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1. UP 2016年9月号

裏山ははじめ古谷山、のちに横須賀製鉄所の鎮守として八幡ような文字が刻まれている。 宮を祀ったことから八幡山と呼ばれた。明治四十五年 ( 一九一 「動物を愛する人々相集い、緑濃き諏訪山の動物舎跡に、人 、刀 一 l) に諏訪山公園となった。同時に、横須賀海軍工廠殉難職工と動物の永久の幸を、祈念しこれを建てる、横須賀市動物愛護 の招魂塔が落成した。大きな石壇の上に天を突く金属製の円柱協会、横須賀三浦獣医師会、建立基金協力者一同、昭和六十年物 る が姿を現した。 六月一日」 そこを動物園にして人を集めようと考えたのが奥宮衛市長だ さらにそのすぐ傍らには、被弾した鉄板か記念碑のように建が った。市長は「要は猿でも兎でも鶴でも手当り次第に屋舎を設 サ っている。いや、間違いなく記念碑だろう。「教えてくださ えて飼育するので、当市は幸ひ海外の動物を収蒐し得る便宜が ここの、穴の開いた鉄板の記念碑 ? の情報を知っている 他都市より比較的多いから大変に好都合に行くと思ふ、従って方は、下記にご連絡ください由来が分かりましたら、説明板番 十 当初の費用は極僅少で唯番人を置くか専門の飼育者を招聘するを設置いたします。横須賀市土木みどり部 ( 市役所二号館六階 ) 第 かが問題たる計りである」と楽観的な見通しを語り、次年度予緑地管理課」という立て札が、いかに人は風景を忘れやすいか 算に計上すると明言した ( 『横浜貿易新報』大正十年一月十四日 ) 。と教えてくれる ( 拙著『戦争という見世物ーー日清戦争祝捷大会 巡 園 それがどのように実現したかは定かでないが、昭和十七年一一潜入記』ミネルヴァ書房、二〇一三参照 ) 。 物 動 月六日付けで市長が市参事会に提出した「市有物件移転ノ件 披露山公園とは対照的に、戦後の諏訪山公園にサルはいな によれば、木造山羊舎、木造金網張猿舎、木造亜鉛葺金網張鳥 舎、土台コンクリート鉄檻が移転するリストに挙っており、 芦屋打出公園 少なくとも、ヤギ、サル、鳥、クマが飼育されていたことかわ かる。移転補償料を払ったのは横須賀海軍建築部長であるか 打出で阪神電車神戸線を降り、山に向かって歩くとすぐにわ ら、動物園が移転したのではなく、動物園の所有権が横須賀市かった。閑静な住宅地の中の小さな公園だった。村上春樹ゆか から海軍に移転したようなのだ ( 『新横須賀市史資料編近現代りの公園があって、それはデビュー作『風の歌を聴け』 ( 講談 三』横須賀市、二〇一一 ) 。 社文庫 ) の冒頭に登場し、サルのいる風景が描かれたがゆえ 今訪れると、招魂塔は台座を残して姿を消し、公園の片隅に に、サルがいなくなったあともサルの檻だけが残されていると 動物慰霊碑だけがほっんと建っている。その背面には、つぎの教えてくれたのはどこの誰だったのだろう。それとも新聞記事

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文応元年 ( 一二六〇 ) 夏、日蓮が北條時頼に提出した『立正たちが住み着いていたと考えるべきで、日蓮を救ったのは、お 安国論』が原因となって、鎌倉松葉ヶ谷に営んでいた草庵が焼そらく猿ではなくそのようなひとたちだったのだろう。 討ちを受ける ( 松葉ヶ谷法難 ) 。山を越えて逗子側に逃れた日蓮ついでにいえば、「披露山暮雪」同様、新たに登場した「浪 が岩窟に身を隠すと、白猿が現れて食物を運んでくれた。これ子不動秋月 , は徳富蘆花の『小説不如帰』 ( 一九〇〇 ) の悲劇 に感謝した日蓮は法性寺を建立し、猿畠山と号したというのヒロイン浪子にちなんだ名前である。その浪子は逗子の海に ( 『新編鎌倉誌』巻之七 ) 。鎌倉松葉ヶ谷の妙法寺には白猿が運ん いるナミコ貝にちなんだ名前だと、「岩波文庫「不如帰」あと でくれた食べ物は生姜だったとして、生姜供養という行事が伝がきに蘆花の妻愛子か書いている ( 岩波文庫巻末 ) 。結核に犯 わっている された浪子は、逗子で療養する間に、姑の独断で最愛の夫川島 ところで、『逗子町誌』 ( 逗子町、一九二八 ) が語る「猿畠夜武男と別れさせられる。武男は横須賀に通う海軍少尉だった。 雨」には、こんな奇妙な一節がある。「今尚乞食幾世帯も岩窟ここまで来たら、逗子のひとびとから嫌われた横須賀に行か 内に生活し何となく物の哀れを感ずる。此地夜雨の感亦一入なないわけにはいかない。 = 電車に乗る前に、逗子駅前の和菓子屋 ル り」。さらに『逗子市誌』第二集 ( 一九五六 ) には「お猿畠の俗三盛楼で「浪子最中」を買うとよい。 サ 称こじきやぐらは南を向いて日当りがよく暖かいので昔から乞 る 手当たり次第に 食の棲家となっていた。乞食が住むというので大分とりこわし ル 、まだ住んでいる。中は畳一畳敷位で丁度ねるにもよく夜横須賀で横須賀線を降りたら、海上自衛隊の自衛艦を見なが サ はたき火を燃してそのぬくもりでねている。何のためにあのよら ( 自衛隊は軍隊ではないから軍艦とはいわない ) 、ヴェルニー公 うな穴が沢山あるのかわからない」とあり、戦後もなお猿畠に園をぶらぶら歩いて ( この奇妙な名前の公園については拙著『世番 は同じ風景が見られたことがわかる。これらについては森谷定の途中から隠されていることーー近代日本の記憶』品文社、二〇〇わ 第 吉「お猿畠の住人」 ( 『手帳』一七四号、手帳の会、二〇〇八 ) に 二の長過ぎるあとがき「ヴェルニー公園にて」参照 ) 、もはやドプ おおかみしゃ 教えられた。 板なんてどこにもないドプ板通りを抜けて諏訪大神社を目指 日蓮の時代からは七百年も経っており、その間ずっと同じ状す。はじめて訪れた時、玉垣に掛けられた「 SUWA SHRINE 物 動 況が続いたとはもちろん断定できないが、逗子の辺境ではなく AND PARK, OFF LIMITS, TO U. S. FORCES PERSONNEL 」 ( 逗子は寒村にすぎなかった ) 、鎌倉の辺境に行き場を失ったひとという看板に驚いたものだ。 0

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こうして披露山のサルたちは逗子の町から戦争の記億を払拭 する大切な役割を担った。サルは戦争などという馬鹿なことは しないからだ。いくら横須賀にアメリカ軍が居座り、いくら高が 射砲がぐるぐると回転した砲座を住み処にしたところで、戦争 ゴッコだってしないだろう。 猿畠夜雨 逗子独立の年、逗子観光協会によって新逗子八景が選ばれ一 た。「新」というのだから、それ以前から逗子八景というもの番 があった。とはいえ近江八景や金沢八景ほどの古い歴史はな 。大正十年 ( 一九二一 ) に逗子倶楽部が選び、それを山崎白 者し 堂が『逗子八景葉山の史蹟』 ( 逗子八景社、一九二三 ) にまと めた。すなわち、神武晩鐘、延命秋月、桜山暮雪、小坪帰帆、 不動落雁、猿畠夜雨、岩殿晴嵐、鳴鶴タ照の八景である。とこ ろが、新逗子八景では、浪子不動秋月、沼間落雁、田越川タ 台 召、披露山暮雪、山の根夜雨、神武晩鐘、小坪帰帆、桜山晴嵐 ~ となり、披露山が登場した。 さて、気になるのは旧にはあって新にはない「猿畠夜雨」と いう名勝である。猿畠山は法性寺の山号であって、猿畠山とい 山う山があるわけではないものの、法性寺は披露山から谷を隔て た山の中腹にある。その谷を横須賀線が走っている。線路脇の 逗山門には「猿畠山ーと記した額が掛けられ、二頭の白いサルが 落ちないようにと支えている。それにはこんな由来があった。

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たのは昭和十六年 ( 一九四一 ) 十一月のことだ。敗戦時の、つどできなかった。横須賀鎮守府参謀長が神奈川県知事に「軍事 まり武装解除時の装備はつぎのとおり。一一一・七連装高角砲上ノ必要有之合併ノコトニ御取計相成度」という「照会」 ( 昭 二基、九五式陸用高射器一、ステレオ式四・五 E 高角測距儀和十七年八月二十五日 ) を提出していたからだ ( 同上 ) 。 一、九六式一五〇 5 探照灯二基、二五連装機銃二基。ちなみ戦争が終わり、地方自治法が制定されるとすぐに独立運動が に、弾は高角砲二基に五九六発、機銃二基に五三九五発しか残起こった。一刻も早く軍港から離れたいという逗子町民の思い っていなかった ( 『新横須市史別編軍事』横須賀市、二〇一一 I)O は強かった。昭和二十四年に逗子独立期成同盟が立ち上がり、 さて、どれほどの戦果を上げたのだろうか。 「横須賀市区域変更請求書」 ( 同年十一一月十五日 ) を横須賀市選 披露山に限らず、逗子には二子山にも鷹取山にも、さらに小挙管理委員会に提出した。別紙「請求の要旨」第一項には「不 坪飯島鼻の洞窟にも砲台が建設された。目を広げれば、海軍基合理な合併であったこと、戦争中軍の圧力で無理に逗子は横須 地横須賀を中、いに、三浦半島には至るところに砲台が設けられ賀市に合併させられた」とあり、第三項には「逗子と横須賀と て要塞と化し、今なお観音崎や猿島にその痕跡を見ることがでは都市的性格が違う、横須賀市は軍港として発達し逗子は観光 きる。ちなみに、披露山からそう遠くない池子に設けられた火地帯住宅地帯として発展して来た、地形的に見ても逗子と横須 薬庫は、戦後アメリカ軍の弾薬庫として長く使われた。現在は賀市は隔離しており合併後も市民感情が融合していない」とあ 米軍住宅地に変わったものの、地元住民の再三の要求にも拘らる ( 『新横須賀市史資料編近現代三』横須賀市、二〇一一 ) 。 ず返還されていない 翌年三月十九日に分離独立の住民投票が行われ、独立派が圧物 横須賀市が昭和十六年四月一日に制定した「市是」がもの妻勝 ( 賛成六九九〇票、反対一七一三票、無効一一二票 ) 、神奈川県一 日く「我が横須賀市は道義的国防国家完成のため名実共に議会もそれを追認 ( 賛成二九票、反対二四票、白票一票 ) 、七月番 完備せる世界最大の軍港都市の実現を期す」 ( 「横須賀市史』上、 一日には晴れて逗子市が誕生した。その五年後に旧軍用地の払わ 横須賀市、一九八八 ) 。こんなところに「道義的」を使うんだ、下げを求め、八年後に披露山公園を開いたことになる。 と思ってつい傍点を付してしまった。海軍はその年のうちに真 開園の翌日の神奈川新聞 ( 昭和三十三年六月八日付 ) は「家族 珠湾攻撃を成功させるわけで、軍港横須賀の意気は大いに上が連れの人たちがつめかけ、サルやリスに大喜びで山頂はにぎわ り、二年後には逗子町を合併してしまう。町議会はむしろ隣接った。市ではこれからも充実してクこどもの天国ククおとなの する鎌倉市との合併を望んだが、要塞化の流れに逆らうことな甜 ) ~ しの場クにしようと意気込んでいる」と報じた。

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8 一 サ る サ の も円形、いずれも砲座の平和的転用である。 番 逗子独立 なぜそんなことが実現したのか、その経緯を知りたいと思っ 十 第 逗子で横須賀線を降りる必要はなかった。山越え谷越え、家た。もちろんサルたちに尋ねたところで誰も教えてくれない から歩いて行けたからだ。尾根伝いに横浜市立金沢動物園までそこで、山を下り逗子の図書館へと向かうことにした。『逗子 ひろやま 歩いて行ったこともある。それに比べれば披露山公園ははるか市史資料編三近現代』 ( 逗子市、一九九一 ) に、逗子市長から物 動 に近かった。最後の上り坂はちょっときっかったけどね。 関東財務局横浜財務部長に宛てた「披露山旧軍用地の払下につ 逗子の山の上のさる公園でサルが飼われていると聞いたのはき申請」 ( 昭和三十年七月十九日 ) が載っていた。 すいぶんと前のことだ。公園とサルの組み合わせはそれほど珍それによれば、東京の郊外都市化しつつある逗子には住宅・ しくはない。何かの機会があれば訪れてみよう、というぐらい保健・教育等の公共施設の増設が急がれる。「そこで市中心部 に構えていた。 に程近い披露山を綜合的に多目的に開発する以外には、これら 実際に足を運んで驚いた。のなんの。 諸問題を抜本的に解決する方途は見出し得ないーとして、「旧 ニホンザルが二十一頭も飼育されていたことにも驚いたが、砲台あと附近」の払下げを国に求めた。すぐに払下げが認めら それ以上に、円形サル舎が高射砲台の遺構を利用して建てられれ、昭和三十三年 ( 一九五八 ) 六月七日になって山上に披露山 たということにびつくり仰天した。案内板にそう書いてある。 公園が開園した。 サル舎と並んで建つ一一階建ての展望台も円形、手前の花壇と池海軍が披露山に高射砲台を建設し、第三高角砲大隊を設置し 動物園巡礼第十六番の一 サルがいる、サルがいた ーー披露山公園・諏訪山公園・打出公園 木下直之

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れみよがしに表示するシンボルを身に着けることを禁じる、ととは必すしも純理的に導かれたものではなく、信仰の自由、定 不 いう法律が成立する。文言上はともかく、これがムスリムを主着した慣行の尊重、政治的中立・公正などの間の妥協と調整と の な対象としているのは明らかで、俗に「反スカーフ法、と呼ばしても成立してきたものである ( たとえば、政教分離法は過去の 歴史を異にするアルザス地方には適用しないという例外を認め、キ移 れる。 同法案を準備したと一般にいわれるべルナール・スタジ委員リスト教色の強い学校行事も根付いたものなら残し、ムスリム生徒築 の ( 二〇一六年七月二五日 ) 会は、移民の人権や統合政策を重んじる専門研究者を含み、報には欠席を認める、など ) 。 点 争 告書は、「社会的差別との闘い」、「多様性の尊重」、「人種差別 へ への断固たる制裁」、「イスラーム研究の高度化」などの提言を〔訂正とお詫び〕本連載前号で、二〇一五年一一月の「非常事態宣言」が 後 憲法第三六条によるかのように記述しましたが、確認したところ (Le の 含み、移民の地位と条件の改善を訴えている。だが、政府はそ そ ミミミ 18 novembre など ) 、一九五五年公布の法律によるものでした。 れらに応えず、報告の中の学校内でのムスリム生徒の問題行動お詫びし、訂正します。 機 危 ( みやじま・たかし社会学 ) の指摘のみをとらえ、「反スカーフ法」の法案化を行った。少 なくともそういう印象を与えた。イスラーム原理主義の浸透の 年 五 危機がほのめかされたが、明証はなく、なぜ法的禁止まで行く : 土会学的な問題追究よりも、政 のかという疑問は解かれなしネ 治の論理が勝つのである。 会 ライシテ 『フランスにおける脱宗教性の歴史』 ( クセジュ文庫、白水社 ) 民 移 の著者ジャン・ボべ口によると、今やライシテの解釈にも、イ 築 構 スラーム信仰の個人化、世俗化に即応しようとする「開かれた の 題 舅 ) こ同じノらい ライシテ」論、移民たちの不平等や差別とのにし。 ム 関心を寄せるライシテ論もある。だが、スカーフに示される ス 「蒙味主義」の追放を言い、学校に断固たる措置を求める強硬 派もいて ( < ・フィンケルクロートなど ) 、それも政治的ライシ フ / テ論をなしてきたように思われる。考えるに、ライシテの原則 宮島喬編 移民の社会的統合と排除 間われるフランス的平等 < 5 判・二三四頁・三八〇〇円 宮島喬 外国人の子どもの教育 就学の現状と教育を受ける権利 四六判・二九六頁・二八〇〇円 東京大学出版会 ( 表示は本体価格 )

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女性徒がスカーフ ( ヒジャープ ) を着けて登校、校長から授業あり、聖職者が公教育の教壇に立ってはならないこと、そして 参加が認められないと通告され、生徒たちは応じず、保護者も宗教教育の禁止を意味した。とすれば、ライシテとは主に学校安 側、教える側の守るべき原則のはずであり、生徒に義務を課すの 交えて学校側との話し合いが続く。やがてメディアが報道し、 るものではない。 国民教育相の見解が問われるなど、政治的争点化されていく。 民 移 校長がスカーフ不可の理由に挙げたのは「公教育における非宗しかるにくだんの中学校長は、生徒たちに同原則の順守を求 築 構 教性 ( ライシテ ) ーの原則だった。 めた。仮に教員のなかにスカーフを着け教壇に立つ者があれば の 点 たまたま私はフランスに滞在中で、周りの反応をよく覚えてシリアスな論議を生じるだろうが、フランスではそのケースは 争 いる。それまで各地でスカーフでの登校があって何も言われななく、その十数年後に隣国ドイツにそれに近い出来事が起こる かったのに、なぜ急に差し止めかという市民の疑問、「ライシ ( フレシュタ・ルディン事件 ) 。ライシテの原則をもたないこの国後 そ テ」を持ち出すのは大袈裟で筋ちがいではないか、という研究では、州当局が対応に戸惑った ()e 、 s eg ミ . 40 、、 2003 ) 。 、り 者仲間の声が印象に残っている。「ライシテ」 (laicité) とは、 「スカーフ問題、への国の裁定としてコンセイユ・デタの示爾 危 政治と宗教の分離、すなわち公生活の諸活動 ( 政治、行政、公した見解は大要、次のようなものである。公役務である公立学 教育など ) は特定宗教の影響を排して行われねばならないとす校の教員およびカリキュラムは宗教的中立が求められるが、生 るもので、フランス革命の事実上の主導原理の一つである。特徒たちは信仰の自由をもち、学校内でもそれを表明する権利が に第三共和政の下で、王制支持のカトリック教権 ( その最終審あり、したがって宗教宣伝とならず、学校運営に支障を及ほさ 級はローマ教皇 ) に対抗して共和政を防衛するため押し出されないかぎり、宗教表徴を身に着けてもライシテに反しない ライシザシオン た世俗化政策の根本原則として知られ、ジュール・フェリーや 政治的ライシテ論へ エミール・コンプの名と結びついている。 だから歴史的にみれば、ライシテはカトリックという教会権これは、ライシテの原点にもどった妥当な見解といえよう。 しかしその後、ライシテ論はこの解釈を踏み越え、政治化さ 力に抗するための原測だった。それがなぜ西欧内ではマイノリ ・Ⅱ」事件で幕開けする今世紀には、イラク戦争、 ティ宗教で、かっカトリックのような組織された教会構造をもれる。「 9 たないイスラームに対置されるのかという疑問があった。ま地下鉄爆破テロなどがあり、それらと無関係ではなかろう、二 アンティクレリカリ た、ライシテの核心をなす原理は、「反・聖職者至上主義」で〇〇四年シラク政権の下で、公立学校で生徒が宗教的所属をこ スム [ 「イスラーム問題」の構築と移民社会一一

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ムスリム移民も巻き込む勢いである。テロ再発防止の絶対目的じめ多くの有力党員、議員が反対を鮮明にした。これは一般の の下、捜査方針は徹底してムスリム系の市民、住民の監視に置移民にも不安を与える。フランスに生まれ、育ち、「フランス不 かれたため、彼らの不安、怒りがつのる一方で、それ以外の市人」だと自ら意識してきた者も、結局、マジョリティフランス 民 民、住民は「自分たちには関係ない」として、非常事態宣言下人とは区別され、国籍取り上げもありうる「移民にすぎない 移 築 でも、変わらず日常の生活を楽しみ、無関心をきめこむというとされるのではないか、と。それは国民の分断という意味合い 構 の 分裂世界も生まれた。 も帯びてくる 点 争 もう一つ、移民が不安に感じたのは、シャルリ事件後から政法案は、対象を重国籍者でないフランス人にも広げるかたち 府内で検討されてきたある措置である。それは、国民の生命にで諮られ、通過し、「すべての人は国籍をもっ権利を有する」 へ 深刻な危害を及ばすような犯罪実行者には、フランス国籍の剥とうたう世界人権宣言第一五条やヨーロッパ国籍条約に違反すの 奪をもって臨むというものである。移民第二世代の多くは、生るとの批判にさらされ、かっ、思わぬ結果を呼ぶ。重国籍者に 地主義国籍法によりフランス国籍をもっ二重国籍者となるが、対象を限るべきとする上院 ( 元老院 ) の議決と食い違い、結危 その仏国籍を奪うのである。言葉を選び、「失効」を意味する局、「両院不一致」で、法律としては無効になった。今後この 年 五 déchéance という語を使うが、かってヴィシー政府がユダヤ系問題がどう扱われるのか。 国民に対し行った「国籍剥奪」を連想する者もいる。 「スカーフ問題」という構築 それがヴァルス首相率いる社会党政府の手で進められること 会 に、党内から反発が起こった。九〇年代初め、保守の攻勢によ ここで時間をやや遡る。四半世紀来連綿と続いてきた「イス 民 移 り国籍法見直しの論議が起こり、フランスに出生する外国人子ラーム問題」の構築とは一体何だったかを考える必要がある 弟への自動的な国籍付与を改め、「意志の表示」を要件とするその意味で、一九八九年秋は振り返っておくに値する。いわゆ構 題 制度に代わった。ごか、 オ、第二世代はフランスの完全な定住者でる「スカーフ」に「ライシテ」をもって対し、イスラームをフ ム ( 、冫しかたいものとして示そうとし 帰るべき祖国をもたない以上、成員として統合しなければならランス共和国の価値・規範こ忝、 ない。数年後、社会党政府が自動的付与に戻すという再改正たのは、一種疑似争点化ではないかとかねて私は考えてきた ス ( ギグー法 ) を行い今日にいたった経緯がある。その思いがあ ( 宮島『移民社会フランスの危機』岩波書店 ) 。 ればこそ、マルティーヌ・オプリ ( リール市長、元雇用相 ) をは ことの発端は、一九八九年九月、パリ郊外の一公立中学校に

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風刺に踏み切ったか。部数減に悩んで、路線の変更に及んだと リとは誰か ? 』文春新書 ) 。 もいわれるが、詳しいことはわからない。 また、私見たか、 、国民戦線の言説などがメディアに乗りやす安 の くなり、いわゆるネガシオニスム、すなわち過去のホロコース + っ 反ユダヤ主義とフランス トの事実を否定したり、軽微なこととみなす傾向が、過去を知 移 見落とされがちなテーマに触れる。それは二つの事件におけらない世代に受け入れられ、それが反ユダヤの言動への抑制を 築 るテロ行動に反ユダヤ主義が多少とも影を落としていたことで取り除いているとも考えられる。じっさい、雇用弱者で、低学構 ある。シャルリ事件では、ユダヤ系の経営する商店が選ばれ人歴で過去の歴史認識も曖昧である若い世代には、宣伝のいかん争 質が殺害され、同時多発テロで最多の死者を出したコンサートでユダヤ人への敵意が入りこみやすい ( 「ユダヤ系は金持ち」「ユ へ 後 ホール「ル・バ タクラン」は、元オーナーが親イスラエルのシダヤ系は権力を握っている」など ) 。イスラーム過激派の誘いが の そ オニストだったことがのちに報じられた。偶然でなければ、な狙いをつける、周辺化されたマグレブ系若者にこういう心理が ぜか 共有されていないか 機 危 イスラーム過激派が例外なく親パレスティナで、激しい反イ 続く非常事態、移民たちの不安 年 スラエル派であることは知られている。これは基本的な点だ 五 が、移民の研究者はインターネットの若干のサイトに溢れてい 一一月の惨劇の報に接し、市民は驚愕し、恐布のあまり立ち〇 る反ーユダヤのメッセージにつぶさに接し、それらはすでにパすくんだかの感がある。オランド大統領は「これは戦争だ」と レスティナーイスラエル問題を超えていると判断している語気強く語る。なお、フランスはこの一一月からシリア内の— 民 (Kaltenbach et Tribalat. ト R きこをミミこ s ド Gallimard) 。前の「首都ラッカの空爆を始めていた。ただちに非常事態が 移 築 回に紹介したエマニュエル・トッドの見方もそれに近い。グロ宣せられ、デモも不可能となり、一月の事件後のような街路に 構 の ハリゼーションが進むなか、失業者も多いマグレブ系の若者大きくこだまする抗議、連帯の声も聞かれなかった。 題 たちは平等主義的な眼差しで周囲を捉え、外見的差異をみせる ムスリム移民たちは息をひそめるように家に閉じこもり、内問 「他者ーを拒絶したりルサンチマンを向けたりするが、そこで務省・警察の捜査はしばしば令状なしに、多くのムスリム系の ス 異質な生活を営みながら経済的に恵まれているとみえるユダヤ人物を拘束したり、出頭を求め尋問をし、さらにはモスクに通 系が対象とされ、スケープゴーツにされがちだ、と ( 「シャル うムスリムのデータベースをつくると発表したりした。一般の

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不 の 民 移 構 の 点 争 へ 後 の い。その証拠に数日を経ずして「私はシャルリ」の言葉は消え そ 「私はシャルリ」に唱和した者、しなかった者 去り、「シャルリとは何者か」「過度の同化ではないか」という 『シャルリ・ エブド』新聞社襲撃と人質の殺害があって直後、議論もメディアに登場する。容疑者を外なる敵手とみ、ク国難ク危 ツィッターの呼びかけで「私はシャルリ」の語を一斉にリズミのごとく表象し、愛国心を沸騰させるという単純さに与せず、 年 五 カルに連呼するデモの奔流が生まれた。何であれ多大の犠牲者フランスの内なる問題でもあるのではないか、預言者の風刺画 を出した者に連帯を表明するのは自然のことだが、不 ムは、これ掲載は可だったのか、多民族性への配慮はあったか、など成熟 ユナニミテ は限られた瞬間の「全員一致」であろうと感じた。 した問いを発するフランスという側面も看取された。 会 ここでは『シャルリ・ また、その報道に定評のある『ル・モンド』が「フランスの エブド』紙自体に言及する紙福はない 民 移 9 ・Ⅱ」という大見出しで事件を報じ、場所によりラ・マルセが、一言。より有名な『ル・カナル・アンシエネ ( 鎖につなが 築 構 イエーズが高唱されたのには、正直のところ驚いた。 9 ・Ⅱのれたアヒル ) 』とともに、「風刺紙」 (journal satirique) のジャン の 題 ・プラ アメリカと違い、フランス共和国が標的とされたわけではない ルをなし、反権力で、「シャルリ」は表向きチャー のに、なぜ「国民的想像力」 (n ・アンダーソン ) に訴えなけれウンから借りつつ、シャルル・ドゴールのあてこすりといわム ばならないのか。それをすれば、この事実上の多文化の国ではれ、イラスト風刺によって筋を通す新聞だった。かって国民戦ス 排除される者が生まれる。 線が移民排斥の言辞を振りまくようになるや、鋭く批判を向け 非移民のフランス人にもこれに唱和しなかった者が少なくなたのが同紙だったが、それがなぜマイノリティ宗教の預言者の 「イスラーム問題」の構築と移民社会ーー一一〇一五年バリ危機からその後へ 2 争点の構築と移民たちの不安 宮島喬