・・ひとりでいいの ルミ子が、水割りのグラスを握りしめるようにして言った。 「今日、まどかさんと会ってよかった。私、彼にそんな思い、一度も持ったことないもん。 一生恋がないかもしれないって恐がって、好ぎでもない人とっきあうの、やめる。それつ て、もしかしたら恋がないことより寂しいことかもしれない」 自分の気持ちを言い当てられたようで、まどかはギクリとした。 「キープを押さえていくら待っても、ほんとの恋って絶対やってこない気がしてきたわー 「そうかもしれない : まどかはつぶやいた。 「どうしたの。幸せな人が、何か元気ないのねー 「ごめんね。飲もー 「いいお店、知ってんのね」 ルミ子は初めて気づいたというふうに、店内を見回した。 「うん。一」こ、兄が仕切ってーーー」 言いかけて、まどかはハッと口をつぐんだ。 「お兄さん、いるの ? 「もうとっくに死んだの」 「そう : ・ : ごめんねー
179 「会社で明日謝るのが普通でしょ もっともであった。ルミ子は返事に窮した。 「あのオ : : : 何のお話なさってるんでしようか さっきから三人を交互に見ていた芳枝が、おそるおそる尋ねた。 「いいんだって。全部済んだ話」 真一が笑ってその場を収めようとした時、「失礼します、と声がした。星野であった。 星野を見るや、真一は立ち上がった。星野とは一面識もなかったが、誰であろうと自分 の存在を知られることはまどかにとってよくない。そんな思いが、とっさに真一を他人行 儀な言葉にしていた。 「どうも皆さん、私はこれで。突然お邪魔して申し訳ありませんでしたが、その件につき ましては、よろしくご検討下さい」 9 胸ポケットのサングラスをさっとかけると、星野に顔を見られないように真一は深々と 頭を下げた。真一の意図を察した芳枝は、急いでロ裏を合わせた。 と「検討しておきます。ご苦労さまでした」 そそくさと出ていった真一を見送って、星野が聞いた。 しいんですか ? 」 「お客さん、 、いいの。地上げ屋さん」
161 まどかはカッとなった。 「ヤクザッ " 】」 まどかは叫んだ。真一は笑いながら言った。 にんきよう 「ルミ子さんは任侠と言った。できればその呼び名の方が格調があってありがたいけどー 「ルミ子」と発音した時の真一に、一瞬はにかんだような表情が浮かんだのをまどかは見 逃さなかった。 「元気か、彼女は」 さりげなさを装っているだけだと、まどかは見抜いた。 「元気よ。かわいい人でしよ、ルミちゃんって」 言いながらまどかは、真一の表情をうかがった 「どうかな」 9 「性格もすごくよくて、家庭的で、会社でももてるのよー まリ J かま、 をしいことばかりを並べたてた。 で 「へえ」 ひ あいづち 気がなさそうに相槌を打ってはいたが、隠しきれないルミ子への思いが、その顔には現 われていた。 お兄ちゃんは、ルミ子のことが好きなんだ。これ、使える
268 「絶対にしない」 明快な答えであった。 「七つも年下なんだもの、私だけがハンデ背負うわ。一生相手の顔色見て暮すのなんて、 まっぴら」 「彼はあったかい暮しをくれるヤツだよ。君こそっつばるな」 「つつばる」 人一倍弱い自分を守るためには、つつばるしかないことを寿子は知っている。 「でも、私の気持ちはあなたにはないの。気持ちがない人を泊められない。ごめんね」 「いいよ、帰る」 「まどかさん、きっとまだいるわよ 「まだいたら、ホテルに泊まる」 じゃ、と手を挙げ、津村は寿子に背を向けた。 津村が出ていってしまった玄関に、まどかはしばらく放心状態でしやがみ込んでいた。 こんな仕打ちを受けても、津村のことが嫌いになれなかった。理由なんてわからない。今 日だって、何か報われることを期待して来たんじゃなかった。他の誰にもあなたを渡した くないという思いを、伝えたかっただけだ。
124 に手に取った。 「ありがとうー いや、ありがとう、よかった」 「課長、じゃあ、ごほうびに私の言うこと聞いて 津村は、まどかの言うことなど耳に入っていなかった。さっと立ち上がると、フロッビ ーを久保のところへ持っていった。 「まどかちゃんが見つけたよ。今度はちゃんと管理して」 ぶぜん まどかは憮然と津村を見ていた。こんなはずではなかった。感激した津村が、君の望み は何でも聞くよ、ぐらい言ってくれるものと思っていたのである。 満たされない思いのまま給湯室で茶わんを洗っていると、星野が顔をのぞかせた。 「あら・・ : : ロカ ? 星野は真面目な表情でまっすぐまどかを見た。 「おせつかいだけど、津村さんのこと、ちゃんとっかまえとかないとダメだよ。今度の失 敗、相当こたえてるよ。今まで失敗したことのない人だから」 まどかはうなずいた。言われてみれば、自分の方を振り向かせることばかりに夢中で、 津村の気持ちを思いやったことはなかった。 「まどかさん」 ルミ子が入ってきた。
星野は、定食のトレーを取り上げると、女子社員たちに背を向けた。 まどかは、ホッとした。何はともあれ、思いどおりの方向に話は進んだのである。 「私 : : : 津村課長と結婚するかもしれない」 絶妙のタイミングで、まどかはつぶやいた。 驚く女子社員に、まどかは声をつまらせて言った。 「私は、どんなに他に女がいても星野さんについていく、って言ったのに : そして、ここそとばかりに、左頬の涙のツポを押した。 「そんな私を課長が見ていられないって : : : プロポーズ : : : してくれて : : : 」 ラハラと泣くまどかは、本当に美しかった。そんなまど まどかのひとり舞台だった。ハ かを女子社員たちは声もなく見つめていた。 の噂はたちまち社内に広がった。星野がまどかを振り、まどかは津村課長にプロポーズさ れたーー津村の耳にも、それは届いた。その夜、まどかが誘ったデートを、津村は久しぶ で りに承諾した。 ひ 「いいの ? 星野君」 高層ホテルの最上階にあるレストランで食事をしながら、津村が聞いた。まどかはうな ずいた。
269 まどかは、涙を拭いて立ち上がった。思いを伝えることができたんだから、もういい。 『今日はごめんなさい。鍵は植え込みの裏に隠してあります』 メモを残して、まどかは津村のマンションから立ち去った。 たたず 家の近くまで来た時、まどかは寒そうに佇んでいる芳枝の姿を見つけた。 「どうしたの ? 」 駆け寄ると、芳枝はホッとした表情になった。 「あんまり帰りが遅いから心配で。残業 ? 」 「ん。ごめんね」 芳枝は信じていなかった。泣いた跡の残る目と元気のない様子を見れば、遅くなったの は残業のせいなんかであるはずがない。だが芳枝は、あえて尋ねようとはしなかった。 「お母さん、ほんとの恋なんて何になるんだろうね」 9 やがて、まどかの方が話を切り出した。 「ほんともウソも、恋なんて何にもなりやしないよー で 芳枝がにべもなく言ったので、まどかは苦笑した。本当に恋なんていうものは何の役に ひ ししことなんかひとつもない。そ も立ちはしないのだ。つらくて、苦しくて、悲しくて、、、 れでも人は恋をしたがる。つらくて苦しいのに、恋をしていると他人に優しくなれる。事 実、まどかは津村との苦しい恋が自分を大きく変えてくれたと実感していた。
「見て。絶対、まどかのタイプよ 「だって、星野さん 言いかけたルミ子に、朱美は頭を横に振って見せた。 「もうダメだね。見てよ、まどかトロトロよ。イヤア、面白くなってきたア」 あいさっ くだくだと紹介の挨拶を始めようとした久保係長を制し、 「ムフ日からよろしくー とだけ皆に言うと、津村はさっさとデスクに座り仕事を始めた。いかにもアメリカ帰り といったそのやり方を、社員たちはあっけにとられながらも、感嘆の思いで眺めていた。 皆より一足先に津村と顔を合わせていたまどかは、朱美の言うとおり、もう完全に津村の とりこになっていた。 一日中、まどかの目は、津村を追いつづけた。津村のことばかりを考えて、一日が過ぎ てしまったような気がする。退社後、星野とデートの約束があり、玄関口ビーで待ち合わ せていたのだが、そんなデートが急に無駄なことのように思えていた。 それでもロビーに立って、星野を待っていると、突然、よく響く低音がまどかに向けら れた。 「どう、よかったら飲む ? ニ = ーヨークに行く前、好きで通ったバーがあるんだけど」
まどかが寿子の同級生を装って、母親から寿子の勤め先を聞き出したのを、寿子は知ら よ、つこ 0 その頃、真一は春日の私邸を訪ねていた。盃を返すつもりだった。その道の男が盃を返 すということは大変な意味を持つ。まして、真一のように若き幹部であれば、外部に漏ら してはならぬ秘密も数多くかかえている。盃を返して縁を切るということは、ある意味で は「ロ封じ」の報復を覚悟しなければならないことでもあった。 しかし、それでも真一は盃を返そうと決めていた。信頼しきっていた春日が、クールな ビジネス感覚とはいえ、常務派と社長派と両方を手玉に取っていたことは真一には許しが たい裏切りであった。 真一の言葉を聞き終えた春日は、小さく一一度、三度うなずいた。 9 「俺から去るか : 春日にしてみてもつらいことだった。十代の前半から手塩にかけて育ててきた真一であ で とる。自分に比べ、義理や人情に溺れ過ぎるきらいはあったが、それとて古い型の仁侠とい う気がして、春日は愛して見守っていたのである。そんな春日の思いは十二分に承知しな 7 がら、真一は言った。 「虎は千里の道を駈けるといいます。私は春日の親父のために、虎であろうと思いました。
181 真一は翌日、北斗商事に行って津村に面会を求めた。総会のことは私が、としやしやり 出てきた久保を無視して、「津村課長に会いたい」と強引に言った。ちょうどそこへ、津 けいこうとう 村がやってきた。手にメモ用紙を持ち、天井の蛍光灯の数を数えながら歩いてきた津村は あいさっ 真一に気づくと、別に驚いた様子もなく挨拶した。 9 「当社も不況の波をかぶりましてね。節電対策で照明を半分にしてはどうかと思い当たり まして、チ = ックしていたところです。仕事なんて、探せばいくらでもあるもんですよ」 「久保さんではなく、津村さんとお話ししたいことがあります」 ひ 「どうそ」 津村は、あっさりと真一の要求を受け入れた。 津村は応接室に真一を導いた。息をひそめるようにして目をそらすまどかの側を、真一 切々とせまってくるものがあった。真一は、上着のポケットに手をつつこみ、外に出て行 こうとした。その時、指先に冷たく触れるものがあった。銀のスプーンであった。真一は、 それをギッと握りしめた。ルミ子の一途な思いも、真一にはよくわかっていた。だが、 真一には応えることができないことであった。 真一は、静かに外へ出た。妹の幸せのために、やらねばならぬことがあった。