126 いけなくなるんだそ。どうかしてる、津村さん。そんなこと知らないはずないのに」 まどかは、両手をギ = ッと握りしめた。身体が震えている。寿子が、チラッと星野を見 て、辛そうにうつむいた。それに気づいた星野は、思わずまどかを怒鳴りつけていた。 「俺を捨ててあっちに乗りかえたんなら、責任持って二人で愛し合えよー 「 : : : 愛し合ってるわよー 自信なく、まどかは答えた。星野の顔に、怒りの色が走った。 「なら言うけど、昨日津村さん、ズダボロになって寿子さんのマンションに来たんだ 昨夜、寿子と一緒におでん屋でまた飲んだ後、星野は寿子をマンションまで送った。そ こに、津村が待っていたのである。どうしてまどかではなくここへ来たと、津村に殴りか かったことを、星野は言わなかった。 「そこまで追いつめられた男が、どうして寿子さんとこ行くんだよ。本当ならまどかのと ころに行くはずだろ。君は津村さんに幸せにしてもらうことばかり考えて、彼のために何 をしてあげてるの ? そう、それはさっき気づいたばかりなの。でももう、遅い まどかは、カ尽きたよ うに椅子にへたり込んだ。星野は、まどかを責める手を緩めなかった。 「津村さんは、外で総会屋と会うことの判断がっかなくなるほど参ってるんだ。あの津村
「さっきのマンションに戻って下さい」 まどかは運転手に言った。突然行って驚かすのも恋のムードを高めるわと胸を高鳴らせ てもいた。 まどかは迷うことなく、津村の部屋の前に立った。津村への思いと自分のとった行動に、 酔った顔を輝かせ、まどかはドアチャイムを鳴らしつづけた。ドアが開いた。 「やつばり来ちゃ : 言いかけて、まどかは凍りついた。ドアの内側に立っていたのは、寿子であった。男も すく ののガウンをまとい、肩に髪を解き流した寿子が、声もなく立ち竦んでいた。
266 まどかは、額を押しつけて泣いていた柱から顔を上げた。 「今日、帰りません」 ・ししょ まどかの涙に濡れた顔が輝いた。しかし、それを打ちくだくかのように、津村は言った。 「好きなだけいなさい。僕が寿子の所へ行くから」 かぎ 津村は部屋の鍵をまどかに押しつけると行ってしまった。 なんて嫌な男だ、俺はーー津村は、激しい自己嫌悪を感じながら、寿子のマンションに 向かった。 ドアを開けた寿子に、津村は言った。 「泊めてくれないか。まどかが来て : : : 」 寿子は、黙って津村を見つめた。津村はたたみかけるように言った。 第十章
190 まどかと寿子は並んで歩道橋の上に立った。夜中というのに、車の洪水が赤いテールラ ンプを流れのように闇夜に浮かびあがらせている。 「あら、寿子さん泊まらなかったんですかー 「彼とは別れたって言ったでしよ」 寿子は答えた。 「失礼。今は星野さんでしたつけ」 寿子が津村のマンションへ行くつもりになったのは、星野のせいかもしれなかった。い つものおでん屋でデートの帰り、偶然出会った後輩に、星野は寿子を「頼りになる先輩」 と紹介した。確かにガンモドキだのゴボウ巻きだのを、大口開けて食べ合うだけのデー だったが、二人はしよっちゅう会っていた。そして、冗談にまぎらせながらも親密な気持 ちで語り合い、腕まで組んでいたのである。そこには年の差を超えて響き合うものが確か 第七章
263 「津村さんと結婚するって本当かッ 星野は、寿子のマンションに押しかけて問いつめた。津村が寿子にプロポーズしたこと うわさ は、すぐ社内の噂になっていた。 「本当よー 9 「やめろツ」 星野は寿子を抱き締めた。星野の腕の中で寿子は言った。 しらが と「私ね、四十五や五十になったあなたを見たいの。白髪なんかあってね。どんな渋い男に ひ なるか、どうしても見たいの。それにはひとっしか方法がないのよ。友だちでいること。 友だちには、別れがないんだもの。ね ? 言っているうちに涙があふれてきた。星野の腕に力がこもった。 寿子は、津村に背を向けて茶碗を洗い始めた。 「まどかちゃんも、星野さんと結婚した方がずっと幸せ」 津村は、床の一点をじっと見つめ、淡々と言った。 「結婚しよう」 だが二人とも、心の中で思っているのは別の相手であることは、互いによくわかってい
235 「私、星野さん、好き。絶対にひどいことはしない人だって、信じられる」 寿子は立ち上がった。 「ごめんね、呼び出して。さよなら」 「さよなら。僕は、明日から長野に行く。どうせ三日間の出勤停止だ。木山部長に少し調 べて欲しいことがあるって言われてねー 「そう 寿子にとっては、もはやどうでもいい ことだった。 「どうも行かない方がいい気もしてるんだけどね : : : 」 津村の言葉の意味を、寿子は深く考えようとはしなかった。ドアを小さくきしませて、 寿子は去った。 9 星野は遊園地の帰り、一人で「お多福」に来た。もしかして、寿子が来るのではないか と思ったからである。が、閉店の時間になっても、寿子は来なかった。星野は決心して寿 と子のマンションに行った。寿子と会わずには帰れない気分だった。 「今日はごめん 出てきた寿子に星野は言った。 「いいのに、わざわざ謝りに来なくたって」
213 走り去りながら、寿子はいちど振り返り、大きく両手を振った。 「また誘ってねーツ」 そのしぐさが無邪気でかわいらしくて、星野も思わず笑顔になった。 「また、おでん食おーツ 寿子の姿が吸いこまれて行ったマンションの入り口を、星野はしばらく見つめていたが やがて歩き出した。 「これでいンだ。かかわりあうとヤべ工もんな : ゆが つぶやいた星野の顔が辛そうに歪んだ。 ランチタイムの社員食堂、まどかは、トレーにカレーライスと水と栄養ドリンクをのせ て、まっすぐ津村のテーブルに向かった。 の 負けないもん まどかは自分を励ました。 泣かされたりしない、決してあきらめない。私はいい女になるんだから ひ まどかは立ったまま、津村の前にドリンク剤を置いた。 「昨日は食べてもらえなくて残念だったわ」 まどかの笑顔を、津村はうんざりと見上げた。 つら
264 「もうひとっ方法があるーーー女房になること」 寿子の身体が、。ヒクリと震えた。 「俺、寿子さんと結婚なんて考えてなかったけど、他のヤッとされちゃ絶対やだってわか った」 「ありがとう。そう言ってくれるだけで十分よ」 「結婚して下さい、俺と」 寿子が静かに笑った。 「親の気持ち考えなさい。長男のあなたにどんなに可愛いお嫁さんが来るか、どれほど夢 を見てると思う ? 世間の常識ってものがあるわー 寿子は星野の腕を静かにほどいた。 「あなたのこと愛してた、すごく : : : 」 言うと寿子は、強引にドアを閉めた。 「七つ年上が何なのツ、寿子さん ! 寿子さんツ」 たた 星野がドアを叩く音を背で聞きながら、寿子は号泣した。 ひとりのマンションで、津村は虚脱したように酒を飲んでいた。考えてもみなかった方 向に進んでいる自分の人生が、うまく把握できずにいた。どこで道を誤ったのだろう。た
187 しない。 しばらく黙って聞いていた春日が、突然笑い出した。 「もうやめろ、やめろ、腹の探り合いは」 けげんそうに顔を振り向けた二人に、春日は言った。 「津村さん、会社のためじゃなくて課長代理から巻き返しをはかるためでしよう ? むし 妹のためだろ。津村はビジネスになるって、 ろ、あなたを切った会社への復讐だな。北川、 お前らしくないほど俺にしつこく勧めた」 心の中をズバリと見抜かれた二人には、返す言葉もなかった。春日はさらに愉快そうに 笑った。 ここいちばんって時に情に流されない男はつまらん。俺は要するに、ビジ ネスになればそれでいいんだ」 / ンパンと手を叩いた。現われた女将に笑いの残った顔を向けて、春日は酒の 9 春日は、。、 用意を言いつけた。 ひ その夜遅く、まどかは津村のマンションに行こうとしていた。 芳枝は皮肉に笑って言った。 「まどか、苦しんでる男を支える女ってャツに酔ってんだよ、 、、 0
141 「お金渡すことしかできない子にして、悪かったね。津村の作り話よりもっと悪い母親だ 照れたように芳枝は笑った。 「母親のこと大事だって、どうやって示したらいいかわかんなかったんだろ ? 」 真一は黙った。 「泊まっていきな」 芳枝は再び言った。そして玄関にカギをかけた。 津村のマンションの前で、まどかは待った。津村が帰ってくるまで、何時間でも待つつ もりだった。晴れあがった寒い夜だった。足踏みをしながらまどかは待った。腕には、コ ンビニエンスストアの袋がぶら下がっている。明日の朝食の材料を買ってきていた。 9 ようやく、疲れた足取りで津村が帰ってきた。 「津村さん ! 」 とまどかが駆け寄ると、津村は露骨に嫌な顔をした。だが、思い詰めているまどかには、 そんなことは構っていられない。 「今日から一緒に暮します。家を出てきました」 まどかは、津村の胸に顔を埋めた。何の感情もこもらない静かな手で、津村はまどかを