302 「ウソ 「ほんとだ。今日、ちょっと用事があって久々にスーツを着たんだけど、よくこんな窮屈 なもの今まで着てたと思ったよ」 「スーツ ? まどかは聞いた。 「ある商事会社から誘いがあった」 まどかはすぐに気づいた。ヘッドハンティングーーー津村はやはり、こんなところで眠ら せておくには借しい人材なのである。 「断わった。ここの暮しがいいから」 津村は、さりげなく言った。 「ヤケよ。いいなんてひとつも思ってない」 「思ってる。エリ ートの嫌らしさなんか全くない、人間らしい仲間もいつばいできた」 ハッキリ言いなさいよ。工 「そんな言い方するより、 丿トの僕がみんなのレベルまで降 りてあげて喜ばれてるって。そんなの、仲間たちにとっくに見抜かれてるわよ。ャケにな って、今の仕事バカにして自分に酔って、何がエリ ートよ。何の仕事してもいいから、シ ラけないで生きてみろってのよツ」 まどかと津村は、激しくにらみ合った。やがてまどかが、ふっと表情を和らげた。
208 まどかは、肉ジャガとサラダの入った紙袋を抱えて、津村のマンションのドアチャイム を鳴らした。いい女になるためのレッスンは久保や吉田を相手に積んだ。津村にその成果 を認めてもらえるのはいつのことだろう。まどかが婚約を解消すると言ってから、津村は まどかを見向きもしなくなった。芳枝が教えてくれたいい女になるより前に、津村がこの まま遠くに行ってしまいそうで、まどかは恐かった。しかし、どんな男だって、女の手料 理をもらったら悪い気はしないだろう。こんな小さなことから、津村の気持ちがほぐれる は、そんな男に妹を渡したくありませんね」 「妹さんとは結婚しません。はつぎり申し上げますが愛せません」 「妹にとっては幸せなことです」 言葉とは裏腹に、真一に苦痛の表情が浮かんでいた。まどかの津村に対する思いが、真 一には痛いほどよくわかっていた。 果てしない暗闇の底を感じさせる水面を、二人は無言で見つめていた。津村の虚無も真 一の情も、もっと巨大で邪悪な存在から見れば取るに足らないことであり、切って捨てる ためにだけあるトカゲの尻尾のようなものであることを、二人は当然気づいてはいた。し かし、だからと言って動かないのは許せなかったのである。
133 報が確かなものなら、自分にとってポイントになることを津村は当然計算していた。 津村が総務課のオフィスに戻っていくと、みんなの好奇の目が一斉に注がれた。 「知らんぶりしてろ」 久保係長が、小声でみんなをたしなめた。 「久保君」 突然、津村の明快な声が響き、みんなギクリと顔を上げた。 「僕は総会の担当、降りることになったんでね。取りまとめは君がやってくれ」 「えッ ? 私がですか 2 一瞬のとまどいの後、久保の頬が隠せぬ喜びに緩んだ。 「参ったな、そんな大役」 ーの管理だとサ」 「僕は、しばらくトイレット 9 笑い飛ばす津村を誰もまともに見ることができなかった。まどかも辛く目を伏せた。 「北川さん、ちょっと」 で 津村に呼ばれて、まどかは弾かれたように飛んでいった。 ひ 「今夜、あけられる ? 」 まどかは真剣な目でうなずいた。
「いろいろって : : : 課長って、そんなにたくさんいるんですか ? 」 「僕みたいなオジサンの恋物語聞いても、楽しくないでしよう 笑ってはぐらかす津村を、まどかの真剣な目が見つめた。 「聞きたいです」 津村はまどかの方は見ずに前菜の帆立貝のテリーヌを、余裕の微笑で切り分け口に入れ 「そんなにたくさん女の人がいて、本気で人を好きになったことあります ? うそ 「僕は、本気と嘘の区別がっかないタチだからー 「まじめに答えて下さい」 ぬぐ 津村はナプキンでロを拭うと、ワインを一口飲んで聞いた。 「君はあるの ? 本気で人を好きになったことー の「 : : : ないです、今までは」 本当のことだった。 で 「ということは、噂の星野君が初めて本気ってことか」 ひ まどかは首を横に振った。 「星野さんのこと、好きかどうかよくわからないの : : : 」 計算ずくではない正直さで、まどかは答えていた。津村は、そんなまどかをじっと見て
114 津村は、本当に今まで気づかなかったらしい。寿子の方を見ると、あわてて謝った。 困惑したように津村を見た寿子の目が妙に女つぼかったように思えて、まどかは不央に よっこ 0 「それなら、昼休みは休ませていただきます」 まどかは、津村に一礼して席に戻った。むしように腹が立ち、机の上に重なった雑誌の 一冊を、乱暴に引き抜いた。崩れた雑誌の山を見たまどかは、息を呑んだ。間から、フロ ッビーらしきものがのそいている。引っぱり出してみると、「地元反対派対策資料」と書 かれていた。間違いなかった。あんなに探しても見つからなかったのが、こんなところに 紛れ込んでいたのである。まどかは、津村の方を見た。寿子が、ちょうどこちらに向かっ て歩いてくるところだった。 「課長とお昼しますので、サンドイッチ買ってきます」 久保に声をかけて、寿子は出ていった。まどかは、反射的にフロッビーを机の引出しに 突っ込んだ。どうしてそんなことをしてしまったのか、自分でもわからない。津村と二人 で昼食を食べると言った寿子の言葉に、刺激されたのかもしれなかった。まどかのそんな 行為を、寿子と入れ違いに入ってきたルミ子がそっと見ていた。 もう少し困るといいんだわ
255 朱美が、ワンカップを飲みながら言った。 「私たち、ホント言うとまどかさんのこと大っ嫌いだつの。でも好きになった」 「そうよ。自分から『顔だけの女で魅力ないからお稽古始める』なんて言うんだもん、も ういじめられなくなったよ」 朱美らの本心に、まどかは初めて女の友達を得た気がしていた。 「私、女の友だちってずっといなかったの」 「間違うと嫌われるタイプだもんねえ」 ルミ子の言葉はみんなをギクリとさせたが、まどかは気にした様子もなく言った。 「私ね、女の友だちがいたり、結婚以外にのめり込む何かがあれば、津村さんにカレーか けなかった気がする」 「それとこれとは別よ」 9 若菜が、盛んに煮物をパクつきながら言った。 「ううん。だってみんなは、そんなことやらないでしょ ? 女の友だちもいるし、お稽古 で 利ロな女はカレーぶつかけないように、ちゃん とごともあるし、趣味だってあるでしょ ? ひ とそういうものを大切にしてるのよ」 まどかは缶ビールをあおると、唇を手で拭った。 「私みたいに恋と結婚のことしか考えてない女なんて、恋人なんかできっこないわ」
・・ひとりでいいの 唯と結婚するにしても、 しどろもどろになりながら、まどかの気持ちは沈んでいった。一口 あの兄はネックなのだ。本当の恋などという、大それた考えは捨てて、愛してくれる男と するのがいいのかもしれないと、まどかは思った。どんなに美しい自分でも、それを帳消 そう思いながらも、津村の顔が浮かんでは消えた。 しにするような兄がいるのだから : 家に帰ると、母の芳枝が、ウェディングドレス特集の雑誌やカタログを広げていた。 「もうそんなもの : 浮かない気分が、いっそう重くなった。 「そりやそうよ。お母さんね、結婚式でみんながどれくらいあんたの美貌に驚くかと思う と、もうワクワクすんのよ また津村の顔が浮かんだ。「課長はニ = ーヨークでも女泣かしたらしいよーと星野はシ ョックなことを言った。それでも、嫌いになれない。「君のこと絶対泣かせない」と言う 星野よりも、ずっと心を揺り動かされる。 「星野さんのご両親は、たぶんまどかよりもっといい人をもらえたのにつて、必ず思うわ。 だから、お母さん、みんながショック受けて死ぬほどすごいドレスを作ってあげる。結婚 式でショック受ければ、あっちが借りつくった気になんのよー 興奮気味にしゃべる芳枝に、まどかはそっと聞いた。
217 「べッドでもああかね、なんちゃって」 話の中心は久保である。株主総会の担当交替など、立場上、何かと津村に因縁のある久 保がいちばん今度の事件を面白がっていた。午後の始業のチャイムが鳴った。 「みんな、津村さんシミだらけだと思うけど、しらんぶりしてろ。臭くても何も言うな。 気の毒だからな」 ちっとも気の毒そうではない顔で、久保は部下たちに忠告した。誰もが面白くてたまら ないという表情を押し隠すのに苦労しながらうなずいた。 まどかは背筋をまっすぐ伸ばしてワープロを打っていた。みんな息をひそめて遠くから まどかを観察し、誰も声をかける者はいなかった。 寿子もまた、食堂で事件を目のあたりにしたにもかかわらず、そんなことなど忘れてし たた まったかのように淡々と電卓を叩いていた。 の ドアがサッと開き津村が現われた。一斉に振り向いた社員たちは、声にならない声をあ げた。津村は、さっきと全く違う服装をしていたのである。黄色のシミなどどこにもない。 で とジャケットもワイシャツもネクタイも新しい ひ まどかが津村にカレーをあびせたのを見ると、寿子はとっさに食堂を抜け出し、外の・フ ティックに走ったのであった。津村のジャケットとワイシャツのサイズはよく知っている。 ネクタイの柄の好みももちろんである。人目のない廊下の隅で寿子は津村にそれらを渡し
289 「そんなこと言ってる場合じゃないでしよ。私たち何も怒られないのに、津村さんだけ全 部かぶったのよ」 若菜がじれったそうに言った。 「まどかさん、ほんとの恋なんでしょ ? 誰よりも誰よりも好きなんでしょ ? 」 ルミ子が言った。まどかはうなずいた。 「行きなさいってば」 「久保にはうまく言っとく。津村さん、来て欲しいと思う。ね ? 」 「近づかない 自分をけんめいに押さえるように、まどかはつぶやいた。 朱美が泣き出した。他のみんなも涙ぐんでいる。 の 「行きなさい、まどかさん。私なら行くわー ルミ子が静かに言うと、ついにまどかはうなずいた。うなずくと、どっと感情があふれ で とてきた。まどかは、オフィスを飛び出した。 横浜に着いた時、日はすでに暮れかけていた。早春の淡いタ焼けの色がかすかに残る空
273 ・・ひとりでいいの まどかも、その文章が何を言っているのかはよくわからなかったが、強い不安だけは感 じた。 「業界紙で濡れ衣を着せられて、津村さんは会社人間としてどうするか考えたのよ」 寿子が、固い表情のまま言った。 「ああ、そうか。恥ずかしいから、お面かぶって会社に来るってことか」 若菜のとんでもない解釈にも、寿子はニコリともしなかった。 「じゃなくて、会社人間という仮面をもっと強くかぶって立ち回ることもできるけど、僕 はそんなものは捨てて、自分の潔白を証明する道を選ぶって意味だと思うわ」 「なら、そう書きゃいいじゃないねェ」 「まわりくどい男だよね」 口々に言う若菜たちには取り合わず、まどかは寿子に不安そうな目を向けた。 「会社辞めるってこと ? 」 「そこまでは書いてないけど」 その時、人だかりをかき分けて、秘書課の社員が二人、壁の檄文に飛びつくようにして はがし始めた。 「みんな、散って散って ! 」 「始業時間です ! 」 ぬぎぬ