では南方戦線を回り、スマトラ島で終晃子さんと結ばれており、九歳下の晃子ライなど食したこともありません。 「若い頃からの健啖家。体力もすごい。 戦を迎えるまで約五年。翌二十一年十さんは十七歳だった。昭和一一十三年三 これはなんですか』と聞くと、マッ座るとすぐに強い酒を飲んでいた。私 一月に復員したのだが、この間の十八 月、岳父となった幸四郎の後ろ盾を得タケをフライにしたというのです。ま に『なんでも食べて』と言って、京屋 年九月に父が亡くなっていた て大谷広太郎改め七代目大谷友右衛門 あ、そのまま食べても美味な食材ですさんは豪快に食べた。量ではなく、品 先の自伝や自著『女形無限』 ( 白水を襲名したのだった。 が、たまにはこ、ついった変わった料理数多く、少しすっ食べる人」。ところ 社 ) 、新聞のインタビューで語った戦 あまりに遅い女形の修業を始めたば もいいのではないでしようかおいし で、この店へ着くまでの道中が笑える。 争体験によれば、当時珍しかった自動かりの一一十五年、また急転回があった。 くいただいたことを覚えています」。 青山通りにあるコシノジュンコさんの 車のライセンスをもっていたのが特別映画『佐々木小次郎』で銀幕デビュ 1 『私事』にある思い出だが、五十一一年店に寄り道して買い物をするのだ。 を飾り、大ヒットのおかげで三十年ま 召集で入隊した理山だという。俳優は に四十九歳の若さで亡くなった夫人に 「『ハイ、これ。ハイ、これ』と、ジャ 比較的、慰問で各地を回らされる場合 での五年間に約三十本の映画に出演し ついて「女房以外の人を好きになった ケットやシャツをポイボイと買ってい ノブルのジャケットを が多く、兵隊で採られることは少な 歌舞伎に復帰した時にはすでに ことはない」と愛妻家ぶりも綴ってく。私はリバ 1 、、 かった。二代目尾上松緑、十七代目市三十五歳になっていた。 買ってもらって現在ももっています」。 村羽左衛門、一一代目中村又五郎、十代 「友右衛門も洋食好き。特にポーク 昭和三十九年九月、四代目雀右衛門 そして、待たせていたハイヤ 1 に乗っ 目岩井半四郎の弟子くらいだったらし ソテイか大好きで、朝食はオ 1 トミル、 を襲名したのが四十四歳。長男が友右てキャンティに行ったそうだ。 雀右衛門は土木作業などでつらい 目玉焼きとト 1 スト一枚 ( お稽古など衛門、一一男が芝雀を、という親子三人 「おロはきれいでしたよ」とは弟子 日々を送り、スマトラではデング熱に の時は肉に野菜 ) 、昼は豚肉、野菜、 の同時襲名だった。『演劇界』同年九 の中村京妙だ。五十一一年に入門し、翌 かかった。「戦地では、見えない敵に スープか又は日本食でさつばりしたも 月号の「スタ 1 幻時間」には、七月に年から身の回り全般を受けもった。楽 おびえ、野生の根いもを食べた。一日 の、夜はビ 1 ル、オードプルに洋食類。外車で挨拶回りをした様子がある 屋入りすると師匠は外出はせず、出番 四百キロもトラックで走り、八十キロ米飯は日一食ぐらいで、日本食の中 「舞台離れるととたんにだらしなく 以外は寝るか、読書。車関係の雑誌や の荷物を担いでトラックに乗せた汗でも茶漬けは大好き。また果物も大て なっちゃうンです。もうそりやア考え情報誌などで得た話をするのだった。 はアンモニアのにおいになった。人を いのものは好きで、ミルクは一日二 るのも面倒で : : : 。仕事終ると食欲が 「何にする ? 」。次の間に控える京 殺さなかったのが唯一の救いでした」 本」。これは『演劇界』昭和三十四年まッ先で、おいしいもの食べられる幸妙らに店屋物の出前を相談する声。東 と「私の戦後年」 ( 「読売新聞』平成十月号の「俳優と食べもの」の記事だが、せにひたっちゃうンですョ」。 京では竹葉亭、宮川の鰻寿司、歌舞伎 七年八月八日夕刊 ) で語っていた ここで料理好きだった晃子夫人に触れ 国立劇場が開場した四十一年から雀座近くの喫茶のタマゴサンド 次のタ 1 ニングボイントが来た。よ た記述を紹介する 右衛門は七年間、大役を次々と演じて ィッチ。あるいはこってり系の肉料理 く知られるように七代目松本幸四郎の 「工夫していろいろなものを作って いった。当時の制作担当で現顧問の織かおにぎり大阪ならビ 1 フカツレツ。 付人から始まり、師の勧めで女形へ進くれました。覚えているのは、マッタ 巡業ではカレ 1 ライスかオムライス 田紘一氏が飯倉片町のイタリア料理 んだのである。二十六歳で幸四郎の娘ケのフライでしようかマッタケのフ店・キャンティに同行した時のことだ。 熊本で馬肉屋さんに飛び込んだことも 1 1 111 ENGEKIKAI.2016.10
四代目中村雀右衛門 名優の食卓 ハタ 1 を愛した名女形 5 0 よだいめなかむらじゃくえもん / 京屋。大正九 ( 一九二〇 ) 年八月二十 日生まれ。本名は青木清治。六代目大谷友右衛門の長男。昭和一一年一月に市 村座『幼字劇書初』桜丸で大谷広太郎を名乗り初舞台。一一十三年三月に東京 おうぎやくまがい 劇場『扇屋熊谷』敦盛ほかで七代目大谷友右衛門を襲名。一一十五年『佐々木 小次郎』で映画デビューし多数の映画に出演。三十年に歌舞伎に復帰した。 三十九年九月に歌舞伎座『金閣寺』雪姫ほかで四代目中村雀右衛門を襲名。 岳父七代目松本幸四郎の勧めで女形に転向し、歌舞伎界を代表する女形のひ とりとして格調高い演技を見せた。五十五年から「雀右衛門の会」を主宰し、 にしゅうしこう 古典の復活から新作までさまざまな舞台を上演。当り役に、『廿四孝』八重 垣姫、『助六』揚巻、『娘道成寺』花子など。平成二十四年一一月二十三日死去。 文大島幸久 波瀾万丈の役者人生を送り、八十歳屋台でいただいたものです。江戸のファ を越えてもなお、匂い立っ艶やかな色ストフードとはよく言ったもので、寿 気で観客を驚かせた名女形、雀右衛門 司なら『海老を、いくらを』、てんぶ げーの大好物のひとつが、バターだ 0 た。 らなら『イカをお願いします』と、食 昭和一一年に六歳で初舞台を踏んだ雀べたいものを気軽に握ってもらったり、 右衛門は、自伝『私事』 ( 岩波書店 ) 揚げたりしてもらっていたのです」。 のなかで幼児期を次のように書いてい 生まれ育った御徒町周辺から振袖を る。父の六代目大谷友右衛門に外食に着て近くの尋常小学校に通い、九段の 連れていってもらった思い出である 私立暁星小学校に移ってからの送り迎 「食事処では、中華では茅場町の偕えはクラシックカ 1 銀座ではミルク 楽園や浅草の翠松宴、日本料理はあま ホ 1 ルで牛乳やコ 1 ヒー牛乳、ロ 1 ル りに頻繁に行っていたので、多すぎて ケ 1 キを食べさせてもらったという若 名前も覚えられないくらいです。いま 旦那の家は裕福だった。 は寿司やてんぶらというとお座敷でい 青年期、人生が急転回した。一一十歳 ただくものになっていますが、当時は の昭和十五年十一一月に入隊。軍隊生活 おさなもしかぶきのかきそめ わたくしごと むすめどうじようし きんかくし E 、 GEK ー KAL2016.10 110
それぞれの時代を反映する記念公演 昭和四十一 ( 一九六六 ) 年十一月、 特殊法人 ( 現独立行政法人日本芸術文 化振興会 ) 国立劇場は開場した。明治 以降長い年月をかけて、ようやく国立 劇場は日の目を見た。その一一年前に東 京オリンピック、四年後には大阪で万 国博覧会が開催されるという時代だっ た。第二次世界大戦の大過を経て、日 本があらゆる意味で世界に伍していこ うという、まさにその時代に、伝統芸 能の牙城として国立劇場は東京・三宅 坂に開場した。歌舞伎だけではない、演 芸 ( 国立演芸資料館は五十四年三月 開場 ) 、能楽 ( 国立能楽堂は五十八年 九月開場 ) 、文楽 ( 国立文楽劇場は五十 九年三月開場 ) 、組踊をはじめとする 沖縄の伝統芸能 ( 国立劇場おきなわは 沖縄県浦添市に平成十六年一月開場 ) 一周年、三周年、五周年 : : : と、節目節目に記念公演を行ってきた国立劇場。開場翌年に芸能部に配属され、 以後長く制作に携わってきた織田紘二氏が、周年事業を振リ返ってくださいました。 文織田紘 と、多岐にわたる伝統芸能の公開と後 継者育成に多くの成果を上げてきた。 筆者が与えられたテーマとして、開 場以来、節目ごとに行われてきた周年 記念公演の歌舞伎について思い出すま まに、その背景と実際の舞台について 記したい。開場翌年の一周年から平成 二十三年の四十五周年まで、主に現場 で担当した記念公演について記録を残 しておきたいと思う 一、作者の時代 昭和四十二年十一月、開場一周年 記念公演は坪内逍遙博士の新歌舞伎 きりひとは 『桐一葉』だった。早稲田大学の河竹 繁俊氏が国立劇場の立ち上げに貢献さ れたお力は大きなものがあり、開場記 上 : 三代目市川左團次の淀君 ( 昭和 42 年 11 月 ) ⑩ 念公演『菅原伝授手習鑑』の監修を務 められたのが最初のお仕事だったが、 一周年記念公演の早稲田の先達坪内逍 遙畢生の名作の監修も河竹氏で、補綴・ 演出は芸能部制作室長の加賀山直三 だった。三代目市川左團次の淀君、三 代目市川寿海の木村長門守、七代目尾 上梅幸の渡辺銀之丞、八代目坂東三津 五郎の片桐且元、十三代目片岡仁左衛 門の太閤・秀次の亡霊、十七代目市村 羽左衛門の石川伊豆守、七代目市川 之助の片桐娘蜻蛉、片岡孝夫 ( 現仁左 衛門 ) の豊臣秀頼という配役による国 立劇場にふさわしい大きな舞台だっ た。長大な作品だが、天下動乱のなか にあって、若い愛が犠牲になる蜻蛉・ 銀之丞の件を中心にする上演は珍しい 第三幕第一一場「黒書院内評議」に登場 くだり すがわらでんじ物てならいかがみ 一一 ( 日本芸術文化振興会顧問 )
「盟三五大切」 ( 昭和年 8 月 ) の公演ポスター⑩ ハ場 おどろしい久川 " 昊様 ニ鼾をの・い一ん切りの物「 え第一魯物町の”を第 片岡孝夫 八月四日 ^ 水 , 十五日 4 三五大切 ス - ななわらい り緊密な空間で演じる歌舞伎は、舞台での とした初の公演」 ( 「国立劇場年の公演記 大劇場に会場を移し、十七年まで行われた 居どころや演技が自すと変わってくる。大録』〔日本芸術文化振興会発行〕より ) で、 また、この花形若手歌舞伎や、開場の翌 よしつねせんはんざくら きな見得を切らすとも、目線の上げ下げや 『義経千本桜』中村橋之助の銀平実は知盛、年に大劇場で始まり現在に至る「歌舞伎鑑 こまかい息遣いだけで観客が反応するのを 賞教室」では、六代目歌右衛門、十七代目 中村児太郎 ( 現福助 ) のお柳実は典侍の局、 かがやきようらん 勘三郎、一一代目松緑、十三代目仁左衛門と 感じることは、俳優にとって恐怖もあるだ 『加賀屋狂乱』七代目中村芝翫の若い男、 いった大幹部が「指導」や「監修」として ろうが、得がたい経験だ。辰之助 ( 三代目 『三社祭』中村智太郎 ( 現鴈治郎 ) の悪玉、 クレジットされることも多かった。歌舞伎 松緑 ) の源五兵衛、孝夫 ( 現仁左衛門 ) の 信二郎 ( 現錦之助 ) の善玉という番組。翌 の世界で先輩に役を教わるのは当たり前の 三五郎、玉三郎の小万という、実質的にク花年以降も、智太郎・浩太郎 ( 現扇雀 ) の『曽 ざきしんじゅう ことなので、その名前をチラシや筋書に出 形歌舞伎ッともいえる清新な顔ぶれで復活根崎心中』、中村勘九郎 ( 十八代目勘三郎 ) すのは当時としては画期的といえる された『盟三五大切』は注目を集め、以後、 の『髪結新三』、坂東八十助 ( 十代目三津 繰り返し上演される人気演目になった。 大劇場の客席数約千六百席に対し、小劇 五郎 ) の『魚屋宗五郎』、中村歌昇 ( 現又 ひこさんごんげんちかいのすけだち その後も五十九年まで、小劇場での本公 五郎 ) ・中村時蔵の『彦山権現誓助剣な場は約六百席。商業べ 1 スで考えると歌舞 0 演がほば年一回のペ 1 スで行われている どが上演された。平成三年八月には、昼は 伎を上演するのはなかなか難しい空間を、 明治以来の復活上演となった『時平の 花形若手歌舞伎として市川段四郎・亀治郎挑戦や実験の場として活用してきたのは、 しんれいやぐちのわたし ( 現猿之助 ) 親子の『神霊矢ロ渡』と染五郎、 国立劇場ならではの強みであり功績といえ部 七笑』 ( 五十七年四月 ) など意欲的な企画 かなではんちゅうしんぐら えはんがつばうがつじ るのではないだろうか 市川新車 ( 現高麗蔵 ) の『仮名手本忠臣蔵』 が並び、染五郎 ( 現幸四郎 ) の『絵本合法衢』 こいびきやくやまとおうらい 成 ( 五十五年四月 ) 、孝夫の『恋飛脚大和往来』 「五・六段目」ほか、夜は「実験小劇場歌 侍海郎 構 典渡五 むらいちょうあん はの模 ( 五十八年四月 ) 、吉右衛門の『村井長庵』 舞伎」として段四郎、時蔵、歌六らの『謎 うできさぶろう 実相 柳の 会 ( 五十四年八月 ) や『腕の喜三郎』 ( 五十九 帯一寸徳兵衛』を上演。翌年八月も同様の お橋 , 興 年四月 ) と、現在の大幹部が三 企画で、昼はク狐三題クと冠し片岡進之介、 平 文 十代の花形時代に主演した公演 片岡愛之助の『釣狐の対面、辰之助 ( 現 の丹 ( 芸 江郎 本 。も目」引 / 松緑 ) の『四の切』、浩太郎 ( 現扇雀 ) の 日 福の 現 ) ト 『葛の葉』、夜は鴈治郎 ( 現坂田藤十郎 ) の 郎中 やどなしだんしちしぐれのからかさ ′ 0 花形若手歌舞伎 『宿無団七時雨傘』。翌五年は花形若手歌舞 児観知 寸一一一口 六十一年四月には、、」 月劇場で 伎一本に戻り、時蔵、歌昇 ( 現乂五郎 ) 、 かがみやまこきようのにしきえ 「花形若手歌舞伎」と銘打った 中村芝雀 ( 現雀右衛門 ) の『鏡山旧錦絵』、 智新胡 あおと 千中実 1 公演が行われた。国立劇場にとっ 六年は染五郎、辰之助 ( 現松緑 ) の『青砥 ぞうしはなのにしきえ 和カ 義 の屋 ( て「二十代の若手花形を中心 稿花紅彩画』。八年から花形若手歌舞伎は 協 0 おびちょっととくべえ さんじゃまつり かゆいしんざ さかなやそうごろう つりぎつねたいめん すけ なぞの
縁遠くなるのも無理はありません けとりました。続いて佐藤首相、山口衆院議長 ロビーでは三々五々、顔見知りの人たちが談重宗参院議長の祝辞、そして、芸能界から唯 笑している風景がみられます。そのなかに歌舞人の代表として〈三代目〉左團次が祝辞を述べ 伎の関係者のほとんどが顔を見せているといっ ました。コチコチに固くなった左團次。舞台馴 れしているとはいえ、 ても過言ではないほど歌舞伎界の人がいます。 いつもと勝手が違って戸 午後一時。美しいアナウンスの声が、開場式惑っているようでした。無理もありません、内 典のはじまることを告げます。場内は、ほば閣総理大臣と一緒に祝辞を述べる栄誉を一身 いつばいに埋まります。指定席ではありません に引受けて劇界を代表して登場しているのです から から、各自空席をみつけて腰を下します。 緞帳が、上ります。舞台の中央には演壇があ 文部大臣から感謝状が、設計者と工事を請 り、向って左手に盆栽の松が置いてあります。 負った竹中工務店へ贈呈されたあと、国立劇場 後は黒幕の前に金屏風、大きな日章旗がその上の高橋誠一郎会長が挨拶を述べます。高橋氏が、 にあります。前面には、ク 国立劇場開場記念式はじめて文章を読みあげないで挨拶をしました。 典と横に書かれた文字板が吊り下げられてあそ、ついうところに、人間味というか人柄という か、そ、ついうものを記者などは感じてしまうの ります。いわゆる式典的な雰囲気がいつばいに 漂っているのです。莊重ななかに一同が起立しですが、とに角、型通りの祝辞ほど、味気ない、 て、「君が代」奏楽を聴きます。明治・大正・ それにまた同じ内容のものはありません。高橋 昭和と三代に亘って略々一世紀に及んで要望さ氏のそれは、明治の演劇改良運動と結びついた れてきた国立劇場の記念すべき感激的な一瞬に国立劇場の設立要望運動から説きはじめて、メ しては、それほどの緊張感があまりありませモもなく滔々と国立劇場の意義を語りました。 ん。何気なく、すうッと幕が上り、順序通りに 約一時間。ほば手許に配られたク行事次第ク 式次第がスムーズに運んでいるからでありまの時間通りに進行していきます。 しよ、つか 一旦降りた幕が、も、つ一度上がります。演壇 有田喜一文部大臣の式辞、村山松雄文化財保は脇へ寄せられて、舞台の中央には大太鼓が置 護委員会事務局長の設立経過報告、小場晴夫建かれてあります。演壇の上には三方が一一つ。一 設省営繕局長の工事経過報告 : : : いずれも、予つには盛り塩、一つには長い撥がのせてありま め書かれてある文書を淡々と読みあげているわす。国立劇場の寺中作雄理事長が、塩で清めた けで、国会における大臣の答弁に似た感じを受あとで、その撥を囃子方の田中傳左衛門に手渡 0 0 、つ 「役者がこうして欲しいと思う ことは全部してありますな」とま一朝 ずは手放しのほめよう。「第一に 楽屋がよろしおます。舞台と同じ フロアだから、ほかの劇場のよう に大きな衣装をつけてせまくるしえて実現されたのだ いエレベータ 1 に乗る不便さがな から、さらに社会の 。それに舞台のソデや奥行が広声を十分に聞いてよ くて、舞台装置を組立てたまま置りよき使命の達成につとめなけれ ばなるまい。私もほんと、つに、つれ いておくだけのスペ 1 スがあるか ら、芝居の途中でカナヅチの音がしい。 ( 『朝日新聞』昭和四十一年 しません」 ( 『朝日新聞』昭和四十十一月五日夕刊 ) 河竹繁俊 ( かわたけしげとし ) 一年十一月十八日夕刊 ) 明治一一十ニ ( 一八八九 ) 年 5 昭和 十三代目片岡仁左衛門 ( かたおか 四十ニ ( 一九六七 ) 年長野県生 にざえもん ) まれ。演劇学者。文芸協会の新劇 明治三十六 ( 一九〇 = l) 年 5 平成 運動に参加。明治四十四年、河竹 六 ( 一九九四 ) 年東京生まれ。 黙阿弥家の養子となった。早稲田 十一代目片岡仁左衛門の三男。明 大学演劇博物館設立に尽力し、早 治三十八年に片岡千代之助を名乗 大教授のかたわら館長を兼ねた。 、京都南座で初舞台。昭和ニ十 日本藝術院会員。文化功労者。 六年、大阪歌舞伎座で十三代目片 岡仁左衛門を襲名。日本藝術院会 員。文化功労者。 国立劇場の設立運動は、実に明 開場記念公演を手がけた演劇学治六、七年までさかのばる。近代 者の河竹繁俊氏は、率直な感慨を国家・日本の威信を示す意味合い が大きかったようで、伊藤博文を 述べている。 中心に国立劇場設立発起人会も開 とにかくこういう施設が誕生し催されたが、立ち消えとなってい たのは、文化人多年の要望にこた た。その後も、何度も設置の機運 凱 , 霪いいゞ、 0 。ん第を やりよ騁台 0 さ、 ' が羲さ 3 ーー 国立場・
国立劇場住習題更 「冉録〕本誌昭和四十一年十二月号に掲載された編集部記者レポート 当時の新聞各紙からー 五十年前の開場を、識者・文化人たちはどう捉えていた のでしよう。新聞紙上や、残された言葉を集めました。 いたことは、関係者の努力のたま 開場式が執り行われ、劇場での 公演が十一月六日初日を迎えた。 ものにほかなるまい。 ( 「読売新 演劇評論家の安藤鶴夫氏は、九日胆昭和四十一年十一月九日夕刊 ) 安藤鶴夫 ( あんどうつるお ) の新聞に、「意義あるク大序ク復活」 明治四十一 ( 一九〇八 ) 年 5 昭和 という一文を寄稿している。 四十四 ( 一九六九 ) 年東京生ま れ。演劇評論家、小説家。昭和十 四年、都新聞に入社。のちに読売 河竹繁俊・監修、加賀山直一二・ 新聞に移り、歌舞伎、文楽、落語 などの批評を担当。三十八年、「巷 補綴、演出で、テキストのととのつ 談本牧亭』で直木賞受賞。 ていることが何より快い。わずか に文楽に残っているだけで、歌舞 伎では、まったく忘れられていた舞台機構・照明・音響など最新 大序の大内を復活させたことが、技術を駆使した国立劇場は連日大 こんどの大きな意義といえよう。入り、「舞台から近いから見いし し、聞きいい」「お客さんの行儀 ( 中略 ) 力いい。寝る人もいないし、もの あえて初日 ( 6 日 ) にみた。け いこ日が商業劇場のなん倍かあつを食べる人もいない。途中で立ち たはずなのに、せりふのあいまい上がる人もいない。さすがは国立 な役者がいるのはなぜか。「菅原」劇場ですね」と観客からも出演者 は新作ではない。そのほか大道具からも好評だったと、当時の新聞 の色、描法、それに照明など注文が伝えている。 したいことは多いが、国立劇場の 十三代目片岡仁左衛門にインタ 初日が秩序ただしく、りッばにあビュ 1 した記事もあった。 十一月一日、明るい青い空が久しぶりに東京 立劇場開場式々場ッと墨痕も鮮やかに記され のなかに美味しい空気を運んでくれた、スカッ た立看板の傍を通って、劇場のなかに入ります。 とした午下りでした。 何もないけれど、それがまた何とすっきりし この日は国立劇場が日本で最初に建設されたていることでしようか国立劇場のロビ 1 に おめでたい開場式の当日に当ります。黒い正方立って外側を眺めると、皇居の常盤木までが劇 形に近い、 巨大なこの劇場の正面には白い立看場の庭園の如き錯覚をおこさせます。 板がポツンと置かれているだけ景気を煽り立 淡く渋いロビ 1 はグレ 1 の絨毯の色、天井から てるような飾りつけはなにもありません。ク国吊り下げられた五つのくす玉状のシャンデリア、 壁に掲げられた当代一流画家による絵画・ : すべてがゆったりとしたたたずまいを見せて います。 受付がいくつもに分れていて国会関係者、報 道関係者等々とあります。入口を入る時に胸に はリポンを差され、赤い紙袋が一人一人に配ら れます。袋には国立劇場の案内書、記念タバコ ( ホ 1 プ ) 、記念切手の貼り合わせセット、記念 絵葉書 : : : そんなものが入っています。質素で すが、そこにまたいかにも今の国立劇場らしい 性格が纜えます。いわゆる演劇人のほかに、見 知らぬ人たちが多いのは、おそらくお役所関係 者なのでしよう。そしてまた、なんと男性が多 いことかそれだからこそ、余計華やかさとは 国立劇場開場式風景報告記 ■編集部■ 51 E 、 GEK ー KA - L2016.10
ENGE IKAI 2 16 歌舞伐エ . ッタ 1 ティンメン 2016 年 9 月 5 日発行・売 ( 毎月 5 日発行・発 ) 第 74 巻第 10 号昭和 18 年 12 月 20 日第三種郵便物承 ・記念公煎見どころ 開場式と開場公演 周年事業の軌跡 国立劇場開場周年 一・国 ~ 、劇場の思い出ほ 坂田藤十郎 中村吉右衛門 尾上松也 歌舞伎自主公演 挑む第八回。外伝 目中村、衛門 歌ヰ伎訂、思議 お祝い一一口 又ー 9 」・ 立 告
1 1 ですから、『呑め』と言われれば呑む 四川飯店。「辛いのはダメだったのに、 「不思議だったのが鍋料理。お醤油、 し、呑まないでいよ、つと思えば呑まない ここのものは食べられた。麻婆豆腐なお酢、水をそれぞれ一対一対一にした でいられる、といった程度のものです」 ど三人で辛いのを食べましたね」。 中へ手羽先、豚の三枚肉、べィリーフ と安形無限』では綴ったが、軍隊で 最後は日比谷公園にあったハンバーガー を入れて煮て、食べていた。戦地のイ のエチルアルコ 1 ルで鍛えた酒は「仕ショップ。「歌舞伎座出演の帰り道、 ンドネシア、スマトラかジャカルタか 事を終えての一杯。ウイスキーやジン車で行くんですよ。まだソフトクリ 1 で食べていたようです」。 などの強い酒」 ( 『東京新聞』平成十九ムを見かけない頃。コーンに丸いアイ 「もうひとつが真っ黄色のカレー 年一月十三日夕刊「伝統芸能歌舞スクリ 1 ム、、ノヾ ノ、ノーカーとカコ 母が亡くなってから婆やが & のカ 『本朝廿四孝」八重垣姫伎」 ) にと変わったようだ。尾上菊五 ヒー、コ 1 ラ。父は知っていたんですレ 1 粉や小麦粉でつくったもの。玉ね 郎も「男つほいところがおありで、おね」。昭和一一十八、九年頃だった。 ぎは胸焼けがするというのでじゃが芋、 あったが、 生物を避けて火の通ったも酒は強かったですよ。巡業などでご一 「父がうるさく言ったのがテ 1 プル人参にスライスした肉を入れただけ。 のに限り、食べ方はいつもきれいだっ緒するとウォッカのような強いお酒を マナ 1 小学校に行く前から『行儀よ手の込んだ食事は外でした」。同席し たそ、つだ。 グイグイ飲まれて、お弟子さんはみん く食べろ ! 』とか『汚くするな ! 』と た玉緒夫人と大笑いで明かしたのが驚 共演者では中村梅玉、中村魁春、市な倒されていました。そんな時は口調叱られた。けっこう短気で、またシャ きの食べ方だ。「豆腐やわかめのお味 川團蔵や六代目尾上松助に声をかけてもべらんめえで、そのギャップがまた イだった」。 噌汁にバターを入れる。バターで揚げ 食べ歩いた。赤坂飯店、浅草の鮨松波、独特でした」 ( 『演劇界』平成一一十四年 お次は友右衛門の二男で孫となる廣焼きしたミルフィーユ風のカツには 築地の天ぶら屋・三ッ田。スタッフを五月号「追悼四代目中村雀右衛門」 ) 松。「お祖父さんは牛肉、鰻が大好き ソースをたつぶりかけた。。 こ飯にもバ 大切にした雀右衛門は巡業先のホテル と証言していた だった。毎朝食べていたのがクバタ 1 ターの塊をのせていました」。艶やか のバ 1 で弟子ともよく飲んだ。「ご本 ここからは子息らの思い出話である おじゃ % バタ 1 でおじやですよ。そなまま生涯を終えた雀右衛門を虜にし 人は夜中にジンを一本空けるほど強い 初めは長男の友右衛門「まず、三つ して、鮭とたつぶりのバターを使った たのかバタ 1 だった。 でしよう。連れにはサイドカ 1 を飲まあるんですよ」。 スクランプルエッグ」。 せて酔い潰れると喜んでいましたよ」 番目。帝国ホテルのレストラン・ 最後が平成一一十八年三月に五代目を と京妙。サイドカ 1 とはプランデ 1 プルニエ。小学校入学前だった。「こ襲名した二男の雀右衛門。「ともかく べースのカクテル。ク 女殺しッといわ こで肉を食べるんですよ。シェフの焼注意されたのは『箸をつけたら確実に れる強い酒である き方が気に入っていたんでしよう。両食べろ。食べないなら箸をつけるな』。 女形はお酒に強いといわれる。「わ親と小さめのヒレステーキを食べまし父はどんなものでも好き嫌いなく食べ たくしは軍隊へ行ってから覚えたお酒た」。 ていました」。強く印象に残る食べ物 ですから、本当は好きではありません。 一一番目。田村町 ( 現在の西新橋 ) の をいくつか挙げてくれた。 はんらようにじ・うしこう おおしまゆきひさ / 演劇ジャーナリスト 1947 年、東京生まれ。明治大学卒業。 報知新聞社で演劇を長く取材。文化部長、編 集委員などを経て退職後、演劇ジャーナリス トに。鶴屋南北戯曲賞選考委員、文化庁芸 術祭などの選考委員を歴任。著書に「それで も俳優になりたい」 ( 共著 / 春日出版 ) など。 E 、 GEK ー KAL2016.10 112 110 ページ写真 / 二階堂健、 112 ページ写真 / 渡辺文雄 * 引用文の表記は原文ママ、 ( ) 内は編集部注を含みます。
開場周 国立劇場 ~ 昭和四十一年十一月一日、東京・千代田区隼町に国立劇場が開場し、多彩な 作品を世に送り出し続けてきました。一今秋で五十周年を迎える同劇場への 坂田藤十郎丈からの「お祝いの言葉」、→開場に記念。公演に出演する 中村吉蔀門丈、中村梅玉丈のインタビューと各公演の見どころを紹介 また開場公演、周年記念公演についてや識者の「国立劇場の思い出」、開場 当時の新聞記事や著名人の記述など、盛りだくさんに五十周年を寿ぎます。 9 下、 GEK ー KAL2016.10
の『本朝廿四孝』では八重垣姫と慈悲蔵と、いす定九郎、平右衛門、戸無瀬の男女七役を勤めまし れも男女一一役を勤めました。こういう一一役を演じ た。これも上方独特のやり方ですので、東京のお 分けるやり方はあまり例かないのではないかと思客様にも上方歌舞伎の楽しさを見ていただけたの います。十八年の四十周年記念公演も忘れがたい ではないでしようか。勘平、与市兵衛、定九郎の 舞台です。十、十一、十一一月と、三か月連続で行早替りでは、よりスピーディーに移動できるよう にと、舞台裏に私が走るための通路をわざわざっ われた『兀禄忠臣蔵』の通し上演で、十月は中村 くってくださったことも忘れられません。 吉右衛門さん、十一一月は幸四郎さん、そして十一 月は私が大石内蔵助を勤め「伏見撞木町」「南部 国立劇場には、国の劇場としての使命があると かなでほんちゅうしん 坂雪の別れ」か上演されました。『仮名手本忠臣 思います。通し上演もあれば、鑑賞教室もある。 蔵』の山良之助は何度も演じていますか、真山青熱心な歌舞伎ファンから初心者まで広くアピール 果先生の『元禄忠臣蔵の内蔵助は初めてでした。する公演は、歌舞伎の可能性を開き、ファンの裾 私にとって国立劇場は、経験したことのない , ) 野を広けるうえで意義深いと思っています。 とをやれる劇場でもありました。もっとも印象深 これからも、歌舞伎を深く広く伝えていく劇場 いのは『仮名手本忠臣蔵』の七役早替りです ( 十であっていただきたい。それが歌舞伎の隆盛につ ながることだと信じております。 四年十一月 ) 。山良之助、師直、勘平、与市兵衛、 ほんちょ・つ : しゅ・つし・ 1 う げんろくちゅうしんぐら 伽羅先代萩』乳人政岡 ( 平成 10 年 11 月 ) ( を 伽羅先代萩」足利左金吾頼兼 ( 平成 10 年 11 月 ) ) 兀禄忠臣蔵』大石内蔵助、中村時蔵の瑤泉院 ( 平成絽年Ⅱ月 ) 聞き書き = 亀岡典子 ( 産経新聞文化部編集委員 )