逗子 - みる会図書館


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1. UP 2016年9月号

こうして披露山のサルたちは逗子の町から戦争の記億を払拭 する大切な役割を担った。サルは戦争などという馬鹿なことは しないからだ。いくら横須賀にアメリカ軍が居座り、いくら高が 射砲がぐるぐると回転した砲座を住み処にしたところで、戦争 ゴッコだってしないだろう。 猿畠夜雨 逗子独立の年、逗子観光協会によって新逗子八景が選ばれ一 た。「新」というのだから、それ以前から逗子八景というもの番 があった。とはいえ近江八景や金沢八景ほどの古い歴史はな 。大正十年 ( 一九二一 ) に逗子倶楽部が選び、それを山崎白 者し 堂が『逗子八景葉山の史蹟』 ( 逗子八景社、一九二三 ) にまと めた。すなわち、神武晩鐘、延命秋月、桜山暮雪、小坪帰帆、 不動落雁、猿畠夜雨、岩殿晴嵐、鳴鶴タ照の八景である。とこ ろが、新逗子八景では、浪子不動秋月、沼間落雁、田越川タ 台 召、披露山暮雪、山の根夜雨、神武晩鐘、小坪帰帆、桜山晴嵐 ~ となり、披露山が登場した。 さて、気になるのは旧にはあって新にはない「猿畠夜雨」と いう名勝である。猿畠山は法性寺の山号であって、猿畠山とい 山う山があるわけではないものの、法性寺は披露山から谷を隔て た山の中腹にある。その谷を横須賀線が走っている。線路脇の 逗山門には「猿畠山ーと記した額が掛けられ、二頭の白いサルが 落ちないようにと支えている。それにはこんな由来があった。

2. UP 2016年9月号

8 一 サ る サ の も円形、いずれも砲座の平和的転用である。 番 逗子独立 なぜそんなことが実現したのか、その経緯を知りたいと思っ 十 第 逗子で横須賀線を降りる必要はなかった。山越え谷越え、家た。もちろんサルたちに尋ねたところで誰も教えてくれない から歩いて行けたからだ。尾根伝いに横浜市立金沢動物園までそこで、山を下り逗子の図書館へと向かうことにした。『逗子 ひろやま 歩いて行ったこともある。それに比べれば披露山公園ははるか市史資料編三近現代』 ( 逗子市、一九九一 ) に、逗子市長から物 動 に近かった。最後の上り坂はちょっときっかったけどね。 関東財務局横浜財務部長に宛てた「披露山旧軍用地の払下につ 逗子の山の上のさる公園でサルが飼われていると聞いたのはき申請」 ( 昭和三十年七月十九日 ) が載っていた。 すいぶんと前のことだ。公園とサルの組み合わせはそれほど珍それによれば、東京の郊外都市化しつつある逗子には住宅・ しくはない。何かの機会があれば訪れてみよう、というぐらい保健・教育等の公共施設の増設が急がれる。「そこで市中心部 に構えていた。 に程近い披露山を綜合的に多目的に開発する以外には、これら 実際に足を運んで驚いた。のなんの。 諸問題を抜本的に解決する方途は見出し得ないーとして、「旧 ニホンザルが二十一頭も飼育されていたことにも驚いたが、砲台あと附近」の払下げを国に求めた。すぐに払下げが認めら それ以上に、円形サル舎が高射砲台の遺構を利用して建てられれ、昭和三十三年 ( 一九五八 ) 六月七日になって山上に披露山 たということにびつくり仰天した。案内板にそう書いてある。 公園が開園した。 サル舎と並んで建つ一一階建ての展望台も円形、手前の花壇と池海軍が披露山に高射砲台を建設し、第三高角砲大隊を設置し 動物園巡礼第十六番の一 サルがいる、サルがいた ーー披露山公園・諏訪山公園・打出公園 木下直之

3. UP 2016年9月号

文応元年 ( 一二六〇 ) 夏、日蓮が北條時頼に提出した『立正たちが住み着いていたと考えるべきで、日蓮を救ったのは、お 安国論』が原因となって、鎌倉松葉ヶ谷に営んでいた草庵が焼そらく猿ではなくそのようなひとたちだったのだろう。 討ちを受ける ( 松葉ヶ谷法難 ) 。山を越えて逗子側に逃れた日蓮ついでにいえば、「披露山暮雪」同様、新たに登場した「浪 が岩窟に身を隠すと、白猿が現れて食物を運んでくれた。これ子不動秋月 , は徳富蘆花の『小説不如帰』 ( 一九〇〇 ) の悲劇 に感謝した日蓮は法性寺を建立し、猿畠山と号したというのヒロイン浪子にちなんだ名前である。その浪子は逗子の海に ( 『新編鎌倉誌』巻之七 ) 。鎌倉松葉ヶ谷の妙法寺には白猿が運ん いるナミコ貝にちなんだ名前だと、「岩波文庫「不如帰」あと でくれた食べ物は生姜だったとして、生姜供養という行事が伝がきに蘆花の妻愛子か書いている ( 岩波文庫巻末 ) 。結核に犯 わっている された浪子は、逗子で療養する間に、姑の独断で最愛の夫川島 ところで、『逗子町誌』 ( 逗子町、一九二八 ) が語る「猿畠夜武男と別れさせられる。武男は横須賀に通う海軍少尉だった。 雨」には、こんな奇妙な一節がある。「今尚乞食幾世帯も岩窟ここまで来たら、逗子のひとびとから嫌われた横須賀に行か 内に生活し何となく物の哀れを感ずる。此地夜雨の感亦一入なないわけにはいかない。 = 電車に乗る前に、逗子駅前の和菓子屋 ル り」。さらに『逗子市誌』第二集 ( 一九五六 ) には「お猿畠の俗三盛楼で「浪子最中」を買うとよい。 サ 称こじきやぐらは南を向いて日当りがよく暖かいので昔から乞 る 手当たり次第に 食の棲家となっていた。乞食が住むというので大分とりこわし ル 、まだ住んでいる。中は畳一畳敷位で丁度ねるにもよく夜横須賀で横須賀線を降りたら、海上自衛隊の自衛艦を見なが サ はたき火を燃してそのぬくもりでねている。何のためにあのよら ( 自衛隊は軍隊ではないから軍艦とはいわない ) 、ヴェルニー公 うな穴が沢山あるのかわからない」とあり、戦後もなお猿畠に園をぶらぶら歩いて ( この奇妙な名前の公園については拙著『世番 は同じ風景が見られたことがわかる。これらについては森谷定の途中から隠されていることーー近代日本の記憶』品文社、二〇〇わ 第 吉「お猿畠の住人」 ( 『手帳』一七四号、手帳の会、二〇〇八 ) に 二の長過ぎるあとがき「ヴェルニー公園にて」参照 ) 、もはやドプ おおかみしゃ 教えられた。 板なんてどこにもないドプ板通りを抜けて諏訪大神社を目指 日蓮の時代からは七百年も経っており、その間ずっと同じ状す。はじめて訪れた時、玉垣に掛けられた「 SUWA SHRINE 物 動 況が続いたとはもちろん断定できないが、逗子の辺境ではなく AND PARK, OFF LIMITS, TO U. S. FORCES PERSONNEL 」 ( 逗子は寒村にすぎなかった ) 、鎌倉の辺境に行き場を失ったひとという看板に驚いたものだ。 0

4. UP 2016年9月号

たのは昭和十六年 ( 一九四一 ) 十一月のことだ。敗戦時の、つどできなかった。横須賀鎮守府参謀長が神奈川県知事に「軍事 まり武装解除時の装備はつぎのとおり。一一一・七連装高角砲上ノ必要有之合併ノコトニ御取計相成度」という「照会」 ( 昭 二基、九五式陸用高射器一、ステレオ式四・五 E 高角測距儀和十七年八月二十五日 ) を提出していたからだ ( 同上 ) 。 一、九六式一五〇 5 探照灯二基、二五連装機銃二基。ちなみ戦争が終わり、地方自治法が制定されるとすぐに独立運動が に、弾は高角砲二基に五九六発、機銃二基に五三九五発しか残起こった。一刻も早く軍港から離れたいという逗子町民の思い っていなかった ( 『新横須市史別編軍事』横須賀市、二〇一一 I)O は強かった。昭和二十四年に逗子独立期成同盟が立ち上がり、 さて、どれほどの戦果を上げたのだろうか。 「横須賀市区域変更請求書」 ( 同年十一一月十五日 ) を横須賀市選 披露山に限らず、逗子には二子山にも鷹取山にも、さらに小挙管理委員会に提出した。別紙「請求の要旨」第一項には「不 坪飯島鼻の洞窟にも砲台が建設された。目を広げれば、海軍基合理な合併であったこと、戦争中軍の圧力で無理に逗子は横須 地横須賀を中、いに、三浦半島には至るところに砲台が設けられ賀市に合併させられた」とあり、第三項には「逗子と横須賀と て要塞と化し、今なお観音崎や猿島にその痕跡を見ることがでは都市的性格が違う、横須賀市は軍港として発達し逗子は観光 きる。ちなみに、披露山からそう遠くない池子に設けられた火地帯住宅地帯として発展して来た、地形的に見ても逗子と横須 薬庫は、戦後アメリカ軍の弾薬庫として長く使われた。現在は賀市は隔離しており合併後も市民感情が融合していない」とあ 米軍住宅地に変わったものの、地元住民の再三の要求にも拘らる ( 『新横須賀市史資料編近現代三』横須賀市、二〇一一 ) 。 ず返還されていない 翌年三月十九日に分離独立の住民投票が行われ、独立派が圧物 横須賀市が昭和十六年四月一日に制定した「市是」がもの妻勝 ( 賛成六九九〇票、反対一七一三票、無効一一二票 ) 、神奈川県一 日く「我が横須賀市は道義的国防国家完成のため名実共に議会もそれを追認 ( 賛成二九票、反対二四票、白票一票 ) 、七月番 完備せる世界最大の軍港都市の実現を期す」 ( 「横須賀市史』上、 一日には晴れて逗子市が誕生した。その五年後に旧軍用地の払わ 横須賀市、一九八八 ) 。こんなところに「道義的」を使うんだ、下げを求め、八年後に披露山公園を開いたことになる。 と思ってつい傍点を付してしまった。海軍はその年のうちに真 開園の翌日の神奈川新聞 ( 昭和三十三年六月八日付 ) は「家族 珠湾攻撃を成功させるわけで、軍港横須賀の意気は大いに上が連れの人たちがつめかけ、サルやリスに大喜びで山頂はにぎわ り、二年後には逗子町を合併してしまう。町議会はむしろ隣接った。市ではこれからも充実してクこどもの天国ククおとなの する鎌倉市との合併を望んだが、要塞化の流れに逆らうことな甜 ) ~ しの場クにしようと意気込んでいる」と報じた。

5. UP 2016年9月号

芦屋打出公園 ( 筆者撮影、 2016 年 ) で読んだのかな。ここもまた機会があれば訪れてみよう、とい 、こ冓えていた。 実際に足を運んだものの、とりたてて驚きはしなかった。た だ、サルの檻だけ残してどうするつもりなのだろうという疑問 は浮かんだ。檻の中にはつい最近までサルがいたかのように、 遊具やタイヤが残されていた。 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 、つまり逗子披露山公園開園の翌 年に、芦屋動物愛護協会がタイワンザルやシマリスを寄付した ことで、打出公園は「おさる公園」と呼ばれるようになった。 それからクジャクやインコやウサギが加わって、平成二十二年 三〇一〇 ) まで、ここは小さな動物園のようだった。 檻に掛けられた大きな看板で、打出の小槌のキャラクター 「おいでくん」が同じ姿の「うちでちゃん」とこんな不思議な 会話を交わしている ( なぜ「おいでくん」は「こづちくん」では ないのだろう ) 。 おいでくん 「けれど、人と同じく彼らの命も永遠ではなく : っしか、ここには誰もいなくなってしまったんだ。ばく は、とてもとても寂しいよ」 うちでちゃん 「人々の優しいキモチに支えられて、人と動物がつなが っていたのね。寂しい : でもね、想像してみて。彼ら 55 [ 動物園巡礼 ] 第十六番の一サルがいる、サルがいた