151 「でも、何で星野さんと別れたのかなって、少しは思う」 「 : : : まどかさん、星野さんに戻りたいんじゃないの ? 」 「・・ : : 少しは」 本音だった。追いかけるだけの報われない恋に、まどかはちょっぴり疲れていた。 星野と待ち合わせたレストランの前で、まどかは立ち止まった。そしてセリフの練習を よし、これ 「星野さん、今夜は私にごちそうさせてね。チョコレートの、か・わ・ でいこう まどかは元気よくドアを押し開けた。店の中に一歩足を踏み入れた瞬間、目を疑った。 星野のテーブルに寿子がいたのである。二人は、楽しげに笑い合いながらビールを飲んで いた。まどかに気づいた星野が、悪びれることもなく手を挙げてみせた。驚いたのは寿子 9 の方だった。まどかが来ることを星野は言っていなかったらしい 「ごめんなさい、知らなかったの。風邪気味だから帰るわー で とまどかが近づいていくと、寿子はおずおずと席を立った。 「まあ、お大事に」 さっさと帰れ、と思いながら、まどかは言った。ところが星野は残念そうである。 「いいじゃないですか、せつかくオーダーしたのに」
288 職という形のクビになった。津村は不正はなかったものの、社内の秩序と風紀を著しく乱 したということで、小さな関連企業の倉庫会社へ管理課長として出向させられることにな っこ 0 とが しかし、まどかたちには、何の咎めもなかった。社長派にしてみれば、まどかたちの行 動は派閥争いに勝っための。フラスになったことになる。純粋な正義感から出た行為が、結 局は派閥争いに取り込まれ利用されたことにまどかたちは気づいていなかった。 今回の人事異動はごくひっそりと行われたので、まどかは津村が出向する当日まで、そ のことを知らなかった。 「まどかさんー ランチタイムを終えて戻ってきたまどかに、ルミ子が泣きそうな顔で走り寄ってきた。 「津村さん、横浜の倉庫会社に飛ばされたって」 驚いてオフィスにかけこみ、津村の机を見ると、そこはすでにきれいに片づけられ、デ スクプレートも消えていた。 「ウソ 信じられずにいるまどかを、 O}--Äたちが取り囲んだ。朱美があおるように言った。 「津村さんのこと、何で追わないの ? 今から横浜、行きなさいよ ! 」 「近づかないって約束したの」
303 「「カモメ屋』行きましょ 「これだけ怒っといて、一緒に飲むの ? あき 津村は呆れたように言った。 「母親ってのはね、怒っても根に持たないもんなの。私はあなたの母親になるって言った でしよ。行きましよ」 まどかは津村にクルリと背を向けて歩き出した。 みやげ 寿子は、工場から自分で運んできた味噌を、棟続きのお土産コーナーに並べていた。こ こでは味噌を売るばかりでなく、田楽にして食べさせることもしている。東京を思い出さ ないわけはなかったが、寿子はできるだけ思い出さないように、体を酷使して働きづめに 働いた。体が疲れれば、余計なことは考えなくてすむ。それでも東京での日々は、容赦な 9 く寿子の胸にすべりこんできた。 星野と見上げた夜の東京タワー、星野と毎晩のように出かけたおでん屋、星野と抱きあ ったマンション : : : 。東京での日々は、イコール星野との日々であったことに、改めて寿 ひ 子は気づいていた。気づけば気づくほど肉体労働に励むしかなかった。 その時、店の戸が開いた。 「いらっしゃい
106 まどかは、。ヒシャリとさえぎった。寿子はぎごちなくうなずくと、不器用な足どりで出 ていった。その後ろ姿にまどかは小声で毒づいた。 「寂しい人はアンタよ。三十四にもなって捨てられて」 まどかをより美しく見せる黒いセーターにも憂い顔にも、津村はひとかけらの関心も示 さなかった。だが、まどかはあきらめなかった。 十二時になると社員たちは午前中の仕事の整理もそこそこに、昼食のため席を立ってい く。まどかは、いつになくゆっくり机の上を片づけた。出社してすぐ会議室にこもったき りの津村がそろそろ出てくる頃だ。総務課の部屋から他の社員たちの姿が消えた頃、よう やく津村とミーティングを終えた男子社員たちが戻ってきた。まどかはサッと津村の机に 近づいた。 「課長、昨日はすみませんでした」 「ああ」 書類に目を落としたまま、上の空で津村は答えた。 「あの : : : たまには、外でランチしませんか ? 」 「今日明日は昼メシ抜きだよ。資料作り、君たちにも手伝ってもらわなくちゃならないか ら頼むね」 言いながら、津村の手はもう受話器を取り上げている。そしてそれきりまどかの顔を見
155 寿子はふと思った。友達でもなく、姉弟でもなく、恋人でもないが、ほんのひとつまみの 「特別な感情ーに気づかぬふりをしていること。そう気づいたからとてどうなるものでも ないのだ。ひとつまみの「特別な感情」が恋愛になり、結婚に至るというものでもない。 寿子と星野では年齢差のみならず、とても「似合いのカツ。フル」とは言えないことを、寿 子は十分承知していた。そして星野も承知しているだろうと確信していた。 「いっか思い出すわ、きっと。七つ年下の男と、寂しい寂しいって言いながら歩いたこ と」 僕はわかってます。自分が何で寂しいか」 「寿子さん、わかってるんでしよう ? 「 : : : 口に出さずに済むことは、出さない方がいいのよ」 寿子は、ほんの一瞬だけ星野を見た。そして、あやうく保たれたこの場の空気を乱さぬ よう、すぐに目をそらした。 の 家に着くなり、まどかは自分の部屋に駆け込んだ。こらえていた涙がいっぺんにあふれ、 とまどかはべッドに倒れて泣きじゃくった。 「まどか、何があったの ? 」 心配してやってきた芳枝を、まどかは泣きながらにらみつけた。 「どうせひとっ取り柄を作ってくれるなら、どうして頭か性格をよくして生んでくれなか
167 傷ついた小さな獣があたりかまわず牙をむいているようなまどかを、寿子は痛々しいと 思った。しかし、相手が津村ではまどかの手に負いかねることも、愛人であっただけに寿 子はよくわかっていた。「条件第一」で恋をするまどかなのだから、津村が閑職に追いや られた時点であっさりと手を引くだろうと思っていたのは寿子だけではなかった。 その日の午後、トイレのドアを開けた寿子は目を疑った。女子トイレに津村がいたので ある。寿子を見た津村は、一瞬困惑の表情を浮かべたが、すぐ平然とした態度に戻って言 「ここに、化粧品とかを入れておく棚を作った方がいいね」 津村は壁を指さし、ノートにメモした。寿子の気の毒そうな表情に気づくと、津村は自 嘲の笑いを浮かべた。 「総務課長とは名ばかりでね : : : まどかとの婚約も白紙に戻した」 9 「白紙 ? 彼女・ : ・ : 了解したの ? 」 「何と言われようが、白紙だ」 とまどかの不幸の真相に、寿子はその時初めて気づかされていた。 ひ 「津村さん : : : 人を好きになってみたいって、まだ思えないの ? 」 「思うけど : ・ : 別にひとりでも死ぬわけじゃない」 寿子を見て、津村はからかうように言った。
211 濡れた目で、まどかはうなずいた。 開演ベルが、星野の立っているところまで鳴り響いてきた。コンサート会場の入り口近 くは、すでに人気がなくなっていた。寿子はやはり来ないのか。星野はポケットからチケ ットを取り出して見つめた。 後輩の前でつまらない見栄を張ったばかりに、寿子をひどく傷つけてしまった。あの後、 何回かいつもどおりにおでん屋へ誘ったのだが、毎回、寿子は笑って断わった。 「短い間だったけど楽しかった。ありがとうー 去られてみると、喪失感は大きかった。寿子はいつの間にか星野の心を大きく占める存 在になっていたのである。そのことに気づいた時、星野はためらうことなく寿子の家の電 話番号を回した。アメリカのジャズボーカルグループのコンサートに、星野は寿子を誘っ 9 た。寿子は優しい声で、しかしきつばりと断わった。 「僕、待ってます。いや、来れなきや来れないでいいですから」 やはり来なかったか。星野は手にしたチケットを思い切りよく破り捨てた。その時 ひ 向こうから寿子がやってくるのが見えた。いや、初めはそれが寿子だとは気づかなかった。 それほど今夜の寿子は美しかった。いつもただ束ねているだけの髪は解かれ、肩で豊かに 波打っていた。きちんとメイクアップされた顔は、見違えるほど若く輝いてみえた。そし
126 いけなくなるんだそ。どうかしてる、津村さん。そんなこと知らないはずないのに」 まどかは、両手をギ = ッと握りしめた。身体が震えている。寿子が、チラッと星野を見 て、辛そうにうつむいた。それに気づいた星野は、思わずまどかを怒鳴りつけていた。 「俺を捨ててあっちに乗りかえたんなら、責任持って二人で愛し合えよー 「 : : : 愛し合ってるわよー 自信なく、まどかは答えた。星野の顔に、怒りの色が走った。 「なら言うけど、昨日津村さん、ズダボロになって寿子さんのマンションに来たんだ 昨夜、寿子と一緒におでん屋でまた飲んだ後、星野は寿子をマンションまで送った。そ こに、津村が待っていたのである。どうしてまどかではなくここへ来たと、津村に殴りか かったことを、星野は言わなかった。 「そこまで追いつめられた男が、どうして寿子さんとこ行くんだよ。本当ならまどかのと ころに行くはずだろ。君は津村さんに幸せにしてもらうことばかり考えて、彼のために何 をしてあげてるの ? そう、それはさっき気づいたばかりなの。でももう、遅い まどかは、カ尽きたよ うに椅子にへたり込んだ。星野は、まどかを責める手を緩めなかった。 「津村さんは、外で総会屋と会うことの判断がっかなくなるほど参ってるんだ。あの津村
「私の ? 」 まどかの目が驚ぎに大きく見開かれた。 「もちろんよ、元気出して。ね ! 」 若菜が言うと、まどかの顔がたちまちほころんだ。 「うれしい : ありがとう : : : 」 四人が目配せし合ってほくそえんだことに、まどかは気づかなかった。 五人は、お好み焼きの店に行った。まどかがこんな店に女だけで来たのは、初めてのこ とである。四人の悪意を知らないまどかは、鉄板の熱気とビールの酔いで心地よく頬を上 気させていた。 9 「たくさん食べて元気出して」 心にもない慰めを若菜はロにした。 で と「ありがとう。でも太っちゃう ! 」 いつもながらのまどかの気取りにムッとした朱美を、公子がつついた。「まアまア、押 さえてもう少し」と、公子の目が言っている。 「みんないたのオ ? 」
174 「何か、こういうことしたかったの」 堅気でないことを物語る指輪の並んだ真一の手の中で、小さな銀のスプーンは手の届か ない幸せそのもののように光っていた。 まどかは、「パンドラ」で津村を待っていた。約束したわけではなかったけれども、こ こにいれば必ず会えるような気がしたのである。寿子との噂が、まどかの足をここに運ば せていた。 二杯目のマティーニをおかわりした時、案の定、津村はやってきた。まどかに気づくと、 津村は露骨にうんざりした表情になった。それにもめげず、微笑みを送るまどかに、仕方 なく、津村は聞いた。 「待ち合わせ ? 」 「あなたと」 ありきたりの答えにますますうんざりしながら、津村はまどかの隣りに座った。並んだ ところで、話すことは何もなかった。 「何かお話しして」 黙りこくっていることに耐え切れず、まどかが言った。