国立劇場らしい公演ポスターの意匠とい 国立劇場に入ると、あちこちで目にする えば、江戸時代の錦絵を使ったもの。開場のが、雲に乗り、横笛を吹いている天女の 後一十年間ほどは、歌舞伎公演のポスタ 1 マ 1 クだ。入り口を飾る紅白の提灯やポス は、国立劇場が所蔵する錦絵を使ってつく タ 1 、風にはためく幟、ドア、案内板にも、 られていた。 美しい天女がふんわりと浮かんでいる 劇場の錦絵資料として、八代目坂東三津 この天女こそ、国立劇場の紋章だ。昭和 上【三代目坂東三津五郎の武部源蔵と四 代目瀬川路考の松王女房千代が描かれた 五郎が収集していた錦絵が保管されている を代表する建築家・吉田五十八が、奈良薬 役者絵。下】三代目坂東三津五郎の主馬 八代目三津五郎は学究肌で知られており、 師寺東塔の水煙にある天女像から考案した の小金吾と三代目市川高麗蔵のいがみの 権太が描かれた役者絵。ともに、初代歌文化文政時代 ( 一八〇四 5 一八三〇年 ) に という。「水煙」とは、仏塔の九輪の上に 川豊国画 ( 「芝居版画等図録」より ) 。⑩ 活躍した一一一代目一一一津五郎の錦絵を中心に ある火炎を模した板状の装飾金具のことで、 集めていた。そのコレクション一一百五十火をよぶのを避けるとも、火を調伏する意 八枚が寄贈され、現在は重複を除いて味ともいわれる 一一百五十四枚が『芝居版画等図録ー・ー・ 紋章に込めた思いを、吉田は次のように 八世坂東三津五郎氏寄贈ーーー』として、 っている 図版目録にまとめられている 「日本の伝統芸能の一大殿堂にふさわし 2 0 錦絵の公演ポスター たくさんの文芸者もいて、協力して復活狂 言もっくられていました。 当時の歌舞伎に対する基本的な夢を語っ 0 国立劇場の紋章 のばり 天女の紋章⑩ ているものが、『七つの方針です。その 高い理想を掲げて、国の劇場が生まれたの です」と織田氏は語った。 劇場内外の各所に紋章が 施されている。⑩ 、天来の妙音を笙笛琴箜篌の楽器によっ て奏でる楽天女の姿を紋章の中心に配し、 その周囲は、この六呂の音律に乗って虹の ごとく空にたなびく、六流の天女の霓裳 〈虹のように美しい裳〉を表現したもので、 国を代表する劇場の品位に似つかわしい優 美と典雅をその主調としたものです」 ( 日 本芸術文化振興会ホ 1 ムペ 1 ジより〈〉内、 編集部注 ) 優雅な天女の姿に、劇場とそこに集まる 人々を寿ぐ、先人の思いが込められている しようふえきんくご 47 E 、 GEKIKAI.2016.10
テレビ・ラジオ放送ガイド 放送内容は、追加・変更になる場合があります。月の記載がないものは 9 月です。 衛星劇場・ホームドラマチャンネルの放送時間詳細は、各ホームページでこ認ください。 衛星劇場 = http: 〃 www.eigeki.com/( 問い合わせは谷 03-5250-2323 ) ホームドラマチャンネル = http://www.homedrama-ch.com/( 問い合わせは谷 03-5250-2330 ) NHK 教育 毎週金曜日 23 時 ~ 23 時 54 分 「にっぽんの芸能」 ( 再放送は翌週月曜日 12 時 ~ 12 時 54 分 ) 9 日「釣狐」に挑む ~ 狂言の奥義を見つめる ~ 16 日没後 120 年・樋口一葉の世界を舞踊で 23 日恋する女たち ~ 井原西鶴の世界 ~ 30 日演奏家の肖像・野坂操壽 25 日 ( 日 ) 21 時 ~ 23 時 20 分 「古典芸能への招待」 能を楽しむ ~ 芸の真髄・能楽の名人幽玄の花 ~ 衛星劇場 《ステージアワー》 特選歌舞伎 ~ コクーン歌舞伎 ~ コクーン歌舞伎「三人吉三』 五代目勘九郎 ( 十八代目勘三郎 ) ・橋之助・獅童・ 七之助・勘太郎 ( 現勘九郎 ) ・亀蔵・彌十郎・ 福助 ( H13.6 ) コクーン歌舞伎「桜姫』 十八代目勘三郎・橋之助・七之助・亀蔵・ 山左衛門・笹野高史・彌十郎・扇雀 ( H21.7 ) コクーン歌舞伎 「東海道四谷怪談 ~ 南番』 ( 前・後編 ) 十八代目勘三郎・橋之助・七之助・ 亀蔵・笹野高史・彌十郎・扇雀 ( H18.4 ) 特選歌舞伎 『人情噺文七元結』 菊五郎・時蔵・松緑・梅枝・ 尾上右近・團蔵・左團次・玉三郎 ( H27.10 ) 「音羽嶽だんまり』 松也・梅枝・萬太郎・尾上右近・児太郎・ 権十郎 ( H27.10 ) 125 を、 GEK ー KA 2016.10 新之助 ( 現海老蔵 ) ・扇雀・宗之助・松也・ 「源平布引滝 ~ 実盛物語』 扇雀・福助・十代目三津五郎 ( H20.8 ) 勘太郎 ( 現勘九郎 ) ・松也・亀蔵・彌十郎・ 十八代目勘三郎・七之助・橋之助・ 「野田版愛陀姫』 「保名』七代目芝翫 ( H15. I) 松緑・萬次郎・亀蔵・友右衛門・團蔵 ( H16.1 ) 「義経千本桜 ~ 鳥居前』 十代目三津五郎 ( H18. II) 「源太・願人坊主』 「関三奴』鴈治郎・勘九郎・松緑 ( H28.3 ) 初代幸右衛門・亀治郎 ( 現猿之助 ) ・ 左團次 ( H15.12 ) 「芦屋道満大内鑑 ~ 葛の葉』 種之助・隼人・歌女之丞・桂三・錦之助・又五郎・ 吉右衛門・芝雀 ( 現雀右衛門 ) ・菊之助・歌昇・ 「井伊大老』 七代目芝翫 ( H19.4 ) 亀蔵・錦吾・松江・門之助・歌六・東蔵・ 梅玉・三代目歌昇 ( 現又五郎 ) ・福助・家橘・ 「頼朝の死』 魁春・錦吾・初代歌江・門之助 ( H18.10 ) 「越前一乗谷』 歌六 ( H26.11 ) 十代目三津五郎・十八代目勘三郎 ( H19.8 ) 七之助・松也・新悟・市蔵・高麗蔵・彌十郎・ 福助・橋之助・勘太郎 ( 現勘九郎 ) ・亀蔵・ 「平家女護島 ~ 俊寛』 ホームドラマチャンネル 「デジカメ☆ニュース」 右之助・勘太郎 ( 現勘九郎 ) ・左團次 ( H14.11) 正之助 ( 現権十郎 ) ・由次郎・十蔵 ( 現市蔵 ) ・ 仁左衛門・十代目三津五郎・秀調・ 『松浦の太鼓』 亀蔵・高麗蔵・秀調・扇雀 ( H18.8 ) 十代目三津五郎・染五郎・彌十郎・巳之助・新悟・ 『たのきゅう』 尾上右近 ( H24.12 ) 十代目三津五郎・亀三郎・亀寿・宗之助・萬太郎・ 『奴道成寺』 三代目歌昇 ( 現又五郎 ) ・段四郎 ( H18.1) 吉右衛門・福助・染五郎・二代目吉之丞・ 『奥州安達原』 左團次 ( H18.9 ) 幸四郎・染五郎・芝雀 ( 現雀右衛門 ) ・歌六 『鬼一法眼三略巻 ~ 菊畑』 七之助・笹野高史・亀蔵・彌十郎・扇雀 ( H20.11 ) 十八代目勘三郎・橋之助・勘太郎 ( 現勘九郎 ) ・ くシネマ歌舞伎 > 『隅田川続俤 ~ 法界坊』 彦三郎・梅玉 ( H21.1) 幸四郎・芝雀 ( 現雀右衛門 ) ・染五郎・歌六 吉右衛門・多岐川裕美ほか ( H3 ~ 4 ) 「鬼平犯科第 3 シリーズ BSII ◆ : ・毎週水曜日 20 時 ~ 20 時分 庶民を熱狂させたスキャンダル 7 日幕府公認遊郭「吉原」の表と裏 「尾上松也の古地図て謎解き ! にっぽん探究」 14 日 21 日 28 日 「真田家」分裂の複雑な事情 ドラマで描かれない妻たちの真実 「千利休切腹」秀吉激昂の理由とは 徳川三代の参謀・天海の虚実 徳川綱吉大将軍と呼ばれた男 戦国時代にとどめを刺す江戸大改革 BS -TBS 毎週水曜日 20 時 ~ 20 時分 「美しい日本に出会う旅」 旅の案内人・語り : 七之助 ※ 7 日は 19 時 ~ の 2 時間スペシャル 7 日 14 日 21 日 28 日 4 つの絶景旅スペシャル ( 仮 ) ※特別編成のため休止 未定 未定 BS 日テレ 毎週木曜日 21 時 ~ 22 時 「片岡愛之助の解明 ! 歴史捜査」 ※ 8 日は 20 時 ~ の 2 時間スペシャル 8 日 15 日 22 日 29 日 3 週連続真田丸への道② なぜ、関ヶ原前に分裂していたのか ! 豊臣政権を支えた 秀吉チルドレンに迫る ! 3 週連続真田丸への道③ 新説 ! ? 関ヶ原の戦いの真実を追え ! 井伊直弼暗殺の謎 桜田門外の変の真相に迫る ( 平成 28 年 2 月 25 日の再放送 ) 街道歴史捜査シリーズ② 甲州街道の謎 ! 家康と江戸城防衛策の秘密 ( 平成 28 年 6 月 30 日の再放送 ) NHK ・ FM ◆ : ◆毎週金曜日 11 時 ~ 11 時 50 分 邦楽ショッキー ( 再放送は土曜日 5 時 ~ 5 時 50 分 ) DJ : 中村隼人 9 日 16 日 23 日 30 日 アンティークショップ隼人 箏曲「雲の峰』 隼人 ' s カフェ① 長唄「都風流』 隼人 ' s カフェ② 清元「吉原雀』 トラディショナルバ 常磐津「菊の ー隼人
道なのに歩いて、しかも手を引かれて出てきて、お辞儀して引っ あー太郎そうよ六歳にして、出方を気にするえらい奴たったんだよ 込むなんて : : : ばくちん、ため息ついちゃう : あー次郎 ・ : 初舞台で三つも出る殳者よ、、 彳こしないだろうけど、綺麗な役でな あー太郎溢れる涙を、顔を洗っている体にしてごまかしていたそうだよ いと嫌だと言える役者もいないな あー次郎そうだったのかだから , ) わばっていたのか あー太郎いないよ あー太郎それからよほかの狂言『どんつく』を毎日袖で見ていた あー次郎 , ) れは伝説だ染五郎丸の伝説なんかまだ、ありそうだな らしいよ。目ん玉飛び出して落っ , ) ちるんじゃないかっ あー太郎あるある あー次郎聞かせてくれよ て目でなそれを見つけた先代三津五郎さんが、 三津五郎総踊りを覚えたら出してやるよ あー太郎彼はな、初舞台前に、本名でてれびじよんどらまに出ているんだ あー太郎 , ) のひと言に、白塗りを落としても白塗りみたいな顔色だった顔 よ。『黄金の日日』ってやつでなそれに出た時のつぶやき 照薫丸化粧してもらってるけど、なんで肌色なの ? 鬘も網で軽い。おか に血の気が出てきて踊りきり、中日頃から『どんつく』出勤をも しい舞台といったってお客さんがいないじゃん。おかしすぎる ぎ取った。そして次は子役の出る芝居『権三と助十』が標的だ あー太郎とにかく、舞台と違うところに、歌舞伎と違 , っところに戸惑 , つは あー次郎それで出るようになったのかでも俺は、初日だけじゃなくて、 1 。り - 何度も見たけど、出てなかった気がするんだけどな 3 あー太郎そりやそうだ。 。 ' ー・ ( /. あー次郎お客さんは、カメラの奥だと言われてもわからないもんね あー太郎次はね。とある役者か、『ラ・マンチャの男乃助』という西洋芝 あー次郎うむ ? 居をやっていて、それを見終わった後の彼の第一声。 あー太郎『どんつく』は、『侠客春雨傘』と同じ格好で出られたけ 金太郎丸 , ) れはお芝居じゃない。 、芝居も開いてるわけだから、鬘も衣裳もない。長屋の ' 【 あー次郎なんだと ? 見果てぬ夢を追い続けるいい芝居じゃないか 子どもだから、衣裳は寸法違いでも大丈夫。鬘はつくる時 あー太郎彼的に言 , っと、芝居Ⅱ歌舞伎芝居なんだよだからね・ : 間かないから、地毛に鉢巻して、顔は汚して拵え完成 あー次郎出られたんだろ。でも見なかったよ ヾ金太郎丸芝居なのに、肌色だし、洋服着てるし、舞台暗いし、黒御簾音楽 ないし、見得しないし、許せない。 あー太郎だからよ。それか染五郎丸にとって大間題なんだよ あー太郎とい、つことになるんだよラ・マンチャさんは、これを面と向かっ あー次郎大間題 ? て言われて、かなり落ち込んだそうだよ あー太郎風呂場で泣いたつぶやきを思い出してくれよ , ) の格好は、真逆 あー次郎理由はともあれ、十歳前の子どもに言われて愕然だな じゃないカたくさん芝居に出られるのはうれしいたろうか あー太郎次も子ども時代の伝説だけど、大成駒屋六代目歌右衛門さんの舞 日出て、出した彼の結論は : 台稽古中に、下手袖から黒衣着てちょこちょこ出てきて花道に差 あー次郎結論は ? しかかったんだとよ 金太郎丸 あー次郎なんだそりや。稽古中だろそりや、ダメだわ あー次郎一日だけで出なかったのかい ? 、 0 ないび かつら しもて 57 E 、 GEK ー KAL2016.10
1 きん 定 して出演することになり、新たなスタートを切るという 高 ⑩ 父の気持ちか、こちらにも伝わってまいりました。それ までは、歌舞伎のための国立劇場が日本にはなかった。 たから劇場ができたという喜ひもありました。 月 父は歌舞伎を大切に守らなければいけないという使 ・年 本 手貯 ( 0 名和命感をすっともち続けておりました。昭和三十年代は、 假昭 ちょっと歌舞伎が衰退している時期でした。「もうすぐ 最近は『寿曽我対面』の工藤もお勤めで芸域がま滅びるんじゃないか」という声もあったほどです。それ すます広くなっておられます。 が ( 十一代目市川 ) 團十郎襲名 ( 三十七年 ) をきっかけ 本当だよね。いろいろやらされています ( 笑 ) 。 にまた盛り上がりを見せ、国立劇場か開場しました。そ 判官は何度もお勤めですね。 の流れを大切にしなければいけないという思いがあった 判官は ( 七代目尾上 ) 梅幸おじさんに教わりました。 はすです。 初演 ( よ新橋演舞場 ( 昭和四十七年三月 ) で、当時は若手 実際に舞台に立たれ、どんな感想をもたれましたか。 だった我々の世代の『忠臣蔵』でした。 本当に素敵な歌舞伎向きの劇場だと感じました。新し 舞台稽古で、客席にお父様 ( 六代目中村歌右衛 い劇場というと、まあタッパ高さ ) か高くて間口が狭気一 門 ) 方が並ばれて、舞台におられる皆さんが緊張したと くて奥が深いような、いわば : , つかかったことかあります。 オペラハウスみたいな。 あんな怖い思いをしたことはないです。東横歌舞伎の そ , ついうのになると困ると思っていましたが、きちん 時もそうでしたが、緊張の連続でした。 とした、立派な劇場ができたことはみんなの喜びでした。 「一一段目」の桃井若狭之助も四十九年十一一月に国立国立劇場での歌舞伎が定着していくと、 しいなと思ってお ・りまし」。 劇場でなさっています。 「松切り」ですね。八代目の大和屋のおじさん ( 坂東 国立劇場は 津五郎 ) の本蔵でした。 デビューの場でもあった 国立劇場初出演は四十四年六月の『妹背山婦女庭 訓』で、現在までの当り役の求女実は淡海をなさいまし 初出演の『妹背山』は、「蝦夷子館」「布留の社頭 た。お三輪はお父様でした。 ( 道行 ) 」「三笠山御殿」「三笠山奥殿」「入鹿誅伐」の上 いろいろな事情があり、父は開場直後の国立劇場に出演でした。 ておりませんでした。それが三年目にして初めて座頭と 「御殿」「奥殿」「誅伐」の求女は私でしたが、「道 ことぶきそがのたいめん もせやまおんなて えみしやかた 0 妹背山婦女庭訓』烏帽子折求女実は藤原淡海、 中村松江 ( 現魁春 ) の入鹿妹橘姫 ( 昭和 44 年 6 月 ) ( 0 假名手本忠臣蔵」「二段目」桃井若狭之助安近、 八代目坂東三津五郎の加古川本蔵 ( 昭和 49 年 12 月 ) ( 0 E 、 GEK ー KAL2016.10 18
員として伊藤信夫氏とわたしが立ち会った。 この『三番叟』の開幕前には楽屋で、いわゆる「別 時に寿海は八十歳、素の羽織袴で扇を手に、森閑と 火の式」が執り行われた。照明を消した一部屋に、翁 飾りと称する諸道具、酒・米・塩を供え、出演者に神 して人気のない広い稽古場に端座した姿は、銀髪すが 酒がまわされ、米と塩で身体を清めて出場に備えると すがしく、まことに端正で美しい、品格の高い老優だっ いう、古伝の儀式である。部屋前の楽屋廊下に関係者た。寿海と勘祖による翁の稽古に漂った、一種神さび が蝟集して、わたしも頭越しに覗いた程度だが、厳粛た空気への感銘は、わたしの何処かに今もって残る。 かっ神秘的な雰囲気に充ちていた もう一つ、開場式での挿話を書こう。式典が始まる そこで思い出されるのが、確か開場式の数日前に組直前、事務所口からロビーへと急いで大階段を下りる まれた、寿海の翁ひとりだけの稽古だ大稽古場へ藤と、ちょうど一階より上ってこられた、正装で袴姿の 間宗家 ( 先代勘祖 ) が出張して翁の振りを一小し、それ ( 六代目 ) 中村歌右衛門と、それに付き添、つようにし て、分隙のないス 1 ツ姿の三島由紀夫氏とが、並ん を寿海がなぞるだけの短時間のものだったが、制作室 おきなせんざいさんばそう 「開場式」での「翁千歳三番叟」 上【三代目市川寿海の翁⑩ 下】七代目尾上梅幸の千歳、十七代目中村勘三郎の三番叟⑩ しう で歩を進めるところへ 、バッタリ行き合わせた。どぎ まぎしたが、 すでに成駒屋とは雑誌のインタビュ 1 で、 また南馬込の三島邸にはゲラの直しを戴きに伺い、ど ちらにも面識を得ていたので、丁寧に御挨拶を申し上 この日の招待者は自由席であったから、場内大混雑 の中で、お二人が式典を、どんな場所で御覧になった はつらっ かは知らない。が、、 しずれも四十歳代の精気溌溂たる 頃の両氏だった。 さて、試金石たる眼目の開場公演は、十一・十二の すがわらでんじゅてならいかがみ 一一箇月にわたって『菅原伝授手習鑑』全段が通し上演 され、その内「車引」のみ両月ダブらせてリレ 1 上演 した。 十一月の第一部には、勘三郎・梅幸・八代目坂東三 津五郎・四代目中村雀右衛門らに、関西から二代目中 村鴈治郎・十三代目片岡仁左衛門が加わり、十二月の 第二部には、梅幸・十四代目守田勘弥・三津五郎・雀 右衛門に、東宝の八代目松本幸四郎 ( 後の白鸚 ) ・八 代目市川中車・一一代目中村又五郎らが入る、大一座の 重厚な布陣だった。 稽古は十月末から開始され、約十日間をかけて、慎 重にして丹念に積み重ねられた。読み合わせ・立ち稽 古・付け立て・総ざらいの順で進行し、舞台稽古には 衣裳付き・衣裳抜きで一一日間を費やした。その時分に は、もう多くの俳優たちが、劇場側が印刷した活字 台本を用いたが、時平と覚寿を引き受けた鴈治郎が、 27 E 、 GEK ー K 人 k3016 、 10
周年記念「元禄忠臣蔵」坂東巳之助の大石主税、 松本幸四郎の大石内蔵助、坂東秀調の武林唯七、 澤村宗之助の矢頭右衛門七、中村歌六の堀部安兵衛 ( 平成年肥月 ) ⑩ が中心で、内蔵助は坂田藤十郎十二 月は「泉岳寺」「仙石屋敷」「大石最後の 一日」で、内蔵助は幸四郎この公演 は真山美保さんに演出をお願いしてい たのだが、春まだ浅い頃に亡くなられ た。全幕上演を楽しみにされ、お目に かかる約東は桜狩の頃だったのに、果 たせなかった。三か月の全幕上演は、 たくさんの男性観客の共感もあって盛 4 ごじゅうさんつぎ り上がり、客席に涙の洪水が溢れた。 十九年一月公演の菊五郎と菊五郎 劇団による復活通し上演は『梅初春 五十三驛』で、京都から江戸日本橋ま での五十三驛に化け猫のエピソードを 盛り込んで楽しく賑やかな初春らしい 公演だった。三月も引き続いての記念 はちすのいとこいのまんだら 公演で『蓮絲恋慕曼荼羅』。森山治男 の国立劇場歌舞伎脚本募集の入選作で、 当麻寺に残る当麻曼荼羅の伝説を中心 に中将姫伝説を描いた古代絵巻を、玉 三郎が演じ演出した作品。市川段治郎 ( 現喜多村緑郎 ) や門之助、市川右近、 市川笑一一一郎、市川猿弥、市川春猿ら三 代目猿之助一門の出演で小劇場での公 演が成立した。国立劇場の歌舞伎公演 菊周年記念「開幕驚奇復讐譚』 尾上菊五郎の仙女九六媛 ( 平成年川月 ) 2 たいま うめのはる で傾斜舞台を初めて取り入れた 四十五周年記念は、一一十三年十月か ら翌四月まで行われ、十月は菊五郎劇 力いまくきようきのあだうちものがたり 団による『開幕驚奇復讐譚』、十一月は にほんふりそではじめ 梅玉と魁春の『日本振袖始』、坂田藤十 そねざきしんじゅう 郎の『曽根崎心中』、十一一月は吉右衛門 の綱豊卿・大石内蔵助で『元禄忠臣蔵』、 翌一月は幸四郎の和尚、染五郎のお坊、 さんにんきちさともえのしらなみ 福助のお嬢で『三人吉三巴白浪と舞 やっこだこさとのはるかせ 踊『奴凧廓春風』、三月は團十郎の熊 谷・忠度、三津五郎の義経・六弥太で いちのたにふたばぐんき 『一谷嫩軍記』の通し上演、四月は仁 左衛門の左枝大学之助・立場の太平次 えはんがつばうがっし で『絵本合法衢』が上演された。 菊周年記念「曽根崎心中」 坂田藤十郎の天満屋お初、 中村翫雀 ( 現鴈治郎 ) の平野屋徳兵衛 ( 平成年Ⅱ月 ) 2 早足に国立劇場の記念公演の足跡を 辿ってみた。開場以来一人の専属演技 者も演奏家ももたない国立劇場だが、 周年記念公演はことさら大事にされて きたように思う。それが実現するには 当然ながら劇場側に明確なコンセプト があり、それに賛同してくれる人がい てくれなくてはならない。それは時に 作者・演出家だったり役者や興行会社 だったりする 「混沌の時代」などと書いたが、国 立劇場ばかりではない。今やどこもが 明確な価値観をもてない時代になった のだと思う。それは歌舞伎だけのこと でもないようで、時代はますます混沌 の様相を強くしているようである。そ んな難しい時代に五十周年を迎えよ、つ としている国立劇場と歌舞伎に、やは り夢を託したいと思う。 菊周年記念「絵本合法衢」 片岡仁左衛門の左枝大学之助 ( 平成幻年 4 月 ) 2 37 ENGEKIKAI.2016.10
観も俳優も育った鑑賞教室・・ー亨ー 国立劇場の思い出 さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい 七月「歌舞伎鑑賞教室」の「卅一一一間堂棟由来』を見な 玉はじめ、亡くなった十一一代目市川團十郎、十八代目中 がら、この公演が第九十回ということに気がついた。 村勘三郎、十代目坂東三津五郎ら、多くの俳優が鑑賞教 九十本全部見てきた私自身にも驚いている。「学生のた 室で初役を演じたのがきっかけで歌舞伎座でも勤める機 めの歌舞伎教室」として昭和四十一一年七月にスタート、 会を得て、べテランへの道を歩んでいった。 こくせんやかっせん 「高校生のための歌舞伎教室」「歌舞伎鑑賞教室」とタイ 第一回公演に近松門左衛門の『国性爺合戦』が取り上 トルが変わっても、観客の多くは高校生。平成二十八 げられたのは、高校の教科書に掲載され、学生が熟知し 年七月までに約五百七十九万人が観劇したそうだが、そ ているとの理由だった。市川男女蔵 ( 現左團次 ) の和藤 のうち何人が歌舞伎ファンとして残っているのだろうか 内に片岡秀太郎の錦祥女。まだ無名に近かった片岡孝夫 第一回公演を観劇した高校生たちはすでに還暦も過ぎ、 ( 現仁左衛門 ) が伍将軍甘輝に大抜擢された。大阪から 孫のいる年齢だと思うと、観客育成事業の息の長さと四 上京したばかりで東横ホ 1 ルしか出る場がない時に、前 すがわらでんじゅてならいかがみ 十九年という歳月の重みがずしりと伝わってくる 年の国立劇場開場公演『菅原伝授手習鑑』の斎世の君を 「歌舞伎のみかた」の解説は、歌舞伎に興味をもたせ 演じたのが認められて、三度目の国立劇場出演となった。 る重要なポイントになる。第一回から三回までの片岡秀坂東玉三郎との「孝玉コンビ」で人気が出る以前に孝夫 公 ( 現我當 ) は背広姿で登場、大学教授の講義などといわ を起用した国立劇場の目は確かであった。 れた。第三十四回までは六代目尾上菊蔵と十代目岩井半 菊五郎は菊之助時代の四十五年七月、『仮名手本忠臣 四郎らが担当した。半四郎は居眠りしている学生を舞台 蔵』「五・六段目」の勘平を初役で演じた。瑞々しい一一 から叱りつけ厳しかった。最近は若手俳優が友だち感覚枚目の勘平と玉三郎の初々しいおかるはお似合いで、お で解説。袴姿ありジ 1 ンズ姿ありと自由な雰囲気である かるが勘平の膝に手を置き別れを告げる場面は、ひしひ 「歌舞伎鑑賞教室」の演目選びは難しい。何が高校生 しと悲しみが伝わった。 向きかは意見が分かれるが、本公演で手の届かない大役 『俊寛』は高校生に理解されやすい。染五郎時代の幸 を若手俳優が演じる「修練道場」の役割を果たしたこと 四郎も、吉右衛門も初役で演じている。八枯木の杖によ に大きな意義がある。今、歌舞伎を支えている尾上菊五 ろよろと」で登場する染五郎の俊寛は流人の苦しみを背 郎、松本幸四郎、中村吉右衛門、片岡仁左衛門、中村梅負ったやつれた姿、吉右衛門は大柄な体のなかに執念を ぐら しゅんかん かなではんちルうしん 秘めていた。終幕の俊寛の執着心と諦観のこもった岩上 の姿に感動する高校生が多かった。海老蔵 ( 十一一代目團 十郎 ) の「大物浦」の知盛は初役ながら凄みがあり、吉 右衛門の「すし屋」のいがみの権太は初役から合格、勘 九郎 ( 十八代目勘三 いちじようおおくらものがたり 郎 ) の『一條大蔵譚』 の大蔵卿は見事な阿 呆ぶりを初役から見 せていた。現在のべ テランたちが初役で 演じた時の熱気が忘 れられない。 「俊寞市川染五郎 ( 現幸四郎 ) の俊寛僧都 ( 昭和年 7 月 ) ⑥ 「歌舞伎のみかた」片岡秀公 ( 現我當 ) の解説 ( 昭和 44 年 7 月 ) ⑩ お、 GEK ー KAI. 2016.10 42
芸を云々する観客が少なくなり、文楽という芸の形態や 物語を楽しむ人が増えたのである。つまり文楽は芸を楽 しむ演劇から教養の対象に変わったのだ。最近の十年間 でいえば、東京の文楽公演の観客入場率は歌舞伎のそれ を遥かに越えている。この間も、四代目越路太夫や初代 玉男の死去や住太夫の引退があったが、客席はほば満員 の状態が続いているのだ。 文楽とともに上方の芸能が数多く国立劇場で紹介され るようになり、その結果、上方の芸能が評価され、それ に携わっている人々が顕彰されるようになった。歌舞伎 の坂田藤十郎、落語の三代目米朝、文楽の住太夫が文化 勲章を受章し、上方舞の吉村雄輝、文楽の初代玉男、簑 助が文化功労者に選ばれた。昭和の時代には考えられな かった現象である。国立劇場が生んだ功績の一つで、大 阪生まれの私にはうれしい 養成事業も国立劇場の大きな仕事であった。伝統芸能 の後継者の養成だけではない。新しい観客を生み出すこ とも養成にあたると私は思う。開場三年目の四十三年か ら夏に「青年歌舞伎祭」が行われた。まだ若手だった今 の大幹部たちが、それぞれ会をつくって参加し大きな役 に挑戦した。菊五郎、辰之助 ( 一一一代目松緑 ) の「あすな 「塩原多助一代謎十代目坂東三津五郎の 塩原多助 ( 平成幻年 10 月 ) ろう会」、團十郎の「荒磯会」、幸四郎、吉右衛門の「木 を脇から支えている。また、何人かの俳優は幹部に昇進 の芽会」、松嶋屋兄弟 ( 我當、秀太郎、仁左衛門 ) の「若 した。指導の中心的役割を果たしたのは一一代目又五郎で、 松会」、玉三郎の「若草座」、十八代目勘三郎、歌六、 その功績は大きい。歌舞伎音楽研修も、竹本は五十一年、 又五郎らの「杉の子会」などである。そのほかに脇役た 鳴物は五十六年、長唄は平成十一年に始まった。文楽研 ちの勉強会もあり、四十七年から国立劇場歌舞伎俳優研修は四十七年に始まり、現在、文楽の三業 ( 太夫・三味 修の修了生による「稚魚の会」が始まった。御曹司たち 線・人形 ) の半数以上は修了者で、この事業がなかっ の会は彼らの成長とともに消えていったが、「稚魚の会」 たら歌舞伎も文楽も危機に立っていただろう。劇場の最 大の功績はこれら養成事業であったと思う。 は幹部俳優に直接入門した名題・名題下俳優たちによる 「歌舞伎会」と合同する形で現在まで続いている 新しい観客を生み出すため四十一一年から「歌舞伎鑑賞 歌舞伎俳優研修は四十五年に始まった。脇役俳優の不 教室」、四十四年から「文楽鑑賞教室」が始まった。歌 足が深刻になり、一般から公募して歌舞伎俳優を養成す 舞伎は五十三年から年に一一か月となり、各月「歌舞伎の ることになったのだが、 今ではその修了者たちが歌舞伎 みかた」という解説と初心者向きの狂言を一本上演。文 楽は一か月で、観客はどちらも高校生が主体である。違 うのは、歌舞伎の出演者は中堅若手俳優が多いのに対し て、文楽はトップクラスの人が出演することだ。歌舞伎 は世代の近い俳優が出演したほうが親近感をもたれると いう発想で、文楽の場合は初心者にこそ最高の舞台を見 せるべきだという考え方によっている 調査研究も国立劇場に課された使命で、公演ごとに刊 行している『上演資料集』のほか、さまざまな文献、『近 代歌舞伎年表』『義太夫年表』などを刊行してきた。いす れも国立劇場でないとできない仕事で優れた功績である。 個人的には舞踊、邦楽、声明、民俗芸能など貴重な芸 能が鑑賞できたことが贅沢な体験であった。さらに私的 なことでは、私が初めて劇評を書いたのが開場公演だっ た。演劇雑誌の『テアトロ』が開場を機に大劇場公演の 評を掲載する欄を設け、私が担当させてもらったのであ る。十年間連載した。 私にとって長いようで短く、短いようで長い半世紀 だった。 「江戸宵闇妖鉤爪」市川染五郎の恩田乱学、松本錦吾の目明かし恒吉、松本幸四郎の明智小五郎、 市川春猿の明智の女房お文、市川高麗蔵の同心小林新八 ( 平成年 11 月 ) 41 E 、 GEK ー KAL2016.10
れ、これを機に亡くなるまでを追った 十数時間に及ぶドキュメンタリー映画 が残されている。まさに歌舞伎史上に 燦然と輝く公演だった。「入魂の演技」 とはよくいわれるが、「入神の演技」 と特別に高い評価を得た。 十一一月は、「車引」から「賀の祝」「寺 子屋」「大内」まで。「車引」「賀の祝」 は、海老蔵 ( 十一一代目團十郎 ) の松王 丸、五代目中村勘九郎 ( 十八代目勘三 郎 ) の梅王丸、菊五郎の桜丸で、「寺 子屋」は十七代目勘三郎の松王丸、羽 の一一を 周年記念「菅原伝授手習鑑」 十七代目中村勘三郎の舎人松王丸、 十七代目市村羽左衛門の武部源蔵、 四代目中村雀右衛門の源蔵女房戸浪 ( 昭和浦年肥月 ) ⑩ 左衛門の源蔵、梅幸の千代、四代目雀 右衛門の戸浪であった。「寺小屋」の 勘三郎もまさに絶品だった。 さて、六十一年は開場一一十周年で、 数年前から企画に取りかかった。ます これまで記念公演で取り上げたこと のない『仮名手本忠臣蔵』を考えた が、どのようなコンセプトでこの歌舞 伎界最大にして最高の戯曲を上演す るかが問題だった。そこで考えたの は、昭和二十二年十一月の東京劇場 での上演の現代版を行うことであっ た。六代目菊五郎、初代吉右衛門、七 代目幸四郎、一二代目梅玉、七代目宗十 郎、七代目三津五郎、三代目中村時 蔵といった昭和を生き抜いた名優に、 若手抜擢の配役。その時の若手 ( もし ほ = 十七代目勘三郎、海老蔵 = 十一代 目團十郎、男女蔵三代目左團次、芝 翫 = 歌右衛門、彦三郎羽左衛門 ) が 戦後の歌舞伎を支えてくれ、かろうじ てではあっても今そこにいる。この機 を逃してはならない、と考えた。最初 に二代目松緑さんに話した。一時代に かんじんちょう 「七段目」の由良之助と『勧進帳の弁 慶は人あればよい、 と教えられた。 その「七段目」の寺岡平右衛門を頼んだ。 上の二人の兄さん ( 十一代目團十郎、 かなでほんちゅうしんぐら 跚周年記念「假名手本忠臣蔵」 右】十七代目中村勘三郎の高武蔵守師直、 七代目尾上梅幸の塩冶判官高定、 左】十三代目片岡仁左衛門の大星由良之助、 一一代目助高屋小伝次の斧九太夫、 十七代目市村羽左衛門の寺岡平右衛門 ( 昭和年川・Ⅱ月 ) ⑩ 3 初代白鸚 ) がいれば、どちらかが由良 之助で、戦後の平右衛門役者は当然松 緑さんである。案の定、山良之助は誰 かと問われた。「松嶋屋さんです」と 、、、こ、さんかい」 答えると「そ、つ力し ( し の一言。次に十一一月の「九段目」の話 になり加古川本蔵をお願いすると「本 蔵は嫌いなんだ。二股侍だから」と言 われる。それでも長々としゃべって、 なんとかご了承をいただいた。その時 の最後の一言「生きていればな」との セリフはズシンと腹にこたえた。同じ セリフは歌右衛門さんからも聞かされ、 成駒屋は戦後最初の『忠臣蔵』東劇公 演の二匹目の泥鰌を狙っていることも 先刻承知だった。あとはすんなりと配 役は決まる 十月は「大序」から三段目建長寺」 「三段目松の間」「四段目城明渡し」 「道行旅路の花聟」まで。由良之助に 十三代目仁左衛門、塩冶判官に梅幸、 高武蔵守師直に十七代目勘三郎、顔世 御前に七代目芝翫、桃井若狭之助と早 野勘平に十一一代目團十郎、腰元お軽に 勘九郎 ( 十八代目勘三郎 ) という配役 だった。 十一月は「五・六段目山崎街道・勘 平腹切」「七段目祗園一カ茶屋」「八 はなむこ どじよう E 、 GEKIKAI.2016.10 34
宵闇妖鉤』→乱噂鉤鴈一 ) として上演したことも記 作品の江戸の古狂言を復活上演してきた。 十八年の四十周年記念では十月から三か月にわたって 憶に残る。 げんろくちゅうしんぐら こうして半世紀を回顧すると、国立劇場の開場によっ 真山青果の「元禄忠臣蔵』を全編上演し、十月は吉右衛門、 て歌舞伎の演目が実に多彩になったことがわかる。また、 十一月は坂田藤十郎、十一一月は幸四郎が内蔵助を演じ た。そのほかに目立った公演としては坂田藤十郎、富十 この劇場の方針であった通し上演が次々世代に受け継が おぐりはんがんものがたり れていることもわかる。大きな功績であろう。 郎らの上方式演出「小栗判官譚』、仁左衛門が吉右衛門 とは違う台本で演じた「霊験亀山鉾』、猿翁一門による とみがおかこいのやまびらき はでくらぺいせものがたり 『競伊勢物語』、菊五郎一門による「富岡恋山開』 伝承者ど観客の - かいがさやぎゅうしつき かねてきくやなぎさわそうどう とおやまざくらてんはうにつき 三蓋笠柳生実記』『噂音菊柳澤騒動」「遠山桜天保日記』、 養成も大きな功績 しおばらたすけいちたいき 十代目三津五郎の「塩原多助一代記』、染五郎の『乳貰 はなふぶきこいのてかがみ づかむかしがたりうぐいすづか 歌舞伎以外の公演にも触れたい。新派公演は昭和 ( 花雪恋手鑑 ) 』「うぐいす塚 ( 昔語黄鳥墳 ) 』の復活 四十七年の『滝の白糸』から始まった。初代水谷八重子 がある。絶えていた場面の復活としては吉右衛門が「神 れいやぐちのわたし を中心にした一座でゲストに歌舞伎の花形が加わるこ 霊矢ロ渡』の「由良兵庫之助新邸」、翫雀 ( 現鴈治郎 ) せおんどこいのねたば とも多く、『婦系図『日本橋』『白鷺』『不如帰』など、 が「伊勢音頭恋寝刃」の「太々講」を復活している。坂 五十四年の初代八重子没後も六十一一年まで十四回の公演 田藤十郎の「忠臣蔵』七役早替りや、染五郎が一一年にわ をもった。以後中断して、良重の一一代目八重子襲名の翌 たって江戸川乱歩の「人間豹』を新作歌舞伎 ( 『江戸 「浮世柄比翼稲妻」中村勘九郎 ( 十八代目勘三郎 ) の名古屋山三元春、 中村時蔵の茶屋女房お時、十二代目市川團十郎の不破伴左衛門 ( 平成 5 年 4 月 ) ⑩ えどの ちちもら しん 「小春穏沖津白測澤村田之助の三浦屋傾城深雪、 尾上菊五郎の八重垣礼三郎実は小狐礼三 ( 平成 14 年 1 月 ) 「霊験亀山鉾」中村芝雀 ( 現雀右衛門 ) の芸者おつま、 片岡仁左衛門の隠亡の八郎兵衛 ( 平成年月 ) 2 年、平成八年から十三年までに五回、その後また中断し ていたが今年久々に復活した。 文楽は歌舞伎と並ぶ中心の公演で、開場以来小劇場で 年四回の公演を続けてきた。原作尊重・通し上演が方 針で、開場公演に続く翌年三月には「伊賀越』を通し 上演したが、東京の観客には文楽自体の馴染みが薄かっ たため不入りで、六、九月は見取りの狂言立てに切り替 えた。ところが四十三年の文楽初のパリ公演で上演し そねざきしんじゅう た『曽根崎心中』が現地で絶賛されたことで状況が一変 した。若い観客が急に増え始めたのである。そのため再 び通し上演が復活し『妹背山」「廿四孝」「千本桜」「菅 原』などの大作を上演した。一方で五十六年に一一月公演 を「近松名作集」と題して三部制にするなど ( この企画 は六十三年まで続き、以降も断続的に行われている ) 、観 客動員を図る企画を模索した。しかしそんななか、名手 が次々に逝ってしまった。開場翌年に十代目若太夫が逝っ たのをはじめ十年間に八代目綱太夫、三代目春子太夫、 一一代目紋十郎、六代目寛治、一一代目栄三、松之輔が次々 に亡くなった。今思、つと、名手が立て続けに世を去った この時期を境に、文楽の鑑賞法が大きく変わったと思う。 E 、 GEK ー KAL2016.10 40