだしね。 「喫茶室から取ってもいいんですが、時間がかかる割に美味くそれに弥生さんというこんないい人をご紹介していただいたん ないんです。それに昔のように女性秘書がお茶を運んでくる時だから。あなたが幸せになることは、私も嬉しいわ」 代じゃないですからねー 「ありがたいお言葉です。感激しました」 織田は、芳江の正面にゆったりと座ると、コ 1 ヒーを口に運 織田は、さらに深く頭を下げた。芳江の隣に座っている弥生 んだ。 も同様に頭を下げた。 「今は男女同権ですからねー 「あらあら、二人とも、嫌だわ。そんなに頭を下げられたら、 弥生が笑みを浮かべながら言った。 私が困るじゃないの」 「菊川さんの言う通りです。今や銀行の中にも女性の役員が誕 芳江が苦笑した。 生する時代になりましたからね。私なんか、そのうち女性の上 「奥さまに、織田さんを助けて欲しいとお願いしたんです。頭 し 融 司にこき使われますよ」 を下げて当然です」 織田が弥生に話を合わせた。 弥生が言った。 「聞きましたわよ」 「私が弥生さんに話したんです。進退、極まりましてね。それ銀 巨 芳江が織田を意味ありげな視線で見つめた。 で無理を承知で奥さまにお話ししていただけないかと : 「何をですか」 織田が、姿勢を正した。 抗 織田が首を傾げた。 「織田さんが大きな問題を抱えておられてそれが解決しないと 「お二人のことよ」 結婚ができないなんて言われたものだから : : : 」 いちべっ
「それでは部長、この次のご予定が : ・ 実績に執行役から常務執行役への昇格を果たしたのだ。 しくら上手く化けて 織田は、柳井に退席を勧めた。柳井は、、 「君を支店長にしたいと思ったが、どうも人事部がね」 支店長は顔をしかめた。 も銀行員ではない。このまま調子に乗って話し続ければ、いす れポロがでないとも限らない。顔見せだけが役割だった。それ 「人事部がどうしたんですか ? 私は充分に貢献をしていると が済めばさっさと退出させるに限る。 思うのですが」 「おお、忘れてしまうところだった。それでは君枝様、よろし 織田の表情が険しくなった。 くお願いいたします」 「私は、そう思っているよ。しかしね、離婚したり、生活がど 柳井は、芳江の手を優しく握り、笑みを浮かべた。 うも派手じゃないかって : : : 。君、自由が丘支店時代にあまり 「はい、 承知しました。織田さんによくお話を伺いますー あくまで噂だよ。噂。 よくない人と付き合っていたって : 芳江は騙されているとも知らず上機嫌だった。審査部長とい どうもそれがネックになっているらしいね。まあ、審査役とし う大物がわざわざ時間を割いて挨拶をしてくれたのだ。悪い気て巻きかえしてくれたまえ。応援しているから」 はしないだろ、つ。 自由が丘支店と聞き、織田は愕然とした。今から二十年ほど 「とにかく金さえ集めてしまえば後はなんとかなる。その時は、 前のことだ。 こんな銀行、いつでも尻をまくって辞めてやるから , あの頃、柳井と知り合い、彼から金を受け取って、それなり 織田は、自分の背後にそびえ立っミズナミ銀行の本店ビルを に派手な生活をしていた。その結果、離婚もした。 見上げた。 柳井から金をもらっているのではないかと疑われ当時の支店 織田の目には憎しみに近い光が宿っていた。 長から事情を聞かれたことがあった。柳井にも調査が入った。 しかし、織田は徹底して否定し、柳井も否定した。疑いは疑い 出世させない銀行を恨む前に自分の実力のなさを恨めって : ・ のまま解明されず、織田は処分を免れた。 よく言いやがる。織田は、銀行に入ればせめて支店長にはなれ 織田は、自分を守ってくれた柳井に感謝と恩義を感じ、その ると思って努力してきた。そしてようやくその資格を得たが、 後も関係を保っていたが、表だって仕事上の繋がりは断ってい 日本橋の副支店長止まりで審査役のポストを与えられた。支店た。 長に出て行くための踊り場だと思っていた。ところが審査部に 柳井は、織田に定期的にコンサルタント料ですよ、と数十万 転出する間際、支店長から言われた一言が怒りに火をつけた。 円の金を提供してくれた。銀行の規則では許されないことだと 支店長は、上を見ているばかりの男で、織田に言わせれば自分は知っている。しかし、一度、吸った甘い汁は、枯渇すると以 たちを追い詰め、働かせ、見せかけの成績を上げさせ、それを前に増して欲しくなるものだ。織田は、柳井が提供する金を断 江上剛 162
それでも織田は、なんとか両派閥の中を泳いだ。しかし、ど田は、偶然、柳井の会社に飛び込んだ。不動産の紹介を融資に ちらにも与しなかったせいで仕事の成果の割にはあまり評価を結びつけようと考えたのだ。 されなかった。 柳井は、明るく、話し上手で、社交的な男だった。多少、こ 当然、昇格も遅れた。ゴマをすった連中に遅れをとるのは悔わもての雰囲気もあったが、着ているもの、身につけている時 しかった。こんなことなら旗幟鮮明にして派閥のポスに媚びを 計など、それぞれセンスもよく、高価だった。 売るんだったと思った時は、すでに遅く、大阪からさらに地方 織田は、柳井と気が合った。そして不動産紹介と融資を結び に飛ばされてしまった。 つけるという織田の考えは、見事に的中した。 ようやく管理職に昇格した時は入行して九年が過ぎていた。 柳井は熱心に織田に不動産購入者を紹介した。彼らに織田が そして自由が丘支店の融資課次席として赴任した。一九九三年、 融資をする。面白いほど実績が上がった。織田は支店でも一目 平成五年だった。中心ではないが、初めての東京勤務に織田は置かれる存在となった。 気持ちが弾んだ。 織田は、柳井との関係が深まるにつれて柳井と頻繁に遊び歩 くよ、つになった。 今から思えば一九八九年、平成元年の暮れに株価が三万九千 円近くにまで上昇し、日本中が浮かれていたが、あれがバブル 最初は、安い飲み屋で割り勘だった。ところが徐々に奢られ だった。 るようになり、それが当たり前になった。 その後、消費税導入や金融引き締め策などが実施され、経済 柳井と付き合って半年が過ぎたある日のことだ。渋谷の高級 は急速に悪化しつつあった。 寿司屋で柳井と飲んでいた。 しかし、平成五年は、まだ世間は勿論、銀行もバブルの余韻 「はい、これ」柳井が封筒を渡した。一センチほどの厚みがあっ に浸っていた。 た。金か商品券だと即座に思った。 阪神大震災や地下鉄サリン事件が発生し、世の中の人が不安「なに ? に駆られ、コスモ信用組合や兵庫銀行などが破綻し、バブルが 織田は、聞いた。柳井とはもはや友人のような口を利くよう になっていた。 崩壊したと実感するのは、まだ数年先のことだった。 「日ごろのお礼だよ」 自由が丘は、東急鉄道沿線の高級住宅地だが、商業が盛んな 「困るなあ」 地域でもあった。 「そんな堅いことを言うんじゃないよ。これからもよろしくっ 織田は、熱心に中小企業を訪問し、融資の営業を行った。 てことさ 織田が、柳井に会ったのは、そんな時だった。 柳井は、自由が丘の商店街で不動産紹介業を営んでいた。織「俺、銀行員だからさ。 おご 江上剛 150
織田は、食い付いてきたと確信した 9 と考えていましたのでとの両社の思惑が一致したんですね」 弥生が言っていた通りだ。上品にすました態度でいるが、芳剛 織田の説明に芳江がわずかに唇を歪めた。 「難しいですか」 江はケチだ。ケチは、本来、欲張りでもある。夫が遺した財産江 を減らしたくないだけだと言ってしたが、 、 ' 増やす機会があれば、 「いいわ、ちゃんと聞いているから、そのまま進めてください。 それを見逃したくないという欲望が笑顔に隠れている。さあ、 要するに他の人に渡った株を取り戻したいということね」 どんどん食い付いてこいよ 芳江が、書類から目を放して織田を見上げた。 「本当に月利二 % なの ? ねえ、弥生さん、月利と年利は違う 「ええ、その通りです」 織田は、芳江に頷くと同時に弥生にも視線を向けた。なかなわよね」 かしつかりしているじゃないかと目でサインを送った。 芳江が弥生に助言を求めた。 違います。織田さん、説明してあげてください」 「そこで困ったことが起きました。ミズナミ銀行はとも良好「はい、 弥生が言った。弥生の声が上ずっている。芳江の興奮を感じ な取引関係にありますので、敵対的な企業買収ではないのです ているのだろう。 。。ーし力なくなったんです。簡単に が、双方の立場に立つわナこよ、、 「例えば百万円の年利二 % で一カ月の利息は、百万円 x 二 % + 言いますとにからの株の買い取り資金を融資するわけには いかないんですね。それで投資家の皆さんから資金をお集めし十二カ月で千七百円ほどですが、月利二 % ですと百万円 x 二 % で二万円になります。今回は複利ではなく単利の月利ですので てに融資し、それでから株を買い取るスキ 1 ムを考えたの 年利に直しますと二 % x 十二カ月で二十四 % になります」 です」 織田は、淡々と言った。 芳江は、書類に目を落とし、黙って頷いている。 「あら、すごいわね。そんなに : 。今は銀行に預けても利息 織田は、弥生を見た。弥生は織田を見つめて、小さく頷いた なんてゼロに等しいのにねー 「投資家の皆さんのお金は、ミズナミ銀行が責任を持って預かっ 芳江が眼鏡を外した。表情は晴れやかだった。 ております。ですから元本は保証いたします。百 % 、安全とい 「ええ、大変な利息ですー うわけです。利率は、月利二 % です。これはミズナミ銀行の顧 「これは他人に言えないわね」 問税理士さんがお考えになったもので信頼がおけます。解約も 「その通りです」 可能ですー 織田はにこやかに言った。 月利一一 % と織田が話した時、芳江がびくりと身体を反応させ、 上体を起こし、織田を見た。その顔には驚きとともに一種の喜「奥さま、私にお金があったらすぐに投資したいですわ」 弥生が口を挟んだ。 びにも似た笑みが浮かんでいた。
りくどいこともいたしかたないかなと思います。他の二行の批 判を避けねばならないものですから」 織田は、また苦笑しながら頭を掻いた 「あなたの銀行は大洋産業銀行のままがよかったのよ。ミズナ ミ銀行になってからシステム障害などミスばかりでしょ う ? 三つも一緒になって上手くいくわけないわね」 とが 芳江が咎めるというより同情的な口調で言った。 「おっしやる通りです。私もそう思います」 織田は答えた。 「織田さんだって経営統合していなければ、今頃、大きな支店 の支店長だったんでしよう ? 弥生が言った。 「それは分かりません。実力が伴いませんとねー 織田が無理に謙遜した。 「何事も真面目な人が割を食うことになるのだと思いますよ。 芳江は、弥生の話に同意を与えたような返事をし、さてと居 住まいを正し、「今、どのような方が投資されているのか ? そ れと私が決断すれば、とかとかの会社名も教えてくださる のかしら」と聞いた。 「勿論です。会社名もスキームも詳細にお教えします。契約は 私への融資という形になります。それからこれは絶対に秘密で すが、現在、これに投資してくださっているのは、こういう方々 ですー 織田がリストを取り出した。そこには多くの個人名が書かれ ていた。 「ど、ついう方々なの ? 「君枝様のような資産家の方ばかりです」 その時、応接室のドアを誰かがノックした。 織田が立ち上がって、ドアを開けた。 「審査部長 ! 」 織田が大きな声で言った。 しぶいたつや 「ご挨拶にと思ってね。審査部長の渋井達矢と申します。この 度はお忙しいところ申し訳ございません。ちょっとご挨拶だけ させてください 渋井は、芳江に向かって深く頭を下げた。 芳江は、驚いて立ち上がり、「いえいえ、こちらこそ」と腰を 折った。 織田は、二人をにこやかに眺めていた。 弥生は審査部長と名乗る男を見て、目を見開いて、言葉を失っ ていた。 江上剛 156
そこまで : 「弥生さん : ・ 織田は弥生を見て、眉根を寄せた。 「すみません。織田さんの話は難しくてよく理解できなかった ものだから、つい 弥生が辛そうに目を伏せた。 「いいのよ。私で役に立っことなら。それに織田さんの話なら 信用できるしね。夫が亡くなってから、いろいろな人が言い寄っ てきたけど、どれもこれも信用できる話じゃなかったわ。でも 私一人じやどうにもならなかった。あなた方がいてくださった おかげで夫の遺してくれた財産をなくさずに済んでいるんだも のね。私は、財産を増やしたいとは思っていないのよ。生活だっ て慎ましいしね。ねえ、弥生さん ? 芳江が弥生に同意を求めた。 「ええ、その通りですわ」 弥生は、少し苦笑いをしながら、織田を一瞥した。 「本当はね、夫が亡くなった時、全部、国に寄付してしまえば よかったのよ。でも不安が先に立ってね。それができなかった。 だから私が死んだら、みんな国に寄付するつもりなのよ。それ は夫の遺志にも適うことなの。夫は、子どもがいなかったせい で、財産は国のものだってよく話していたから。だから財産は 増やしたくはないけど、減らしたくもないの。ちゃんと夫の遺 志を実現したいから」 芳江は一語、 一語確かめるように言った。その都度、亡き夫 の面影を偲んでいるようだった。 「まことに素晴らしいお考えです . 「では織田さんのお話を伺うことにしましようか ? なんとか しの ニ 0 一三年六月ニ十一日 ( 金 ) 午後一 0 時三 0 分 ( 新宿のホテ 「本当にケチなんだからね」 弥生は、織田に向かって思い切り煙を吐いた 「おいおい、煙いよ」 織田は、手で顔の前を払った。 弥生は、べッド脇に放置してあった浴室のガウンを素肌の上 からはおり、窓際に立った。両手を伸ばし、カーテンを開ける と、新宿の夜景が眼下に広がっている。 弥生は、窓に向かってガウンの前を広げた。窓を閉め切って いるため、夜風が吹き込んでくるわけではないが、なんとなく 火照った身体が冷やされていくようで心地よい 「おい、外から見えるぞ。 織田は、裸でべッドに横たわったまま、弥生の後ろ姿を眺め ていた。 先ほどまで汗がでるほど絡み合っていたために身体全体にけ だるさが残っている。胸のあたりを触ると、まだ弥生の唾液の ぬめりが残っていた。 「見えるわけがないじゃないの。ここ三十階よ できるといいんだけどね 芳江の言葉に促され、織田は腰を浮かせ、芳江に身体を近づ 「お聞きくださいますか」 江上剛 146
弥生は、セックスに貪欲だ。何度でも飽かずに求めてくる。 に芳江に尽くせ。ひょっとしたら遺産のいくらかでもくれるか もしれない。芳江には、子どもがいないから」と言いきかせた。 その度に応じていると、織田の身体が持たなくなるほどだ。 セックスばかりではない。愛人だった社長から贅沢を教え込「何か考えがあるんでしようね , 弥生は聞いた。「ああ、ある」 まれていたのだろう。見た目とは裏腹に身につけるものや食事そう答えたものの、その時、織田に具体的な考えがあるわけで はなかった。 など、贅沢を好んだ。 ゃない 金が嫌いな女はいないが、弥生もその一人だった。 「私、柳井さん、あまり好きじゃないわー 弥生が、顔を曇らせた。弥生がにじり寄るように織田の胸の 「もう少しだよ。ところでちゃんと二十穴日は銀行に来てくれ るんだろうな」 上に上半身を乗せてきた。 「大丈夫、ばっちりよ。ばあさんを必ず銀行に連れて行くから。 弥生が話題にしたのは、柳井邦夫のことだ。金融関係の仕事 私とあんたが結婚するのに障害になっている問題を解決して欲をしている織田とは古い付き合いの男だ。金融関係と言っても 銀行ではない。地上げや闇金など、銀行が取引しない企業に高 しいって頼んだの。あの人、あんたを妙に信頼しているのよね。 こんな悪い人なのにね 利で貸し付けている。 弥生が、織田の陰部を力を込めて握った。 「どうして ? 」 「ちょっと怖いでしよう。あの人ヤクザでしよ。銀行員があん 「いてー な人と付き合っていいの」 織田の上半身が撥ね起きた。 「はははは 弥生が眉根を寄せた。 弥生が大きく口を開けて笑った。 「ヤクザじゃないよ。投資家だよ。今回の話だって奴が持って きてくれた。もっとも俺が協力するという前提だけどね」 「潰れちゃ、つじゃないかー 織田が、弥生の頭に手を置き、長く伸びたストレ 1 トの髪を 織田が、陰部から弥生の手を撥ね退けた。 「あんたから計画を持ちかけられてから、そろそろ一年よ。絶手でしごいた。 「絶対にヤクザよ。あの目つき、何人か人殺しをしてきたよう 対に詰めを怠らないでね」 な目よ」 「ああ、分かっている」 弥生が顔を上げた。 織田は、芳江が巨額の資産を相続した際、なんとかそれを手 「馬鹿言うなよ。古い付き合いなんだから に入れることはできないかと考えた。 弥生の一言うことは半分、当たっていた。 そこで芳江の信頼を勝ち得る努力を続け、相談に乗る形で弥 生を送り込んだ。弥生には、「とにかく貞淑に振る舞い、献身的 柳井は、元ヤクザだ。広域暴力団小野川連合傘下の組にいた 江上剛 148
かし、結婚は失敗だった。妻は、社交性がなく、不満が多い女だ 銀行には、バレなかった。融資の手数料を取ることは明らか だった。仕事で遅くなっても浮気を疑った。織田は、耐えきれ な不正だったが、 斡旋された会社は不良債権にならなかったか ず別れ話が出て、今は別居中だった。 らだ。それに織田は、ヤバイと思ったら、会社名などを替えた 「なんでも知っているさー り、決算書そのものを偽造したりして支店長の目をごまかした。 柳井は薄く笑った。織田は、ぞくぞくと寒気がした。 ひやひやすることもあったが融資が完済になってしまえば、こっ 「ああ、離婚を考えている」 しの ちのものだと、なんとか凌いできた。その関係が、今日までずつ 織田は沈んだ声で言った。 と続いている。 ( ししことだよ。さっさと別れちまいな。そうしたら今 「それよ、、 日みたいないい女を抱き放題だ。織田さん、どうせ頭取にはな 「それで離婚はどうしたの ? 子どもは ? 」 れつこないんだ。銀行を上手く使って、自分で楽しめばいいん 織田の下半身をまさぐっていた弥生が顔を上げた。目の辺り だよ。俺が道案内してやるからー が上気している。 柳井は、気楽そうに織田の肩をばんと叩いた。 「離婚したさ。平成七年だった。あの時、娘は三歳だったかなあ。 柳井に紹介、斡旋されるままに融資をした。水商売や金融業 など、斡旋される会社を見て、柳井が暴力団小野川連合のいわ会わないことが条件だったから、それ以来、音信不通だよ」 「そうすると、今じゃ、二十一歳かあ。まだだとは思うけど、 ゆる企業舎弟の一人だと分かった。しかし、もうその時は後戻 早ければ結婚してお母さんになっているかもしれないわね」 りできないほど関係を深めていた。手数料で金回りがよくなり、 弥生の言葉に、織田が目を閉じると、幼かった朋子の泣き顔 遊びは柳井が酒でも女でも堪能させてくれた。 が浮かんできた。忘れられない泣き顔だ。別れる時、お父さん 柳井は、企業舎弟といっても警察にマ 1 クはされていない、 は旅行に行くからと言った。そんな見え透いた嘘をついたって と言った。あまり詳しいことは知らないが、暴力団と盃を酌み 朋子のこと 交わしたわけではないということだ。世間には全く知られす暴幼い朋子には通じなかった。泣いて、泣いて : は大事にしていた。夫と妻という大人同士のいさかいに子ども 力団と関係を結んだビジネスを行い、組織を支えるのが役割な のだという。なかなか上手くできているな、と感心した。柳井を巻きこんだ後悔が、いまだに消えやしない。会えるものなら は、そうしないと暴力団も生き残れないからと言い、だから俺今だって会いたい。何年離れていたって朋子だってことはすぐ に分かる自信がある もお前も妙な考えを持たないことだと薄笑いを浮かべた。あの まぶた 織田の險から、うっすらと涙が流れてきた。 時ほど柳井のことを恐ろしく思ったことはない。このまま、言 弥生の指が伸びてきた。涙を拭った。 いなりにならなければ、殺られるということだと理解したから 江上剛 152
ることはなかった。 俺と柳井の関係は誰にもバレていない : 織田は自信があっ 「支店長、一一十年も前のことが、それも噂が、どうして今、影 響するんですか ? 」 織田は少し気色ばんだ。 「まあ、そういうものさ。銀行はね。一度、ついたケチは一生 ついて回るもんだ。扶桑や興産と合併したから、余計だよ。ポ ストがなくなってきたからね。言葉は悪いが自分の実力だと思っ た方がいいかもしれない。実力のなさを恨むというか : : : 、失 礼だけどね 「そういうことになりますと、一度ケチがついた私は、もう支 店長にはなれないということでしようか」 織田の険しい顔に支店長は気圧されたように顔を歪めて「ま あ、頑張るんだな」と言い、その場を去ってしまった。 「この野郎 : : : 」 織田は奥歯が砕けるほど噛みしめた。 確かに真面目な銀行員ではないかもしれない。しかし、誰も た 彼もが聖人君子ではないはずだ。俺が何をやったと言うんだ。 し 融 多少、柳井から金をもらっているだけじゃないか。それは誰も ニ 0 一三年六月ニ十六日 ( 水 ) 午後六時 0 五分 ( 日本橋にある 知らない。知らないことは、ないも同然だ。 ビル内 ) 行 ある常務は支店長の時、ゴルフ会員権を二つももらって、退 八神は苛立ちを覚えながら壁に掲げられた時計を見ていた。 任後もそこで堂々とプレーをしている。ある部長は、取引先の約東の六時を過ぎても山村が現れない。元々、現役時代から時巨 建設業者に自宅を建てさせ、建築代金を半分に値切った。また 間にはうるさい方だった。取引先であろうと上司であろうと面 ある専務は、」 部支店長の時に同じ支店に勤務する女性を妊娠さ会する際は、約東の時間の十五分前にはその場に到着し、相手抗 せて、堕胎を要求し、金をせびられたではないか。こんなこと を待ったものだ。 表にならなかっただけで誰でも知っていることだ。 織田は、スキャンダルを起こした役員たちの名前を呪文のよ 、つに唱えた。 俺と、奴らとどっちが悪いんだ。俺は、問題も起こさずちゃ んと銀行に貢献しているではないか。 「それならば俺にも考えがある」 織田は、去って行く支店長の後ろ姿を見ながら声を殺して呟 すぐに織田は柳井に会い 「待ってたよ」 柳井は笑みを浮かべた。 織田は日比谷通り沿いにある帝国ホテルの方角を見つめた。 あのほっそりとして隙のない身のこなしの男は柳井に間違い ない。徐々に近づいてくる。人懐っこい笑みを浮かべた顔がはっ きりとしてきた。あの笑みが曲者なのだ。 、「いい仕事はないか」と聞いた。