お母さん - みる会図書館


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1. …ひとりでいいの

270 そんなまどかの思いに気づいたのか、芳枝が優しく言った。 「でも、片想いってのは役に立つね。まどかを見てるとそう思う。恋の傷つてャツはさ、 女を優しくするんだな、って思うよ」 「優しくなった ? 私」 それには答えず、芳枝はコートのポケットに手をつっ込んで夜空を見上げた。 「考えてみりや、お父さんに死なれてから男と向かい合ってゴハン食べたこと、 もないなア、お母さん。洋品屋の徳さんでも引っかけときやよかった」 まどかはほほえんだ。 「ねえお母さん。『障害のある恋』なんて実際にはないのかもしれないねー 「え ? 」 「その人のことほんとに好きで、二人で見られる夢があって、それで二人でいたいって思 えれば、生活のことや条件なんて簡単に乗り越えられる気がする」 「若干甘いね」 「でもそう思う。ま、二人の思いが一致すればのハナシ あきら 「 : : : 諦めな、津村は」 わざとぶつきらぼうに芳枝は言った。 「こんだけ優しい女にしてくれたんだ。授業料だよ、授業料」 いっぺん

2. …ひとりでいいの

118 が安全なもので、自然を破壊するものではないことがよくわかると思います」 と説得にはいささかつらい状況であったが、津村は何とかこの場をしのごうと、懸命で あった。だが、ひとりの母親が息子と共に立ち上がり発言を求めてから、事態は変わった。 「息子の作文を聞いて下さい」 母親は小学校一年生くらいの息子の背に腕を回し、励ますようにうなずいてみせた。息 子は手にした原稿用紙を開くと一生懸命に読み上げた。 「僕は毎日お母さんの隣りで寝て、お母さんは僕が眠るまで、いろんな話をしてくれます。 お母さんが髪を撫でてくれる手が気持ちよくて、僕は途中で寝てしまいましたが、千曲川 にゴルフ場ができると、もうお父さんと釣りはできなくなるよ、と言われました : : : 」 母親は作文を読み上げる息子を、暖かな目で見守っている。津村は少年と母親をじっと 見つめた。津村は母親に頭を撫でられながら眠ったこともなければ、母親の隣りで寝たこ ともない。三十五歳にもなった今、そんなことでオロオロする津村ではなかったが、それ でも最も触れてほしくない部分を刺激されたような気がした。 地元民の攻勢に対し、津村の答弁はいささか鋭さを欠き始め、久保らは不思議でならな かった。こうして、話し合いは後半、地元民優勢のまま終わった。津村は総務部長の叱責 うわさ を受け、噂はまたたく間に社内を駆けめぐった。 「まどかに好かれた男は、みんな落ち目になるね」

3. …ひとりでいいの

218 「着替えて。カッコよくしてて。カッコ悪いあなたをみんなに見せたくない」 こうしてみんなの前に姿をあらわした津村が、寿子と小さな目配せを交わしてからデス クについたのを、まどかは見逃さなかった。津村の視線を受け止めて、寿子がそっとほほ えんだのも見ていた。まどかの胸に後悔と焦燥感が広がった。 まどかは、芳枝に事件のことを打ち明けた。 「気がついたら、カレーかけてたの。どうしよう : : : 」 芳枝はあっけにとられてまどかを見つめた。注ぎかけていたお茶が、急須の口から流れ っ放しで茶碗からあふれているのにも気づかなかった。 : 、 カ我に返った芳枝は思いがけな く、まどかにニッと大いかけた。 「よくやった」 まどかはわけがわからなかった。 「強烈な印象ってのは、突然愛に変わるんだよ。これは麻薬みたいなもんでさ、いちどそ ういう目にあうと、普通の女じゃ面白くなくなっちまうの。お母さんもさ、お父さんを落 とす時に、手編みのトックリセーター プレゼントしたのよ。わざと頭が出ないように編 んでさ、頭が出ないお父さんの前でわざと泣いて、どうしようとか言っちゃってさ。この

4. …ひとりでいいの

248 長野に行こうとする津村にしがみつき「行かないで」と人目もはばからずに絶叫した時、 まどかは憑き物が落ちたような感じを味わった。 「お母さん、私、生き方変えるから」 まどかは芳枝に宣言した。 「津村さんに近づかないって約束したの」 芳枝は怒鳴った。 「ほんとの恋がどうしたとかいって、結局星野も津村もダメにしたわけ ? 」 まどかはうなずいた。 「お前は顔だけの女なんだよ。なまじ頭いいぶってグチャグチャ考えるから、こういうこ とになるんだ」 「お母さん、娘に向かってよくそういうことが言えるね」 コ一一一口えるわよ。人がせつかく幸せ考えてやってんのに」 まどかはため自まじりに一一一一口った。 「お母さん、私の育て方間違ったね」 そんなことをまどかに言われたのは初めてだった。

5. …ひとりでいいの

102 芳枝はきつばりと言った。 「問題ある女はいつばいいるけど、まどかには、ない」 まどかは苦笑した。 「私、お母さんにだけは本気で愛されてる。あと、お兄ちゃんにも : : : 」 「まったく、お母さんほど子供がハズレの親も珍しいよッ 「ごめん」 うつむいたまどかを、芳枝はじっと見た。 「よし ! まどか、会社やめなさい」 「ゼロから出直そう。津村も星野も会社も振ってやり直そう。そうしよ、そうしよ」 母が自分を元気づけようとしていることはよくわかる。だがそれは、あまりに現実離れ した提案であった。 「私、津村さんがいいの。結婚する」 「まだ言ってる。あんた、好かれてないのよ。義理でしてやろうてなもんよ」 義理でというのとは違う。だが、愛の結果としての結婚でないことは確かだった。結婚 、よ、と津村はクールに言ったのである。 がしたいんだろ、なら、好きとかどうでもいし 「結婚しても寂しいと思う。だから、星野さんに戻ろうかって思ったの。でも : : : 寂しく

6. …ひとりでいいの

思いがけず華やいだ芳枝の声が、まどかを迎えた。 星野が来ていた。 「どうしたの ? 」 星野が人のよさそうな笑顔を見せた。 「君が話になんないから、お母さんと式場のことや指輪のことを話してた」 芳枝までうきうきしている。 「まどかちゃん、星野さん、ほんとに先の先まで考えて下さってるのよ。星野さん、母と してうれしゅうございます」 まるで、いし 、とこの奥様ふうにしなを作り、芳枝は星野にビールを注いだりしている。 テーブルには、芳枝のはしゃぎぶりをあらわすように、特上の寿司桶があった。津村と連 れの女を見失い、波立っているまどかの心を、それは逆なでするような光景だった。 「お母さん、星野さん。この結婚、もう少し考えさせて」 まどかは、強い調子で言い切った。 「まだそんなこと言ってんのか」 星野のあきれ顔を見て、芳枝はうろたえた。 「まだって : : : そんな話が出てたんですか円まどか、何なのよそれ ! えフ らん ! 」 一一一一口ってご

7. …ひとりでいいの

271 「ん。お母さん、私、これからいい条件を選んで人を好きになることって出来ないと思う の。ずっとひとりでいるかもしれないし。だから、いい結婚をさせたいっていうお母さん の夢を壊しちゃうけど : : : 長生きして」 思わずしんみりしそうになって、芳枝はあわてて言った。 「しかしバカだよね。津村もまどかと結婚すりやさ、こんないいママができたってのにね まどかは懸命にほほえんでうつむいた。今は津村という名を聞いただけでも、つい涙ぐ んでしまう。 そんなまどかをチラッと見て、芳枝は夜空を見上げた。 「まどか、誰にも遠慮しないで、好きなように生きな。好きな人のこと、うーんと大事に してサ。 : : : 人生なんて一瞬だよ」 9 まどかは深くうなずいた。 そうよ、アタシはもう、どこかできいたふうの幸せなんて欲しくない。自分の本当 で とに望んでいることが何なのかをちゃんと見つめて、それだけを求めていくわ 隅田川から吹き上げてくる風はまだ冷たかったが、その中にもほんの少し、春の匂いが するような気がした。いつの日か、何年も何十年もたったいつの日か、母と並んで春の夜 道を歩いたことを、きっと思い出しそうな気がしていた。 にお

8. …ひとりでいいの

「ひどいよ、そんなの : : : 」 まどかは今にも泣き出しそうだった。真一にとってもつらいことであったが、どうしょ うもない。 まどかは、真一をつきとばすとロビーの公衆電話に走った。 「お母さん、大変なの。お兄ちゃんが来たの。すぐ課長と会って。お兄ちゃんだってばれ る前に、結婚届け出したいの。私、もう式なんてしなくていいから」 まどかは、泣きながら訴えた。やっとようすがっかめた芳枝はすぐに言った。 「わかった、今夜にでも津村さんに会う」 芳枝の声が、まどかにとって、どれだけ心強く響いたことか。父を不慮の事故で亡くし た後、いつだって母はこんな風に力強かったと、まどかは思った。お兄ちゃんだってあり あまるほどの愛情で育てられたのにどうして : : : と思わざるを得なかった。 の「お母さん、私、津村さんと結婚できるよねえ : : : ねえ ? 涙混じりのまどかの声が、芳枝には不憫でならなかった。できることなら星野と結婚し で て欲しいが、ここまで夢中になっている娘のことは、母としてやはりほうってはおけなか ひ っこ 0 津村は芳枝に会うことを承諾した。銀座の表通りに面したパ ふびん ーラーで、まどかと芳枝は

9. …ひとりでいいの

249 「私はお母さんの言いつけ守って、ずっと顔だけで勝負しようとしたわ。でもみんな、三 日もたてば私に飽きるのよ。顔を磨くことばっか考えて、頭磨いてなかったからよ ! 」 まどかによかれと思ってした忠告をないがしろにされたような気がして、芳枝は叫んだ。 「違う ! それは半端にしか顔を生かせなかったあんたの言い訳よ ! 」 「違わない ! 男にとって顔はきっかけよ。お母さんが考えてるほど、今の男は甘くな 「だから、甘い星野と決めちまえばよかったのよ ! 」 「星野さんは三十四歳とっきあってるわ。津村さんは今までで最大のビンチで、女どころ じゃないのよ」 「まどか、それがチャンスってもんだろ。ね ? そこにつけこむのが、男を落とすワナな のよ。お前のアタマじゃ、生き方変えたってタカが知れてる。今こそ津村に進めツ」 9 芳枝の勇ましいアドバイスを、まどかは冷ややかに受け流した。 「私、生き方変える。腰据えて生きる」 「バカ。腰の据わった女なんか、重たいばっかでかわいくないんだよッ ひ 「いい。男に好かれようなんて思わないで生きるー 芳枝は焦りを覚えていた。これまで、自分の言ったことは素直に受け入れていたまどか に初めて反抗され、芳枝はうろたえた。

10. …ひとりでいいの

225 まどかは、津村を見ようとしなかった。 「うちのお母さん、私とお兄ちゃんのこと無条件で愛してくれてます。二人から何かお返 しもらおうなんて全然思ってないの、お母さんって。私、こうすることで、津村さんのカ チカチな心に、小さくても風穴があけばいいなアって、思った」 津村は憎しみのこもった目でまどかを見た。屈辱を受けた仕返しのつもりが、屈辱の上 塗りになってしまったようで、津村は傷ついていた。 「いい子ぶるなよ 津村の深い虚無は、まどかごときの手に負えるものではない。しかし、それをまどかは 自覚していなかった。こうなってもまだ、津村の心に触れることはできないというのか。 それに改めて気づいたまどかの目から涙があふれ、耳へと伝わり落ちた。 「帰ります」 9 ゆっくりとまどかは起きあがった。その目は涙に濡れていたが、顔はけなげにほほえみ を浮かべて津村を見つめた。津村は、まどかの視線を受け入れようともせず、天井を見上 げたままであった。 ひ あか 家の灯りは、居間の小さな電気がついているだけで、すでに消えていた。芳枝は眠って しまったらしい。時計は零時に近かった。テーブルの上には、ラップをかけた煮物やサラ ぬ