145 「やつばり帰ってきちゃった」 まどかは明るく言った。 「ずっと喫茶店でお茶して考えてたの。やつばり津村さんとこ、ちゃんとこのうちからお 嫁にいく。ごめんねツ」 「津村さんとは、会わなかったの ? 」 芳枝が疑わしげに尋ねた。 「うん ! 頭冷やしたらよくわかった。お母さん悲しませるの、やめようって」 まどかの言葉どおりに受け取った芳枝は、うれしそうに笑った。だが、真一はごまかさ れなかった。 その夜遅く、真一はまどかの呼ぶ声で目を覚ました。まどかがパジャマ姿で、そっと部 屋に入ってきた。 9 「お兄ちゃん、ヤクザって調味料使う ? けげんな面持ちの真一の前に、まどかはコンビニエンスストアで買った品物を次々と並 で べた。マヨネーズ、レタス、べー ハン、コーヒー豆、ペアのマグカツ。フ : ひ 「津村さんにあったかい朝ごはん、食べさせてあげたかったの。コーヒーわかしてべーコ トーストにハチミッ塗って。普通のおうちの朝ごはんってこんなよ、元 ンエッグ作って、 気出るでしよっていうの作ってあげたかったの。 : お母さんには、こんなの見せられな
・・ひとりでいいの 227 「どうしたの。え ? 」 星野の優しさが、受話器を通してまどかの心を溶かしていった。 「何か声聞きたくなっただけ。ごめんね」 声だけじゃない、顔も見たい。もうずいぶん長い間、会っていないような気がする。 「星野さん、明日会えない ? 」 「ごめん、ダメなんだ」 一瞬のためらいがあって、星野は言った。寿子と映画の約束があった。 「イヤ。会って。ひとりでいられない」 「津村さんは、どうしたの ? 」 星野の問いを無視して、まどかは言った。 「お願い。星野さんと会いたいの。ね、ね、無理して。ね ? 「ごめん、約束があるからー 「イヤ。会いたい」 「何か急用 ? 」 「あなたと一緒にいたいの。それだけじやダメ ? 」 まどかは、涙のツポを押した。涙があふれ声がうるんだ。 「会いたいの。一緒にいて」
105 「まどかさん、私と津村さん、ちゃんと別れたから。ごめんね、今までー 津村のマンションでまどかと鉢合わせした後、寿子は津村に別れを告げていた。それは つらいことではあったが、津村と一緒にいればいるほど寂しくなる、寂しい思いをするよ りは、ひとりの方がいし : : と思い、それが引き金になったことも事実であった。 「やだア、気にしてないってば まどかが明るく笑った。 「気にしてないフリするの、見てられなかった」 まどかはムッとなり、きつい口調で言った。 「なんで寿子さんに同情されなきゃなんないんですか ? 津村は私のフィアンセです」 「ごめんね、そういう意味じゃ : 寿子は、オドオドとロごもった。まどかは、意地悪な気持ちになっていた。寿子を見る 9 と、なぜかいじめたくなってしまうことがあった。まどかばかりではなく、誰もがみんな そうだった。まどかは、高飛車に言った。 「やあね、オドオドしないで下さい」 ひ 「ごめんね。あの : : : 津村って、冷たいけど寂しい人なの。小さい頃に辛い目にあって 「全部聞いています」
164 「兄はヤクーー任陜だから、本当に心許せる人にしか話さないの。今、絶対に恋人もいな : だから、兄から情報を探り出せたら、それは兄に愛されてるってことよ。兄の気 しチャンスなんだけど : 持ちを試すのに、、、 「真一さんの気持ち : : : 」 ルミ子は心が動いた。まどかの言わんとしていることは察しがついた。自分に振り当て られた役割のことも気づいていた。 : 、 力やがてルミ子はゆっくりと言った。 「ごめんね。私、スパイみたいなこと、できない」 考えるまでもなく、ルミ子の返答は当然といえた。 「わかった」 「ごめんね」 「いいのよ、別に」 よくなんかない。まどかは、次第に腹が立ってきた。 : ルミちゃん、兄貴のこと、ほんとに好きなの ? 」 恥じらいながらうなずくルミ子を見ると、よけいムシャクシャした。自分の周囲ばかり が幸せそうに見えてくる。 「そう。星野さんと寿子さんも何やら恋愛みたいだし」
・・ひとりでいいの ルミ子が、水割りのグラスを握りしめるようにして言った。 「今日、まどかさんと会ってよかった。私、彼にそんな思い、一度も持ったことないもん。 一生恋がないかもしれないって恐がって、好ぎでもない人とっきあうの、やめる。それつ て、もしかしたら恋がないことより寂しいことかもしれない」 自分の気持ちを言い当てられたようで、まどかはギクリとした。 「キープを押さえていくら待っても、ほんとの恋って絶対やってこない気がしてきたわー 「そうかもしれない : まどかはつぶやいた。 「どうしたの。幸せな人が、何か元気ないのねー 「ごめんね。飲もー 「いいお店、知ってんのね」 ルミ子は初めて気づいたというふうに、店内を見回した。 「うん。一」こ、兄が仕切ってーーー」 言いかけて、まどかはハッと口をつぐんだ。 「お兄さん、いるの ? 「もうとっくに死んだの」 「そう : ・ : ごめんねー
235 「私、星野さん、好き。絶対にひどいことはしない人だって、信じられる」 寿子は立ち上がった。 「ごめんね、呼び出して。さよなら」 「さよなら。僕は、明日から長野に行く。どうせ三日間の出勤停止だ。木山部長に少し調 べて欲しいことがあるって言われてねー 「そう 寿子にとっては、もはやどうでもいい ことだった。 「どうも行かない方がいい気もしてるんだけどね : : : 」 津村の言葉の意味を、寿子は深く考えようとはしなかった。ドアを小さくきしませて、 寿子は去った。 9 星野は遊園地の帰り、一人で「お多福」に来た。もしかして、寿子が来るのではないか と思ったからである。が、閉店の時間になっても、寿子は来なかった。星野は決心して寿 と子のマンションに行った。寿子と会わずには帰れない気分だった。 「今日はごめん 出てきた寿子に星野は言った。 「いいのに、わざわざ謝りに来なくたって」
233 「ごめんなさい。思ってることより、どんどんひどいこと言っちゃう まどかは一人で出口の方へ歩ぎ出した。 「今までありがとう。さよなら」 「さよなら」 星野はまどかを見ようともしなかった。 「ごめんね。でも私、なぜかいつも寿子さんに負けるの : : : 夜の遊園地、きれいだった。 亠めりがと一つ 星野は、やっとの思いで小さく笑った。まどかもかすかにほほえんで、出ていった。 寿子は一刻も早く二人から遠ざかろうと、遊園地の中をグングン歩きつづけ、メルヘン チックな白い電話ポックスの前で立ち止まった。なぜだかわからないが、むしように津村 9 に会いたかった。そして今、二人は「パンドラ」のカウンターに並んでいた。 「ごめんね、会わないって決めたのに」 で 寿子は自嘲するように言った。 ひ 「今ね、星野さんとまどかを尾行してきたの。みつともないってわかってんのに足が勝手 に動くの」 津村は黙って聞いていた。
・・ひとりでいいの に連れと思われる女の姿があった。津村の陰になり、顔は見えなかったが間違いなく女だ まどかは、再び店の奥へ駆け戻り、真一の腕を引っぱって店の中へと急いだ。 「な、何なんだよ」 まどかは、ひとりポツンと座っていたルミ子のところへ、真一を連れていった。 「ごめん、急用ができたの。これ、親戚の従兄。一緒に飲んで。ごめんー あっけにとられている真一とルミ子を残し、まどかは店の外へ飛び出していった。 エレベーターを使わず、階段を駆け降りた。ビルの外へ出てあたりを見回す。歩道に寄 せて止まったタクシーに乗り込む女の脚だけが、見えた。その後から津村が乗り、タクシ ーは発進した。まどかは、あわてて空車を探した。夜の銀座通り、ヘッドライトの連なり の中、空車のタクシーはなかなか来ない : まどかは、カなく家の入り口を開けた。追跡は失敗に終わった。津村たちの乗ったタク シーは、まどかがようやくつかまえたタクシーのはるか先の方で、車の洪水に飲み込まれ、 見えなくなってしまった。 「ただいまア : 「お帰りなさアい」 っこ 0 とこ
その時、カウンターの中にいたバーテンが、まどかの前にプランデーのびんを差し出し 「プレゼントです」 驚くまどかに、バ ーテンが目配せしてうなずいた。 ( お兄ちゃん ! ) まどかは、あわてて立ち上がった。 「ちょっと、ごめんね キョトンとしているルミ子を残して、まどかは店の奥に駆け込んだ。 真一が、トレンチコートを肩にひっかけ、店長と何やら話していた。 まどかの姿を見ると、真一の顔がほころんだ。いかにも妹がかわいくてならないといっ た表情である。 「大丈夫だよ、出ていかないからー 「お兄ちゃん、死んだことになってるからー 真一の苦笑を背に、席に戻ろうとしたまどかは、窓の外に目をやって息を呑んだ。二階 にあるこの店から見下ろした銀座の通りを、津村が歩いていく。津村の隣りには、明らか
268 「絶対にしない」 明快な答えであった。 「七つも年下なんだもの、私だけがハンデ背負うわ。一生相手の顔色見て暮すのなんて、 まっぴら」 「彼はあったかい暮しをくれるヤツだよ。君こそっつばるな」 「つつばる」 人一倍弱い自分を守るためには、つつばるしかないことを寿子は知っている。 「でも、私の気持ちはあなたにはないの。気持ちがない人を泊められない。ごめんね」 「いいよ、帰る」 「まどかさん、きっとまだいるわよ 「まだいたら、ホテルに泊まる」 じゃ、と手を挙げ、津村は寿子に背を向けた。 津村が出ていってしまった玄関に、まどかはしばらく放心状態でしやがみ込んでいた。 こんな仕打ちを受けても、津村のことが嫌いになれなかった。理由なんてわからない。今 日だって、何か報われることを期待して来たんじゃなかった。他の誰にもあなたを渡した くないという思いを、伝えたかっただけだ。