「カナダ」は僕の財産 151 こうして , 2 か月間の学校とホームスティはあっという間に終わり , 僕は , 現地の日本語新聞で , 探して決めた , ダウンタウンにあるコンド 、ニアムに移ることになった。そこでは , プラジル人 2 人とシェアとい うことになっていたのだが , あんなとんでもないことになるとは , 決め たときには予想もしていなかった。そのコンドミニアムは , 日本にもし あったら , 超高級マンション , 家賃は月 20 万円という感じで , スポー ッジムもあれば , 温泉プールもある , 廊下はじゅうたん敷き , 入り口に は受付があって , 訪問者はいちいちチェックされるという , 映画で見る ような , ゴージャスなところであった。それでも 1 か月の家賃は , 300 ドル。広告を見て , 部屋を見にいったときに案内してくれたのは , 片言 の日本語を話す人のよさそうなプラジル人だ。その人によると , 今 3 人 でシェアしていて , 今いる日本人が出るので , その代わりを探している とのことだった。後のひとりもプラジル人。このもうひとりのシェアメ イトに会ったのは , 引っ越しをした当日だった。部屋は高層階にあった が , ダウンタウンにあるため , かなりうるさい。 2 か月間 , 郊外の緑に 囲まれた静かな住宅地だったので , ちょっと戸惑っていたら , そのうち 僕が最初に会ったプラジル人 ( その 1 ) は , 仕事に行くといって出てい って , 部屋には僕と , その日初めて会ったプラジル人 ( その 2 ) だけに 言も口をきかなかった彼が突然話しかけてきたの なった。それまで , はその時だ。内容は , 「あいつ ( 最初に会ったプラジル人 ) は , 物を盗 むから気を付けたほうがいい。僕も貴重品は銀行のセーフティーポック スに入れている。それに , だらしなくて汚いし , そのうち君が掃除をす る事になるよ」などというもので , この事を延々と 3 時間くらいも話す のである。僕もこれには心身ともに疲れてしまった。 3 時間もずっと , 英語で話したこともそうだが , 彼の話が本当にしろ , うそにしろ , そん な事を気にしながら生活するなんて , 考えただけでも気が遠くなると思 った。彼に「君は , 平気なのか ? 」ときいたら , 「僕は , 慣れてるし , あいつが危害を加えるわけではないから OK 」なんだそうだ。とにか く , 僕はそれで , 一気にプルーになった。その少し前に , メジャーリー グの地元チームがワールドシリーズに優勝して , 町は祝勝ムードに沸い ていた。僕も , 優勝が決まった夜は , メキシコ人の友達と街のスポーツ ーに行って観戦して , その後 , 街を練り歩いて最高に楽しかった。今 は , コンドミニアムの下のメインストリートをクラクションを鳴らしな がら通る車の音がうるさく感じるばかり。とにかくその日はそこで過こ すしかない。明日になったら考えようと思って , その日はさっさと寝 0
131 自然も , 人も , すばらしい ! ! 僕は自分自身にとってすばらしい経験をしてきたが , 決して自分一人 のカで成しえたとは思っていない。僕を支えてくれた多くの人のおかげ だと思う。日本での生活をあのまま続けていたら気づく事のできなかっ たものを , 環境のまったく違った視点から見れた事により , 視野も広が ったし , 思考の幅も広がったと思う。そして僕はカナダの美しい自然 や , 最高の仲間や , 人間らしいすばらしい生活に触れて , ますます日本 が好きになったような気がする。 家族や友達 , 当然のようにいる人々の大切さや自分にとって何が大切 なのか , 自分の体をけずっても守らなければならない人・・・・・・皆が忘れか けているものを僕はこの冒険で見付けたのかもしれない。人間は皆同じ だ。言葉も文化も違っても分かり合える。形あるものは , いつか必ず壊 れる物の中で , 思い出とか , 友情とか , 人間の気持ちだけは永遠なのだ と心から今 , 思う。そして自分に足りないものやまた新しい友を探しに 冒険に出たいと思う。 ピアスの他にもうーっ , カナダで生活してきた事の証しである僕の牛 が , 今春仔を産んだ。きっと次の春にも元気な仔牛を産んでくれるだろ う。そして近いうちにその新しい家族に会いにあの土地をまた訪れてみ たいと思っている。
148 PART 9 ワーホリ体験記 ん頼りになるのは日本人の友達であるし , このカナダで , 日本には出会 えなかったような , すばらしい友達も得ることができた。それは , やは り , 「一大決心のもとに日本を発ってカナダに来た」という同じ境遇の もとで , すでに , 何か共通の価値観があるからだと思う。いずれも , 日 本人だらけの日本では , 選択の幅が広すぎて , とても見つけられなかっ たような人達ばかりだ。 そもそも「どうして外国語を勉強するのか」と , その究極の目的を考 えるとき , それは , 決して , 帰国後 , どこかの名門校の入試や有名企業 の就職面接にパスするためではなく , 個人の単なる見栄やプライドのた いろいろな文化や価値観をもった , 少しでも多くの人々と めでもなく , コミュニケーションを図り , 学びあい , 理解しあうためではないかと私 は思うのである。そうだとすると , 英語を学ぶために , 日本語や , 日本 人との付き合いをおろそかにするのは本末転倒に思えてならない。実 際 , 本当にカナダが好きで , 英語もよくできる人というのは , 周りの日 本人を大切にし日本語も決しておろそかにしないという人が多いよう ノじ、つ 0 他民族のさまざまな文化から成り , モザイク国家といわれるカナダ 。国籍や言語で周囲の人を分けへだてることなく , 誰に対しても , 勇気と広い心をもって接し , また , 自分自身 , 強い信念をもっていられ る人一一 -- そんな人にとって , このカナダは格好の英語習得の場であるだ けでなく , とてもよい人生経験の場でもあると思う。
109 「三人のババと私」 から一緒に家探しをすることにした。まず電話付きのホテルに二人で移 り ( 部屋に電話がないと家探しがとても面倒だという結論に達したの で ) , 新聞を買ったり , YWCA や大学を訪れたりして情報を収集し , 片っ端から電話をかけた。ホームスティを希望していたあきこちゃんの ほうはすんなり決まった。「まさこちゃんもがんばってね , 家決まった ら必ず電話してね」という励ましの言葉を残して彼女は去っていった が , 私の家探しはまだまだ続くことになった ( ちなみに二人の友情もそ の後長く続くことになった ) 。 私の希望は , 一軒屋 , またはアパートのシェアで , 新聞などでよさそ うなところを見つけ電話をし , 話を聞き , その後実際に見に行くのだ が , 何軒見て歩いたかは覚えていない。一度など , 条件もいいのにどう してこんなに安いんだろう , と思いながら見に行くと , 私の部屋へ行く ためにはどうしても通らねばならないリビングルームに , どーんとダブ ルべッドが置いてあり , そこにそのアパートの持ち主とその彼女が住ん でいると言われたことがあった。 ある日バスの中から見た kitilano というエリアに , 私は一目惚れし てしまい , そこだけをターゲットにして家探しを始めた。運よく , 条件のシェア・アパートの広告を見つけ , さっそく見に行ってみると , それは多分カナダでも珍しい 6 べッドルームのアパートで , 一部屋に 人ずつ住んでいるのだという。バスルームは二つで , 広いリビング , 車 が 3 台は停められそうなバルコニ ( しかも街が見下ろせる ) , ケープ ルテレビはもちろん付いているし , オーディオセットも使い放題。何よ り , 案内してくれたおじさんが , とても感じよく , 私は , 私の長い家探 しに , ついに終止符を打っことにした。 さて , 住む場所の次に探したのは , もちろん仕事だが , こちらは早か った。現地で簡単に手に入る「バンクーバー新報」でみつけた日本食レ ストランで , 翌日から働くことになった。アメリカで思わぬ出費があっ たために , とにかく金欠で , すぐに働く必要があった。 このレストランは郊外にあり , 意外にも , お客さんの中に日本人はほ とんど見当たらず , 従業員も多民族にわたっていたので , とてもよい英 語の勉強になったと思う。お客さんは皆日本文化に興味津々なので , 私 に色々な事を聞いてくる。自分の国に関して , 私はあまりにも無知だと 思い知らされる日々ではあったが , とても楽しかった。自分のサービス の良し悪し次第で , お客さんの残していくチップの額が全然変わる , と いうのも面白かった。 私が自分のルームメイト全員と顔を合わすのには , 皆留守がちだった しゝしゝ
163 カナダの子供たちとの交流 っていっても途中で広げてしまい , わからなくなる子もいたりして , ち ょっと大仕事だった。きちんと折り畳むことが大人でもむずかしいよう で , みんないびつになってしまった。が , その中で東洋系の子はきれい に作るなあと思った。あとで聞いたら , 自分の故郷でも paper craft を つくるからということだった。作品はクリスマスツリーの飾りにするこ とになった。 2 時間足らずだったが終わるとどっと疲れが出た。先生に「毎日やれ ば慣れるわよ」と言われ , ちょっと倒れそうになった。 しかしこの後 , C さんの子供の通っている High Sch001 でもやるこ とになった。今度は担任の先生が一人でクラスの人数も多かった。以前 と同じようにやり始めたが , こっちのほうが静かで緊張した。みんなお となしくてあまり質問してくる生徒もいないで , つまらないのかな ? と思ったが , 休憩時間になると , 急に打ち解けて話しかけてくれた。 カメラを持っている生徒がいっしょに写真を撮ろうと言い出し , それ からしばらくは撮影会になってしまった。父親が日本に住んでいたこと のある生徒がいて , いろんな話をしてくれた。 そこでも折り紙をやることになり , 今回も鶴を作ったが , また大騒 ぎ。私はあちこちの席を駆け回り , 最初とは全然違う雰囲気になり楽し かった。中には「ガキッばくてやってられない」という感じの生徒もい たが , 皆自分で作ったものを感心して見ていた。帰り際 , 先生からお礼 にケベックのカレンダーと皆の寄せ書きのカードを頂いた。 また後日 , 小学校のほうでも C さんを経由して生徒から手紙をもら った。 C さんはクラスでコンピューターの授業を持っていて , その時間 に書いてくれたらしい。自分の住所を書いてあって「手紙を書いて ! 」 という子が多く , 喜んでくれてよかったと思った。また , C さんの話だ と , 先の東洋系の子たちは白人のクラスの中では仲間外れになりがちだ ったが , あの時から皆に一目置かれるようになり自分に自信を持てるよ うになったということだった。もし私が少しでもそのことに貢献してい たら本当にうれしい。 あまり , たいしたことはしなかったが貴重な経験だった。東海岸は保 守的でアジアは遠い存在なように聞いていたが本当だと思った。しかし 逆に人に言えるほど私は自分の国のことをよく知っていないこともわか った。そして今回一番感動したのは , まったく面識のない私に貴重な授 業時間を与えて下さった先生たちのおおらかさだった。 000501 ( 10 )
160 PART 9 ワーホリ体験記 カナタの子供たちとの交流 小島智子 って プライベートで英語を教わっていた C さんの伝で地元の小学校と中 学校で日本の話をすることになった。 C さんにはよく日本の話をしてい たが大勢の前でするとは思っていなかった。とりあえず , 日本から持っ て来た、 'Make Friend for Japan" や日本人の友達に借りた本等を参考 に一応原稿を作った。でもどちらかといえば大勢の前で話をするのが苦 手な私。まして言葉も不十分と思っていたので面白がりながらも少し不 安な面はあった。 最初は , うちのすぐ近所の小学校。ちなみにわが家は OIympic Park の近くで仏語系の多く住むェリア。通ってくる子供も仏語系がほとんど だ。午後の英語で行われる授業をつかわせてもらうことになった。 C さんと学校に行き , 担任と副担任の先生に会う。二人とも女性で温 かく迎えてくれた。あまり自分では意識していなかったが緊張している ように見えたらしい。「だいじようぶよ ! 」と励まされる。 先生が生徒たちに短い説明をしたあと教室に入ると , 皆一斉にこっち を見た。でも人なっこそうな顔に少しリラックスした。自己紹介をして 黒板に英字と平仮名で名前を書くしみんな珍しそうな目で見た。その 後いくつか漢字を書いたら , みんなでノートにとっていた。 先生や C さんにフォローしてもらいながら前半は東京と日本の話。 みんなが一番驚いたのは日本とカナダの土地の面積と人口の差。電車が 混雑する話をしたが小学 6 年生にはラッシュアワーという言葉は馴染み がないせいか , 誰もわからなかった。 質問コーナーになると一斉に手が上がり , 積極的な子供が多いと感じ ひげ た。よくアメリカのテレビ漫画に出てくるような髭の東洋人の絵をか き , 「こういう人がいるの ? 」ときいた子供がいて「やつばり出たか ! 」 と思い , おかしくなってしまった。 後半は皆で鶴とお菓子入れを折った。折り紙はないので先生が適当な 色紙を用意してくれた。鶴はむずかしいと思ったが , C さんに「きれい だから」と言われて作ることにした。席を回りながら順番にゆっくりや
58 PART 5 いよいよ出発 。第ー : 霻第ミ第をを… 4 ′いくらかかるか ワーキングホリデーには , 資金はいくらぐらい必要なのだろうか ? 誰もが気がかりな問題だ。もちろん多いに越したことはないが , かとい って現地の「ワーキング」に過剰な期待をかけるのは禁物だ。現地に行 って不安感を抱かない必要最低限の線で考えてみよう。 出発までにかかる費用 現地到着時の所持金 ( ワーキングホリデー協会調べ ) と合わせると , だいたい 100 ~ 130 万円ぐらいは見 20 万円 6.5 ( % ) ておきたい。心、っていた 未満 よりも高い額かもしれな 20 ~ 40 万円未満 , いが , 見知らぬ土地で言 40 ~ 60 葉は不自由 , 知り合いも 万円未満 いないし , 仕事も見つか 60 ~ 80 万円未満 らずお金もないとなると 80 ~ 1 開 心細くなるだろう。 万円未満 , 、 また , 一年間もあるの 1 開 ~ 120 万円未満 に , ずっと旅行もせずに 120 万円 : 同じ都市に滞在して働い 以上 てばかりではもったいな い。一般の観光旅行では できない旅行も W ・ H だからこそ体験できるのだから , バスや列車で Y ・ H ( ユースホステ ル ) に宿泊という旅などをするのもよいだろう。 そうはいっても , 「現地に行けば , なんとかなるだろう」と思ってい る人もいるかもしれないが , はっきり言って " 無謀”だ。仕事はまずす ぐには見つからないし , 時給は思っているよりも低い (PART 6 参 照 ) 。一昔前の W ・ H では現地で働いて稼ぐという人もいただろう。し かし , 最近の円高傾向の中では日本で十分な資金を用意して現地へ持参 するほうが賢明である。まずは現地に慣れ , 英語を習得するのが先決と 言える。 第 19.5 : は 4.1 12.6 , 。 , 5.3 5 15 10 0 5 % 30 25 20
自然も , 人も , すばらしい 129 最も美しいと思ったのは , 自分の育てた畑だったと思う。夏 , 小麦は 緑色に , キヤノーラ ( 菜の花 ) やイエローマスタードの畑は黄色に , 土 の残った所は黒く , そのしつかりと区分された畑の醸しだすコントラス トは最高だった。カナダの自然の美しさを上げたらきりがないが , その 美しさの中にも自然の厳しさが残っていて , 地球の大きさを感じた。 カナダの人は , こんな自然と共存しているせいか , とても穏やかで , 親しみやすかった。初めて会った人でもすぐ友達になれたし , その人の ために一生懸命なれる人々だった。近所の人が困っていれば , 当然のこ とく手助けに行った。本当に人間らしい人間だった , と思う。僕にはそ んな人々の中に , 親友と呼べる仲間が , 9 人いる。近くにあった , 大き な町に住んでいる人たちだが , その町に行く度に皆と遊んでいた。彼ら は外人の僕にもまったく他の人と同じように接してくれたし , 悩み等も 聞いてくれた。彼らのおかげでさらにカナダでの生活が楽しくなったの は間違いない。彼らのほとんどは学生だったが , 僕と特に仲の良かった 二人はオリジナルの品を売るジュエリー・ショップで働いていた。その 町ではあまり評判は良くなかったが , 他の誰よりも友達思いで明るかっ た。マイナス 40 度になる冬は農業も少しだけ暇なので , 僕は時間の許 す限り彼らと一緒にいた。最高な連中だった。 帰国が近づいた時 , 皆は遠く離れていても忘れないようにと揃いのタ トゥーをしようと言った。仲の良かった二人が働く店のマークを , 僕ら のマークを , 彫ろうって言った。でも日本ではあまりタトゥーは好まれ ないということで , 皆で揃いのピアスをつけることにした。左に二つ , 右に一つ , 僕らの永遠の友情の証しだ。それまでピアスなんて大嫌いだ ったが , 今も僕の耳にぶらさがっていて絶対に外せない大切な物となっ ている。学校の関係などで今は皆バラバラに生活しているけれど , 連中 とはずっと交友を続けていこうと思っている。 色々と経験できたり , 美しい物を見たりできたが , いいことばかりで もなく , トラブルや正直 , さびしくてさびしくて , どうにもならなかっ た時もあった。慣れてきてもやはり自分の言いたい事 , 伝えたい事をな かなか表現できずに , つらかった時もあった。悩んでいても相談できる 人は , 近くにいない。そんな時に心の支えとなっていたのが , 日本にい る友人や家族からの手紙だった。日本にいる頃は , 手紙のやりとりなど しなかった友達でも , 帰ったら遊ばうと言ってくれ , ガンバレ ! と励 ましてくれる。そんな手紙に何度も勇気づけられた。今まで当たりまえ のように一緒にいた家族や友人だが , 自分にとってそれほど大きな存在 であったか , その機に改めてその大切さを痛感した。
カナダは , 格好の人生経験の場 145 ビザ延長 ワーキングホリデー・ビザは , カナダの場合 , 通常 , 1 年の滞在を予 定していても初めは半年しかもらえず , 半年後に一度 , 更新しなければ ならない ( ただし , 私の友達は , どういうことか , 初めから 1 年分のビ ザをもらっており , 彼女の知り合いの中にも , そういう人が何人もいる というからよくわからない。入国のときに「いつまで滞在するのか」と 聞かれ , 1 年後の日付を答えたら , すんなり , その日付でビザを出して くれたんだとか ) 。私は , 4 月 20 日に入国で , 初めのビザの期限は 11 月 3 日だったので , 余裕をみて 9 月 20 日に申請書を郵送。 10 月 11 日 に新しいビザが届いた。 ワーキングホリデーの終了後も , もうしばらくカナダに滞在したい場 多くの人がビジター・ビザの申請をする。ビジター・ビザをもらう には , 銀行の残高証明 ( 正式なサイン入りのもの ) とクレジットカード のナンバーが必要。必要な所持金の額は「希望滞在月数 X1000 ドル」 が目安。 新しいビザを手に入れるには , 申請から 1 か月ぐらいかかるので , 遅 くとも , 手持ちのビザの期限 1 か月前には申請書を郵送する。特に , ロ ング・ウィークエンドや , 年末 , 年始をはさむ場合 , 少し早目に申請し たほうがよい。また , ビジター・ビザの場合 , 残高証明書をとるのに最 低 1 週間 , 下手をすると 2 週間以上も待たされることがあるので , そう いったことも考慮に入れておくべきである。申請書は , ビジターの場合 最寄りのイミグレーション・オフィスでもらえ , ワーキングホリデーの 場合は , カルガリーのオフィスに直接取りに行くか , 電話をして郵送し てもらうかだった。 1 年間のワーキング・ホリデー生活を終えて 英語を学びたい人達へ カナダに来た目的は , ただ , 漠然と「英語の勉強をしたい」というだ けだった。英語は , 学生時代に怠けていたせいで , ポキャプラリーは少 ないし , ほとんど知識はゼロの状態。ワーキングホリデー参加を決めて から出発するまでの数か月間は , NHK の語学テープを三講座分 , 毎月 買って , 通勤中のバスの中でや歩きながら , また , 仕事が休みの日に は , 一日中 , 家でテープをかけつばなしにするなど , とにかく , 狂った リスニング中心の勉強をした。それで , 荒削りではあるが , 初 ように 歩の会話はマスターしたように思う。出発前には , アメリカ人の友達か ら「もう , 語学学校に行く必要はないよ」と言われていた。自分にとっ
「カナダ」は僕の財産 155 舌帳で調べて , レジュメを送ってみた。忘れかけたころにそのうちの一 つから電話がかかってきて , 面接に行くことになった。もうそれだけで もうれしかった。そこは , 英語のコースがメインの語学学校で , 僕が最 初に行っていたようなところである。でも , 今は日本語コースの生徒が いないらしく , 生徒が集まったら来てもらうということになって , 他の スタッフの人に紹介してくれたりしたのだが , 結局それは仕事にならな かった。 3 月に入ったら求人の数もぐっと増えて , いくつかアプライし た中からわりとすんなりと 2 つ決まった。ひとつは , フィッシュアンド チップスの店でフライを揚げる仕事 , もう 1 つは日本レストランのウェ イターである。少し考えて , ウェイターをすることにして , 結局そこで 半年あまりの間働くことになった。日本にいるころは , 日本食レストラ ンでだけは働くまいと思っていたようなところがあったが , ウェイター の仕事は , ほとんど英語だし , チップは結構もらえるし , 何より , 食事 付き ( それも日本食 ) というのは経済的に非常に助かった。バイトが決 まった記念 ( ? ) & 気分転換ということで , 友達 4 人でニューヨークに 短い旅行をしたことは , いい思い出だ。 4 月になると , トロントの厳しかった冬もそろそろ終わりを告げ , 雪 が降ることももうないと思うとうれしくなった。あれほど春の訪れを待 ち望んだことはなかったと思う。街を歩く人の服装も , 冬の暗く重装備 のものとはうって変わって , 軽く明るいものになる。みんなもこの季節 を待っていたのだ。カナダの冬は特に東部では長く厳しいが , その寒い 冬があるからこそ , まぶしいくらいに青く美しい夏と , 燃えるような紅 葉の秋があるのだと , 1 年半過ごしてみて僕は実感した。 そうして結局 , 1 年間をトロントで過ごした。あっという間だった。 そのころ , 僕はもう一度きちんと英語の勉強をしたいと思うようになっ ていた。確かに仕事で英語は使うけど , 同じようなことばかりで , ぜん ぜん新しい表現とか覚えないし , なんか , 頭打ちという感じで , とにか くもう一度学校に行きたくなった。もうトロントには 1 年いたので , 今 度は , 観光ビザに切り替えて , 一度住んでみたかったモントリオールに 行くことにした。 モントリオールのあるケベックリ、 N は , 北米唯一のフランス語圏。モン トリオールは , 北米のパリと呼ばれ , 世界第 2 位のフランス語圏都市と して知られている。街の雰囲気も , フランス的で , トロントなんかと違 っておしやれだ。何より , 食べ物がおいしいのに驚いた。他の英語圏の 一三ロ