138 「津村の話は本当だと思う」 芳枝はたしなめ、まどかは思わずほほえんだ。 「だから俺も、結婚には反対だ」 「どうして引」 まどかは叫んだ。 「あいつは、どっかで自分の人生投げてるんだよ。そうでなきや、総会屋の妹となんか結 婚できるもんか。俺が総務課長なら、絶対しない」 芳枝が、そのとおりというふうにうなずいた。 「あいつ、死ぬの恐くないと思うよ。誰からも愛されてないんだもんな」 「私が愛してる ! 」 真一は、優しく笑ってまどかを見た。 「お前じやダメなんだよ : : : 」 「どうしてッ引」 「よくわかるよ、俺。俺もいつだって死ねると思ってるから : : : 」 芳枝がハッと顔を上げた。真一は暗い目をしていた。芳枝がじっと、そんな息子をにら みつけていた。
「たいしたことじゃないんです。新しい課長にちょっと憧れただけなんですよー 星野が、芳枝をなだめるように言った。 「憧れじゃないわ。私、津村課長を好きになったの。プロポーズも受けたわ」 「プロポーズって : : : 何、それ」 芳枝は、すっかり混乱して、まどかと星野を交互に見つめた。 、と、はっきり言った。君のことを愛してプロポーズしたわけじ 「彼は君じゃなくてもいし ゃない。彼と結婚しても必ず泣く。絶対に近寄るな」 星野は、冷静な口調で言った。 「まどか、近寄っちやダメよ」 「会ったこともないくせに まどかは、母を。ヒシャリとはねつけた。 の「私ね、せつかく女に生まれたのに、ほんとの恋も経験しないで結婚したら、一生後悔す ると思ったの」 で 「ほんとの恋なんか、五十過ぎりや、みんな忘れんのよッ 星野の手前を取り繕うことも忘れて、芳枝が叫んだ。 「君をバカにしてんだよ、ヤツは。プロポーズ取り消すって言ったんだよ。みんなに反対 されて、彼自身の態度もあいまいで、君はそういう状況に酔ってるだけじゃないのかフ
かで、自分をごまかすのはやめたわ」 ルミ子は、感動した面持ちでまどかを見た。 「まどかさんも寿子さんもステキ。ひとりになること、恐がってないもん。私なんか : ルミ子は真一のことを思っていた。まどかのように強くなれたら。たとえ突き放されて も思いつづけることができたら : 「ルミちゃん」 まどかがポツンと一言った。 「私と津村さん、うまくいくよね ? はっきり言って。必ずうまくいくって、言って」 ルミ子は懸命にうなずいた。 「うまくいく 絶対に・ : ・ : 」 9 まどかの不安を自分に重ね合わせ、ルミ子は何度もうなずいた。 で 夜の倉庫街は不気味に静まり返り、寒風が吹き抜けていった。運河の向こう岸には、窓 ひあか 灯りだけが暖色の、黒いビルのシルエットが浮かんでいる。津村と真一はそれらの遠い灯 をかすかに映す水面を見つめながら、並んで立っていた。 「もういちど総会屋と接触しろ」と津村は今日、木山総務部長に言われた。「反対派と癒
「こういうことを会社は一番恐がるの。だからやってやる。津村さんのことを闇に葬ろう なんて絶対に許さないわ . そしてまどかは朱美たちに釘をさすように言った。 「絶対手伝わないで。あなたたちもクビになるからー たた 一瞬の沈黙の後、朱美がパチパチと手を叩いた。すぐにルミ子も、若菜、静香、公子も 次々と拍手をした。 「イヨッー 」川真一の妹ッ ! 」 「私、手伝うー 「私もー 「そう言ってもらうだけで十分。でもやめて」 みんなでやるには危なすぎることだった。 、って。ああ、久々に燃えてきた ! 」 「やらせてよ。私だって毎日退屈してんだから。何もできない oæだとかいってバカにし てる男どもにひとあわ吹かしてやるわ」 「そうよ。面白いじゃない」 まどかはあわてて制した。 「やめて。クビになるのよ。クビよ」
137 「違う ! あれは絶対ウソじゃないー 「ウソ ! 」 芳枝は自信たっぷりに言った。 「親ってのはね、子供だけは捨てられないものよ。父親も母親もそう。子供の悪口をちょ っと言われただけでも、包丁持ちたいもんなの」 「妻子を捨てて若い女に走る男なんて、ゴマンといるじゃない ! 」 「隠れて子供とは会ってんのよ。学校帰りに陰からそっと見てたりさ。不倫しても離婚し ないのは、子供がかわいいからよ」 「だから津村さん、かわいそうなんじゃないの。普通は絶対捨てない母親が、捨てたんだ もの。二倍ショックでしよう」 「 : : : 真一のせいだねー 9 芳枝はため息をついた。 「真一と外で会って話して、ヤバイと思ったのよ。こんなャツの妹じゃ、やつばりダメだ で とと思ったのよ。当たり前よ」 まどかの頭に血が昇った。受話器を取り上げ、まどかは芳枝をにらんだ。 「お兄ちゃんに聞いてみる」 呼び出されてやってきた真一は、まどかと芳枝の話を聞き終わると、ポツリと言った。
な言ってるわ。あいつは絶対パージンだって。あんなに暗くて地味な女、絶対に男が寄っ ていかないって。ああ、ヤダヤダ。ああなる前に結婚しなきゃね まどかは寿子に追いっかないように、ゆっくりと歩き始めた。 まどかが思う通り、寿子は「この世の終わり」のような女だった。高卒で入社してすで に十六年。とりたててすごい仕事を任されることもなく、男子社員の補佐で過ごしてきた。 与えられた仕事は完璧にこなすが、余計なことはほとんどしゃべらない。同期入社の たちは大半が結婚退職しており、友達らしい友達もいなかった。寿子がどんな暮しをして いるのかは謎であったが、誰もそんな謎には興味もなかった。単なる「ハイミスのオバサ ン」に過ぎなかったのである。 総務部総務課が、まどかの職場である。ワープロでの書類作り、コビー取り、そしてお 茶汲み。会社の「その他雑用ーすべてをこなしているような、ごく普通の O»-Äである。評 価されキャリアとなるような仕事はない。まどかは、そのことに不満はなかった。自分に は仕事で認められるような能力はないと、ちゃんと承知している。そういう女は、仕事で 頑張る必要はない。それより、取り柄の美貌に磨きをかけて、ちゃんと職場の花をやって、 いい男をつかんだ方が、自分のためにも周囲のためにもなると思っている。 だから、朝のお茶いれだって嫌いじゃない。まどかは、お湯の温度に気をつけながら、 ていねいにお茶をいれる。こういうことを懸命にやっている姿をアビールすることが、男
・・ひとりでいいの 127 さんがだそ。君には男を愛するなんて、できないよー 寿子が叫んだ。 「やめて ! 」 寿子は、昨夜の津村を思い出していた。子供のように頼りなげだった。一緒にいてくれ という彼を、寿子は拒んだのである。寂しくなるだけの恋を終わらせた以上、絶対に情に 流されるのはイヤだった。 星野は責めたてる目で、まどかを見つめていた。まどかの目に涙が盛り上がり、まどか は椅子の背にもたれて泣いた。もうどんなことをしても、津村は自分のところに戻っては 来ない気がしていた。
「持ってます」 「僕は持ってない」 津村は、頬にまどかの強い視線を感じながら聞いた。 「パンドラの箱って知ってる ? 」 「ギリシャ神話にあるんだよ。絶対に開けてはならないという箱を、。 ( ンドラという女が 開けたんだ。箱の中には悲しみだの悪だの恨みだのというものがぎっしりとつまっていて ね。それが。ハアッと世の中に飛び出してしまった。もちろん、。ハンドラはあわてて箱を閉 じたよ」 「箱の中の物は全部出ちゃったんですかー 「イヤ、ひとつだけ残ってた」 の「何が ? 」 「希望」 で 「希望・・ : : 」 ひ 「だから、いまだにこの世の中には、希望というものはないんだ。箱の中に閉じこめられ うそ てるからね。箱から出た恨み、陰ロ、嘘、そんなものばかりってのが世の中」 「パンドラ」とバーの名前が記されたマッチ箱を見つめる津村の目は、暗かった。まどか
268 「絶対にしない」 明快な答えであった。 「七つも年下なんだもの、私だけがハンデ背負うわ。一生相手の顔色見て暮すのなんて、 まっぴら」 「彼はあったかい暮しをくれるヤツだよ。君こそっつばるな」 「つつばる」 人一倍弱い自分を守るためには、つつばるしかないことを寿子は知っている。 「でも、私の気持ちはあなたにはないの。気持ちがない人を泊められない。ごめんね」 「いいよ、帰る」 「まどかさん、きっとまだいるわよ 「まだいたら、ホテルに泊まる」 じゃ、と手を挙げ、津村は寿子に背を向けた。 津村が出ていってしまった玄関に、まどかはしばらく放心状態でしやがみ込んでいた。 こんな仕打ちを受けても、津村のことが嫌いになれなかった。理由なんてわからない。今 日だって、何か報われることを期待して来たんじゃなかった。他の誰にもあなたを渡した くないという思いを、伝えたかっただけだ。
はそれをよくわかっていた。当然だと思った。 「お祝いくらいは、させてくれよ 「いらない」 芳枝は悲しげに、だがきつばりと言った。 「お祝い、いただきます」 まどかは一一一口った。 「だから : : : 結婚式には出ないで」 芳枝も言った。 「ごめんね。わかってよね。まどか、やっと幸せになれるんだからー 真一はうなずいて、ポケットに手をつっ込んだ。 「おめでとう の テーブルに無造作に札束を置くと、真一は明るく言った。 「俺、絶対邪魔しないよ。心配するな。近寄らないよー で 真一が帰った後、芳枝はテー。フルの札束を手に取って、ため息をついた。十万円ずつ万 札でまとめられた束が十束、百万円の大金である。百万という額より、十万ずつ束にして 持っというやり方が、芳枝には悲しかった。 「どこでどう間違って、お札をこうやって持っ男になったんだろうねー