マイケル・ピュエット - みる会図書館


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1. UP 2016年10月号

界の中国哲学研究者の間では共有されている。ロジャー・エイころが、どうしても同じようにはできない。それは院生があま ムズ ( ハワイ大学 ) 、ステファン・アングル ( ウェズリアン大学 ) り積極的に語らないからというわけでもない。教師としてのわ などが代表的な論客であるが ( どちらもその著作の日本語訳は残 たしが我慶できなくなるのだ。沈黙が一〇分間ほど続くと、 念ながら無い ) 、 ここで紹介するマイケル・ピュエット ( ハ 「忍びず」の思いか湧き起こり、ついつい喋ってしまう。そし ド大学 ) もまたこの問いを引き受けている学者である。 て、自分の喋る音を聞きながら、つねにピュエットの教師とし ての凄さを噛みしめていたのである。 2 教師の理想 とはいえ、ピュエットがどれだけパッションを込めて講義を マイケル・ピュエットはわたしにとって教師の理想である。するのかを知らないわけではない。実は、二〇一一年の一月に もう一〇年以上前になるが、ピュエットの大学院ゼミを一学東京に来るというので、駒場と本郷で都合三回講義をしてもら 期間聴講したことがある。このゼミもまた、米国の伝統的な大ったことがある。学問のパッションが伝わる講義ではあった 学の多くがそうであるように、 かなりの量のリーディング・マが、マイケル・サンデルの白熱教室を彷彿とさせるというもの ードではサンデルに迫 テリアルを毎週読み込んできて議論をするというものであつではなかったと思う。ところか、ハー た。院生は優秀でその議論はなかなかに刺激的であった。ところうとするほどの人気の講義であるそうである。いったい、東 ードでの反応の違いは何に由来するのであろうか ろが、ピュエットは微笑むばかりで何も語らないのである。た大とハ まに音声を発することがあっても、「すばらしいを意味する 3 儒墨の争いーー偶然性について再び の 語を口にするぐらいである。これはど、つい、つことなのかと不思 この本の主たるテーマは礼である。礼と聞くとわたしたちは 議に田 5 っていると、院生の中に「先生のお考えはどうでしょ う」と問う者が現れた。「そうそう、よくぞ言ってくれた」としばしば、それは形式主義的で、どちらかというと権威主義的の 思って反応を待ったのだが、微笑みで返すばかりである。決しであって、近代において退けられた古い規範としてイメージす て語らないのだ。もちろん、一学期の間には少しはピュエットるのではないだろうか。近代中国を念頭に置く人であれば、礼 も語ったと思うが、わたしの記億には「先生が何も語らないゼ教としての儒教が人々の心を食んできたという魯迅の批判や、 書 封建制や後進性の象徴として否定された歴史を思い起こすかも ミ」として定着してしまった。 ところか、ピュエットはこの礼を、近代ヨーロッパ 帰国後、自分のゼミで同じことをやってみようと試みた。としれない 二ロ

2. UP 2016年10月号

プロテスタンティズムとしての墨家という考えはなかなかに刺 税 激的である。「天志」に対する強い信仰を有する墨家は、儒家 十 の 円 とその礼の規範を強く批判し、すべての人を平等に扱う「兼 0 愛」を説いてした : ) ' ヒュエットはこ、つ述べる 年 よ 頁功 1 の 7 部 2 訳戸・ 墨家は天の道徳律にのっとった社会の再建を思い描い 子・水房 」浮判・書 た。墨子は、ある種の公正な道徳律が字宙を下から支えて 谷六丁川 熊四装早 いると信じるように教え込めば、人々を倫理的にふるまわ評 書 せることができ、その結果よりよい社会になると考えた。 とりわけプロテスタンティズムか語るような世界観や規範より 真摯な信仰の重視といし 儀礼への不信といし 、善なる神 もはるかにましなものとして提示しよ、つとい、つのである。 性が創造した条理ある予測可能な世界への信念といい、 家は多くの点で初期プロテスタントとかなり似ている。 プロテスタントの思想は、近代世界の今、人々が当たり ( 同、八〇 5 八一頁 ) 前のことと受け止めていることがらの大部分を形づくって きた。今も神を信じているとしても、もう信じていないと規範が天という超越に基礎づけられており、わたしたちは「天 しても、わたしたちはまだ同じ基本的な枠組みを信じてい の道徳律」 ( 同、八〇頁 ) に則りさえすればよい こうした墨家 る。安定した世界に生きる安定した自己だ。合理的な選択の世界観が当時においては儒家とともに大きな勢力をなしてい をする主体として行動し、なにが自分の利益になり、なにて、儒墨の争いと呼ばれる状況を作り出していた。では、儒家 が害になるかを計算する。心をのぞきこみ、本当の自分をの代表として孟子はどのように墨家に反論したのか。ピュエッ 発見し、どうすれば繁栄できるか計画を立て、その計画をトによれば、孟子はこの世界が偶然性に貫かれていて、「本当 実現するために勤勉に働けば、当然のように繁栄と成長が にいつも切れぎれで気まぐれ」 ( 同、一一〇頁 ) であることから もたらされる。端的にいえば、わたしたちは墨家だ。 ( 『ハ出発したという。 ードの人生が変わる東洋哲学』、八一頁 ) ハ / ←ドの 東洋哲学 工ソートを熱狂させた 超人気講義 、、 : W ト 0 ( れ 0 ま 0 Ph ⅱ 0 op ト“ 5 0 reach リ第 A ト 0 リ要 the GOod life pueet & ( h 5 ne 0r05540 ト マイケル・ビュエット クリスティーン・グロス = ロー 谷淬子駅駅櫞独占 / 川書扇 世界一優秀な学生たちを夢中にさせる 孔子や老子の新しい読み方とは ? ー にの講義が終わるまでに、 きみの人生は必す変わ箚

3. UP 2016年10月号

孟子の世界は〈命〉が広くいきわたっている。命には、わたしたちは「転変きわまりない世界に生きる」しかないそ 天命、運命、宿命などさまざまなことばがあてられてきれは、プロテスタンティズムとしての墨家の「善なる神性が創 た。しかし、孟子にとっての命は、人生の偶然性を意味す造した条理ある予測可能な世界ーという見方に立たないという ることばだった。吉凶禍福は人のコントロールがおよばぬことだ。言い換えれば、それは、よいものであれ、悪いもので ところで起こる。〔中略〕 あれ、出来事が生じることを受け入れながら、この世界を少し 転変きわまりない世界に生きるとは、人の行為がかならでもよい方向に変える努力をすることだ。そのためには、強い 、弱い規範を創造し続けることが必 す報いられる道義にかなった安定した宇宙に生きてはいな規範を前提するのではなく いと受け入れることだ。本物の悲劇が起きるのを否定して要である。そして、その弱い規範こそ、墨家が切り捨てた、礼 はいけない。しかし同時に、自分の身になにが降りかかろである うと、常に驚きに備え、どう対処するか学ばなければなら 4 〈かのように〉の礼 ない。その努力をつづければ、たとえ悲劇に遭遇した場合 マイケル・ピュエットの礼に対する関、いにはかなり一貫した でも、世界は気まぐれであり完璧に規定することはできな いと受け入れられるようになる。そして、これこそが転変ものがある。博士論文を改稿して出版した『創造の両義性 きわまりない世界に期待できる部分だ。世界が本当にいっ初期中国におけるイノベーションと作為』 ( スタンフォード大学 も切れぎれで気まぐれでありつづけるのなら、改善するた出版会、二〇〇一年 ) や、『神となるーー初期中国におけるコス ード大学出版会、二〇〇二 めにいつも取り組みつづけられる。自分がなりうる最高のモロジー、犠牲、自己神化』 ( ハ 人間でいようと決意してすべての状況に臨むことができ年 ) においても礼は重要な概念であった。そして、二〇〇八年 にピュエットを含む四人で出版した『礼とその帰結ーー真摯さ る。それも、状況からなにかを得るためではなく、状况が どう転ほうが、ただまわりの人たちをよい方向へ感化する冖誠〕の限界について』 ( オックスフォード大学出版会 ) におい ためだ。みずからのよい面をつちかって気まぐれな世界にて、礼を正面から論じたのである。すなわち、書名にあるよう に、プロテスタンティズム的な内面の真摯さ ( 儒家的には誠に 向き合い、そのなかで世界を変えていくことができる。 ( 同、一〇八 5 一一一頁 ) 当たるだろう ) に基づく規範と、〈かのように〉の礼に基づく規 範の違いを論じ、後者の重要性に光を当てたのである。 51 [ 書評 ] 132 くかのように〉の礼

4. UP 2016年10月号

ない。あるのはわずらわしい現実世界だけで、わたしたちうか。ピュエットの語る〈かのように〉の礼は、帝国化してい はそのなかで努力して自己を磨く以外ない。ありきたりのく手前の中国において、一時的に見出されたものであって、そ 〈かのように〉の礼こそ、新しい現実を想像し、長い年月の後の中国において実際に展開していった礼とは異なる。〈か をかけて新しい世界を構築する手段だ。人生は日常にはじのように〉の礼は、ピュエットの読解を通じて構築され、洗練 まり、日常にとどまる。その日常のなかでのみ、真にすばされ、再び構築されたものなのだ。その限りで、〈かのように〉 の礼は一種パフォーマテイプ ( 行為遂行的 ) なものであって、 らしい世界を築きはじめることができる。 ( 同、七六頁 ) コンスタテイプ ( 事実確認的 ) なものではない。 弱い規範としての〈かのように〉の礼。はたして、わたしたちそうであれば、〈かのように〉の礼を近代的な普遍的規範 ( 自由や人権等々 ) と単純に対立するものとして考えるべきでは はそれをどう受け止めればよいのだろうか ないかえって、後者が普遍化していくためには、〈かのよう 5 近代の普遍的規範との関係 に〉の礼の実践が必要だと考えるべきではないだろうか。機会 実は、ピュエットのこの本を学生と社会人の人たちに読んでがあれば、是非ピュエットに聞いてみたいところである。 もらって感想を聞くと、大きく二つに分かれた。共感と反発で さて、最後に、礼の重要な場面である食事について付け加え ある。とはいえ、その受け止め方の根っこはあまり変わらな というのも、ピュエットは東アジアとりわけ日本にとってておこう。ピュエットと食事をしていたある時にふと気づい の 馴染みの考え方を提示しているとどちらもとらえているからた。ピュエットは、わたしと完全に同じタイミングで同じもの だ。共感する人たちはそこに可能性を見いだすし、反発を覚えを食べるという礼を実践していたのである。肉を切れば肉を、 、つ よ る人たちは、「じゃあ、近代を受け入れてきた意味がなくなるサラダを食べればサラダを、飲み物を取れば飲み物をともにい の ただくのである。心配りの繊細な人に出会うことがこれまでも ではないか」と憤慨するのである。 ードでのピュエットに対する反応数多くあったが、ピュエットのそれはまた独特であった。断片 これこそが、東大とハ の違いをもたらしたものである 1 ドの読者にとっては 化された世界において、破片を繋ぎ合わせることでよき生を生 書 きわめて新しい考えであるにしても、東大の読者にとってはどきようとする思想家の、ささやかなプラクシスである。 ( なかじま・たかひろ中国哲学 ) こか既視感があるということだ。しかし、本当にそうなのだろ

5. UP 2016年10月号

〔書評〕 〈かのように〉の礼 マイケル・ピュエット、クリスティーン・グロスⅡロー の人生が変わる東洋哲学』 あったようである。 礼ではないですか 拙稿を記億されている読者の方は、さりとはいえ、では中島 前回の書評「究極的な理由がないこの世界を言祝ぐーにおいが問うた「さて、道徳は ? 」という問いの行方はどうなったの てカンタン・メイヤスーを取り上げた勢いを駆って、訳者であかと訝しまれるかもしれない。これに対しては、千葉さんから る千葉雅也さん、大橋完太郎さん、星野太さん、そして宇宙はまるで中国の哲学者であるかのような応答が発せられた。「礼 複数的にあるというマルチバース論の論客である野村泰紀さんではないですか」。意表を突かれたのはわたしだけではなく、ひ ( カリフォルニア大学バークレー校教授、東京大学 KavliIPMU 客員よっとして千葉さん自身も自分の言葉に驚いたのではないだろ 上級科学研究員 ) をお招きして、二〇一六年六月一八日にうか。とはいえ、ドウルーズを読み、ヒュームを読み、そして今 にてシンポジウムを行った。メイヤスーの思弁的唯物論がやメイヤスーを読み抜いた先に、礼を考え直す必要があると千 マルチバース論と思った以上にシンクロしていく様は、予想を葉さんが一一一口うのは決して無理な線ではない。なぜなら、偶然性 超えてスリリングなものがあったし、三人の訳者がそれぞれのに晒され、神や人間的理性という強力な基礎を欠く中で、それ 観点からメイヤス 1 と切り結びながら、独自の問いを編み出そでも何らかのよさを求めようとするのなら、感情に基づいた弱 うとしている熱量を感じ取ることもできた。それは、学問のパ い規範である礼を参照することは無意味ではないからである ッションもしくはパッションの学問か出現した一つの出来事で では、今日において礼とは何か。この問いは、実は静かに世 0 0 1 中島隆博 [ 書評 ] 132 くかのように〉の礼 48

6. UP 2016年10月号

学問の図像とかたち・四イラストカら読む教科書スマイルスイ、 : ンク一寺田寅彦 〔「イスラーム問題」の構築と移民社会ー・ニ 0 一五年バリ危機からその後 03 ホヒュリ . 、スム政ム仙 A 」「移民間題」宮島喬 〔法の森からー、〈 A 〔。 = 。「言ョ呼。「。「。。一。一〔。 w 〉〕 2 世幻ルフ一フンスの「ハン」寸」大村敦志ーー 日本人の情報行動、この一一〇年間の変化を追って橋元良明 フラトンとキリシア五Ⅲ山本巍 〔初期「帝大新聞」の研究ー「創刊資金の〕 7 永井了士ロ「日の会」人脈と『市大新聞』清水あっし 7 0- 1 ” 〔漢文ノート祝」にの秋齋藤希史 〔たまには物理カンタービレ ) 人類の星のと当」太田浩一 〔書評〕〈かのこ、つに ~ 〉の礼マイケル・ピュエット、クリスティーン・グロスⅡロー 〔日本美術史不案内〕枚一平佐藤康宏 すしろⅡ記第約回山口晃 7 執筆者紹介 学術出版 第ロ五巻第十号 ( 通巻五ニ八号 ) ニ 0 一六年十月五日発行 ( 毎月五日発行 ) 定価 ( 本体価格一 00 円 + ) ( 一年分一 000 円送料・税共 ) ードの人生が変わ「 ・ Numbe 「 528 、 Oc ( obe 「 20 一 6 市立文 - ・ 160977583 般 東京大学出版会

7. UP 2016年10月号

たとえば、プロテスタントと多くの近代的社会科学が理解くす」がその中心である。ピュエットはこう解釈している。 したのとは異なる礼の思考法を、初期の中国とユダヤの作 の 家たちがいかに提示したか、またそれが理論として真剣に 孔子にとって、祖先祭祀はそれをとりおこなう人におよ 受け止められなければならないかが示された。こうした見 ばす効果という点で、おろそかにできないものだった。儀 の 方は礼を仮定法的なものとして、〈かのように〉の世界を 礼行為か本当に死者に影響を与えたかどうかを問うこと 作るものとして読解することを可能にする。多くの社会科 は、まったくの的はずれだ。家族が供物を捧げる必要があ 学的な理論が礼に整合的な世界観を吹き込むのに対して、 ったのは、祖先がそこにいるかのようにふるまうことで家 ここで挙げた礼のテキストは断片化され破壊された世界を 族たちの内面に変化がもたらされるからだ。 ( 「ハ ード評 書 前提にしている。仮定法的な礼の世界は、壊れた世界に内 の人生が変わる東洋哲学』、五一頁 ) 在する緊張の中にあり、少なくとも黙示的には、限定され 一時的であると理解されている。その際、礼には、そのまつまり、〈かのように〉の礼は、 いったん現実の世界から人々 までは断片化されたままの世界において、関係の網の目をを引き離し、別の役割を演じることによって、自分たちの行動 構築し、洗練し、再び構築するといった終わりのない仕事パターンを変化させる。それが現実の世界にも何らかの効果を が含まれる。礼の仕事は休むことなく世界を構築し、短い もたらし、よりましな関係性を築くように促す、というのであ 間、何らかの秩序、喜び、インスピレーションを創造するる。そして、祖先祭祀だけでなく、かくれんばのようなごっこ のである。 ( 『礼とその帰結』、一八〇頁 ) 遊び、「ありがとう」や「愛している」のような言葉のやりと りが、〈かのように〉の礼の中に数えられていく。 礼は〈かのように〉の世界や仮定法的な世界を作り上げる。そ ネという規範は実にささやかなものだ。わたしたちは強い規 れは決して強く基礎づけられた世界ではなく、いわばこの世界範に基づいて一挙に世界を変えたいと思いがちである。しか に対して幽霊的に取り憑いている微分的な世界のようなものし、そうではないのではないか。ピュエットの結論はこうであ だ。幽霊的にとあえて言ったのは、〈かのように〉の礼がもっとる。 も問われたのが、そもそも祖先祭祀の場面だからである。『論 語』八の「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如 人生の脈絡や複雑さを凌駕する倫理的、道徳的な枠組みは